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2022年3月14日 (月)

異見交論「ジョブ型雇用は大学教育を変えるか」@『文部科学 教育通信 』No.527

Cover_20220314215401 『文部科学 教育通信 』No.527に、異見交論「ジョブ型雇用は大学教育を変えるか」というインタビュー記事が載りました。インタビュワは松本美奈さんです。

「ジョブ型雇用」に注目が集まっている。自分の仕事の範囲が明示され、長時間残業とも無関係、他社にも転職可能、年功序列ではなく、適正に能力を評価される…。どんな大学に入ったかではなく、ジョブに適合できる力を身につけたかどうかが問われる、そういう日本になるのだろうか。閉塞的な空気の漂う時代を打開できるのだろうか。「ジョブ型雇用」の名付け親でもある労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎氏に聞いた。

と、インタビューしに来た松本さんの先入観をことごとく叩き潰しております。

教育と職業の密接な無関係
--2021年9月に上梓された『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)を読みました。日本で主流のメンバーシップ型雇用が日本社会にどのような影響を及ぼしているか、を書かれていました。中でも大学教育と企業との関係を「教育と職業の密接な無関係」と表現している一節に、衝撃を受けました。なるほど、こう見えるのか、と。
濱口 教育と職業は密接につながっていると思われていますが、実際はそうではない。つながっているのは、大学の入り口の偏差値と、採用面接でしょう。大学で何を学んだか、どんな成績を取ったかは、二の次、三の次。
-- 機関としてはつながっているけれど、教育と職業はつながっていません。
濱口 そもそも日本の社会は職業がキー概念ではありません。「あなたの仕事は何ですか?」と問われると、「私は○○株式会社に勤めています」とは答えるけれど、「私はシステムの技術者です」「事務員です」とは答えない。
-- まず所属が大事ということですね。
濱口 会社に所属している--これを私はメンバーシップと呼んでいます。日本は、職業、職種というものの存在価値が乏しいのです。労働者はジョブローテーションでいろんな仕事をさせられるので、この職業であるとはいえない状態です。
 だとすると「教育と職業の密接な無関係」という言い方自体、ミスリーディングかもしれないですね。社会人は「職業人」ではなく「会社人」で、大学の教育内容と会社人であることに何のつながりもないというべきでしょう。
 逆に「教育と職業の密接な関係」とは、大学で学んでいる中身と仕事をしている中身、その両者がつながっていること。欧米のジョブ型社会の典型的な教育と職業の関係です。
 
 
リターンマッチができない日本
-- 単刀直入に聞きます。雇用をジョブ型に切り替えたら、閉塞的な日本の状況を打破できるのでしょうか。
濱口 物事にはすべて裏表があり、ジョブ型も同じです。こういう勉強をして、こういうスキルを身に付けた人を採用し、ずっとその仕事をさせるというやり方は合理的に見えるけれど、マイナス面もある。ある職業を見据えた勉強がきちんとできて、その仕事がきちんとできるというコースに乗った人間がいい人生コースを歩み、それに乗れなかった人間は、逆転人生が難しいのが現実です。
-- リベンジができない。それがマイナス面ということですね。
濱口 ジョブ型社会は、ジョブのスキルで人間の価値が決まる。そのスキルは、基本的には教育訓練機関である課程を修了したことで決まります。そういうクオリフィケーション(職業資格)が大事です。ディプロマというのは、最大のクオリフィケーションです。ある大学のある学部を卒業できたから、あなたはこの仕事ができます、と見られます。
 逆にそれを持たないことは「あなたはこの仕事ができない人です」と見られる。そう位置付けられた人間が、非正規で採用されて、その仕事をできるようになったとしても「クオリファイドされた人」として処遇されない。
 ところが日本は違う。日本では大学の卒業証書は、医学部などを除き、職業的なクオリフィケーションと思われていない。だから、企業は採用後にいろんな仕事をさせて、できるようになったら認める。
-- ジョブ型は結構硬直的なものですね。日本企業の現行システムの方が柔軟でいいような気すらします。
濱口 実際、30年くらい前までは日本の方がいいという見方が流行っていました。今はそうじゃない。まず経済状況の変化です。大卒者全員がどこかに正社員として入れる状況であれば、そこでいろんな仕事をするうちに、評価されて上がっていくことも可能だった。ところが、90年代半ばの就職氷河期以降、大学入学時の偏差値と「人間力」で値打ちが決められると、リターンマッチが難しくなってしまったのです。
 ジョブ型では、会社の入り口ではねられたとしても、どこかで一生懸命頑張って「私はこんなスキルを身に付けました、その証拠がこれです」と「クオリフィケーションペーパー」を獲得することでリターンマッチが可能になります。ところが判断基準が「人間力」では、リターンマッチは原理的に不可能です。
-- しかも年齢主義もありますからね。18歳になったら大学に入り、22歳で就職という年齢主義。
濱口 年齢主義というより、エイジコンシャス、年齢差別意識の強い社会です。例えば卒業後何年か経っていたら、「この年になるまで何してたの?」と必ずいわれる。今の日本社会は、18歳の段階でこぼれ落ちてしまうと、リベンジの機会が乏しい。かつて「Japan as No.1」と言われていた時代の仕組みが逆機能し始め、こぼれ落ちたらジョブ型社会よりも厳しい状況になってしまいました。
 景気の変動によってある世代に損得が生じるっていうのは、世界中どこでも起きる現象ですが、日本以外では徐々に解消していきます。不景気でひどい目にあった世代も、景気が回復したら、その時代の新卒と競い「何ができるか」で判断される。
 日本はそうではない。就職氷河期にぶち当たってしまうと、30代になっても40代になっても「氷河期世代」。だからいまだにその世代が就職できると、「40代の男性が初めて正規雇用された」と報道されたりします。四半世紀前の問題を未解決のまま残しているなんて、ジョブ型社会ではあり得ない。
 日本も21世紀になってから2008年のリーマンショックまでの間、徐々に景気回復しました。けれどもその利益を得たのは、もっぱらそのときの新卒だけです。好景気なら正社員で入れた人間が、突如としてハードルが上がったために、入れなかった。いったん人間力がないとされたら、「私はこれができます」と言ったところで認められない。
 
 
「オンリーワン」は不要
-- 「密接な無関係」には、教育の側の問題もあれば、雇用する側、社会全体の問題もある。さてどこから手をつけたものか。
濱口 社会システムは、相互に適応して進化していくものです。仕方ない面もあります。
 会社も教育機関も無数にあります。ただ、自社、自校は1つだけです。つまり「無数対1」です。これはすごく重要です。経済学でプライスメーカーとプライステイカーという言葉があります。無数のプレイヤーがいる中で、あるプレイヤーだけが違う行動をとると、それは間違いなく損します。なぜか。無数の会社が全て「人間力で採用しています」という中で、ある会社だけが「うちはそうじゃない。その大学でどんな専門分野をどれだけきちんと身に付けたかということだけで判断します」と行動したとすると、その会社は間違いなく損します。
-- そうですか? 立派な会社だと思いますが。
濱口 間違いなく損します。大学側は無数の会社の中からその1社だけを目指した教育をするわけがないからです。同じように、ある1大学だけが「人間力などという変なもので就活をさせるのではなく、専門分野を身に付けたということだけを売りにします」と言ったとします。その大学が専属の会社を持っていて、卒業生が全員そこで働くのならいいですが。
 どちらから見ても「1対多」であるときに、ある1大学は、1社ではなく、たくさんの会社に対応した行動を取るのが最も合理的です。大勢に迎合するのが一番合理的です。
-- 教育改革でさかんに言われている「オンリーワンの教育」「オンリーワンを育てる」というのは、その原理から外れているんですね。
濱口 外れています。マーケットはオンリーワンを選ばないんです。マーケットは、すべてのプレイヤーを匿名化し、計量化します。そこにナンバー1、2、3…と並べる形でしか行動のしようがない。ジョブ型も同じです。実はジョブ型もオンリーワンじゃない。日本人が誤解しがちですが、セグメント(区分)化されているだけです。そのセグメント化された中でナンバー1、2、3とあり、同じように市場原理で行動している。
-- ジョブ型であってもなくても、市場はオンリーワンを選ばない…。大事なのは順位なのですね。
濱口 セグメントの中身ごとに、ナンバー1、2、3というふうに会社側も大学側も存在し、それでマッチングし、下のほうはこぼれ落ちてしまう。ただ、ジョブ型マーケットの指標は「この仕事がこれくらいできる」ということで、その帳票がディプロマだという前提で社会が動いているということです。
 
 
入り口はジョブ型、実体はメンバーシップ型
-- ジョブの帳票がディプロマ、という考え方は日本の大学文化には受け入れがたいかもしれません。大学は就職予備校ではない、とよく耳にするので。
濱口 日本の大学人の大半を占める文化的エリートにとっての大学とは、世間で言う職業教育とは違う意味での職業教育機関の側面を持っています。東大や京大のような大学の文学部は、全国のさまざまな大学の先生を輩出しています。例えば、なんで東大哲学科というものが存在し得ているかというと、いろんな大学が哲学の授業をする人を募集しているからです。
-- ジョブ型雇用が成り立っているように見えます。
濱口 自分たちでは意識していないけど、ジョブ型です。医療の世界もジョブ型です。
-- 確かにそうです。医学部で規定のカリキュラムを学んだ人が、国家試験を受けて医師になる。看護師も薬剤師もそうですね。
濱口 そうです。看護師として10年病院で働いた後、「君も看護師としてベテランになったから、今度は医者やってみるか」なんてことはないですね。いやいや、これを言うと笑うけれども、日本の会社ではこういうことをやっているんですよ。
-- たしかにそうですね(笑)。
濱口 ただ、医療の世界は、雇用は完全にジョブ型ではあるけれど、病院の賃金表を見ると、処遇はメンバーシップ型で年功制なのです。
-- 手術の技術が優れているとかではないわけですね。
濱口 関係ない。学校教員の世界も似ています。こちらも教員免許が原則必須なので、ジョブ型であるように見えます。ところが、仕事の内容はメンバーシップ型です。
 昔は、教員は教えるのが仕事で、学校には事務職員もきちんと配置されていた。その仕事がどんどん教員の仕事になってしまいました。その結果、学校の中の仕事は全部教員の仕事です。処遇もほぼ完璧な年功制です。
--入り口と中身の乖離ということですね。
濱口 医師免許とか教員免許というものがないと当該業務ができないと法律で定められているために、法律に基づいたジョブ型があるわけです。
-- 働きにくいし、働きがいのない社会であるようにも感じます。
濱口 いや、働きやすいと思っているから、こういうふうに回っているのではないでしょうか。
 
 
ジョブ型雇用と社会的格差
-- 欧米のジョブ型雇用の話をもう少し聞かせてください。このところ、欧米で格差の広がりを示す「ジニ係数」が大きくなっている、格差が広がっていると報じられています。ジョブ型雇用の方が、年功型よりも人を適正に評価し、格差もそれほど広がらないのではないかと考えておりました。
濱口 それは違います。ジョブ型は人の能力を適正に把握して配分していないでしょうし、仮に適正に把握して配分したとしても、それが格差を小さくする保証はどこにもありません。「職業に貴賎なし」は偽善に満ちた言い方で、どの社会も職業に貴賎はあるわけです。ジョブ型社会は、ジョブによってその人間の貴賤を張り付ける社会です。
-- 究極の階級社会ですね。
濱口 そうです。ジョブ型社会は、ジョブによって格差が作られ、しかもそのジョブの垣根を越えることが難しい。どこかの学校に行って、ディプロマを得なければ、そのジョブの垣根を越えることはできない社会です。それで違うジョブを選び、階級を上がるのですね。
それに対し、30年以上前の日本は、現場で一生懸命頑張っていれば、資格がなくても評価されて、社会の階段を上がっていくことのできる、流動性の高い社会だと言われていたのです。
-- ところがそれもできなくなった。かつて賞賛されたことが、今はマイナスを増幅させる要因になっている。こうした状況を変えるために、日本の大学はどうすべきでしょうか。
濱口 一番困るのは、「どうしたらいいか」という素朴な質問です。同じような質問を、企業もぶつけてきますよ。我が社はどうしたらいいんですか、と。 
-- 思考を相手に丸投げの質問でしたね(笑)。失礼しました。で、そう尋ねてきた企業の方にどう答えるのですか。
濱口 我が社だけができることなんかありません、としか言いようがないです。「1対多」の関係になっている以上、1社があるべき姿を追い求めて撃沈するよりは、みんなに並んでいくほうが安全です。大学も同じです。
-- 困りましたね。今、日本社会全体が沈没しかかっている中で、みんなと違うことをしたら…。
濱口 1対多の関係ではみんなと同じ行動をとって、その中でナンバー1を目指すというのが、唯一可能な、あり得る可能な行動でしょう。どんな社会でも共通です。
 今の日本は1つの均衡点なんですよ。会社側も大学側もお互いにメンバーシップ型に基づいて行動するという意味で、均衡点に達している。どこか1社、1校が違う行動を取ると、マーケットで損をする。すべてのプレイヤーが一斉にジョブ型に変わるのならば、もっと望ましい均衡に移るかもしれません。誰が最初にするのかという話です。
 
 
日立のジョブ型とは?
-- そんな中で、日立製作所や三菱ケミカルがジョブ型に切り替えを始めたと報道されています。ご著書に書かれているジョブ型とはだいぶ違うように見えます。
濱口 私は全く違うと思います。雇用は完全にメンバーシップ型だけど、処遇はジョブ型に近いものにするのかもしれない。
 ただ、処遇をジョブ型にすると、メンバーシップ型の最も重要な特徴である「ジョブに拘らずに人を異動させることができる」に、一定の制約がかかる可能性があります。これは日本の企業にとっては最大のマイナスのはずです。
-- 社員の転勤、出向は「一人前にする」という個人の能力アップと、会社の都合の両面があるわけですからね。どうするのでしょうね。
濱口 あえて推測すると、大学はメンバーシップ型を前提とした教育しかしていないから、全面的なジョブ型採用ができるはずがない。当分はメンバーシップ型で採用し、異動させ、その間は年齢階層別の年功制賃金制をとる。その中で、厳密な意味でのジョブ型とは違うけれども、「君の仕事はこれだ」を意識的に作っていき、それに応じた処遇を決める方式ではないでしょうか。OSはメンバーシップ型で、その上でジョブ型っぽいアプリを走らせるようなイメージです。
--- OSを入れ替えることができないのなら、そうなりますね。1人の設計者がOSからアプリまで開発するのならば、整合性が担保できるでしょうが、現実はそうではない。設計者が途中で交代することはよくあります。そうするとこれまでの経緯もわからないまま、とりあえずアプリ作ってしまえ、となったら不具合を起こすのではないでしょうか。
濱口 起こします。ただ、今の日本でジョブ型と称するものを始めようと考えたら、唯一あり得る道だろうと思います。
 
 
「15の春を泣かせるな」の一方で
-- 日本のメンバーシップ型が根を張っていったのはいつ頃でしょうか。
濱口 戦時体制で基礎が作られ、終戦直後に労働運動で膨らみ、高度成長期にそれがほぼ全域に広まっていきました。同時に、教育システムもそれに応じる形で進化を遂げてきています。この現実は重要です。特に大学との関係で。
 日本だけでなく、世界的にも教育水準が上がっていった時代です。初等教育修了者が多数を占めていた時代が終わり、中等教育へ、やがて高等教育修了者が多数派となる。
 初等教育では、職業教育とアカデミックな教育は分かれようがない。徒弟制の時代です。中等教育修了者が多数派の時代になると、そこである程度の基本的職業教育を行うのが一般的になる。面白いのは、多数派が中等教育から高等教育に移っていくプロセスで、欧米のジョブ型社会ではジョブ型社会に適応する形で、教育水準の引き上げが進んでいきました。
 日本でも高度成長期の文部省は、そういう政策を取ろうとしていたんです。高校で普通科ばかりではなくて、職業教育も増やせという時期がありました。特に富山などでは大論争が起きたという話も伝わっています。「15の春を泣かせるな」を標語に、みんな普通科に行きたのだから普通科を増やせ、と。文部省は財界しか見ていないから、職業高校ばかり作らせてけしからんと言った、革新勢力が主張していた時代がありました。
-- 高校全入時代、昭和30年台後半でしたね。ジョブ型社会ならば、就職を見越して、それに合った内容の教育を受けられた方がいいという発想でしょうが、日本は違った。
濱口 そう、少なくとも国民はそう思っていなかったので、この論争は文部省が負けた。当時は普通科3、職業7の割合で展開していく政策だったが、今は多くても2割程度でしょう。
 1970年代以降は、世界的に中等教育が普遍化し、高等教育の進学率が上がっていきます。これで大学というものの社会の中の位置づけが大きく変わっていった。日本でも、ごく一部のエリートだけの大学ではないことが法律に書き込まれました。
 世界的に見ると、アカデミックなものはそのまま残しつつ、高等教育機関のマジョリティは、言葉の正確な意味での高等専門学校として残しています。ドイツのホッホシューレは「専門大学」と訳されていますが、厳密に直訳すると高等専門学校です。
-- 日本の高等専門学校に当たるわけですね。
濱口 日本の高等専門学校はもともと「専修大学」という名前で、固有名詞の専修大学ではなく、普通名詞としての専修大学という名で、法案が何回も出されました。短大側の反発で、最終的に高等専門学校という名前になりました。発想は同じだと思います。
 半世紀以上前の日本の文部省は、一方で旧帝大のようなものを残しつつ、多くの大学はそういった高等専門学校のようなものになっていくというイメージを持っていたのではないでしょうか。世界中そうですから。
-- 結果的にはそうならなかった。
濱口 そうです。そうして増えた大学を出ても「入ったときの偏差値が47なの?」といった話にしかならない。増えた大卒者は、高卒者の仕事を奪った。それは世界的に見ても変わらない。違うのは、日本の社会の在り方はリターンマッチが極めて難しいこと。最も大きな違いです。それが日本の閉塞感のもとになっているのはたしかでしょうが、社会全体の仕組みがそうなっているから、誰も変えようがないでしょう。
-- 2008年に義務化されたキャリア教育は、こういう状況下で何か意味を持たないでしょうか。
濱口 キャリア教育も、もとはOECDあたりから流れ込んできたものです。ヨーロッパでも、ジョブを意識しない教育機関がたくさんあり、問題視されていました。そこの卒業生たちは企業に評価されないから、非正規で入り、仕事をしながら資格を身に付けていた。教育機関はもっとジョブを意識しろ、そういう文脈で問題視されていました。
 問題意識自体は共通ですが、日本では独自の文脈に適合する形で適応してしまった。メンバーシップ型社会に合うよう、「人間力」に行き着く教育になったということです。先生や親たちがメンバーシップ型にどっぷり漬かっている中でキャリア教育を進めれば、いい会社に入れるように人間力を磨きましょうね、に帰結してしまうのは当然だと思います。
-- 教育が社会を変える起爆剤になっていないのですね。
濱口 そうですね。ついでにいうと、キャリアコンサルタントも、もとは欧米で流行っていたんです。2000年代に日本で始まって、あっちでもこっちでもキャリコンの導入が進んだものの、今、日本のキャリコンの大部分は社内キャリコンです。
-- 社内でキャリアコンサルタントなんて、人事部みたいですね。
濱口 人事部そのものですよ、もはや。あなたにはこういう仕事が向いているから、こういうふうに勉強しなさい、働きなさいって。こうして考えていくと、いろいろな小道具が海外から輸入され、日本の独自の文脈の中で定着していく。
-- 大学の教育改革でも、アメリカで使われた小道具や概念がたくさん入り込んでいます。労働の世界も一緒なんですね。
濱口 ジョブ型社会で作られたものが、メンバーシップ型にピタッとはまる形で定着していく。気が付くとそうなっているのです。
 
 
ジョブディスクリプションがなぜ必要か
-- 最後に、ジョブディスクリプションについてお尋ねします。職務記述書と訳されていますね。何をする仕事かが事細かに書かれていると聞いています。ひょっといたらそれは、大学側の教育改革の指針になるのではないでしょうか。
濱口 いや、そもそもジョブディスクリプションなんて、ジョブ型雇用にとってほとんど意味のないものです。ここ2年間の日本のジョブ型論は、ジョブディスクリプションを作ることが一番大事と言っているようですが、私に言わせればナンセンス。
 ジョブディスクリプションは、ほかの人の仕事との線引きを明確にすることが目的です。歴史的に見れば、欧米ではもともと企業を超えたジョブという大きな共通観念があったので、各社でジョブディスクリプションを作る必要はないのです。
-- そうですね。組合もあるし。
濱口 組合ということで言えば、ヨーロッパの組合は産業別です。産業別で団体交渉して、産業別で協約を結びます。そこにはこの仕事はいくらと書かれています。それで十分です。
 ジョブディスクリプションが問題になるのは、もっとミクロな場、このジョブとこのジョブはどこで線引きするの、という時です。
-- なるほど。複数のジョブが密接しているので、誰がどう担当しているのか明確にしましょうというケースを想定しているのですね。
濱口 そうです。どちらも私の仕事だということもあるし、どちらも私の仕事じゃないということもある。そういうことを避けるためであって、そういうことが起こらないなら、ジョブディスクリプションは不要です。
 ジョブディスクリプションが最も事細かに作られたのは、アメリカの自動車産業です。新たな技術が導入されるたびに、書き換えなくてはいけない。それにかかるコストが大変だったそうです。一方、ホワイトカラーになると、そんなに事細かなことは書かないのが一般的のようです。
-- なぜジョブディスクリプションが日本で問題視されることになったのでしょうか。
濱口 基本的にメンバーシップ型ですから、ジョブディスクリプションを書かなければ会社の中のすべての仕事が「お前の仕事」になり得るんです。もともとメンバーシップはそういう契約なのですよ。
 例えば、たまたまある部署に配属されたとします。その部署にあるどの仕事を担当するかというのは、結局は上司次第のところがあります。「濱口くん、あそこのチームが手を焼いているみたいだから、これやってよ」なんてことがいくらでもある。
 日本社会は量子力学的にできています。原子論的ではなくて、量子力学的にできている。どんな仕事も潜在的には「お前の仕事」であり得て、上司が「あれやって」と言ったら、その瞬間に「あれ」が自分の仕事になるという世界です。日本人から見るとそれが当たり前の姿でしょうね。
-- メンバーシップ型の文化が生み出したジョブディスクリプション必須論ということですね。
濱口 日本でジョブディスクリプションを書いたら、減点法でしか書けないでしょうね。もとはその部署の仕事全部が「お前の仕事」なんですよ。○○課の仕事という線引きは一応あるから、その仕事を全部書き出し、ここからここまではAさん、これはBさんというイメージでしょう。
 基本的にジョブ型社会の出発点は、全部区切られています。その区切られた箱の中に人をはめる。そのポストの人がやっていた仕事が、ジョブディスクリプションなのです。
-- そういうことでしたか。そうなると、メンバーシップ型社会をジョブ型に変えるのは、本当に難しいということもよくわかりました。
 最後に一つ。日本社会はリターンマッチが極めて厳しいと繰り返されていました。誰がどうやって設計したら、リターンマッチができるようになるのか、これは宿題ですか。
濱口 そう、宿題です。

 

 

 

 

 

 

 

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