ソーシャルアジアフォーラムの由来(再掲と再掲の理由)
https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio372.pdf
特集は「地域を守る「つながり」の力」ですが、今号ではその後ろに載っている
第24回ソーシャル・アジア・フォーラム東京会議(11月17日)がオンラインで開催されました
に注目したいです。このフォーラムは長らく日本、韓国、台湾、中国という4カ国の民間ベースの労働交流の場として展開されてきたもので、わたくしも2010年の台北会議に報告者として参加したことがあります。
そのときも直前に中国が欠席となりましたが、今回もやはり残念ながら中国が欠席したようです。
今号では、連合総研の新谷さんが「九段南だより」で、その経緯を語っているのですが、その中に、
そもそもなぜこのような会議体が持たれたかについては、2010年の第16回台北会議に日本から報告者として参加されたJILPTの濱口桂一郎さんがブログで、「ソーシャルアジアフォーラムの由来」というタイトルで紹介されていて、私も今回初めて知ることができました。・・・
という一句が出てきて、いやいや私のブログは単に創始者の初岡さんの文章を引用しただけなんですが・・・。
というわけで、こういうのは定期的に載せないといつの間にか忘れられてしまうものなので、改めて11年以上前のエントリを再掲しておきます。東アジア情勢が風雲急を告げる中でも、労働に関わる民間人レベルでのこうした努力が積み重ねられてきているという事実は、きちんと知られるべきだと思うからです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-a3c6.html(ソーシャルアジアフォーラムの由来)
今週の木・金と、台北でソーシャルアジアフォーラムに出席することは本ブログで申し上げましたが、このフォーラムの由来について、初岡昌一郎さんご自身が書かれた文章をネット上に見つけました。ちょうど5年前に同じく台北で第11回のフォーラムが開かれたときに「メールマガジン オルタ」の22号に、「回想のライブラリー(4)」として書かれたものです。
http://www.alter-magazine.jp/backno/backno_22.htm#kaisou
まず、このときのフォーラムをめぐる経緯。
>>10月13日朝、関西空港を発って台北に向かった。同行者は社青同時代からの友人で全逓元副委員長の亀田弘昭さん。台北空港では、広島空港から着た井上定彦島根県立大教授(前連合総研副所長)や、東京から飛来した桑原靖夫前獨協大学長らと合流し、高雄大学講師で同時通訳者の王珠恵さんの出迎えを受け、その案内で明日からのフォーラムの会場である公務員研修センターに投宿。その夜から早速台湾の仲間の歓待を受けた。
王さんは兵庫県立大環境人間学部で吉田勝次教授の指導のもとで博士号を目指して今春より勉強中で、これからも年数回のペースで姫路に来ることになっている。第11回ソーシャル・アジア・フォーラムの会場は、台湾大学(旧台湾帝国大学)を中心とする文教地区に位置している公務員研修センターにおいて開催された。そのテーマは「東アジアにおける労働市場と労働組合の役割」であった。台湾、韓国および日本からの約40人の研究者と組合関係者がこの会議に参加し、8本の報告をめぐって意見を交換した。
今回のフォーラムには残念ながら中国からの参加がなかった。7名の参加者が北京から予定されていたが、とうとう政府からの出国許可が下りなかった。
4年前の前回は若干の困難はあったが5名の参加者が台湾に来ていただけに今回の措置には失望した。参加予定者は中国労働関係学院の若手教員・研究者で、今回もこれまで同様実証的かつ現状をかなり批判的に検討する好論文を報告として提出していただけに惜しまれた。近年のフォーラムを通じて、中国を含め東アジアの労働関係者、特に研究者の間において共通の問題意識と連帯感が育ってきている。会議では、中国からの報告のひとつはその筆者の希望によって台湾の友人によって紹介された。もう一つは日本からの参加者である山中正和(元日教組副委員長)によって代読された。9月に訪中した時に、参加予定者の一人と会って話す機会があったが、その時すでに全員そろっての参加には悲観的な見方が示されていたが、報告者になっている若手だけでも行かせたいとのことで、一縷の望みを最後までつないでいた。
このフォーラムは個人参加の建前で、参加者は国や団体を代表して参加するのでないことを出発点から明確にし、これまではなんとか、日中韓台の4地域からの参加を確保することができた。しかし、今回は中国と台湾との厳しい関係のためにこれが崩れた。2年前の上海フォーラムでも、中国は台湾文化大学陳継盛教授だけには入許可を出さなかった。それは陳先生がこのフォーラムの創始者のひとりで、台湾側のリーダーであるということよりも、陳水扁政権に「資政」という最高顧問格で参加していることが理由であるとみられていた。
今回もこの政治の壁が立ちはだかったものとみて間違いなかろう。中国は国民党系には柔軟に、独立をめざす民進党系には厳しく対処しているが、それをこのような民間の小会合にも適用するのはいささか狭量に映った。このときは中国が政治的理由で出席しなかったのですね。今は国民党政権になっているので、こういうことはないのでしょうが。
この次に、15年前にこのフォーラムが始まったいきさつが綴られています。
>このソーシャル・アジア・フォーラムは12年前に横浜で行われた小さな会合にそのルーツを持っている。この会議は新横浜駅からほど近いところにある生活クラブ生協会館で行われた。これには、当時このクラブ生協を基礎に立ち上げられたローカル・パーティー「神奈川ネットワーク運動」を推進していた横田克巳さんの肝いりがあった。この横田さんも旧社青同の仲間である。彼の著書『オルタナティブ市民宣言』(現代の理論社、1989年)は生活クラブ生協の歴史と理念を紹介するにとどまらず、新しい市民政治の方向を示したものとして、今も光芒を失っていない。
長洲知事在職当時、その「地方からの国際化」と「民際化」という構想を受けて行われた、「アジア太平洋のローカル・ネットワーク」プロジェクトからソーシャル・アジア・フォーラムが生まれた。
神奈川県に後援されたそのプロジェクトは、武者小路公秀前国連大学副学長をキャップに、国際問題研究協会の吉田勝次さんを事務局長にして3年間のスパンで実行された。私はその労働部会を担当し、その会合には日本の他に、韓国と台湾から参加があった。
1995年に第3回の会合を行ったが、このまま閉じてしまうのは惜しいということになり、このプロジェクトの最後の労働部会会議を第1回ソーシャル・アジア・フォーラムとすることを宣言し、第2回をソウルで次の年に開催することに意見の一致をみた。そして韓国西江大学朴栄基教授、台湾文化大学陳継盛教授、それに私が世話人としてあたることになった。この第1回フォーラム終了後に、東京御茶ノ水の総評会館で、お披露目の講演会を開催し、朴先生、陳先生と並んでILOアジア支局のカルメロ・ノリエルの3人が記念講演を行った。これは滝田実(元同盟会長、故人)主宰のアジア社会問題研究所と日本ILO協会の後援を受け、約100人の参加者があり、盛会であった。その3講演はその後アジア社研機関誌の『アジアと日本』に掲載された。
その後すぐに、われわれが国内で自主的に行ってきた研究会をソーシャル・アジア研究会としてより組織的なものにし、月例研究会を発足させた。会員としては前島巌東海大教授、藤井紀代子ILO東京局長(後に横浜市助役)、鈴木宏昌早大教授、山田陽一連合国際政策局長、中嶋滋自治労国際局長(現ILO理事)、小島正剛国際金属労連(IMF)東アジア代表などプロジェクト当初からのオリジナル・メンバーの他に、ILO本部事務局にいた井上啓一流通経済大教授や中沢孝夫兵庫県立大教授など多くのメンバーが参加するようになった。このあとに書かれている韓国と台湾の方々の話がなかなか感動的です。
>ソーシャル・アジア・フォーラムがその後当初に予期しなかった発展を遂げたのにはいくつかの要因があげられる。その中でもここで指摘しておきたいのは、非常に良いパートナーに恵まれたことである。
まず、韓国の代表世話人は朴栄基西江大教授であった。・・・朴先生は1960年代の中頃に韓国労働総同盟国際部長であった。・・・1987年の韓国における民主化宣言とその後の労働運動高揚期において、朴先生の仕事は多忙を極めるようになっていた。海外の新聞や雑誌において韓国労働問題に関する朴先生のコメントがしばしば引用されるのを目にしたものである。金大中政権が登場すると、政労使三者委員会の設置に尽力したほか、大統領直属の経済委員会にメンバーとしても入った。朴先生はその豊富な経験と高い見識に加えて、誠実でオープンな人柄から立場の異なる人々からも尊敬される存在であった。われわれのフォーラムに韓国の異なる運動系譜や学問的立場から参加があったのは先生の広い人脈のおかげであった。>他方、台湾の代表世話人、陳継盛先生と知り合ったのは、ソーシャル・アジア・フォーラムを立ち上げる少し前の90年代前半のことであった。・・・陳先生が台湾で高い尊敬をかちとるようになり、有名となった契機は、1979年から80年にかけて発生した高雄事件(別名、美麗島事件)であった。この事件は台湾内外に衝撃を与え、その後の民主化闘争の出発点となった。この事件は民主化と台湾独立を主張する雑誌『美麗島』が発禁となり、その中心的メンバーが国家反逆罪に問われたことに端を発している。陳先生の法律事務所がこの弁護を引き受け、陳先生はその主任弁護士格であった。その陳事務所チームの最年少の弁護士こそ、後に大統領となった陳水扁であった。この事件の被告たちと弁護士団が中心となって後に民主進歩党を結成した。先生は民進党の結成に基礎的役割を果たしたものの、その表面には立っていない。しかし、民進党を支える陰のアドバイザーとして別格のドンとみられている。この党は台湾の民主化と経済発展、それに伴う社会的成熟の上昇気流に乗り、結成後僅か20年にして政権についた。
台湾の民主化に中軸的な役割を果たした方が関わってこられているのですね。
このあとはさらに台湾の歴史に話が及びます。
>初めての台北でのフォーラムの時には、当時開館したばかりの「2・28事件」記念館を特別に案内してもらった。これは蒋介石の国民党軍隊が台湾進駐後間もなく行った台湾人にたいする非道な大虐殺の犠牲を追悼し、その遺品や歴史的史実を展示してこの事件を記念するものである。この事件は永い間タブーとして台湾ではふれられずにいたが、候孝賢監督が亡命中に製作した「非情城市」という映画によって日本と世界にドラマティックに紹介された。この作品はかってカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。
今回のフォーラム終了後に日帰りのバス旅行が陳先生によってアレンジされていたが、その圧巻は宜蘭市の慈林教育基金会訪問であった。陳先生は何も事前に説明せず、われわれはお茶博物館に行くと知らされていた。この博物館にも途中少時立ち寄ったのだが、すぐに昼食休憩の予定されていた太平洋岸の町宜蘭に向かった。そこに着くと慈林会館に案内された。まず一階の集会所で短い映画の上映があり、それによって高雄事件の中での最大の悲劇、林義雄家族虐殺事件について、その詳細を知った。当時県会議員であった林義雄は高雄事件の首謀者の一人として拘留されたが、厳しい取調べと過酷な拷問にもかかわらず黙秘を通していた。それに対する圧力と報復として、彼の母と双子の娘(当時、3歳)が深夜に進入した暴漢によって虐殺されたのであった。
この事件は1980年2月28日におきたので、第二の2・28事件と呼んでもよかろう。慈林会館はその記念のため有志の手による国民的カンパで建設されたものである。この事件についての記録映画を淡々と解説してくれたのが、林義雄その人であった。日本と韓国の参加者はこの事件をあまり知っておらず、ショックのあまり声もなかった。
お弁当による簡単な昼食の後、質問に応えた林義雄は心境を静かに語った。印象的だったのは、恨みをはらすよりも、民族の大儀のために「慈林」を建設して民主化の歴史を忘れないようにするこの記念館を作り、若い人々の教育活動の拠点としているとの言葉だった。その言葉を引き継いで陳先生が立ち、「林さんの心境を今日はじめて聞いた。実はそれを聞くのが恐ろしくて今まで避けてきた」と話し始めた。この事件につづく国民的な抗議と事件にたいする幅広い同情にあわてた警察が、突然林義雄の釈放を決定した。しかし、担当弁護士としてそれを迎える陳先生は、この事件をまったく知らない林義雄にどう説明するかについて悩みぬいた。それは林の反応を非常に懸念し、心配したからである。事務所の前で、警察によって送られて来た林義雄をそのまま車に押し込み、別の場所にまず移し、情報から隔離した。それからまずお母さんがなくなったことだけを簡単に告げ、しばらくしてから徐々に全容を知らせたとのことであった。
それと同時に陳先生は彼の国外脱出を手配し、アメリカのハーバード大とイギリスのケンブリッジ大に合計2年余り留学させるという緊急避難的措置によって、林さんを台湾の現実から切り離したのであった。重傷を負いながら奇跡的に生き残った長女は、ピアニストとして活躍中で、現在は母親(林義雄夫人)と共にアメリカ在住だという。
陳先生がさらにバスの中で、「大統領選直前まで民進党党首は林義雄であったし、彼の方がはるかに大統領としての資質が優れていた。しかし選挙戦を有利にするために若い陳水扁を候補とすることになった。林義雄は兄のように陳の当選のために働いた」と私に語ったのが忘れられない。この事件とその背景については、先述の吉田勝次兵庫県立大教授の最新著『自由の苦い味 ? 台湾民主主義と市民のイニシアティブ』(日本評論社、2005年3月)を読んでいただきたい。吉田さんは近年台湾に何度も足を運び、現地での広汎な聴き取りや資料の発掘を通じて精力的に台湾政治を研究してきた。彼のこれまでの著作は理論的な作業に重点がおかれ、研究者としては優れていてもその著書は必ずしも読みやすいものではなかった。しかし、この本は系統的に台湾における民主政治の進展をフォローして具体的な事実関係を整理し、手際よく紹介した好著である。この一冊で台湾の現代史と現在の政治的構造を鳥瞰的に把握することができる。巻末に収録されている李登輝と朴遠哲(ノーベル賞受賞者で、民進党政権の立役者の一人)と吉田さんが行ったインタビューが圧巻である。優秀な編集者として私が一目も二目も置いている日本評論社の黒田敏正の助言と編集がこの新著にはよく生かされているとみえる。
東アジア諸国の現代史は重いものがあります。
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