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2022年1月17日 (月)

ジョブ型学歴社会、メンバーシップ型学歴社会(複数まとめて再掲)

またぞろ学歴がどうたらこうたらという千年一日の如き噺が話題になっているという風の噂に、本ブログの過去エントリをいくつかサルベージ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-3752.html(大学中退の社会的意味)

20140828121034_2

なんだか、大学中退すると言っている学生さんが話題のようですが、こういうのを見ていると、嗚呼、日本はほんとに学歴社会じゃないんだなあ、と感じます。

欧米ジョブ型社会では、基本的に学歴とは職業資格であり、その人間の職務遂行能力であると社会的に通用する数少ない指標です。なので、学歴で人を差別することがもっとも正当な差の付け方になります。

他の差の付け方がことごとく差別だと批判されるポリティカリーコレクトな世界にあって、ほとんど唯一何の疑いもなく堂々と人の扱いに差をつけられる根拠が、職業資格であり、職務遂行能力のまごうことなき指標たる学歴だからです。

みんなが多かれ少なかれ学歴そのものを直接の能力指標とは思っておらず、人間の能力ってものは学歴なんかじゃないんだよ、という言葉が半ば本音の言葉として語られ、そうはいってもメンバーとして受け入れるための足切りの道具としては使わざるを得ないねえ、と若干のやましさを感じながら呟くような、この日本社会とは全く逆です。

欧米での観点からすればあれもこれもやたらに差別的でありながらそれらに大変鈍感な日本人が、なぜか異常に差別だ差別だと数十年間批難し続けてきた学歴差別という奴が、欧米に行ってみたらこの世でもっとも正当な差の付け方であるという落差ほど、彼我の感覚の差を語るものはないでしょう。

そういう、人間力信仰社会たる日本社会のどろっとした感覚にどっぷりつかったまま、妙に新しがってかっこをつけようとすると、こういう実は日本社会の本音のある部分を局部的に取り出した歪んだ理想主義みたいな代物になり、それがそうはいってもその人間力というものをじっくりとつきあってわかるようになるために学歴という指標を使わないわけにはいかないんだよキミ、という日本社会の本音だけすっぽりと取り落としてしまうことになるわけです。

(追記)

ちなみに、よく知られていることですが、「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりもずっとずっと高学歴として高く評価されている職場があります。

日本国外務省です。

日本国政府の中枢に、大学4年までちゃんと勉強してディプロマをもらった人よりも、外交官試験にさっさと合格したので大学3年で中退しためにディプロマを持たない人の方が、より優秀でより偉い人と見なされる組織が厳然として存在している(いた)ということにも、日本社会における『学歴』の意味が現れているのでしょう。

そして、それを見て、なるほど学歴なんか何の意味もないんだ、卒業するより中退した方が偉いんだと思って、自分の『能力』を証明する何もないままうかつに中退なんかすると、もちろん地獄が待ているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-f1bb.html(メンバーシップ型学歴観)

中川淳一郎という方が、SEALDSの奥田愛基氏が一橋大学の大学院に入学(入院)したことに激怒している旨ツイートしています。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743462691973402625


さっき常見 @yoheitsunemi と一橋大学の先生と飲んでたけど、SEALDsの奥田愛基が一橋の院に入ったんだって? いやぁ……。すげー不快。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743463569358872576


文系国立大学の大学院さぁ、文科省の方針で院生増やしたいかもしれねぇけど、学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況をお前ら良しとしてるの? あぁ、ばかじゃねぇの? 一橋、うんこ食ってろ、てめぇら。バカ大学め、中にいる連中も含めててめぇらうんこ食ってやがれ

まだ続きますが、「一橋の院試がラクに入れるとの印象」とか「奥田氏も別に明学の院に行けばよかったんじゃないですか?」というあたりが、いかにも日本的なメンバーシップ型学歴観がよく現れているな、と感じました。

正直言って、社会的発言をする社会学の大学院生と言えば、最近も炎上を繰り返している某東大の院生タレント氏を見ればわかるように、それで大学の格がどうこうするようなものでもないのではないかと思いますが、そこはやはり、出身大学に対する愛着の度合いがここまで高いのでしょうね。

とはいえ、そもそも教育と雇用を貫く一次元的な「能力」、すなわち組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話と、その研究内容をどう評価するかはともかく、ある問題意識を持って研究していくことができるタマかどうか、という次元の話とは、そもそもまったく違う話がやや感情レベルでごっちゃになっているのではないかという感が否めません。

研究者の卵がちゃんと立派な研究者に育つか、卵のまま潰れるのか、お笑いタレントの道を歩むのか、そのいずれであれ、当該大学院の指導教授と本人の問題であって、たまたま組織名を同じくする大学に昔入学できるほど賢かった人がいきり立つほどのことでもなかろうと思います。というか、そこで人をいきり立たせてしまうものが、まさにメンバーシップ型学歴観というものなのだろうな、と思うわけです。

(追記)

やや誤解があるようなので念のため。ここでいうメンバーシップ型学歴観とは、あくまでも「組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話」であって、卑俗な言い方をすれば、「俺は18歳の時、こんなに偏差値が高かったのに、こんな偏差値の低い奴があとから院生として入ってきて○○大生みたいな面するな」という意識であり、だからこそ大学院に研究したくて入ってきた仲間同士のメンバーシップ感覚などとはまったく対極にある「学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況」という言葉が出てくるわけでしょう。

この学歴感覚については。もう30年以上昔の本ですが、岩田龍子氏の『学歴主義の発展構造』という本が大変示唆的です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95%E6%A7%8B%E9%80%A0-1981%E5%B9%B4-%E6%97%A5%E8%A9%95%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B2%A9%E7%94%B0-%E7%AB%9C%E5%AD%90/dp/B000J7UPVI?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-412f.html(大学の労働社会におけるレリバンスの違い)

なんだか、ネット上では大学に行くべきか行かざるべきかとかいうような話が盛り下がっているそうですが、本来教育と労働社会の鍵に関わるような話がかくも空疎なくだらないレベルに盛り下がるのは、やはり日本社会のありようが濃厚に反映しているように思われます。

まずある時期までの先進社会の一般的な構造をごく単純化していえば、労働社会は専門職や管理職として指揮するもの(ディレクター)、その下で能力を認められて働くもの(スキルドワーカー)、その下で能力必要なく下働きをするもの(ノンスキルドワーカー)の三層からなり、それぞれに教育制度のどのレベルを卒業したかによって、高等教育卒、中等教育卒、初等教育卒のものが割り振られるという仕組みでした。日本も戦前はこうでした。

日本以外の諸国は現在に至るまでこの三層構造自体は本質的に変わっていません。ただし、教育制度が全体として高等教育が拡大する方向に大きくシフトしました。その結果、かつてはディレクター階層の要員であった大学卒は普通にスキルドワーカー要員となり、ディレクター階層はその上の大学院卒によって占められるようになっていきました。一方、かつてはスキルドワーカー要員であった高卒は、その階層になだれ込んできた大卒に押し出されるようにしてノンスキルドワーカー要員になっていきます。あまりにもおおざっぱな描写ですが、すごくざっくりいうとこういうことです。

日本以外の社会は教育制度によって身に着けた(と社会的に認められた)スキルによって労働社会のポジションが付与されるジョブベースのシステムですから、公式的に言えば、現代労働社会におけるスキルドワーカー層に求められるスキルレベルは、かつての高卒レベルよりもはるかに高まって大卒レベルになったということになるはずです。これが欧米社会の揺るがすことのできない絶対的なタテマエです。

ところが、もちろんそういう面もないこともないでしょうが、本当にそのジョブに求められるスキルレベルということでいえば、そんなに上がっているわけではなく、実は教育内容だけでいえば高卒レベルで十分なんだけど、社会全体の学歴インフレのために、今の高卒者の(学んだ教育内容のレベルが、ではなく)社会全体におけるどのレベルの人材が来ているかという意味でのレベルが、つまりその人間の脳みその出来という意味でのレベルが、かつての中卒者レベルに下がってしまっているために、本当にそのジョブを遂行するスキルという意味では何ら必要ではない大卒者というディプロマによる能力証明が必要になってしまっている、というのが、上のタテマエの下から透けて見えるホンネの姿なのだろうと思われます。

ここから、そういう本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしまい、もっと現実に即したスキルドワーカー養成のための仕組みにシフトしていくべきではないかという議論が提起されてくるわけです。繰り返しますが、これはあくまでも教育制度で身に着けたスキルによって労働社会の地位が配分されるというジョブ型社会のタテマエを大前提にするからこそ、その建前と現実との乖離を突きつけて打ち出される議論であるということを忘れないでください。

ところが、戦後の日本社会は、この(戦前の日本社会は欧米と共有していたところの)ジョブ型社会の大前提が崩れ去ってしまっています。そもそも、会社内の構造が、その果たすべき役割によって三層に分けられるのではなく、ディレクター階層とスキルドワーカー階層が(正確にはそのうちの男性ですが)フルメンバーシップを付与されたメンバー層となり、ノンスキルドレベルからスキルドレベルヘ、さらにディレクターレベルへと「社内出世」するのがデフォルトモデルとなり、その外側にノンメンバー層が存在するというありようになってしまいました。

そこでは、管理職というのも管理という機能を果たす一職務ではなく、メンバー層のシニアに付与される処遇の一環となり、もともと想定されていたはずの高等教育を受けた者とのダイレクトなつながりは失われてしまいます。専門職すら(すべてとは言いませんが)専門的なジョブというよりも一処遇形態になるようなこの社会では、専門職の主要な供給源が大学レベルから大学院レベルに移行するというようなことも、なかなか起こりにくいわけでしょう。一方で、欧米であれば大学院卒が就くのがデフォルトであるような専門職が、それが専門的スキルを必要とするがゆえにメンバーシップを持たないノンメンバー層にあてがわれ、高学歴者ほど低処遇になるという、欧米であればこれ以上ないようなパラドックスが、特段不思議そうな意識もなくごく普通に受容されるという事態も現出するわけです。

そういう社会では、企業が大卒者を採用するのは、彼が企業内で遂行するべき管理的専門的職業のスキルを大学でみにつけてきたからではなく、人間の脳みその出来という意味で社会全体の中でこのレベルの人材だからという以上のものではないわけです。だからあの「シューカツ」なる社会現象があるわけで、その詳細は拙著『若者と労働』等にゆだねますが、まあ要するに、欧米社会のようなジョブ型社会のタテマエゆえの悩みは初めから感じなくて済むようになっています。教育制度で学んだことは初めからあまり関係ないのですから、「本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしま」えという議論が本気で提起されることもない。

それゆえ、高卒から大卒への教育レベルの一大シフトも、企業内階層構造との対応関係の大激変という事態を引き起こすわけでもなく、いわば欧米社会がいまだ掲げているジョブ型社会のタテマエの下でホンネとしてひそかに行っている人間力採用が、はじめから堂々たる正義として存在している以上、大学教育はその付与するスキルに対応するジョブがあるのかという本質的な意味での過剰論などはそもそも存在の余地はなく、人間力がどれだけ磨かれるか否かなどという次元でしか』論じられないのも当然かもしれません。

そういう社会では、大学に行くべきか行かざるべきかという議論も、労働社会の構造の本質如何という話とは無関係の、まともに相手にするだけの値打ちが全然感じられないような、なんだかふわふわとした能天気な話にならざるを得ないのも、またむべなるものがあるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

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コメント

生前日本で初のノーベル経済学賞受賞者になるかもしれない、と言われた森嶋通夫先生が、著書の中で「日本の大学は一部の総合大学以外は2年の過程の専科大学にすべきである」と言う事を言っていたのを思い出しました。

それからマイケル・サンデル教授はアメリカの学歴社会を批判し、職業訓練によるIT技術者が増えることに希望を見出してましたね。

森嶋教授もサンデル教授も学歴社会を相当憂えていたようです。

もっともサンデル教授は日本の経営者が欧米の経営者ほど高給取りでないことを日本人の謙虚さのあらわれであるとして評価してます。
しかしそれは日本の一般人のエリートに対する激しい嫉妬を経営者たちが恐れているのが理由ではないのですか?とツッコミ入れたくなります。

> 学びたい人が目一杯学ぶ場所、それが大学/大学院という場所だ
https://twitter.com/lotzun_DeuPol/status/1481526673585885184
> カルチャーセンターも素晴らしい生涯学習の場だ
https://twitter.com/lotzun_DeuPol/status/1481595671656673282
> 授業料免除と奨学金と学振頼みでほぼ無一文で入学したけど、大学院に行くなという批判を受けたことはないですね(無理解からの批判はあったけど)。当然、当時は返済のアテなんてあるわけなかった
https://twitter.com/lotzun_DeuPol/status/1481527880836612102

医者(などの医療関係業務に従事する者)になるつもりはありませんが、カルチャーとして医学を学びたいです

って言われたら、

医学部じゃなくて、カルチャーセンターの方が良くない?

ってなると思うんだけどね。まあ、

職業教育なんて卑賎なことはいたしません

ということなんでしょうね。

> 哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。
> 良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/01/post-db12ed.html

まあ、大学院がカルチャーセンターみたいなものだ、というのはいいとして、だったら

   授業料免除やら、奨学金やら、学振やらの正当化はどうなるの?

というだけの話のようには思われますわね

>欧米ジョブ型社会では、基本的に学歴とは職業資格であり、その人間の職務遂行能力であると社会的に通用する数少ない指標です。

仰る通りだと思います。しかし学歴(ディプロマ)の種類によって、それが指標となる職務遂行能力は異なると思います。例えば法学部のディプロマを持つ人と理学部数学科のディプロマを持つ人では想定される職務遂行能力はかなり異なると思います。
しかし理学部数学科を卒業して財務省の(キャリア)官僚になった人もいます。つまり日本国政府は
  国家公務員の幹部になる人の職務遂行能力は自分達で行う採用試験によって判断するので
  ディプロマの種類は問わない(持っていればよい)
と考えているのでしょうか?理論的には、想定される職務遂行能力がさらに異なるディプロマ(芸大の声楽科や日本画科のディプロマ等)を持つ人でも試験に合格すればキャリア官僚になれるのでしょうか?


>ちなみに、よく知られていることですが、「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりもずっとずっと高学歴として高く評価されている職場があります。
>日本国外務省です。

日本国法務省や裁判所(司法府)はどうでしょうか?


>日本国政府の中枢に、大学4年までちゃんと勉強してディプロマをもらった人よりも、外交官試験にさっさと合格したので大学3年で中退しためにディプロマを持たない人の方が、より優秀でより偉い人と見なされる組織が厳然として存在している(いた)ということにも、日本社会における『学歴』の意味が現れているのでしょう。

以前の司法試験制度では少数ですが大学在学中に司法試験に合格する人がいました。司法試験の合格者には中退を認めていなかったと思うので
  「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりも
  ずっとずっと高学歴として高く評価されている
ということはなかったと思いますが、大学在学中に司法試験に合格した人は大学在学中に外交官試験に合格した人と同様に優秀で偉い人とみなされていたと思います。
そもそも以前の司法試験制度では最終学歴が中卒でも受験できたので、日本国法務省や司法府は職務遂行能力の指標として学歴を採用していなかったと思います。
中卒でやくざの愛人になって入れ墨をしたが、一念発起してやくざと別れて司法試験に合格し弁護士になった女性がいたそうです。この方が女性でなく男性で司法試験に合格して弁護士でなく裁判官になっていたら現代の 遠山の金さん になっていたのでしょうか?

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