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2022年1月

2022年1月17日 (月)

ジョブ型学歴社会、メンバーシップ型学歴社会(複数まとめて再掲)

またぞろ学歴がどうたらこうたらという千年一日の如き噺が話題になっているという風の噂に、本ブログの過去エントリをいくつかサルベージ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-3752.html(大学中退の社会的意味)

20140828121034_2

なんだか、大学中退すると言っている学生さんが話題のようですが、こういうのを見ていると、嗚呼、日本はほんとに学歴社会じゃないんだなあ、と感じます。

欧米ジョブ型社会では、基本的に学歴とは職業資格であり、その人間の職務遂行能力であると社会的に通用する数少ない指標です。なので、学歴で人を差別することがもっとも正当な差の付け方になります。

他の差の付け方がことごとく差別だと批判されるポリティカリーコレクトな世界にあって、ほとんど唯一何の疑いもなく堂々と人の扱いに差をつけられる根拠が、職業資格であり、職務遂行能力のまごうことなき指標たる学歴だからです。

みんなが多かれ少なかれ学歴そのものを直接の能力指標とは思っておらず、人間の能力ってものは学歴なんかじゃないんだよ、という言葉が半ば本音の言葉として語られ、そうはいってもメンバーとして受け入れるための足切りの道具としては使わざるを得ないねえ、と若干のやましさを感じながら呟くような、この日本社会とは全く逆です。

欧米での観点からすればあれもこれもやたらに差別的でありながらそれらに大変鈍感な日本人が、なぜか異常に差別だ差別だと数十年間批難し続けてきた学歴差別という奴が、欧米に行ってみたらこの世でもっとも正当な差の付け方であるという落差ほど、彼我の感覚の差を語るものはないでしょう。

そういう、人間力信仰社会たる日本社会のどろっとした感覚にどっぷりつかったまま、妙に新しがってかっこをつけようとすると、こういう実は日本社会の本音のある部分を局部的に取り出した歪んだ理想主義みたいな代物になり、それがそうはいってもその人間力というものをじっくりとつきあってわかるようになるために学歴という指標を使わないわけにはいかないんだよキミ、という日本社会の本音だけすっぽりと取り落としてしまうことになるわけです。

(追記)

ちなみに、よく知られていることですが、「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりもずっとずっと高学歴として高く評価されている職場があります。

日本国外務省です。

日本国政府の中枢に、大学4年までちゃんと勉強してディプロマをもらった人よりも、外交官試験にさっさと合格したので大学3年で中退しためにディプロマを持たない人の方が、より優秀でより偉い人と見なされる組織が厳然として存在している(いた)ということにも、日本社会における『学歴』の意味が現れているのでしょう。

そして、それを見て、なるほど学歴なんか何の意味もないんだ、卒業するより中退した方が偉いんだと思って、自分の『能力』を証明する何もないままうかつに中退なんかすると、もちろん地獄が待ているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-f1bb.html(メンバーシップ型学歴観)

中川淳一郎という方が、SEALDSの奥田愛基氏が一橋大学の大学院に入学(入院)したことに激怒している旨ツイートしています。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743462691973402625


さっき常見 @yoheitsunemi と一橋大学の先生と飲んでたけど、SEALDsの奥田愛基が一橋の院に入ったんだって? いやぁ……。すげー不快。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743463569358872576


文系国立大学の大学院さぁ、文科省の方針で院生増やしたいかもしれねぇけど、学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況をお前ら良しとしてるの? あぁ、ばかじゃねぇの? 一橋、うんこ食ってろ、てめぇら。バカ大学め、中にいる連中も含めててめぇらうんこ食ってやがれ

まだ続きますが、「一橋の院試がラクに入れるとの印象」とか「奥田氏も別に明学の院に行けばよかったんじゃないですか?」というあたりが、いかにも日本的なメンバーシップ型学歴観がよく現れているな、と感じました。

正直言って、社会的発言をする社会学の大学院生と言えば、最近も炎上を繰り返している某東大の院生タレント氏を見ればわかるように、それで大学の格がどうこうするようなものでもないのではないかと思いますが、そこはやはり、出身大学に対する愛着の度合いがここまで高いのでしょうね。

とはいえ、そもそも教育と雇用を貫く一次元的な「能力」、すなわち組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話と、その研究内容をどう評価するかはともかく、ある問題意識を持って研究していくことができるタマかどうか、という次元の話とは、そもそもまったく違う話がやや感情レベルでごっちゃになっているのではないかという感が否めません。

研究者の卵がちゃんと立派な研究者に育つか、卵のまま潰れるのか、お笑いタレントの道を歩むのか、そのいずれであれ、当該大学院の指導教授と本人の問題であって、たまたま組織名を同じくする大学に昔入学できるほど賢かった人がいきり立つほどのことでもなかろうと思います。というか、そこで人をいきり立たせてしまうものが、まさにメンバーシップ型学歴観というものなのだろうな、と思うわけです。

(追記)

やや誤解があるようなので念のため。ここでいうメンバーシップ型学歴観とは、あくまでも「組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話」であって、卑俗な言い方をすれば、「俺は18歳の時、こんなに偏差値が高かったのに、こんな偏差値の低い奴があとから院生として入ってきて○○大生みたいな面するな」という意識であり、だからこそ大学院に研究したくて入ってきた仲間同士のメンバーシップ感覚などとはまったく対極にある「学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況」という言葉が出てくるわけでしょう。

この学歴感覚については。もう30年以上昔の本ですが、岩田龍子氏の『学歴主義の発展構造』という本が大変示唆的です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95%E6%A7%8B%E9%80%A0-1981%E5%B9%B4-%E6%97%A5%E8%A9%95%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B2%A9%E7%94%B0-%E7%AB%9C%E5%AD%90/dp/B000J7UPVI?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-412f.html(大学の労働社会におけるレリバンスの違い)

なんだか、ネット上では大学に行くべきか行かざるべきかとかいうような話が盛り下がっているそうですが、本来教育と労働社会の鍵に関わるような話がかくも空疎なくだらないレベルに盛り下がるのは、やはり日本社会のありようが濃厚に反映しているように思われます。

まずある時期までの先進社会の一般的な構造をごく単純化していえば、労働社会は専門職や管理職として指揮するもの(ディレクター)、その下で能力を認められて働くもの(スキルドワーカー)、その下で能力必要なく下働きをするもの(ノンスキルドワーカー)の三層からなり、それぞれに教育制度のどのレベルを卒業したかによって、高等教育卒、中等教育卒、初等教育卒のものが割り振られるという仕組みでした。日本も戦前はこうでした。

日本以外の諸国は現在に至るまでこの三層構造自体は本質的に変わっていません。ただし、教育制度が全体として高等教育が拡大する方向に大きくシフトしました。その結果、かつてはディレクター階層の要員であった大学卒は普通にスキルドワーカー要員となり、ディレクター階層はその上の大学院卒によって占められるようになっていきました。一方、かつてはスキルドワーカー要員であった高卒は、その階層になだれ込んできた大卒に押し出されるようにしてノンスキルドワーカー要員になっていきます。あまりにもおおざっぱな描写ですが、すごくざっくりいうとこういうことです。

日本以外の社会は教育制度によって身に着けた(と社会的に認められた)スキルによって労働社会のポジションが付与されるジョブベースのシステムですから、公式的に言えば、現代労働社会におけるスキルドワーカー層に求められるスキルレベルは、かつての高卒レベルよりもはるかに高まって大卒レベルになったということになるはずです。これが欧米社会の揺るがすことのできない絶対的なタテマエです。

ところが、もちろんそういう面もないこともないでしょうが、本当にそのジョブに求められるスキルレベルということでいえば、そんなに上がっているわけではなく、実は教育内容だけでいえば高卒レベルで十分なんだけど、社会全体の学歴インフレのために、今の高卒者の(学んだ教育内容のレベルが、ではなく)社会全体におけるどのレベルの人材が来ているかという意味でのレベルが、つまりその人間の脳みその出来という意味でのレベルが、かつての中卒者レベルに下がってしまっているために、本当にそのジョブを遂行するスキルという意味では何ら必要ではない大卒者というディプロマによる能力証明が必要になってしまっている、というのが、上のタテマエの下から透けて見えるホンネの姿なのだろうと思われます。

ここから、そういう本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしまい、もっと現実に即したスキルドワーカー養成のための仕組みにシフトしていくべきではないかという議論が提起されてくるわけです。繰り返しますが、これはあくまでも教育制度で身に着けたスキルによって労働社会の地位が配分されるというジョブ型社会のタテマエを大前提にするからこそ、その建前と現実との乖離を突きつけて打ち出される議論であるということを忘れないでください。

ところが、戦後の日本社会は、この(戦前の日本社会は欧米と共有していたところの)ジョブ型社会の大前提が崩れ去ってしまっています。そもそも、会社内の構造が、その果たすべき役割によって三層に分けられるのではなく、ディレクター階層とスキルドワーカー階層が(正確にはそのうちの男性ですが)フルメンバーシップを付与されたメンバー層となり、ノンスキルドレベルからスキルドレベルヘ、さらにディレクターレベルへと「社内出世」するのがデフォルトモデルとなり、その外側にノンメンバー層が存在するというありようになってしまいました。

そこでは、管理職というのも管理という機能を果たす一職務ではなく、メンバー層のシニアに付与される処遇の一環となり、もともと想定されていたはずの高等教育を受けた者とのダイレクトなつながりは失われてしまいます。専門職すら(すべてとは言いませんが)専門的なジョブというよりも一処遇形態になるようなこの社会では、専門職の主要な供給源が大学レベルから大学院レベルに移行するというようなことも、なかなか起こりにくいわけでしょう。一方で、欧米であれば大学院卒が就くのがデフォルトであるような専門職が、それが専門的スキルを必要とするがゆえにメンバーシップを持たないノンメンバー層にあてがわれ、高学歴者ほど低処遇になるという、欧米であればこれ以上ないようなパラドックスが、特段不思議そうな意識もなくごく普通に受容されるという事態も現出するわけです。

そういう社会では、企業が大卒者を採用するのは、彼が企業内で遂行するべき管理的専門的職業のスキルを大学でみにつけてきたからではなく、人間の脳みその出来という意味で社会全体の中でこのレベルの人材だからという以上のものではないわけです。だからあの「シューカツ」なる社会現象があるわけで、その詳細は拙著『若者と労働』等にゆだねますが、まあ要するに、欧米社会のようなジョブ型社会のタテマエゆえの悩みは初めから感じなくて済むようになっています。教育制度で学んだことは初めからあまり関係ないのですから、「本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしま」えという議論が本気で提起されることもない。

それゆえ、高卒から大卒への教育レベルの一大シフトも、企業内階層構造との対応関係の大激変という事態を引き起こすわけでもなく、いわば欧米社会がいまだ掲げているジョブ型社会のタテマエの下でホンネとしてひそかに行っている人間力採用が、はじめから堂々たる正義として存在している以上、大学教育はその付与するスキルに対応するジョブがあるのかという本質的な意味での過剰論などはそもそも存在の余地はなく、人間力がどれだけ磨かれるか否かなどという次元でしか』論じられないのも当然かもしれません。

そういう社会では、大学に行くべきか行かざるべきかという議論も、労働社会の構造の本質如何という話とは無関係の、まともに相手にするだけの値打ちが全然感じられないような、なんだかふわふわとした能天気な話にならざるを得ないのも、またむべなるものがあるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

2022年1月16日 (日)

人権は他人のもの?自分のもの?(改題の上再掲)

なんだか、人権は他人のためのものか、自分のためのものかが話題になっているという風の噂に、これまでそのテーマについて書かれたエントリを昨年まとめておいたので、改題の上再掲しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-3f8204.html(憲法記念日に人権を考える・・・hamachan版)

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本日、憲法記念日ということもあり、本ブログで過去、人権について書いたエントリをいくつかお蔵出しします。

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http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-baa7.html(りべさよ人権論の根っこ)

ユニオンぼちぼち リバティ分会(大阪人権博物館学芸課・教育普及課分会)のブログに、興味深い記述がありました。

http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-308.html権利と聞いて何をイメージしますか?

・・・次に、今まで受けてきた人権教育、人権啓発の内容について質問します。
 被差別部落、在日コリアン、アイヌ民族、障害者、パワーハラスメント・セクシュアルハラスメント、ジェンダー、人種差別など、その特徴は個別の差別問題があげられることです。

権利に対して抱いているイメージが抽象的か具体的かについては、そのおよそ7割が抽象的だったと答えてくれます。身近かどうかについても、6~7割程度が「身近ではない」に手を挙げます。
 受けてきた人権教育・人権啓発を数多く書いてくれる人も中にはいるのですが、「働く権利」と書く人はほとんどいません。子どもでは皆無です。

この質問を考えたときに想像していた通りの結果にはなっているのですが、これが現状です。日本社会で権利がどのように受けとめられているかがよく分かりますし、状況はかなり深刻ではないかと感じています。
 人権のイメージが抽象的で自分に身近なものとは感じていないのですから、これではなかなか自分が人権をもっていると実感することはできません。まさに人権は、特別な場で特別な時間に学ぶものになってしまっています。
 最後に、「人権は誰のものですか?」と聞くと、多くの人は「全ての人のもの」と答えます。なのに、人権について繰り返し聞いたこれらの質問を考えるとき、自分に関わる質問だと感じながら考える人は多くないようです。「みんなのもの」なのに、そこに自分はいないのでしょうか。

まさにここに、世界でごく普通に認識されている人権とはかなり異なる日本における「人権」のありようが透けて見えます。

なぜこのような現状になっているのか。その問題を考えるとき、従来おこなわれてきた人権教育や啓発の問題を考えざるを得ません。
 質問に対する答えにも書いたように、人権教育や啓発でおこなわれている大半は、個別の差別問題に対する学習になっています。リバティに来館する団体が学芸員の解説で希望するテーマも、やはり多くは部落問題や在日コリアン、障害者の問題などになっています。
 もちろんこれらの問題も、被差別者の立場以外の人にこそ、自分自身が問われている問題だと考えて欲しいと思っています。しかし、リバティに来る子どもたちを見ていると、人権学習は固くて、重くて、面白くない、自分とは関係ないものだと感じていることがよく分かります。
 人権のイメージを聞かれて、「差別」と書くのも、人権学習は差別を受けて困っている人の話だと思っていることが影響しているのかもしれません。
 このような意識を変えていくためにこそ、労働に関する問題と働く権利の話を伝えていくことが必要だと思っています。

この異常に偏った「人権」認識が、例えば赤木智弘氏の「左派」認識と表裏一体であることはいうまでもありませんし、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。
で、その時に、自分はどうなるのか?<
これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

そして、人権擁護法案に対するこういう反応の背後にあるのも、やはり同じ歪んだ人権認識であるように思われます、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html(ミニ・シンポジウム「教育制度・教育政策をめぐって(2)――教育と雇用・福祉」 )

数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか
 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-3e81.html(自分の人権、他人の人権)

https://twitter.com/YuhkaUno/status/494839766626492419

人権教育というのは、まず「あなたにはこういう権利がある」ということを教えることだと思うんだけど、日本の人権教育は「弱者への思いやり」とかで語られるから、人権というのは「強者から弱者への施し」だと考えるようになるんだと思う。

もっというと、だから人権を目の敵にする若者たちがいっぱい出てくるわけです。

ということをだいぶ前から言い続けてきているわけですが・・・。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html

 残りの3分の1の時間で、想定される小玉先生の話に対するコメントをします。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になります。
 
数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです。
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-4543.html(リベサヨにウケる「他人の人権」型ブラック企業)

みなみみかんさんの鋭い直感:

https://twitter.com/radiomikan/status/505024778688684034

たかの友梨もワタミもそうなんだけど、児童養護施設に寄付したり東南アジアの子供ために力を入れたりしてるんだけど、自社の社員に対する扱いがアレで、もうなんかアレという他ない。

だから、そういう「他人の人権は山よりも高し、自分の人権は鴻毛よりも軽し」って感覚こそ、あの赤木智弘氏がずっぽりとその中で「さよく」ごっこしていた世界であり、そんなんじゃ自分が救われないからと「希望は戦争」になだれ込んでしまった世界であるわけです。

自分の人権なんかこれっぽっちでも言うのは恥ずかしいけれど、どこか遠くの世界のとってもかわいそうな人々のためにこんなに一生懸命がんばっているなんて立派なぼく、わたし、という世界です。

そういうのを讃えに讃えてきたリベサヨの行き着く果てが、末端の労働者まで社長に自我包絡されて、こんなに自分の人権を弊履の如く捨て去って他人の人権のために尽くすスバラ式会社・・・というアイロニーに、そろそろ気がついてもよろしいのではないかと、言うてるわけですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバーシップ型社会の量子力学的構造(改題の上再掲)

昨年6月にアップしたエントリをそっくりそのまま再アップしておきます。なにも付け加えるべきことはありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-a7954d.html(ジョブ型とメンバーシップ型のねじれた議論)

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みずほ銀行のシステム障害の報告書をめぐって、こういうツイートがあったのですが、

https://twitter.com/_innocent2017/status/1406076301153386498

Vliauirg_400x400 みずほ銀行のシステム障害に関する調査報告書が話題になってますね。
その中でも「声を上げて責任問題となるリスクを取るよりも、持ち場でやれと言われていることだけをやった方が組織内の行動として合理的となる企業風土」という趣旨の原因分析が、日本企業らしいとして話題になっています。

これは、本当に日本企業独特の企業風土なのでしょうか?
確かに「減点型」の人事評価をする組織ならそのようなことがあるかもしれませんが、いわゆる欧米型、ジョブ型雇用の組織こそ「自分の持ち場の外のことは口を出さない」という風土が強くなってもおかしくないと思います。

欧米型、ジョブ型雇用の組織で「あえて声を上げる」ことが組織の中で合理的な選択となるのか、ぜひ有識者の方に教えていただきたいです。

たぶん、世の多くの人もこの人も、みんな日本的な集団的に仕事をし、一人一人に権限と責務が明確に割り振られているのではない量子力学的メンバーシップ感覚のままであれこれ議論するからこうなるんだろうな、と。

いやいや、ジョブ型ってのは、何か問題を発見したらそれをきちんと報告せよというのが、その当該者に与えられたタスクである限り、それこそが「持ち場でやれと言われていることだけ」なのであり、そういうジョブにはめ込まれた人がそれをわざとやらないことは、それがばれたらそれこそどういう処分を受けても文句をいえない。他により重要な考慮すべきことがあり、それを守るためならば自分の首をかけてもいいと思えるのでない限り、自らの職責を粛々とこなすこと以外に合理的な選択などはない。

逆に、そういうタスクを課されていない人は、そもそも自分の職責にもないことで「あえて声を上げる」などという他人の仕事を奪うような真似をする理由などない。そんなバカなことはいかなる意味でも合理的な選択ではないが、それはそもそもそれが自分の仕事じゃないから。その意味では、まさしくこの人の言うとおり、ジョブ型雇用の組織こそ「自分の持ち場の外のことは口を出さない」世界だ。

という、自分の仕事と決まっていることはきちんとやる、自分の仕事ではないことには口を出さないという、ニュートン力学的なジョブ型の世界の感覚を欠落させて、誰がどの仕事にどういう責任を負っているのやらいないのやらよくわからないような量子力学的メンバーシップ型の世界で、誰もが少しずつその問題に持ち場として関わりつつ、誰も自分のみがその問題の責任者であるとは思っていないようなふわふわした状況下では、それに関わる全員が、自分もその部分的責任者であるのに、「あえて声を上げる」ことが組織の中で合理的な選択とならず、他の部分的責任者の誰かがやるだろうと考えてしまうことが合理的になってしまうのでしょう。

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(追記)

なにも付け加えないと言いながら、一言だけ付け加えておくと、要するにみずほ銀行には、システム障害についてきちんと声を上げることが、それこそが自分の最重要なタスクであると思っている人が一人もいなかったということなんでしょうね。他人事みたいに関わっている人はごまんといたけれども。

半年前に「量子力学的」という言葉を使ったけれども、考えてみれば、誰かが見つけて声を上げるまでは誰の職責かは不確定だけれども、誰かが声を上げた瞬間に不確定性が消失して、その声を上げた不運な奴の職責に確定してしまうという、日本のメンバーシップ型社会のありようを、よく表している表現のような気がしてきました。

そういう社会では、何かに気づいても見て見ぬふりをして、誰の職責だか明確でない不確定性を維持することが、誰にとっても最も合理的な行動様式になるわけです。そのうちにだれか馬鹿正直な奴が声を上げて、そいつに職責が確定されて、自分の不確定だった職責が解除されるのを待っているのが最も合理的。

2022年1月15日 (土)

スペインでプラットフォーム労働者の労働協約締結

Luzrodriguez115x115 久しぶりにソーシャル・ヨーロッパの記事から。筆者はラマンチャ大学の労働法の先生でロドリゲスさんという方。

https://socialeurope.eu/first-agreement-for-platform-workers-in-spain(First collective agreement for platform workers in Spain)

2020年9月にスペインの最高裁がプラットフォーム労働者を自営業者ではなく雇用労働者であると判決したことがもとになって、2021年に雇用契約を推定するライダー法が制定されており、今回の労働協約につながったということのようです。

スペイン語の原典に当たってないのでセコハン情報ですが、なかなか面白いのは、

Their annual wage is set in the agreement at €15,232, or €1,270 per month, to which supplements will have to be added for working at night or on holidays or for mileage if a worker uses their own vehicle.

年収約1万5千ユーロ、月収1270ユーロの保障給

Also according to the new agreement, platform workers will have a maximum working time of nine hours per day. Two uninterrupted days of rest a week must be respected, including one Sunday per quarter, in addition to a guaranteed 30 days holiday per year. 

1日9時間の上限に加えて、週休、さらに30日の年休。

The mobile phone used by a worker to connect to the application must be provided by the platform, as well as all other work tools (vehicle and food box). If a vehicle is the worker’s own, then the platform must pay corresponding compensation. The costs of the tools are thus to be assumed by the platform, not the worker as in most countries.

携帯電話はプラットフォームが提供しろとか、車が労働者の自家用車ならその費用をプラットフォームが負担しろとか、なかなかウーバーらにとっては厳しい内容ですね。

Those riders visible on the streets of Spain will now be workers who have rights.

スペインの道路で目にするライダーたちは、いまや権利を有する労働者なのだ。

 

 

 

2022年1月14日 (金)

事業を開始した受給資格者等に係る受給期間の特例

本日、労政審で雇用保険法等の改正案要綱が承認されましたが、その中にちょっと興味深い規定があります。

https://www.mhlw.go.jp/content/000881549.pdf

今回の改正案で一番注目されたのはいうまでもなく、雇用調整助成金が使われ過ぎてお金が無くなったのをどうするかという話で、保険料率を上げるけれどもそれを先延ばしするとか、いろいろ話題になりましたが、ここではそこじゃなくて、フリーランス対策の一環という面もあるある規定を。

それは、要綱の文言では

二 事業を開始した受給資格者等に係る受給期間の特例
受給資格者であって、基本手当の受給資格に係る離職の日後に事業(その実施期間が三十日未満のものその他厚生労働省令で定めるもの(注1)を除く。)を開始したものその他これに準ずるものとして厚生労働省令で定める者(注2)が、厚生労働省令で定めるところにより公共職業安定所長にその旨を申し出た場合には、当該事業の実施期間(当該期間の日数が四年から受給期間の日数を除いた日数を超える場合における当該超える日数を除く。)は、受給期間に算入しないものとすること。
(注1)当該事業により自立することができないと公共職業安定所長が認めるものとする予定〔省令〕。
(注2)離職前に当該事業を開始し、離職後に当該事業に専念する者とする予定〔省令〕。 

となっていますが、つまり一旦労働者から起業の道を選んで自営業者になった人が、夢破れてもう一遍労働者に戻って仕事を探そうというときに、元の勤務実績に基づいた失業給付をもらえるという話です。

これは、もちろん特定の場合に限ってですが、ある意味で元労働者のフリーランスにも雇用保険を拡大適用しているような面があり、昨年6月の骨太の方針で「フリーランスといった経済・雇用情勢の影響を特に受けやすい方へのセーフティネット・・・の在り方を検討」という要請に部分的に答えたという面があります。

労政審の安全衛生分科会では、例のアスベスト最高裁判決を受けて、一人親方へも安全衛生規定を拡大するという議論をしていますし、こういう割と地味な方面で、フリーランス対策がじわじわと膨らんでいるということも、頭の片隅にとどめておく必要がありそうです。

『ジョブ型雇用社会とは何か』の電子書籍が出たようです

71cahqvlel_20220114210901 amazonは依然として紙の本が払底して、鞘取り族が馬鹿高い値段をつけているようですが、kindleの電子書籍版が出たようなので、そちらでもお読みいただけます。

https://www.amazon.co.jp/dp/B09QBSJZTQ

(追記)

すごいな、kindle版が出たとたんに、amazonでの岩波新書売れ筋ランキングでこの電子版が2位になっている。

鞘取り族が馬鹿高い値段をつけてる紙の本がいまだに3位につけているというのもいささか不思議ではありますが。少なくとも、わざわざamazonで1,820円もの金を払って買う必要は全くありませんので、別のストアに行ってもらった方がいいと思いますよ。

https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/2220219051/ref=pd_zg_hrsr_books

 

2022年1月13日 (木)

”採るべき人”と”採ってはいけない人”の間

毎度のことながらネット上はあちらでもこちらでも炎上ネタが転がっているようですが、その騒ぎをちょっと斜め後ろ方面から見ると、これもまたいろいろと興味深い視角が開けてきます。

https://kabumatome.doorblog.jp/archives/65990403.html

話の出発点は、某社人事部の方の

採用は"採ってはいけない人”を見極める仕事だ。最近意味が分かってきた。

というつぶやきで、これがなぜか大炎上したようですが、でも、ジョブ型じゃなくて、メンバーシップ型の採用の本質から言えば、これはなかなか本質を言い当てている感もあります。

もちろん、世界共通の雇用のベースラインモデルであり、日本以外の社会ではみなそうであり、日本だって法律の建前上はそうであるところのジョブ型雇用社会の原理からすれば、

採用は”採るべき人”を見極める仕事だ。

ということに尽きるのです。特定のスキルを要する特定のジョブに、もっともそれを的確に遂行しうると思われる人を当てはめることが採用であるならば、それ以外のことはすべてたわごとに過ぎない。

ごまんといる膨大な人の中から、特定のジョブを遂行しうる数少ない特定の人を選び出すという至難の業こそが採用だと思っている人からすれば、どんな仕事ができるかできないかなどとは何ら関係なく、ただトンデモな地雷を踏まないことが大事だなどというのは、採用の風上にも置けないはずでしょう。

でもね、それはジョブ型社会の話であって、メンバーシップ型社会ではそもそも特定のジョブを遂行しうる人を採用するんじゃないのだから、話の筋道がそれとは違うわけです。

会社の必要に応じてどんな仕事でも一生懸命取り組んでこなしていくような人材こそを求めているのである以上、そういう”採るべき人”とは、”採ってはいけない人”の補集合としてしか定義のしようがない。

そう、”採ってはいけない人”とは、採用から定年退職までの長期間会社のメンバーとしてやっていけそうもないトンデモな「地雷」のことを意味するのですから、この某社人事部の方のセリフはまさにメンバーシップ型採用の本質を言い当てているのであり、そう考えると「最近意味が分かってきた」というのも誠に意味深いものがありますね。

何なんだよ、あいつは。とんでもねぇ奴だな。誰だよ、あんな奴採用したのは。え?何年入社だって?そん時の人事課長は誰だよ。こんな奴だとわかって採用したのかね・・・

てなことの一つや二つが転がっていない会社はたぶんあんまりないはずです。みんな心当たりがあるでしょう。だって、みんなメンバーシップ型にどっぷり漬かってきているんだから。

何べんも言うけど、ジョブ型ってのは入口がアルファでありオメガであって、それ以外はすべてそのコロラリーに過ぎない。入口をそのままにして、賃金処遇だけジョブ型と称して成果主義にしてみたところで、”採ってはいけない人”を見極めることが人事部の最大の任務であるということには何の変りもないのですから。

 

 

 

2022年1月12日 (水)

『ジョブ型雇用社会とは何か』第5刷決定

71cahqvlel_20220112220601 おかげさまで、昨年9月下旬に出た『ジョブ型雇用社会とは何か』が、新年早々第5刷が決定しました。これもお買い求めいただいた皆様方のおかげと心からお礼申し上げます。

本書では特に初めのところで日経新聞を槍玉にあげて批判しているんですが、その日経新聞に昨年末経済書第4位に選んでいただいたうえに、今年は年始早々、例の日立が全社員ジョブ型化という記事で、みんながジョブ型を検索して、本書を見つけるという好循環のサイクルまで作ってくれているみたいで、有難いというか申しわけないというか不思議な感覚です。

ちなみに、東洋経済には経済書第2位に選んでいただいた上に、今年は年始早々、こういう記事で宣伝していただいていて、こちらはほんとに感謝です。

https://toyokeizai.net/articles/-/479368

でもって、みんな「ジョブ型」を検索して、amazonで本書を買う人が増えたためか、どうも品切れ状態をきたしたようで、amazonの本書のページを見たら、目を剝くような事態になっていました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4004318947/

なんとおどろくべきことに、¥1,717という値段がついているんですよ。いやいやまだ出たばっかりの新刊書で、定価は¥1,122ですからね。例によってamazonを徘徊する鞘取り族がこういうべらぼうな値段をつけて売ってるんでしょうが、間違ってもこういう暴利屋のは買わないでくださいね。

 

 

2022年1月11日 (火)

大内伸哉『最新重要判例200[労働法] <第7版>』

594309 大内伸哉さんの『最新重要判例200[労働法] <第7版>』(弘文堂)をお送りいただきました。これも2年おきに版を重ねてはや7版ですか。

https://www.koubundou.co.jp/book/b594309.html

膨大な判例の中から新しいものを中心に一貫した視点で重要判例を選び、すべてを1人で解説することにより統一的に理解できる判例ガイド。
1頁に1判例、判旨の要点がひと目でわかるよう2色刷りにし、読者の学習に配慮した判例解説の最新版です。
この2年間に、有期・無期労働者間の労働条件格差に関する判例など、注目すべき判例が登場しました。それらの判例を収録しつつ、必要かつ十分な判例を読者に届けるという目標を念頭に厳選した結果、新規判例8件を追加、8判例を削除し、全面的に記述を見直した200判例を収録しました。また、読者の参考になるよう、著者の著作『人事労働法』の該当頁を解説の末尾に掲載しています。
法学部生をはじめ、各種国家試験受験生、社労士、企業の人事・労務担当者に最適の1冊。 

というわけで、いくつか追加された判例あれば、代って削除された判例ありで、メトロコマースと日本郵便の代わりに丸子警報器が消えてゆくのは一抹の寂しさがありますね。

 

 

2022年1月10日 (月)

「ジョブ型」祭りには一服の清涼剤としてこの一冊

ちょうど一昨年の今頃から日立製作所をネタに始まった日経新聞主導の「ジョブ型」祭りは、今年もますます燃料を投下しつつ続けていくようですが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC263I70W1A221C2000000/(日立製作所、全社員ジョブ型に 社外にも必要スキル公表)

 日立製作所は7月にも、事前に職務の内容を明確にし、それに沿う人材を起用する「ジョブ型雇用」を本体の全社員に広げる。管理職だけでなく一般社員も加え、新たに国内2万人が対象となる。必要とするスキルは社外にも公開し、デジタル技術など専門性の高い人材を広く募る。年功色の強い従来制度を脱し、変化への適応力を高める動きが日本の大手企業でも加速する。・・・・

さすがに、一昨年の頃のいい加減な記事に比べると、(さんざん批判されたからか)言葉の使い方に若干注意が払われた跡が見受けられますが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC07CB90X00C22A1000000/(ジョブ型雇用とは 職務明確化、専門性高める)

働き手の職務内容をあらかじめ明確に規定して雇用する形態のこと。事業展開に合わせて外部労働市場から機動的に人材を採用する欧米企業に広く普及している。会社の業務に最適な人材を配置する「仕事主体」の仕組みといえる。特定の業務がなくなれば、担当していた人材は解雇されることも多い。・・・・ 

それにしても、これからの新商品として売り込んでいきたいという商魂だけは見事ににじみ出ている記事ではありますね。

71ttguu0eal_20220110112101 祭りが始まってから2年たった今年には、もういちいち反応するんじゃなくって、大事なことはすべてこの本に書いておいたから、ぜひ読んでね、とだけ言っておきます。少なくともジョブ型ってのは古臭いベースラインモデルなんであって、新商品ネタとしてもてはやすようなものではなく、メンバーシップ型こそが少し前にやたらもてはやされていたが今は落ちぶれた古びた新商品なんだということくらいはわきまえて喋ることができるようになるはず。

ちなみに、この日経新聞が年末に経済図書ベスト4位に選んでいただいたおかげか、

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO78742310U1A221C2MY6000/

年末時の岩波新書の売り上げベスト10の1位になっていたようで、

https://www.iwanami.co.jp/news/n45220.html

まあ、ありがたいことではあります。

 

2022年1月 9日 (日)

日本的特色のある「サービスしてよ経済化」「サービスしまっせ経済化」

過去数十年にわたって、世界でサービス経済化が進んできたけれど、日本におけるそれはかなり特殊なものだったのではないか。やや皮肉を込めて、日本的特色のあるサービス経済化とでも言いたくなるようなものだったのではないか。

それは、アカデミックな文章語ではあまり表面に現れないが、日常言語では極めてありふれた言い回しである「サービスしてよ」とか、「サービスしまっせ」という表現に滲み出ている、無料とか、安価といった意味合いが限りなく染み込んだ、そういう「サービス経済化」であったのではないか。

その結果、世界共通のサービス経済化が、日本においては、低価格、低賃金の、いわば「サービスしてよ経済化」「サービスしまっせ経済化」をもたらすことになったのではなかろうか。

2022年1月 7日 (金)

「日本流」ジョブ型雇用 何が問題か@『週刊東洋経済』1月15日号

51grzzg1l_sy344_bo1204203200_ 『週刊東洋経済』1月15日号が、昨年末に東洋経済オンラインに載ったインタビュー記事の縮約版(奥田記者によるまとめ記事)を載せています。

https://premium.toyokeizai.net/articles/-/29319

短くなって、やや意が通じにくくなっているところもありますが、言っている趣旨はいつも同じです。

・・・・欧米のジョブ型雇用も完璧ではない。

欧米では働きぶりや能力評価ではなく、公的な資格がモノをいう。会社で昇進するには、自分の実力を客観的に証明する資格を取り、それを武器に、より上の職務の公募に手を挙げるやり方が一般的だ。だが、資格があるからといって必ずしも実務で「使えるヤツ」なのかといえば、そうとも限らない。逆もまたしかりだ。

濱口氏は、「どの雇用制度が正解だと言うつもりはない。日本企業がこれまでの賃金処遇制度に問題意識を持ち、新たな人事制度を取り入れようとしていること自体は理解できる。ただ、制度の違いや中身を本質的によく理解したうえで考えるべきだ」と話す。

ジョブ型雇用は職務が固定化され専門性が高まる一方、「潰し」が利かなくなる一面を持つ。AI(人工知能)に取って代わられ、仕事が消えてなくなる可能性も否定できない。雇用の大転換期にある今、働く側が身の振り方を主体的に考えることが重要になる。

 

【本棚を探索】第1回:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』

『労働新聞』に代わる代わる月1回連載してきた書評コラムですが、新年からは「本棚を探索」というタイトルで、引き続きやっていきますのでよろしく。

Img20210802_05433751 その第1回目が本日ネット上にアップされています。ブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』です。

https://www.rodo.co.jp/column/119798/

 昔のキャラメルのCMではないが、1冊で2度おいしい本だ。1つ目はアメリカをはじめとする今日の西側の資本主義を「リベラル能力資本主義」と規定し、それがもたらすシステム的な不平等と、それがなまじ能力による高い労働所得に基づくがゆえに旧来の福祉国家的な手法では解決しがたいパラドックスを描き出す第2章である。

 19世紀の古典的資本主義では、資本家が裕福で労働者は貧しかった。20世紀の社会民主主義的資本主義では、社会保障や教育を通じてかなりの再分配が行われた。これに対して、21世紀のリベラル能力資本主義では、多くの人が資本と労働の双方から収入を得ており、金持ちの多くはその「能力(=人的資本)」に基づいて高額の給料を得ている。高学歴の男女同士が結婚(同類婚)することで階級分離が進み、相続税が高い社会でも学歴という形で不平等が世代間移転される。こうなると、課税と社会移転という20世紀的なツールの有効性が低下する。一番始末に負えないのは、勤勉で有能であるがゆえに高給を得、夫婦親子でエリート一族を形成する彼らを道徳的に批判することが(かつての「有閑階級」と異なって)困難である点だ。この章は、みんながうすうす感じていたことをあっさり暴露した風情がある。

 次の第3章は中国(とその眷属国家)の有り様を「政治的資本主義」と規定し、その世界史的位置付けを試みているが、これだけで十分一冊になる。著者によれば、共産主義は植民地化された後進国の資本主義化の手段である。そして優秀な官僚、法の支配の欠如、国家の自律性に特徴付けられる政治的資本主義には、腐敗と不平等という宿痾がまつわりつく。なぜなら、法の支配が故意に柔軟な解釈をされ、横領に手を染めることが可能となるからだ。これに対して一部評論家が提唱する法の支配の強化という処方箋は、官僚の自由裁量権をなくすことになるので採り得ない。

 そこで習近平政権は腐敗に手を染めた役人を片っ端から摘発する(ハエもトラも叩く)。とはいえ、それは腐敗の一掃が目的ではなく、「腐敗の川を川床内に留めおき、社会にあまり広がらないようにする」ことにすぎない。「洪水の如く溢れたら最後、腐敗を持続可能な程度まで押し戻すのは極めて困難」だからだ。

 以上だけでもおいしいが、第4章以下では、労働と移民のパラドックス、アンバンドリングとしてのグローバル化、世界に広がる腐敗、道徳観念の欠如、さらには人工知能とユニバーサル・ベーシックインカムなど、今日話題のネタもたっぷり詰め込まれている。だが、本文最後で語られる未来図はいささか心冷えるものである。それは、リベラル資本主義の下で形成されつつある新たなエリート層が、今よりはるかに社会から独立した立場につき、政治的領域を支配するようになる、つまり政治的資本主義に近づいていくというシナリオだ。人々の頭の中から政治を消し去り、国民を満足させておける比較的高い成長率をもたらすために、経済をすこぶる能率的に管理することが求められる。そして恐らくこのシステムに土着の腐敗が増え、長い目で見れば政権の存続の脅威となる、と。

 

 

2022年1月 6日 (木)

労働組合は利益団体(ほぼ再掲)

20220105at66s_p なんだかまたぞろ、岸田首相が連合の新年会に出席したというニュースをネタに、労働組合を政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違えた発想がネット上で拡散されているようですが、あまりのデジャブに、以前のエントリに書いた文章をそっくりそのまま自分でコピペする以外に何とも言いようがない感が半端ない・・・。

どれくらいデジャブかというと、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-4e73.html(労働組合は利益団体)

なんだかまたぞろ、自民党の幹事長が連合の会長と会談したというニュースをネタに、労働組合を政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違えた発想がネット上で拡散されているようですが、あまりのデジャブに、以前のエントリに書いた文章をそっくりそのまま自分でコピペする以外に何とも言いようがない感が半端ない・・・。 

ということで、そのデジャブの元のエントリはこちら:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-07d6.html(首相、連合の次期幹部と会談)

まあ、政治部の記者が政治面に書く記事ですから、どうしても政局がらみの政治家的目線になるのは仕方がないのかも知れませんが、ここはやはり、労働組合とは政治団体でもなければ思想団体でもなく宗教団体でもなく、労働者の利益を最大化し、不利益を最小化することを、ただそれのみを目的とする利益団体であるという、労使関係論の基本の「キ」に立ち返ってもらいたいところです。
労働者の利益のために白猫が役立つのであれば白猫を使うし、白猫が役に立たないのであれば黒猫を使う、というのは、労働組合を政治団体か思想団体と思い込んでいる人にとっては原理的に許しがたいことかも知れませんが、利益団体としての立場からすれば何ら不思議なことではありません。
政権と対決して労働者の利益が増大するのであればそういう行動を取るべきでしょうし、そうでないのであれば別のやり方を取るというのも、利益団体としては当然です。
問題はむしろその先です。
利益団体としての行動の評価は、それによってどれだけ利益を勝ち取ったかによって測られることになります。それだけの覚悟というか、裏返せば自信があるか。
逆に言えば、政権中枢と直接取引してそれだけの利益を勝ち取る自信がないような弱小団体は、下手に飛び込んで恥をかくよりも、外側でわぁわぁと騒いでいるだけの方が得であることも間違いありません。しかしそれは万年野党主義に安住することでもあります。
上の記事は政治部記者目線の記事なので、政治アクターにとっての有利不利という観点だけで書かれていますが、労使関係論的に言えば、労働組合の政治戦略としてのひとつの賭であるという観点が重要でしょう。

まあ、こういうことを百万回繰り返しても、やっぱり労働組合を労働者の利益団体だとはかけらも思わず、政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違える人々は尽きることがないようです。

 

 

 

2022年1月 4日 (火)

『改革者』等に書評

新年出勤すると、いくつかの雑誌が届いていて、そこに『ジョブ型雇用社会とは何か』の書評が掲載されておりました。

22hyoushi01gatsu まず、私も執筆したこともある政策研究フォーラムの『改革者』1月号には、梅崎修さんによる1頁の書評が載っています。

とりわけ、次の一節は嬉しい評価です。

・・・未読の方は、濱口氏本人がジョブ型改革の必要性を主張していると思われるかも知れない。ところがそうではなく、本書は、その改革がいかに誤解に満ちた迷走であるかを批判し、正し歴史認識の必要性を主張しているのである。
 本書が喝破したのは、ジョブ型改革が「成果主義」のリベンジになっているという事実であろう。・・・

Kaikaku

もう一つ、こちらは京都のNPO法人あったかサポートセンターの『あったか情報』に、同NPO法人の半田敏照さんがこれまた1頁の書評を書かれています。こちらの目の付け所は、次の一節にあります。

・・・この著書では、日本の雇用慣行がもつ多くの矛盾を、ジョブ型の切口から独特な語り口で指摘し、読者を納得させてくれるのである。・・・

Attaka

 

 

 

 

2022年のキーワード:フリーランス@『先見労務管理』2022年1月10日号

Senken2022 『先見労務管理』2022年1月10日号に「2022年のキーワード:フリーランス」を寄稿しました。

なお、この号では、警備員の欠格事由規定放置は国会の立法不作為だとして国家賠償をみとめた昨年10月の岐阜地裁判決の解説が興味深いものでした。

 

 

2022年1月 1日 (土)

新年明けましておめでとうございます

Imgp0782 昨年も世界中がコロナ禍に苦しみ、波乱に満ちた一年となりました。また前年に引き続き、マスコミを中心に「ジョブ型」という言葉が歪んだ形で流行し、この言葉の名付け親としては、きちんと始末をつけねばならないと考えました。
 わたくしは三月に『団結と参加ー労使関係法政策の近現代史』(労働政策研究・研修機構)を刊行した後、覚悟を決めて九月には『ジョブ型雇用社会とは何かー正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書)を世に問いました。幸いにして多くの心ある方々の好評を得ることができ、『週刊東洋経済』のベスト経済・経営書にも選んでいただきました。
 今年こそは内外ともに良い年となり、皆様にとっても素晴らしい年となりますように心よりお祈り申し上げます

二〇二二年一月一日

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