成果主義が一般的でない米国社会で成果主義を普及させるには・・・・
先日の「牛島信さんの拙著への感想が面白い」というエントリに、野々宮さんという方からこういうコメントが付きまして、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/11/post-007763.html#comment-120755822
下記のような、togetter.を見ましたので参考までに
”米国大で「米国で成果主義を普及させるには」というお題に同級生が皆頭を抱えていた→ 「成果主義の国」という固定観念の日本人として大混乱した経験”
その元ツイートはこちらですが、
https://twitter.com/Hiroshi99857672/status/1459306262877769729
以前授業でディスカッションの場があったんだけど、そのテーマが「成果主義が一般的でない米国社会で成果主義を普及させるには」で、米国人同級生は「それは米国では無理だよね...」などと皆頭を抱えており、「米国は成果主義の国」という固定観念を日本で植え付けられた私は一人で大混乱していた。
このツリーではその後コネ社会だからアファーマティブアクションだ云々という話になっているようですが、いやそもそも、一番根っこのところで、ジョブ型社会というのは日経新聞や世に溢れる人事コンサル諸氏が煽り立てるのとは全く異なり、日本でやたら盛んな成果主義とは正反対なんだという、一番肝心のことが、日本では全く正反対に信じ込まされているという点に問題の根源があるわけですよ。
この点こそ、『ジョブ型雇用社会とは何か』という本を今この時点で世に出さないとまずいな、と思うに至った最大の理由でもあるわけです。
ジョブ型は成果主義ではない
しかし、この解説で一番問題なのは、「労働時間ではなく成果で評価する」というところです。あまりにも頻繁に紙面でお目にかかるため、そう思い込んでいる人が実に多いのですが、これは9割方ウソです。どういうことでしょうか。
そもそも、ジョブ型であれ、メンバーシップ型であれ、ハイエンドの仕事になればなるほど仕事ぶりを厳しく評価されますし、ミドルから下の方になればなるほどいちいち評価されなくなります。それは共通ですが、そのレベルが違うのです。多くの人の常識とは全く逆に、ジョブ型社会では一部の上澄み労働者を除けば仕事ぶりを評価されないのに対し、メンバーシップ型では末端のヒラ社員に至るまで評価の対象となります。そこが最大の違いです。
これは、ジョブ型とはどういうことかを基礎に戻って考えればごく当たり前の話です。ジョブ型とは、まず最初に職務(ジョブ)があり、そこにそのジョブを遂行できるはずの人間をはめ込みます。人間の評価はジョブにはめ込む際に事前に行うのです。後はそのジョブをきちんと遂行できているかどうかを確認するだけです。大部分のジョブは、その遂行の度合を事細かに評価するようにはなっていません。ジョブディスクリプションに書かれた任務を遂行できているか、それともできていないかをチェックするだけです。それができていれば、そのジョブにあらかじめ定められた価格(賃金)が支払われます。これがジョブ型の大原則であって、そもそも普通のジョブに成果主義などはなじみません。例外的に、経営層に近いハイエンドのジョブになれば、ジョブディスクリプションが広範かつ曖昧であって、できているかできていないかの二分法では足らず、その成果を事細かに評価されるようになります。これが、多くのマスコミや評論家が想定する成果主義の原像でしょう。しかし、それをもってジョブ型の典型とみなすことは、アメリカの大学が全てハーバード大学のビジネススクール並みの教育をしていると思い込む以上に現実離れしています。ヒラ社員まで査定する日本
これに対し、日本のメンバーシップ型社会においては、欧米の同レベルの労働者が評価対象ではないのと全く正反対に、末端のヒラ社員に至るまで事細かな評価の対象になります。ただし、そもそも入社時に具体的なジョブのスキルで評価されているわけではありませんし、入社後もやはり具体的なジョブのスキルで評価されるわけではありません。では彼らは何で評価されているのかというと、日本の会社員諸氏がみんな重々承知のように、特殊日本的意味における「能力」を評価され、意欲を評価されているのです。人事労務用語でいえば、能力考課であり、情意考課です。この「能力」という言葉は要注意です。これは、いかなる意味でも具体的なジョブのスキルという意味ではありません。社内で「あいつはできる」というときの「できる」であって、潜在能力、人間力等々を意味します。また情意考課の対象である意欲とは、要は「やる気」ですが、往々にして深夜まで居残って熱心に仕事をしている姿がその徴表として評価されがちです。業績考課という項目もありますが、集団で仕事を遂行する日本的な職場で一人ひとりの業績を区分けすることは難しく、本来の意味での成果主義は困難です。
このように、ハイエンドではない多くの労働者層についてみれば、ジョブ型よりもメンバーシップ型の方が圧倒的に人を評価しているのですが、ただその評価の中身が、「能力」や意欲に偏り、成果による評価は乏しいのです。問題があるとすれば、この中くらいから末端に至るレベルの労働者向けの評価のスタイルが、それよりも上位に位置する人々、経営者に近い管理する側の人々に対しても、ずるずると適用されてしまいがちだということでしょう。ジョブ型社会において彼らのカウンターパートに当たるエグゼンプトとかカードルと呼ばれる人々は、ジョブディスクリプションに書かれていることさえちゃんとやっていれば安泰な一般労働者とは隔絶した世界で、厳しくその成果を評価されているのに、日本の管理職はぬるま湯に安住しているという批判はここから来るのです。そしてその際、情意考課で安易に用いられがちな意欲の徴表としての長時間労働が槍玉にげられ、「労働時間ではなく成果で評価する」という、日経新聞で毎日のようにお目にかかる千篇一律のスローガンが生み出されるというわけです。
もちろん、ハイエンドの人々は厳しく成果で評価されるべきでしょう。その意味で、「9割方ウソ」の残り1割はウソではないと認めてもいいかも知れません。しかし、そういう人はジョブ型社会でも一握りの上澄みに過ぎません。ジョブ型社会の典型的な労働者像はそれとは全く異なります。もし、ジョブ型社会ではみんな、少なくともメンバーシップ社会で「能力」や意欲を評価されている末端のヒラ社員と同じレベルの労働者までがみんな、成果主義で厳しく査定されているという誤解をまき散らしているのであれば、それは明らかにウソであると言わなければなりません。
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いつも拝読しています。
先生の新書を二冊ほど読ませていただいた上で、一つ疑問なのですが、もし可能であれば教えていただけますと大変ありがたく存じます。
労働契約法第16条において、解雇濫用法理が書き込まれていると思いますが、ジョブディスクリプションがあいまいでジョブを会社が指定できるからこそ、ここでいう「客観的に合理的な理由」として、たとえその人のタスクがなくなったとしても、その人の配置転換なりの解雇回避義務を企業が負うものと理解しています。
逆説的には、例えば、契約時にジョブディスクリプションを明確にし、「10時から19時まで清掃を行うものとする、勤務地は東京のオフィスのみ」と書き込んだとして、全面テレワークにする関係で東京のオフィスを閉じるとすると、そのタスクが消失するので、その人は解雇しますというのは、「客観的に合理的な理由」として現在の法体系でも認められるうるという事でしょうか。
そうすると、もはや「メンバーシップ型」雇用も「ジョブ型」雇用も、結局のところ企業の選好の違いに過ぎず、現在の法体系においても、欧州型の「ジョブ型」は導入可能であり、「我が国の雇用規制が強く労働の流動性がない」という意見は、かなり乱暴なものに聞こえます。(批判もあるようですが)多くの解雇規制の労働市場への影響を分析する論文で使われているOECDの雇用規制インデックスでは、パーマネント・テンポラリーともに日本はかなり低く、北欧というより、イギリスに近いような数字になっていますが、やはり法体系としてはEUと比較してもかなり自由度が高いものなのでしょうか。
ご知見にすがるようで恐縮ですが、ご教示いただくことは可能でしょうか。
労働契約法(平成19年法律第128号)
(解雇)
第十六条 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。
投稿: ゆう | 2021年11月24日 (水) 23時18分