こんなツイートを見つけて、
https://twitter.com/Asaoki_UN/status/1434807400985411584
世界ふしぎ発見でローマ時代の奴隷について、東大の教授が「貴重な働き手としてそれなりの待遇を受けていた。生かさず殺さず、働き手を増やすために子どもも作って欲しいという待遇。今で言えばサラリーマンみたいな存在」って結構凄いことをサラッと言ってた
いやこの、奴隷とサラリーマンの関係については、も少し詳しく、法制史的知見をもって語らないと、誤解を招きかねないところなんで、かつてヨニウム氏とイケノブ氏のそれぞれ片面的な議論をつかまえて論じたエントリを再掲しておきます。
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http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-53fc.html(ジョブとメンバーシップと奴隷制)
世の中には、ジョブ型雇用を奴隷制だと言って非難する「世に倦む日々」氏(以下「ヨニウム」氏)のような人もいれば、
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/283122128201609216
本田由紀とか湯浅誠とか、その亜流の連中が、そもそも正規労働を日本型雇用だと言ってバッシングし、正規雇用を非正規雇用の待遇に合わせる濱口桂一郎的な悪平準化を唱導している時代だからね。左派が自ら労働基準法の権利を破壊している。雇用の改善は純経済的論理では決まらない。政治で決まる問題。
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/290737267151077376
資本制の資本-賃労働という生産関係は、どうしても古代の奴隷制の型を引き摺っている。本田由紀らが理想視する「ジョブ型」だが。70年代後半の日本経済は、今と較べればずいぶん民主的で、個々人や小集団の創意工夫が発揮されるKaizenの世界だった。創意工夫が生かされるほど経済は発展する。
それとは正反対に、メンバーシップ型雇用を奴隷制だと言って罵倒する池田信夫氏(以下「イケノブ」氏)のような人もいます。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51870815.html(「正社員」という奴隷制)
非正社員を5年雇ったら正社員(無期雇用)にしなければならないという厚労省の規制は、大学の非常勤講師などに差別と混乱をもたらしているが、厚労省(の天下り)はこれを「ジョブ型正社員」と呼んで推奨している
・・・つまりフーコーが指摘したように、欧米の企業は規律=訓練で統合された擬似的な軍隊であるのに対して、日本の正社員はメンバーシップ=長期的関係という「見えない鎖」でつながれた擬似的な奴隷制なのだ。
もちろん、奴隷制とは奴隷にいかなる法的人格も認めず取引の客体でしかないシステムですから、ジョブ型雇用にしろメンバーシップ型雇用にしろ、奴隷制そのものでないのは明らかですが、とはいえ、それぞれが奴隷制という情緒的な非難語でもって形容されることには、法制史的に見て一定の理由がないわけではありません。
著書では専門的すぎてあまりきちんと論じていない基礎法学的な問題を、せっかくですから少し解説しておきましょう。
近代的雇用契約の源流は、ローマ法における労務賃貸借(ロカティオ・オペラルム)とゲルマン法における忠勤契約(トロイエディーンストフェアトラーク)にあるといわれています。
労務賃貸借とは、奴隷所有者がその奴隷を「使って下さい」と貸し出すように、自己労務所有者がそれを「使って下さい」と貸し出すという法的構成で、その意味では奴隷制と連続的な面があります。しかし、いうまでもなく最大の違いは、奴隷制においては奴隷主と奴隷は全く分離しているのに対し、労務賃貸借においては同一人物の中に存在しているという点です。つまり、労働者は労務賃貸人という立場においては労務賃借人と全く対等の法的人格であって、取引主体としては(奴隷主)と同様、自由人であるわけです。
この発想が近代民法の原点であるナポレオン法典に盛り込まれ、近代日本民法も基本的にはその流れにあることは、拙著でも述べたとおりです。
このように労務賃貸借としての雇用契約は、法的形式としては奴隷制の正反対ですが、その実態は奴隷のやることとあまりかわらないこともありうるわけですが、少なくとも近代労働法は、その集団的労使関係法制においては、取引主体としての主体性を集団的に確保することを目指してきました。「労働は商品ではない」という言葉は、アメリカにおける労働組合法制の歴史を学べばわかるように、特別な商品だと主張しているのであって、商品性そのものを否定するような含意はなかったのです。
労務賃貸借を賃金奴隷制と非難していた人々が作り出した体制が、アジア的専制国家の総体的奴隷制に近いものになったことも、示唆的です。
一方、ゲルマンの忠勤契約は日本の中世、近世の奉公契約とよく似ていて、オットー・ブルンナー言うところの「大いなる家」のメンバーとして血縁はなくても家長に忠節を尽くす奉公人の世界です。家長の命じることは、どんな時でも(時間無限定)、どんなことでも(職務無限定)やる義務がありますが、その代わり「大いなる家」の一員として守られる。
その意味ではこれもやはり、取引の客体でしかないローマ的奴隷制とは正反対であって、人間扱いしているわけですが、労務賃貸借において最も重要であるところの取引主体としての主体性が、身分法的な形で制約されている。妻や子が家長の指揮監督下にある不完全な自由人であるのと同様に、不完全な自由人であるわけです。
ドイツでも近代民法はローマ法の発想が中核として作られましたが、ゲルマン的法思想が繰り返し主張されたことも周知の通りです。ただ、ナチス時代に指導者原理という名の下に過度に変形されたゲルマン的雇用関係が強制されたこともあり、戦後ドイツでは契約原理が強調されるのが一般的なようです。
日本の場合、近世以来の「奉公」の理念もありますが、むしろ戦時中の国家総動員体制と終戦直後のマルクス主義的労働運動の影響下で、「家長」よりもむしろ「家それ自体」の対等なメンバーシップを強調する雇用システムが大企業中心に発達しました。その意味では、中小零細企業の「家長ワンマン」型とはある意味で似ていながらかなり違うものでもあります。
以上を頭に置いた上で、上記ヨニウム氏とイケノブ氏の情緒的非難を見ると、それぞれにそう言いたくなる側面があるのは確かですが、そこだけ捕まえてひたすらに主張するとなるとバランスを欠いたものとなるということが理解されるでしょう。
ただ、ローマ法、西洋法制史、日本法制史といった基礎法学の教養をすべての人に要求するのもいかがなものかという気もしますし、こうして説明できる機会を与えてくれたという意味では、一定の意味も認められないわけではありません。
ただ、ヨニウム氏にせよ、イケノブ氏にせよ、いささか不思議なのは、理屈の上では主敵であるはずのそれぞれジョブ型そのものやメンバシップ型そのものではなく、その間の「ほどほどのメンバーシップとほどほどのジョブ」(@本田由紀氏)からなる「ジョブ型正社員」に異常なまでの憎悪と敵愾心をみなぎらせているらしいことです。
そのメカニズムをあえて憶測すればこういうことでしょうか。
ヨニウム氏にとっては、(イケノブ氏が奴隷と見なす)メンバーシップ型こそが理想。
イケノブ氏にとっては、(ヨニウム氏が奴隷と見なす)ジョブ型こそが理想。
つまり、どちらも相手にとっての奴隷像こそが自分の理想像。
その理想の奴隷像を不完全化するような中途半端な「ジョブ型正社員」こそが、そのどちらにとっても最大の敵。
本田由紀さんや私が、一方からはジョブ型を理想化していると糾弾され、もう一方からはメンバーシップ型を美化していると糾弾されるのは、もちろん人の議論の理路を理解できない糾弾者のおつむの程度の指標でもありますが、それとともに理解することを受け付けようとしないイデオロギー的な認知的不協和のしからしむるところなのでもありましょう。
あらぬ流れ弾が飛んでこないように(いや、既に飛んできていますが)せいぜい気をつけましょうね。
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ついでにいうと、このへんについてまともなセンスを持って語っているのは実は稲葉振一郎氏です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-7d5745.html(ジョブとメンバーシップと奴隷制再掲(稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』に触発されて))
毎月HRWatcherを連載しているWEB労政時報の髙橋さんより、「講談社選書メチエの『AI時代の労働の哲学』に、濱口先生の『日本の雇用と労働法』が参考文献として挙げられておりました」とのご連絡をいただき、早速読んでみました。稲葉振一郎さんのなかなかの意欲作です。
タイトルは今風に売れ線狙いで「AI時代の」と謳っていますが、中身はむしろ哲学と歴史から労働とは何かを深く沈潜して考えようとするもので、とりわけ第2章での議論が、古めかしいが故に現代の問題を考えるのにふさわしい枠組みになっています。
で、そこに私の本も出てくるんですが、その文脈が「奴隷制と自由な契約」なんですね(p51)。
・・・かつての奴隷・奉公人はメンバーシップ型雇用の原型に当たるわけですが、奴隷にもさまざまなタイプがありました。家事労働や危険な肉体労働に酷使され、消耗品扱いをされる者もいれば、主人のビジネスのアシスタントとして重要な意思決定にコミットし、場合によっては解放奴隷として主人の仕事や家を継承する者もいる。そのような幅の広さは、現代のメンバーシップ雇用にも引き継がれている、といえるでしょう。
ジョブ型の幅広さは、ある意味でそれ以上です。高度専門職の雇用は、請負どころかむしろ委任にさえ近づく一方で、定型化された単純作業は取り替えがいくらでも可能な没個性的な商品、いわばコモディティとして取り扱うことができます。つまりここでもまた外部か可能で、やはり請負に近づきますが、かといって委任に近づくことは決して考えられません。あくまでそれを「使用」する権利は雇い主の方に保持されるからです。・・・・
いやいや、これくらいきちんと概念の広がりをわきまえて使ってくれる人ばかりならいいんですけどね。
・・・結論としては、まことに表層的な情緒論を振り回すヨニウム氏やイケノブ氏と違い、稲葉振一郎さんがローマ法、西洋法制史、日本法制史といった基礎法学の教養をきちんと踏まえて議論を展開しているところが立派である、ということになりましょうか。
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