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2021年7月17日 (土)

最低賃金論の根っこにあるサービスの生産性論

12875_ext_01_0_20210717222401 先日、『週刊東洋経済』7月17日号に掲載された最低賃金に関するインタビュー記事について、わかる人には十分わかると思うのですが、そうでない人にはいささか舌っ足らずかなという気もしてきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-c58cff.html(菅政権が目指す「早期に1000円」の現実味 最低賃金の大幅引き上げ、是か非か@『週刊東洋経済』7月17日号)

もちろん、ここで述べていることは、本ブログでもう十数年前から繰り返し述べている「価値生産性とは値段が高いこと、労働生産性とは賃金が高いこと」という恒等式的同義反復の繰り返しに過ぎないのですが、なぜかそこが全然世の中で伝わっていないので、もういい加減いやになるくらいですが、再三再四お蔵出ししておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

>とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。

もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。

価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。

どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。

>ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。
価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。
生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。
ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。
そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。

>いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。
しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。
いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。

>フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。
もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。

要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。

、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。
製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。
ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。
そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。
そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。

>まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。
問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。
それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。
いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。

>大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。
だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。

>いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。
逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。
このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。

ちなみに、この「価値生産性とは値段が高いこと」というのは、今回の最低賃金引き上げに猛然と反発している日本商工会議所の三村会頭も全く同様に主張していることです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-5bb7b7.html(生産性の向上には・・・適切な価格設定だ)

三村さんのインタビューの最後のあたりは、最低賃金引上げ反対というそのスタンスにもかかわらず、実は賃金を上げろという議論と同じ構造になっています。

--生産性の向上には何が必要ですか

「適切な価格設定だ。中小企業の労働生産性はバブル崩壊後に低下した。大企業に協力し、中小は納品価格を下げた。リーマンショック時も同様だった。景気が回復しても是正されていない。サプライチェーン全体で費用を分担する必要がある。」

このロジックには全面的に賛成です。生産性が低いというのは、要するに買い叩いているからだ、と。

ですが、このロジックは、主語だけを入れ替えれば、まったく同じ構造でこうもいえます。中小企業を労働者という労務提供者に、大企業を労働者が労務を納品する相手方たる経営者に置き換えれば、

--生産性の向上には何が必要ですか

「適切な労務価格設定だ。労働者の労働生産性はバブル崩壊後に低下した。経営者に協力し、労働者は労務の納品価格を下げた。リーマンショック時も同様だった。景気が回復しても是正されていない。労務のサプライチェーン全体で費用を分担する必要がある。」

ほとんどなんの違和感もないですね。

いやもちろん、大企業が中小企業を買い叩いているのに、中小企業がそこで働く労働者の納品価格だけを引き上げたら、

・・・廃業する中小企業が相当出てくる。・・・

と言いたいわけで、そこは筋は通っています。 

 

 

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コメント

> 価値生産性とは値段が高いこと

極端な例ではあるが、「50年前の10円のサービス」と「現在の10円のサービス」は価値生産性と言う意味で同じである、とまで言い切れば、その通りでしょうね。結局、適切に補正しなければ、あまり意味のない数値であるとは言えそうです。実際問題としては、「君は適性に補正した気になっているようだけど、違うんじゃないかな?」ということが頻出しそうです。「主婦による家事の価値生産性はほぼゼロである」と言ったら、怒り出す人がいそうですね。

価値生産性の話、例えば「ニートにニート業という名を付けて国が給料を払う」とか「ある物品やサービスの価格を国家権力で統制して強制的に上げる」みたいな政策を行えば、いくらでも上げれるわけで、そういう数値に意味があるとは思えない。

「今年は公務員の給料が10000円上がったから、公務の生産性が10000円上がった」と言われたら、理解に苦しむ。


>大企業が中小企業を買い叩いているのに、中小企業がそこで働く労働者の納品価格だけを引き上げたら、
>・・・廃業する中小企業が相当出てくる。

川下の最低賃金は統制されているけど、川上の価格は市場価格なので統制できない
川下から出ていく水量が増えたのに川上から流れる水量は増えるとは限らない=一部で川が枯れる(廃業)
だが廃業を防ぐために川上の価格も統制せよとなると統制経済になってしまう
最低賃金は統制価格、企業間または企業と消費者間の物品サービスの価格は自由価格、である以上、最賃アップによる廃業はゼロにならない。これはしょうがない。


>主語だけを入れ替えれば、まったく同じ構造でこうもいえます。
最低賃金が市場価格の例外なので、同じ構造が同じ理論に必ずしもならずに困っているわけですね

とりあえず、 SMILE \0 を否定することから始めてみたらどうですかね。

最近発出された千葉県弁護士会の最低賃金引上要望の会長声明においては,業務改善助成金について,生産性要件を撤廃して一律助成にすることを検討してみてはどうか,という提言が盛り込まれています。この種の提言の中では,少し踏み込んだものだと思います

https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/8873e6e323dfd9353fbb1675b3fdc53ed47c4738.pdf

これに限らず、雇用助成金における生産性要件については、4年前にこのように指摘しているのですが、なかなか世の中には広まってくれません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-0040.html
(雇用助成金における生産性要件@WEB労政時報)

・・・・上の式を見れば分かるように、ここで用いられている「生産性」の概念は基本的に物的な生産性ではなく、貨幣価値で評価された付加価値生産性のことです。分かりやすく言えば、“たくさん稼いだ企業が生産性が高い”という定義なので、それに対する報償という意味だとすると、雇用助成金の性格からして違和感があります。
 この点は上記11月4日の議事録で秋元委員が「この助成金を活用して生産性を高めた企業に対して、インセンティブを付与するということが目的とした場合には、生産性を高めた企業に対して、事後的に支払うことがインセンティブにつながると思います。しかし、この場合だと、そのようには受け取れない内容ではないか」と疑問を呈しています。
これに対して厚労省側は、「どちらかというと、生産性が高い企業については、その後も雇用の定着が図られやすいのではないかという考え方です」「今後のインセンティブとして、生産性を高めるということもないわけではないのですが、どちらかというと、生産性が高いところというのは、労働者の雇用の安定に資しやすいという考え方と思っています」と答えています。もっともらしいのですが、逆に言うと、たくさんもうかっている企業に対して、雇用が安定しているからといってより多くの助成金を流し込むということになり、助成金の設計思想として議論のあるところとも思われます。
 
 これまでも法令上に「生産性」という言葉が用いられることは少なくありませんでしたが、いずれも一般用語として“生産性向上のためにこれこれの施策を講ずる”というような規定であって、上記のような計算式に従って直接助成金の助成率や助成額を決定する要件として盛り込まれたのは今回の改正案が初めてではないかと思われます。世間で一般に認識されている生産性概念が、実のところ製造業の工場等で用いられている物的な生産性概念であることとの落差等も考えると、この規定の意味するところが国民にどこまで理解されることになるのか、いささか懸念も残るところです。

山形氏はバラッサ・サミュエルソン効果の話をしていて池田氏はそれを知らなかったというだけです。
hamachan先生の記述では、同じような仕事が先進国だと途上国よりずっと所得が高いことを説明できませんよね。高いから高いのだとしか言えないのだから。
そのメカニズムとしてのバラッサ・サミュエルソン効果を懇切丁寧に説明したのが山形氏。

そのバラッサ・サムエルソン効果というのは、サービスの生産性について論じているんですか。価格の話をしているんではないですか。
もちろん、上で述べたように、価値生産性とは要するに値段のことなので、突き詰めれば同じことでしょうけど、圧倒的に多くの人々はそういうことを全く考えずに、価格の話と生産性の話は全く別物だと思い込んで、おかしなサービスの生産性理論を口走っているんですから、そこを一歩進めてきちんと説明しなければ世の中のヒトには何のインパクトもないでしょう。

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