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« 労働組合の資格審査@『中央労働時報』6月号に大内伸哉さんのコメント | トップページ | キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊するAI・ビッグデータの罠』 »

2021年6月26日 (土)

資本が所有権を手放すとき

Borothstein 例によってソーシャル・ヨーロッパに昨日付で掲載されたボー・ロトスタインのエッセイです。

https://socialeurope.eu/when-capital-relinquishes-ownership

As the ownership of firms becomes transferred to algorithmically-controlled index funds, why not put their human employees in charge instead?

企業の所有権がアルゴリズムによってコントロールされたインデックスファンドに譲渡されていくなら、なぜその代わりに生身の被用者たちを担当させないのか?

かつてドラッカーが忍び寄る社会主義と呼んだ年金基金などの機関投資家がむしろ資本の論理の体現者となるという逆説をめぐる議論も半世紀以上の歴史のある論点ですが、ここでロトスタインが再度提起しているのは、その機関投資家がもはや生身の基金の担当者ですらなく、アルゴリズムによって自動的に売り買いするAIになりつつある時代における資本主義論です。

・・・Given existing trends, there are strong reasons to believe that the share of capital on the world’s stock exchanges held by index funds will continue to increase. But what will this increasing percentage of ‘headless’ ownership mean for our businesses and society at large?

One thing is clear: if nothing is done, given increasingly weak and uninterested owners, financial rewards for the business-leadership layer can only become more astronomical. They will have no strong counterweight of active owners against such rent-seeking..

今までの趨勢を前提とすれば、世界の株式市場におけるインデックスファンドによる資本のシェアは増え続けるであろう。しかし、この「首無し」の所有権の割合増大はビジネスや社会全体にとって何を意味するのか?

一つのことは明らかだ。もし何もなされないならば、ますます増大する弱く無関心な所有者を前提とすれば、ビジネスリーダーシップへの金銭的報酬はより天文学的になるだけだろう。かかるレントシーキングに対して釣り合いをとれるようなアクティブな所有者は存在しない。

そこで、ソーシャル・ヨーロッパの常連寄稿者のロトスタインが持ち出すのは労働者です。

So if capital is increasingly abdicating de facto from governing companies, who will govern them? One possibility, of course, is their employees. 

そこで、もし資本が次第に事実上会社の支配権を放棄していくのであれば、誰がそれを支配すべきだろうか?一つの可能性はもちろんその被用者である。

最後の2パラグラフは、この問題に消極的な労働組合に対するいら立ちも見せています。

Index funds, increasingly in the ascendancy in modern economies, serve as lessors of capital to companies. The corporate-governance vacuum they reveal provides an opening to advance the conversation about the genuine democratisation of working life. The best candidate for stepping into that vacuum is the force of those who are actually governed day to day in our business enterprises—the white- and blue-collar employees in the workplace. 

Trade unions have been strangely ambivalent about taking on this challenge to date. New civil-society organisations which glimpse the potential of a more substantial economic democracy should also enter this conversation on the side of employees and help make it happen.

現代経済においてますます日の出の勢いのインデックスファンドは会社に対する資本の賃貸人にすぎない。彼らが露呈したコーポレートガバナンスの真空は労働生活の真の民主化についての議論への道を開けるものである。この真空に踏み込むべき最良の候補者は日々企業の運営に携わっている者たち、すなわち職場のホワイトカラー、ブルーカラーの被用者たちの力である。

労働組合は今日までこの挑戦に対して語ることに奇妙にアンビバレントであった。より実質的な経済民主主義の潜在力を垣間見る新たな市民社会団体も被用者側に立ってこの議論に加わり、進めるべきだろう。

 

 

 

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コメント

間接金融から直接金融へという流れの中で行われた近年の金融システム改革、企業ガバナンス改革においては、市場による企業の統制、株主統治の実質化がお題目でありました。

しかし、実際のところ「ますます増大する弱く無関心な所有者」には企業統治など期待できず、一部のファンドと経営層との間での企業収益の分捕りあい(山分け?)が横行しているのが実態ですね。

ここで被用者、労働組合、市民社会による企業統治という、かつての企業の社会化の議論が復活するのは理路としては必然的ではあります。

しかしそれをいうなら、かつての日本的経営がそれをある程度実現していたという事実も無視できません。まあ、東芝に見られるように、存続が危ぶまれる事態となっていますが。

欧米においては歴史的文脈から労働組合や市民社会のプレゼンスの向上という方向にいくでしょうが、日本ではどうだろうか。さりとて日本型雇用が崩壊しつつあるなかで、従業員の統治する会社共同体にリアリティがなくなりつつあるのも事実でしょう。

正直なところ、かつての財閥の復活というのも日本ではありうるかなあと予想するところです。

その話は、終刊直前の『HRmics』36号に書いた帰ってきた「原典回帰」の『企業民主化試案』ですね、

戦後日本の出発点はまさにそういう「この真空に踏み込むべき最良の候補者は日々企業の運営に携わっている者たち、すなわち職場のホワイトカラー、ブルーカラーの被用者たちの力」であったわけです。

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 これまでは英米独仏といった先進諸国の労働関係名著が中心でしたが、今回からはもっぱら日本の本を取り上げていきます。その意味では、連載第14回であるとともに、新装開店第1回でもあります。前回までの連載をもとに、海老原さんの責任編集でちくま新書から『働き方改革の世界史』を9月に刊行しますが、これからの連載記事を将来的にその日本編にしていこうという腹積もりもあります。厳密にいうと、連載第11回で藤林敬三『労使関係と労使協議制』をフライング的に取り上げてしまったので、今回は日本の労働関係名著第2回目ということになりますが、まあその辺は大目に見てください。
 
1 労働攻勢の中の三等重役たち
 
 さて、その新装開店の第1回目に取り上げるのは、終戦直後の1947年に刊行された経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案』です。経済同友会という団体は今日も存在しており、経団連とは一味違った立場からいろいろと提言活動を行っていますが、もともとは、終戦直後の激動の中で、若手経営者たちの自発的な集まりとして出発した団体です。その背景事情からみていきましょう。
 敗戦とともに労働運動は解放、助成され、労働組合は燎原の火のように広がりました。しかしながら、その労働組合は産業別でもなければ職業別でもなく、企業ごとにホワイトカラー職員とブルーカラー労働者を包含した組織として誕生したのです。これらの特性は戦時中の産業報国会が持っていたものでした。戦後の企業別組合は、いわば産業報国会の主導権を労働運動が握る形で形成されたと言えます。
 この頃、労働争議戦術として生産管理闘争が注目されました。生産管理とは、労働組合が経営者に代わって生産を再開し、自主的に生産業務を管理するものです。思想的には戦前の自主的工場委員会に連なるものと言えますが、背景としては企業が生産サボタージュを行っているため、ストライキが有効な争議戦術とならなかったことがあります。経営者に代わって労働組合が戦後の生産復興に当たるのだという誇りもあったようです。なによりも、ごく少数の経営幹部を除き、経営実務に当たってきたホワイトカラー職員がこぞって労働組合に参加したため、生産管理が現実に可能となったことが重要でしょう。その意味で、これは過激な形態の経営参加の試みであったとも言えます。
 一方、恒常的な経営参加のメカニズムとして、多くの労働組合は労働協約により経営協議会を設立し、労働条件のみならず、人事、経理や経営方針まで協議の対象としていきました。1946年には政府の諮問により中労委が「経営協議会指針」を答申し、労働組合の半数近くが経営協議会を設置していました。
 これに対し、労働運動に肩入れしていたGHQは、戦争に協力してきた経営者には大変厳しい姿勢で、財閥解体で大企業を分割したうえに、財界人の公職追放で経営陣の相当数をその職からパージしたのです。その結果、どの会社でも社長以下重役連は追放され、代わって上級管理職、場合によっては中級管理職だったようなホワイトカラー職員たちが、空いた重役ポストにはめ込まれたのです。彼らを人呼んで三等重役と言いました。ちなみに、源氏鶏太のその名も『三等重役』(新潮文庫)という小説では、社長が公職追放されたため総務部長から社長になってしまった主人公の桑原が浦島人事課長とともに社内の事件を解決していきますが、似たような状況は当時の日本のあちこちに見られたのでしょう。
 まさにそういう三等重役たちが結成したのが、話は戻りますが経済同友会だったのです。その設立趣意書では、自分たちを「中堅経済人」と称しています。戦前来の資本家たる経営者とは異なり、経営管理という技能でもって企業に貢献する大学卒のホワイトカラー職員という自己イメージを持った人々が、敗戦という社会の激変の中で経営者という立場に置かれたときに、彼らがどういうイデオロギーを発信することになったのか、それが今回紹介するこの本を理解するうえで不可欠な歴史認識です。
 この敗戦直後の時期は、激しく対立しぶつかり合っている労働組合と経営側の両方ともにおいて、(ブルーカラー労働者と資本家という)戦前来の主力選手がやや後方に退き、どちらもホワイトカラー職員がその知識と能力を振り絞って活躍していた時代だったのです。
 
2 企業民主化とは何か?
 
 本書の著者名は経済同友会企業民主化研究会です。経済同友会の名で出そうとしたけれども、さすがにあまりにも急進的なその内容に経済同友会の中でも反発が強く、あくまでも大塚万丈を委員長とする企業民主化研究会の意見だということで世に出されたものです。この実質的な著者である大塚万丈とはどういう人物なのでしょうか。彼は東京帝国大学法学部(岸信介の同期)を卒業後、朝鮮銀行、大阪野村銀行、理化学研究所を経て、日本製鉄で総務局長を務め、戦後日本特殊鋼管の社長となり、経済同友会の設立に参加しました。彼は特に企業の在り方を抜本的に民主化すべきだという信念から、1947年3月には大塚試案を関東経営者協会の機関誌『経営者』に発表し、その後企業民主化研究会で議論を重ね、同年11月に本書を刊行するに至ったのです。
 前述したように、当時の日本では労働組合との労働協約により企業内に経営協議会が設置され、様々な経営事項まで労働組合が関与するという状況でした。それを経営者として排除すべき間違った状態と認識するのではなく、むしろ企業をあるべき姿に変えていくための梃子にしようというのが、大塚万丈の発想の基本線になります。本書では「株式企業の民主化は経営協議会制度を中核として行ふより外はないといふことは略々今日における定説となつているものと考へてよいであらう、この意味においては、株式企業の民主化の問題は即ち経営協議会の問題に外ならないといつても過言ではあるまい」と、まるで定説を引っ張っているだけのような書き方をしていますが、何をおっしゃるうさぎさん、大塚の持論そのものでしょう。
 しかし、現在(当時)の経営協議会のままではだめです。なぜなら、「現在各企業において設けられてゐる経営協議会が何等法的根拠を持つてゐないことは固より、その根本的の性格、即ち例へば決議機関たらしむべきか諮問機関たらしむべきか、それとも単なる協議機関たらしむべきか、といふ問題の如きも未だ政府によつて権威ある決定が下されてゐない有様であつて・・・総べての問題は今後に持越されてゐる」からです。
 大塚がこの問題の導きの糸とするのは、ジェームズ・バーナムの経営者革命論です。バーナムは元トロツキストですが、共産主義理論から離れ、経営者階級が資本家階級に代わって経済の支配者となるという歴史観を確立しました。彼の『経営者革命』は1941年に原著が出てから1944年(戦争末期)に邦訳が出て、大塚ら当時の管理職に読まれたようです。大塚は、経営協議会が「正しい軌道に乗つて発展するや否やを決定するに当つての鍵は企業自体の構造に潜んでゐる」、「端的にいへば資本と経営との分離なくして、真の意味における経営協議会はありえない」とまで言います。彼の考える資本と経営の分離とはどういうことでしょうか。「資本家と雖も自らの資本を防衛することはこれを認められねばならない」が、「唯許し難いのは資本家がその一方的意思によつて、社会的生産の場たる企業を利潤追求の場たらしめることである」という言い方から滲み出てくるのは、自らの利益のために生産をサボる資本家の手から経営権を奪い、労働組合自らが生産活動に携わる生産管理闘争のロジックとの著しい類似性です。
 では、具体的な資本と経営の分離の方式はどういうものか。まず第一次的に打ち出されるのは、資本家を経営機能から排除し、「企業における執行機関を専ら経営専門家のみによつて構成せしめ、監査機関を資本家によつて構成せしめるといふ行き方」であり、「今日の株式企業における取締役の地位には資本家即ち株主がその任に就くことを禁じ、株主に非る経営専門家即ち言葉の純粋の意味における経営者をしてこれに当らしめ、株主は専ら監査役として監査の立場に立つ」べきというものです。
 とすれば、その経営者の選任が株主の意思のみに委ねられてはなりません。「資本と経営の分離に伴ひ、今日の所謂取締役の選任権を株主総会より取り去り」「これを経営協議会に移すといふことが当然考へられて然るべき」となります。そして、労働者と経営者からなる経営協議会に株主も参加すれば、「ここに始めて資本・労働・経営三者の鼎立となり、・・・これによつて始めて三者の間に相互牽制作用が成立する」ことになります。つまり、「労働者側の要求が過激に趨り、または階級的功利に堕して企業の基礎を危ふくする場合には、経営者と資本家とは一致してこれを阻むであらうし、他方資本家が監査権を濫用して企業を純然たる営利の具たらしめやうとする場合には経営者と労働者とが一致してこれを阻み得るであらう。更にまた経営者が労働者の福祉を無視し、資本家の立場を無視して独善的の経営に趨り、或はまた、企業を以て経営者階級の勢力拡大の具たらしめんとする場合には、資本家と労働者とが足並みを揃へてこれを防ぎ得るであらう」というわけです。この資本・労働・経営三者の相互牽制システムという発想は、世界中見渡しても他に類を見ない独自の発想です。
 
3 企業共同有原則
 
 とはいえ、明治時代に作られた商法(会社法)は明確に会社を社員たる株主の所有と定めています。大塚はこの資本主義社会の大原則をもひっくり返そうとします。単に言葉の上だけではなく、法律の裏付けをもって企業を資本・労働・経営三者の協同体としようというのです。曰く「企業共同有原則」。その論ずるところを聞きましょう。
「資本主義企業の本質的欠陥は労働が本源的生産要素であるにも拘らず、資本のみが企業の所有者であり、従つて生産の果実即ち企業利潤が資本家によつて独占せられるといふ点に存する。これは何といつても資本主義企業の致命的欠陥であつて、資本主義が社会主義の攻勢に押されて既に危殆に瀕してゐるのは、むしろ当然といはなければならない。・・・しかし資本主義のアンチ・テーゼとしての社会主義には、資本主義の欠陥はないが、長所も亦失はれてゐる。・・・従つてわれわれが社会主義に転換しても、産業の停滞を防ぎ企業の能率を高めるためには、結局中間線迄戻つて来なければならないとすれば、このやうな遠廻りの愚を避け、むしろ資本主義を修正して中間線に持つて行く方が遙かに賢明ではないか。」
 こういう発想に基づいて、企業を経営・資本・労働三者によって構成される協同体とし、法律的には企業財産を三者の共同運営する企業体たる法人の所有とすると、生産活動の成果である企業利潤も経営・資本・労働の三者に配分されるべきものとなります。そして株主も経営者・労働者も同様に最低保障の権利を持つことになります。株主の最低保障ですって?資本主義の原則からすれば、株主は利潤のすべてを取得する権利がある一方、儲からなければ何も得られないのですが、「株主は最早従来の如き意味における企業の主人公ではなく、企業構成分子の一員として、経営者が経営を提供し、労働者が労働力を提供すると同じ意味において、資本を提供するのであり、従つて利潤の挙つた場合はこれを右三者間で平等原則に従ひ分配しなければならないのであるから、企業としてもこの資本に対して金利に相当する代償を支払はねばならない」というのです。こうして株主は業況の如何にかかわらず金利相当を保障され、これを「基本配当」と呼びますが、これはもはや「配当」の名に値するものではなく、借入金に対する利子と変わりません。つまり、ここで提起されているのは、自己資本の他人資本化というべきでしょう。株主はもはや会社の社員ではなく、一債権者に過ぎないのです。
 この株主の最低保障と同格で経営及び労働に対する最低保障が論じられます。「企業が経・労・資三者の協同体となれば、それは当然株主に対して金利を保障する一方、経営者及び労働者に対してはその生活を保障しなければならないことは自明の理であらう」と。かくして、「原則として企業成績の如何に拘らず経営者及び労働者に対してはその生活を維持するに足る給与を、また株主に対しては金利に相当する基本配当を保証する」という形で、経・労・資三者の協同体たる企業の性格が示されることになるのです。
 それを超える部分、企業利潤をこの三者の間でどのように配分するのかは、経営協議会を改組して創設されるべき企業総会の役割です。この企業総会とは何者でしょうか?
 
4 最高意思決定機関としての企業総会
 
 企業総会とは、経営協議会に株主も参加させて、経・労・資の三者から構成される企業の最高意思決定機関たらしめようというものです。企業総会の権限としては、企業代表者(首席取締役)及びその他の取締役の任免、企業目的の決定及びその変更又は追加、基本的な経営方針の策定等々が挙げられ、またその構成はどんな場合でも三者同数とされています。ただし、「議長は首席取締役がこれに当り、外部に対して企業を代表する」と書かれているので、三者平等といいながら経営優位が暗黙裏に前提されているようです。
 三者構成の企業総会が企業の最高意思決定機関になるということは、これまでその地位にあった株主総会が降格し、企業総会の下部機関として、企業総会への株主代表と監査役を選任し、その報告を聞くというだけの役割に縮減されるということを意味します。そして、株主総会と同格において、労働者総会と経営者総会を創設し、企業総会への労働者代表と経営者代表を選任するとされています。
 ここで、労働者総会と労働組合の関係という問題が出てきます。当初の大塚案は労働組合をもって労働者代表の選任母体とするというものでしたが、一企業内に二つ以上の労働組合がある場合や、労働組合に加入していない労働者がある場合には、労働組合を労働者代表の選任母体とできないという異論があり、労働組合とは別個に労働者総会を設けることとしたのです。しかしこれに対しては、「労働陣営より労働組合を弱化せしめやうとするものといふ誤解を受くる惧れ」が指摘され、「但し労働者の総意により、労働組合を以て労働者総会に代ふることを得る」と付記されています。この問題は、企業民主化試案が完全に忘れられた今日においても、従業員代表制と労働組合の関係如何という形で議論の争点であり続けています。
 経・労・資三者平等ということから、株主総会、労働者総会と並んで経営者総会というのも提示されていますが、その経営者というのが企業総会で選任される取締役のことなのか、その母体である経営技能者(管理職)のことなのか、いささか理路が不分明な感があります。ただ、ここはあまり本質的なところではないのでしょう。
 
5 労働組合の位置づけ
 
 企業民主化試案とはもちろん、株主のみの所有物であるという建前であった企業を経営・労働・資本三者の共同有と位置づけるものですが、そうすると、これまで企業にとっては外部の第三者でしかなかった労働者が企業の主体的要素としても位置づけられるということになります。上でもちらりと触れましたが、企業の主体の一つとしての労働者と、企業に外部から労働力を売る労働者とをどのように位置づけるのかという問題が、労働者総会と労働組合の関係如何という形で浮かび上がってくるのです。
「元来労働組合成立の根拠は、資本と労働とが雇傭者と被雇傭者との関係に立つところに存するのであるから、本会の構想の如く、労働も資本及び経営と相並んで企業の主人公たるの地位を占めることとなれば、労働組合そのものゝ性格も亦趣きを異にして来る訳である。しかし上述の企業体制においても労働は一面において企業の主体たる地位を占め乍らも、他の一面においては依然として企業に対して雇傭関係に立つものであるから、この後者の面に関する限り、労働組合は依然として成立の根拠を持つものといはなければならない」と、とりあえずは整理することができますが、しかし両者をそう簡単に区別しがたいのもまた事実です。
 なるほど、労働組合は「主として雇傭関係の面を根拠として依然存続するもの」ですが、「しかし一面労働者は企業における主体としての地位を占めるに至つてゐる」のですから、「その機能には当然変化が出て来なければならない」のです。つまり、「在来の労働組合が企業経営の外側に立つて労働者の利益を擁護するといふ建前のものであつたに対し、新企業体制においては、企業経営の内部に入つてその効率を高めることによつてその利益を増進するといふ積極的のものとなる」のであり、大塚はこれを「労働組合の進歩」と呼ぶのです。
 労働組合の進歩!確かに、企業の外部に追いやられている状態を是正すべき姿ととらえ、その内部化、企業を構成する主体となることをより望ましい姿ととらえるならば、それは間違いなく「進歩」と言いうるでしょう。しかし、労働者は本来企業の外部に立ってその労働力を売る誇り高い販売業者であると考えるなら、それは「進歩」どころか「退歩」と言わなければならないでしょう。それは、とりわけストライキ、同盟罷業という労働力販売業者の集団的売り止めをどう評価するかという点に表出します。この問題についての記述を引用しておきましょう。その逡巡の痕も含めて熟読してください。
「しからば罷業権はどうなるか?これに関しては本会においては罷業権そのものを全く認むべからずとする意見は出ず、直接雇傭関係に関する事項に就ては当然罷業権を認めねばならないといふ点においては全く一致を見たのであるが、唯企業総会の決定に対して労働側が罷業を以てこれに対抗するといふことに関しては、原則的に疑義ありとする見解が尠くなかつた。蓋し企業総会の決定には労働の意思が織り込まれてをり、即ち労働が自らこの決定を行つたものであるから、決定者自ら自己の決定を覆へすためには罷業権を行使するといふことは、民主主義の原則に違背するとなすのである。」
 しかしこれに対しては、「雇傭条件の決定は企業総会の権限に属せずとしても、企業総会は企業にとつて重大な影響を持つ事項には参画し得るのであるから、雇傭条件の決定がもつれて労働争議といふことに迄発展すれば、企業総会は当然これを取り上げなければならなくなる。それでなければ企業総会は存立の意味をなさない。そしてこの場合問題が企業総会にかけられ、そして労働側の要求が多数決で破れた場合、民主主義の原則を何処迄も押して、一度成立した企業総会の意思には当然労働側の意思も含まれてゐるといふ法理論によつて、罷業権を否認することが果して妥当であらうか?実際問題としてそれでは労働側が納らず、必ずや罷業が起る」という批判がなされます。
 本書はこの点に理論的に決着をつけておらず、企業が民主化されれば罷業権を認めたとしても実際にそれが行使されることは著しく少なくなるだろうという議論で逃げています。「先ず資本と経営とが分離して経営者が資本の意思に拘束されることなしに経営方針を立案し、しかして労働側も始めからこれに参画するのであるから、尠くとも労働側が当該企業の経営と直接の関係を持たない政治的意向によつて動かされない限り、大概のことには納得が行く筈であり、従つてよくよくの場合でない限り、罷業権の行使迄には至らないであらう。労働争議は多くの場合労働側が始めから何等参画してゐない事項に関して、唯結果だけを突きつけられることから生ずるものだからである。従つてこの点からいへば、企業が本会の構想する如き協同体となれば、罷業権は認めずともよいといふことになるのであつて、・・・要するにこの構想においては罷業が著しく減少することは事実であり、従つて罷業権を認むるといふことも一応最後の安全弁を残して置くといふ趣旨のものに過ぎないのである」と。
 
6 企業民主化試案は戦後日本社会の設計図か?
 
 ここまで『企業民主化試案』と題された70年以上も前の本の中身を紹介してきました。前述したように、そのあまりの急進さゆえに、経済同友会の名で刊行することもできず、あくまで大塚万丈を始めとする経済同友会企業民主化研究会の意見として出すしかなかったものですし、大塚自身がその直後の1950年に死去したこともあり、その後はほとんど忘れ去られ、議論にのぼせられることもなく推移してきました。もし連綿と切れ間なく読み継がれてきた本を古典と呼ぶのであれば、本書はいかなる意味でも古典の名に値しません。大きな図書館の閉架書庫の奥の、誰もそこまで入ってこないような埃だらけの一角にひっそりと眠っている膨大なロングテールの一冊に過ぎません。
 しかしながら、刊行物としては長らく忘れられてきたものであっても、そこに書かれた思想という観点で見れば、ある意味で戦後日本社会の根本思想を打ち立てたものということもできるかもしれません。いや、本書が提起した法律面における会社のあり方については、明治時代に作られた民法や商法の基本構造は何ら変わりませんでした。戦後75年間、会社とはそのメンバーである株主の所有物であり、経営者とは株主の代理人として利潤の最大化に挺身すべきものであり、労働者とは会社の外部の第三者であって、雇用契約によって労働を提供し報酬を受け取る債権債務関係にあるに過ぎません。累次の労働法もこの基本構造を何ら変えるものでないということは、拙著『日本の雇用と労働法』(日経文庫)で口が酸っぱくなるほど説明したところです。
 でも、私が同書でなぜ口が酸っぱくなるほどそれを説明しなければならなかったのかといえば、世の中の圧倒的に多くの人々が、そういう実定法の建前を全く認識せず、労働者こそが会社のメンバーであり(私のいう「メンバーシップ型」)、株主こそ会社にとって外部の第三者だと思い込んでいたからでした。そう。『経営民主化試案』という本は忘れられても、そのイデオロギーはすべての日本人の頭の中を支配するミームとなったのです。
 会社法上は戦後一貫して株主総会こそが会社の最高意思決定機関でしたが、現実の日本社会においては、株主総会というのは余計な文句を言わせずにしゃんしゃんで済ませるべきものであり、そのためには総会屋という私的暴力装置を使ってうるさい株主を黙らせることが暗黙の規範となっていました。一方で、何ら法律上の根拠規定のないまま、労働者は「企業における主体としての地位を占めるに至」ります。株主には常に保障される基本配当などない一方で、労働者には利潤分配的性格のボーナスが拡大していきます。こういう姿を見て、1987年に経営学者の伊丹敬之が唱えたのが「人本主義企業」という概念でしたが、そのミームは実は終戦直後の大塚万丈に淵源していたのです。
 そして、前項で見た労働組合の位置づけこそが、大塚構想に近い形で企業のインサイダーになってしまった日本の企業別組合の置かれた苦衷を予言するものになっていることも見逃せません。現実の企業が資本家の支配するものであり、労働者の利益を重視しないものである限り、猛烈な闘争を繰り広げていた労働組合も、その企業が株主なんかよりも労働者の利益を重視するようになると、振り上げた拳の落としどころを失います。そう、理屈の上では逃げの議論に過ぎなかったとはいえ、「よくよくの場合でない限り、罷業権の行使迄には至らないであらう」とはその後の日本社会の姿そのものであり、憲法や労働組合法に労働争議の権利が明記されていても、それは「罷業権を認むるといふことも一応最後の安全弁を残して置くといふ趣旨のものに過ぎない」ものとなっているのです。
 ここまで見てくると、『企業民主化試案』こそ戦後日本社会の設計図であったといえるのではないでしょうか。   

> ヨーロッパの常連寄稿者のロトスタインが持ち出すのは労働者です。

逆に言うと、(英米は言うに及ばず、ヨーロッパですら)
「株主=所有者」が一般的ということですけどね。まあ、
当たり前の話ではありますが

アルゴリズムの使用が好成績に結びつかないのであれば、
アルゴリズムの使用は縮小するでしょう

一方、好成績に結びつく場合の問題なんですけど、一見、
あまり定かではないようには思われます

アルゴリズムとは違って、生身の投資家は自制心が強く
働いていたなんてこともなさそうですし

> 筆者と伊藤レポートの立場の違いは、企業統治における株主の絶対的支配が国民経済に豊かさをもたらすとは筆者は思わない、という一点である。
https://toyokeizai.net/articles/-/436207

それはそうだとしても、個人の権利を守るために国益の追求を制限すること(立憲主義)も重要でしょう
それにしても、株主が物を「言うこと」がよろしくないと言ったり、「言わないこと」がよろしくないと言ったり、何だか、忙しいですね

> レントシーキングに対して釣り合いをとれるようなアクティブな所有者は存在しない。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-e4462e.html

自営業者だって「自分で全てを回せないから、他人を雇ったりもする」だろうし、また、仮に労働者が企業の所有者であるなら、それは労働協同組合のようなものでしょうし、株式市場での売買はアルゴリズムに任せて、株主は物を言うことに専念しようみたいなことも考えられるかもしれませんね

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