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2021年6月21日 (月)

「ジョブ型」賛美の裏で真実隠す――労働や賃金の概念ない濱口桂一郎@労働の解放をめざす労働者党

Marxdoushikai2016_60 労働の解放をめざす労働者党さんから、「労働や賃金の概念ない」輩であるとの御批判をいただきました。大変膨大かつ微に入り細にわたっているのですが、要するにマルクス経済学のイロハのイもわきまえない奴だというお叱りのようであります。それは最初からそういう奴ばらだと言っているはずですが。

http://blog.livedoor.jp/marxdoushikai2016/(「ジョブ型」賛美の裏で真実隠す――労働や賃金の概念ない濱口桂一郎)

「異なる労働異なる賃金」が最上の原理と

労働と労働力の区別を知らない濱口

賃金とは「労働の価値」ではない

労働力の価値規定は「メンバーシップ」のみならず、ジョブ型雇用にも当てはまる

非正規労働も女性差別も資本の本性から発生

いやもちろん、マルクス経済学の方々が労働と労働力を区別しており、それに基づいて労働力の価値は女房子供も含めた生活費だからと年功賃金を正当化してきたことも、歴史的事実としては知っています。その理屈に全然納得できていないだけで。

ただまあ、確かにマルクス経済学の観点からすれば、私がマル経流の「労働や賃金の概念ない」輩であるというのは間違いのないところなのでしょうから、そもそも全然異なる土俵の上の議論にあれこれコメントする必要もないでしょう。その点は仰るとおり。

私にとって関心があるのは、経済理論のあれこれが正しいとか間違っているといった神学的議論ではなく、それが具体的なさまざまな労働者の賃金形態にどのように影響してきたのか、そして日本の労働社会をどのように作り上げてきたのか、という点にしかないものですから。

そういう観点からすれば、マルクス経済理論によってどれほど山のように論証されようが、それは下のエントリで取り上げた「昭和感覚の減税主義者たち」と何一つ選ぶところはないように思われます。

あと、資本の本性というのは特定の労働力だけかわいがってそれ以外の労働力を搾取するなんていうチンケなものではなく、あらゆる労働力を無慈悲に無差別に搾取することにあると思いますよ。それこそ、マルクス御大がのたまわっているじゃないですか。資本主義こそ偉大なレヴェラーである、と。

(追記)

https://twitter.com/rodousyatou/status/1409353064213929990

Pddz_jr1_400x400 下記の労働者党のブログに対して濱口氏が返信をしているよう(ブログサーファーが連絡してくれた)。
だが、まともな反論になっていなく、自己弁護しているとか。  (w)

自己弁護もクソも、そもそも当方はマルクス経済学の労働の価値か労働力の価値かという議論には、それが現実社会にいかなる影響を与えたかという素材としての観点以外にはなんら関心を持っていないので、もっぱらそこにのみ関心をお持ちの方にとっての意味ある「反論」であるはずがないのですが。

ていうか、プロテスタンティズムが資本主義を生み出したか否かを論じている社会学者に対して、「そもそもお前は予定説を認めるのか認めないのか」「お前は聖書をどう読むのか」と詰め寄られても、そんなことには関心はないとしか答えようがないでしょう。

 

 

 

 

 

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コメント

労働の解放をめざす労働者党さんのブログ
>雇用とは、資本が労働者自体を買上げることでも、労働を丸ごと買うことでもない。資本が労働者を買上げて自由に労働を発揮させるなら奴隷売買を契機とし、労働を丸ごと買いその対価として賃金を支払うというなら、資本(個別資本として、総資本として)は1円たりとも利潤(剰余価値)を得ることができない。また労働が商品であるというなら、この商品の使用価値と価値を科学的に説明することはできないであろう。
従って雇用とは、資本が原材料などの一般商品の購入と同様に労働者の労働力を購入することである。反対に労働者は労働力を売り、一時的に労働力の処分権を売った相手に手放すのである。

こういうことをいまだに大真面目に書く人がいるんですね。関心しました。

「科学的」という言葉の使い方にシビレルぅ!
そして私は主流派経済学者がいう「経済学的に考えれば」という言葉にその残響を感じずにはいられません。

しかしこの議論、ロジックをまともに受け取ると結局労働者は奴隷と同様に労働力を丸ごと買われるのだから生活給を保障せよ、自分たちは自由な労働者ではなく奴隷なのだからと居直っているようにしか読めませんね。まあ、私は特殊日本的なマルクス経済学の文脈には疎いのですが、書いてる当人も半ば気付いているのか、そこらへんを何とかごまかそうとしている気配がありますね。

マルクスの賃金奴隷制という概念はそれなりに資本主義の本質を突いており、無意義なものとは言えませんが、マルクスが想定していた西欧とは背景とする社会構造が異なる、戦後日本的な生活給にそれを当てはめて正当化しようというのはやはり無理があるのでしょうね。


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