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2021年5月16日 (日)

日本型雇用とマルクス

31bfqedepsl_sx311_bo1204203200_ 拙著『働く女子の運命』について、宮林謙吉さんがこういう感想を呟いておられるのですが、

https://twitter.com/KenkichiM/status/1393559168359931904

日本で、健全な男女共同参画が進まないのと、外国人技能実習生たちが不適切な待遇を強いられることが多いのは、根っこが同じだなあ、と濱口桂一郎著「働く女子の運命」(文春新書)を読むと、つくづく思います。
雇用が「そのジョブのために雇う」のではなくて「(社員という名の)メンバーシップに給料を払う」形式になっていて、女性とか外国人をメンバーから外すことに矛盾や痛みを感じない文化なのですね。
昭和のはじめに、戦争に向け挙国一致体制を組むとき、「そのジョブのために雇う」というロジックはマルクスの労働価値説を具現化するもの=共産主義を正当化するものと見なされて敵視され、「労働は臣民の義務」とする指導原理の政策が実行されたところに源流があるようです。
昭和のはじめから今日まで続いているものだとすると100年近く継続してきた慣例だから、それを撤廃しようとするとそれ相応の労力と時間がいるだろうと思いました。 

この認識自体はそうなんですが、日本型雇用とマルクス主義との関係はもう少し複雑です。確かに、第一次大戦後、思想悪化(共産主義化)を防ぐことを目的として生活給が提唱され、戦時体制下で皇国勤労観として一般化したのですが、それを戦後維持強化したのは労働組合運動であり、それをイデオロギー的に支えたのもまた、マルクス経済学の同一労働力同一賃金理論であったのですから、そのあたりの経緯も同書にはかなり詳しく述べています。

こういう日本型雇用を断固擁護し、欧米の労働運動がその上に立脚しているジョブ型を敵視するという点では、いわゆる新左翼諸党派も何の変りもないようで、「労働の解放を目指す労働者党」の機関紙『海つばめ』(かつて拙著への書評が載ったこともありますが)ではごく最近もこういう論調を掲げていますね。

http://wpll-j.org/japan/petrel/1401.html

Msp1 他方、ジョブ型雇用によって、職種別・産別による労働組合への再編が可能になり、賃上げ闘争が有利になり、高賃金獲得によって「資本の私的労働としての性格を緩和させる」かに幻想を煽る学者がいる。こうした学者に賛同する労組もあるようだが、こんな姿勢では、大企業や政府が繰り出してくる労働者攻撃と闘えない。
 さらにまた、ジョブ型雇用により同一職種内の賃金差別が解消されうるかに言うが、それでは別職種や別職務との賃金格差や差別を容認するのか。つまり彼らは、職種や職務の違いによる「労働力の価値」の大きさの違いはやむを得ないとするのである。
 労働者の賃金は、労働力を再生産するために必要な労働時間であり、この労働時間は労働者が生活し再び労働できるために必要な消費手段(衣食住)を生産する労働時間とされる。従って、この賃金に含まれる労働時間は、労働者が企業(資本)のもとで実際に行う総労働ではない。賃金は総労働の半分以下であり、半分以上を企業(資本)によって搾取されている。
 こうした搾取された労働の残りを賃金として分配されるから、資本主義が成り立ち、企業は莫大な利潤(営業利益)を生み出すことができる。
 ところが、ジョブ型雇用を歓迎する学者(や労組)は、「労働力の価値」規定の中に専門的な技術・学問を身に着けるための教育費や養成費を含めることを容認するし、せざるを得ない。
 なぜなら、職種や職務が違うならば、高度な技術・学問の教育費や養成費があることを認め、「労働力の価値」は違う(複雑労働力の価値は単純労働力の価値より大きい)ことを肯定するからである。
 つまり彼らは自覚していないかも知れないが、結果的には、高級労働者や管理職者の利益を代弁する。こうして「労働力の価値」に基づく賃金は、ずっと昔から、職種別賃金とか職務給重視の賃金理論として、また安倍や菅らの「同一労働同一賃金」にも通じるブルジョア的な理屈の基礎となってきた。
 しかしである。我々労働者は、将来の「労働の解放された」社会では、子供の養育や教育費、さらに高度な技術を習熟する労働育成費などは社会化され、個人的な負担の違いが一掃されることを知っている。
 従って、この社会では、「労働力の価値」に基づく分配の必要はなく、人々は社会的生産に参加した「労働時間」に応じて、労働生産物を自由に手にすることが出来るのであり、それゆえに、資本主義のもとでは当然とされる搾取と賃金差別は一掃されるのである。
 こうした「労働の解放された」社会を目指して闘うことが、今や全ての労働者にとって一番重要なことである。メーデーに当り、このことを強調する。   

こうして、ジョブ型を敵視する新左翼の方々は、(今やだれも信じていない遠い将来の夢まぼろしのポエムを看板に掲げつつ)現実に目前にある企業のヒト基準の賃金制度に対して、同一労働同一賃金すなわち異なる労働異なる賃金の原理を否定し、子供の養育費や教育費を、賃金として企業に支払わせるメンバーシップ型の断固たる擁護者として立ち現れることとなるわけです。

 

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コメント

濱口さんが紹介されている新左翼グループは系譜的には確かに新左翼ですが、主張としてはラディカリズムを著しく欠いているという点でニューレフトというよりもオールドレフトに近いところがあります。しかしそれはさておくとしてもこの主張、改めて読むとすごいですね。すでにこのグループも高齢化著しく、労働の解放を目指さなくともメンバーほとんどが定年退職などで労働から解放されてしまっていることを皮肉ってしまいたいところですが、それよりもこのグループを構成していた活動家が基本的に公務関係で働いている、特に郵政や教員だったところにもこういう主張が出てくる背景があったのではないか、と感じました。恵まれた環境で働くことができていた人たちはシビアな現状認識よりも空想の世界で原則的な左翼たることを目指すほうが重要だったのでしょう。

ツイッターに労働者党の濱口さん批判が(最新分)

https://twitter.com/rodousyatou/status/1398106060016144384

>濱口氏については、2009年の『海つばめ』で彼の新書本を取り上げたことがあった。この時には、日本
>の労働政策(システム)の矛盾を突いていると評している。しかし、退廃し限界が露わになった資本主義
>的生産様式を護持し、一つの労働政策で労働者も資本も救済できると考えるなら、明らかに間違い。 (w)

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