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2021年5月

2021年5月31日 (月)

自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について

Xrzcgahx75mz3kbrqbme2mem5a これも、ほとんど定期的に同じようなことを書いている気もしますが、でもやはりこう言われたらこう返さないわけにはいかないでしょうね。

https://www.sankei.com/article/20210531-7NVMJQZU2VJBJP3BXCRCSHNSRE/(「これではリベラル政党」 自民保守派の油断と憂鬱)

自民党で24日から28日にかけて、同性愛者など性的少数者(LGBT)への理解増進を図る法案をめぐり激論が交わされた。菅義偉(すが・よしひで)政権が発足して以降、党内ではLGBT法案推進だけでなく、選択的夫婦別姓を容認しようとするなどの動きも目立つ。自民党保守派は「これではまるでリベラル政党だ」として、党内の議論に警戒を強めている。

いやいや、「これではまるでリベラル政党」って、そもそも現代日本において、正々堂々とその正式名称に「リベラル」を名乗っている政党は自由民主党しかありませんことよ。

その証拠に、ほら上の写真にでかでかと写っている自由民主党のロゴ。「Lib Dem」はもちろん、「Liberal Democratic Party」の略です。

立憲だの国民だの、どこの政友会かという戦前風の党名に比べて、リベラル民主党と名乗っている唯一の政党が「これではまるでリベラル政党」と嘆くのですから、そのねじれっぷりは堂に入っています。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-787c.html(自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-0389.html(自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について)

ちなみに、2017年時点では小沢一郎氏と山本太郎氏が「自由党(Liberal Party)」なるものを作っていたので、唯一ではなくなっていましたが、その後すぐに消滅したみたいなので、今日ただ今ではやはり自民党が唯一のリベラルと名乗る政党です。

2021年5月30日 (日)

バラモン左翼と商売右翼への70年

Images_20210530130701 トマ・ピケティの「バラモン左翼」は、私が紹介したころはあまり人口に膾炙していませんでしたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

21世紀の資本で日本でも売れっ子になったトマ・ピケティのひと月ほど前の論文のタイトルが「Brahmin Left vs Merchant Right」。「バラモン左翼対商人右翼」ということですが、この「バラモン左翼」というセリフがとても気に入りました。・・・ 

その後日本でもやたらにバズるようになり、その手の本も結構並んでいます。この言葉、対句になる「商売右翼」とセットなんですが、こちらはあんまりバズってないようです。

そのピケティが、今月3人の共著という形で、「Brahmin Left versus Merchant Right:Changing Political Cleavages in 21 Western Democracies, 1948-2020」という論文を公表しています。

https://wid.world/document/brahmin-left-versus-merchant-right-changing-political-cleavages-in-21-western-democracies-1948-2020-world-inequality-lab-wp-2021-15/

これ戦後70年間にわたるバラモン左翼の形成史を追ったものですが、事態を何よりも雄弁に物語ってくれるのが、表A10から表A16までの7枚のグラフです。

縦軸に所得をとり(上の方が高所得)、横軸に学歴をとると(右のほうが高学歴)、1950年代には右派政党は高学歴で高所得、左派政党は低学歴で低所得のところに集まっていました。

A10

ところがそれから10年間ごとにみていくと、あれ不思議、右派政党はだんだん左側の低学歴のほうに、左派政党はだんだん右側の高学歴のほうにシフトしていき、

A11

A12

A13

A14

A15A15
かくして、直近の2010年代には若干の例外を除き、どの国も右派は低学歴、左派は高学歴に移行してしまいました。

A16

かくして、ピケティ言うところのバラモン左翼対商売右翼という70年前とはがらりと変わった政治イデオロギーの舞台装置が出来上がったわけです。

 

2021年5月29日 (土)

EUのAI規則案に欧州労連の批判

Erd_lwnwsaizntl 先月公表されたEUのAI規則案については、すぐにJILPTのホームページでリサーチアイとして紹介したところですが、

https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/060_210430.html(EUの新AI規則案と雇用労働問題)

去る4月21日、EUの行政府たる欧州委員会は新たな立法提案として「人工知能に関する規則案」(COM(2021)206)[注1]を提案した。同提案は早速世界中で大反響を巻き起こしているが、本稿では必ずしも日本のマスコミ報道で焦点が当てられていない雇用労働関係の問題について紹介し、政労使の関係者に注意を促したい。 ・・・

これに対する欧州労連(ETUC)の批判的見解が昨日公表されています。

https://www.etuc.org/en/document/commissions-proposal-regulation-artificial-intelligence-fails-address-workplace-dimension(Commission's proposal for a regulation on Artificial Intelligence fails to address the workplace dimension)

「欧州委員会のAI規則案は職場の次元を取り扱い損ねている」と批判しています。

いろいろと批判を連ねていますが、最後に欧州労連の要求事項を6つ並べています。

1) The AI regulation should address the need for inclusive and democratic governance and clear rules securing great protection of workers.
2) Classify AI applications impacting workers’ rights and working conditions as high-risk and subject to appropriate regulation.
3) Guarantee AI systems in which humans remain in control, which is compliant with labour rights and a sound use of personal data. Trade unions and workers’ representatives must be key actors in developing and implementing AI systems.
4) Strengthen the application of GDPR to the workplace reality including the active involvement social partners to strengthen industrial democracy.
5) Social dialogue structures, collective bargaining, information, consultation and participation of trade unions and workers’ representatives are key to providing the necessary support for workers to better build and be part of the uptake and monitoring of AI used at the workplace.
6) Guarantee the application of the precautionary principle should be a core action to tackling uncertain AI risks. 

1)AI規則は労働者を保護する包摂的で民主的なガバナンスと明確なルールの必要性を取り扱うべきである。

2)労働者の権利と労働条件に影響を与えるAIアプリケーションをハイリスクに分類し、適切な規制の下に置くべし。

3)AIシステムを人間のコントロールの下に、労働の権利に従い、個人データを適切に利用するよう保証すべし。労働組合と労働者代表はAIシステムの設計と運用のキーアクターでなければならない。

4)産業民主主義を強化するため、労使団体の関与を含め、EU一般個人データ保護規則の職場への適用を強化すべし。

5)労働組合と労働者代表の労使対話構造、団体交渉、情報提供・協議・参加は職場で用いられるAIの取り込みと監視において労働者に必要な援助を提供するうえでキーとなる。

6)予防原則の適用が不確実なAIリスクに取り組む中核的行動であるべし。

 

「労働の解放をめざす労働者党」さんの濱口批判

先日の「日本型雇用とマルクス」のエントリについた「通行人」さんのコメントでお知らせいただきましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-e5a6ab.html

Msp1_20210529091701 その「労働の解放をめざす労働者党」さんにはツイッターで、濱口桂一郎に対する批判を繰り広げていただいておりました。

https://twitter.com/rodousyatou

「労働政策研究・研修機構」の労働政策研究所で所長を務める濱口桂一郎氏が『海つばめ』1395号(ジョブ型雇用急ぐ企業――「ジョブ型労働社会」論では闘えない)を批判している。濱口氏と言えば、かなり前から日本型雇用の限界を資本主義の漸進的改良の立場から論じてきたお人だ。  (w)

その濱口桂一郎氏は非正規労働者の悲惨さを告発してきたが、他方で「金銭解決」を主張し、正規労働者の「整理解雇」可能な「ジョブ型」雇用への転換を推奨してきた。高級官僚と労働政策研究者との2足の草鞋を履いて来た濱口氏は、結局労働者・働く者の立場に軸足を置き続けることが出来なかった。(w)

「ジョブ型雇用」の賃金体系が同一職種労働同一賃金(または同一価値労働同一賃金)であっても、非正規への「理由のない差別禁止」を謳おうとも、政府も企業も非正規労働・差別労働そのものを解消しない。むしろ企業はこれを利用して非正規を増大する口実にさえするのだ。 (w)

欧米では、パートなどの低賃金で不安的な非正規労働が年々増え続けて来た。これを見れば分かるように「ジョブ型」が非正規労働の救済策にはならない。もちろん、この4月から施行された改定労働法制によって、交通費などの手当の差別は解消されつつあるが、賃金では差別が聖域化されつつある。 (w)

同一労働時間同一賃金が施行されるなら、非正規労働と正規労働との賃金差別は無くなるが、それでも家族構成や教育・介護の違いなどによる不平等は無くならない。まして搾取労働は無くならない。だから労働者は現実の差別と闘いながら、あれこれの労働形態ではなく、「自由の王国」を求めるのだ。  (w)

濱口氏については、2009年の『海つばめ』で彼の新書本を取り上げたことがあった。この時には、日本の労働政策(システム)の矛盾を突いていると評している。しかし、退廃し限界が露わになった資本主義的生産様式を護持し、一つの労働政策で労働者も資本も救済できると考えるなら、明らかに間違い。 (w) 

とのことです。

たったこれだけの中に、半世紀以上も昔には労働界隈で結構熱心に議論されていた(けれどもその後はほとんどだれも論じなくなってしまった)論点が結構入っていますね。

図書館の書庫の奥深くに分け入って、半世紀以上読まれてなさそうな古文書を紐解くと、こういう感じの議論の跡がいくつも発見できます。

改めて大変懐かしい思いを新たにしました。

 

2021年5月28日 (金)

『日経コンピュータ』5月27日号

Cover 『日経コンピュータ』5月27日号が「ジョブ型IT人材の光と影」という特集をしていて、その中に私もちょびっとだけ登場しています。

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/NC_backnumber/20210527/

はじめの方で「ジョブ型雇用という概念は2009年に濱口桂一郎労働政策研究・研修機構研究所長が提示した」と出てきた後は、本田由紀、鶴光太郞、佐藤博樹といった方々がさまざまに解説していて、わたしは、

・・・「JDを作ればジョブ型雇用になるわけではない」(労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎研究所長)。メンバーシップ型は「人ありき」なのに対し、ジョブ型は「職務ありき」。そこでJDで職務内容を明示する必要があるのだ。

というところでちらと出てきます。

なお佐藤博樹さんは「ジョブ型雇用に移行するという会社は人事権を手放せるのか」と疑問を呈するなど、この特集わりとまともな認識に立とうとしています。

 

2021年5月27日 (木)

『DIO』366号

Dio3661 連合総研の『DIO』5月号は、「クラウドソーシング―デジタル時代が生んだ新たな就労形態の光と影に迫る」が特集です。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio366.pdf

「クラウドソーシング」をめぐる労働法の課題−集団的労働法による対応に向けて− 藤木貴史 ………………·4
クラウドワークをめぐる社会保障法上の課題 沼田雅之 ………………·8
クラウドワークをめぐる約款的規制の意義と課題 鈴木俊晴………………·12
クラウドワークをめぐる現状と課題~組織化と法規制の在り方に向けて 関口達矢………………·16 

このうち藤木さんの論文は、副題の「集団的労働法による対応に向けて」からも窺われるように、彼らをどう保護するかという観点からだけではなく、自分たちで自らを守る道をどう作っていくのかという観点を打ち出しています。そして、そこから去る3月のフリーランスガイドラインに対して懸念を示します。労働法の歴史において「労働組合は本質的に競争法の敵」であったというセリフをみたときは、思わずその通りと思いましたが、それは拙文からの引用でありました。

最後のパラグラフで、「専業的なPFワーカーの当面のニーズは、最低報酬保護を除けば、適切な仕事の紹介や教育訓練、苦情処理といった「仕事」のコントロールに関わる点にある」と述べていますが、考えてみればこういったことこそ、労働組合の原点である19世紀イギリスのクラフトユニオンの任務であったわけですね。

後ろのほうの関口さんのは、まさにウーバーイーツユニオンを結成した全国ユニオンの方による最近の動きの報告です。

 

 

『日本労働研究雑誌』 2021年6月号(No.731)

731_06 『日本労働研究雑誌』 2021年6月号(No.731)は、「労働者を守る公的機関のいま 」というなかなか渋いというかエッジの効いた特集です。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2021/06/index.html

提言
労働における法と「論理」山川隆一(東京大学大学院教授)

解題
労働者を守る公的機関のいま 編集委員会

論文
労働政策審議会─労働政策の形成過程における合議体の機能 諏訪康雄(法政大学名誉教授)

現代の最低賃金審議会改革における課題と展望 藤田安一(鳥取大学名誉教授)

労働基準監督行政の現状と課題─労働基準監督署の視点から 池山聖子(神戸大学大学院博士後期課程,元労働基準監督署長)

公共職業安定所は国民の苦境にどのように向き合ってきたか 奥津眞里(元JILPT統括研究員)

労働審判手続による労働紛争解決のパラダイムシフトと今後の課題 淺野高宏(北海学園大学法学部教授・弁護士)

紛争調整委員会による個別労働紛争のあっせんの現状と課題 村田毅之(松山大学教授)

労働委員会制度の直面する課題 道幸哲也(北海道大学名誉教授) 

なんといっても、ここに挙がっている機関のすべてが、拙著『日本の労働法政策』等でじっくりとその経緯を検討してきたものであり、それぞれの方々が論じている論点のあれこれが響きます。

その中で、やや異色なのは労働基準監督署を取り扱っている池山聖子さんです。御坊労働基準監督署長を退官後、神戸大学の大学院で勇上さんの下で労働経済学を研究されておられるという異色の経歴。労働基準監督官の人数は本当は何人なんだ?という疑問は、わたしも『季刊労働法』に「労働基準監督システムの1世紀」を書いたときに感じたことでもあります。

ちなみに池山さんは先月、勇上さんと共著で「最低賃金の引上げが労働市場に与える影響」という本格的なDPを書いていますね。

http://www.econ.kobe-u.ac.jp/activity/publication/dp/pdf/2021/2113.pdf





『財界』2021年6/9号

1028_p 先日、TM研究会なるところに呼ばれてジョブ型雇用について喋ったのですが、そのごく簡単な紹介記事が『財界』という雑誌の2021年6/9号に載ってます。

https://www.zaikai.jp/magazines/detail/250

 TMトピックスNo.244 TM研究会・研究交流会より
濱口桂一郎・労働政策研究・研修機構労働政策研究所長①
氾濫する不正確な「ジョブ型」雇用の理解 「時間ではなく成果で評価」はハイエンドな話

【GoTo書店!!わたしの一冊】第20回 ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』

514kqpyyj9l 『労働新聞』に代わる代わる執筆している【GoTo書店!!わたしの一冊】ですが、今回はウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社)です。700ページを超える大著ですが、ものすごく読み応えがあります。冒頭は本ブログでむかし何回か取り上げた懐かしい赤木智弘さんの「『丸山真男』をひっぱたきたい―31歳、フリーター。希望は戦争」から始まります。

https://www.rodo.co.jp/column/106346/

 2006年末、朝日新聞社の雑誌『論座』2007年1月号に大きな議論を巻き起こした論文が載った。赤木智弘の「『丸山真男』をひっぱたきたい―31歳、フリーター。希望は戦争」だ。曰く「平和が続けば、このような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかも知れない何か―。その可能性の一つが、戦争である」、「戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは『持つものが何かを失う』から悲惨なのであって『何も持っていない』私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる」。

 これに対し左派文化人は、戦争がいかに悲惨かを説くばかりで、赤木の主張の本丸に正面から向かい合おうとするものはなかった。少なくとも同年11月に刊行された著書『若者を見殺しにする国』(双風舎)で赤木はそう慨嘆していた。その赤木の提起に正面から答える大著が、2019年6月に刊行された本書である。原題は「The Great Leveler」。レヴェラーとは近世イギリスの急進的平等主義者のことだ。700頁を超える本書は古今東西の史実を縦横に引用しながら、人類史において平等をもたらしてきたのは、戦争、革命、崩壊、疫病という「平等化の四騎士」であったことを論証する。

 そのトップバッターとして登場するのは日本だ。戦前、欧米諸国よりも所得分配が不平等だった極東の国が、国家総力戦体制の下で急激に平等化していった姿を克明に描き出す。1938年から1945年の7年間で、上位1%の所得シェアは19.9%から6.4%に下落している。その経緯の一端は、私も『日本の労働法政策』において「社会主義の時代」と呼んで論じた。日本では確かに戦争と戦後の混乱が平等をもたらし、平和はじわじわと不平等を招き入れてきたのである。それは他の多くの諸国でも同様であった。

 この歴史像はトマ・ピケティの『21世紀の資本』における「資本収益率>経済成長率ゆえに格差が拡大するのであり、20世紀は戦争と革命のおかげでそれが逆転しただけ」という主張とも響き合う。戦場の死屍累々に匹敵する平等化の旗手(レヴェラー)は、ソ連や中国のような革命という名の自国民への大虐殺だったというのも、さらに一層陰鬱な歴史像であろう。四騎士に代わる平和的平等化の企てをことごとく吟味した著者は、「暴力的衝撃と全く無関係に物質的不平等が少なからず軽減したという論理的かつ確実な裏付けのある事例を見つけるのは難しい」と結論付ける。

 著者は四騎士は馬から下りたという。そして正気の人間なら彼らの復帰を決して望まないだろうと。おおむね正しいが、一点だけ彼の予言は外れた。コロナ禍直前に刊行された本書は「疫病による大量死の可能性は低い」と述べていたが、今や世界中でコロナ死者は300万人を超えている。しかし過去1年余りの経験は、感染のリスクに身をさらす弱者を痛めつけ、リスクから身を引き離せる強者を守り、世界中で格差が拡大しつつあることを示している。疫病という第四の騎士はレヴェラーから用心棒に転身したのであろうか。 

(参考)

というわけで、もう今から十数年前に本ブログで赤木さんの文章を取り上げたエントリをサルベージしておきましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_3f06.html(フリーターが丸山真男をひっぱたきたいのは合理的である)

これは当然なのだ。そして、彼が戦争を待ち望むのも当然なのだ。
実際、今から70年前、中学校以上を出たエリートないし準エリートのホワイトカラー「社員」との差別待遇に怒りを燃やしていた彼の大先輩たるブルーカラー「工員」たちを、天皇の赤子として平等な同じ「従業員」という身分に投げ込んでくれたのは、東大法学部で天皇機関説を説いていた美濃部教授でもなければ、経済学部でマルクスを講じていた大内教授でもなく、国民を戦争に動員するために無理やりに平等化していった軍部だったのだから。もちろん、それを完成させたのは戦後の占領軍とそのもとで猛威を振るった労働組合であったわけだが、戦時体制がなければそれらもなかったわけで。
このへん、戦前は暗かった戦後は明るくなった万歳史観では全然見えないわけで、そういう史観の方々には何が問題なのかもよく分からないのだろう。もちろん、戦争なしにそういう改革ができたのであればその方がよかったのかも知れないが(実際そういう国もないわけではないが)、戦争もなしに戦前の丸山真男たちがそれを易々と受け入れただろうかというのが問題になるわけで。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html(赤木智弘氏の新著)

赤木さんにとっては、左派というのはいまの社民党みたいなものなのでしょうね。福島瑞穂さんみたいなのが「左派」の典型なのでしょうね。それは、年齢から考えれば、生きてきた時代状況の中ではまさにそうだったのですから、やむを得ないところがあります。
しかし、それは高度成長期以後のここ30年くらいのことに過ぎません。
それまでの「左派」というのは、「固有性に対する差別」を問題にするのはブルジョア的であり、まさに「努力しても報われない弱者」働いても働いても貧しさから逃れられない労働者たちの権利を強化することこそが重要だと考えるような人々であったのです。リベラルじゃないオールド左翼ってのはそういうものだったのです。赤木さんとおそらくもっとも波長があったであろうその人々は、かつては社会党のメイン勢力でもあったはずなのですが、気がつくと土井チルドレンたちが、赤木さんの言う「「固有性に対する差別」とたたかうことを強調するあまりに、「固有性でない差別」に対する理解が浅くなってい」る人々、私のいうリベサヨさんたちが左派の代表みたいな顔をするようになっていたわけです。この歴史認識がまず重要。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

彼の主張は、思われている以上にまっとうです。「俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ」と言ってるわけですから。そして、戦争になればその可能性が高まるというのも、日中戦争期の日本の労働者たちの経験からしてまさに正しい。それこそ正しい意味での「ソーシャリズム」でしょう。
ところが、「左派」という歪んだ認識枠組みが、自分のまっとうな主張をまっとうな主張であると認識することを妨げてしまっているようで、わざとねじけた主張であるかのような偽悪的な演技をする方向に突き進んでしまいます。
自分が捨てたリベサヨ的なものと自分を救うはずのソーシャルなものをごっちゃにして、富裕層がどんな儲けても構わないから、安定労働者層を引きずり下ろしたいと口走るわけです。安定労働者層を地獄に引きずり下ろしたからといって、ネオリベ博士が赤木君を引き上げてくれるわけではないのですがね。 

 

 

2021年5月25日 (火)

『Japan Labor Issues』6月号

Jli_20210525122001 JILPTの英文誌『Japan Labor Issues』6月号がアップされました。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2021/031-00.pdf

● Trends
Column: Job Separation and Reemployment amid the COVID-19 Crisis in Japan TAKAHASHI Koji
Column: How Women Bear the Brunt of COVID-19’s Damages on Work (Continued, Part II): Catch Up With Men on the Employment Recovery ZHOU Yanfei
● Judgments and Orders
The Worker Status of a Theater Troupe Member The Air Studio Case HAMAGUCHI Keiichiro
● Japan’s Employment System and Public Policy 2017-2022
Labor-management Relations in Japan Part II: Trends and Current State of Collective Labor Relations HAMAGUCHI Keiichiro 

ということで、コロナ関連の高橋康二さんと周燕飛さんの論文がメインで、あとわたしの判例紹介(エアースタジオ事件)と日本の労使関係の概説が載っています。

このうち、エアースタジオ事件は劇団員の労働者性ですが、原審が認めた裏方業務だけではなく、舞台での公演までも労働者性ありと判断したもので、結構この業界にインパクトが大きい判決です。私は後者に対しては批判的です。

 

 

 

ウーバーイーツ就労者の労基法上/労災保険法上の労働者性と特別加入

厚生労働省が労災保険の特別加入にウーバーイーツを初めとしたフードデリバリーとITフリーランスを追加しようとしていて、既に今月14日にそれぞれの業界団体の人を呼んでヒアリングをしているのですが、

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18599.html

配布資料
【表紙】第97回労災保険部会
資料1 一般社団法人 日本フードデリバリーサービス協会 提出資料
資料2 一般社団法人 ITフリーランス支援機構 提出資料
資料3 特別加入制度の対象範囲の拡大に関する検討事項
資料4 業種区分及び新設予定区分の料率設定案について

これに対して実際に働いている側のウーバーイーツユニオンが反対表明したという記事が昨日載りましたが、

https://www.asahi.com/articles/ASP5S54S4P5SULFA00M.html

Uber_20210525091401 ・・・会見したウーバーイーツユニオン執行委員長の土屋俊明さんは、特別加入が認められても加入するか否かは任意になることから「未加入の配達員が事故に遭った場合、自己責任にされる。企業のシステムの中で労働力になっているのに、企業が保険料も事故の責任も免れるのはおかしい」と主張。事業主が保険料を負担する本来の労災保険の適用を検討するよう求めた。

この記事だけ見ると、ウーバーイーツユニオンは全面的に労働者性を認めろと主張しているように見えます。実際欧米ではそういう運動や判決が続々と出ているので、そう考えてしまいがちになるのですが、どうもそうでもなさそうです。

昨年8月にこのユニオンが厚生労働省に出した要望書では、

https://www.ubereatsunion.org/blog/194/

よって、ウーバーイーツユニオンとしては、労災保険制度の見直しにおいては、「特別加入」の拡大で済ませるのではなく、ウーバーのような労働力を確保して事業を行う企業が労災保険の保険料を事業主負担する形で、労災保険の適用拡大を行うよう要請いたします。
具体的には、現在の労働者災害補償保険法を改正し、労災保険の対象を定めた条文を新設して、「労務を提供し、その対価を得ている者」など、現行のフリーランスの労働実態に即した対象の定義を行い、適用対象の拡大を行うことを要請いたします。

あくまでも労災保険法上だけで(特別加入ではなく)適用対象とせよという主張のようです。労基法を全面適用されて、たとえば労働時間規制がかかってしまうのは厭なようです。

これはしかし、日本の労基法と労災保険法の構造からするととても難しい主張ですね。ウーバーイーツ就労者は労基法第8章「災害補償」の労働者ではないけれども、それの保険化である労災保険法上の労働者ではあるというのは。

あえていえば、通勤災害がカテゴリカルにはそれに近い立ち位置になりますが、それをヒト単位で創設するというのは想像以上に難しい障壁があります。

素直な主張としてはむしろ、労基法上の労働者ではあるけれど、労働時間その他の要らない規制は適用除外するという方が筋がいいようにも思いますが、いずれにしても現行法上は無理な話であり、現に事故が多発していることを考えると、当面は特別加入で行くしかなさそうです。

ただ、そもそも論として労災(あるいはより正確には業務上災害)補償責任は、労基法上の労働者の使用者に限られるのか、それを超えて労務請負の発注者にも広げて考えるべきかというのは、重要な論点であるように思われます。

 

2021年5月24日 (月)

シフト制の裁判例(有限会社シルバーハート事件)

『労働経済判例速報』5月20日号(2443号)に、有限会社シルバーハート事件(東京地判令2/11/25)という裁判例が載っていますが、これは今話題のシフト制におけるシフト削減が論点になった裁判ですね。

これ、会社側(介護事業所)が原告で、被告の労働者側が反訴しているという事案ですが、シフト制でも所定労働時間が合意していたという主張は退けているんですが、シフトの削減はシフト決定権限の濫用に当たり違法であるという判断をしています。

・・・シフト制で勤務する労働者にとって、シフトの大幅な削減は収入の減少に直結するものであり、労働者の不利益が著しいことからすれば、合理的な理由なくシフトを大幅に削減した場合には、シフトの決定権限の濫用に当たり、違法となり得ると解され、不合理に削減されたといえる勤務時間に対応する賃金につい、民法536条2項に基づき、賃金を請求しうると解される。・・・

一見すると、シフトの大幅削減は収入の減少に直結して労働者の不利益が著しいからという理由でシフト削減を違法だといったかのようですが、「合理的理由なく」とか「不合理に」という副詞が重要で、実は本件は、被告労働者が会社側と揉めていて、地域ユニオンに加入して団体交渉をし、勤務体制に異議をとどめながら働いていたケースなので、景気後退でシフトを減らさざるを得ないというような事例ではありません。判決では「原告はこの他にシフトを大幅に削減した理由を具体的に主張していない」といっています。

なので、残念ながら、首都圏青年ユニオンが問題視しているコロナ禍でのシフト削減には使えそうもありません。むしろ、労働者側の主張している勤務時間の合意の存在を退けていることを考えれば、シフト制は労働日/労働時間不確定であり、シフト削減が不合理でない限り休業補償は難しいということになりそうです。

 

 

2021年5月21日 (金)

大内伸哉『誰のためのテレワーク?』

582836 大内伸哉『誰のためのテレワーク? 近未来社会の働き方と法』(明石書店)をお送りいただきました。大内さんの生産量はまだまだやむことはないようです。

https://www.akashi.co.jp/book/b582836.html

テレワークはもはや、
やるか、やらないかの段階ではない。
どう取り組むかだ!

コロナ禍でテレワークが進んだが、これは単に働く場所が変わるということだけを意味するのではない。移動しないで働くことは、これまでの働き方の本質に影響するものである。そして、それは私たちの生活も変えることになる。労働法をベースに近未来の働き方を論じる。

冒頭、明智書店の編集者Aくんが登場し、狂言回しよろしくあれこれと思いをめぐらしていきます。

明智書店って、なんだかミステリ専門出版社みたいですが、昭和のアナログな働き方が一杯残っている老舗の出版社なんだそうです。ふむ。でも、かなり以前わたしがOECDの報告書の翻訳を出したとき、担当編集者はずっとリモートでしたよ。

なお、テレワークについては来月早々にもJILPTからブックレットが出ます。私の3月の講義録「テレワークの労働法政策」と、JILPTのこの間の調査の結果を渡邊木綿子さんらがまとめた「テレワークの現状と今後」が収録されていますので、ご参考までに。

 

サイエンスは科学か学術か

Monka 青木栄一『文部科学省』(中公新書)はいろいろ知りたいこともあって買って読んだのですが、いや確かに政策研究の観点からするとあれこれと大変面白い本だったんですが、ややトリビアながら「あぁそうだったんだ!」という発見があったので。

それは、文部科学省の英語名「Ministry of Education、Culture、Sports、Science and Technology」(略してMEXT)という、総務省といい勝負のやたらごちゃごちゃと長たらしい名前のうち、前半の「Education、Culture、Sports」が旧文部省からで、後半の「Science and Technology」が旧科学技術庁からだと思い込んでいたのですが、実はそうではなかったのですね。

旧文部省の英語名は「Ministry of Education, Science and Culture」。なんと文部省にもサイエンスがあったんです。サイエンスは文部省と科学技術庁の両方にあったのです。

ただし、この旧文部省のサイエンスは「科学」じゃないんですね。

科学じゃなければ何なのか。それは「学術」。

旧文部省時代は「学術国際局」というのがあり、統合後は旧科技庁系と合体して「科学技術・学術政策局」となっています。

ちなみに、こうやってわざわざ日本語では科学と学術にナカポツまで間に挟んで両者を厳格に概念を区別しているくせに、英語になると「Science and Technology Policy Bureau」というまことに自然な用語法になっているというのも奇々怪々というべきでしょうか。

この同じサイエンスを文部省系の「学術」と科学技術庁系の「科学」で綱引きをしているというあたりが、文部科学省という合体官庁の本質をよく示しているのでしょう。

そして、実はこれを読んでおもわず「なるほど」と思ったのですが、そのすぐ後(26頁)にこういう記述がさりげなく置かれていて、

・・・ただし、文科省スタート時点で埋め込まれたこの「仕掛け」が本格的に動き出すのはそれから20年ほど後のことである。2020年、菅義偉内閣の発足直後に日本学術会議会員の任命をめぐる問題が生じたが、これも学術と科学技術の綱引きとしてみるべきである。

改めて日本学術会議の英語名を確認してみると、「Science Council of Japan」。なんとサイエンスだったんですね。てっきりヒューマニエンスかと思っていましたが。

(追記)

この本のこの部分を読んで思い出したのが、拙著『日本の労働法政策』p734で取り上げた労働契約法第18条の有期契約5年で無期転換ルールの例外を定める研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する法律第15条の2です。

(労働契約法の特例)
 第十五条の二 次の各号に掲げる者の当該各号の労働契約に係る労働契約法(平成十九年法律第百二十八号)第十八条第一項の規定の適用については、同項中「五年」とあるのは、「十年」とする。
一 科学技術に関する研究者又は技術者(科学技術に関する試験若しくは研究又は科学技術に関する開発の補助を行う人材を含む。第三号において同じ。)であって研究開発法人又は大学等を設置する者との間で期間の定めのある労働契約(以下この条において「有期労働契約」という。)を締結したもの
二 科学技術に関する試験若しくは研究若しくは科学技術に関する開発又はそれらの成果の普及若しくは実用化に係る企画立案、資金の確保並びに知的財産権の取得及び活用その他の科学技術に関する試験若しくは研究若しくは科学技術に関する開発又はそれらの成果の普及若しくは実用化に係る運営及び管理に係る業務(専門的な知識及び能力を必要とするものに限る。)に従事する者であって研究開発法人又は大学等を設置する者との間で有期労働契約を締結したもの
三 試験研究機関等、研究開発法人及び大学等以外の者が試験研究機関等、研究開発法人又は大学等との協定その他の契約によりこれらと共同して行う科学技術に関する試験若しくは研究若しくは科学技術に関する開発又はそれらの成果の普及若しくは実用化(次号において「共同研究開発等」という。)の業務に専ら従事する科学技術に関する研究者又は技術者であって当該試験研究機関等、研究開発法人及び大学等以外の者との間で有期労働契約を締結したもの
四 共同研究開発等に係る企画立案、資金の確保並びに知的財産権の取得及び活用その他の共同研究開発等に係る運営及び管理に係る業務(専門的な知識及び能力を必要とするものに限る。)に専ら従事する者であって当該共同研究開発等を行う試験研究機関等、研究開発法人及び大学等以外の者との間で有期労働契約を締結したもの
2 前項第一号及び第二号に掲げる者(大学の学生である者を除く。)のうち大学に在学している間に研究開発法人又は大学等を設置する者との間で有期労働契約(当該有期労働契約の期間のうちに大学に在学している期間を含むものに限る。)を締結していた者の同項第一号及び第二号の労働契約に係る労働契約法第十八条第一項の規定の適用については、当該大学に在学している期間は、同項に規定する通算契約期間に算入しない。

 この改正が奇妙なのは、元の研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する法律では「科学技術」についてわざわざ「人文科学のみに係るものを除く」としていたのに、この無期転換の特例だけはあえて「第十五条の二第一項を除き」と付け加えていることです。ここでいう人文科学には社会科学も含まれます。人文科学の研究者は、強化も推進もされないのに、無期転換だけは自然科学研究者と同じく10年にされたわけですが、その理由もどこにも書かれていません。

 ところがその後、同法は2020年に科学技術基本法等とともに改正され、全規定にわたって人文科学も対象に含まれることになりました。なので、その限りでは奇妙な規定ではなくなりました。もともと科学技術に人文科学を含めていなかったのは科学技術基本法の建付けだったのですが、それが科学技術・イノベーション基本法となり、人文社会科学もイノベーションに役立つと位置付けられるようになったわけです。

このあたりの動きを労働契約法の例外規定という細い隙間から横目で見ながら、何が起こっておるんだろうと思っていたのですが、本書を読むことで、これまで科学技術には含まれない純粋学術部分として存在しぇていた人文社会科学が、いよいよ科学技術の一部として吞み込まれていくつつあるんだということがわかりました。

サイエンスの訳語一つから、これだけの文部科学省の中の暗闘が垣間見えるのですから、面白いものです。

 

 

 

 

 

2021年5月20日 (木)

EUのデューディリジェンス指令案への動き@『労基旬報』2021年5月25日号

というわけで、例のユニクロのウイグル製シャツがアメリカで輸入禁止になったというニュースの醒めやらぬ中ですが、「EUのデューディリジェンス指令案への動き」というのを寄稿していた『労基旬報』5月25日号が届いたので、どういう話になっているのかごく簡単に紹介しておきましょう。

 近年、「デューディリジェンス」という言葉がよく聞かれます。文字通りの意味では「企業に要求される当然に実施すべき注意義務および努力」を指しますが、とりわけ今日問題となっているのは、そのグローバルなサプライチェーンにおいて労働者,人権,環境といった側面で有害な影響を与えていないかをきちんと監視すべきという点です。ごく最近も、中国の新疆ウイグル自治区で生産された綿を使った繊維製品が強制労働によるものとして人権団体から批判され、強硬な中国との間で板挟みになった企業がありました。
 この問題を公的な立法政策として進めようとしているのがEUです。その近年の動きを簡単に跡づけておきましょう。出発点は2020年4月、欧州委員会のレインダース司法担当委員が、欧州議会の責任あるビジネスワーキンググループのウェブ会議で、人権と環境に関するデューディリジェンスを義務化する法案を2021年中に提出すると発言したことです。これは多くの人権団体から喝采をもって迎えられました。
 同年7月、欧州委員会は持続可能な企業統治に関する端緒的影響評価文書を公表しました。そこでは企業と取締役に対し、そのバリューチェーンにおける活動による気候変動、環境、人権(労働者や児童労働を含む)への悪影響を明らかにし、リスクを防止し、悪影響を緩和する義務を課し、取締役にはすべての利害関係者を考慮に入れて、これら義務を実施し、必要なら救済も含めた仕組みを設けることを求めています。
 同年10月には、持続可能な企業統治に関する一般協議を開始しました。協議期間は翌2021年2月までです。協議文書では、EUにおける法規制の必要性、取締役の義務、デューディリジェンスの義務、その他の施策、影響の測定について意見を広く聴いています。
 一方、立法府である欧州議会も、同年9月から法務委員会においてこの問題の審議を始めました。そこに提出された「企業デューディリジェンスと企業説明責任に関する欧州委への欧州議会勧告案」は、欧州委員会が提出すべき指令案の原案自体を添付しており、事実上欧州議会による指令案になっています。法務委員会は翌2021年1月に報告をまとめ、同年2月の総会に提出され、同年3月に「企業デューディリジェンスと企業説明責任に関する欧州委への勧告を伴う決議」が採択されました。その内容は大変興味深いのでやや詳しく見ていきましょう。
 冒頭の第1条の3つの項で、本指令案の目的がこう謳われています。
第1条 対象事項と目的
1 本指令は、域内市場で操業する企業が人権、環境、良好な企業統治を尊重し、それ自身の活動又は事業関係やバリューチェーンによってその操業、製品、サービスに直接リンクされた活動を通じて、人権、環境、良好な企業統治に対して潜在的ないし現実的な悪影響をもたらし又は貢献することがなく、そのような悪影響を防止し緩和するその責務を完遂することを確保することを目的とする。
2 本指令は、企業のバリューチェーンのデューディリジェンスの義務、すなわちそのバリューチェーンにおいて発生する人権、環境、良好な企業統治への悪影響を防止し、起こった場合はかかる悪影響を適切に対処するべきあらゆる比例的な措置をとる義務を定める。デューディリジェンスの遂行は企業に対して、その活動及びバリューチェーンと事業関係がもたらす人権、環境、良好な企業統治への潜在的又は現実的な悪影響を、明らかにし、評価し、防止し、止めさせ、緩和し、監視し、通信し、説明し、対処し、修復することを要求する。人権、環境、良好な企業統治の保護のためのセーフガードを調整することにより、これらデューディリジェンスの要件は域内市場の機能の改善に資する。
3 本指令はさらに、企業がもたらし又はそのバリューチェーンにおいて貢献する人権、環境、良好な企業統治への悪影響について国内法に従って説明責任を果たし製造責任を果たすことを確保することを目指し、その被害者が法的救済を得られるように確保することを目指す。
 第2条の適用範囲では、大企業のみならず株式が公開されている中小企業やハイリスクの中小企業にも適用され、とりわけEU以外の第三国で設立された企業でも、その製品やサービスをEU域内で販売しているならば本指令の義務を果たさなければならないという点が重要です。
 第4条(デューディリジェンス戦略)では、企業に対してデューディリジェンス戦略を樹立し効果的に実施することを求めていますが、その具体的内容は以下の通りです。
(i) その操業やビジネス関係に存在しうる人権、環境及び良好な企業統治への潜在的ないし実際の悪影響並びに、その深刻さ、可能性、緊急性の度合、さらには関係するデータと情報、方法論を特定し、
(ii) そのバリューチェーンを跡付け、商業秘密に考慮しつつ企業のバリューチェーンに関わる情報を一般に公開し、その中には供給される製品とサービスの名称、位置、タイプその他の子会社、供給業者及び事業パートナーに関する情報を含め、
(iii) 人権、環境及び良好な企業統治への潜在的ないし実際の悪影響を止め、防止し、緩和する観点で、あらゆる比例的で釣合の取れた政策と措置を採択し、示し、
(iv) 同時にすべての潜在的ないし実際の悪影響に対処する立場にない場合には、国連のビジネスと人権に関する指導原則第17項に基づいて優先順位をつけ、企業は人権、環境及び良好な企業統治への潜在的ないし実際の異なる悪影響の深刻さ、可能性、緊急性の水準、地理的な面を含めその操業の性質と文脈、リスクの範囲、どれくらい回復不可能なのかを考慮しなければならない。
 第5条(関係者の関与)では、デューディリジェンス戦略の樹立、実施に当っては、「産業別、全国レベル、EUレベル及びグローバルレベルの労働組合と労働者代表」が関与するよう確保しなければならず、適切に議論を行うことが必要です。
 このほか、デューディリジェンス戦略の公表と通知(第6条)、非財務的多様性情報の公開(第7条)、デューディリジェンス戦略の評価と再検討(第8条)、苦情処理手続(第9条)、裁判外手続による救済(第10条)等々、詳細な規定が設けられています。加盟国政府による監督や調査(第12,13条)、指針(第14条)、制裁(第18条)といった規定と並んで、第19条(民事責任)では、「企業がデューディリジェンスの義務を尊重しているという事実は、企業からいかなる責任をも免除するものではない」(第1項)とか、「加盟国は、企業がそのコントロール下にある企業も含め、その行為または怠慢によって引き起こされた人権、環境、良好な企業統治への潜在的ないし実際の悪影響から生じたいかなる危害に対しても責任を有し、改善を提供するような責任体制を確立すること」(第2項)、「加盟国は、企業が本指令に従い、問題の危害を避けるべくあらゆる適切な配慮を講じたことを証明するか、その危害はあらゆる適切な配慮を講じても発生したであろうことを証明すべき責任体制を確立すること」(第3項)といった規定まで設けられており、なかなか追及を逃れるのは難しくなっています。
 欧州委員会の方は、上記一般協議を終了し、現在具体的な指令案を検討中です。2021年第2四半期には提出すると予告されているので、おそらく今年6月に公表されると思われます。主要加盟国では、イギリスが2015年に現代奴隷法(Modern Slavery Act)を、フランスが2017年にデューディリジェンス法(Loi de Vigilance)を制定しており、ドイツも2021年3月にサプライチェーン法案(Lieferkettengesetz)を閣議決定したばかりです。労働法の世界ではまだほとんど関心を持たれていませんが、今後の動向を注目していく必要があります。

 

 

サプライチェーンの強制労働問題

20210519at65s_p アメリカがユニクロに対し、新疆ウイグルの強制労働問題を理由に輸入禁止したというニュースが駆け巡っていますが、いままでどちらかというと環境問題なんかと並びの企業モラルの問題くらいに思っていた人々にとっては、いきなり国際政治の激しい対立のさなかに放り込まれたような思いかも知れません。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021051900801

【ワシントン、北京時事】米税関・国境警備局(CBP)が、中国・新疆ウイグル自治区の強制労働をめぐる輸入禁止措置に違反したとして、ファーストリテイリングが運営する衣料品店「ユニクロ」製シャツをロサンゼルス港で差し止めていたことが、19日分かった。少数民族ウイグル族に対する人権侵害を「ジェノサイド(集団虐殺)」と見なす米政府の厳しい姿勢が浮き彫りとなった。 ・・・・

このサプライチェーンの強制労働を含むいわゆるデューディリジェンスについては、近年EUでも政策が急展開してきており、国際労働問題としても目が離せない状況になりつつあります。そのうち簡単に紹介したいと思います。

 

2021年5月17日 (月)

本久洋一・小宮文人・淺野高宏編『労働法の基本〔第2版〕』

Isbn9784589041555 本久洋一・小宮文人・淺野高宏編『労働法の基本〔第2版〕』(法律文化社)をお送りいただきました。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04155-5

  主には法学部生を対象にしているが、大学生全般を対象にしたワークルール入門にも対応した標準的テキスト。法制度の意義・要件・効果を丁寧に解説するとともに、重要判例を明示的に取り上げるなど理解を深める工夫をした。初版刊行(2019年4月)以降、主には働き方改革関連法の施行にともなう動向や新たな労働立法・裁判例を補訂した。

初版と同様、「マルチチュード」がキー概念です。

 

2021年5月16日 (日)

11年前のベーシックインカム論に一字一句変更の要無し

9784165030904_20210516211801 何回か再掲してきたものですが、またぞろ日本維新の会がベーシックインカムを打ち上げたという報道もこれあり、またぞろ再掲させていただきます。もう今から11年以上前、2009年の年末に、文藝春秋が出している『日本の論点2010』に寄稿したものですが、一字一句変更の必要はないと思います。

 マクロ社会政策について大まかな見取り図を描くならば、20世紀末以来のグローバル化と個人化の流れの中で、これまでの社会保障制度が機能不全に陥り、単なる貧困問題から社会的つながりが剥奪される「社会的排除」という問題がクローズアップされてくるともに、これに対する対策として①労働を通じた社会参加によって社会に包摂していく「ワークフェア」戦略と、②万人に一律の給付を与える「ベーシックインカム」(以下「BI」という)戦略が唱えられているという状況であろう。
 筆者に与えられた課題はワークフェアの立場からBI論を批判することであるが、あらかじめある種のBI的政策には反対ではなく、むしろ賛成であることを断っておきたい。それは子どもや老人のように、労働を通じて社会参加することを要求すべきでない人々については、その生活維持を社会成員みんなの連帯によって支えるべきであると考えるからだ。とりわけ子どもについては、親の財力によって教育機会や将来展望に格差が生じることをできるだけ避けるためにも、子ども手当や高校教育費無償化といった政策は望ましいと考える。老人については「アリとキリギリス」論から反発があり得るが、働けない老人に就労を強制するわけにもいかない以上、拠出にかかわらない一律最低保障年金には一定の合理性がある。ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方に限定される。
 働く能力があり、働く意欲もありながら、働く機会が得られないために働いていない者-失業者-については、その働く意欲を条件として失業給付が与えられる。失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。BI論は職を求めている失業者とあえて働かない非労働力者を無差別に扱う点で、「文句を言わなければ働く場はあるはずだ」と考え、働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオ・リベラリズムと結果的に極めて接近する。
 もっとも、BI論の労働市場認識は一見ネオ・リベラリズムとは対照的である。ヴァン・パリースの『ベーシック・インカムの哲学』は「資産としてのジョブ」という表現をしているが、労働者であること自体が稀少で特権的な地位であり、社会成員の多くははじめからその地位を得られないのだから、あえて働かない非労働力者も働きたい失業者と変わらない、という考え方のようである。社会ははじめから絶対的に椅子の数の少ない椅子取りゲームのようなものなのだから、はじめから椅子に座ろうとしない者も椅子に座ろうとして座れなかった者も同じだという発想であろう。
 景気変動によって一時的にそのような状態になることはありうる。不況期とは椅子の数が絶対的に縮小する時期であり、それゆえ有効求人倍率が0.4に近い現状において失業給付制度を寛大化することによって-言い換えれば働く意欲を条件とするある種の失業者向けBI的性格を持たせることによって-セーフティネットを拡大することには一定の合理性がある。いうまでもなくこれは好況期には引き締められるべきである。
 しかしながら、景況をならして一般的に社会において雇用機会が稀少であるという認識は是認できない。産業構造の変化で製造業の雇用機会が空洞化してきたといわれるが(これ自体議論の余地があるが)、それ以上に対人サービス部門、とりわけ老人介護や子どもの保育サービスの労働需要は拡大してきているのではなかろうか。この部門は慢性的な人手不足であり、その原因が劣悪な賃金・労働条件にあることも指摘されて久しい。いま必要なことは、社会的に有用な活動であるにもかかわらずその報酬が劣悪であるために潜在的な労働需要に労働供給が対応できていない状況を公的な介入によって是正することであると私は考えるが、BI論者はネオリベラリストとともにこれに反対する。高給を得ている者にも、低賃金で働いている者にも、働こうとしない者にも、一律にBIを給付することがその処方箋である。
 ある種のBI論者はエコロジスト的発想から社会の全生産量を減らすべきであり、それゆえ雇用の絶対量は抑制されるべきと考え、それが雇用機会の絶対的稀少性の論拠となっているようである。しかし、これはいかにも顛倒した発想であるし、環境への負荷の少ない生産やサービス活動によって雇用を拡大していくことは十分に可能であるはずである。
 上述でも垣間見えるように、BI論とネオリベラリズムとは極めて親和性が高い。例えば現代日本でBIを唱道する一人に金融専門家の山崎元がいるが、彼はブログで「私がベーシックインカムを支持する大きな理由の一つは、これが『小さな政府』を実現する手段として有効だからだ」、「賃金が安くてもベーシックインカムと合わせると生活が成立するので、安い賃金を受け入れるようになる効果もある」、と述べ、「政府を小さくして、資源配分を私的選択に任せるという意味では、ベーシックインカムはリバタリアンの考え方と相性がいい」と明言している*1。またホリエモンこと堀江貴文はそのブログでよりあからさまに、「働くのが得意ではない人間に働かせるよりは、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが大好きなワーカホリック人間にどんどん働かせたほうが効率が良い。そいつが納める税収で働かない人間を養えばよい。それがベーシックインカムだ」、「給料払うために社会全体で無駄な仕事を作っているだけなんじゃないか」「ベーシックインカムがあれば、解雇もやりやすいだろう」と述べている*2。なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。
 最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。給付の根拠を働くことや働こうとすることから切り離してしまったとき、残るのは日本人であるという「“血“の論理」しかないのではなかろうか。まさか、全世界のあらゆる人々に対し、日本に来ればいくらでも寛大にBIを給付しようというのではないであろう(そういう主張は論理的にはありうるが、政治的に実現可能性がないので論ずる必要はない)。もちろん、福祉給付はそもそもネーション共同体のメンバーシップを最終的な根拠としている以上、「“血“の論理」を完全に払拭することは不可能だ。しかし、日本人であるがゆえに働く気のない者にもBIを給付する一方で、日本で働いて税金を納めてきたのにBIの給付を、-BI論者の描く未来図においては他の社会保障制度はすべて廃止されているので、唯一の公的給付ということになるが-否定されるのであれば、それはあまりにも人間社会の公正さに反するのではなかろうか。
 

 

 

日本型雇用とマルクス

31bfqedepsl_sx311_bo1204203200_ 拙著『働く女子の運命』について、宮林謙吉さんがこういう感想を呟いておられるのですが、

https://twitter.com/KenkichiM/status/1393559168359931904

日本で、健全な男女共同参画が進まないのと、外国人技能実習生たちが不適切な待遇を強いられることが多いのは、根っこが同じだなあ、と濱口桂一郎著「働く女子の運命」(文春新書)を読むと、つくづく思います。
雇用が「そのジョブのために雇う」のではなくて「(社員という名の)メンバーシップに給料を払う」形式になっていて、女性とか外国人をメンバーから外すことに矛盾や痛みを感じない文化なのですね。
昭和のはじめに、戦争に向け挙国一致体制を組むとき、「そのジョブのために雇う」というロジックはマルクスの労働価値説を具現化するもの=共産主義を正当化するものと見なされて敵視され、「労働は臣民の義務」とする指導原理の政策が実行されたところに源流があるようです。
昭和のはじめから今日まで続いているものだとすると100年近く継続してきた慣例だから、それを撤廃しようとするとそれ相応の労力と時間がいるだろうと思いました。 

この認識自体はそうなんですが、日本型雇用とマルクス主義との関係はもう少し複雑です。確かに、第一次大戦後、思想悪化(共産主義化)を防ぐことを目的として生活給が提唱され、戦時体制下で皇国勤労観として一般化したのですが、それを戦後維持強化したのは労働組合運動であり、それをイデオロギー的に支えたのもまた、マルクス経済学の同一労働力同一賃金理論であったのですから、そのあたりの経緯も同書にはかなり詳しく述べています。

こういう日本型雇用を断固擁護し、欧米の労働運動がその上に立脚しているジョブ型を敵視するという点では、いわゆる新左翼諸党派も何の変りもないようで、「労働の解放を目指す労働者党」の機関紙『海つばめ』(かつて拙著への書評が載ったこともありますが)ではごく最近もこういう論調を掲げていますね。

http://wpll-j.org/japan/petrel/1401.html

Msp1 他方、ジョブ型雇用によって、職種別・産別による労働組合への再編が可能になり、賃上げ闘争が有利になり、高賃金獲得によって「資本の私的労働としての性格を緩和させる」かに幻想を煽る学者がいる。こうした学者に賛同する労組もあるようだが、こんな姿勢では、大企業や政府が繰り出してくる労働者攻撃と闘えない。
 さらにまた、ジョブ型雇用により同一職種内の賃金差別が解消されうるかに言うが、それでは別職種や別職務との賃金格差や差別を容認するのか。つまり彼らは、職種や職務の違いによる「労働力の価値」の大きさの違いはやむを得ないとするのである。
 労働者の賃金は、労働力を再生産するために必要な労働時間であり、この労働時間は労働者が生活し再び労働できるために必要な消費手段(衣食住)を生産する労働時間とされる。従って、この賃金に含まれる労働時間は、労働者が企業(資本)のもとで実際に行う総労働ではない。賃金は総労働の半分以下であり、半分以上を企業(資本)によって搾取されている。
 こうした搾取された労働の残りを賃金として分配されるから、資本主義が成り立ち、企業は莫大な利潤(営業利益)を生み出すことができる。
 ところが、ジョブ型雇用を歓迎する学者(や労組)は、「労働力の価値」規定の中に専門的な技術・学問を身に着けるための教育費や養成費を含めることを容認するし、せざるを得ない。
 なぜなら、職種や職務が違うならば、高度な技術・学問の教育費や養成費があることを認め、「労働力の価値」は違う(複雑労働力の価値は単純労働力の価値より大きい)ことを肯定するからである。
 つまり彼らは自覚していないかも知れないが、結果的には、高級労働者や管理職者の利益を代弁する。こうして「労働力の価値」に基づく賃金は、ずっと昔から、職種別賃金とか職務給重視の賃金理論として、また安倍や菅らの「同一労働同一賃金」にも通じるブルジョア的な理屈の基礎となってきた。
 しかしである。我々労働者は、将来の「労働の解放された」社会では、子供の養育や教育費、さらに高度な技術を習熟する労働育成費などは社会化され、個人的な負担の違いが一掃されることを知っている。
 従って、この社会では、「労働力の価値」に基づく分配の必要はなく、人々は社会的生産に参加した「労働時間」に応じて、労働生産物を自由に手にすることが出来るのであり、それゆえに、資本主義のもとでは当然とされる搾取と賃金差別は一掃されるのである。
 こうした「労働の解放された」社会を目指して闘うことが、今や全ての労働者にとって一番重要なことである。メーデーに当り、このことを強調する。   

こうして、ジョブ型を敵視する新左翼の方々は、(今やだれも信じていない遠い将来の夢まぼろしのポエムを看板に掲げつつ)現実に目前にある企業のヒト基準の賃金制度に対して、同一労働同一賃金すなわち異なる労働異なる賃金の原理を否定し、子供の養育費や教育費を、賃金として企業に支払わせるメンバーシップ型の断固たる擁護者として立ち現れることとなるわけです。

 

2021年5月14日 (金)

『日本労働法学会誌134号』

Isbn9784589041586 『日本労働法学会誌134号 労働関係の変容と集団的労使関係法理の再構築』が届きました。昨年秋にオンラインで行われた労働法学会137回大会の大シンポとワークショップの記録が主です。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04158-6

大会のメニューはこちらにあります。

https://www.rougaku.jp/contents-taikai/137taikai.html

大シンポでは、やや片っ端から質問を繰り出すような感じになりました。

さて、学会誌には大会の記録以外の論文も載っています。その中でいささかびっくりしたのは、弁護士で信州大准教授の弘中章さんの「公共部門における「委託型就業者」に関する一考察」です。何にびっくりしたかというと、私が東大の労働判例研究会で報告したまま活字にすることなくひっそりとホームページに乗っけておいた評釈を引用されていたのです。浅口市事件((岡山地倉敷支判平成30年10月31日)(判例時報2419号65頁))という、市との労務参加契約の雇用契約該当性が問題になった事案です。

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan200612.html

弘中さん曰く:

・・・しかし、最近の裁判例では、個人が行政主体と業務委託等の契約を直接に締結した場合において、その就労実態から当該契約を「雇用」と評価したものが見られ、注目される。また、研究者からも、個人請負契約によって公務に従事する者の存在に注意を促す指摘がなされるようになってきている。・・・

まだほとんどだれも本格的に議論を始めていないテーマではありますが、これから結構出てくる可能性もあるように思われ、こういう形で正面から議論をする論文が学会誌に載ったのは大変うれしいことでした。

 

2021年5月11日 (火)

ジョブ型「技人国」在留資格とメンバーシップ型正社員の矛盾@WEB労政時報

WEB労政時報に「ジョブ型「技人国」在留資格とメンバーシップ型正社員の矛盾」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/login.php

日本の外国人労働政策は至るところに矛盾を孕(はら)孕(はら)んだ形で展開してきました。その代表格は「労働者として」入れるのではない定住者という在留資格の日系南米人と、最初は「労働者ではない」研修生で、次は一応労働者ではあるが主目的は国際貢献という触れ込みの技能実習生ですが、留学生の資格外活動(アルバイト)を週28時間まで認めているのも、ローエンド技能労働者のサイドドアであることは確かです。・・・・

 

2021年5月 8日 (土)

ジョブ型の基礎の基礎復習(産経新聞と朝日新聞のインタビュー)

コロナ禍で緊急事態宣言が延長される今日この頃ですが、変なジョブ型論がまかり通っているという点では昨年と相変わらずの状況で、本人もいい加減にしたいのですが、やはり昨年産経新聞と朝日新聞というある面では対極的なメディアで、全く同じような趣旨のインタビュー記事に登場したのを、再三お蔵出ししないといけないようですね。

https://www.sankei.com/premium/news/201014/prm2010140001-n1.html(間違いだらけの「ジョブ型」議論、成果主義ではない…第一人者・濱口桂一郎氏が喝!)

Lif2010140001p1 新型コロナウイルス禍でのテレワーク拡大で社員の評価が難しくなっていることを受け、日本企業の雇用システムを欧米流の「ジョブ型」に切り替えるべきだとする議論が新聞や雑誌で盛んになっている。だが、ジョブ型の名付け親で、労働問題の第一人者として知られる濱口桂一郎労働政策研究・研修機構労働政策研究所長は「ジョブ型を成果主義と結び付ける誤解が多く、おかしな議論が横行している」と警鐘を鳴らす。   
(文化部 磨井慎吾)
 
 「就職」と「入社」
 ジョブ型とは、採用時から職務をはじめ勤務地や労働時間などを明確化した雇用契約を結び、その範囲内でのみ仕事を行うという欧米をはじめ世界中で標準の雇用システムを指す。典型的な例が米国の自動車産業の工場労働者で、細分化された具体的な職(ジョブ)に就くという、文字通りの意味での「就職」だ。
 これに対し、「入社」という言葉や新卒一括採用制度に象徴されるように、職務を限定せずにまず企業共同体のメンバーとして迎え入れ、担当する仕事は会社の命令次第という日本独特の正社員雇用は「メンバーシップ型」と呼ばれる。職種や勤務地、時間外労働などに関し使用者に強い命令権を認める代わりに、命じられた仕事がなくなった場合でも会社が別の業務に配置転換させる義務を負うなど、共同体の一員として簡単には整理解雇されない。
 この2類型は濱口所長が平成21年の著書『新しい労働社会』(岩波新書)などで命名し、現在では労働問題に関する議論で広く定着した用語となっている。
 そして、その根本的な違いは、職務が限定されているか否かという部分にある。「だからテレワークが増えて成果の評価が難しくなったのでジョブ型に移行すべきだ、というのは本末転倒な話なんです。ジョブ型雇用では、たとえば会社都合の人事異動など、今の日本企業なら当たり前のことの多くができなくなる。そうした大転換だということを全く分かっていない議論が多い」。濱口所長は、そう嘆く。
 
ジョブ型=成果主義?
 特に顕著なのが、「ジョブ型=成果主義」とする勘違いだという。
 「そもそもジョブ型では一部の上層を除けば、中から下の人についてはいちいち成果を評価しません。なぜかといえば、そのジョブに就ける人間かという評価はすでに採用時に済んでいるから。後はジョブ・ディスクリプション(職務記述書)に書かれた内容をちゃんとやっているかだけです」
 対して、人に注目するメンバーシップ型では末端に至るまで正社員全員を評価の対象にする。だが業績の評価といっても、ジョブの明確な切り分けのない日本企業で、しかも決定権や責任のない一般社員個々人に対して適切に行うのは困難であるため、社員の「頑張り」を見て評価する疑似成果主義になりがちだ。
 濱口所長は「日本で重視されるのはもっぱら潜在能力の評価と情意考課。従来は大部屋のオフィスで一緒に仕事して、あいつは頑張っている、などと評価していたのが、テレワークだと見えなくなってやりにくいという話で、それは単に評価制度の問題」とした上で、「ジョブ型への転換は評価制度に留まらず、企業の根本の仕組みを変え、入口である教育制度と出口である社会保障とも連動するなど、社会の仕組みの根幹にも関わってくる。ジョブ型導入論者が、そこまで考えた上で言っているのかは疑問だ」と指摘する。
 
「いいとこどり」は不可能
 「私が一番言いたいのは、みんなジョブ型を新しいと思って売り込もうとしているけど、まったく新商品ではないよ、むしろ古くさいものだよ、ということです」
 産業革命後の欧米社会で長い時間をかけて形成された雇用モデルであるジョブ型に対し、高度成長期の日本で定着したのがメンバーシップ型だ。1980年代までは硬直的な欧米のジョブ型と比べ、柔軟で労働者の主体性を引き出す優れた仕組みだと称賛もされてきたが、90年代以降は「正社員」枠の縮小に伴う非正規労働者の増加、無限定な働かせ方に起因するブラック企業化など、各種の問題が噴出するようになった。そこで引き合いに出されるようになったのがジョブ型だが、現在の経済メディアなどでの議論では、そうした歴史的経緯はすっかり忘却されている。
 濱口所長は「2つの型のどちらも、色々なものが組み合わさった複雑なシステム。当然メリットもデメリットもあるし、全部ひっくるめて一つのシステムなので、いいとこどりなんてできるはずがない」と力を込め、メンバーシップ型の発想にどっぷり漬かった頭でジョブ型を理想化し、簡単に導入できるかのように説く議論を戒めている。

https://www.asahi.com/articles/ASNCN3D9KNCHULFA00F.html(誤解だらけのジョブ型雇用 名付け親が語る本当の意味)

Asahi_20210508190501  「ジョブ型」と称した人事制度を採り入れる企業が増えています。日立製作所や資生堂などの大手も導入し、年功序列などの日本型雇用は、本格的に崩れるとの見方もあります。しかし、「ジョブ型」の名付け親として知られる労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎所長を訪ねると開口一番、「ジョブ型は『成果主義』の代替用語ではない」。一体、どういうことなのでしょうか。(聞き手・榊原謙)

――「ジョブ型」の人事制度を打ち出す企業が相次いでいます。
 「『ジョブ型雇用』は私が10年ほど前に言い出した言葉だが、今年に入って、字面は同じ『ジョブ型』でも、9割がた違う意味で使う企業が次々に出てきた。『人材を、労働時間ではなく成果で評価することがジョブ型』などというミスリーディングな言説もメディアをにぎわせている。議論の前提がグジャグジャになっており、さすがに捨ててはおけないという感じだ」
 ――ジョブ型とは本来、どのようなものなのですか。
 「会社と、そこで働く人をつなげる方法は2種類ある。一つは、会社を『ジョブ(職務)の束』と考えて、ジョブごとに、それが出来る人を当てはめるやり方だ。それぞれのジョブには、職務内容や責任範囲を明確にしたジョブ・ディスクリプション(JD・職務記述書)が定められ、必要なスキルも明らかになっている。これがジョブ型雇用で、欧米では主流の雇用システムだ」
 「もう一つは、会社を『人の集まり』とみなし、ジョブとは関係なくまず人を雇って、その会社が行っているもろもろの仕事をやらせる『メンバーシップ型』の雇用だ。ジョブをこなすスキルではなく、潜在能力に期待してまっさらな若い人を新卒一括採用し、上司や先輩がビシバシ鍛える日本企業に典型的だ」
 ――ジョブ型もメンバーシップ型も、それぞれの社会に長く根付いた仕組みですね。
 「そうだ。ジョブ型が本当の意味での『就職』だとすれば、メンバーシップ型は『就社』のイメージに近いだろう。雇用システムを、こうした概念で整理することは決して目新しいことではない」

リベンジで飛びついた企業
 ――今年に入って、「ジョブ型」を打ち出す企業が増えているのはなぜでしょうか。
 「一部の企業を除き、多くは単に成果主義の賃金・人事制度を『ジョブ型』と称しているに過ぎない。20年前に失敗した成果主義導入のリベンジ(雪辱)を果たしたい企業が、看板を掛け替えたり新しいスローガンを掲げたりしようとする中で、欧米風で格好良く映る『ジョブ型』という言葉に飛びついたのだろう」
 ――「リベンジ」とは、どういうことですか。
 「日本企業は2000年前後、年功序列型の賃金制度からの転換を狙い、従来のメンバーシップ型の雇用の仕組みにどっぷりつかったまま、成果主義型の評価制度を続々と導入した。だが、その内実は多くが理不尽なもので、過大な営業目標などを上から下ろし、『この目標を達成したのか、していないのか』と迫ることで社員を評価しようとした。こうした成果主義の多くは結局、うまくいかなかった」
 「そのリベンジを狙う企業は、今度は、目標のかわりにJDを物差しにして社員を評価しようとしているのだろう。だが、そもそも誤解がある。ジョブ型は、一部の例外を除いて、労働者を評価なんてしない仕組みだからだ」
――え、そうなのですか。
 「ジョブ型は『ジョブありき』なので、そのジョブができる人を、そこに当てはめる。だから、その人がその仕事をできるかどうかは、ジョブに当てはめる前に評価する。やらせると決めた後は評価しない。あとは、その人がJDに書かれたことをやればJDに書かれた給料が支払われ続け、できなければ能力不足で解雇になる可能性があるだけで、評価や査定という話にはならない」
 「一方、メンバーシップ型は、管理職から平社員まで全員を評価するのが特徴だ。実態は、社員のスキルではなく、『やる気』や『姿勢』などを評価しているに過ぎないのがほとんどだが。社員の評価を、するかしないか。それがジョブ型とメンバーシップ型の最大の違いと言える」

「成果で評価」は9割方誤り

 ――でも、「ジョブ型にして、社員を成果で評価する」といった説明も聞きます。
 「非常にミスリーディングな言い方だ。確かにジョブ型でも、エグゼンプト(米国のマネジメント層や高度な専門職など)のような働き方をする人たちは、会社の目的や業績にどういう貢献をしたか、まさに成果で厳しく評価される。マネジメント職など、ポジションが上にいけばいくほど、JDも俯瞰(ふ・かん)的・包括的になってしまうからだ」
 「だが、こうした人たちはジョブ型社会の『上澄み』で、全体からみれば一部であり、例外だ。この部分だけを取り出して『ジョブ型は成果で評価する』と言うのは、論理的には100%ウソだとは言えないが、ジョブ型雇用の構造を考えれば、8~9割方、誤っている。メンバーシップ型を前提にした単なる成果主義を、ジョブ型という言葉で代替しているに過ぎない」

「解雇しやすくなる」も誤解
 ――ジョブ型にすると「解雇しやすくなる」と言う人もいます。
 「これも誤解がある。問題なくJDの内容をこなせており、そのジョブ自体がなくならなければ、簡単に解雇を言い渡されるようなことはない。ジョブ型=解雇自由のようなイメージがあるが、それは経営者が労働者を自由に解雇できる米国の話。世界では、米国は例外的な存在だ」
 ――それでは、欧州などのジョブ型社会で、解雇が正当になるのはどのような場合ですか。
 「典型例は、そのジョブ自体がなくなるケースだ。たとえば、会社がある部門の廃止を決めてジョブが失われれば、そのジョブに就いていた人は仕事がなくなるので、整理解雇され得る。『ジョブありき』のジョブ型社会の論理的帰結だ。フランスやドイツなど欧州の多くの国では、社内の別のポジションに応募したり、再就職の支援を受けたりできるように労使協議することが義務づけられている」
――欧米は、日本よりも労働者が会社を移りやすい社会と言われます。
 「日本でも、例外的にジョブ型に近い医療分野を考えてみると分かりやすい。企業のように社内で数年ごとに仕事が変わるようなことはなく、同じ病院の中でも医師は医師、看護師は看護師、技師は技師として働き、それぞれの職種のまま別の病院に移っていく。これは、職種が明確で、かつ職種ごとに病院を移れる社会的な枠組みがあるからだ」
 「欧米では、これと同じことが産業ごとに実現している。職種と、それにひもづく賃金が企業を超えて明確になっている。企業の枠を超えたJDがあるということだ。仕事がなくなった時に、社内の別の仕事にジョブ・チェンジするよりも、今までと同じ仕事を他社で続けたいと考える人が欧米に多いのも、労働移動をしても同じジョブを継続できるだろうという安心感があるからだ」

配置転換など「許されなくなる」

――日本企業は、社命による人事異動や全国転勤、単身赴任などが当たり前ですが、本当のジョブ型ならそうしたことも難しくなるのですね。
 「日本の雇用制度は硬直的で、ジョブ型はフレキシブルだと思われているが、大変な勘違いだ。実際は、メンバーシップ型ほど、会社が社員に何をやらせてもアウトにならない仕組みはない。ジョブ型にすれば、会社が人事権を使って社員をどんどん配置転換するなんてことは許されなくなる。経営者にとっては、恐ろしいほど硬直的な世界になる。どれだけの企業が、そこまで分かった上で、ジョブ型という言葉を使っているのだろうか」
 ――配達員が会社と雇用契約を結ばず、個人事業主としてネット経由で仕事を請け負う「ウーバーイーツ」などの飲食宅配の仕事は、もはや「ジョブ」ですらないという指摘もあります。
 「会社はジョブの束だと言ったが、それぞれのジョブは、多くの『タスク』の束だ。会社としては、一つひとつのタスクまで働き手に手取り足取り指揮命令していたら大変なので、タスクをまとめたジョブを、きちんと雇った労働者に任せ、その様子を監督することで、取引コストを低減してきた」

ジョブどころか「タスク化」の時代に
 「ところが、情報通信技術や人工知能(AI)の進展で、プログラムさえ組んでおけば、大半は事が足りるようになり、人間が指揮監督しなくても個々のタスクをコントロールするメカニズムが可能になったじゃないと出来ないことは、わずかなタスクでしかなくなってしまった。その代表例が、個々の運搬作業『運ぶこと』だけを任されているウーバーイーツなどの宅配や運輸の分野だろう」
 「この仕組みが、宅配などの世界から、もっと高度な仕事にまで入ってきたらどうなるのか。ジョブ型どころか、仕事はタスクにばらけ、人々は単発のタスクを請け負う『デジタル日雇い』として働く世界が来るかもしれない。欧米では、『雇用の時代』が終わり『請負の時代』が始まるという議論も起きている」
――ジョブ型で騒いでいる日本は、周回遅れなのかもしれませんね。
 「どんな雇用システムの国でも、社会保障の仕組みなどは、ある程度の期間は一つの仕事に就いて働くことを前提に作られている。『ジョブ』は社会の安定装置でもあり、その解体は、社会の成り立ちを根底から覆しかねない。仕事のタスク化は日本でも始まっており、決して人ごとではない深刻な問題だ」 

 

文科省のジョブ型インターンシップって、要は雇用契約を結ぶってことね

昨年来、日経新聞をはじめとする訳の分からない「ジョブ型」の氾濫に頭を悩ませてきた当方とすると、これもそのたぐいなのかなと思ったのですが、

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/109/toushin/1386864_00001.htm(ジョブ型研究インターンシップ(先行的・試行的取組)実施方針(ガイドライン)(案)等について)

 「ジョブ型研究インターンシップ推進委員会」(委員長:橋本和仁 国立研究開発法人 物質・材料研究機構理事長)において、「ジョブ型研究インターンシップ(先行的・試行的取組)実施方針(ガイドライン)(案)」等を検討し、以下の内容を了承しました。今後、この内容に基づき、文部科学省においてこれらの策定が行われます。

そのガイドライン(案)というのを見ていくと、もちろんふわふわしたフリル言葉がいっぱいちりばめられていて、その手のジョブ型論かと思わせる雰囲気もあるのですが、畢竟するところ、なにが「ジョブ型」なのかというと、インターンシップだけどちゃんと雇用契約を締結して、企業で研究業務に従事するということのようです。つまり「雇用型」という意味で「ジョブ型」って言っているんですね。これはこれで、ジョブ型の欧米社会であれば極めて自然な用語法ですね。雇用労働者ではないインターンだという名目で、無給薄給でこき使うのとは違うという意味で「ジョブ型」という言葉を使うのは、世界標準的にはきわめてまともです。

Jobintern

 

 

今年のEU労働政策の予定

01_20210508114601 昨日、今日と、ポルトガルのポルトでEUソーシャルサミットが開かれていますが、その関係の資料の中に、今後のEUの労働社会政策の予定表が載っています。

https://op.europa.eu/webpub/empl/european-pillar-of-social-rights/en/

そのうち、労働法の観点から関心の高い労働条件関係のものを見ると、

The Commission will:

Present in Q4 2021 a legislative proposal on the working conditions of platform workers, following the consultation of social partners.

Put forward an initiative in Q4 2021 to ensure that EU competition law does not stand in the way of collective agreements for (some) self-employed.

Following the White Paper on Artificial Intelligence, propose an EU regulation on AI in Q2 2021, for the uptake of trustworthy AI use in the EU economy, including in the workplace for all forms of work.

Present in 2022 a report on the implementation of the Working Time Directive.

Ensure an appropriate follow-up to the European Parliament Resolution with recommendations to the Commission on the right to disconnect.

The Commission encourages:

Social partners to follow-up on their Autonomous Framework Agreement on Digitalisation, notably in relation to the modalities for connecting and disconnecting, and to explore: 1) measures to ensure fair telework conditions and 2) measures to ensure that all workers can effectively enjoy a right to disconnect. 

最初の、2021年第4四半期にプラットフォーム労働者の労働条件に関する立法提案をするというのは、その前段階の労使団体に対する第1次協議について、先日『労基旬報』で紹介したところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/03/post-8a9722.html(EUのプラットフォーム労働における労働条件に関する労使への第1次協議@『労基旬報』2021年3月25日号)

もう今年中には指令案の提案までいくみたいです。

同じく2021年第4四半期には、これも先日『季刊労働法』にかなり詳しく書いたフリーランスの団体交渉権について競争法が邪魔にならないような措置を講ずることが予定されていますね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/03/post-6e35b0.html(『季刊労働法』2021年春号(272号))

次の2021年第2四半期に職場を含むEU経済におけるAI利用に関する規則を提案するというのは、すでに先月提案されていて、こちらはJILPTのコラムで速報的に紹介しておきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-01d3f9.html(EUの新AI規則案と雇用労働問題@JILPTリサーチアイ)

2022年に労働時間指令の実施状況報告をするのはいいとして、次の二つはテレワーク関係です。これらはつながっていて、欧州議会のつながらない権利にかんする勧告については先日WEB労政時報に詳しく紹介していますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-a6dda2.html(欧州議会による「つながらない権利」の指令案勧告@WEB労政時報)

そこで触れた欧州労使のデジタル化協約でやってね、というのが欧州委員会の意向だということのようです。

Teleworkbooklet ちなみに、こうした最近のテレワークの動きについては、3月末に東京労働大学講座の特別講座でお話ししたところですが、その中身とJILPTのテレワーク調査研究などをまとめて、来月にはブックレットとして刊行する予定です。

 

 

 

 

 

2021年5月 3日 (月)

高校「公共」教科書にジョブ型、メンバーシップ型が登場

Img3717x1024 依然として、メディア上に流れる「ジョブ型」という言葉の9割方は、成果主義とごっちゃにしたような見当はずれのジョブ型論ですが、そういう手合いにまず読んでもらうのにふさわしそうな高校の教科書が出たようです。教育図書の「公共」。

https://www.kyoiku-tosho.co.jp/2021/03/27/843/

2022年度から公民科教育は大きく変わります。
知識を覚えるだけの暗記科目から,主体的に社会にかかわる「考える公民科」へ。
新科目「公共」は「現代社会」の焼き直しではありません。
今,目の前で起こっている社会課題,高校生が近い将来直面する不安,それらにについて思考し議論するための材料として教育図書の「公共」は作られています。
新しいスタイルの教科書で,新しい公民科の扉を開けましょう。

そのテーマ学習の筆頭に、「【ジョブ型かメンバーシップ型か】働き方について深く考えるための公共の授業」なるページがあり、

https://www.kyoiku-tosho.co.jp/news_list/1905/

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憲法記念日に人権を考える・・・hamachan版

本日、憲法記念日ということもあり、本ブログで過去、人権について書いたエントリをいくつかお蔵出しします。

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http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-baa7.html(りべさよ人権論の根っこ)

ユニオンぼちぼち リバティ分会(大阪人権博物館学芸課・教育普及課分会)のブログに、興味深い記述がありました。

http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-308.html権利と聞いて何をイメージしますか?

・・・次に、今まで受けてきた人権教育、人権啓発の内容について質問します。
 被差別部落、在日コリアン、アイヌ民族、障害者、パワーハラスメント・セクシュアルハラスメント、ジェンダー、人種差別など、その特徴は個別の差別問題があげられることです。

権利に対して抱いているイメージが抽象的か具体的かについては、そのおよそ7割が抽象的だったと答えてくれます。身近かどうかについても、6~7割程度が「身近ではない」に手を挙げます。
 受けてきた人権教育・人権啓発を数多く書いてくれる人も中にはいるのですが、「働く権利」と書く人はほとんどいません。子どもでは皆無です。

この質問を考えたときに想像していた通りの結果にはなっているのですが、これが現状です。日本社会で権利がどのように受けとめられているかがよく分かりますし、状況はかなり深刻ではないかと感じています。
 人権のイメージが抽象的で自分に身近なものとは感じていないのですから、これではなかなか自分が人権をもっていると実感することはできません。まさに人権は、特別な場で特別な時間に学ぶものになってしまっています。
 最後に、「人権は誰のものですか?」と聞くと、多くの人は「全ての人のもの」と答えます。なのに、人権について繰り返し聞いたこれらの質問を考えるとき、自分に関わる質問だと感じながら考える人は多くないようです。「みんなのもの」なのに、そこに自分はいないのでしょうか。

まさにここに、世界でごく普通に認識されている人権とはかなり異なる日本における「人権」のありようが透けて見えます。

なぜこのような現状になっているのか。その問題を考えるとき、従来おこなわれてきた人権教育や啓発の問題を考えざるを得ません。
 質問に対する答えにも書いたように、人権教育や啓発でおこなわれている大半は、個別の差別問題に対する学習になっています。リバティに来館する団体が学芸員の解説で希望するテーマも、やはり多くは部落問題や在日コリアン、障害者の問題などになっています。
 もちろんこれらの問題も、被差別者の立場以外の人にこそ、自分自身が問われている問題だと考えて欲しいと思っています。しかし、リバティに来る子どもたちを見ていると、人権学習は固くて、重くて、面白くない、自分とは関係ないものだと感じていることがよく分かります。
 人権のイメージを聞かれて、「差別」と書くのも、人権学習は差別を受けて困っている人の話だと思っていることが影響しているのかもしれません。
 このような意識を変えていくためにこそ、労働に関する問題と働く権利の話を伝えていくことが必要だと思っています。

この異常に偏った「人権」認識が、例えば赤木智弘氏の「左派」認識と表裏一体であることはいうまでもありませんし、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。
で、その時に、自分はどうなるのか?<
これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

そして、人権擁護法案に対するこういう反応の背後にあるのも、やはり同じ歪んだ人権認識であるように思われます、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html(ミニ・シンポジウム「教育制度・教育政策をめぐって(2)――教育と雇用・福祉」 )

数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか
 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-3e81.html(自分の人権、他人の人権)

https://twitter.com/YuhkaUno/status/494839766626492419

人権教育というのは、まず「あなたにはこういう権利がある」ということを教えることだと思うんだけど、日本の人権教育は「弱者への思いやり」とかで語られるから、人権というのは「強者から弱者への施し」だと考えるようになるんだと思う。

もっというと、だから人権を目の敵にする若者たちがいっぱい出てくるわけです。

ということをだいぶ前から言い続けてきているわけですが・・・。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html

 残りの3分の1の時間で、想定される小玉先生の話に対するコメントをします。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になります。
 
数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです。
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-4543.html(リベサヨにウケる「他人の人権」型ブラック企業)

みなみみかんさんの鋭い直感:

https://twitter.com/radiomikan/status/505024778688684034

たかの友梨もワタミもそうなんだけど、児童養護施設に寄付したり東南アジアの子供ために力を入れたりしてるんだけど、自社の社員に対する扱いがアレで、もうなんかアレという他ない。

だから、そういう「他人の人権は山よりも高し、自分の人権は鴻毛よりも軽し」って感覚こそ、あの赤木智弘氏がずっぽりとその中で「さよく」ごっこしていた世界であり、そんなんじゃ自分が救われないからと「希望は戦争」になだれ込んでしまった世界であるわけです。

自分の人権なんかこれっぽっちでも言うのは恥ずかしいけれど、どこか遠くの世界のとってもかわいそうな人々のためにこんなに一生懸命がんばっているなんて立派なぼく、わたし、という世界です。

そういうのを讃えに讃えてきたリベサヨの行き着く果てが、末端の労働者まで社長に自我包絡されて、こんなに自分の人権を弊履の如く捨て去って他人の人権のために尽くすスバラ式会社・・・というアイロニーに、そろそろ気がついてもよろしいのではないかと、言うてるわけですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年5月 2日 (日)

ピケティのバラモン左翼論は3年前から

Images なんだか今頃になって、またぞろトマ・ピケティのバラモン左翼論がバズっているようですが、この言葉をおそらく初めて紹介したこのエントリは、もう3年以上前になります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

21世紀の資本で日本でも売れっ子になったトマ・ピケティのひと月ほど前の論文のタイトルが「Brahmin Left vs Merchant Right」。「バラモン左翼対商人右翼」ということですが、この「バラモン左翼」というセリフがとても気に入りました。・・・

ふむ。思いついた言葉がすべてで、それがそのままタイトルになったという感じですが、確かに「インテリ左翼」とかいうだけでは伝わらないある種の身分感覚まで醸し出しているあたりが、見事な言葉だなあ、と感じました。  

 

 

中国の左翼は日本の右翼または張博樹『新全体主義の思想史』

452526 アメリカがバイデン政権になって、米中対立が本格的に専制対民主の対立になりつつある今、前から気になっていながらそのままになっていた張博樹『新全体主義の思想史』を通読しました。

https://www.hakusuisha.co.jp/book/b452526.html

習近平体制を「新全体主義」ととらえ、六四以後の現代中国を壮大なスケールで描く知識社会学の記念碑的著作。天安門事件30年を悼む

著者の張博樹さんは、中国社会科学研究院を解雇され、コロンビア大学で現代中国を講じている言葉の正確な意味でのリベラル派中国知識人ですが、そのリベラル派から新左派、毛左派、紅二代、ネオナショナリズムに至るまで、現代中国の9大思潮を、時にはそのインチキなロジックを赤裸々に分析しながら描き出した大著です。

著者を含むリベラル派については、訳者の石井知章、及川淳子さんらによる紹介がされていますし、妙にポストモダンめいたレトリックを駆使して中国共産党政権を擁護する汪暉ら新左派についても、なぜか日本にファンが多いようで、やはり結構翻訳されていますが、それ以外の種々様々な思想ないし思想まがいについては、これだけ包括的に描き出したものはちょっとないでしょう。そして、本書に描かれた時に精緻めかした、時にやたらに粗雑な「左派」という名のロジックの数かずを読み進んでいくと、なんだか似たようなロジックを日本語でも読んだ記憶があるなという感想が浮かんできます。

それは、意外に思われるかもしれませんが、『正論』とか『WILL』とか『hanada』といったいわゆる右翼系オピニオン雑誌によく出てくるものとよく似ていて、そうか、中国の左翼というのは日本の右翼の鏡像みたいなものなんだな、ということがよくわかります。

まあ、それは不思議ではなく、普遍的な近代的価値観を目の敵にするという点では、日本の右翼と中国の左翼は全く同じであって、ただどちらもそれがストレートではなくねじれている。

日本の右翼は、本音ではアメリカ占領軍に押しつけられた憲法をはじめとする近代的価値観が大嫌いなのだが、(ほんとはよく似た)中国共産党と対決するために、アメリカの子分になって、アメリカ的価値観に従っているようなふりをしなければならない。

中国の左翼は、本音は中華ナショナリズム全開で、欧米の思想なんて大嫌いなのだが、肝心の中国共産党が欧米由来のマルクス主義をご本尊として崇め奉っているので、論理めちゃくちゃなマルクス神学のお経みたいな議論をやっている。

というのは、もちろん著者の意図とはかけ離れた、日本の一読者の斜め下からの感想に過ぎませんけど。

 

 

2021年5月 1日 (土)

それは労働者性ではなく利益代表者性の認定

Kantoku_20210501130701 今年2月にまとめた報告書『労働者性に係る監督復命書等の内容分析』は、実務的にはなかなか興味深い内容のものだと思っているのですが、判例に目が行きがちな研究者の方々にはあまり関心を呼ばないようで、ようやく大内伸哉さんに取り上げていただきました。

https://www.jil.go.jp/institute/reports/2021/0206.html(労働政策研究報告書 No.206 労働者性に係る監督復命書等の内容分析)

労働基準監督署において取り扱った労働者性に係る事案の内容分析を通じて、1985年労基研報告の労働者性判断基準の運用実態を明らかにする。 

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/amoristaumorista/2021/04/post-399877.html(労働者性について)

 もう一つが,労働政策研報告書No. 206『労働者性に係る監督復命書等の内容分析』です。これは濱口桂一郎さんが担当しています。労働者性をめぐって現場でどのような問題が起きているのかを,行政の文書である監督復命書と申告処理台帳を分析して解明しようとするものです。行政の現場では,労働者性の判断を実際に求められることがあるわけですよね。実は私の提案する事前認証手続の一つは,そうした行政での労働者性の判断をフォーマルな手続として整備し,その判断をファイナルなものとすることです。これにより紛争防止ができればというのが狙いです。・・・

憲法の保障する裁判を受ける権利が保障されている以上、行政の行為をファイナルにするのは難しいとは思いますが、もっとフォーマルな手続にするという発想はあり得るとは思います。

さて、大内さんはそれに続けてこう述べるのですが、これはいささか誤解されているようです。

実は,現行法でも,労働者性の判断についてのフォーマルな事前手続を定めたとみられるものがあります。一つは,労組法関係ですが,地方公営企業等の労働関係に関する法律52項は,「労働委員会は,職員が結成し,又は加入する労働組合……について,職員のうち労働組合法第二条第一号に規定する者の範囲を認定して告示するものとする」となっています(労働委員会規則28条以下)。実際にこのような認定・告示がされているのか,よく知りませんが,こういう手続があること自体,興味深いです。・・・

この「労働組合法第二条第一号に規定する者 」というのは、「役員、雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者、使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが当該労働組合の組合員としての誠意と責任とに直接に触する監督的地位にある労働者その他使用者の利益を代表する者 」であり、世間で言うところの管理職ですね。実際、これに基づいて制定されている地方労働委員会告示では、局長とか次長とか所長といったのが並んでいます。これらは労働者性とは関係がありません。

さらにそれに続けてこう書かれていますが、

あるいは,実態がよくわかってないのですが,生活困窮者自立支援法16条に基づく生活困窮者就労訓練事業では,いわゆる中間的就労として雇用型と非雇用型とがあり,そのどちらに該当するかは,「生活困窮者自立支援法に基づく認定就労訓練事業の実施に関するガイドライン」によると,「対象者の意向や,対象者に行わせる業務の内容,当該事業所の受入れに当たっての意向等を勘案して,自立相談支援機関が判断し,福祉事務所設置自治体による支援決定を経て確定する」となっています。「非雇用型の対象者については、労働者性がないと認められる限りにおいて、 労働基準関係法令の適用対象外となる」とされているので,この手続で労働者性の判断が確定するわけではないのでしょうが,行政が労働者性の判断の前さばきをしているとみることができそうですね。こうした行政実務の実態がどのようになっているのかも知りたいところですね。・・・

これもやや誤解があるのではないかと思うのは、福祉行政も行政に違いはないでしょうが、労働者性の判断に関する権限は何ら与えられているわけではなく、労働基準行政から見れば一般民間企業における業所管官庁と何ら変わらないと言うことです。製造業の工場現場の労働者性の判断に経済産業省が何ら権限を持たず、建設現場の一人親方の労働者性の判断に国土交通省が何ら権限を持たないのと全く同じです。仮に何か「前さばき」まがいのことをしたからといって、それが権限を有する労働基準行政の判断を(事実上はともかく)法制的には左右するものではありません。

 

 

 

 

 

 

 

拙評釈に担当弁護士ご本人がニヤリ

先月、労働判例研究会で評釈した労働審判(口外禁止条項)事件(長崎地判令和2年12月1日)(労働判例ジャーナル107号2頁)のレジュメをひっそりと拙ホームページにアップしていたところ、当該事件の担当弁護士の中川拓さんに見つけられてしまったようで、

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan210409.html(労働審判における口外禁止条項の相当性と国家賠償責任)

https://twitter.com/takun1981/status/1387973592411901953

Sdnvb8i4_400x400 濱口桂一郎氏のウェブサイトに,「労働審判における口外禁止条項の相当性と国家賠償責任」の判例評釈があることを発見(エゴサーチで出てきた)。今年4月9日の「東京大学労働判例研究会」で報告された模様。とても参考になる内容。「負けるが勝ちの名判決」の項目にはニヤリ 

担当弁護士にニヤリとされて、わたくしも内心ニヤリとしました。

そのニヤリの部分は以下の通り:

2 負けるが勝ちの名判決
 
 しかしながら上述のように、まことに皮肉なことながら、この労働審判における口外禁止条項の違法性を認めながら、形式上の訴訟の目的物である国家賠償請求を「特別の事情」の不存在を理由に棄却することによって、本判決はX側にとって完全無欠の名判決として完成する。なぜなら、本件訴訟自体では被告の国が勝訴しているために、敗訴した原告側が控訴しない限りこれで確定してしまうことになり、つまりA社は自らが関与し得ないところで口外禁止条項の効力が失われるという結果だけを甘受しなければならなくなるのである。
 X側がそこまで読んだ上で本件国家賠償請求訴訟を提起したのかどうかは分からないが、A社にとっては、X側が口外禁止に同意していた解決金額まで明らかになってしまったのであるから、予想外の展開ということになろう。かかる判決が下級審とはいえ確立してしまうと、今後労働審判において口外禁止条項を附することは極めて困難になると思われる。それが本判決の最大の効果であるとすると、その意味は極めて大きいものがあるといえる。 

 

 

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