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2021年3月 4日 (木)

帰ってきた原典回帰最終回 沼田稲次郎『現代の権利闘争』@『HRmics』最終号

Image0_20210304095601 海老原さんと荻野さんがやってきた小さくともぴりりとした雑誌『HRmics』が遂に最終号を迎えてしまいました。

従って、『働き方改革の世界史』刊行後さらに続けて連載しようとしていた「帰ってきた原典回帰」も、2回目でいったん終了ということになります。

この記念すべき(?)最終回の栄誉に輝いたのは、これまた今ではほとんど忘れられた本です。かつて一世を風靡していた唯物史観労働法学の旗手沼田稲次郎の『現代の権利闘争』(1966年、労働旬報社)ですが、これを、終戦直後の生産管理闘争の本質を浮き彫りにする証言として読み解いていきます。

一見左翼的な言辞の裏にある濃厚な産業報国意識をたっぷりと味わっていただければ幸いです。

91qb9cfldzl ・・・・・こうして生み出された修正型日本的労使慣行は、1949年改正労組法が掲げる欧米型労使関係モデルと、産業報国会の延長線上に終戦直後確立した生産管理型労使関係モデルとの奇妙なアマルガムとなりました。ある一つの原理できちんと説明しようとしても説明しきれない日本的労使慣行の岩盤は、この時期の労使双方の暗黙の密約によって生み出されたというべきなのかもしれません。沼田は淡々とこう述べていきます(p239)。
「かなり権力的に行われた法の改正によって予想したとおりの労使関係に現実は必ずしもついてこないで、労働慣行によってうめられるべきギャップの存するのは避けがたかった。労組法は一応労使の立場ははっきり別のものだというけれども、組合が企業の枠を超えた組織になっておらない。従業員団の範囲を超えた労働者仲間の立場が現実の意識にのぼってこない。その上ドッジ・ラインで、企業の格差が出てきた。そして嵐のごとく企業整備がなされた。かかる現象のなかで、労働者が企業にしがみついたのは当然であろう。超企業的組織によって生活の基盤が支えられていないとすれば、労働者は企業第一主義、企業エゴイズムに傾くのもさけがたいことであり、使用者もそのような意識を利用した。」
 その結果残ったのは例えば在籍専従制度です。もちろん、労働組合法が明確に「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合ではないと定義している以上、組合専従者の給与を会社が負担するという慣行は(少なくとも表面からは)なくなりましたが、実態としては「やみ専従」がけっこう存在していました。また、組合費を会社が組合に代わって徴収してあげるチェック・オフ制度も、本来「むしろ奇異な慣行」なのに、「なんの不自然も意識されないで、むしろ当然のこととして」定着したのも、それが従業員団以外の何物でもなかったからでしょう。
 しかしさらに考えれば、もしそれが(自発的な団結体である労働組合ではなく)職場の共有を根拠とする従業員団であるならば、その専従者の人件費が会社の負担であり、その運営費が会社の負担であることになんのおかしさもないはずです。実際、ドイツやフランスなど大陸欧州諸国の従業員代表制度はそうなっています。ただ、それら従業員代表制度は労働組合ではなく、それゆえ団体交渉や労働争議をやる権限がないだけです。それらは産業レベルで結成されている労働組合の専権事項だからです。
 と考えると、企業別組合が(本来のあるべき労働組合像から乖離しているとしてやましさを抱えながら)堅持してきたこれら日本的労使慣行は、その主体が労働組合だということになっているがゆえに異常に見えるだけで、企業別組合とは産業報国会を受け継ぐ従業員団であって、コレクティブ・バーゲニングを行うトレード・ユニオンなんかではないと割り切れば、まったく正常な事態であったとも言えます。もちろん、組合自身が「企業別組合は労働組合に非ず」なんて言えるわけはないのですが。
 皮肉なのは、認識論的にはここまで企業別組合の実相を残酷なまでに抉り出している沼田が、実践論的にはその従業員団たる組合の権利闘争を懸命に唱道していることです。本書のタイトル自体がそのスタンスを示していますが、500ページを超える本書は(今回取り上げたごく僅かな歴史認識にかかる部分を除けば)、ほぼ全ての紙数を費やして、点検闘争、遵法闘争、保安闘争、抗議スト、協約・メモ化闘争等々、既に終戦直後の勢いを失って久しい企業別組合に対して、いちいち使用者側に因縁を付け、喧嘩をふっかけるようなたぐいの「闘争」を訴えています。
 確かに、トレード・ユニオンではない従業員団がその唯一の居場所たる職場で「闘争」をしようとすれば、(企業倒産の瀬戸際といった特殊な状況下でもない限り)こうした家庭争議的なチンケな闘争手段に走るしかないのでしょう。しかし、そんなことを繰り返せば繰り返すほど、そのいうところの「階級的」労働運動の勢力の縮小消滅に大きく貢献したことは間違いないと思われます。沼田らのプロレーバー労働法学とは、企業別組合がトレード・ユニオンらしい行動が取れず、従業員団でしかないことを(近代主義派労働法学と異なり)懸命に弁証しつつ、その従業員団に(西欧諸国の従業員代表制とは正反対に)職場闘争をけしかけるという矛盾に満ちた存在でした。
 しかしその結果生み出されたのは、企業を超えたコレクティブ・バーゲニングを遂行するトレード・ユニオンも存在しなければ、チンケな職場闘争を繰り返す「反逆型」従業員団もほとんど消滅し、争議などとは無縁のもっぱら労使協議に勤しむ(そこだけ見れば西欧の従業員代表と同様の)「忠誠型」従業員団だけによって構成される「片翼だけの労使関係」だったのです。
 もっともそれは、生産管理闘争華やかなりしころに既に見えていた姿だったのかもしれません。先に、「法学用語とマルクス用語がちゃんぽんになったアジビラ風の議論」と評した若き沼田稲次郎の『生産管理論』の一節のすぐ後は、こう続いていました。「このように生産管理は労働階級には武器を与え、資本家からはそれを奪うことになるが、さらに、これによって労働者は当面の争議における武器以上のものを体験する。それは職場における実践の統一性に基づいて、労働者に階級的共感を昂め、団結を強化する。しかも、技術者や事務職員と労働者との結集をも深めるのみならず、自らも亦工場の経営や各方面の技術を修得する動機を与える。」そう、終戦直後の生産管理闘争とは、ブルーカラーとホワイトカラーがともに「社員」としての自覚を持ち、企業経営や技術革新に必死で取り組んでいこうとする戦後日本的雇用システムの原点だったのです。

 

 

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