木下武男『労働組合とは何か』
木下武男さんの『労働組合とは何か』(岩波新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。
https://www.iwanami.co.jp/book/b559580.html
日本では「古臭い」「役に立たない」といわれる労働組合。しかし世界を見渡せば、労働組合が現在進行形で世界を変えようとしている。この違いの原因は、日本に「本当の労働組合」が存在しないことによる。社会を創る力を備えた労働組合とはどのようなものなのか。第一人者がその歴史と機能を解説する。
しかし、本書については、「ありがとうございます」で済ますわけには生きません。
「労働組合論という今どきあまり関心を持たれない」(あとがき)テーマを一般向けの新書で取り上げたという意味では、昨年の『働き方改革の世界史』を書いた私としては、おざなりではなく、疑問点をいくつも提起しておくべきだと考えるからです。
ジョブ型雇用の希薄な日本でジョブ型労使関係をどう論ずるのかという問題意識がほぼ類似しているからこそ、そこをきちんと指摘しておかなければなりません。
本書の構成は次のようになっています。
はじめに
第一章 歴史編1 ルーツを探る――「本当の労働組合」の源流は中世ギルドにある
1 労働組合の遠祖・ギルドの原理
2 中世市民社会と日本でのその不在
3 職人組合から労働組合へ
第二章 歴史編2 「団結せよ、そして勤勉であれ」――職業別労働組合の時代
1 近代市民社会の形成と論理
2 初期労働組合の形成
3 産業革命と労働者の階級形成
4 職業別労働組合の確立
第三章 分析編1 労働組合の機能と方法
1 労働組合とは何か
2 労働組合と政党
第四章 歴史編3 よるべなき労働者たち――一般労働組合の時代
1 新労働組合運動(ニュー・ユニオニズム)の台頭
2 一般労働組合の基盤と組合政策
3 労働組合の形態転換と労働政治
第五章 歴史編4 アメリカの経験――産業別労働組合への道
1 労働運動の二つの潮流
2 職業別組合の限界と産業別組合の挫折
3 労働者の企業別分断と産業別組合の対抗
第六章 分析編2 いかにして社会を変えるのか――ユニオニズムの機能
1 産業化の新しい段階と産業別労働組合
2 労働組合機能の発展
3 産業別組合組織と産業別統一闘争
第七章 歴史編5 日本の企業別労働組合――日本的労使関係の形成・衰退
1 戦前第一期――「渡り職工」と横断的労働市場
2 戦前第二期――戦前期労働運動の高揚と弾圧
3 戦前第三期――日本的労使関係の戦前期形成
4 戦後第一期――労働運動の高揚と日本的労使関係の形成(一九四五~六〇年)
5 戦後第二期――企業主義的統合と労使協調の労働組合(一九六〇~七五年)
6 戦後第三期――労働戦線統一と総評解散(一九七五~九〇年)
7 戦後第四期――戦後労働運動の危機とユニオニズムの創造(一九九〇年~)
第八章 分析編3 日本でユニオニズムを創れるのか
1 時代の転換と働く者の悲惨――雇用不安、貧困、過酷な労働
2 日本における産業別労働組合の登場
3 ユニオニズムの主役はどこにいるのか
4 ユニオニズムの創り方
あとがき
参考文献
第1章から第4章までは主としてイギリスを舞台に展開します。拙著ではウェッブ夫妻の本で説明したトレード型の「集合取引」の世界です。
第5章はアメリカに舞台を移します。ジョブ・コントロール・ユニオニズムの世界です。
しかし、話はそこで終わってはいないのです。
イギリスはその後、労働組合のコントロールの及ばないショップスチュワードの世界が展開し、それが政治問題になり、それがちょうど拙著ではアラン・フランダースの本で説明した辺りですが、その後サッチャーの手で労働組合に壊滅的な打撃が加えられ、労働組合による集団的決定の世界は非主流化してしまいました。今のイギリスはむしろノンユニオン型です。
アメリカはその後、ジョブコントロールユニオニズムが行き過ぎて、経営側の攻撃の前にどんどん縮小していきます。拙著ではブルーストーン親子の本で説明したところですが、今のアメリカもメインストリームはノンユニオンです。
そこのところが、本書は明示的に書かれていません。
敢えて言えば、半世紀前に書かれた労働運動史みたいです。当時の労働史研究では、なんといっても断然イギリス、次いでアメリカ、その余はおまけみたいな感じでしたからそれでいいでしょう。でも2021年に出す本でもそれでいいのかというのが最大の疑問です。
実は、以上の次の第6章の分析編では、現在の産業別組合の機能が説明されていますが、そこで登場するのはドイツです。いやそれはわかります。いま現在、産業別組合が業界団体と協約を結んでその職種別賃金が各企業に適用されるなどという仕組みが大々的に行われているのはドイツなど大陸ヨーロッパ諸国なのですから。でも、その歴史は歴史編にはほとんど登場しないのです。
ここに、私は本書の一つ目の問題点を見ます。半世紀前の英米労働史中心史観のままでは、現在の世界の労使関係状況を分析できないのではないかということです。そしてそれはもう一つの大きな論点につながります。
なぜドイツ始めとする大陸ヨーロッパ諸国は産業別労働条件決定システムを維持しているのか。人によっていろいろ議論はあると思いますが、まちがいなく事業所委員会などの企業内従業員代表制が企業内のことを担当してくれているから、安心して企業の事情に引きずられない産別決定が可能になっているのではないかと思うのです。この話が、本書では欠落しています。むしろ、従業員代表制がアメリカでは会社組合とされ禁じられてしまうがゆえに、安定した企業レベルと産業レベルの分業体制が構築できず、今日のノンユニオン型に陥ってしまったのではないか、ということを考えれば、これは極めて大きな問題です。
この世界の労使関係の歴史における認識のズレが、本書後半における日本の歴史にも現状分析にも影を落としているように見えます。議論の軸が大幅にずれているのです。
敢えて言えば、ジョブ型とメンバーシップ型の軸と、政治志向における左派と右派の軸が混交してしまって、分析が濁っているように見えます。終戦直後の生産管理闘争を遂行した極めて急進左派的な産別会議は、その実相においては産業報国会の嫡子であり、その後の産別民同を経て総評、連合に流れ込むメンバーシップ型の企業主義的労働運動の中心なのです。むしろ、戦前の企業外的運動を受け継ぐ総同盟の方がジョブ型に近い感覚を残していました。
このあたりは、先日遂に終刊してしまった『HRmics』に、沼田稲次郎の『現代の権利闘争』を引用しつつ論じたところであり、また昨年なくなった桝本純さんのオーラルヒストリーの中で彼が力説していたところでもありますが、ここでは前者から沼田の鮮烈な分析を引用しておきましょう。
「戦後日本において労使関係というもの、あるいは経営というものがどう考えられているかということ、これは法的意識の性格を規定する重要なファクターである。敗戦直後の支配的な規範意識を考えてみると、これにはたぶんに戦争中の事業一家、あるいは事業報国の意識が残っていたことは否定できないと思う。生産管理闘争というものを、あれくらい堂々とやれたのは極貧状態その他の経済的社会的条件の存在によるところにちがいないが、またおそらくは戦時中の事業報国の意識の残存であろうと思われる。事業体は国に奉仕すべきだという考えかた、これが敗戦後は生産再開のために事業体は奉仕すべきだという考え方になった。観念的には事業体の私的性格を否定して、産業報国とそれと不可分の“職域奉公”という戦時中の考え方が抽象的理念を変えただけで直接的意識として労働関係をとらえた。」「すると、その経営をいままで指導していた者が、生産サボタージュのような状態をおこしたとすれば、これは当然、覇者交替だったわけで、組合執行部が、これを握って生産を軌道にのせるという発想になるのがナチュラルでなければならない。国民の懐いておった経営観というものがそういうものであった、経営というものは常に国家のために動いておらねばいけないものだ。しかるにかかわらず、経営者が生産サボをやって経営は動いておらない。これはけしからん。そこで組合は、われわれは国民のために工場を動かしているんだということになるから、生産管理闘争というものは、与論の支持を受けたわけでもあり、組合員自身が正当性意識をもって安心してやれたということにもなる。」「たとえば組合専従制というもの、しかも組合専従者の給与は会社がまるまる負担する。組合が専従者を何人きめようが、これは従業員団であるところの組合が自主的にきめればいいわけである。また、ストライキといっても、労働市場へ帰って取り引きする関係としてよりも、むしろ職場の土俵のなかで使用者と理論闘争や権力の配分を争う紛争の状態と意識されやすい。経営体としてわれわれにいかほどの賃金を支払うべきであるかという問題をめぐって経営者と議論をして使用者の言い分を非難する-従業員としての生存権思想の下に-ということになる。課長以下皆組合に入っており、経営者と談判しても元気よくやれた。ときには、「お前らは戦争中うまいことやっていたじゃないか」というようなこともいったりして、経済的というよりもむしろ道義的な議論で押しまくった。団体交渉の果てにストライキに入ると、座り込んで一時的であれ、職場を占拠して組合の指導下においてみせる。そして、経営者も下手をすれば職場へ帰れないぞという気勢で戦ったということであろう。だから職場占拠を伴う争議行為というものは、一つの争議慣行として戦争直後は、だれもそれが不当だとは考えておらなかった。生産管理が違法だということさえなかなか承服できなかった。職場、そこはいままで自分が職域奉公していた場所なのだから、生産に従事していた者の大部分がすわり込んで何が悪いのか。出ていけなんていう経営者こそもってのほかだという発想になる。」
生産管理闘争をやるくらい急進的な企業主義的組合だからこそ、それが左右のベクトルを変えれば生産性向上運動に邁進する企業主義的組合にもなるという、このメカニズムこそが、戦後日本の労働運動史を理解するための鍵なのです。民間労組が協調化した後、なお左派運動をやっていた公的部門の労働運動も、国労にせよ全逓にせよみんなやたらに大きな企業別組合なのであって、なんらジョブ型ではなかったし、政治的に潰されると見事に民間型の企業主義的組合になったのも、政治的論評はともかくとして、労働組合としての本質はなんら変わっていないとしかいいようがないのです。
ここは、現代日本の労使関係を論ずる上でのキモになるところだと思うので、きちんと指摘しておくべきだと思います。
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よくは分からないのですが、とりあえずは、現在の
英米は、「ノンユニオン型のジョブ型」である
ということでしょうかね。変形ジョブ型と言うか。
投稿: さっちん | 2021年3月25日 (木) 19時02分
もちろん、労働組合がジョブの値付けをしている分野もそれなりにありますが、アメリカなどでは世の中の多数派はむしろヘイシステムみたいな民間コンサル会社の職務評価でもってジョブの値付けをしているように思われます。
ヨーロッパも(北欧を除けば)組織率自体はそれほど高くないのですが、未組織労働者の多くも産別協約のジョブの値付けに準じて決まってきていて、そこが大きな違いではないかと。
どっちもジョブ型ではありますし、ある立場からすれば下手に組合が絡むよりヘイシステムなんかの方が客観的でいいという考え方もあるのでしょうが、そこの違いは重要だと思われます。
投稿: hamachan | 2021年3月25日 (木) 23時10分
濱口さんだけではなく北健一さんも本書については控えめですが批判含みで書評されていますね。
http://www.labornetjp.org/news/2021/1616677863800staff01
僕などはそもそも木下さんがお気に入りのユニオンびいきで日本における他の労働組合を、「本物の、真の」労働組合ではない、と繰り返し主張していることにうんざりしてしまいます。そんな押し売りのようなことをやられて納得する労働運動関係者がいるのか、と思うのですが、しかし左派系には結構評判が良いようです。左派系が伝統的に信奉している産業別組合至上主義と本書の主張が合致しているからではないかと感じられましたが、何十年繰り返しても何ら実践的に成功しなかった取り組みを今また繰り返しても仕方ないのではないか、と思うのですが。
投稿: 希流 | 2021年4月 8日 (木) 09時42分
純粋アカデミックな観点からすれば、日本の企業別組合を欧米の産別組合との対比で「本物の、真の労働組合ではない」と論ずることは十分あり得る議論だと思いますが、その場合、その欧米とりわけ西欧諸国においては、まさに日本の企業別組合の活動と相当程度に重なる活動を(法的には労働組合とは別の)従業員代表機関が遂行していることに言及しなければ、誤った描像を読者に提示することになってしまうと思われます。
従業員代表制を御用組合だと否定しつつ、企業外で過激な運動を遂行する労働組合のみを称揚するのであれば、安定した労使関係というものは成立しがたいでしょうから、それが成功しないことはあらかじめ定まっているように思われます。
投稿: hamachan | 2021年4月 8日 (木) 12時55分
いま『団結と参加』を拝読させていただいているところですが、その「はじめに」のところに「政労使という労働政策の当事者自身にも集団的労使関係の感覚が希薄化しているようです」とあります。これは最近出た木下武男さんの『労働組合とは何か』の問題意識とも広い意味では重なっているのではないかと感じていたところ、この書評で「ジョブ型雇用の希薄な日本でジョブ型労使関係をどう論ずるのかという問題意識がほぼ類似しているからこそ、そこをきちんと指摘しておかなければなりません。」とのこと。そう来なくてはね。
わたしの感想とhamachan書評で共通するのは「敢えて言えば、半世紀前に書かれた労働運動史みたいです。当時の労働史研究では、なんといっても断然イギリス、次いでアメリカ、その余はおまけみたいな感じでしたからそれでいいでしょう。でも2021年に出す本でもそれでいいのかというのが最大の疑問です。」というところ。昔の正しい労働運動に学べと言うのはありかも知れませんが、その強い労働運動が何故(ことに英米で)後退を余儀なくされ、福祉国家も換骨奪胎されていったのかという事実については真摯に総括しておく必要があります。またそうした後退戦の中で独仏など大陸欧州では、製造業などの一部とはいえ産業別労働条件決定システムがそれなりに残存している背景として「事業所委員会などの企業内従業員代表制が企業内のことを担当してくれているから、安心して企業の事情に引きずられない産別決定が可能になっているのではないか」との指摘は重要です。わたしも日本の問題は労働組合が企業別に組織されていること自体ではなく、労働協約が企業ごとにバラバラで、産別が介入する余地が限られているという産別運動の機能不全にある(天ツバですが)と見ており、この点は小島正剛さんなどとも概ね一致しています。
「生産管理闘争をやるくらい急進的な企業主義的組合だからこそ、それが左右のベクトルを変えれば生産性向上運動に邁進する企業主義的組合にもなる」というのはかなり乱暴な議論だと思いますが、JILPTの「労働組合法成立史研究」(解題篇)でも、戦時中の事業所別産報が衣替えしたような「労働組合」をどう扱うのかというようなことも議論されていたようで、重要な論点ではありますね。しかし労働組合法を策定する過程で、今日のように労働組合も労働協約も専ら企業別につくられるということをどこまで想定していたのかというのも興味あるところです。「国労にせよ全逓にせよみんなやたらに大きな企業別組合なのであって、なんらジョブ型ではなかったし、政治的に潰されると見事に民間型の企業主義的組合になったのも、政治的論評はともかくとして、労働組合としての本質はなんら変わっていない」と言う点については「政治的評論」こそ重要なのですが、労働組合の本質論としても如何なものかなあと思います。国労などの職場闘争は、いわば英国流のショップスチュワードが主導した急進的運動とも類似して、同じような弾圧を受けて敗退していったと言えるでしょう。そこではジョブ型であったかどうかは本質的な問題ではなく、ジョブ型ではなかったから大手企業連のような企業別組合と同じ穴の貉と決めつけるのは無理筋の議論ではないでしょうか。ジョブ型とメンバーシップ型という類型化は分かりやすいが、議論をミスリードする危険性も内在しているように思います。例えばジョブ型の雇用・賃金決定システムではあるけれど、それはメンバーシップ(企業内正社員)にしか適用されないというようなこともありうるわけで。より厳密に類型化するならば、雇用・賃金制度と労働市場のあり方を別個に捉え、雇用・賃金はジョブ型(職務型)とヒューマン型(属人型)に類型化し、労働市場はメンバーシップ型(企業内労働市場)とオープン型(外部労働市場と双方向に移動)に区分し、この4項を4象限で構成する必要がありはしないか。そうするとhamachanのジョブ型はジョブ雇用・オープン市場象限であり、メンバーシップ型はヒューマン雇用・メンバーシップ市場象限になりますが、他の象限に当てはまる事例もありはしないでしょうか。因みに今年、明治大学の労働講座を受講した学生のレポート採点のお手伝いをしたのですが、多くの学生がhamachanのジョブ型・メンバーシップ型に強い関心を示していました。メンバーシップ型については肌感覚も含めて、かなり理解されているようなのですが、日本の学生がジョブ型をきちんと理解することはなかなか難しいようで、巷で喧伝される怪しげなジョブ型雇用としっかり峻別してもらうことが大事だと感じたところです。
最後に木下さんの本について述べれば、hamachanも指摘するような難点はあるものの、企業別組合すべてではないにせよ、現在の大手企業連批判としては、中らずと雖も遠からずという以上に当っていると思います。それと木下さんの持論である「賃金から徹底して属人性を削ぎ落す」という観点はhamachanのジョブ型とつながるところがあるように感じています。
投稿: Hayachan | 2021年4月 9日 (金) 11時39分
そうですね、同感するところとやはり異論のあるところがあります。
かつての左翼企業別組合の主導した「職場闘争」とイギリスの(職業別・産業別組合の指導からぶっちぎれた)ショップスチュワードの「職場闘争」とでは、現象的に似た面があるとはいえ、やはりその文脈にかなりの違いがあるのではないかと考えています。
ただ、上記沼田稲次郎も指摘しているように、終戦直後の生産管理闘争には産業報国会由来の事業一家意識とともに、工場ソビエト運動の思想も流れ込んであるので、第一次大戦後ドイツのレーテ運動やイタリアの工場評議会運動などとも共通する性格があるのも確かでしょうが。
昨年来やたらにマスコミではやっている「ジョブ型」には、いくつか批判の文章を書いてはいますが、なかなかそれでは追い付かないくらい、『ジョブ型なんたらかんたら』というタイトルの本やら記事やらが氾濫していて、頭を抱えています。
投稿: hamachan | 2021年4月10日 (土) 08時51分
問題は
> 労働協約が企業ごとにバラバラで、産別が介入する余地が限られているという産別運動の機能不全にある
というのは分かるのですが、
> 企業内従業員代表制が企業内のことを担当
すると、「各企業が産別の労働協約を取り入れる」というところがいまいち良く分からない気はしています
そうでないと企業別に負けて衰退するとか、駆け込み型に堕してしまうとか、そういうことなのでしょうか
仮に前者であれば「企業別を抑制」する効果が期待できることが大きい、ということのようには思いますが
投稿: 質問くん | 2021年4月10日 (土) 11時00分
専修大学の兵頭さんがかなり手厳しい批評を欠いているようなのでご紹介します。
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/download/233460/4de537d4b59a0e79f20929664ebbf589/23376?col_no=2&frame_id=559159
特に最後の部分には力がこもっているようにも見えますが、いかがでしょうか。
投稿: 希流 | 2021年9月 7日 (火) 22時25分
そうですね、兵頭さんが木下さんに対して「同意・共感できる点」を示しつつも、「最も重要な疑問点」を投げかけているように、この兵頭さんの批評自体に対しても、同じように「同意・共感できる点」がかなりあるとともに、いくつも「重要な疑問点」を感じるところがあります。
大変ざっくりいうと、「私たちは自らをとりまく現状から出発するほかはない」のだから、「現に横断的な交渉システムの無い(使用者が応じていない)日本の現実」を考えれば、木下武男の実践論は「空中楼閣のようなものと言って差し支えな」い、というのは概ねその通り。ゾルレンの議論としては、木下理論は即戦力にはならない。
ただ、兵頭さん、あるいはむしろ労働者教育協会系の左派論客といった方がいいのかもしれませんが、そのゾルレンの議論を正当化するために、ザインのレベルで木下武男流のジョブ型論を否定しようとする傾向が強すぎるきらいがあります。ここで言われている「多くの事実誤認・概念の誤解」やとりわけ「「年功賃金」をめぐる論理・認識の混乱」の部分は、日本の労働運動が築き上げてきた年功賃金を守ろうという意図が強すぎて、その労働者総体にとってのメリデメを率直に評価することが困難になっている印象を受けます。
いきなり産別運動といっても仕方がないし、いわんや連帯労組関西生コンにその未来の理想像があるなんて夢想を唱えても意味がないと思いますが、だからといって企業別組合にこもって年功制の護持を唱え続けて未来が開けるわけでもないでしょう。
その意味で、最初に言ったように「同意・共感できる点」っともに「最も重要な疑問点」も感じる書評でありましたな。
投稿: hamachan | 2021年9月 7日 (火) 23時08分
専修大学の兵頭さんが労働者教育協会の『労働者教育』2023年10月号で木下武男『労働組合とは何か』への手厳しい批判を執筆しておられます。JILPTに所蔵されているのであればぜひご覧になってください。もし無いようでしたら抜き刷りを送付します。
投稿: 希流 | 2023年11月28日 (火) 00時54分
労働者教育協会の雑誌は『学習の友』しかないですね。
投稿: hamachan | 2023年11月28日 (火) 09時16分
希硫酸、もとい希流さんから、その『労働者教育』10月号をお送りいただきました。
基本的には、上の2021年9月7日のコメントと全く同じ感想です。
なお、併せてお送りいただいた『地域と労働運動』10月号の服部一郎「そごう・西武労組によるストライキ決行について考える」も面白かったです。
投稿: hamachan | 2023年12月 6日 (水) 12時12分