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2020年12月 5日 (土)

労働者協同組合は究極のメンバーシップ型なんだが・・・

昨日、労働者協同組合法が成立しました。この法案については、今までも何回か解説してきたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c79d.html(労働者協同組合について)

・・・端的に言うと、労働者協同組合における労務提供者は労働法上の労働者ではないということに(とりあえずは)なるので、労働法上の労働者保護の対象外ということに(とりあえずは)なります。この事業に関わるみんなが、社会を良くすることを目的に熱っぽく活動しているという前提であれば、それで構わないのですが、この枠組みを悪用しようとする悪い奴がいると、なかなかモラルハザードを防ぎきれないという面もあるということです。
いや、うちは労働者協同組合でして、みんな働いているのは労働者ではありませんので、といういいわけで、低劣な労働条件を認めてしまう危険性がないとは言えない仕組みだということも、念頭においておく必要はあろうということです。
それこそ最近の医師や教師の労働条件をめぐる問題を考えると、どんな立派な仕事か知らんが、労働者としての権利をどないしてくれるンやというところを没却してしまいかねない議論には、少しばかり冷ややかに見る訓練も必要なのではないか、というきがしているものですから。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8536.html(「協同労働の協同組合法案」への反対論)

・・・ここでは、わたくしの判断は交えずに、樋口さんの批判を引用しておきます。この批判が正鵠を得ているのか、的外れなのか、正々堂々と議論されることが望ましいと思います。
>ワーコレグループが主張する「新しい働き方」は賃労働を克服する理想としてデザインされているが、今日の社会において十分に検討されているとは言えない。それがフィクションのまま現実化されれば、労働者の味方のはずのワーコレ・労協が働き手に対し労働者以下の劣悪な労働環境を強制して労働搾取してはばからない愚行を演じることになる。議員立法による不十分な検討でこのような法律が成立することに嘆かざるを得ない。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-ecd7.html(第4の原理「あそしえーしょん」なんて存在しない)

・・・たぶん、現在の組織のなかで「アソシエーション」に近いのは協同組合でしょうが、これはまさに交換と脅迫と協同を適度に組み合わせることでうまく回るのであって、どれかが出過ぎるとおかしくなる。交換原理が出過ぎるとただの営利企業と変わらなくなる。脅迫原理が出過ぎると恐怖の統制組織になる。協同原理が出過ぎると仲間内だけのムラ共同体になる。そういうバランス感覚こそが重要なのに、そのいずれでもない第4の原理なんてものを持ち出すと、それを掲げているから絶対に正しいという世にも恐ろしい事態が現出するわけです。マルクス主義の失敗というのは、世界史的にはそういうことでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-132e.html(アソシエーションはそんなにいいのか?)

・・・日本の「正社員システム」とは、それがマルクス的な意味での資本によって結合されただけの自由な=疎外された労働ではなく、まさに「社員」としてアソシエートした諸個人による共同的労働になっているところにあるのだとすると、そして、そのシステムが例えば本号の特集となっている「シューカツ」を生み出す一つの源泉となっているのだとすると、「いまこそアソシエーションを!」みたいな議論はいかにも皮肉なのではないか、ということですね。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-97a8.html(とってもメンバーシップ型なユーゴスラビア労働法)

「そういえば、その昔、ゆーごすらびあなんていう国がありましたなあ」
「そうそう、ろうどうしゃじしゅかんりとかいうのもありましたねえ」
と、老翁老婆が渋茶を啜りながら回想するような歴史的存在となった旧ユーゴスラビアですが、ソ連やポーランドと比較しながら、旧ユーゴスラビアの労働法をいろいろ読んでいくと、これって究極のメンバーシップ型労働法理論を構築していたのだという事が分かりました。
労働者自主管理というのも1950年に始めてから徐々に進化していっているのですが、その完成形とみなされているのが1976年の連合労働法というやつですが、この法律では、連合労働者の労働関係は、一方が他方を雇う雇用関係ではなくって、「全ての者が互いに労働関係を結ぶ相互的労働関係」なんですね。企業という概念の代わりに「労働組織」というのが中心で、その労働者評議会が仲間として入れる人間を選定する。事業管理機関も労働者評議会が選ぶ。まさに、出資者がメンバーである会社ではなく、労働者がメンバーである労働組織が社会の中心をなすのが自主管理社会主義というわけで、法制度自体がとってもメンバーシップ型なわけですね。
今の日本で言えば、「協同労働の協同組合」に近いわけですが、社会全体をこういう仕組みにしようとしたところが旧ユーゴの特徴であり、結局それに失敗してユーゴという国まで一緒に崩壊してしまったというわけです。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-972ce4.html(最新の労働者協同組合法案@『労基旬報』2020年5月25日号)

・・・この法案がこれからどうなっていくのか、新型コロナウイルス感染症にとりつかれた状態の現在は全く予想することはできませんが、世の中がある程度落ち着いてくれば国会提出という運びになる可能性は今回はかなり高いように思われます。法案の附則では、現在中小企業等協同組合法に定める企業組合や特定非営利活動促進法に基づくNPO法人として活動している事実上の労働者協同組合が、本法に基づく労働者協同組合に組織変更する手続きも詳細に定めており、かなり現実性がありそうです。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/06/post-bb83e4.html(労働者協同組合法案ようやく国会に提出)

 つい先日、『労基旬報』5月25日号に解説を寄稿したばかりの労働者協同組合法案が、先週金曜日に国会に提出されたようです。

というわけで、この法案がようやく昨日成立したというわけです。

上にリンクを張った過去のエントリをざっと読めばわかるように、これはなかなか人間労働の本質にかかわる論点を提起していて、そう単純素朴に礼賛すればいいという話でもないのですが、さすが深みのないリベサヨ風味の東京新聞は、全面的に礼賛モードですな。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/72617(「労使」ではなく「協同」で働く 労働者の裁量、自律性を取り戻す<協同労働法>)

で、そこに最近ニューモードのマルクス主義で人気を博していいる斎藤幸平さんが登場して、その礼賛に唱和しているんですが、そうなればなるほど懸念が増してくるわけですよ。何しろ、マルクス御大の「あそしえーしょん」の夢想が魔法使いの弟子たちの手を転々とした挙句に、この地上にどんな地獄絵図をもたらしたかという世界史を齧った人間としてはね。

 大阪市立大大学院の斎藤幸平准教授は「現場の労働条件が悪化し経済的不平等が拡大する中、労働者が経営主体となる協同労働が広がれば、労働のあり方や生産の仕方を根本から変える可能性がある」と指摘した。

「しかし労使関係を前提にしない、もっと別の働き方があるはずで、それが協同労働だ。必ずしも労使関係を前提とせず労働者自らが出資し、自分たちでルールを定め、何をどう作るかを主体的に決める。株主の意向に振り回されず労働者の意思を反映していけば、働きがいや生活の豊かさにつながるのではないか」 

どんな御託を並べようが、いかに労働者の利益を代表する共産党が権力を握ってすべてを支配するからお前たち労働者が支配しているのと同じだ、などと言おうが、現実に社会主義諸国の職場には(国家権力によって労使関係ではないと定義され、それを労使関係だと指摘することを禁じられた)現実の労使関係があったわけです。そういう血塗られた歴史の重みを忘れて、こういう軽薄な言葉を吐けるんだなあ、と嘆息。

いや今回の法案は、まさにそういう(とりわけ労働弁護士方面から提起された)懸念に応えるために、当初の「労働者じゃない」という設計を全面的に「労働者である」と変え、つまり、労働者協同組合の組合員として働くものといえども、この市場社会において労働力を売って生きる労働者として、その取引条件を市場における集合取引(まさにウェッブ夫妻が描き出し、ゴンパースが旗を振ったコレクティブバーゲニング)として行うんだと明記することで、そういう地獄絵図につながる懸念を払拭しようとしているわけですが、それを報じる新聞の論調が、なんだか夢想の世界を生きているかのごとくなので、やっぱり心配になるわけです。

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コメント

>現在中小企業等協同組合法に定める企業組合や特定非営利活動促進法に基づくNPO法人として活動している事実上の労働者協同組合が、本法に基づく労働者協同組合に組織変更する手続き

と書いてあるように、既に労働者っぽい個人事業主が集まって企業から仕事を請け負う・または自分らで仕事を作るというのはあるので、労働者協同組合を殊更敵視するべきではないのでは?

アソシエーションが専制に転化するというのも国全体の制度と個別の企業体の話は別。
やばい思想に基づいて労働搾取されてる団体なんていくらでもあるので。
あくまで労働法潜脱がダメなんであって、思想警察みたいな論になるのは危険です。

労働疎外を克服するには究極のメンバーシップ型しかないじゃないですか?

それにも欠点はあるんで働き方の自己決定権があるべき

労使という考え方すらパターナリズムなんで労働者「保護」が労働者への「人権侵害」になることもある

> 出資者がメンバーである会社ではなく、労働者がメンバーである労働組織

それとは別に(法改正が必要かもしれませんが)

    第4の原理: 労働が「出資(=会社の所有権)」になる

というものも考えられると思います。

内容見たけどこれでは既存の企業組合と比べて特にメリットがないので、労使によらない働き方が良いという人はそっちを使うのでは。
NPOより設立しやすいという程度で利益分配も禁止されてるので、「労働法を潜脱した搾取が」というのも考えすぎでは?
たぶんそれほど広がらずNPO関係でやってる意識高い人たちが移ってくる程度だと予想する。

自営業者さん、

>第4の原理: 労働が「出資(=会社の所有権)」になる

いや、その労務出資というのは、商法ができた時からあるんですよ。
拙著『日本の労働法政策』の1004ページから引用しておきますね。

1890年の旧商法においても、商事会社の規定の中に労力の出資が登場している。すなわち、合名会社とは「二人以上七人以下共通ノ計算ヲ以テ商業ヲ営ム為メ金銭又ハ有価物又ハ労力ヲ出資ト為シテ共有資本ヲ組成シ責任其ノ出資ニ止マラサルモノ」(第74条)であり、合資会社とは「社員ノ一人又ハ数人ニ対シテ契約上別段ノ定メナキトキハ社員ノ責任カ金銭又ハ有価物ヲ以テスル出資ノミニ限ルモノ」(第136条)である。無限責任社員は労力出資がありうることが当然の前提であって、逆にいえば労力でない金銭や有価物のみを出資する社員であるから有限責任が可能となるわけである。なお、このことは1899年の現行商法においても変わらない。条文上設立の規定に明文では示されていないが、第89条にさりげなく「退社員ハ労務又ハ信用ヲ以テ出資ノ目的ト為シタルトキト雖モ其ノ持分ノ払戻ヲ受クルコトヲ得」ると規定された(2005年会社法により削除)。  2005年6月に、商法の会社に関する規定を中心として他の法律も併せて新たに会社法が制定された。これにより新たに合同会社という会社類型が設けられ、出資者の全員が有限責任社員であり,内部関係については民法上の組合と同様の規律(各社員が自ら会社の業務の執行に当たる等)が適用されることになる。上の有限責任事業組合の会社版といえる。有限責任であるので労務出資は認められないが、上と同様労務提供者への柔軟な利益配分が可能である。
 

社員はメンバーシップ型というと、法的にはそうかもしれませんが、
例えば、「上場企業の株主」はメンバーシップ型から遠いでしょう。
なので、「メンバーシップ型でない組合」ってのもあり得るような。

現実的に考えて資金調達が難しい形態。一人一口一万円の出資とした場合、100人であれば出資金は100万円しか集まらない。

足りない分は組合員よりも配当が優先される優先出資で補うしかない。

というか、「労働による出資が可能であること」と「労働者が金品で出資すること」は真逆の話ですが、
労働協同組合という表現で不適切に一括りになってませんかね

なかなか、斎藤先生(東大准教授)の発想の源が現れています。

> 代理人たちが、口座でこんなことが起きているのに、日本人のスタッフを雇ってないし、そういうことが、こういう問題を引き起こしている
> 大谷に不動産業も大谷(選手)にやらせようとしていて、これも今度大谷選手が代理人の食い物になってしまう
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202404140000324.html

アメリカ人の通訳ではダメで、日本人に限定することは逆差別になります。
大谷の推薦で水原氏を代理人が雇っても、問題発生の軽減になりませんが、
大谷の自己責任ではなく、代理人の責任とすることができます。
大谷にとって、お金は大したダメージではなく、友人に裏切られたことが、
大きなダメージであり、これは極めてプライベートな問題です。

メンバーシップ型と言われるものは雇用契約というよりも、ざっくり言うと

   メンバーが成す集団による自治的な意思にメンバー個人が従う

というものでないですかね。極論すると、そのような雇用契約でないものに
対して示された判例が、雇用契約に対する判例法理として解釈されるという
ことになるかもしれません。

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