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2020年10月29日 (木)

田中萬年『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』

2l 田中萬年さんより『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』(ブイツーソリューション)をお送りいただきました。ありがとうございます。

「教育を受ける権利」は「日本国憲法」に初めて規定されたのではなく、明治期に主張されたのが始まりだった。それは「教育勅語」下の時代、臣民の「教育を受ける義務」に対抗して「教育を受ける」ことは権利だとして『労働世界』で初めて主張された。ところが、奇妙にも国民平等の「日本国憲法」にも国民の権利として規定されている。国民が「教育を受ける」ということは教育する別格の人の存在を前提としているという矛盾がある。「教育を受ける権利」が誕生した戦前期の背景、学問の自由の下で歴史的事実がいくつも無視されて信奉されてきた戦後の実情を明らかにし、また、「教育を受ける権利」を信奉することにより派生している問題を紐解く。

ただ、本書に対しては、本書の中でも引用されている、田中氏の旧著『教育という過ち』に対して本ブログで述べた感想とまったく同じ感想を持ちました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-3817.html

いつもの萬年節が全開の本、ではあるのですが、前から気になっていた「教育」という言葉に対するややマニアックなまでの追及が、「働く」ための「学び」を、というその主張を、却ってわかりにくくしているのではないかという疑問が、本書でも再び、いやむしろより強く感じられました。
「教育」という字面が主体的でなく、国家の強制を思わせるという批判は、ある種の教育学者などとは強く共鳴するのかも知れませんが、職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、そういう領域の重要性を主張する議論とは相当にすれ違ってしまっているのではないかということです。 ・・・・
これは金子良事さんも指摘していたと思いますが、ちょっと最近の田中さんの議論はつまらない脇道に入り込みすぎている感が否めません。
そのために本筋の議論が見えにくくなってしまっては本末転倒です。
職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、それこそがエデュケーション・トレーニングの本筋なのだという主張こそを、もっと明確に訴えることこそ、田中さんの使命ではないかと思うのですが。

もう少しはっきり言うと、下の図の縦の軸は、かつて田中萬年さんが精力的に論じ、世のアカデミック偏重論者の頬をひっぱたく勢いで反省を求めていた軸であり、横の軸はある意味では昔からアカデミックな教育学者たちも(アカデミックな学術分野を前提に)口々に論じてきた軸です。

Mannen

わたくしが繰り返し言っているのは、田中萬年さんの真骨頂は縦の軸なのであり、教育だろうが学習だろうが、職業実践的な学びを欠落させたような高邁空疎な議論を批判し尽くすところにこそあったはずなのに、なんで今ごろになって、アカデミックな教育学者どもの尻尾にくっついて、「教育」じゃなくて「学習」だ、なんて手垢の付いた議論を繰り返さなければならないのか、ということなんですが、なかなかそこが伝わっていただけないようです。

田中さんもいうように、「訓練」という言葉は受動的、能動的いずれにも使われますが、あえて違う言葉でその相違を出せば、「教育」に当たるのが「教練」、「学習」に当たるのが「修練」になるのでしょうか。

そして、訓練とは本来「教練」ではなく「修練」であるべき云々という議論を展開することもできるでしょう。

でも、それもこれもみな枝葉末節のことです。

何回も繰り返しますが、田中萬年さんの存在意義は、アカデミックな教育/学習論者ばかりがまかり通る日本の論壇で、一人職業実践的なeducation/trainingの意義を高らかに唱え続けてきたことにあると、私は思っています。誰も正面から論じなかった縦軸を打ち立てたことこそが、田中萬年さんの最大の偉業だったはずです。

その田中萬年さんが、なんで今さらこんなことばかりぐだぐだと書き続けられるのか、不思議でなりません。

(追記)

田中さんは私の批判に大変ご不満なのですが、そのホームページで(大変喜んで)引用されているこの森直人さんのツイートで言われていることそれ自体が、まさにうえで私が問題にしていることそのものなんですが、どうしてそこが伝わらないのか不思議でなりません。

https://twitter.com/mnaoto/status/891864135280992256

ですが「ポストモダニズム」の受容以降、近代批判の一環としての「教育」批判が“事実上の標準”となってすでにひさしい今日の日本の教育学界にあって、むしろ田中氏の議論はその「主流」に棹さすものでもあります。おそらく教育学者(の多く)は本書の主張を違和感なく読むのではないでしょうか。

ね、職業教育訓練といった観点なんぞかけらもなく、流行のポストモダンな観点からの「教育」批判に掉さすような、そんな程度の代物扱いされてしまって、田中萬年さんは本当に満足なんですか。あなたの言いたかったことは、そんなアカデミックなポストモダン論に放り込まれてしまっていいんですか、と言いたいんですけどね。

 

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コメント

少々古い話題で恐縮ですが…、たしか今世紀の変わり目の少し前、「複雑系」で一世を風靡した米国サンタフェ研究所が、われわれ人々の「ラーニング」(学習)という行動/現象を複雑系の視点から多角的に研究していましたね。そこでは「ラーニングスフィア」(学習球体?)というコンセプトを用い、人間の学習行動は、塾や学校等の教育機関だけでなく、職場、家庭、遊び、スポーツ、同窓会、集会、テレビ、映画、そしてエマージングなサイバー空間など、学習行動を「複雑系」の典型事象として、ありとあらゆるインタラクティブな社会活動全般で発生し進化する…というようなことが同研究所のシンポジウムで提言されていました。そこで、もし2020年代のコロナ禍の今、同じテーマを語るのであれば、スマートフォン(SNSやネットゲーム)あるいはデモ参加やZoom会議など、誰にでも真に身近なメディア(とりわけ非接触型手段)を、同時代の学習空間の「最重要アイテム」として位置付けていかざるをえないと思われます。〜同エントリ内の「学習」という述語(キーワード)を目にして、朧げながら昔の短期記憶を思い出した次第です…。

田中萬年さんが、

https://twitter.com/T10000nen/status/1327185888254644224

濱口さんのブログにコメントしましたが、公開して貰えませんでした。

とツイートされていますが、少なくとも私が毎日ブログを管理している限り、田中さんのコメントは投稿されていません。

私は、特に悪質なコメント(過去の例を参照)でない限り、すべてのコメントを公開しています。
本エントリのように、田中さんの本を取り上げたものに対するご本人のコメントを公開しないなどということはあり得ません。

何か誤解されている可能性がありますが、もし今からでもコメントされるのであれば、いつでも公開します。

なお、本ブログはコメントする際に画像による文字を入力することによる認証が要求されるので、それがうまくいかないとそもそもコメントが受け付けられていない可能性がありえます。


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