政府が経済4団体に、卒業後3年以内は新卒扱いにするよう要請したと報じられていますが、
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201027/k10012683551000.html
新型コロナウイルスの影響を受けている学生の就職活動を支援するため、萩生田文部科学大臣など関係大臣は、経済4団体に対し、卒業後少なくとも3年以内は新卒扱いとする国の指針を踏まえた対応を要請しました。
学生の就職活動をめぐっては、新型コロナウイルスの影響で、企業説明会が延期や中止になったり、企業の採用選考活動が取りやめになったりするなどの影響が出ています。
こうした中、萩生田文部科学大臣や田村厚生労働大臣、坂本一億総活躍担当大臣などは27日、東京都内のホテルで日本経団連=日本経済団体連合会など経済4団体の幹部と面会し、卒業後少なくとも3年以内は新卒扱いとする国の指針を踏まえた対応を文書で要請しました。
この「卒業後3年以内は新卒扱い」というのは、実は10年前の2010年8月に、今いろいろと話題の日本学術会議が政府に提言したものだったんですね。
平成20年6月3日に文部科学省より審議依頼のありました大学教育の分野別質保証の在り方につきまして、審議の上、回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」としてとりまとめ、 平成22年8月17日に文部科学省高等教育局に対して回答いたしました。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf
この中に、
5.就職活動の在り方の見直し - 当面取るべき対策
(4)当面取るべき対策
イ 企業の採用における「新卒」要件の緩和
日本で広く行われてきた新卒一括採用という労働者の採用方式には、それと裏腹の関係で、一度大学を卒業した者は、翌年度の卒業予定者を対象とした採用の枠組みに応募することができないという慣行が付随している。平成 18 年版の国民生活白書によれば、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とした企業は調査対象企業44の 22.4%に留まっており、採用対象としなかったとする企業が 44.0%、中途採用枠では対象としたとする企業が 29.1%であった。しかし中途採用枠では、通常、職務経験が重視されることから、そもそも就職できなかった若者にとっては厳しい門戸である。
つまり、大学を卒業して直ちに正社員に採用されなければ、その後に正社員となる可能性は非常に狭いものとなるが、このことと、正社員ではない非正規雇用の職においては、多くの場合、自らの労働の価値と生活水準を高めていく可能性が狭く閉ざされたものであることとが相俟って、卒業時に正社員に就職できなかった若者の問題を深刻なものにしている。新卒一括採用という採用方式は、その「新卒」要件が従来のように厳格に運用される場合、個人のライフコースの特定の時期にリスクを集中させるとともに、景気の変動を通じて、世代間でも特定の世代にリスクを集中させるという機能を潜在的に内在させることになると言えよう。
現在、経済環境の変化によって「大学と職業との接続」が円滑なものでなくなるに連れて、こうした新卒一括採用という採用方式が潜在的に持つ機能のネガティブな影響は、社会的にも無視し得ないものとして認識されるようになってきている。本報告書が、企業の採用における「新卒」要件の緩和を取り上げる所以である。
ではどうするのか。例えば、「卒業後最低3年間は、若年既卒者に対しても新卒一括採用の門戸が開かれること」を当面達成すべき目標とした場合、大きく分けて2つのアプローチがあるだろう。一つは「規制的」な手法である。具体的には、経済団体による倫理指針のようなものを通じて、企業が自主的に改善を図ることを促すというようなことが考えられるし、あるいはそうした方法では効果が期待できないとして、何らかの法的措置を講ずるということもあり得るだろう。しかし「新卒」要件の厳格な運用 (それは同じような年齢の若者でも、浪人や留年をして「学生」でいる者には門戸を開く一方で、いったん卒業して履歴書に「空欄」の部分を生じた者には門戸を閉ざすということである。)は、一種の規範的な観点から「改めるべき」ものとすることによって、実効ある変化が期待できるものだろうか。そこでは、この問題を倫理的なものとして位置付けるべきかどうかという本質論、あるいは実態をどのように検証するかという技術論もさることながら、消極的な姿勢をもつ企業にもその意に反して強要するというアプローチに、少なからぬ限界があるのではないかと考える。
もう一つのアプローチは、言わば「経済的」な手法である。国民生活白書の調査で 22.4%の企業が、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とすると回答しているが、一定の明確な定義の下に、たとえ少数ではあっても、そうした企業をリストアップして公表し、若年既卒者や学生が知ることができるようにすることは、現状に少なからぬインパクトを与えることになると考える。このことは、リストアップされた企業においても、新卒という要件にこだわらずに多様な人材がアクセスしてくる機会を拡大するとともに、事実上、従来単一のものとして認識されてきた新卒一括採用方式に新しい形態を加えることとなり、新旧2つの形態が競合する状況をもたらすだろう。その結果、どちらの形態が企業が望む人材を効率的に採用するために有利であるのか、一種の市場メカニズムを通じた調整が働く可能性が期待できる。
何れのアプローチをとるにしても、卒業後一定期間は、大学あるいは大学間連合による就職支援を受けられるよう、大学の支援機能・体制の強化等が必要であるが、こうしたことも含めて、政府の関係部局において、この問題についての更に具体的な検討が速やかに行われることを求めたい。
なんでこんな話をするかというと、実はこの議論をした日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会の大学と職業との接続検討分科会に、なぜか私も加わっていたからです。
それまで日本学術会議なるものが乃木坂にあるということも知らなかったのですが、この間何回かこの建物に行って、いろいろと議論した記憶があります。ちなみに、この時やや奇妙なことを仰っていた籾井さんがその後NHKの会長になったりとかしてます。
この提言の本体部分がどれくらい日本の新卒採用慣行に影響を与えたかといえば、正直あんまり積極的に評価できるほどのものでもない感じがしますが、やや枝葉末節的なこの「卒業後3年以内は新卒扱いで」という部分だけは、その後青少年雇用確保指針に盛り込まれ、一応規範的なものにはなっているのでしょう。
(おまけ)
せっかくなので、この大学と職業との接続検討分科会の議事録から、私がしゃべったことを、お蔵出ししておきましょうか。自分でも忘れ果ててたようなものですが、いま改めて読み直してみると、なかなかしみじみと感じるところがあったりするので。
第1回
濱口) 正直気が重い感じがしている。というのは、教育問題は世間で議論される時にはある種きれいごととして、教育問題は教育問題だけで完結しているように議論がされてしまっている。それはそれで大変美しいが、教育の枠を一歩出ると何も相手にされないという傾向が強いのではないか。一般的な考え方をすると、社会システムは相互依存的、相互補完的な関係にある。教育は今の日本の雇用システムを前提として、それに合うように3世代にわたって構築されてきている。逆に言うと、そのように教育システムが構築されてきたことによって、企業の方もそれに合うように雇用システムを作り上げてきた。お互いに依存し合っているので、ある部分だけを取り出して、「この部分はけしからん、だからこの部分だけこのように変えよう」といっても、それで物事が動くはずがない。日本の雇用システムは基本的にjobではなくて、会社の一員になるということである。会社の一員というのは、会社がこれをやれと言ったことを必死の努力をしてやる、ということが最大の課題である。大学で何を勉強したか、ということよりも、何を言われてもそれをやりぬくだけの素材であることが必要である。それは何で分かるかというと、広い意味で人間力、地頭の良さというのは、ある部分は大学で4年生の時に何を勉強したかではなくて、4年前に入試でどれだけ点を取ったか、ということである。しかし個々のことだけ取り出していいとか悪いとか言っても意味がない。逆に言うとこれは連立方程式を解くようなもので、同時に解が出ない。しかし、複数の式を同時に解こうということはある意味革命を起こすようなもので、戦後の激動期でもなければそんなにすぐにできるはずがない。同じような話は福祉システムと雇用システムにも起こっている。雇用システムが中高年まで生活を保証するという仕組みがあったために、社会保障の方は年金を一生懸命にやっていればよく、現役世代をあまり相手にしなくてよかった。これが今問題になっている。これも一気に解決するのはできない。できるのはパッチワーク的に問題の起こっているところに膏薬を張るような方法で、それを少しずつ広げていくしかない。場合によっては最終的に望ましい姿に向かうのとは違うベクトルのことをやらなければならないこともたくさん出てくると思う。それで最初に申し上げた気が重い話ということになる。どちらかというとここにいる研究者の方は学生を育てる立場の人が多いので、そう簡単に何かを言えないのだろうと思うが、就活のシステムを問題にした時に、就活のところだけが問題だからといって、それをけしからんと言って何か解決するだろうか。自分が企業の人事採用者になった時にそのことで対応できるのか。これから40年間自分の企業のために頑張ってくれる人を何で評価するのか、といった時に、4年生で先生のゼミに全部出た人間ということだけをもって社会に出てやっていけるのかといったら、それはできるはずがない。その中で一つでも二つでもできることがあるとすれば、それは教育システムそのものの中に何か、ある種の職業に向けた指向性を注入していくことでしかないのではないか。私は基本的には学者ではなく、労働省の役人をやってきた。欧米では教育という言葉と訓練という言葉はほとんど同じ意味を持つ。日本では異なり、教育というのはアカデミックですばらしいこと、訓練というのはあまりレベルの高くない、低いところでやっている、という社会的な意味がある。実はそのところの議論までやらなければ、就活のところだけ議論していても意味がないのではないか。
第3回
(1)講演「教育における職業的イレリバンスの十大要因」(田中萬年)
濱口)企業が「下手に専門能力をつけてもらっては困る」と言う、ということは始めからあったわけではない。50年代頃に当時の日経連は「もっと専門教育をやれ、基礎教育などやるな」という提案をした。これが60年代頃に途絶えていった。なぜそうなったかというと、おそらく教育が対応できなかったからである。ところが企業の方が企業内教育としてやってしまうと、逆にそれが言わば前提になってしまう。そこで改めて大学が専門的なものを作ったとしても、企業の方ではそんなものはいらないという話になってしまう。言わば一種の相互依存的な関係が作られてしまう。実はここがこの検討分科会の最大の難しさで、上から「正しい結論」を出すのはある意味簡単だが、社会の全てのものには、例えば教育がこうである、ということを前提にして企業システムができてしまうと、一方ではそれを前提にして教育のシステムができる。そして今のような状態になってしまうと、そう簡単に「正しい在り方」に変われるわけではない。
濱口) 二番目の徒弟制度の話も、話はもう少し複雑だと思う。終戦直後の段階では、確かに徒弟制度はよくないという話だった。徒弟制度がよくないということをどういうふうに是正するかというと、教育システムできちんと職業教育をやろう、ということである。少なくとも教育基本法を作った人の発想はそうで、今まで会社の中でやっていたものはよくないので、教育システムで職業教育をやるということだった、ということだった。ところがその受け皿ができたか、というとできなかった。その結果何が起こったかというと、本来徒弟というのは会社がやるのだが、中身自体は社会的に必要な人材を作る、ということである。ところが、現実に起こったのは、社員として入れて、会社にとって必要な人材を作るというものになっている。本来の徒弟とは違う形で、徒弟的な機能を企業が果たさなければならなくなった。本来の徒弟制度であればもっと社会的な性格を持ったものであったものが、そうではない形で発展してしまった、ということで、話自体が二重三重に入り組んでいる。
濱口) ただ、今の本田先生の質問の趣旨からすると、課題解決能力や、学ぶ力、OS的能力というのは、何をしていれば、何をとっていれば、それがあると社会的に認定されるのか。少なくとも大学の法学部や経済学部のディプロマを持っていることが、問題解決能力を有していることの証明書になるか、というと社会的にはそうではない。このことのもっとも典型的な例が、以前外務省に出向していたことがあったが、昔の外務省は面白いことに、一番のエリートは大学中退だった。また、中退者の方が優秀だ、という考えがまかり通っていたということである。つまり専門教育は二年間しかなく、さらに最初の一年間しかやっていない人間の方が問題解決能力や学ぶ力がある、と認められていた。これはもちろん外交官試験という特別な試験があった、ということがある。しかし周りの世界からして非常に異常なことをやっているか、というとおそらくそうではないと思う。おそらくそこにあるのは、確かに企業はこういうものを求めている。それは何で判断されるか、というと、少なくともディプロマではないと思う。
(2)講演「日本の大卒就職の特殊性を問い直す―QOL問題に着目して」(本田由紀)
濱口) 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。
二番目に、システムの問題といってもそう簡単ではない。そのシステムを前提に色々なものができている。大学の教育の職業的レリバンスをより高めるという議論はそれだけ言っていると非常にもっともな理論である。しかし、それは現に職業レリバンスのない教育を行っている大学教員たちの労働市場の問題を発生させ、今大学で禄を食んでいる人のかなりの部分の職を奪うことになると思う。なぜかというと、そのシステムを前提としてそういう職業レリバンスのない教育をしてきたからである。それでもさらにオーバードクターの問題が発生してきたわけで、それを逆方向に向けたりすると、おそらく大変な事態が起こる。そうするとシステムの問題はシステムとしてしか解決できないが、システムの解決は漸進的にしかできない。そうすると、格好良い結論というのは、相当の代償のある話となる。そのため、たいてい何か書かれている割に、最後はあまり内容のないものになってしまう。これはたぶん仕方がないと思う。それ以上に格好良いことを言えば、それはおそらく空論に終わってしまう。何が必要かというと、やはり枠組みの議論をきちんとした上で、中長期的な、将来的な姿に向けて短期的に何ができるか、という議論を分けてしていくしかないのではないかと思う。せっかくこういう場なので、いきなりマスコミ受けする結論が出た方が格好良くはなるけれども、それは逆にアクチュアリティーをなくしてしまうのではないか。一部の有力企業や有力大学についてはおっしゃるとおりかもしれないが、それをもとに色々なシステムができて皆が動いているときに、逆にそこから降りられるか、というと、一人では降りられないと思う。
濱口) 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。
濱口) 私はまさに規制は必要だと考えている。しかし、不合理な規制は結局意味がないと思う。
濱口) かつての外務省がなぜ大学中退を採ったのか。3年生で受験して三年が終わって入ってくるということは、下手をすれば専門課程の教育は何も受けていないような人間の方が好ましいといって入れてしまうということだと思う。ある意味でそちらに集約されているのだと思う。
第4回
(1)講演「日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行」(濱口桂一郎)
濱口) 私は基本的には労働政策が専門だが、その関係で教育ということにも色々な関わりがある。しかし、基本的に教育そのものについてまともに勉強したり追及したり、という経験はないので、先生方からすると理解していないというところもあるかもしれない。その点については指摘してもらいたい。最初は非常に総論的だが、日本の雇用システムはそもそもどのようなものなのかということについて。これは労働政策や労働教育を論じる一番の出発点になる。これが人材養成の在り方、あるいは学校から仕事への移行の在り方と大きく関係している。逆に言うと、この一世紀の間に人材養成や学校から仕事への移行の在り方がどのように発展してきたか、ということがこの現在の日本型雇用システムの在り方を形作っている面もあると思う。
一言で言うと、日本型雇用システムの本質とは、職務のない雇用契約ということであると思う。職務がないとはどういうことか。民法を見ると雇用契約とは「当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約すること」と規定されている。この内容は世界どこでも同じである。また、具体的に何をやるかということを決められない、ということも、世界どこでも同じである。ただ、おそらく日本以外のどの国でも雇用契約には、どの種類の仕事をするか、ということが書いてあるのが普通であるのに対し、現在の日本の典型的な正社員の雇用契約では労働の種類が特定されていない。何をやるか、ということは会社が決めることで、会社から命じられたことをやるというのが典型的な現代日本の雇用契約である。日本人はあまりそのことの特殊性を感じないが、実はここが諸外国と見比べた時に最大の特徴だろうと思う。他の国では雇用契約というのはまずジョブである。ジョブがあって、そのジョブを遂行することが雇用契約の仕組みである。一方日本の場合はどういうジョブをするか、ということ自体を会社がその都度決める。一定期間はある程度あちこちのジョブをやるが、次にどのジョブをやるかということは会社の命令で決まる。では雇用契約は何を決めているのか。一言で言うと「会社の一員である」ということを決めているのだろうと思う。いわゆる日本の三種の神器と言われるものは、長期(生涯)雇用制、年功賃金制、企業別組合である。これらは全てジョブを決めているのではなくて、会社のメンバーである、ということを決めている、という日本的な雇用契約の特質から導かれる。
今日の話で一番重要なのが、入口と出口の管理、特に入口の管理である。つまり日本型の雇用システムでは雇用契約はメンバーシップであるので、入口の管理が重要なのである。ここには、日本独特の新規学卒者定期採用制が存在する。このような採用をしている国というのは他にあまりない。とりわけ日本の特徴は、実際に具体的な仕事に従事するのは4月1日からだが、そのために在学中から採用内定という形で雇用契約を締結することである。労働法では採用内定について、雇用契約そのものである、としている。ということは、内定されている状態は最も典型的な、ジョブはないが雇用契約はある、という状態である。出口については定年退職制をとっており、退職するまでは色々ジョブを渡り歩き、定年という形でメンバーシップから出る、という仕組みになっている。この入口と出口の間でも定期人事異動という、これもおそらく日本独特のやり方がある。要するに採用の場でも異動の場でも、基本的に未経験・未熟練な者をそのジョブに就けてやっていくことになる。そのため企業内教育訓練、とりわけOJTが非常に重要になる。これがジョブ中心であれば、仕事に就くのだったら就く前に、その仕事ができるような能力を身に付ける、ということになる。どのような形で身に付けるか、というのは「本人の仕事や責任だろう」というやり方もあれば「公的な責任だ」というやり方もある。しかし、日本の場合はそうではない。ここが一番大きな違いということができる。
次に、各論として入口に関わるところについてのトピックを二つ取り上げて、歴史的な経緯を見ていきたいと思う。
一つ目は人材養成システムである。基本的には未経験・未熟練の者を仕事に就かせてやっていくという仕組みがどういうふうにできてきたか、ということを若干歴史的な形で見ていきたいと思う。明治期は企業内人材養成という仕組みは全くなく、昔ながらの職人を徒弟として育てていた。それが工場の中にも入っていき、日露戦争~第一次大戦後頃から大企業で養成工制度が発達してきた。特に、第一次大戦後は労働争議が全国で勃発したということがあり、それまで中心だったあちこちを転々とする渡り職工を追い出していった。そして、むしろ大企業の中で子飼いで養成した職工を中心に、経営家族主義的な労務管理制度を発達させていった、というのが第一次大戦から第二次大戦の間の時期の大企業のやり方である。しかしこれは一部の大企業だけであって、中小零細企業はこれまでどおり渡り職工が中心だった。また、戦前から公的な人材養成は、当然近代化の中で色々と試みられていた。例えば明治時代に職工を養成するために作られた東京職工学校が、だんだん出世していって今の東京工業大学になった、という話は私からすると面白い。戦前の公的人材養成の仕組みや歴史を見ると、実務を担う技能者養成的な学校を作ってはいくが、それらがそういうものとしてあまり確立せず、どちらかというとより高度なレベルの学校になろうとしていくという姿があるように思われる。徒弟学校と実業補習学校は小学校レベルのものだったが、これらは非常に低調であった。そして、大変面白いと思ったのは、青年学校というのが1935年に設けられたことである。これが企業内において技能者の養成施設、私立の青年学校として企業内の人材養成と結びついた形で発展していった。かつ1939年というほとんど戦時下では、施行されなかったが、青年学校という形で18歳の子は全て何らかの形で学校に行くように、という考え方もあった。このように見ると、公的な人材養成を目指すという動きも結構あったと言える。戦時下に取り決められた非常に広範な分野についての法令は企業内の人材養成ということについてもかなり大きな影響を与えているように思う。というのは、1939年に工場事業場技能者養成令というのが出て、中堅(50人)以上の工場事業者に対し3年間の技能者養成を義務付けた。大企業では既に養成工制度としてある程度やっていたそうだが、中小企業では、これを同業組合という形で行ったという動きもあったようだ。
次に、戦後について。重要なのは、終戦直後にどういう仕組みが構想されたかである。1947年の労働基準法69条には徒弟の弊害排除が書かれているが、そのすぐ後には技能者養成という規定がある。つまり企業の中で技能者養成をしていくという仕組みが作られた。ただ、基本的な発想がどういうものであったかというと、当時法律制定に携わった労働省の担当課長だった人の著作によると、『技能者の養成は、職業教育の充実よって、相当その目的を達成することができると考えるが、義務教育以上に進学のできない者については、やはり労働の過程で技能を習得させることが必要であり、又ある種の職業にあつては、その性質上、学校教育だけでは、練達せる技能者を養成することが期待できない部門があるので、これを全面的に禁止することは我が国の状況に鑑み適当でない』というものだった。これは、本当はそういうものは禁止したいのだが、実際は中卒で就職する人もたくさんいるし、高校の職業教育だけで全てをまかなえるわけでもないので、ある意味必要悪として技能者養成をする、という感覚であったと言っていいと思う。そういう意味で、労働行政の発想は、基本的には、学制改革によって公的な職業教育が中心になったのだから、それが中心なるべきである、という考え方だった。そこで、労働行政が期待した新制高校における職業教育はどうだったか、というと、当初は総合制という、普通科と職業科を一緒にした高校になったために、職業教育は沈滞してしまった。その後1951年に産業教育振興法という議員立法ができて、単独の職業高校がだんだん増加はしてきたが、基本的に教育行政の方では、普通教育こそがあるべき姿で、職業教育が中心だという発想は必ずしもなかったように思う。では、日本全体としてどういう発想だったのか、ということについて、50年代から60年代のあたりをざっと見てみる。実は今から考えると意外に思うほど公的な人材養成システム中心の構想が出されていたということがわかる。1951年の政令諮問委員会で、中高一貫の職業高校や高大一環の専修大学が打ち出されていたり、あるいは日経連も5年制の職業専門大学を打ち出していた。全体としてみると、やや印象論的に言うと、文部行政が必ずしも熱心であったとは言いがたいと思う。しかし、単に労働行政だけではなくて、政府全体として言うと、あるいは使用者団体も含めて、公的人材養成システム中心の社会にしていく、という考え方が、色々な政策文書や提言の中に現れているように思う。それがおそらく最も典型的に示されているのは、1963年の経済審議会の人的能力政策に関する答申である。この答申は読んでいくと色々な意味で大変面白い。例えば学校との関係だけで見ても、デュアルシステム型の職業教育や、あるいは普通高校でも職業科目を履修すべきだ、ということが打ち出されている。60年代になるまで、日本政府や経営団体の発想の仕方は公的人材養成中心型であった、と言っていいのだろうと思う。では、同じ時代に企業の方は具体的に何をやっていたのかというと、先程の産業教育振興法ができたといいながら、実際には職業教育体制はあまり充実していかず、極めて貧弱だった。その中で大企業は、中卒の段階で優秀な新卒者を採用して彼らを企業内の技術学校で3年間(高校の課程と同じ期間)、一種の企業内デュアルシステムとして、企業を支える中核的な存在として徹底的に育てていく、という形をとった。これが50年代に確立していったが、60年代になると、高校進学率が急上昇した。特に日本国民の意識として、もともと職業教育よりも普通教育を好んだ、ということもあるかもしれないが、高校進学率の上昇の大部分が普通科の増加という形をとったということもあって、彼らを企業の現場に投入にしないといけなくなってきた、ということが60年代の企業の課題であった。そういう中で普通科を含む高卒者に対する教育訓練制度としてだいたい6ヶ月程度の養成訓練と、その後は職場に行って仕事をしながらOJTで身に付けさせていくという形が確立していったと言われている。おそらくこの1960年代は日本的な雇用システム、人材養成中心型が確立した時期と言えると思う。それまでは、政府もそうだが、日経連もいわばあるべき姿を一生懸命考えていたが、60年代に現実がそうなっていく中で、日経連自体も、それまで「職務給にしなければいけない」等と言っていたが、60年代の終わりにそれをやめて「能力主義」、つまり「人間の能力を見ていくのだ」という考え方に転換していった。これは逆に言うと、入ってくる人に対しては、何ができるかというよりも、何ができる人間になり得るか、素材としての優秀性をより期待するという形である。
このように企業の中が変わっていくと、それまで公的な人材養成を中心に考えていた政府の政策も大きく方向転換をした。60年代から70年代の初頭くらいまでは労働白書等で、職種と職業能力に基づく近代的労働市場を確立する、ということが繰り返し言われていた。これが70年代半ば頃に大転換して、むしろ企業内部での雇用維持が最優先である、という内容に変わっていく。そうすると、職業高校、職業教育あるいは職業訓練校というのは落ちこぼれが行く所だ、という風潮になってしまった。私が労働省に入省した80年代前半、職業訓練関連の仕事をしている幹部が、「職業訓練校などは落ちこぼれが行く所で、一応我々の行政の範囲だが、むしろ企業内での教育訓練をいかにやらせるか、という方が大事だ」ということを言っていた。80年代半ば頃は、まさにそういう感覚が最も強かった時期だと思う。しかし、職業高校や職業訓練校が落ちこぼれで、普通高校や大学が立派かというと、そちらも別に教育内容が評価されて偉いと言われているわけではない。要するに、教育の中身では評価されない、という意味では、おそらくどちらも同じだと思う。こういう在り方が変わってくるのが90年代である。一番有名なのは1995年の日経連の「新時代の日本的経営」であり、この中では「雇用ポートフォリオ」という考え方が示されている。いわゆる日本的な雇用システムの中で正社員として働いていく人間だけではなくて、いわばその時そのときに使っていくタイプの人間を(高度な能力を持って動き回るタイプと、能力があまりなくてその時そのときに使っていくというタイプの二種類)提示した。経営側も少しずつ変わって、労働政策もそれに応じる形で、これまでの企業内の人材養成の発想を変え、自己啓発ということを90年代後半から強く言い出す。しかし、自己啓発というのはかなり変な話だと思う。自己啓発と言って何をしたかというと、結局労働者が自分で英会話教室等にいったお金を払う、というシステムで、どれだけ役に立ったか、というと大変疑問である。むしろその後2000年代になってから、自己啓発というよりも公的な職業訓練が必要ではないか、ということが逆に強調されるようになった。今から11年前に山田洋次監督の「学校Ⅲ」という映画があったが、これは企業の中での教育訓練中心から、世の中の動きが少しずつ変わってきていることを描いている。このことは労働行政的な発想である。これと社会の雰囲気的におそらく同じ流れの中にあると言っていいと思うが、80年代の後半以降、それまでの職業高校が専門高校と名前を改めて、教育行政の中でもかなり注目され、方向性が打ち出されるようになった。例えば、文科省が「目指せスペシャリスト」ということで、専門高校を打ち出そうとしているし、あるいは東京都立六郷工科高校がデュアルシステム科を作ったという話もある。
高等教育、いわゆる大学レベルの教育における職業教育をどう考えるか、という話だが、最初に申し上げたとおり私は教育そのものについて勉強しているわけではないので、そもそも教育とは何なのかというところを学校教育法で調べてみた。ご承知のとおり、戦後の新制大学は、戦前の旧制大学、旧制高校、旧制専門学校、師範学校を合体したものであり、少なくとも旧制専門学校と師範学校が職業教育機関であったことは間違いない。また、戦前の大学でも先程の東京工業大学の例のようなものは職業教育機関と言ってもいいと思う。しかし、学校教育法では大学というのは「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」と書いてあり、職業という文言は出てこない。他を見てみると、短期大学は「職業又は実際生活に必要な能力を育成すること」、高等専門学校は「職業に必要な能力を育成すること」、あるいは2002年にできた専門職大学院についても「高度の専門性が求められる職業を担うための学識及び卓越した能力を培うこと」と書かれている。大学については少なくとも現行法上は職業能力がイメージ的に出てこない仕組みになっている。本当にそもそも出発点としてそうだったのか、今の大学が本当にそうなのか、大変疑わしい気がする。そうはいっても理工系の学部は、実は学術研究と、技術者としての職業教育が不可分で、事実上工学部・薬学部・農学部等では、高等職業教育機関として機能していたと思う。問題はやはり文科系の学部で、そこに職業的レリバンスがあるのかどうか。私の出た法学部はそういう意味では非常に今皮肉な状態になっている。法学部では、まれに一部の人間が法律家になる程度で、ほとんど法律家を養成していない。その上に、非常に多くの大学が法律専門職のみを養成するロースクールを山のように作った。しかし、そこを出た人間で法曹になれるのはごく一部であった、ということで今大騒ぎしている。これはその部分だけでも大きな議論になるものだが、おそらく高等教育で法律を教えるというのがどういうことなのかということ抜きにして今までやってきたこと、かつ「法学部なのにロースクールがないという恥ずかしいことができるか」ということで作った、ということのつけがまわっていると思う。意識的に経済系のことは言及していないが、経済系にもそういう話があるかもしれない。
次に、日本型「学校から仕事への移行」システムの形成過程について。戦後、1947年に職業安定法が制定された。実は戦前から小学校の卒業者の職業指導を始めていたというのが背景にある。戦後、職業安定法に基づいて、基本的には学校卒業者は全て職業安定所に行くということを作ったが、高校と大学は届出制、中卒者は(50年代は中卒者が多かった)安定所が中心になって就職した。中卒者はもちろん職業教育を受けていないので、きちんとしたいい就職先に当てはめていなければいけない、ということで、これはまさに安定所が主導する形での新規中卒採用制度が確立する。先程言った、最終学年の間に求人を全部持ってきて、一人ひとり全部当てはめて、行く先を全部決めて内定をとって、3月31日に卒業したら4月1日からちゃんと仕事をする、という仕組みは、新規中卒採用制度という形で確立した。これは学校中心ではなくて、安定所中心で作られたものである。それが、60年代以降高卒がメインになる中で、高校が中心になって、かつ高校が企業との実績関係に基づいてやはり同じように在学中に内定して、学校から仕事へ移行していくということをやっていく。このときに先程言った高校の進学率が急上昇したことから、基本的に生徒の学業成績(勉強がどれだけできるか)に基づいて企業に振り分けるというふうになった。そのころから90年代頃までは日本の学校から仕事への移行というのは世界的に非常に大きな研究分野で、色々なものが出されているが、90年代半ばくらいまではこの問題について、日本人は偉そうな顔をして、若者の失業者の多いヨーロッパの制度はだめだ、日本のやり方は非常にいい仕組みだ、と自画自賛的なことを言っていたが、90年代以降それが崩壊してきている。70年代以降、大学の進学率も徐々に上昇してきて、戦前の感覚で言うと、大卒は上級ホワイトカラー層だったものが下級ホワイトカラー層に、さらにブルーカラー層にだんだん進出してきている。しかも70年代以降は、企業は基本的には入社後の教育訓練で鍛えていくという形になるので、大学で何を勉強したかというよりも、入社後の教育訓練に耐えられるかどうか、という観点から大学の銘柄が大事になった。大学名が素材としての能力の指標になっていて、これが逆に言うといわゆる学歴社会現象を導き出してきたのだろうと思う。しかも、中卒は安定所中心、高卒は学校中心だったわけだが、大卒は基本的に個人が企業と自由市場でマッチングする。大人だから当然と言えば当然だが、その中で就職協定という、ある種の事前演出的なことが行われていると思う。色々な考え方があると思うが、戦前なり戦後のある時期の感覚で言うと、たぶん戦前の小学校、戦後の中学校卒にあたるような社会的な部分が、今大卒として労働市場に出ていくということからすると、一方で、大学は学術の中心だといまだに位置付けられているが、その中で職業教育をどう位置付けるかということが議論になっているのだと思う。その中で出てくるのが、大卒採用というのは、社会の中でどういう人達について相手にしている話か。大学が学術の中心だということであれば、それはもう社会の上層部の立派な人達なので、それはあれこれ国家統制するような話ではない。しかし、本当にそうなのだろうか。この点はいわば大学や大学教育を社会的にどのように位置付けるかということによって考え方が様々に変わり得る話である。最後の方はおそらく議論の中で色々な形で意見が出てくると思う。
濱口) そもそも理工系のことはあまり知らないので、まとめて書いてしまった。いわゆる理学部の純粋科学的な所になればなるほどそうではない、ということはそうだと思う。しかし、工学や農学、薬学という所では基本的に不可分だろうし、法律や経済も上層部分になればそうだと思う。だが、実態として何が問題かというと、日本には山のように法学部や経済学部があるが、そこを出た人の圧倒的大部分は、そこで先生方が一生懸命教えたことを、学術ではなく、職業的な意味でも使うか、というと使わないことが非常に多いということだと思う。そういう意味では理工系というのは色々なグラデーションがあるだろうし、そこを言い出すと色々あると思うが、いい意味で不可分ではないかと思う。
濱口) そこまで細かいレベルの話ではない。
濱口) 主体・アクターによって色々違いがあると思う。ある意味では先程の説明はやや割り切りすぎである。単純化した言い方をすると、90年代は、「企業に全部お任せ」という所から、「公的にやりましょう」とはならずに(合理的にはそう言ってもおかしくなかったが)、ありとあらゆることが「それは個人の自己啓発だ」となった。「雇用契約は、労働者個人が主体的に結ぶものだ」というように集団性を否定した。90年代は、「集団(企業)から個人へ」ということがトレンドとして非常にうたわれた。しかし、そこから零れ落ちる人が出てくることや、個人が全部できるのか、という話が本格的に議論されてくるのは、むしろ2000年代だろう。98年の山田洋次監督の映画はたぶんやや先駆的すぎたのだと思う。映画は出たが、政策としてそういう方向に行ったというわけではない。労働行政の能力開発審議会の中では、「『自己啓発』と言われるが、そのようなものでできるのはごく一部だ。結局若者や女性など、そこから零れ落ちている者についてしっかりと対応する、ということをもっと公的にやるべきだ」という議論が出てくるのは2004、2005年頃である。ただ、労働行政の中でそういう議論が出だした、ということであって、社会全体としてそうかというと、なかなかそこまで行っていないということだろうと思う。
濱口) この資料はある意味で教育行政少しよく描きすぎている。そちらは、どちらかというと教育行政の方も少しずつこちらに来ている、ということを強調する、というやや不純な思惑があった。ただ、そうはいっても一応そういうこと文科省が打ち出すようになったということは、少なくともきちんと言及する値打ちのあることだと思う。
(2)講演「教育と労働と社会―教育効果の視点から」(矢野眞和)
濱口) そこはたぶんそうなのだろうと思う。そうすると、経済学部で、経済学を一生懸命勉強して、就活をせずに卒業してきた人間と、経済学はほったらかしたが、非常に広範な分野で本を読んでいる人間とどちらがいいのか。そもそも企業がなぜ就活に力を入れるか、というと人間を見ているからである。逆に、私はそういうロジックに導かないようにした方がいいのではないかと思う。そういう形にするとあまり意味がない、つまり、就活論との関係で言うと、むしろ相反する議論になってしまわないか。私は就活について、高校は職安ではなくて高校が主導しているが、中学校並みに職安化されていいではないか、というのは一つの極論として思っている。それは、戦後日本が大学というものをどう位置付けているか、ということそのものを180度根本的にひっくり返す話である。私はそういう定義をしてみる価値があると思うが、たぶん今日の話ではないと思う。
濱口) 中高生は大人ではない。では大学生は大人なのかという根本的な話で、一個の自立した市民であるという前提なのだと思う。だとすると、一個の自立した市民は、「自分の教養のためなり今後のキャリアのために、自らの意思に基づいて自発的に受けている教育を受ける」か、それとも「企業との1対1の関係において、そちらに必要な活動に移る」か、実はそれは無法ではなくて、ただの選択の問題になる。それを選択の問題と考えず、前提が今も大学生に成り立っていたということが本当に問題だと思う。そこをスルーしたまま、あたかも知的で成熟した大人であるということを前提とした大学生が自らの判断で、物事に選考順位をつけること自体、いかなる観点からそれが善か悪かと言えるのか。あえて挑戦的な言い方をしたが、私はこれが正しいと言っているわけではない。これが正しいと言わないためには、そもそも大学生はそのような存在ではないのではないか、という議論をしないと、その議論はできないのではないか。
濱口) おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。
濱口) 個人の選択がフィクションであるのは当然である。大人の世界というのはフィクションであっても、ある程度フィクションで成り立っている。大学というものをどのように位置付けるか。フィクションであるけれども、ある程度個人は自立して判断するという前提の上で今の大学ができてしまっている。しかし、それが事実ではないとすれば、ある意味で端的に、公的な規制の下に置く、ということはあると思う。
濱口) たぶんいくつかのレベルがあって、自立した大人であっても、社会的に完全に自立した意志決定をできるわけではない。このような形で大人に対する規制はある。しかし、企業と個人がどうつながるか、というところに入る規制は、日本は非常に弱いというか、自由に委ねられている。大人の判断というものに対しては自由であるというのが大原則で、それに対して子どもはそうではない。それでは大学生はどっちなのか、という話である。つまり大人であるということは、大学教育が個々のゼミ・授業を就活と比較して、出る価値があるか・ないか、自分の人生にとってどちらが大事か、ということを一人ひとりが判断してやるものだ、という前提になっている。しかしそれは現実的ではない。現実的にない、という話を抜きにして、大学教育というものを学校教育法のきれいごとの世界の延長線上で描きながら、出口のところだけ急に昔の中卒・高卒の話に持ってくるのは、議論として非常に整合性に欠けるのではないか、という話をむしろしたい。
濱口) 大学は社会的にどういう存在なのか、ということだと思う。能力がつかなかったらどんどん追い出す、というのは、今までの、エリートが大学に行くことを前提とした発想だと思う。逆に、今は50年代の中学校並みが今の大学なのだ、と割り切ってしまうと、少しできが悪くてもきちんと大学卒業生として社会に送り出すことが務めである。学校教育法はエリート主義を書きながら、そういう部分だけ限りなく中学校的なやり方をしているために、こういう矛盾が出てくる。決着をつけるには、どちらかにする必要があると思う。個々の所で、二つの間にはさまれるというか、がけに落ちる状況にならないようにするためには、A大学とE大学では基準が違ってもいい。A大学にはこの基準、E大学にはこの基準というものがないと、それぞれの所でがけから落ちてしまう。
濱口) そういう意味で言うと、むしろ一元的である。でないといけないと思う。多様性ということで言ってしまうと、わけがわからなくなってしまう。
濱口) 昔も中学校と大学で違った。
濱口) だとすると中学校型に一本化するしかない。つまり原則は中学校型で、その中で色々なものがあり得べし、とすることだと思う。
第5回
(1)講演「専門分野別評価と職業教育」(北村)
濱口) 技術者教育と工学教育が微妙に異なる、という話だが、「微妙に異なる」というのは「大体同じ」ということになると思う。逆に言うと、こういう議論ができていること自体がある意味で素晴らしい話で、先程から色々な問題が上がっているが、問題のレベルがだいぶ違うと思う。例えば事務屋の教育と法学系の大学教育が微妙に異なると言ったら鼻の先で笑われると思う。リーガルマインドや経済的思考が役に立つとか世の中で言われているには言われているが、「それは本当か?」と突き詰めていくとそのような主張はどこかに行ってしまう。微妙に異なるというレベルで議論できていることの方がむしろ特異であるように見えるという印象だ。
(2)講演「労働教育と就職活動について」(逢見直人)
濱口) 協定という言葉の定義で、協定というものがアンバインディングな紳士協定であるという意味で使われているのであれば外資であろうがなかろうが、抜け駆けするものに対する規制能力がないものというのは本質的に同じ話である。どんなものでもアウトサイダーがいる。アウトサイダーをどうするか、というと、公権力を持って強制するかという話になる。なぜこういういう話をするかというと、労使協定はどのように担保されるかというと、公権力で強制するか労働組合が強制するかである。秩序を守らせるためには、やり方としては集団的な力でやるか、国家権力でやるか、である。就職協定はそのいずれでもない、ということは「守らない人はどうぞ破ってください」と差し出している訳なので、もともと最初から強制力はないのだろうと思う。
濱口) たとえば、高校生に対する求人は職安を通さなければいけない。どうしてもやるのならばそこまでする必要がある。なぜそんな規制が正当化されるかというと、高校生はまだ子どもだからである。子どもには教育を受ける権利がある。それを大人の論理で奪ってはいけない。では、なぜ大学生には許されているかというと、大学生は立派な大人だとみなされているからだ。40歳や50歳で大学に入っても全然問題ない。にもかかわらず、なぜ就職協定が社会的に問題になるか、というと、建前はそうかもしれないが、実際はそうではないからである。今の大学生は、実は昔の中高生レベルである。昔の中高生レベルの者に大人であることを前提にした仕組みが適用されている。その、建前と現実の狭間が問題を生じさせている。今や、大学であるかは別にして、中等後教育を受ける人の方が同世代の過半数である、という時代において、確かに民法の成人年齢は超えているが、昔の10代後半くらいに相当するような人に対してどういう仕組みでやるべきか、ということを議論しなければいけない。その一方で、建前的な学術の中心として20歳でも30歳でも40歳でも学びたい人が大学に入って学問をするのだという建前の議論と、無媒体的にくっつけてしまうと、話がおかしくなってしまう。どこにスタンスを置いて、どの視角から、どういう大学生をイメージ・念頭において議論するか、ということをきちんとしないといけないと思う。
濱口) 労働者であることと学生であることはなんら二律背反ではない。そういう意味では、大学に入る前から就職していて、実際に仕事に就くまでに大学で4年間研修してこい、ということも制度的にはありうる。しかし法律的には問題ないが、どの人を会社に採用するか、という判断基準において大学教育が何も関係ないことがあまりにもあからさまになる、ということである。
濱口) むしろ籾井委員が言われる発想は、今までの日本の発想そのものである。ただ、それでは大学の存在意義が説明できない。突き詰めると、なぜそういう大学に国が国民の税金を払って支えなければいけないのか、ということを説明できなくなってしまう。
濱口) 今まではそうだったが、それではおかしい、ということで議論している。もちろん理科系と文科系で違いがあるが、企業からすると、法学部であることと経済学部であることには差がなく、その学部に対する印象によってその学生の人間性を判断する程度であった。本当にリーガルマインドや経済的思考を求めているか、ということは、突き詰めていくとなかなか難しい。今までそうだったからそれでいいのではないか、というのも一つの答えである。しかしここで求められているのは、そこをもう少し踏み込んだところで議論をしよう、という話である。
第6回
濱口) 短期の話と中長期の話が混ざってしまっていると思う。短期というのはシステムを所与としている。システムというものは簡単には変わらないからシステムなのであり、システムを変えようということは、すなわち短期には何もしない、という話になる。その話を短期に、「今こういう問題が起こっているから、それに対してどうしよう」という話は論理的には必ずしも整合的ではない可能性がある。樋口先生の話された、正社員と非正規の話にしても本質的には雇用システムの話だが、それはそんなに簡単ではない。では当面何もしない、というのは論理的には正しくても本質的には正しくない。就活問題は短期の話である。システムを変えよう、という話は中長期的にはするかもしれないが、それはそれとしてシステムは所与として、弊害を最終的にはどうしたらいいか、という議論と、雇用システム・教育システムを包含する社会システム全体を、中長期的な課題として言うしかないと思うが、どういう方向に向けて取り組むべきか、という議論を分けないで、混ぜて議論してしまうと、読む人に同レベルで議論しているような印象を与える。
濱口) 少し気になったのは、「客は企業」という言い方をすると、おそらくそれは違うと思う。それはなぜかというと、短期的に言うと企業がむしろ人を求めているので、極端に言えばジョブについてきちんとしたものを今の企業は別に求めている訳ではない。では一体誰が求めているのか、というと、今は本当に求めている人はいないのかもしれない。そこで先程の短期と中長期の話で、実はしかしながらそれに一番被害を被っているのは、そういうまともな知識のないまま人間性だけで企業に採られて、それで上手く人間性を開花させた人はいいが、そうでなかった人はどうなるのか、という話で、顧客は企業だという言い方はやはり若干ずれている。
第7回
濱口) 資料3について、市民生活と職業生活が並列で書かれていることについて違和感がある。職業人は市民ではないかのようである。「市民生活とりわけ職業生活」というべきではないか。日本では職業教育も含めて、教育と訓練とは別の世界の話のようになっている。訓練ではこのようなことをやっているらしいが、こっちの話とは関係ない、という感覚であるから、おそらくこれが抜けないのだと思う。しかし、本当は全て同じ事である。そしてそれこそが実は職業教育である、という話を言う値打ちはあるのだろうと思う。
濱口) 考え方として、「大学が提供する教育の質」の保証なのか、「大学が提供する教育を受けて社会に出て行く学生の質」の保証なのか、というのが一番重要な問題ではないかと思う。「日本の大学の学生の質保証」というのは、後者のことだと思う。質を保証するというのが目的であり、その目的を達成するためにその手段として大学が提供する教育の質を保証するというはずなので、いわばその目的である、大学の教育の質保証という発想をもっと出すべきだという趣旨で話されている、と私は理解した。
濱口) 言っていることはあまり変わらないと思う。学生一人一人に点数をつけよう、という話ではなくて、提供されているカリキュラムをきちんと学んで、それに合格すれば、それだけの能力を身に付けたと判断するようにする、そこを出た学生に能力保証ができるようなカリキュラムの質を保証するという趣旨である。ただ言いたいことは、この枠組みではそのようにはならなくて、学生の能力の保証という観点のための課程の保証という観点になっていないのではないか、ということなのだと思う。
濱口) 趣旨がずれているかもしれないが、今の文科系、例えば経済学部のカリキュラムは、そもそも職業をターゲットにしていないではないか。もっと職業をターゲットにしたようなカリキュラムの組み方、というものも一つの例として、こういうものも参考にできるのではないか、という趣旨なのではないかと思う。「個別か全体か」という話ではないと思う。
濱口) その話をしてしまうと、司法試験を受ける人間だけにとって意味がある話になってしまう。しかし大部分の人はそうではなく、普通の会社で経理や総務の仕事をしている。そういうことをもう少し前方に置いた形で、なぜこういう話が出てくるかというと、文科系でも職業についても第一義責任的なものを作っているからである。
濱口) ○○工学や○○専攻というように細かく分けると作りやすいし、イメージしやすい。わかれているとしてもそれは基礎的なレベルで、その先はかなり汎用性がある。法学部はある意味で一番典型的で、上澄みのところだけ非常に汎用性があって、そこから下がると何が特色かわからない。つまり民法や刑法を学ぶことが大学を卒業してからの人生にどういう意味があって、どういうところにつながっていくのか、ということを考えたときに、もう少し職業生活に対応する形で作っていったらどうか、という趣旨ではないか。
濱口) そこまで議論することなのか。もっと広い意味でも、その点にあまり触れないと、皆が問題だと思っているところについてきちんと提起しない、ということになってしまう。
濱口) 枠にはめるのではなくて、問題を提起する必要がある分野とそうでない分野があるのではないか。あまりに一律に通用することだけを議論しようとすると、問題とすべきところが表に出てこないような形になってしまう。
濱口)イギリスやアメリカでは具体的な例を出している。日本社会では同じことを言うよりも、「あちらでこのようなことをやっている」といった方が通りやすい、という面もある。逆に言うと日本でも関係しているところからすると、「こういうものがある」と言いたい気持ちはあるだろう。
濱口) 「新時代の日本的経営」をわざわざ出す必要はないと思う。もっと専門的な能力を活用していく方向に行こう、という話が言われている、ということを書けばいいだけである。14年前に日本経営者団体連盟が出したものを実現しましょう、ということを書く必要はないと思う。これはどちらかというとバックグラウンド的な話である。
濱口) 日本的経営は長期蓄積型を縮小しながらやろう、その外側は流動的なもの、という階層構造でやろう、という提案だった。
濱口) 趣旨は非常によくわかるが、おそらく書き方の問題だと思う。この報告書が、14年前の報告書を実現すべきだという立場に立っている、というようにならないようにした方がいいと思う。
第8回
濱口) もっと正確に言うと、労働市場の状況とそれに対応すべき教育の現状ということが認識論としてあり、それに対する政策的対応は、労働市場にのみ存在し、教育には存在しない、ということでこのような順番になっているので、このような言葉になっているのだろうと思う。確かに現状を書いてその後に政策的対応を書くのはわかりやすい。しかし、そうではなくて、政策的対応は労働市場にしかされておらず、教育にはない、ということが問題、課題である、という話なのだと思う。
濱口) この論理からすると、このような色々な状況の変化に対して、雇用システム自体も変容している。しかし変容が足りないために、それを補うために量的に縮減されてしまい、その結果としてこのような問題が起きているのだ、という論理が成り立つのではないか。強化はされていないと思う。
濱口) 現象としてそのような形で現れているので、その部分がより高くなっているか、というと疑問はある。
濱口) なぜ雇用システムがそう簡単に変わらずに、縮減という形で対応しているのか。それは他のシステムと対応しているからである。つまり、他のシステムと相互補完性があるため、他のシステムが変わらないと、雇用システムだけ勝手に変わるわけにはいかない、ということである。
濱口) これは公務員と民間という形で分けて書く話ではなく、上位か中位か下位か、という話だと思う。上位は今まで通りだという書きぶりにするのか、むしろ実際には職業生活の中で幅広い能力が求められると思うけれども、基盤として一定の専門職がいるということは強調していくべきだという書き方にする、つまり全体としての主張をそういう形にするのか。それがちょうど公務員のそれぞれのクラスに対応する。そうすると、公務員についてどう書けばそういう話になるか。
濱口) 公務員が難しいのは、公務員法は半世紀以上前に、当時の発想としてはむしろ逆の発想で作られたが、それを違う発想で運用してきたという歴史があるからである。したがって、これに足をつっこむと、「本来公務員法が云々」という複雑怪奇な話になってしまう。
濱口) しかし民間企業は「本来雇用はこうあるべき」ということがあるわけではない。どちらかというと、特にここ数十年間は雇用システムとはこうであるということを前提とした法制度が作られてきている。しかし公務員は本来職階制から来ているところもあるので、つっこむと大変である。
濱口) わかっていないというよりも、システムというものがそう簡単に変えることができないがゆえに、例えば賃金カーブのフラット化や成果主義といった方向も出す。それだけではなく、今まで暗黙に言われていなかった、ありとあらゆる状況に機敏に対応できるような人間力、コミュニケーション能力をより明示的に出す。そのことだけで言うと、今までの日本的雇用システムの性格がより強化されていく、という現象が出ているということではないか。ますますこれから企業に就職するためには、どんな長時間労働にも耐え、ありとあらゆる状況に機敏に対応できる万能な能力を身に付けなければいけないというように、今まではそうはいってもそれほど多くなかったものが、ある意味では別の方向に向かっている面もありながら、企業の外に対するメッセージとしては強化する方向が出されているために、大学がそのようなメッセージを受けて混乱しているのだと思う。
濱口) だからそれを要求しているのはあくまで現象だ、ということを書かなければならない。
濱口) ただ大学教育との関係でいうと、今までの日本的な考えでは、将来的に言えば、何かしらそういう人間力は身に付いていくけれども、入社したときからそんなものはあるはずがなく、むしろ入社してから上司や先輩が鍛えて身に付けていく、という話だった。しかし、変容しつつ縮減しているために、かえって最初から人間力をもって入ってきてほしい、というような話になっていて、それで変なことになっている。
濱口) その年齢層にそういう教育機関が増えること自体は悪いことではない。それにもかかわらず、今までの大学という枠組みでものを考えてきた、とつなげた方が少なくとも反動的な感覚・感情を与えないだろう。国民の志向として、より長期間教育を受ける方向に、という趨勢自体をけしからんと批判するよりもよいのではないか。
濱口) 多様化について、既存の人文社会科学系のところが量的にふくれあがることも含めてなんとなく理解していた。多様化というとそうではなくて、いわゆる四文字学部や六文字学部のようなものをイメージしていた。それは人文系の膨張現象の話であってむしろ③である。「知的訓練という『前提』を後景化させた」という記述は、本来こういうことをやる学部のはずだが、量的にふくれあがったことでとてもそのようなことができなくなった、という話なのか。しかし多様化という話はそういうものではない。本来的な意味で社会的なニーズに応じて、ということであれば、まさに複合的なディシプリンを含んでいるはずである。
濱口) ここで雇用創出が出てくるのは唐突な感じがする。
濱口) 2の政策的対応というのは、これまでの若者にかかる政策の不十分さ、的はずれさ、というような形でここに書かれているのだと思う。企業行動の変化と若者の状況、それに対する広い意味での政策的対応があるけれども、限定的というよりもむしろやや本質をはずれているという言い方ではないか。そして本当はここで対応すべきなのだ、という形である。そういう意味では児美川先生のこの並べ方は筋が通っていると思う。
濱口) かつては若者対策はいらなかった。しかし必要になった。にもかかわらず認識が追いついていない、あるいはずれており、若干的はずれな対策が講じられている。
濱口) 1(2)は中位層への対策の中に位置付けられてしまうと思う。2の下位層へのキャリアラダーの再構築は雇用システムの在り方そのものにもつながる。整理が大きく中位と下位に分けて、中位についてはマクロがあってそれに大学教育がのっかるという話になっている。主旨からいうとこういう書き方がこの性格上できるかわからないが、最初に中長期的課題として雇用システム・労働市場の在り方があり、それには上位も中位も下位も基本的な基調というのがあって、それを受けて、という書き方の方が整理できるのではないかと思った。キャリアラダーの再構築は実は労働市場の在り方そのものである。
濱口) それを言うと、1(1)も短期的といいながら、それが機能するためには実は将来的に(2)の方向へ行くことを前提としている。雇用システムがますます今までの領域を凝縮する方向に落ちるのであれば、逆の方向に向かうことになるわけで、やはり現状と課題で認識的な齟齬があったとしてもⅡの提言の最初にそれがないと、なぜこうなのか、話がつながらない。
濱口) 教育だけにして、そこは提言に入れないということは一つの選択肢である。しかし、そうすると1.(2)はいらないし、2.もというキャリアラダーを前提とした大学教育を構築するといった話になる。ここはシステムそのものを作っていく、という話を書いているので、それは最初にまとめて出した方がいいと思う。
濱口) 「職種別労働市場」をできれば「職種と職業能力に基づく労働市場」にしてもらいたい。なぜレリバンスかというと能力を高めていくという話なので、それがにじみ出る表現の方がいいと思う。
濱口) むしろここは「…されており、しかもこれこれのように上手くいっていない」というように、そこはあまり書くとあちこちに差し障るが、かつ社会的な受け入れ条件がそれに合った形で変わっていないために上手くいっていない、と書いた方がいい。それがおそらく2.ないし3.の提言の上下の話で、中・下があって上がないのは気になる。また、上は今まで通りでいいのか、というと教授側はそういうことをやってしまっている。例えばロースクールのように高度専門職を養成した人間を社会がどういうふうに使っていくか、という議論を提言に書く必要があるだろうと思う。
濱口) どこかに入れるというのはなかなか難しい。書くのであれば独立した項目になると思うが、玉としては小さい。
濱口) 将来の職業選択を考えずに大学に進学している現状がある、という形で書いて、現状と課題に入れる方がいいのではないか。
濱口) だが、詳しい歴史的記述を延々と書いても、ものの性格上少し違うように思う。
第9回
濱口) 前回も議論し、あまり明確な形にしなかったことだが、「日本的雇用システム」をどのように定義するか、ということがある。「日本的雇用システム」とは、端的に正社員システムのことなのか、それとも正社員システムと非正規の分を含めているのか。そして、日本的雇用システムの変容と言った場合、ある正社員システムが縮減して外側が拡大することだけを指すのか。2.の日本的雇用システムの「縮減」では、正社員システムを日本的雇用システムとしている。「日本の」雇用システムといった場合、正社員・非正規等を全部含めなくてはいけないが、「日本的」「日本型」というと、正社員システムだけを指す言葉としても使えるし、現に使われている。そして、非正規を含めたシステムを指す言葉としても使える。しかし、文章の前と後ろで見方が違っていると意味が通じなくなる。
2点目に、日本的雇用システムを正社員システムという意味で定義した場合、単に縮減しているだけなのか、それとも変容しているのか、ということがある。これは今は議論しない方がいいのかもしれない。しかし、前回の議論では、日本的雇用システムには二重性があり、ある意味で縮減というよりも凝縮であり、凝縮というのは今までの日本的雇用システム的な性格がより強調されている、ということである。ただ、それが凝縮することによって、逆にそれ自体が前提としている条件に矛盾するものが出てくる。昔の雇用は、たいしたことのない人間でも採用して長い目で育てていく、というものだった。したがって、そもそもの昔のシステムが前提としていた条件を抜きに、会社の中である程度育てられてきた人間に要求するようなことを卒業生に要求するということは、凝縮であること自体が矛盾をもたらしている、という面がある。そこまでを「変容」という言葉で表現した方がいいと思う。正社員システムが縮減していることによって矛盾が生じている、それとともに縮減して凝縮されたことによって矛盾が発生している、という2本立てでいく必要がある。Ⅰの1.でこの点についての記述があった方がいいのではないかと思う。
濱口) 正確に言うと、学問的ディシプリンが何であれ、一定の何らかの知的訓練を行うということは間違いないと思う。ただそれが、例えば法学部に入って法律を学ぶことによって、他の学部に行っただけでは得られないような何らかのものが得られたのか、というふうにちゃんと社会的に認知されているか、というとそうではない、という趣旨であり、少なくとも全く大学に出席しないで遊んでいた人間と何かしら勉強していた人間とでは違うだろう、というもともとの意味は社会的に信頼されているだろう。何かのディシプリンがあることを強調して書くことは嘘になると思う。少なくともそこで何らかの知的訓練を受けたことは、その後の知的労働に従事する上で、本当に役に立っているかは別として、役に立っているというふうに社会的に認識されていたということは確かだと思うので、そのように書けばいいのかなと思う。
濱口) 表現をどうするかは別として、そういう言葉で表現しようとしている事態がある、ということを書かなければいけない。個別のレリバンスはなくても、そこで一生懸命勉強することが就職した後の長期的な育成の中で非常に役立っていた社会と、そもそもそうですらないということがマジョリティになってしまったところの両方を書かなければいけない。したがって、上中下という言葉を使うかは別として、何らかの表現をする必要があると思う。
濱口) メールでいただいた資料で、今日配布されたものには入っていないが、これまでの日本的な正社員システムの中で、上位校でうまくいっていたところについてはそれでいいのではないか、という点があったと思う。その点は今の話とつなげて議論できると思う。しかし、そうすると今度は「だからといって最初から何でも要求するなよ」という話につながってしまうかもしれない。全体としての方向性に逆行する議論を個別的にしてしまうことになってしまうので、それがいいのかはわからないが、細かい議論をし始めると、こういう議論はあってもいい。ただ少なくともそれは全体としてはそれがうまくいかない形になっている、ということを最初に指摘した上での話だと思う。
濱口) ただ、少なくともここまで大卒者が同世代の過半数を超える状況になった中で、すべてについて、今まで言っていたような、中身はとにかく、何かを一生懸命訓練したことによる人間力レリバンスがあるからやっていけるのだ、ということで、全部うまくいっているということはない、ということは言う必要がある。そういうことで、おそらくここで言われているようなメッセージは重要である。それなりに役に立つ能力もあるのではないか、という議論があるかもしれないが、社会のリーダー層をどのように作っていくべきか、というような議論まで踏み込むのか、という感じは若干ある。実際には、今まである時期まではそういう中でずっとやってきたが、本当はそういうトップレベルでないような人々について、むしろ中心的な議論をして、そこについては、もうそれではやっていけない、というふうにメッセージを出した方がいいと思う。
濱口) そこがたぶん役所の世界なのではないか。
第11回
濱口) キャリアラダー的な発想をこっちに持ってきてしまったために、やや違和感を与えるようなものになってしまっているのだと思う。何が問題かというと、最終的に弁護士や公認会計士にならないから問題なのではない。ある会社でやっていた仕事が、会社が変わってもそのキャリアが認められてつながっていくか、ということが問題なのである。ここはむしろキャリア認識の話なので、キャリアラダー的な上がっていく話とは分けて議論しないといけないと思う。
濱口) あえて言うならばそれをパブリックに認証するようなシステムが作られることが望ましい、という書き方になると思う。
濱口) 大学卒業生自体が増えること自体について、いいか悪いかという判断をここではやっていない。あるいはする必要はないのではないか。どのような大学教育を与えられた人がその需要に対して過大である・過小であるという議論はあっても、一般的に中等後教育を受ける人が増えるということは悪いことではない。それが今までのレリバンスのない形で、つまり会社にジェネラリストとしていくことを前提としたものが、そのままの形で増えたことが問題である、ということを指摘している。中等後教育そのものが増えたこと自体を必ずしも問題としていないので、そこは少し触れているだけなのではないか。ただ、レリバンスのない性格のものがその性格のまま増えたことが問題となっているので、逆に言うと整合しているのではないか。それがわかりにくい形になっているとすると、わかりやすく書いてもらった方がいい、という印象を受けた。
濱口) 知らない人であればそういうふうに読む人はいると思う。
濱口) 逆に、職種別労働市場と安定雇用は対立する、というように書く必要があるのか大変疑問に思っている。過度に安定していないが、それも一つの安定雇用だ、というふうに位置付けた方がいいのではないか。9ページの図について、一番違和感があるのは上の緑と真ん中のオレンジの間に線が同じようにひかれていることである。実はここには色が少しずつなだらかに変わるようにした方がいいのではないか。これはイメージとして言うとまさに日経連の高度専門能力活用型、というのを間に作る、というイメージである。しかしその戦略はできない。むしろ問題なのは長期蓄積能力活用型の方に色々矛盾があるので、そこをどうにかしましょう、という議論である。ここの議論でできるかどうかは難しいが、絵として言うと、あまりきれいに色を区分けない方がいいと思う。あえて言えば非常にトップクラスのところに本当の国家戦略的ジェネラリストがあるかもしれないが、それを皆に要求するなというような話にする方がいいのではないか。そういう意味では職種別もそんなにたいしたことではない、そもそも大学4年間で学んだ専門性というのは実はそれほどたいそうなものであるはずがない、ということからすると、提言そのもののリアリティを増すためにも、あまり高度な専門能力という形に描き出さない方がいいのではないか。
濱口) 単純に、ないならば「無し」と書く話だと思う。逆に言うとそれを学生や社会がどのように評価・判断するか、ということがむしろ社会が大学の機能をどのように見るか、ということだと思う。
今後のことにも関わってくると思うが、この分科会自体が大学と職業という形で書かれており、教育と社会、教育と雇用ではない。したがって、教育システムという形で捉えた議論は、実はない。どこかでそれはある必要があると思う。専門職大学院の話で、7ページの最後に棲み分けのことが書かれているが、その議論の前に色々なシステムを今までどうなっているか、それをどう位置付けるか、という議論をやった方がいいのではないか。ここでこれを書くのか、ということは色々意見があると思う。例えば後期中等教育のレベルから大学院レベル、そして企業内教育まで含めて、それをどのように再編していくのか、という問題意識はどこかで書いておいた方がいいと思う。雇用社会については色々書いてあるが、教育システムについては大学のところだけ取り出したような形になっている。問題設定がそうだからといえば仕方がないが、全体社会システムの中、という、最初にそういうところから議論を始めていることからすると、後期中等教育において専門教育はいかにあるべきか、あるいは最近になって専門職大学院という形で一番上のレベルでやろうとしている中で、大学レベルだけ抜けている。ここをどうするか、という問題意識の議論としてやっておいた方がいいと思う。そのことと具体的な提言についての議論になると思う。
濱口) 私のイメージとしては2と3の間くらいに書くのではないかと思う。もし可能であれば児美川先生担当のところに、今までの教育システムの中で、例えば高校の専門教育から始まって、それがどのように関わってきたのか、あるいは関わってこなかったのかということを書いてもらえるといいと思う。
濱口) 後期中等教育に専門高校がある。しかしそれは社会の中で言うと、本当の高度専門職というよりは低度専門職や専門職ではないような形で位置付けられてしまっている。上は全くなかったが、最近になって専門職大学院という形で、非常にハイレベルな専門職を作ろうということが動き出した。しかし基盤がないので、実はきちんと動いているとは言い難い。一番大きな固まりである大学についてきちんとした位置付けがないので、そこの位置付けが必要である、というようにやや問題意識提起型で書いてもらえるいいと思う。今の教育システムの中でも専門職的な問題意識はあるが、その位置付けが非常に周辺的である。それをもっと中心的に位置付けていく必要がある、という形で書くと、教育システム全体に対する問題提起としてクリアな形になるのではないか。
濱口) なぜ60年代に政府が職種別能力に基づいた労働市場といいながら実現しなかったのか、というと、高度成長下で仕事がどんどん変わっていったからである。そのため、まっさらで入れて、色は全部企業でつけるとした方が効率的だった。それは合理性に基づいてそうなった。このような仕組みはずっとうまくいっていたが、ここ十数年来に特に入口のところで問題が出てきた。やはりあらかじめ入口のところで何らかの色をつけておいて、その色で入れるようなコースを作った方がやりやすいだろう、という話だった。ただ、入口で色を固めてしまえばしまうほど、その後の動きが悪くなるので、そこはバランスが必要である。その先の、世の中が変わっていくことに対応して変えていくのをどこが、どの主体が、どの程度の責任を持ってやっていくのか、という問題がある。日本型雇用システムの最大の特徴は、学生や労働者はその主体ではないし、責任もないということである。その代わりに企業が全てやってくれる。安心して従っていると、きちんと企業が今後の市場の動向を見てちゃんと変えてくれる。しかし、それでは乗れた人はそのまま乗っていけるが、乗れなかった人は何もないという状況で、非常にバランスが悪い。もう一つは、入った人についても、全て企業がやるのか、ということがある。何かしら労働者個人の問題もあるだろうし、法的な責任もあるだろう。企業側が全て責任を負わされてもやっていけない。一旦正社員で入っても実は企業が責任を負ってくれない、ポンと放り出される、という形で自力では何もできなくなる。このような形で色々なものの中で、どの程度のバランスにするのか、という話だと思う。その中でschool to workのところについて言うと、ある程度の薄い色を付けて、入りやすくさせていく、という話だと思う。あまりがちがちにするというイメージにしない方がいいと思う。そもそも大学4年間でそれほどがちがちになるはずがない。先程の教育システムで話したのは、教育システムの中で、後期中等教育でも専門学校・専門高校がある。大学には専門課程があり、大学院にも専門職大学院というものがある。それを職業人生の中でどういうふうに使っていくか、という形で、労働者個人の責任と公的な責任と企業の責任で割り振っていくという話になるだろうと思う。やはり教育システム全体の中での位置付けのようなものを書くと、その点がわかりやすくなるのではないかと思う。
濱口) 単に企業にただ成績を重視しろというだけでは何の意味もない。そもそもシステムとしてどういう科目を置くか、科目を置く意味は何か、企業にとって意味があるのか。この科目は企業にとって意味があり、その科目でいい成績をとることは企業が評価するに値することである、という枠組みをつくる。企業はそうした以上、それを評価すべきである、ということを書けば完結する話である。ただ、これは「大学のカリキュラムそのものの策定について、企業の意見をきちんと取り入れて、取り入れた以上は、企業はそれについて重視しなければいけない」というふうに書かなければいけないと思う。でなければ、大学が勝手に行ったことを遵守しろと書けるかどうかである。
濱口) 7ページの3の最初のところに『上記のような雇用システムの再構築に際して、ユニバーサル化した大学が担う新たな役割』という書き方をしている。結局これは何のためかというと、実は間接的な書き方である。なぜ各大学にこのようなことを求めるのか、というと、雇用システムを再構築するために大学はこういう役割を担ってほしい、というだけである。
第12回
濱口) 「はじめに」の全体について。最初から結論まで言ってしまっているように思う。「真剣に学問をすることによって培われるものが持つ普遍的な意義」と言ってしまうと、中身は何であれ、一生懸命勉強すればある種ジェネリックなスキルとして身に付く、というような話になってしまう。そうすると後ろの話とどういうつながりになるのか、非常に違和感がある。
濱口) それはつっこみどころのある話だと思う。そうだ、とあえて言う必要はないのではないか。なぜそのようなものまでレリバンスがあると強弁して、理屈を立てるのか。全く利がないとは思わないが、そこはつっこむと大変な議論になる。
濱口) 職業的レリバンスを超えた議論をするのであれば、広い意味の市民活動のレリバンス、人間としてのレリバンス、という概念がある。今大学で行われている学問活動に職業的レリバンスが少ないというだけであり、価値があるない、という評価をする必要は全くない。それを、哲学も理学も職業的レリバンスがある、と無理に強弁してしまうと、かえって説得力を失うことになるのではないか。もちろん市民的レリバンスという議論があっていいとは思うけれども、ここでその議論をするのは土俵の広げすぎだと思う。むしろ、あえて語らない、というのが一番合理的なのではないか。
濱口) むしろ存在しない職業的レリバンスを定義することの方が問題である。言いたいのはそこで、哲学でも理学でも全て職業的レリバンスがある、というような言い方をしない方がいい。むしろ職業的レリバンスがなければいけないのに、それがないまま平然とやっているところに、きちんとメッセージを送ることが大事だ。職業的レリバンスがあると言いにくいところに、むりに網をかけるような形でするのは危ないのではないかと思う。
濱口) そうであれば、職業人に必要な市民的レリバンスという形で書いた方がいい。例えば例外的に専門職業資格であった医学部では哲学をやる必要はないのか、というと、医師にこそ哲学が必要である。
濱口) 職業人としての深みといった話だと思う。
濱口) それは違う。それは職業人であり、人が職業という形で活動していく、人間活動に対するレリバンスということであり、私も必要だと思う。しかし、ここで議論している職業レリバンスとは違う。職業的レリバンスという言葉をそこまで広げてしまうと、後ろで論じていることからどんどんずれていってしまうのではないか。
濱口) したがって書く必要はない。
濱口) そもそも、大学は必ずしも職業訓練校だけではない。むしろ、職業レリバンスとは違う軸で評価されるべき大学教育が当然ある、という議論をどこかにきちんと書いておかないからこういう議論になるのではないか。哲学は別に職業人になるための学問ではない。一生ニートやフリーターをしながら宇宙の真理を考えるという生き方を否定する必要はない。しかしそれを職業的レリバンスとは呼べない。
濱口) それはあくまでも職業の観点からのものである。人間の知的活動というのはもっと広いものである。それをどこかにきちんと書いておけばいい。
濱口) だからといって、哲学科でも、職業的レリバンスを高めるためにコースを作り、教育カリキュラムを作り、ということをやらせる必要があるのか。
濱口) それを職業的レリバンスというのか。
濱口) 注4について『さらには普遍性と抽象性の高い哲学・理念という側面まで、…』と書いてある。これは例えば、法学部が今の状態では職業的レリバンスがない、もっと職業的レリバンスを高めよう、という議論をするときに、法技術的な話だけで、法哲学という議論を全然しないで、法律専門家になられても困る、という趣旨なのではないか。ここで言っているのはソクラテスやプラトンから始まるような哲学を勉強しろという話よりも、それぞれの分野において哲学的な議論をきちんと深める必要性を書いている、と理解している。
濱口) 例えば法律専門家になる人間は哲学をきちんと勉強してくれないと困る、というのは、まさに哲学の思想を学んでもらわないといけない、単なる技術屋になっては困る、という趣旨でなる。しかし、その話と、哲学としての哲学をやっているところにも同じように職業的レリバンスがあるのだ、という話とは次元が違う。読んでいる方から見るとこれはなんなのかという違和感がある。
濱口) そもそもそれは日本の労働市場の職業構造そのものである。
濱口) 論理的に言うと、どこかで働いたことがない人でも中途採用してもらえるようにするためには、大学自体が、どこかの会社でこれをやった、ということと同じにはならないとしても、それに準ずるようなものでないといけないだろう、ということだと思う。例えばどこかの会社で法務をしていて、別の会社に中途採用するというロジックは、中軸ではないとしても周辺的にはある。ところが大学を出ただけだと誰もそのように見てくれない。つまりゼロである。それがゼロではなくて、どこかで法務に携わっていたというのとは同じではないとしても、それに準ずるくらいの意味を持たないと困る、という話である。そうすると逆に先程の話に戻ってしまうが、全ての大学の学部・学科がそれと同じくらいのことを言えるか、というとそれは無理だろう、という話になってしまう。グラデーションをつけないと、かえって変な感じになってしまうのではないか。
濱口) 私は日本の大学は全て専門学校ではないかと思っている。なんでそれを否定しようとするのか。
濱口) 表現な問題のように思う。「ジェネリック・スキルだけの職業的レリバンス」ではだめだが、「職業的レリバンスをジェネリック・スキルまで広げることはいい」というふうに書けばいいということだけの話ではないかと思う。
濱口) むしろ大学等の組織の側からみたレリバンス論と、個人の側から見たレリバンス論を分けないといけないと思う。個人の側から見たら、例えば理学部を出た人がミステリー作家になるなど、ありとあらゆることがありうる。つまり、何かの役に立っているといえば立っているのである。全ての人が大学でやったことの延長線上で人生を送らなければいけないなどということはない。個人の人生としては、学んだことには全て何らかのレリバンスがあるはずだが、そこは今回の対象ではない。しかし、大学という組織が学生に対して、法学も経済学も哲学と同じだと言っていいのかといえばそうではなかろう。
濱口) その場合、組織として考えろ、と言えるところと、そうではないところがある。あえて言えば文学部の哲学科を出た人は、哲学の先生になる以外は個人の人生の選択にゆだねられているのではないか。それを否定する必要は全然ない。本来ヒューマニティーズとはそういうものではないか。
濱口) 11ページ、最後の項目について。中小企業に大卒向けの求人を出せというのは、大卒や大学の立場から見ればいい話かもしれない。しかし逆に言えば非大卒者が排除されてしまう話である。90年代から実はそういうことが事実としてむしろ進んできていて、それでむしろ高卒の人が困っている中で、こういうことを書くのか。全体として大学と職業との接続という文脈の中なので、大学側に身を置いて書くことは仕方がないが、やや大学エゴイズム的なニュアンスが出すぎるのではないか。事実として進んでいるので、それをわざわざ書くのはどうかと思う。
濱口) 実態としてはそうだと思うし、世の中がそういうふうに流れていってしまっていること自体を否定することはできないと思う。学生に対するメッセージとして、大企業ばかりを希望するのではなく、もっと中長期的に中小企業のことも考えろ、ということはいい。しかし、日本政府は高卒のことなんか考えず、大卒にばかり肩入れしている、というニュアンスにとられてしまうとよくない。
濱口) 「掘り起こし」といってしまうと、少なくともそこに求人があるので、その求人を大卒に向けろ、という話になってしまっているので、いやらしいかなと思う。
第13回
濱口) 基本的スタンスは「大学は職業人を養成するところ」であるということについてやるべきである、ということについてはその通りだと思う。ただ、専門性といってもその分野の研究者になるのでなければ教養のレベルでしかないと思う。こういうレリバンスがあると無理に虚構を書かせても意味がないだろう。そういう分野があるということはきちんと認めて、そこに無理を要求しない、と言った方がいいのではないか。平面的には矛盾する議論だが、法律学や経済学といったところについてきちんとレリバンスをやれ、ということを言うためには、そういうことを言っても仕方がないようなところにまで、ひとしなみの議論はしない方がいいという印象を感じた。そういう意味でおもしろいのは、経済学や法学のところを見てもわかるように、エコノミストやロイヤーとしてきちんとした人になる上で必要な、一見ジェネリックに見えて実はジェネリックではない、例えば経済白書を書いたり、民間企業でやっている人がこういうものを身に付けていないと困る、という話だと思う。そこをきちんとわけた議論をしないといけない。ヒューマニティーズに属するようなところに対して、個々の特性を抜きにして言ってしまうと、かえって「所詮こういうものを書いておけばいい」といった話になってしまう。一番大事な配慮すべきところも同じようにいい加減になってしまう危険性があるという印象を持った。レリバンスが大事だということをきちんと中心に据えながら、しかし大学でやることは全てそれだけで全て説明をつけるものではない、ということを言っておいた方がいいと思う。
濱口) どういうレベルの大学生を念頭においているのか。やや語弊のある言い方だが、どの学部の場合でも、優秀で自分でものを考えて論理的に構築する能力がある人間はどのような職場に入ってもやっていける。何をやろうが、ジェネリックな能力は発展する。ただ実はそれはそういう人だからだ、ということである。そもそもなぜこのような議論をしているのか、もともとレベルの高い学生であれば、どの学部でも同じように身に付けていくであろうジェネリックな能力を、予期されていないようなレベルの人達にどうつけるか、という話だと思う。語弊があるかもしれないが、非常にレベルの低い大学で経済学を学んだからといって、何が評価されるのか、というときの話だと思う。それに対して「自分で考える」というような形で返すのは、実は回答になっていない、というのが議論の出発点だったと思う。
濱口) ある意味レリバンスがあろうが、なかろうが、能力を持っている人はエリートである。問題はノンエリートの大学生が今非常に多い、ということである。その人達の売りは何か。アカウンティングといったものは非常に売りにはなる。しかし、たぶん目線がかなり上の方なのではないか。
濱口) 当該分野で大学では学んでいなくてもその延長線上にあるものまで含めた部分だと思うが、それはそれで専門分野と言われるものである。今の日本の企業の考えは、それが経済学である必要も、法学である必要も、哲学である必要もなく、仕事がちゃんとできる人間であればいい、という話になっていることをどうするか、ということである。むろんそれでも幸せになれれば、それを悪いと言う人はいないと思う。ただ、どちらかというと経済社会と大学の同じような比率で、あるいはそこがやや一人歩きするような形で、ものの考え方を身に付けることになっている学生が大量に育成されているということを、それを活かす形でも雇用機会ということができていないということをどうするか、という話になってくる。そういう意味では、例えば経済学的な発想を駆使できる学生をどれだけ育成し、それを駆使できるような職場に吸収していく、という形でうまく回ればいいと思うが、おそらく今の比率はそうでないだろう。だとするとそこはどうしたらいいかということである。
濱口) 入口のところでAを学んだ人が甲に行く、Bを学んだ人が乙に行く、という対応関係をつくることによって、今のように一旦AもBもぐちゃぐちゃにして、「その中の上の方から採ります」という状況になっているのをどうにかしよう、という話だと思う。
第14回
濱口) もともと雇用保険と生活保護の間に隙間があるから何とかしろ、というのはその通りだと思うし、ヨーロッパに失業扶助があるのもその通りだと思う。しかしヨーロッパの失業扶助は職業訓練条件付きというわけでは、必ずしもない。拠出制の雇用保険、失業保険が切れた後、一般財源で出る給付があるというだけの話であり、窓口が福祉事務所ではなくてハローワークである、ということである。したがって、紹介を受けて正当な理由なく拒否したらいけない、とか、訓練受講指示がある、というだけである。日本でも雇用保険は訓練条件を付けていない。したがって少し議論がずれている。なぜこういう議論になったかというと、経緯的に言うと、権利ではないのにお金を出すのか、それは何か理屈がなければいけないだろう、ということで訓練が付いてきた。ヨーロッパの流れからすると、むしろ今まではそういうものがなくても対象にしていたが、それではいけないということで、むしろアクティべーション的な発想が強くなってきた。本来そうあるべきだという議論と、何もないところに新しいものを作るという議論を足し合わせて、こういう話になった、ということである。そのため、失業扶助自体には元々条件が付いているわけではない。難しい話ではあるが、そこが混ざっているような気がする。出口があるかどうかはそのときの経済状況による。経済状況が厳しければ、どんなに訓練したところで、求人倍率が非常に低いところに出口があるわけがない。しかし出す必要がないわけではなく、出す必要はある。実は制度設計上、あまりこういうところをぎちぎち議論しない方がいいのではないか、という気がする。ただ、それで作ってしまうと、何もしないでただ出るという話になるし、ヨーロッパはきちんとすべきだという話になっている。基本的な考え方としてはそれでいいと思うが、経済状況を抜きにして訓練したが出口がないということをあまり強調しすぎない方がいいのではないか、という気がする。だから直ちに専門的労働市場云々という話にマストの話として議論しなくてもいいのではないか。やはり今後中期的な流れとしてはそうでないといけないので、今すぐそれがないと制度として意味がないような議論にはしない方がいいと思う。ただ中期的な安定したサステイナブルな制度としてはそうでないといけないので、それをどう作っていくか、という議論はしておいた方がいい。その点が少し混ざっているという感じがする。
濱口) その通りだと思うが、ただ制度を変えようとするとなかなか大変である。
第15回
濱口) 『<就活>廃止論』の4章目のタイトル「出現率5%の優秀人材になる方法」は、企業側から言えば「出現率5%の優秀人材を採る方法」ということになるだろうが、ミクロな、商売のキャッチフレーズとしては意味があると思う。あるいは学校で5%以内になるための方法というのが、そういうキャッチフレーズの意味だと思う。学校が自分の学校の生徒に対して、皆が5%以内に入る、と言うのはナンセンスである。マクロな制度設計として意味があるのは、少なくとも誰もがあるいは大部分がこの水準をクリアできる、ということである。企業が求めるのはこういう水準であり、これを多くの人がクリアできるようにするためにはどうしたらいいか、ということであれば意味があることだと思う。5%になると言ったとしても、5%の人間を相手に商売をするなら意味があるが、100%を相手にしなければいけないときには、あまり意味がない。佐藤さんがあくまでもミクロな立場からやられているから、このような表現をしている、ということはわかっている。ただ、100%とはいかなくても8,9割の学生が企業の求める水準をクリアするにはどうしたらいいか、というふうに、何か翻訳するところがないといけないと思う。読ませてもらって、そういう話につながる論点はたくさん出ていると思うので、決してそれを否定しようということではない。こういう議論の流れの中でそれをどう位置づけるか。5%は相対評価の話なので、そうではなくて、どういう学生も就職するのであればこの水準を、ということをどう考えるか、という形で議論しないとまずいだろうと思う。
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