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2020年10月

2020年10月30日 (金)

ジョブ型雇用は日本の企業と大学をどのように変えていくのか@『月刊先端教育』12月号

Aeabrj2imyc1u5pqthqst482o6wmcidzidrjh7ph 事業構想大学院の『月刊先端教育』が「新しい働き方と教育 雇用システムの転換に先駆ける」という特集を組んでいて、その冒頭に私のインタビュー記事が載っています。

https://www.sentankyo.jp/archives/202012


 (目次)

◆大特集
新しい働き方と教育
―雇用システムの転換に先駆ける

日本型雇用の見直し、ジョブ型が本格化

ジョブ型は企業と教育をどう変えるか
労働政策研究・研修機構 労働政策研究所所長 濱口桂一郎

経産省・報告書が示す人材戦略の方向性
人材版伊藤レポート
経済産業省 産業人材政策室 森本卓也 

キャリア意識を育む「生きたモデル」を
東京理科大学教授 宮武久佳

「採用学」から見るジョブ型のインパクト
神戸大学大学院 経営学研究科准教授 服部泰宏

待遇格差を巡る最高裁判決を読み解く
杜若経営法律事務所弁護士 向井蘭

SAPのグローバル人事戦略
SAPジャパン 人事本部 石山恵里子

人事部、マネージャーの役割が変わる
学習院大学 経済学部教授・副学長 守島基博

ジョブ型における評価制度のポイント
あしたのチーム代表取締役社長 髙橋恭介

「個」が問われる時代のキャリア戦略
Kipples代表 日比谷尚武

ジョブ型で変わる大学院生の採用
アカリク代表取締役社長 林信長

Self-starterが集う9年一貫教育
国際高等専門学校校長 ルイス・バークスデール

高度会計人育成プログラムを展開
高崎商科大学学長 渕上勇次郎
高崎商科大学広報・入試室室長 鈴木洋文

“本物”に触れる学びを重視
順心広尾学園 広尾学園中学校・高等学校理事長 池田富一 

(拙インタビュー)

第一人者が語る雇用システムの行方
「ジョブ型雇用は日本の企業と大学をどのように変えていくのか」

昨今、ジョブ型雇用をめぐり多くの言説が交わされているが、その中には誤解に基づくものも多い。「ジョブ型正社員」の拡大を早くから提唱してきた労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎氏に、ジョブ型を正しく理解するための視点、今後の展望を聞いた。

「ジョブ型=成果主義ではない」ジョブ型をめぐる多くの誤解

「成果主義のリベンジ」としてジョブ型に取り組む企業も

経団連は産学で変革に挑戦 ジョブ型で大学は変わるのか

ジョブが壊れてタスクに、欧米で高まる危機感

ハイエンドのジョブとプロフェッショナル教育の行方

――日本ではハイエンドを目指して、ビジネススクールに通うような社会人は少数派です。今後、エリート養成や専門家育成の必要性は高まっていくと思いますか。
 
 欧米ではハイエンドのジョブは、外部のビジネススクール出身者などをマネージャーとして採用して任せることも多く、普通の大学を卒業した人が就くような仕事ではありません。
 一方、日本企業が今まで何をやってきたかというと、メンバーシップの中の忠誠心が高そうな社員をビジネススクールに派遣し、留学から戻っても勉強したこととは関係ない仕事を担当させたりしていた。日本企業が、そうした人材育成のあり方を本気で変えていこうとしているかが問題だと思います。
 また、人材の供給元をどのように充実させるかも難しい。ハイエンドのジョブが今後拡大するのであれば、そこを目指した人材養成機関をつくり、多くの人の入口とは違うところに局所的なハイエンドな人向けの入口を増やすのはあり得るかもしれません。
 ただし、それはあくまで一部の限られた人たちです。みんながハイエンドを目指して、プロフェッショナルになれるわけではない。ハイエンドのジョブは、もともと業績評価が重視される世界であり、今日お話ししたようなジョブ型、メンバーシップ型の分類で論じるような意味でのジョブ型ではありません。
 ハイエンドを担うのは少数の人たちですから、大多数の働き方とは異なります。「ジョブ型社会ではみんながプロフェッショナルを目指すべき」といった議論は、ハイエンドとローエンドを一緒くたに扱っており誤った理解です。

2020年10月29日 (木)

田中萬年『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』

2l 田中萬年さんより『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』(ブイツーソリューション)をお送りいただきました。ありがとうございます。

「教育を受ける権利」は「日本国憲法」に初めて規定されたのではなく、明治期に主張されたのが始まりだった。それは「教育勅語」下の時代、臣民の「教育を受ける義務」に対抗して「教育を受ける」ことは権利だとして『労働世界』で初めて主張された。ところが、奇妙にも国民平等の「日本国憲法」にも国民の権利として規定されている。国民が「教育を受ける」ということは教育する別格の人の存在を前提としているという矛盾がある。「教育を受ける権利」が誕生した戦前期の背景、学問の自由の下で歴史的事実がいくつも無視されて信奉されてきた戦後の実情を明らかにし、また、「教育を受ける権利」を信奉することにより派生している問題を紐解く。

ただ、本書に対しては、本書の中でも引用されている、田中氏の旧著『教育という過ち』に対して本ブログで述べた感想とまったく同じ感想を持ちました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-3817.html

いつもの萬年節が全開の本、ではあるのですが、前から気になっていた「教育」という言葉に対するややマニアックなまでの追及が、「働く」ための「学び」を、というその主張を、却ってわかりにくくしているのではないかという疑問が、本書でも再び、いやむしろより強く感じられました。
「教育」という字面が主体的でなく、国家の強制を思わせるという批判は、ある種の教育学者などとは強く共鳴するのかも知れませんが、職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、そういう領域の重要性を主張する議論とは相当にすれ違ってしまっているのではないかということです。 ・・・・
これは金子良事さんも指摘していたと思いますが、ちょっと最近の田中さんの議論はつまらない脇道に入り込みすぎている感が否めません。
そのために本筋の議論が見えにくくなってしまっては本末転倒です。
職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、それこそがエデュケーション・トレーニングの本筋なのだという主張こそを、もっと明確に訴えることこそ、田中さんの使命ではないかと思うのですが。

もう少しはっきり言うと、下の図の縦の軸は、かつて田中萬年さんが精力的に論じ、世のアカデミック偏重論者の頬をひっぱたく勢いで反省を求めていた軸であり、横の軸はある意味では昔からアカデミックな教育学者たちも(アカデミックな学術分野を前提に)口々に論じてきた軸です。

Mannen

わたくしが繰り返し言っているのは、田中萬年さんの真骨頂は縦の軸なのであり、教育だろうが学習だろうが、職業実践的な学びを欠落させたような高邁空疎な議論を批判し尽くすところにこそあったはずなのに、なんで今ごろになって、アカデミックな教育学者どもの尻尾にくっついて、「教育」じゃなくて「学習」だ、なんて手垢の付いた議論を繰り返さなければならないのか、ということなんですが、なかなかそこが伝わっていただけないようです。

田中さんもいうように、「訓練」という言葉は受動的、能動的いずれにも使われますが、あえて違う言葉でその相違を出せば、「教育」に当たるのが「教練」、「学習」に当たるのが「修練」になるのでしょうか。

そして、訓練とは本来「教練」ではなく「修練」であるべき云々という議論を展開することもできるでしょう。

でも、それもこれもみな枝葉末節のことです。

何回も繰り返しますが、田中萬年さんの存在意義は、アカデミックな教育/学習論者ばかりがまかり通る日本の論壇で、一人職業実践的なeducation/trainingの意義を高らかに唱え続けてきたことにあると、私は思っています。誰も正面から論じなかった縦軸を打ち立てたことこそが、田中萬年さんの最大の偉業だったはずです。

その田中萬年さんが、なんで今さらこんなことばかりぐだぐだと書き続けられるのか、不思議でなりません。

(追記)

田中さんは私の批判に大変ご不満なのですが、そのホームページで(大変喜んで)引用されているこの森直人さんのツイートで言われていることそれ自体が、まさにうえで私が問題にしていることそのものなんですが、どうしてそこが伝わらないのか不思議でなりません。

https://twitter.com/mnaoto/status/891864135280992256

ですが「ポストモダニズム」の受容以降、近代批判の一環としての「教育」批判が“事実上の標準”となってすでにひさしい今日の日本の教育学界にあって、むしろ田中氏の議論はその「主流」に棹さすものでもあります。おそらく教育学者(の多く)は本書の主張を違和感なく読むのではないでしょうか。

ね、職業教育訓練といった観点なんぞかけらもなく、流行のポストモダンな観点からの「教育」批判に掉さすような、そんな程度の代物扱いされてしまって、田中萬年さんは本当に満足なんですか。あなたの言いたかったことは、そんなアカデミックなポストモダン論に放り込まれてしまっていいんですか、と言いたいんですけどね。

 

2020年10月28日 (水)

佐藤博樹・松浦民恵・高見具広『働き方改革の基本』

9784502365911_430 佐藤博樹・松浦民恵・高見具広『シリーズ ダイバーシティ経営/働き方改革の基本』(中央経済社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.biz-book.jp/Books/detail/978-4-502-36591-1

 長時間労働の解消のみが働き方改革の目的ではない。社員ひとり一人が高い時間意識を持った働き方へ転換することと管理職の職場マネジメントの改革を進めるための方策を示す。

『女性のキャリア支援』『管理職の役割』ときたこのシリーズの3冊目です。

今回の本の読みどころの一つは、「長時間労働の解消のみが働き方改革の目的ではない」というときに、長時間労働だけじゃない労働時間の問題を提示する高見さんの第2章「ワークライフバランスに関わる労働時間の多様な側面」でしょう。労働時間が短くても、それが夜間にかかっていると、やはりワークライフバランスに影響します。この「就業時間帯」の問題(英語では「unsocial time」といいます)は、日本では深夜業の割増という形でしか対応されていませんが、もっと関心を持たれていいテーマです。

さらに、ややもすれば長時間労働の源泉と批判されがちな柔軟な労働時間配分、仕事の裁量性の問題も、きちんとした議論の仕分けが必要なところです。これは特に最近、テレワークをめぐって裁量性の問題がクローズアップされてきているだけに、長時間労働を抑制するためという名目で過度に労働時間管理を厳格にすることのマイナスと、さはさりながら裁量性があるゆえについつい長時間労働になってしまう傾向をどうするかという、両面をにらんだ思考が必要なところでしょう。

そのテレワークについては第5章で佐藤さんが論じていますが、2018年ガイドラインが中抜け時間を時間単位の年休で処理するというような考え方に立っていることをどう考えるべきかなど、議論すべき点はまだまだあるように思えます。

 

「卒業後3年以内は新卒扱いで」は10年前の日本学術会議の提言だった

政府が経済4団体に、卒業後3年以内は新卒扱いにするよう要請したと報じられていますが、

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201027/k10012683551000.html

 新型コロナウイルスの影響を受けている学生の就職活動を支援するため、萩生田文部科学大臣など関係大臣は、経済4団体に対し、卒業後少なくとも3年以内は新卒扱いとする国の指針を踏まえた対応を要請しました。
 学生の就職活動をめぐっては、新型コロナウイルスの影響で、企業説明会が延期や中止になったり、企業の採用選考活動が取りやめになったりするなどの影響が出ています。
 こうした中、萩生田文部科学大臣や田村厚生労働大臣、坂本一億総活躍担当大臣などは27日、東京都内のホテルで日本経団連=日本経済団体連合会など経済4団体の幹部と面会し、卒業後少なくとも3年以内は新卒扱いとする国の指針を踏まえた対応を文書で要請しました。 

この「卒業後3年以内は新卒扱い」というのは、実は10年前の2010年8月に、今いろいろと話題の日本学術会議が政府に提言したものだったんですね。

平成20年6月3日に文部科学省より審議依頼のありました大学教育の分野別質保証の在り方につきまして、審議の上、回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」としてとりまとめ、 平成22年8月17日に文部科学省高等教育局に対して回答いたしました。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf

この中に、

5.就職活動の在り方の見直し - 当面取るべき対策  

(4)当面取るべき対策  

イ 企業の採用における「新卒」要件の緩和
 日本で広く行われてきた新卒一括採用という労働者の採用方式には、それと裏腹の関係で、一度大学を卒業した者は、翌年度の卒業予定者を対象とした採用の枠組みに応募することができないという慣行が付随している。平成 18 年版の国民生活白書によれば、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とした企業は調査対象企業44の 22.4%に留まっており、採用対象としなかったとする企業が 44.0%、中途採用枠では対象としたとする企業が 29.1%であった。しかし中途採用枠では、通常、職務経験が重視されることから、そもそも就職できなかった若者にとっては厳しい門戸である。
 つまり、大学を卒業して直ちに正社員に採用されなければ、その後に正社員となる可能性は非常に狭いものとなるが、このことと、正社員ではない非正規雇用の職においては、多くの場合、自らの労働の価値と生活水準を高めていく可能性が狭く閉ざされたものであることとが相俟って、卒業時に正社員に就職できなかった若者の問題を深刻なものにしている。新卒一括採用という採用方式は、その「新卒」要件が従来のように厳格に運用される場合、個人のライフコースの特定の時期にリスクを集中させるとともに、景気の変動を通じて、世代間でも特定の世代にリスクを集中させるという機能を潜在的に内在させることになると言えよう。
 現在、経済環境の変化によって「大学と職業との接続」が円滑なものでなくなるに連れて、こうした新卒一括採用という採用方式が潜在的に持つ機能のネガティブな影響は、社会的にも無視し得ないものとして認識されるようになってきている。本報告書が、企業の採用における「新卒」要件の緩和を取り上げる所以である。
 ではどうするのか。例えば、「卒業後最低3年間は、若年既卒者に対しても新卒一括採用の門戸が開かれること」を当面達成すべき目標とした場合、大きく分けて2つのアプローチがあるだろう。一つは「規制的」な手法である。具体的には、経済団体による倫理指針のようなものを通じて、企業が自主的に改善を図ることを促すというようなことが考えられるし、あるいはそうした方法では効果が期待できないとして、何らかの法的措置を講ずるということもあり得るだろう。しかし「新卒」要件の厳格な運用 (それは同じような年齢の若者でも、浪人や留年をして「学生」でいる者には門戸を開く一方で、いったん卒業して履歴書に「空欄」の部分を生じた者には門戸を閉ざすということである。)は、一種の規範的な観点から「改めるべき」ものとすることによって、実効ある変化が期待できるものだろうか。そこでは、この問題を倫理的なものとして位置付けるべきかどうかという本質論、あるいは実態をどのように検証するかという技術論もさることながら、消極的な姿勢をもつ企業にもその意に反して強要するというアプローチに、少なからぬ限界があるのではないかと考える。
 もう一つのアプローチは、言わば「経済的」な手法である。国民生活白書の調査で 22.4%の企業が、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とすると回答しているが、一定の明確な定義の下に、たとえ少数ではあっても、そうした企業をリストアップして公表し、若年既卒者や学生が知ることができるようにすることは、現状に少なからぬインパクトを与えることになると考える。このことは、リストアップされた企業においても、新卒という要件にこだわらずに多様な人材がアクセスしてくる機会を拡大するとともに、事実上、従来単一のものとして認識されてきた新卒一括採用方式に新しい形態を加えることとなり、新旧2つの形態が競合する状況をもたらすだろう。その結果、どちらの形態が企業が望む人材を効率的に採用するために有利であるのか、一種の市場メカニズムを通じた調整が働く可能性が期待できる。
 何れのアプローチをとるにしても、卒業後一定期間は、大学あるいは大学間連合による就職支援を受けられるよう、大学の支援機能・体制の強化等が必要であるが、こうしたことも含めて、政府の関係部局において、この問題についての更に具体的な検討が速やかに行われることを求めたい。 

なんでこんな話をするかというと、実はこの議論をした日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会の大学と職業との接続検討分科会に、なぜか私も加わっていたからです。

Gakujutu

それまで日本学術会議なるものが乃木坂にあるということも知らなかったのですが、この間何回かこの建物に行って、いろいろと議論した記憶があります。ちなみに、この時やや奇妙なことを仰っていた籾井さんがその後NHKの会長になったりとかしてます。

この提言の本体部分がどれくらい日本の新卒採用慣行に影響を与えたかといえば、正直あんまり積極的に評価できるほどのものでもない感じがしますが、やや枝葉末節的なこの「卒業後3年以内は新卒扱いで」という部分だけは、その後青少年雇用確保指針に盛り込まれ、一応規範的なものにはなっているのでしょう。

(おまけ)

せっかくなので、この大学と職業との接続検討分科会の議事録から、私がしゃべったことを、お蔵出ししておきましょうか。自分でも忘れ果ててたようなものですが、いま改めて読み直してみると、なかなかしみじみと感じるところがあったりするので。

 第1回
濱口) 正直気が重い感じがしている。というのは、教育問題は世間で議論される時にはある種きれいごととして、教育問題は教育問題だけで完結しているように議論がされてしまっている。それはそれで大変美しいが、教育の枠を一歩出ると何も相手にされないという傾向が強いのではないか。一般的な考え方をすると、社会システムは相互依存的、相互補完的な関係にある。教育は今の日本の雇用システムを前提として、それに合うように3世代にわたって構築されてきている。逆に言うと、そのように教育システムが構築されてきたことによって、企業の方もそれに合うように雇用システムを作り上げてきた。お互いに依存し合っているので、ある部分だけを取り出して、「この部分はけしからん、だからこの部分だけこのように変えよう」といっても、それで物事が動くはずがない。日本の雇用システムは基本的にjobではなくて、会社の一員になるということである。会社の一員というのは、会社がこれをやれと言ったことを必死の努力をしてやる、ということが最大の課題である。大学で何を勉強したか、ということよりも、何を言われてもそれをやりぬくだけの素材であることが必要である。それは何で分かるかというと、広い意味で人間力、地頭の良さというのは、ある部分は大学で4年生の時に何を勉強したかではなくて、4年前に入試でどれだけ点を取ったか、ということである。しかし個々のことだけ取り出していいとか悪いとか言っても意味がない。逆に言うとこれは連立方程式を解くようなもので、同時に解が出ない。しかし、複数の式を同時に解こうということはある意味革命を起こすようなもので、戦後の激動期でもなければそんなにすぐにできるはずがない。同じような話は福祉システムと雇用システムにも起こっている。雇用システムが中高年まで生活を保証するという仕組みがあったために、社会保障の方は年金を一生懸命にやっていればよく、現役世代をあまり相手にしなくてよかった。これが今問題になっている。これも一気に解決するのはできない。できるのはパッチワーク的に問題の起こっているところに膏薬を張るような方法で、それを少しずつ広げていくしかない。場合によっては最終的に望ましい姿に向かうのとは違うベクトルのことをやらなければならないこともたくさん出てくると思う。それで最初に申し上げた気が重い話ということになる。どちらかというとここにいる研究者の方は学生を育てる立場の人が多いので、そう簡単に何かを言えないのだろうと思うが、就活のシステムを問題にした時に、就活のところだけが問題だからといって、それをけしからんと言って何か解決するだろうか。自分が企業の人事採用者になった時にそのことで対応できるのか。これから40年間自分の企業のために頑張ってくれる人を何で評価するのか、といった時に、4年生で先生のゼミに全部出た人間ということだけをもって社会に出てやっていけるのかといったら、それはできるはずがない。その中で一つでも二つでもできることがあるとすれば、それは教育システムそのものの中に何か、ある種の職業に向けた指向性を注入していくことでしかないのではないか。私は基本的には学者ではなく、労働省の役人をやってきた。欧米では教育という言葉と訓練という言葉はほとんど同じ意味を持つ。日本では異なり、教育というのはアカデミックですばらしいこと、訓練というのはあまりレベルの高くない、低いところでやっている、という社会的な意味がある。実はそのところの議論までやらなければ、就活のところだけ議論していても意味がないのではないか。

第3回
(1)講演「教育における職業的イレリバンスの十大要因」(田中萬年)
 
濱口)企業が「下手に専門能力をつけてもらっては困る」と言う、ということは始めからあったわけではない。50年代頃に当時の日経連は「もっと専門教育をやれ、基礎教育などやるな」という提案をした。これが60年代頃に途絶えていった。なぜそうなったかというと、おそらく教育が対応できなかったからである。ところが企業の方が企業内教育としてやってしまうと、逆にそれが言わば前提になってしまう。そこで改めて大学が専門的なものを作ったとしても、企業の方ではそんなものはいらないという話になってしまう。言わば一種の相互依存的な関係が作られてしまう。実はここがこの検討分科会の最大の難しさで、上から「正しい結論」を出すのはある意味簡単だが、社会の全てのものには、例えば教育がこうである、ということを前提にして企業システムができてしまうと、一方ではそれを前提にして教育のシステムができる。そして今のような状態になってしまうと、そう簡単に「正しい在り方」に変われるわけではない。
 
濱口) 二番目の徒弟制度の話も、話はもう少し複雑だと思う。終戦直後の段階では、確かに徒弟制度はよくないという話だった。徒弟制度がよくないということをどういうふうに是正するかというと、教育システムできちんと職業教育をやろう、ということである。少なくとも教育基本法を作った人の発想はそうで、今まで会社の中でやっていたものはよくないので、教育システムで職業教育をやるということだった、ということだった。ところがその受け皿ができたか、というとできなかった。その結果何が起こったかというと、本来徒弟というのは会社がやるのだが、中身自体は社会的に必要な人材を作る、ということである。ところが、現実に起こったのは、社員として入れて、会社にとって必要な人材を作るというものになっている。本来の徒弟とは違う形で、徒弟的な機能を企業が果たさなければならなくなった。本来の徒弟制度であればもっと社会的な性格を持ったものであったものが、そうではない形で発展してしまった、ということで、話自体が二重三重に入り組んでいる。
 
濱口) ただ、今の本田先生の質問の趣旨からすると、課題解決能力や、学ぶ力、OS的能力というのは、何をしていれば、何をとっていれば、それがあると社会的に認定されるのか。少なくとも大学の法学部や経済学部のディプロマを持っていることが、問題解決能力を有していることの証明書になるか、というと社会的にはそうではない。このことのもっとも典型的な例が、以前外務省に出向していたことがあったが、昔の外務省は面白いことに、一番のエリートは大学中退だった。また、中退者の方が優秀だ、という考えがまかり通っていたということである。つまり専門教育は二年間しかなく、さらに最初の一年間しかやっていない人間の方が問題解決能力や学ぶ力がある、と認められていた。これはもちろん外交官試験という特別な試験があった、ということがある。しかし周りの世界からして非常に異常なことをやっているか、というとおそらくそうではないと思う。おそらくそこにあるのは、確かに企業はこういうものを求めている。それは何で判断されるか、というと、少なくともディプロマではないと思う。
 
(2)講演「日本の大卒就職の特殊性を問い直す―QOL問題に着目して」(本田由紀)
 
濱口) 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。
二番目に、システムの問題といってもそう簡単ではない。そのシステムを前提に色々なものができている。大学の教育の職業的レリバンスをより高めるという議論はそれだけ言っていると非常にもっともな理論である。しかし、それは現に職業レリバンスのない教育を行っている大学教員たちの労働市場の問題を発生させ、今大学で禄を食んでいる人のかなりの部分の職を奪うことになると思う。なぜかというと、そのシステムを前提としてそういう職業レリバンスのない教育をしてきたからである。それでもさらにオーバードクターの問題が発生してきたわけで、それを逆方向に向けたりすると、おそらく大変な事態が起こる。そうするとシステムの問題はシステムとしてしか解決できないが、システムの解決は漸進的にしかできない。そうすると、格好良い結論というのは、相当の代償のある話となる。そのため、たいてい何か書かれている割に、最後はあまり内容のないものになってしまう。これはたぶん仕方がないと思う。それ以上に格好良いことを言えば、それはおそらく空論に終わってしまう。何が必要かというと、やはり枠組みの議論をきちんとした上で、中長期的な、将来的な姿に向けて短期的に何ができるか、という議論を分けてしていくしかないのではないかと思う。せっかくこういう場なので、いきなりマスコミ受けする結論が出た方が格好良くはなるけれども、それは逆にアクチュアリティーをなくしてしまうのではないか。一部の有力企業や有力大学についてはおっしゃるとおりかもしれないが、それをもとに色々なシステムができて皆が動いているときに、逆にそこから降りられるか、というと、一人では降りられないと思う。
 
濱口) 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。
 
濱口) 私はまさに規制は必要だと考えている。しかし、不合理な規制は結局意味がないと思う。
 
濱口) かつての外務省がなぜ大学中退を採ったのか。3年生で受験して三年が終わって入ってくるということは、下手をすれば専門課程の教育は何も受けていないような人間の方が好ましいといって入れてしまうということだと思う。ある意味でそちらに集約されているのだと思う。 

第4回
(1)講演「日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行」(濱口桂一郎)
 
濱口) 私は基本的には労働政策が専門だが、その関係で教育ということにも色々な関わりがある。しかし、基本的に教育そのものについてまともに勉強したり追及したり、という経験はないので、先生方からすると理解していないというところもあるかもしれない。その点については指摘してもらいたい。最初は非常に総論的だが、日本の雇用システムはそもそもどのようなものなのかということについて。これは労働政策や労働教育を論じる一番の出発点になる。これが人材養成の在り方、あるいは学校から仕事への移行の在り方と大きく関係している。逆に言うと、この一世紀の間に人材養成や学校から仕事への移行の在り方がどのように発展してきたか、ということがこの現在の日本型雇用システムの在り方を形作っている面もあると思う。
 一言で言うと、日本型雇用システムの本質とは、職務のない雇用契約ということであると思う。職務がないとはどういうことか。民法を見ると雇用契約とは「当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約すること」と規定されている。この内容は世界どこでも同じである。また、具体的に何をやるかということを決められない、ということも、世界どこでも同じである。ただ、おそらく日本以外のどの国でも雇用契約には、どの種類の仕事をするか、ということが書いてあるのが普通であるのに対し、現在の日本の典型的な正社員の雇用契約では労働の種類が特定されていない。何をやるか、ということは会社が決めることで、会社から命じられたことをやるというのが典型的な現代日本の雇用契約である。日本人はあまりそのことの特殊性を感じないが、実はここが諸外国と見比べた時に最大の特徴だろうと思う。他の国では雇用契約というのはまずジョブである。ジョブがあって、そのジョブを遂行することが雇用契約の仕組みである。一方日本の場合はどういうジョブをするか、ということ自体を会社がその都度決める。一定期間はある程度あちこちのジョブをやるが、次にどのジョブをやるかということは会社の命令で決まる。では雇用契約は何を決めているのか。一言で言うと「会社の一員である」ということを決めているのだろうと思う。いわゆる日本の三種の神器と言われるものは、長期(生涯)雇用制、年功賃金制、企業別組合である。これらは全てジョブを決めているのではなくて、会社のメンバーである、ということを決めている、という日本的な雇用契約の特質から導かれる。
 今日の話で一番重要なのが、入口と出口の管理、特に入口の管理である。つまり日本型の雇用システムでは雇用契約はメンバーシップであるので、入口の管理が重要なのである。ここには、日本独特の新規学卒者定期採用制が存在する。このような採用をしている国というのは他にあまりない。とりわけ日本の特徴は、実際に具体的な仕事に従事するのは4月1日からだが、そのために在学中から採用内定という形で雇用契約を締結することである。労働法では採用内定について、雇用契約そのものである、としている。ということは、内定されている状態は最も典型的な、ジョブはないが雇用契約はある、という状態である。出口については定年退職制をとっており、退職するまでは色々ジョブを渡り歩き、定年という形でメンバーシップから出る、という仕組みになっている。この入口と出口の間でも定期人事異動という、これもおそらく日本独特のやり方がある。要するに採用の場でも異動の場でも、基本的に未経験・未熟練な者をそのジョブに就けてやっていくことになる。そのため企業内教育訓練、とりわけOJTが非常に重要になる。これがジョブ中心であれば、仕事に就くのだったら就く前に、その仕事ができるような能力を身に付ける、ということになる。どのような形で身に付けるか、というのは「本人の仕事や責任だろう」というやり方もあれば「公的な責任だ」というやり方もある。しかし、日本の場合はそうではない。ここが一番大きな違いということができる。
 次に、各論として入口に関わるところについてのトピックを二つ取り上げて、歴史的な経緯を見ていきたいと思う。
一つ目は人材養成システムである。基本的には未経験・未熟練の者を仕事に就かせてやっていくという仕組みがどういうふうにできてきたか、ということを若干歴史的な形で見ていきたいと思う。明治期は企業内人材養成という仕組みは全くなく、昔ながらの職人を徒弟として育てていた。それが工場の中にも入っていき、日露戦争~第一次大戦後頃から大企業で養成工制度が発達してきた。特に、第一次大戦後は労働争議が全国で勃発したということがあり、それまで中心だったあちこちを転々とする渡り職工を追い出していった。そして、むしろ大企業の中で子飼いで養成した職工を中心に、経営家族主義的な労務管理制度を発達させていった、というのが第一次大戦から第二次大戦の間の時期の大企業のやり方である。しかしこれは一部の大企業だけであって、中小零細企業はこれまでどおり渡り職工が中心だった。また、戦前から公的な人材養成は、当然近代化の中で色々と試みられていた。例えば明治時代に職工を養成するために作られた東京職工学校が、だんだん出世していって今の東京工業大学になった、という話は私からすると面白い。戦前の公的人材養成の仕組みや歴史を見ると、実務を担う技能者養成的な学校を作ってはいくが、それらがそういうものとしてあまり確立せず、どちらかというとより高度なレベルの学校になろうとしていくという姿があるように思われる。徒弟学校と実業補習学校は小学校レベルのものだったが、これらは非常に低調であった。そして、大変面白いと思ったのは、青年学校というのが1935年に設けられたことである。これが企業内において技能者の養成施設、私立の青年学校として企業内の人材養成と結びついた形で発展していった。かつ1939年というほとんど戦時下では、施行されなかったが、青年学校という形で18歳の子は全て何らかの形で学校に行くように、という考え方もあった。このように見ると、公的な人材養成を目指すという動きも結構あったと言える。戦時下に取り決められた非常に広範な分野についての法令は企業内の人材養成ということについてもかなり大きな影響を与えているように思う。というのは、1939年に工場事業場技能者養成令というのが出て、中堅(50人)以上の工場事業者に対し3年間の技能者養成を義務付けた。大企業では既に養成工制度としてある程度やっていたそうだが、中小企業では、これを同業組合という形で行ったという動きもあったようだ。
 次に、戦後について。重要なのは、終戦直後にどういう仕組みが構想されたかである。1947年の労働基準法69条には徒弟の弊害排除が書かれているが、そのすぐ後には技能者養成という規定がある。つまり企業の中で技能者養成をしていくという仕組みが作られた。ただ、基本的な発想がどういうものであったかというと、当時法律制定に携わった労働省の担当課長だった人の著作によると、『技能者の養成は、職業教育の充実よって、相当その目的を達成することができると考えるが、義務教育以上に進学のできない者については、やはり労働の過程で技能を習得させることが必要であり、又ある種の職業にあつては、その性質上、学校教育だけでは、練達せる技能者を養成することが期待できない部門があるので、これを全面的に禁止することは我が国の状況に鑑み適当でない』というものだった。これは、本当はそういうものは禁止したいのだが、実際は中卒で就職する人もたくさんいるし、高校の職業教育だけで全てをまかなえるわけでもないので、ある意味必要悪として技能者養成をする、という感覚であったと言っていいと思う。そういう意味で、労働行政の発想は、基本的には、学制改革によって公的な職業教育が中心になったのだから、それが中心なるべきである、という考え方だった。そこで、労働行政が期待した新制高校における職業教育はどうだったか、というと、当初は総合制という、普通科と職業科を一緒にした高校になったために、職業教育は沈滞してしまった。その後1951年に産業教育振興法という議員立法ができて、単独の職業高校がだんだん増加はしてきたが、基本的に教育行政の方では、普通教育こそがあるべき姿で、職業教育が中心だという発想は必ずしもなかったように思う。では、日本全体としてどういう発想だったのか、ということについて、50年代から60年代のあたりをざっと見てみる。実は今から考えると意外に思うほど公的な人材養成システム中心の構想が出されていたということがわかる。1951年の政令諮問委員会で、中高一貫の職業高校や高大一環の専修大学が打ち出されていたり、あるいは日経連も5年制の職業専門大学を打ち出していた。全体としてみると、やや印象論的に言うと、文部行政が必ずしも熱心であったとは言いがたいと思う。しかし、単に労働行政だけではなくて、政府全体として言うと、あるいは使用者団体も含めて、公的人材養成システム中心の社会にしていく、という考え方が、色々な政策文書や提言の中に現れているように思う。それがおそらく最も典型的に示されているのは、1963年の経済審議会の人的能力政策に関する答申である。この答申は読んでいくと色々な意味で大変面白い。例えば学校との関係だけで見ても、デュアルシステム型の職業教育や、あるいは普通高校でも職業科目を履修すべきだ、ということが打ち出されている。60年代になるまで、日本政府や経営団体の発想の仕方は公的人材養成中心型であった、と言っていいのだろうと思う。では、同じ時代に企業の方は具体的に何をやっていたのかというと、先程の産業教育振興法ができたといいながら、実際には職業教育体制はあまり充実していかず、極めて貧弱だった。その中で大企業は、中卒の段階で優秀な新卒者を採用して彼らを企業内の技術学校で3年間(高校の課程と同じ期間)、一種の企業内デュアルシステムとして、企業を支える中核的な存在として徹底的に育てていく、という形をとった。これが50年代に確立していったが、60年代になると、高校進学率が急上昇した。特に日本国民の意識として、もともと職業教育よりも普通教育を好んだ、ということもあるかもしれないが、高校進学率の上昇の大部分が普通科の増加という形をとったということもあって、彼らを企業の現場に投入にしないといけなくなってきた、ということが60年代の企業の課題であった。そういう中で普通科を含む高卒者に対する教育訓練制度としてだいたい6ヶ月程度の養成訓練と、その後は職場に行って仕事をしながらOJTで身に付けさせていくという形が確立していったと言われている。おそらくこの1960年代は日本的な雇用システム、人材養成中心型が確立した時期と言えると思う。それまでは、政府もそうだが、日経連もいわばあるべき姿を一生懸命考えていたが、60年代に現実がそうなっていく中で、日経連自体も、それまで「職務給にしなければいけない」等と言っていたが、60年代の終わりにそれをやめて「能力主義」、つまり「人間の能力を見ていくのだ」という考え方に転換していった。これは逆に言うと、入ってくる人に対しては、何ができるかというよりも、何ができる人間になり得るか、素材としての優秀性をより期待するという形である。
 このように企業の中が変わっていくと、それまで公的な人材養成を中心に考えていた政府の政策も大きく方向転換をした。60年代から70年代の初頭くらいまでは労働白書等で、職種と職業能力に基づく近代的労働市場を確立する、ということが繰り返し言われていた。これが70年代半ば頃に大転換して、むしろ企業内部での雇用維持が最優先である、という内容に変わっていく。そうすると、職業高校、職業教育あるいは職業訓練校というのは落ちこぼれが行く所だ、という風潮になってしまった。私が労働省に入省した80年代前半、職業訓練関連の仕事をしている幹部が、「職業訓練校などは落ちこぼれが行く所で、一応我々の行政の範囲だが、むしろ企業内での教育訓練をいかにやらせるか、という方が大事だ」ということを言っていた。80年代半ば頃は、まさにそういう感覚が最も強かった時期だと思う。しかし、職業高校や職業訓練校が落ちこぼれで、普通高校や大学が立派かというと、そちらも別に教育内容が評価されて偉いと言われているわけではない。要するに、教育の中身では評価されない、という意味では、おそらくどちらも同じだと思う。こういう在り方が変わってくるのが90年代である。一番有名なのは1995年の日経連の「新時代の日本的経営」であり、この中では「雇用ポートフォリオ」という考え方が示されている。いわゆる日本的な雇用システムの中で正社員として働いていく人間だけではなくて、いわばその時そのときに使っていくタイプの人間を(高度な能力を持って動き回るタイプと、能力があまりなくてその時そのときに使っていくというタイプの二種類)提示した。経営側も少しずつ変わって、労働政策もそれに応じる形で、これまでの企業内の人材養成の発想を変え、自己啓発ということを90年代後半から強く言い出す。しかし、自己啓発というのはかなり変な話だと思う。自己啓発と言って何をしたかというと、結局労働者が自分で英会話教室等にいったお金を払う、というシステムで、どれだけ役に立ったか、というと大変疑問である。むしろその後2000年代になってから、自己啓発というよりも公的な職業訓練が必要ではないか、ということが逆に強調されるようになった。今から11年前に山田洋次監督の「学校Ⅲ」という映画があったが、これは企業の中での教育訓練中心から、世の中の動きが少しずつ変わってきていることを描いている。このことは労働行政的な発想である。これと社会の雰囲気的におそらく同じ流れの中にあると言っていいと思うが、80年代の後半以降、それまでの職業高校が専門高校と名前を改めて、教育行政の中でもかなり注目され、方向性が打ち出されるようになった。例えば、文科省が「目指せスペシャリスト」ということで、専門高校を打ち出そうとしているし、あるいは東京都立六郷工科高校がデュアルシステム科を作ったという話もある。
高等教育、いわゆる大学レベルの教育における職業教育をどう考えるか、という話だが、最初に申し上げたとおり私は教育そのものについて勉強しているわけではないので、そもそも教育とは何なのかというところを学校教育法で調べてみた。ご承知のとおり、戦後の新制大学は、戦前の旧制大学、旧制高校、旧制専門学校、師範学校を合体したものであり、少なくとも旧制専門学校と師範学校が職業教育機関であったことは間違いない。また、戦前の大学でも先程の東京工業大学の例のようなものは職業教育機関と言ってもいいと思う。しかし、学校教育法では大学というのは「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」と書いてあり、職業という文言は出てこない。他を見てみると、短期大学は「職業又は実際生活に必要な能力を育成すること」、高等専門学校は「職業に必要な能力を育成すること」、あるいは2002年にできた専門職大学院についても「高度の専門性が求められる職業を担うための学識及び卓越した能力を培うこと」と書かれている。大学については少なくとも現行法上は職業能力がイメージ的に出てこない仕組みになっている。本当にそもそも出発点としてそうだったのか、今の大学が本当にそうなのか、大変疑わしい気がする。そうはいっても理工系の学部は、実は学術研究と、技術者としての職業教育が不可分で、事実上工学部・薬学部・農学部等では、高等職業教育機関として機能していたと思う。問題はやはり文科系の学部で、そこに職業的レリバンスがあるのかどうか。私の出た法学部はそういう意味では非常に今皮肉な状態になっている。法学部では、まれに一部の人間が法律家になる程度で、ほとんど法律家を養成していない。その上に、非常に多くの大学が法律専門職のみを養成するロースクールを山のように作った。しかし、そこを出た人間で法曹になれるのはごく一部であった、ということで今大騒ぎしている。これはその部分だけでも大きな議論になるものだが、おそらく高等教育で法律を教えるというのがどういうことなのかということ抜きにして今までやってきたこと、かつ「法学部なのにロースクールがないという恥ずかしいことができるか」ということで作った、ということのつけがまわっていると思う。意識的に経済系のことは言及していないが、経済系にもそういう話があるかもしれない。
 次に、日本型「学校から仕事への移行」システムの形成過程について。戦後、1947年に職業安定法が制定された。実は戦前から小学校の卒業者の職業指導を始めていたというのが背景にある。戦後、職業安定法に基づいて、基本的には学校卒業者は全て職業安定所に行くということを作ったが、高校と大学は届出制、中卒者は(50年代は中卒者が多かった)安定所が中心になって就職した。中卒者はもちろん職業教育を受けていないので、きちんとしたいい就職先に当てはめていなければいけない、ということで、これはまさに安定所が主導する形での新規中卒採用制度が確立する。先程言った、最終学年の間に求人を全部持ってきて、一人ひとり全部当てはめて、行く先を全部決めて内定をとって、3月31日に卒業したら4月1日からちゃんと仕事をする、という仕組みは、新規中卒採用制度という形で確立した。これは学校中心ではなくて、安定所中心で作られたものである。それが、60年代以降高卒がメインになる中で、高校が中心になって、かつ高校が企業との実績関係に基づいてやはり同じように在学中に内定して、学校から仕事へ移行していくということをやっていく。このときに先程言った高校の進学率が急上昇したことから、基本的に生徒の学業成績(勉強がどれだけできるか)に基づいて企業に振り分けるというふうになった。そのころから90年代頃までは日本の学校から仕事への移行というのは世界的に非常に大きな研究分野で、色々なものが出されているが、90年代半ばくらいまではこの問題について、日本人は偉そうな顔をして、若者の失業者の多いヨーロッパの制度はだめだ、日本のやり方は非常にいい仕組みだ、と自画自賛的なことを言っていたが、90年代以降それが崩壊してきている。70年代以降、大学の進学率も徐々に上昇してきて、戦前の感覚で言うと、大卒は上級ホワイトカラー層だったものが下級ホワイトカラー層に、さらにブルーカラー層にだんだん進出してきている。しかも70年代以降は、企業は基本的には入社後の教育訓練で鍛えていくという形になるので、大学で何を勉強したかというよりも、入社後の教育訓練に耐えられるかどうか、という観点から大学の銘柄が大事になった。大学名が素材としての能力の指標になっていて、これが逆に言うといわゆる学歴社会現象を導き出してきたのだろうと思う。しかも、中卒は安定所中心、高卒は学校中心だったわけだが、大卒は基本的に個人が企業と自由市場でマッチングする。大人だから当然と言えば当然だが、その中で就職協定という、ある種の事前演出的なことが行われていると思う。色々な考え方があると思うが、戦前なり戦後のある時期の感覚で言うと、たぶん戦前の小学校、戦後の中学校卒にあたるような社会的な部分が、今大卒として労働市場に出ていくということからすると、一方で、大学は学術の中心だといまだに位置付けられているが、その中で職業教育をどう位置付けるかということが議論になっているのだと思う。その中で出てくるのが、大卒採用というのは、社会の中でどういう人達について相手にしている話か。大学が学術の中心だということであれば、それはもう社会の上層部の立派な人達なので、それはあれこれ国家統制するような話ではない。しかし、本当にそうなのだろうか。この点はいわば大学や大学教育を社会的にどのように位置付けるかということによって考え方が様々に変わり得る話である。最後の方はおそらく議論の中で色々な形で意見が出てくると思う。
 
濱口) そもそも理工系のことはあまり知らないので、まとめて書いてしまった。いわゆる理学部の純粋科学的な所になればなるほどそうではない、ということはそうだと思う。しかし、工学や農学、薬学という所では基本的に不可分だろうし、法律や経済も上層部分になればそうだと思う。だが、実態として何が問題かというと、日本には山のように法学部や経済学部があるが、そこを出た人の圧倒的大部分は、そこで先生方が一生懸命教えたことを、学術ではなく、職業的な意味でも使うか、というと使わないことが非常に多いということだと思う。そういう意味では理工系というのは色々なグラデーションがあるだろうし、そこを言い出すと色々あると思うが、いい意味で不可分ではないかと思う。
 
濱口) そこまで細かいレベルの話ではない。
 
濱口) 主体・アクターによって色々違いがあると思う。ある意味では先程の説明はやや割り切りすぎである。単純化した言い方をすると、90年代は、「企業に全部お任せ」という所から、「公的にやりましょう」とはならずに(合理的にはそう言ってもおかしくなかったが)、ありとあらゆることが「それは個人の自己啓発だ」となった。「雇用契約は、労働者個人が主体的に結ぶものだ」というように集団性を否定した。90年代は、「集団(企業)から個人へ」ということがトレンドとして非常にうたわれた。しかし、そこから零れ落ちる人が出てくることや、個人が全部できるのか、という話が本格的に議論されてくるのは、むしろ2000年代だろう。98年の山田洋次監督の映画はたぶんやや先駆的すぎたのだと思う。映画は出たが、政策としてそういう方向に行ったというわけではない。労働行政の能力開発審議会の中では、「『自己啓発』と言われるが、そのようなものでできるのはごく一部だ。結局若者や女性など、そこから零れ落ちている者についてしっかりと対応する、ということをもっと公的にやるべきだ」という議論が出てくるのは2004、2005年頃である。ただ、労働行政の中でそういう議論が出だした、ということであって、社会全体としてそうかというと、なかなかそこまで行っていないということだろうと思う。
 
濱口) この資料はある意味で教育行政少しよく描きすぎている。そちらは、どちらかというと教育行政の方も少しずつこちらに来ている、ということを強調する、というやや不純な思惑があった。ただ、そうはいっても一応そういうこと文科省が打ち出すようになったということは、少なくともきちんと言及する値打ちのあることだと思う。
 
(2)講演「教育と労働と社会―教育効果の視点から」(矢野眞和)
 
濱口) そこはたぶんそうなのだろうと思う。そうすると、経済学部で、経済学を一生懸命勉強して、就活をせずに卒業してきた人間と、経済学はほったらかしたが、非常に広範な分野で本を読んでいる人間とどちらがいいのか。そもそも企業がなぜ就活に力を入れるか、というと人間を見ているからである。逆に、私はそういうロジックに導かないようにした方がいいのではないかと思う。そういう形にするとあまり意味がない、つまり、就活論との関係で言うと、むしろ相反する議論になってしまわないか。私は就活について、高校は職安ではなくて高校が主導しているが、中学校並みに職安化されていいではないか、というのは一つの極論として思っている。それは、戦後日本が大学というものをどう位置付けているか、ということそのものを180度根本的にひっくり返す話である。私はそういう定義をしてみる価値があると思うが、たぶん今日の話ではないと思う。
 
濱口) 中高生は大人ではない。では大学生は大人なのかという根本的な話で、一個の自立した市民であるという前提なのだと思う。だとすると、一個の自立した市民は、「自分の教養のためなり今後のキャリアのために、自らの意思に基づいて自発的に受けている教育を受ける」か、それとも「企業との1対1の関係において、そちらに必要な活動に移る」か、実はそれは無法ではなくて、ただの選択の問題になる。それを選択の問題と考えず、前提が今も大学生に成り立っていたということが本当に問題だと思う。そこをスルーしたまま、あたかも知的で成熟した大人であるということを前提とした大学生が自らの判断で、物事に選考順位をつけること自体、いかなる観点からそれが善か悪かと言えるのか。あえて挑戦的な言い方をしたが、私はこれが正しいと言っているわけではない。これが正しいと言わないためには、そもそも大学生はそのような存在ではないのではないか、という議論をしないと、その議論はできないのではないか。
 
濱口) おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。
 
濱口) 個人の選択がフィクションであるのは当然である。大人の世界というのはフィクションであっても、ある程度フィクションで成り立っている。大学というものをどのように位置付けるか。フィクションであるけれども、ある程度個人は自立して判断するという前提の上で今の大学ができてしまっている。しかし、それが事実ではないとすれば、ある意味で端的に、公的な規制の下に置く、ということはあると思う。
 
濱口) たぶんいくつかのレベルがあって、自立した大人であっても、社会的に完全に自立した意志決定をできるわけではない。このような形で大人に対する規制はある。しかし、企業と個人がどうつながるか、というところに入る規制は、日本は非常に弱いというか、自由に委ねられている。大人の判断というものに対しては自由であるというのが大原則で、それに対して子どもはそうではない。それでは大学生はどっちなのか、という話である。つまり大人であるということは、大学教育が個々のゼミ・授業を就活と比較して、出る価値があるか・ないか、自分の人生にとってどちらが大事か、ということを一人ひとりが判断してやるものだ、という前提になっている。しかしそれは現実的ではない。現実的にない、という話を抜きにして、大学教育というものを学校教育法のきれいごとの世界の延長線上で描きながら、出口のところだけ急に昔の中卒・高卒の話に持ってくるのは、議論として非常に整合性に欠けるのではないか、という話をむしろしたい。
 
濱口) 大学は社会的にどういう存在なのか、ということだと思う。能力がつかなかったらどんどん追い出す、というのは、今までの、エリートが大学に行くことを前提とした発想だと思う。逆に、今は50年代の中学校並みが今の大学なのだ、と割り切ってしまうと、少しできが悪くてもきちんと大学卒業生として社会に送り出すことが務めである。学校教育法はエリート主義を書きながら、そういう部分だけ限りなく中学校的なやり方をしているために、こういう矛盾が出てくる。決着をつけるには、どちらかにする必要があると思う。個々の所で、二つの間にはさまれるというか、がけに落ちる状況にならないようにするためには、A大学とE大学では基準が違ってもいい。A大学にはこの基準、E大学にはこの基準というものがないと、それぞれの所でがけから落ちてしまう。
 
濱口) そういう意味で言うと、むしろ一元的である。でないといけないと思う。多様性ということで言ってしまうと、わけがわからなくなってしまう。
 
濱口) 昔も中学校と大学で違った。
 
濱口) だとすると中学校型に一本化するしかない。つまり原則は中学校型で、その中で色々なものがあり得べし、とすることだと思う。
  

 第5回
(1)講演「専門分野別評価と職業教育」(北村)
 
濱口) 技術者教育と工学教育が微妙に異なる、という話だが、「微妙に異なる」というのは「大体同じ」ということになると思う。逆に言うと、こういう議論ができていること自体がある意味で素晴らしい話で、先程から色々な問題が上がっているが、問題のレベルがだいぶ違うと思う。例えば事務屋の教育と法学系の大学教育が微妙に異なると言ったら鼻の先で笑われると思う。リーガルマインドや経済的思考が役に立つとか世の中で言われているには言われているが、「それは本当か?」と突き詰めていくとそのような主張はどこかに行ってしまう。微妙に異なるというレベルで議論できていることの方がむしろ特異であるように見えるという印象だ。
 
(2)講演「労働教育と就職活動について」(逢見直人)
 
濱口) 協定という言葉の定義で、協定というものがアンバインディングな紳士協定であるという意味で使われているのであれば外資であろうがなかろうが、抜け駆けするものに対する規制能力がないものというのは本質的に同じ話である。どんなものでもアウトサイダーがいる。アウトサイダーをどうするか、というと、公権力を持って強制するかという話になる。なぜこういういう話をするかというと、労使協定はどのように担保されるかというと、公権力で強制するか労働組合が強制するかである。秩序を守らせるためには、やり方としては集団的な力でやるか、国家権力でやるか、である。就職協定はそのいずれでもない、ということは「守らない人はどうぞ破ってください」と差し出している訳なので、もともと最初から強制力はないのだろうと思う。
 
濱口) たとえば、高校生に対する求人は職安を通さなければいけない。どうしてもやるのならばそこまでする必要がある。なぜそんな規制が正当化されるかというと、高校生はまだ子どもだからである。子どもには教育を受ける権利がある。それを大人の論理で奪ってはいけない。では、なぜ大学生には許されているかというと、大学生は立派な大人だとみなされているからだ。40歳や50歳で大学に入っても全然問題ない。にもかかわらず、なぜ就職協定が社会的に問題になるか、というと、建前はそうかもしれないが、実際はそうではないからである。今の大学生は、実は昔の中高生レベルである。昔の中高生レベルの者に大人であることを前提にした仕組みが適用されている。その、建前と現実の狭間が問題を生じさせている。今や、大学であるかは別にして、中等後教育を受ける人の方が同世代の過半数である、という時代において、確かに民法の成人年齢は超えているが、昔の10代後半くらいに相当するような人に対してどういう仕組みでやるべきか、ということを議論しなければいけない。その一方で、建前的な学術の中心として20歳でも30歳でも40歳でも学びたい人が大学に入って学問をするのだという建前の議論と、無媒体的にくっつけてしまうと、話がおかしくなってしまう。どこにスタンスを置いて、どの視角から、どういう大学生をイメージ・念頭において議論するか、ということをきちんとしないといけないと思う。
 
濱口) 労働者であることと学生であることはなんら二律背反ではない。そういう意味では、大学に入る前から就職していて、実際に仕事に就くまでに大学で4年間研修してこい、ということも制度的にはありうる。しかし法律的には問題ないが、どの人を会社に採用するか、という判断基準において大学教育が何も関係ないことがあまりにもあからさまになる、ということである。
 
濱口) むしろ籾井委員が言われる発想は、今までの日本の発想そのものである。ただ、それでは大学の存在意義が説明できない。突き詰めると、なぜそういう大学に国が国民の税金を払って支えなければいけないのか、ということを説明できなくなってしまう。
 
濱口) 今まではそうだったが、それではおかしい、ということで議論している。もちろん理科系と文科系で違いがあるが、企業からすると、法学部であることと経済学部であることには差がなく、その学部に対する印象によってその学生の人間性を判断する程度であった。本当にリーガルマインドや経済的思考を求めているか、ということは、突き詰めていくとなかなか難しい。今までそうだったからそれでいいのではないか、というのも一つの答えである。しかしここで求められているのは、そこをもう少し踏み込んだところで議論をしよう、という話である。

第6回
濱口) 短期の話と中長期の話が混ざってしまっていると思う。短期というのはシステムを所与としている。システムというものは簡単には変わらないからシステムなのであり、システムを変えようということは、すなわち短期には何もしない、という話になる。その話を短期に、「今こういう問題が起こっているから、それに対してどうしよう」という話は論理的には必ずしも整合的ではない可能性がある。樋口先生の話された、正社員と非正規の話にしても本質的には雇用システムの話だが、それはそんなに簡単ではない。では当面何もしない、というのは論理的には正しくても本質的には正しくない。就活問題は短期の話である。システムを変えよう、という話は中長期的にはするかもしれないが、それはそれとしてシステムは所与として、弊害を最終的にはどうしたらいいか、という議論と、雇用システム・教育システムを包含する社会システム全体を、中長期的な課題として言うしかないと思うが、どういう方向に向けて取り組むべきか、という議論を分けないで、混ぜて議論してしまうと、読む人に同レベルで議論しているような印象を与える。
 
濱口) 少し気になったのは、「客は企業」という言い方をすると、おそらくそれは違うと思う。それはなぜかというと、短期的に言うと企業がむしろ人を求めているので、極端に言えばジョブについてきちんとしたものを今の企業は別に求めている訳ではない。では一体誰が求めているのか、というと、今は本当に求めている人はいないのかもしれない。そこで先程の短期と中長期の話で、実はしかしながらそれに一番被害を被っているのは、そういうまともな知識のないまま人間性だけで企業に採られて、それで上手く人間性を開花させた人はいいが、そうでなかった人はどうなるのか、という話で、顧客は企業だという言い方はやはり若干ずれている。 

 第7回
濱口) 資料3について、市民生活と職業生活が並列で書かれていることについて違和感がある。職業人は市民ではないかのようである。「市民生活とりわけ職業生活」というべきではないか。日本では職業教育も含めて、教育と訓練とは別の世界の話のようになっている。訓練ではこのようなことをやっているらしいが、こっちの話とは関係ない、という感覚であるから、おそらくこれが抜けないのだと思う。しかし、本当は全て同じ事である。そしてそれこそが実は職業教育である、という話を言う値打ちはあるのだろうと思う。
 
濱口) 考え方として、「大学が提供する教育の質」の保証なのか、「大学が提供する教育を受けて社会に出て行く学生の質」の保証なのか、というのが一番重要な問題ではないかと思う。「日本の大学の学生の質保証」というのは、後者のことだと思う。質を保証するというのが目的であり、その目的を達成するためにその手段として大学が提供する教育の質を保証するというはずなので、いわばその目的である、大学の教育の質保証という発想をもっと出すべきだという趣旨で話されている、と私は理解した。
 
濱口) 言っていることはあまり変わらないと思う。学生一人一人に点数をつけよう、という話ではなくて、提供されているカリキュラムをきちんと学んで、それに合格すれば、それだけの能力を身に付けたと判断するようにする、そこを出た学生に能力保証ができるようなカリキュラムの質を保証するという趣旨である。ただ言いたいことは、この枠組みではそのようにはならなくて、学生の能力の保証という観点のための課程の保証という観点になっていないのではないか、ということなのだと思う。
 
濱口) 趣旨がずれているかもしれないが、今の文科系、例えば経済学部のカリキュラムは、そもそも職業をターゲットにしていないではないか。もっと職業をターゲットにしたようなカリキュラムの組み方、というものも一つの例として、こういうものも参考にできるのではないか、という趣旨なのではないかと思う。「個別か全体か」という話ではないと思う。
 
濱口) その話をしてしまうと、司法試験を受ける人間だけにとって意味がある話になってしまう。しかし大部分の人はそうではなく、普通の会社で経理や総務の仕事をしている。そういうことをもう少し前方に置いた形で、なぜこういう話が出てくるかというと、文科系でも職業についても第一義責任的なものを作っているからである。
 
濱口) ○○工学や○○専攻というように細かく分けると作りやすいし、イメージしやすい。わかれているとしてもそれは基礎的なレベルで、その先はかなり汎用性がある。法学部はある意味で一番典型的で、上澄みのところだけ非常に汎用性があって、そこから下がると何が特色かわからない。つまり民法や刑法を学ぶことが大学を卒業してからの人生にどういう意味があって、どういうところにつながっていくのか、ということを考えたときに、もう少し職業生活に対応する形で作っていったらどうか、という趣旨ではないか。
 
濱口) そこまで議論することなのか。もっと広い意味でも、その点にあまり触れないと、皆が問題だと思っているところについてきちんと提起しない、ということになってしまう。
 
濱口) 枠にはめるのではなくて、問題を提起する必要がある分野とそうでない分野があるのではないか。あまりに一律に通用することだけを議論しようとすると、問題とすべきところが表に出てこないような形になってしまう。
 
濱口)イギリスやアメリカでは具体的な例を出している。日本社会では同じことを言うよりも、「あちらでこのようなことをやっている」といった方が通りやすい、という面もある。逆に言うと日本でも関係しているところからすると、「こういうものがある」と言いたい気持ちはあるだろう。
 
濱口) 「新時代の日本的経営」をわざわざ出す必要はないと思う。もっと専門的な能力を活用していく方向に行こう、という話が言われている、ということを書けばいいだけである。14年前に日本経営者団体連盟が出したものを実現しましょう、ということを書く必要はないと思う。これはどちらかというとバックグラウンド的な話である。
 
濱口) 日本的経営は長期蓄積型を縮小しながらやろう、その外側は流動的なもの、という階層構造でやろう、という提案だった。
 
濱口) 趣旨は非常によくわかるが、おそらく書き方の問題だと思う。この報告書が、14年前の報告書を実現すべきだという立場に立っている、というようにならないようにした方がいいと思う。

第8回
濱口) もっと正確に言うと、労働市場の状況とそれに対応すべき教育の現状ということが認識論としてあり、それに対する政策的対応は、労働市場にのみ存在し、教育には存在しない、ということでこのような順番になっているので、このような言葉になっているのだろうと思う。確かに現状を書いてその後に政策的対応を書くのはわかりやすい。しかし、そうではなくて、政策的対応は労働市場にしかされておらず、教育にはない、ということが問題、課題である、という話なのだと思う。
 
濱口) この論理からすると、このような色々な状況の変化に対して、雇用システム自体も変容している。しかし変容が足りないために、それを補うために量的に縮減されてしまい、その結果としてこのような問題が起きているのだ、という論理が成り立つのではないか。強化はされていないと思う。
 
濱口) 現象としてそのような形で現れているので、その部分がより高くなっているか、というと疑問はある。
 
濱口) なぜ雇用システムがそう簡単に変わらずに、縮減という形で対応しているのか。それは他のシステムと対応しているからである。つまり、他のシステムと相互補完性があるため、他のシステムが変わらないと、雇用システムだけ勝手に変わるわけにはいかない、ということである。
 
濱口) これは公務員と民間という形で分けて書く話ではなく、上位か中位か下位か、という話だと思う。上位は今まで通りだという書きぶりにするのか、むしろ実際には職業生活の中で幅広い能力が求められると思うけれども、基盤として一定の専門職がいるということは強調していくべきだという書き方にする、つまり全体としての主張をそういう形にするのか。それがちょうど公務員のそれぞれのクラスに対応する。そうすると、公務員についてどう書けばそういう話になるか。
 
濱口) 公務員が難しいのは、公務員法は半世紀以上前に、当時の発想としてはむしろ逆の発想で作られたが、それを違う発想で運用してきたという歴史があるからである。したがって、これに足をつっこむと、「本来公務員法が云々」という複雑怪奇な話になってしまう。
 
濱口) しかし民間企業は「本来雇用はこうあるべき」ということがあるわけではない。どちらかというと、特にここ数十年間は雇用システムとはこうであるということを前提とした法制度が作られてきている。しかし公務員は本来職階制から来ているところもあるので、つっこむと大変である。
 
濱口) わかっていないというよりも、システムというものがそう簡単に変えることができないがゆえに、例えば賃金カーブのフラット化や成果主義といった方向も出す。それだけではなく、今まで暗黙に言われていなかった、ありとあらゆる状況に機敏に対応できるような人間力、コミュニケーション能力をより明示的に出す。そのことだけで言うと、今までの日本的雇用システムの性格がより強化されていく、という現象が出ているということではないか。ますますこれから企業に就職するためには、どんな長時間労働にも耐え、ありとあらゆる状況に機敏に対応できる万能な能力を身に付けなければいけないというように、今まではそうはいってもそれほど多くなかったものが、ある意味では別の方向に向かっている面もありながら、企業の外に対するメッセージとしては強化する方向が出されているために、大学がそのようなメッセージを受けて混乱しているのだと思う。
 
濱口) だからそれを要求しているのはあくまで現象だ、ということを書かなければならない。
 
濱口) ただ大学教育との関係でいうと、今までの日本的な考えでは、将来的に言えば、何かしらそういう人間力は身に付いていくけれども、入社したときからそんなものはあるはずがなく、むしろ入社してから上司や先輩が鍛えて身に付けていく、という話だった。しかし、変容しつつ縮減しているために、かえって最初から人間力をもって入ってきてほしい、というような話になっていて、それで変なことになっている。
 
濱口) その年齢層にそういう教育機関が増えること自体は悪いことではない。それにもかかわらず、今までの大学という枠組みでものを考えてきた、とつなげた方が少なくとも反動的な感覚・感情を与えないだろう。国民の志向として、より長期間教育を受ける方向に、という趨勢自体をけしからんと批判するよりもよいのではないか。
 
濱口) 多様化について、既存の人文社会科学系のところが量的にふくれあがることも含めてなんとなく理解していた。多様化というとそうではなくて、いわゆる四文字学部や六文字学部のようなものをイメージしていた。それは人文系の膨張現象の話であってむしろ③である。「知的訓練という『前提』を後景化させた」という記述は、本来こういうことをやる学部のはずだが、量的にふくれあがったことでとてもそのようなことができなくなった、という話なのか。しかし多様化という話はそういうものではない。本来的な意味で社会的なニーズに応じて、ということであれば、まさに複合的なディシプリンを含んでいるはずである。
 
濱口) ここで雇用創出が出てくるのは唐突な感じがする。
 
濱口) 2の政策的対応というのは、これまでの若者にかかる政策の不十分さ、的はずれさ、というような形でここに書かれているのだと思う。企業行動の変化と若者の状況、それに対する広い意味での政策的対応があるけれども、限定的というよりもむしろやや本質をはずれているという言い方ではないか。そして本当はここで対応すべきなのだ、という形である。そういう意味では児美川先生のこの並べ方は筋が通っていると思う。
 
濱口) かつては若者対策はいらなかった。しかし必要になった。にもかかわらず認識が追いついていない、あるいはずれており、若干的はずれな対策が講じられている。
 
濱口) 1(2)は中位層への対策の中に位置付けられてしまうと思う。2の下位層へのキャリアラダーの再構築は雇用システムの在り方そのものにもつながる。整理が大きく中位と下位に分けて、中位についてはマクロがあってそれに大学教育がのっかるという話になっている。主旨からいうとこういう書き方がこの性格上できるかわからないが、最初に中長期的課題として雇用システム・労働市場の在り方があり、それには上位も中位も下位も基本的な基調というのがあって、それを受けて、という書き方の方が整理できるのではないかと思った。キャリアラダーの再構築は実は労働市場の在り方そのものである。
 
濱口) それを言うと、1(1)も短期的といいながら、それが機能するためには実は将来的に(2)の方向へ行くことを前提としている。雇用システムがますます今までの領域を凝縮する方向に落ちるのであれば、逆の方向に向かうことになるわけで、やはり現状と課題で認識的な齟齬があったとしてもⅡの提言の最初にそれがないと、なぜこうなのか、話がつながらない。
 
濱口) 教育だけにして、そこは提言に入れないということは一つの選択肢である。しかし、そうすると1.(2)はいらないし、2.もというキャリアラダーを前提とした大学教育を構築するといった話になる。ここはシステムそのものを作っていく、という話を書いているので、それは最初にまとめて出した方がいいと思う。
 
濱口) 「職種別労働市場」をできれば「職種と職業能力に基づく労働市場」にしてもらいたい。なぜレリバンスかというと能力を高めていくという話なので、それがにじみ出る表現の方がいいと思う。
 
濱口) むしろここは「…されており、しかもこれこれのように上手くいっていない」というように、そこはあまり書くとあちこちに差し障るが、かつ社会的な受け入れ条件がそれに合った形で変わっていないために上手くいっていない、と書いた方がいい。それがおそらく2.ないし3.の提言の上下の話で、中・下があって上がないのは気になる。また、上は今まで通りでいいのか、というと教授側はそういうことをやってしまっている。例えばロースクールのように高度専門職を養成した人間を社会がどういうふうに使っていくか、という議論を提言に書く必要があるだろうと思う。
 
濱口) どこかに入れるというのはなかなか難しい。書くのであれば独立した項目になると思うが、玉としては小さい。
 
濱口) 将来の職業選択を考えずに大学に進学している現状がある、という形で書いて、現状と課題に入れる方がいいのではないか。
 
濱口) だが、詳しい歴史的記述を延々と書いても、ものの性格上少し違うように思う。 

第9回
濱口) 前回も議論し、あまり明確な形にしなかったことだが、「日本的雇用システム」をどのように定義するか、ということがある。「日本的雇用システム」とは、端的に正社員システムのことなのか、それとも正社員システムと非正規の分を含めているのか。そして、日本的雇用システムの変容と言った場合、ある正社員システムが縮減して外側が拡大することだけを指すのか。2.の日本的雇用システムの「縮減」では、正社員システムを日本的雇用システムとしている。「日本の」雇用システムといった場合、正社員・非正規等を全部含めなくてはいけないが、「日本的」「日本型」というと、正社員システムだけを指す言葉としても使えるし、現に使われている。そして、非正規を含めたシステムを指す言葉としても使える。しかし、文章の前と後ろで見方が違っていると意味が通じなくなる。
 2点目に、日本的雇用システムを正社員システムという意味で定義した場合、単に縮減しているだけなのか、それとも変容しているのか、ということがある。これは今は議論しない方がいいのかもしれない。しかし、前回の議論では、日本的雇用システムには二重性があり、ある意味で縮減というよりも凝縮であり、凝縮というのは今までの日本的雇用システム的な性格がより強調されている、ということである。ただ、それが凝縮することによって、逆にそれ自体が前提としている条件に矛盾するものが出てくる。昔の雇用は、たいしたことのない人間でも採用して長い目で育てていく、というものだった。したがって、そもそもの昔のシステムが前提としていた条件を抜きに、会社の中である程度育てられてきた人間に要求するようなことを卒業生に要求するということは、凝縮であること自体が矛盾をもたらしている、という面がある。そこまでを「変容」という言葉で表現した方がいいと思う。正社員システムが縮減していることによって矛盾が生じている、それとともに縮減して凝縮されたことによって矛盾が発生している、という2本立てでいく必要がある。Ⅰの1.でこの点についての記述があった方がいいのではないかと思う。
 
濱口) 正確に言うと、学問的ディシプリンが何であれ、一定の何らかの知的訓練を行うということは間違いないと思う。ただそれが、例えば法学部に入って法律を学ぶことによって、他の学部に行っただけでは得られないような何らかのものが得られたのか、というふうにちゃんと社会的に認知されているか、というとそうではない、という趣旨であり、少なくとも全く大学に出席しないで遊んでいた人間と何かしら勉強していた人間とでは違うだろう、というもともとの意味は社会的に信頼されているだろう。何かのディシプリンがあることを強調して書くことは嘘になると思う。少なくともそこで何らかの知的訓練を受けたことは、その後の知的労働に従事する上で、本当に役に立っているかは別として、役に立っているというふうに社会的に認識されていたということは確かだと思うので、そのように書けばいいのかなと思う。
 
濱口) 表現をどうするかは別として、そういう言葉で表現しようとしている事態がある、ということを書かなければいけない。個別のレリバンスはなくても、そこで一生懸命勉強することが就職した後の長期的な育成の中で非常に役立っていた社会と、そもそもそうですらないということがマジョリティになってしまったところの両方を書かなければいけない。したがって、上中下という言葉を使うかは別として、何らかの表現をする必要があると思う。
 
濱口) メールでいただいた資料で、今日配布されたものには入っていないが、これまでの日本的な正社員システムの中で、上位校でうまくいっていたところについてはそれでいいのではないか、という点があったと思う。その点は今の話とつなげて議論できると思う。しかし、そうすると今度は「だからといって最初から何でも要求するなよ」という話につながってしまうかもしれない。全体としての方向性に逆行する議論を個別的にしてしまうことになってしまうので、それがいいのかはわからないが、細かい議論をし始めると、こういう議論はあってもいい。ただ少なくともそれは全体としてはそれがうまくいかない形になっている、ということを最初に指摘した上での話だと思う。
 
濱口) ただ、少なくともここまで大卒者が同世代の過半数を超える状況になった中で、すべてについて、今まで言っていたような、中身はとにかく、何かを一生懸命訓練したことによる人間力レリバンスがあるからやっていけるのだ、ということで、全部うまくいっているということはない、ということは言う必要がある。そういうことで、おそらくここで言われているようなメッセージは重要である。それなりに役に立つ能力もあるのではないか、という議論があるかもしれないが、社会のリーダー層をどのように作っていくべきか、というような議論まで踏み込むのか、という感じは若干ある。実際には、今まである時期まではそういう中でずっとやってきたが、本当はそういうトップレベルでないような人々について、むしろ中心的な議論をして、そこについては、もうそれではやっていけない、というふうにメッセージを出した方がいいと思う。
 
濱口) そこがたぶん役所の世界なのではないか。 

第11回
濱口) キャリアラダー的な発想をこっちに持ってきてしまったために、やや違和感を与えるようなものになってしまっているのだと思う。何が問題かというと、最終的に弁護士や公認会計士にならないから問題なのではない。ある会社でやっていた仕事が、会社が変わってもそのキャリアが認められてつながっていくか、ということが問題なのである。ここはむしろキャリア認識の話なので、キャリアラダー的な上がっていく話とは分けて議論しないといけないと思う。
 
濱口) あえて言うならばそれをパブリックに認証するようなシステムが作られることが望ましい、という書き方になると思う。
 
濱口) 大学卒業生自体が増えること自体について、いいか悪いかという判断をここではやっていない。あるいはする必要はないのではないか。どのような大学教育を与えられた人がその需要に対して過大である・過小であるという議論はあっても、一般的に中等後教育を受ける人が増えるということは悪いことではない。それが今までのレリバンスのない形で、つまり会社にジェネラリストとしていくことを前提としたものが、そのままの形で増えたことが問題である、ということを指摘している。中等後教育そのものが増えたこと自体を必ずしも問題としていないので、そこは少し触れているだけなのではないか。ただ、レリバンスのない性格のものがその性格のまま増えたことが問題となっているので、逆に言うと整合しているのではないか。それがわかりにくい形になっているとすると、わかりやすく書いてもらった方がいい、という印象を受けた。
 
濱口) 知らない人であればそういうふうに読む人はいると思う。
 
濱口) 逆に、職種別労働市場と安定雇用は対立する、というように書く必要があるのか大変疑問に思っている。過度に安定していないが、それも一つの安定雇用だ、というふうに位置付けた方がいいのではないか。9ページの図について、一番違和感があるのは上の緑と真ん中のオレンジの間に線が同じようにひかれていることである。実はここには色が少しずつなだらかに変わるようにした方がいいのではないか。これはイメージとして言うとまさに日経連の高度専門能力活用型、というのを間に作る、というイメージである。しかしその戦略はできない。むしろ問題なのは長期蓄積能力活用型の方に色々矛盾があるので、そこをどうにかしましょう、という議論である。ここの議論でできるかどうかは難しいが、絵として言うと、あまりきれいに色を区分けない方がいいと思う。あえて言えば非常にトップクラスのところに本当の国家戦略的ジェネラリストがあるかもしれないが、それを皆に要求するなというような話にする方がいいのではないか。そういう意味では職種別もそんなにたいしたことではない、そもそも大学4年間で学んだ専門性というのは実はそれほどたいそうなものであるはずがない、ということからすると、提言そのもののリアリティを増すためにも、あまり高度な専門能力という形に描き出さない方がいいのではないか。
 
濱口) 単純に、ないならば「無し」と書く話だと思う。逆に言うとそれを学生や社会がどのように評価・判断するか、ということがむしろ社会が大学の機能をどのように見るか、ということだと思う。
 今後のことにも関わってくると思うが、この分科会自体が大学と職業という形で書かれており、教育と社会、教育と雇用ではない。したがって、教育システムという形で捉えた議論は、実はない。どこかでそれはある必要があると思う。専門職大学院の話で、7ページの最後に棲み分けのことが書かれているが、その議論の前に色々なシステムを今までどうなっているか、それをどう位置付けるか、という議論をやった方がいいのではないか。ここでこれを書くのか、ということは色々意見があると思う。例えば後期中等教育のレベルから大学院レベル、そして企業内教育まで含めて、それをどのように再編していくのか、という問題意識はどこかで書いておいた方がいいと思う。雇用社会については色々書いてあるが、教育システムについては大学のところだけ取り出したような形になっている。問題設定がそうだからといえば仕方がないが、全体社会システムの中、という、最初にそういうところから議論を始めていることからすると、後期中等教育において専門教育はいかにあるべきか、あるいは最近になって専門職大学院という形で一番上のレベルでやろうとしている中で、大学レベルだけ抜けている。ここをどうするか、という問題意識の議論としてやっておいた方がいいと思う。そのことと具体的な提言についての議論になると思う。
 
濱口) 私のイメージとしては2と3の間くらいに書くのではないかと思う。もし可能であれば児美川先生担当のところに、今までの教育システムの中で、例えば高校の専門教育から始まって、それがどのように関わってきたのか、あるいは関わってこなかったのかということを書いてもらえるといいと思う。
 
濱口) 後期中等教育に専門高校がある。しかしそれは社会の中で言うと、本当の高度専門職というよりは低度専門職や専門職ではないような形で位置付けられてしまっている。上は全くなかったが、最近になって専門職大学院という形で、非常にハイレベルな専門職を作ろうということが動き出した。しかし基盤がないので、実はきちんと動いているとは言い難い。一番大きな固まりである大学についてきちんとした位置付けがないので、そこの位置付けが必要である、というようにやや問題意識提起型で書いてもらえるいいと思う。今の教育システムの中でも専門職的な問題意識はあるが、その位置付けが非常に周辺的である。それをもっと中心的に位置付けていく必要がある、という形で書くと、教育システム全体に対する問題提起としてクリアな形になるのではないか。
 
濱口) なぜ60年代に政府が職種別能力に基づいた労働市場といいながら実現しなかったのか、というと、高度成長下で仕事がどんどん変わっていったからである。そのため、まっさらで入れて、色は全部企業でつけるとした方が効率的だった。それは合理性に基づいてそうなった。このような仕組みはずっとうまくいっていたが、ここ十数年来に特に入口のところで問題が出てきた。やはりあらかじめ入口のところで何らかの色をつけておいて、その色で入れるようなコースを作った方がやりやすいだろう、という話だった。ただ、入口で色を固めてしまえばしまうほど、その後の動きが悪くなるので、そこはバランスが必要である。その先の、世の中が変わっていくことに対応して変えていくのをどこが、どの主体が、どの程度の責任を持ってやっていくのか、という問題がある。日本型雇用システムの最大の特徴は、学生や労働者はその主体ではないし、責任もないということである。その代わりに企業が全てやってくれる。安心して従っていると、きちんと企業が今後の市場の動向を見てちゃんと変えてくれる。しかし、それでは乗れた人はそのまま乗っていけるが、乗れなかった人は何もないという状況で、非常にバランスが悪い。もう一つは、入った人についても、全て企業がやるのか、ということがある。何かしら労働者個人の問題もあるだろうし、法的な責任もあるだろう。企業側が全て責任を負わされてもやっていけない。一旦正社員で入っても実は企業が責任を負ってくれない、ポンと放り出される、という形で自力では何もできなくなる。このような形で色々なものの中で、どの程度のバランスにするのか、という話だと思う。その中でschool to workのところについて言うと、ある程度の薄い色を付けて、入りやすくさせていく、という話だと思う。あまりがちがちにするというイメージにしない方がいいと思う。そもそも大学4年間でそれほどがちがちになるはずがない。先程の教育システムで話したのは、教育システムの中で、後期中等教育でも専門学校・専門高校がある。大学には専門課程があり、大学院にも専門職大学院というものがある。それを職業人生の中でどういうふうに使っていくか、という形で、労働者個人の責任と公的な責任と企業の責任で割り振っていくという話になるだろうと思う。やはり教育システム全体の中での位置付けのようなものを書くと、その点がわかりやすくなるのではないかと思う。
 
濱口) 単に企業にただ成績を重視しろというだけでは何の意味もない。そもそもシステムとしてどういう科目を置くか、科目を置く意味は何か、企業にとって意味があるのか。この科目は企業にとって意味があり、その科目でいい成績をとることは企業が評価するに値することである、という枠組みをつくる。企業はそうした以上、それを評価すべきである、ということを書けば完結する話である。ただ、これは「大学のカリキュラムそのものの策定について、企業の意見をきちんと取り入れて、取り入れた以上は、企業はそれについて重視しなければいけない」というふうに書かなければいけないと思う。でなければ、大学が勝手に行ったことを遵守しろと書けるかどうかである。
 
濱口) 7ページの3の最初のところに『上記のような雇用システムの再構築に際して、ユニバーサル化した大学が担う新たな役割』という書き方をしている。結局これは何のためかというと、実は間接的な書き方である。なぜ各大学にこのようなことを求めるのか、というと、雇用システムを再構築するために大学はこういう役割を担ってほしい、というだけである。 

第12回
濱口) 「はじめに」の全体について。最初から結論まで言ってしまっているように思う。「真剣に学問をすることによって培われるものが持つ普遍的な意義」と言ってしまうと、中身は何であれ、一生懸命勉強すればある種ジェネリックなスキルとして身に付く、というような話になってしまう。そうすると後ろの話とどういうつながりになるのか、非常に違和感がある。
 
濱口) それはつっこみどころのある話だと思う。そうだ、とあえて言う必要はないのではないか。なぜそのようなものまでレリバンスがあると強弁して、理屈を立てるのか。全く利がないとは思わないが、そこはつっこむと大変な議論になる。
 
濱口) 職業的レリバンスを超えた議論をするのであれば、広い意味の市民活動のレリバンス、人間としてのレリバンス、という概念がある。今大学で行われている学問活動に職業的レリバンスが少ないというだけであり、価値があるない、という評価をする必要は全くない。それを、哲学も理学も職業的レリバンスがある、と無理に強弁してしまうと、かえって説得力を失うことになるのではないか。もちろん市民的レリバンスという議論があっていいとは思うけれども、ここでその議論をするのは土俵の広げすぎだと思う。むしろ、あえて語らない、というのが一番合理的なのではないか。
 
濱口) むしろ存在しない職業的レリバンスを定義することの方が問題である。言いたいのはそこで、哲学でも理学でも全て職業的レリバンスがある、というような言い方をしない方がいい。むしろ職業的レリバンスがなければいけないのに、それがないまま平然とやっているところに、きちんとメッセージを送ることが大事だ。職業的レリバンスがあると言いにくいところに、むりに網をかけるような形でするのは危ないのではないかと思う。
 
濱口) そうであれば、職業人に必要な市民的レリバンスという形で書いた方がいい。例えば例外的に専門職業資格であった医学部では哲学をやる必要はないのか、というと、医師にこそ哲学が必要である。
 
濱口) 職業人としての深みといった話だと思う。
 
濱口) それは違う。それは職業人であり、人が職業という形で活動していく、人間活動に対するレリバンスということであり、私も必要だと思う。しかし、ここで議論している職業レリバンスとは違う。職業的レリバンスという言葉をそこまで広げてしまうと、後ろで論じていることからどんどんずれていってしまうのではないか。
 
濱口) したがって書く必要はない。
 
濱口) そもそも、大学は必ずしも職業訓練校だけではない。むしろ、職業レリバンスとは違う軸で評価されるべき大学教育が当然ある、という議論をどこかにきちんと書いておかないからこういう議論になるのではないか。哲学は別に職業人になるための学問ではない。一生ニートやフリーターをしながら宇宙の真理を考えるという生き方を否定する必要はない。しかしそれを職業的レリバンスとは呼べない。
 
濱口) それはあくまでも職業の観点からのものである。人間の知的活動というのはもっと広いものである。それをどこかにきちんと書いておけばいい。
 
濱口) だからといって、哲学科でも、職業的レリバンスを高めるためにコースを作り、教育カリキュラムを作り、ということをやらせる必要があるのか。
 
濱口) それを職業的レリバンスというのか。
 
濱口) 注4について『さらには普遍性と抽象性の高い哲学・理念という側面まで、…』と書いてある。これは例えば、法学部が今の状態では職業的レリバンスがない、もっと職業的レリバンスを高めよう、という議論をするときに、法技術的な話だけで、法哲学という議論を全然しないで、法律専門家になられても困る、という趣旨なのではないか。ここで言っているのはソクラテスやプラトンから始まるような哲学を勉強しろという話よりも、それぞれの分野において哲学的な議論をきちんと深める必要性を書いている、と理解している。
 
濱口) 例えば法律専門家になる人間は哲学をきちんと勉強してくれないと困る、というのは、まさに哲学の思想を学んでもらわないといけない、単なる技術屋になっては困る、という趣旨でなる。しかし、その話と、哲学としての哲学をやっているところにも同じように職業的レリバンスがあるのだ、という話とは次元が違う。読んでいる方から見るとこれはなんなのかという違和感がある。
 
濱口) そもそもそれは日本の労働市場の職業構造そのものである。
 
濱口) 論理的に言うと、どこかで働いたことがない人でも中途採用してもらえるようにするためには、大学自体が、どこかの会社でこれをやった、ということと同じにはならないとしても、それに準ずるようなものでないといけないだろう、ということだと思う。例えばどこかの会社で法務をしていて、別の会社に中途採用するというロジックは、中軸ではないとしても周辺的にはある。ところが大学を出ただけだと誰もそのように見てくれない。つまりゼロである。それがゼロではなくて、どこかで法務に携わっていたというのとは同じではないとしても、それに準ずるくらいの意味を持たないと困る、という話である。そうすると逆に先程の話に戻ってしまうが、全ての大学の学部・学科がそれと同じくらいのことを言えるか、というとそれは無理だろう、という話になってしまう。グラデーションをつけないと、かえって変な感じになってしまうのではないか。
 
濱口) 私は日本の大学は全て専門学校ではないかと思っている。なんでそれを否定しようとするのか。
 
濱口) 表現な問題のように思う。「ジェネリック・スキルだけの職業的レリバンス」ではだめだが、「職業的レリバンスをジェネリック・スキルまで広げることはいい」というふうに書けばいいということだけの話ではないかと思う。
 
濱口) むしろ大学等の組織の側からみたレリバンス論と、個人の側から見たレリバンス論を分けないといけないと思う。個人の側から見たら、例えば理学部を出た人がミステリー作家になるなど、ありとあらゆることがありうる。つまり、何かの役に立っているといえば立っているのである。全ての人が大学でやったことの延長線上で人生を送らなければいけないなどということはない。個人の人生としては、学んだことには全て何らかのレリバンスがあるはずだが、そこは今回の対象ではない。しかし、大学という組織が学生に対して、法学も経済学も哲学と同じだと言っていいのかといえばそうではなかろう。
 
濱口) その場合、組織として考えろ、と言えるところと、そうではないところがある。あえて言えば文学部の哲学科を出た人は、哲学の先生になる以外は個人の人生の選択にゆだねられているのではないか。それを否定する必要は全然ない。本来ヒューマニティーズとはそういうものではないか。
 
濱口) 11ページ、最後の項目について。中小企業に大卒向けの求人を出せというのは、大卒や大学の立場から見ればいい話かもしれない。しかし逆に言えば非大卒者が排除されてしまう話である。90年代から実はそういうことが事実としてむしろ進んできていて、それでむしろ高卒の人が困っている中で、こういうことを書くのか。全体として大学と職業との接続という文脈の中なので、大学側に身を置いて書くことは仕方がないが、やや大学エゴイズム的なニュアンスが出すぎるのではないか。事実として進んでいるので、それをわざわざ書くのはどうかと思う。
 
濱口) 実態としてはそうだと思うし、世の中がそういうふうに流れていってしまっていること自体を否定することはできないと思う。学生に対するメッセージとして、大企業ばかりを希望するのではなく、もっと中長期的に中小企業のことも考えろ、ということはいい。しかし、日本政府は高卒のことなんか考えず、大卒にばかり肩入れしている、というニュアンスにとられてしまうとよくない。
 
濱口) 「掘り起こし」といってしまうと、少なくともそこに求人があるので、その求人を大卒に向けろ、という話になってしまっているので、いやらしいかなと思う。
  

第13回
濱口) 基本的スタンスは「大学は職業人を養成するところ」であるということについてやるべきである、ということについてはその通りだと思う。ただ、専門性といってもその分野の研究者になるのでなければ教養のレベルでしかないと思う。こういうレリバンスがあると無理に虚構を書かせても意味がないだろう。そういう分野があるということはきちんと認めて、そこに無理を要求しない、と言った方がいいのではないか。平面的には矛盾する議論だが、法律学や経済学といったところについてきちんとレリバンスをやれ、ということを言うためには、そういうことを言っても仕方がないようなところにまで、ひとしなみの議論はしない方がいいという印象を感じた。そういう意味でおもしろいのは、経済学や法学のところを見てもわかるように、エコノミストやロイヤーとしてきちんとした人になる上で必要な、一見ジェネリックに見えて実はジェネリックではない、例えば経済白書を書いたり、民間企業でやっている人がこういうものを身に付けていないと困る、という話だと思う。そこをきちんとわけた議論をしないといけない。ヒューマニティーズに属するようなところに対して、個々の特性を抜きにして言ってしまうと、かえって「所詮こういうものを書いておけばいい」といった話になってしまう。一番大事な配慮すべきところも同じようにいい加減になってしまう危険性があるという印象を持った。レリバンスが大事だということをきちんと中心に据えながら、しかし大学でやることは全てそれだけで全て説明をつけるものではない、ということを言っておいた方がいいと思う。
 
濱口) どういうレベルの大学生を念頭においているのか。やや語弊のある言い方だが、どの学部の場合でも、優秀で自分でものを考えて論理的に構築する能力がある人間はどのような職場に入ってもやっていける。何をやろうが、ジェネリックな能力は発展する。ただ実はそれはそういう人だからだ、ということである。そもそもなぜこのような議論をしているのか、もともとレベルの高い学生であれば、どの学部でも同じように身に付けていくであろうジェネリックな能力を、予期されていないようなレベルの人達にどうつけるか、という話だと思う。語弊があるかもしれないが、非常にレベルの低い大学で経済学を学んだからといって、何が評価されるのか、というときの話だと思う。それに対して「自分で考える」というような形で返すのは、実は回答になっていない、というのが議論の出発点だったと思う。
 
濱口) ある意味レリバンスがあろうが、なかろうが、能力を持っている人はエリートである。問題はノンエリートの大学生が今非常に多い、ということである。その人達の売りは何か。アカウンティングといったものは非常に売りにはなる。しかし、たぶん目線がかなり上の方なのではないか。
 
濱口) 当該分野で大学では学んでいなくてもその延長線上にあるものまで含めた部分だと思うが、それはそれで専門分野と言われるものである。今の日本の企業の考えは、それが経済学である必要も、法学である必要も、哲学である必要もなく、仕事がちゃんとできる人間であればいい、という話になっていることをどうするか、ということである。むろんそれでも幸せになれれば、それを悪いと言う人はいないと思う。ただ、どちらかというと経済社会と大学の同じような比率で、あるいはそこがやや一人歩きするような形で、ものの考え方を身に付けることになっている学生が大量に育成されているということを、それを活かす形でも雇用機会ということができていないということをどうするか、という話になってくる。そういう意味では、例えば経済学的な発想を駆使できる学生をどれだけ育成し、それを駆使できるような職場に吸収していく、という形でうまく回ればいいと思うが、おそらく今の比率はそうでないだろう。だとするとそこはどうしたらいいかということである。
 
濱口) 入口のところでAを学んだ人が甲に行く、Bを学んだ人が乙に行く、という対応関係をつくることによって、今のように一旦AもBもぐちゃぐちゃにして、「その中の上の方から採ります」という状況になっているのをどうにかしよう、という話だと思う。
  

第14回
濱口) もともと雇用保険と生活保護の間に隙間があるから何とかしろ、というのはその通りだと思うし、ヨーロッパに失業扶助があるのもその通りだと思う。しかしヨーロッパの失業扶助は職業訓練条件付きというわけでは、必ずしもない。拠出制の雇用保険、失業保険が切れた後、一般財源で出る給付があるというだけの話であり、窓口が福祉事務所ではなくてハローワークである、ということである。したがって、紹介を受けて正当な理由なく拒否したらいけない、とか、訓練受講指示がある、というだけである。日本でも雇用保険は訓練条件を付けていない。したがって少し議論がずれている。なぜこういう議論になったかというと、経緯的に言うと、権利ではないのにお金を出すのか、それは何か理屈がなければいけないだろう、ということで訓練が付いてきた。ヨーロッパの流れからすると、むしろ今まではそういうものがなくても対象にしていたが、それではいけないということで、むしろアクティべーション的な発想が強くなってきた。本来そうあるべきだという議論と、何もないところに新しいものを作るという議論を足し合わせて、こういう話になった、ということである。そのため、失業扶助自体には元々条件が付いているわけではない。難しい話ではあるが、そこが混ざっているような気がする。出口があるかどうかはそのときの経済状況による。経済状況が厳しければ、どんなに訓練したところで、求人倍率が非常に低いところに出口があるわけがない。しかし出す必要がないわけではなく、出す必要はある。実は制度設計上、あまりこういうところをぎちぎち議論しない方がいいのではないか、という気がする。ただ、それで作ってしまうと、何もしないでただ出るという話になるし、ヨーロッパはきちんとすべきだという話になっている。基本的な考え方としてはそれでいいと思うが、経済状況を抜きにして訓練したが出口がないということをあまり強調しすぎない方がいいのではないか、という気がする。だから直ちに専門的労働市場云々という話にマストの話として議論しなくてもいいのではないか。やはり今後中期的な流れとしてはそうでないといけないので、今すぐそれがないと制度として意味がないような議論にはしない方がいいと思う。ただ中期的な安定したサステイナブルな制度としてはそうでないといけないので、それをどう作っていくか、という議論はしておいた方がいい。その点が少し混ざっているという感じがする。
 
濱口) その通りだと思うが、ただ制度を変えようとするとなかなか大変である。
  

第15回
濱口) 『<就活>廃止論』の4章目のタイトル「出現率5%の優秀人材になる方法」は、企業側から言えば「出現率5%の優秀人材を採る方法」ということになるだろうが、ミクロな、商売のキャッチフレーズとしては意味があると思う。あるいは学校で5%以内になるための方法というのが、そういうキャッチフレーズの意味だと思う。学校が自分の学校の生徒に対して、皆が5%以内に入る、と言うのはナンセンスである。マクロな制度設計として意味があるのは、少なくとも誰もがあるいは大部分がこの水準をクリアできる、ということである。企業が求めるのはこういう水準であり、これを多くの人がクリアできるようにするためにはどうしたらいいか、ということであれば意味があることだと思う。5%になると言ったとしても、5%の人間を相手に商売をするなら意味があるが、100%を相手にしなければいけないときには、あまり意味がない。佐藤さんがあくまでもミクロな立場からやられているから、このような表現をしている、ということはわかっている。ただ、100%とはいかなくても8,9割の学生が企業の求める水準をクリアするにはどうしたらいいか、というふうに、何か翻訳するところがないといけないと思う。読ませてもらって、そういう話につながる論点はたくさん出ていると思うので、決してそれを否定しようということではない。こういう議論の流れの中でそれをどう位置づけるか。5%は相対評価の話なので、そうではなくて、どういう学生も就職するのであればこの水準を、ということをどう考えるか、という形で議論しないとまずいだろうと思う。 

 

 

 

 

 

2020年10月25日 (日)

間違いだらけの「ジョブ型」議論、成果主義ではない…第一人者・濱口桂一郎氏が喝!@産経新聞

私は見ていなかったのですが、何やらNHKがトンデモをやらかしたようで、それを批判するつぶやきの中に私の名前も出てきているので、

https://twitter.com/StarMoonCrystal/status/1320337339839725570

NHKでKDDIの成果主義雇用制度を欧米式ジョブ型と紹介していて、まーたhamachan先生がブチ切れるだろうなぁと 

せっかくなので産経新聞に掲載されたわたくしのインタビュー記事を全文載せておきます。それほど長くない記事ですが、まあこれだけわきまえておけば、今回のNHKみたいなトンデモをしなくて済む程度のことは盛り込まれているはずです。

https://www.sankei.com/life/news/201014/lif2010140001-n1.html(間違いだらけの「ジョブ型」議論、成果主義ではない…第一人者・濱口桂一郎氏が喝!)

Sankei_20201025233201 新型コロナウイルス禍でのテレワーク拡大で社員の評価が難しくなっていることを受け、日本企業の雇用システムを欧米流の「ジョブ型」に切り替えるべきだとする議論が新聞や雑誌で盛んになっている。だが、ジョブ型の名付け親で、労働問題の第一人者として知られる濱口桂一郎労働政策研究・研修機構労働政策研究所長は「ジョブ型を成果主義と結び付ける誤解が多く、おかしな議論が横行している」と警鐘を鳴らす。   
(文化部 磨井慎吾)
 
 「就職」と「入社」
 ジョブ型とは、採用時から職務をはじめ勤務地や労働時間などを明確化した雇用契約を結び、その範囲内でのみ仕事を行うという欧米をはじめ世界中で標準の雇用システムを指す。典型的な例が米国の自動車産業の工場労働者で、細分化された具体的な職(ジョブ)に就くという、文字通りの意味での「就職」だ。
 これに対し、「入社」という言葉や新卒一括採用制度に象徴されるように、職務を限定せずにまず企業共同体のメンバーとして迎え入れ、担当する仕事は会社の命令次第という日本独特の正社員雇用は「メンバーシップ型」と呼ばれる。職種や勤務地、時間外労働などに関し使用者に強い命令権を認める代わりに、命じられた仕事がなくなった場合でも会社が別の業務に配置転換させる義務を負うなど、共同体の一員として簡単には整理解雇されない。
 この2類型は濱口所長が平成21年の著書『新しい労働社会』(岩波新書)などで命名し、現在では労働問題に関する議論で広く定着した用語となっている。
 そして、その根本的な違いは、職務が限定されているか否かという部分にある。「だからテレワークが増えて成果の評価が難しくなったのでジョブ型に移行すべきだ、というのは本末転倒な話なんです。ジョブ型雇用では、たとえば会社都合の人事異動など、今の日本企業なら当たり前のことの多くができなくなる。そうした大転換だということを全く分かっていない議論が多い」。濱口所長は、そう嘆く。
 
ジョブ型=成果主義?
 特に顕著なのが、「ジョブ型=成果主義」とする勘違いだという。
 「そもそもジョブ型では一部の上層を除けば、中から下の人についてはいちいち成果を評価しません。なぜかといえば、そのジョブに就ける人間かという評価はすでに採用時に済んでいるから。後はジョブ・ディスクリプション(職務記述書)に書かれた内容をちゃんとやっているかだけです」
 対して、人に注目するメンバーシップ型では末端に至るまで正社員全員を評価の対象にする。だが業績の評価といっても、ジョブの明確な切り分けのない日本企業で、しかも決定権や責任のない一般社員個々人に対して適切に行うのは困難であるため、社員の「頑張り」を見て評価する疑似成果主義になりがちだ。
 濱口所長は「日本で重視されるのはもっぱら潜在能力の評価と情意考課。従来は大部屋のオフィスで一緒に仕事して、あいつは頑張っている、などと評価していたのが、テレワークだと見えなくなってやりにくいという話で、それは単に評価制度の問題」とした上で、「ジョブ型への転換は評価制度に留まらず、企業の根本の仕組みを変え、入口である教育制度と出口である社会保障とも連動するなど、社会の仕組みの根幹にも関わってくる。ジョブ型導入論者が、そこまで考えた上で言っているのかは疑問だ」と指摘する。
 
「いいとこどり」は不可能
 「私が一番言いたいのは、みんなジョブ型を新しいと思って売り込もうとしているけど、まったく新商品ではないよ、むしろ古くさいものだよ、ということです」
 産業革命後の欧米社会で長い時間をかけて形成された雇用モデルであるジョブ型に対し、高度成長期の日本で定着したのがメンバーシップ型だ。1980年代までは硬直的な欧米のジョブ型と比べ、柔軟で労働者の主体性を引き出す優れた仕組みだと称賛もされてきたが、90年代以降は「正社員」枠の縮小に伴う非正規労働者の増加、無限定な働かせ方に起因するブラック企業化など、各種の問題が噴出するようになった。そこで引き合いに出されるようになったのがジョブ型だが、現在の経済メディアなどでの議論では、そうした歴史的経緯はすっかり忘却されている。
 濱口所長は「2つの型のどちらも、色々なものが組み合わさった複雑なシステム。当然メリットもデメリットもあるし、全部ひっくるめて一つのシステムなので、いいとこどりなんてできるはずがない」と力を込め、メンバーシップ型の発想にどっぷり漬かった頭でジョブ型を理想化し、簡単に導入できるかのように説く議論を戒めている。 

 

 

2020年10月24日 (土)

ジョブ型社会ではブルシット・ジョブにもジョブ・ディスクリプションがある

515760 こないだ死んだグレーバーの『ブルシット・ジョブ』はすごく話題になっているようですが、ブルシット・ジョブもジョブ型社会の「ジョブ」だってことは、どれくらいの日本人が理解しているのか、という感想を持ちました。

いやもちろん、日本社会にも、日本の会社やいろんな組織にもいっぱいいろんなブルシットなあれこれがあることは、とりわけブルシットな事務作業のせいで研究時間が全然取れないと毎日つぶやいている大学の先生方をはじめとして、日々痛感している人が多いと思うし、それはそうなんですけど、でも日本の組織の中のあれこれのブルシット現象は、ブルシット「ジョブ」じゃないんです。

アメリカに生まれてイギリスで暮らしていたグレーバーにとっては、ジョブ型社会はあまりにも当たり前なので、わざわざそこに疑問を呈したりしないけれども、ジョブってものがそもそも希薄ないし欠如している日本社会の目から見ると、たぶんこういう記述は理解しがたいんじゃないでしょうか。邦訳の88ページからですが、

・・・彼女には、二つの選択肢が残されていた。役立たずをブルシットな役職に移動させ、何ら意味のない職務に当たらせるか、もしくは、そうした役職が目下出払っているのなら、その人間は据え置いたままで、別の誰かを雇って実際の仕事を代わりにやらせるのである。だが後者の方法を選んだ場合、もう一つの問題が生じる。つまり、当の仕事にはすでに役立たずがついているのであるから、ほかの人間を募集することができないのである。だとすれば、その代わりに、手の込んだ職務記述書と合わせて新しい仕事をでっちあげなくてはならない。それがブルシットなことは承知済みである。本当は、何か別のことをさせるために、その人間を雇おうとしているのだから。そこで、実際にはやってもらうつもりのない架空の職務に、その新人の適性が理想的にピッタリであるかのようなふりをすることになってしまうのだ。これらすべてに、膨大な仕事が伴っている。・・・

日本にも山のようにブルシットな作業やら職場やらがあるんでしょうけど、ただ一つ絶対に存在しないのは、ブルシットジョブのジョブディスクリプションを作成するというブルシットな作業でしょう。

邦訳のその次には、タニアという女性の告白が続きます。

かっちりとした職階と職務の定められている組織では、人員募集でいるような職務内容の明確な仕事が存在しなければなりません(そこは自己目的化したBSジョブとムダな仕事からなる並行世界です。・・・)

そのため、BSジョブの創造はたいてい、BSなナラティブ世界の創生を伴っていて、そこには(架空の)職務の目的や役割はもちろんのこと職務遂行に必要な資格が、連邦人事管理局や私の機関の人事スタッフの規定する書式や専門的なお役所用語に合致するよう記載されています。

それが済めば、そのナラティブに即した求人広告が必要になります。雇用資格を得るために、応募者は業務代行している機関の使用する雇用ソフトウェアに自身の資格を認識してもらえるよう、当該の求人の題目と文言のすべてを盛り込んだ履歴書を提示しなければなりません。その人が雇われた後、その職務は年次勤務評価の基礎となる別の文書においても一言一句記述されていなければなりません。

応募者たちが雇用ソフトウェアを確実に通過できるよう、その履歴書を私自身の手で書き換えてきました。さもなくば、その人たちを私は面接も採用もできないからです。・・・

これ自体が、ジョブ型社会の根幹をなしている「ジョブ」という概念の空疎さを皮肉っているようにも読めます。

日本ではこんなめんどくさい手続きなんか一切なくても、いくらでもブルシットな仕事は作り出せるし、現にいっぱいあるわけで。ま、それがいいことなのか悪いことなのかの評価はまた別の話ですがね。

 

 

 

 

 

The Employment Adjustment Subsidy and New Assistance for Temporary Leave@『Japan Labor Issues』11/12月号

Jli11 JILPTの英文誌『Japan Labor Issues』11/12月号に「The Employment Adjustment Subsidy and New Assistance for Temporary Leave」を寄稿しました。中身はすでにJILPTホームページに載っているコラムの英訳(若干のモディファイあり)ですが、日本語で見慣れた話が、英語で読み直してみると、意外な発見があったりして、面白いかもしれません。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2020/027-00.pdf

掲載記事は、わたくしのともう一つ高橋康二さんのコラム、JILPTのコロナ調査の紹介などのほか、山本陽大さんの日産自動車事件の評釈です。

Trends
Columns The Employment Adjustment Subsidy and New Assistance for Temporary Leave HAMAGUCHI Keiichiro
Diminished Non-regular Employment, Solid Regular Employment:What Impacts Did the “First Wave” of the COVID-19 Pandemic Have in Japan? TAKAHASHI Koji
Research
Report What Impacts is the COVID-19 Crisis Having on Work and Daily Life? —From the Results of “Survey on the Impact that Spreading Novel Coronavirus Infection has on Work and Daily Life” (May 2020 Survey) 
Article Research on Job Search Interventions: Examination of the Feasibility of a Cyclical Self-Regulatory Model of Job Search Process Quality KAYANO Jun
Judgments and Orders
Whether a Staff Position in an Automobile Manufacturer Shall Be Deemed “Supervisory or Managerial Employee” Status under the Labor Standards Act The Nissan Motor Co. Ltd. (“Supervisory or Managerial Employee” Status) Case Yokohama District Court (Mar. 26, 2019) 1208 Rodo Hanrei YAMAMOTO Yota 

私のコラムは、こう始まります。

The year 2020 was supposed to be the start of new labor policies targeting such matters as “equal work for equal pay” and “power harassment” (workplace bullying) here in Japan. Since the beginning of the year, however, a series of emergency measures has come out to deal with the novel coronavirus infectious disease COVID-19, which rapidly spread globally and became a pandemic. Several developments arose here that deserve attention from the viewpoint of labor policy. Attracting renewed attention along with the new era topics of “teleworking” and “freelancing” are the Employment Adjustment Subsidy (EAS), which in recent years has tended to be viewed negatively under the catchphrase of “shifting from excessive employment stability to support for labor mobility,” as well as direct payments to employed persons not at work. In this column, I will review
the “prehistory” of the EAS program’s existence and summarize its turbulent history up to the present day. I will also take a look at policy responses to the COVID-19 pandemic in perspective of comparative law and consider legal problems pertaining to a new temporary leave assistance.

I. Prehistory: Temporary layoffs and responses to disasters

II. The development of Employment Adjustment Subsidy

III. The Employment Adjustment Subsidy during the COVID-19 pandemic

IV. The new temporary leave assistance and related legal problems

 

 

経済財政諮問会議がテレワークについても言及

昨日開かれた経済財政諮問会議に提出された有識者議員提出資料「「新しい人の流れ」の創出で経済に活力を」の中で、「働き方改革と生き方改革」と題して労働規制改革に言及しており、その中でも特にテレワークについてかなり詳しく言及がされています。

https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/minutes/2020/1023/shiryo_01-1.pdf

(3)働き方改革と生き方改革
 人の流れをつくるためには、働きながらキャリアアップできる環境整備が不可欠。厚労省は関係省と協力し、リカレント教育の強化に向けた働き方改革のパッケージを年度内に策定すべき。具体的には、教育訓練のための休暇制度や短時間勤務制度の活用拡大、デジタル時代に対応した職業訓練の見直しやキャリア相談支援、20 歳代からの兼業・副業・複業やテレワークの推進、これらを通じた 40 歳を視野に入れたキャリアの棚卸等の環境整備を進めるべき。
 特に、テレワークの定着・拡大に向けては、就業ルールを柔軟に見直すべき。事業所外みなし労働制度の弾力的活用、裁量労働制の在り方、都会と地方の双方向での活用などテレワークの拡大に向けた新たな KPI の設定などについての具体的方針を年内に明らかにすべき。引き続き新しい働き方にふさわしい労働時間法制の検討を急ぐべき。
 また、テレワークに伴う通勤手当の引下げは将来受け取れる年金減額につながり、テレワーク経費について実費相当分を上回る額を手当として支払う場合にはその部分が所得課税されるというディスインセンティブを取り除くべき。
 中小企業が、外部からの経営人材を受け入れやすくするよう、任期付雇用や試用期間の柔軟化、その間の支援の在り方等を検討すべき。

これまで安倍内閣では経済産業省出身官僚が主導する産業競争力会議→未来投資会議が政策形成の中心に位置し、内閣府の経済財政諮問会議はマクロ経済課題だけに押し込められていた感もありましたが、前者が成長戦略会議に格下げされ、むしろ経済財政諮問会議いや同じく内閣府の規制改革推進会議のほうが政策形成の主役に躍り出てきた感があります。

その辺の政治過程論的分析も政治学的/政治評論的には興味深いところかもしれませんが、当方からはとりあえず、この動きが今後どういう風に進んでいくのかが注目すべき点です。

 

 

 

 

2020年10月23日 (金)

プラットフォーム就業者の労働条件立法提案を予告

欧州委員会の2021年作業計画が公表されましたが、

https://ec.europa.eu/info/sites/info/files/2021_commission_work_programme_en.pdf

その中にこういう一節があり、注目されます。

To ensure dignified, transparent and predictable working conditions, a legislative proposal to improve the working conditions of people providing services through platforms will be presented with a view to ensuring fair working conditions and adequate social protection.

尊厳あり、透明で予見可能な労働条件を確保するため、プラットフォームを通じてサービスを提供する人々の労働条件を改善するための立法提案が、公正な労働条件と十分な社会保障を確保する観点で提出される。

透明で予見可能云々は昨年成立した労働条件指令の形容詞で、これは主として雇用労働者を対象とするものですが、その前文にプラットフォーム云々という文句があり、今度は雇用労働者ではないプラットフォーム就業者を対象とした労働条件と社会保障にまたがる立法提案をしてくるようです。

 

 

 

ウーバーイーツの使用者責任

読売新聞の記事ですが、

https://www.yomiuri.co.jp/national/20201023-OYT1T50101/(「配達員の自転車が追突」ウーバーを提訴…負傷女性が賠償求める)

 宅配代行サービス「ウーバーイーツ」の配達員の自転車に追突されて負傷したとして、大阪市の会社役員の女性(66)が、配達員とサービスを提供する「ウーバージャパン」(東京)に約250万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴したことがわかった。22日の第1回口頭弁論で、女性側は同社に使用者責任があると主張。同社側は請求棄却を求めた。
 訴状などでは、女性は2018年、大阪市内で20歳代の男性配達員の自転車に背後から衝突され、首や脚に軽傷を負った。女性は配達員に休業補償などを求めたが折り合いがつかず、今年8月、ウーバージャパンも被告に加えて提訴。同社は取材に対し、配達員は個人事業主で雇用関係になく、業務委託契約も結んでいないとした上で「個別の事案には答えられない」としている。 

Uber1023 この「使用者責任」というのは、民法の不法行為の使用者責任なので、ただちに労働法上の使用者性というわけではありません。過去には山口組組長に組員の行為に対する使用者責任を認めた判例もあります。

とはいえ、これでウーバーイーツに民法上の使用者責任が認められれば、労働法上の使用者性の議論に拍車がかかるかもしれません。

 

 

2020年10月22日 (木)

恒木健太郎・左近幸村編『歴史学の縁取り方』

Unnamed_20201022102401 恒木健太郎・左近幸村編『歴史学の縁取り方 フレームワークの史学史』(東京大学出版会)を、執筆者の一人である小野塚知二さんよりお送りいただきました。いつもお心に留めていただきありがとうございます。

http://www.utp.or.jp/book/b517243.html

 歴史学はいかなる知的枠組み(フレームワーク)のもと形づくられてきたのか.その時代の状況にも対応し,切りひらかれてきた歴史学は,その枠組みがときには批判されつつも,継承されてきたことを史学史的に論じる.これからの歴史学にとって必要な手がかりを示す.

さてしかし本書はサブタイトルにもあるように、史学史、歴史それ自体ではなく歴史学の歴史をあれこれ論じている本で、しかもその内容はしたの目次にあるように実に多様にわたっていて、なかなかつまみ食い的に取り上げるのは難しいのですが、お送りいただいた小野塚さん(名著『経済史』の著者)の書かれた最後の「第7章 読者に届かない歴史」は、ある意味でまことにアクチュアルなトピックを扱っていて、とても興味深いものでした。

「読者に届かない歴史」というのは、つまり専門の歴史学者が書いた歴史の本は全然売れず、本屋の歴史コーナーに平積みされているのは池上彰や佐藤優、井沢元彦、「自由主義史観」ばっかりという実情のことで、

・・・実証的で論理的なーつまりまっとうなー歴史研究の専門書で初版700部を数年内に売り切れば御の字というのが出版界の現状である。初版700部のうち著者贈呈で100部か200部が人の手に渡り、同程度の部数が全国の主に大学図書館に収蔵され、読者の意思で、支出を伴って書店(インターネット上の書店を含む)で買われるのはたかだか数百部で、残りは数年後には不良在庫として廃棄される。

もちろん、小野塚さんはそういう歴史書を書き、刊行するのが無意味だと主張するわけではありません。ただ、

・・実証性や論理性といったまっとうな基準を満たすことは、無論、いうまでもなく大切である。しかし、それは、まっとうな歴史が読者に読まれず、その代わりにそうした基準を満たさない「歴史」と「歴史教育」がまかり通る状況を座して見過ごして良いことにはつながらないだろう。そうした「歴史」に負けることを正当化しうる理屈はないからである。

といい、

・・歴史は読まれて初めて成立するのだから、読者が何をどのように読みたがっているのかを知らずに、より実証的で、論理的な歴史をただひたすら書き続けるだけでは、歴史学の社会的責任を果たしていることにはならないというのが本章の主張である。

と訴えます。

Banno こういう議論に対しては、様々な立場からいろんな意見があり得るでしょうし、歴史学者ではない私が何かコメントできるものなのかどうかも分かりませんが、私個人が興味を持ってきたある歴史領域については、まさに実証的、論理的な歴史学の本流でありながら、例外的にジャーナリズム的な意味でもよく売れる本を出し続けてきたある近代日本史家-つい先日亡くなった坂野潤治さんのことが思い浮かびました。

坂野さんの本については本ブログでも何回か取り上げてきましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f66b.html(坂野潤治『〈階級〉の日本近代史』)

9784062585897_obi_l 本日は、大阪で労働政策フォーラムが開かれ、労使それぞれの弁護士の皆さんと一緒に、わたくしもパネリストとして、改正労働契約法について議論してきました。
帰りの電車の中で読んでいたのが、坂野潤治『〈階級〉の日本近代史』です。
近代日本史が専門の坂野さんは、とりわけ近年、現代政治の姿に大きな危機感を感じて、繰り返しメッセージ性の高い歴史書を送り続けていますが、本書もその一冊です。
本ブログでも結構繰り返し紹介してきていますので、わかっているよ、という方も多いでしょうが、やはり繰り返し語られるべきメッセージだと思います。 

目次は以下の通りです。

はじめに(左近幸村)

序 章 「事実をして語らしめる」べからず――職業としての歴史学(恒木健太郎)
     一 マックス・ヴェーバーと「歴史の物語り」論
     二 「揺るがない事実」という認識の基底
     三 社会史批判としての「柔らかな実存論」
     四 「よくできたお話をつくりあげた方が勝ち」?
     五 各章の構成
     六 「地図」から「作法」へ

第1章 戦後日本の経済史学
     ――戦後歴史学からグローバル・ヒストリーまで(恒木健太郎・左近幸村)
     一 「戦後歴史学」のフレームワーク――山田盛太郎から大塚久雄へ
     二 対抗的フレームワークからフレームワークの拒否へ?
        ――「実証」の前提を問う
     三 グローバル・ヒストリーのなかの「革新」と「保守」

[コラム1]「日本経済史」という「学統」(高嶋修一)
     一 学問領域の非自明性
     二 「日本経済史」の成立
     三 土屋喬雄と「日本経済史」
     四 縦の糸,横の糸

第2章 「転回」以降の歴史学――新実証主義と実践性の復権(長谷川貴彦)
     一 フレームワークへの問い
     二 社会史パラダイム
     三 歴史学の転回
     四 新実証主義と実践性の復権
    
[コラム2]帝国主義史研究とフレームワーク(柳沢 遊)
     一 「経済史学とフレームワーク」をめぐる私見
     二 柳沢遊の日本帝国主義史研究――在満日本人居留民社会史への視点
     三 レーニンの帝国主義論との距離について
     四 小さな「フレームワーク」設定の大切さ――結びにかえて

第3章 「封建」とは何か?――山田盛太郎がみた中国(武藤秀太郎)
     一 フレームワークとしての『日本資本主義分析』
     二 「封建」とFeudalism
     三 橘樸と佐藤大四郎
     四 山田盛太郎がみた中国
     五 新たなフレームワーク構築にむけて

[コラム3]山田盛太郎の中国観と経済史学の現在――武藤論文によせて(石井寛治)
     一 山田盛太郎による戦時期中国農村の調査
     二 満洲農村特有の血縁的紐帯の一般化の誤り
     三 専制国家体制の存続と儒教によるその相対化
     四 山田説と服部説の統一的把握への途

第4章 経済史学と憲法学――協働・忘却・想起(阪本尚文)
     一 憲法学という視角
     二 高橋史学と戦後第二世代の憲法学
     三 「営業の自由論争」の彼方
     四 比較経済史学の射程について

[コラム4]元・講座派の技術論
      ――戦時中の相川春喜における「主客の統一」の試みと科学技術の「民族性」(金山浩司)
     一 なぜ技術論か
     二 きまじめな唯物論者――唯研時代の相川
     三 転向した相川?
     四 主客の止揚
     五 科学や技術は民族的である
     六 結論――建設的であろうとしたものの……

第5章 歴史学研究における「フレームワーク」
     ――インド史研究の地平から(粟屋利江)
     一 インドにおける近代史研究
     二 インドにおける歴史研究の軌跡
     三 インドにおける近代史研究――日本との比較から
     四 「フレームワーク」とジェンダー視角
     五 再び「フレームワーク」について

[コラム5]歴史を書く人,歴史に書かれる人(井上貴子)
     一 誰のための歴史か,誰を叙述するのか
     二 人物に焦点をあてた歴史叙述
     三 サバルタン・スタディーズとグローバル・ヒストリー
     四 サバルタン・スタディーズの立場からみた日本経済史思想

第6章 「小さな歴史」としてのグローバル・ヒストリー
     ――1950年代の新潟から冷戦を考える(左近幸村)
     一 グローバル・ヒストリーから郷土史へ
     二 1950年代の日本における米軍基地拡張計画
     三 新潟飛行場拡張反対運動の盛り上がり
     四 揺れる県内世論
     五 新潟からの米軍撤退
     六 世界の中の新潟/新潟の中の世界

[コラム6]アメリカ合衆国における「近代化論」再考(高田馨里)
     一 「近代化論」というフレームワーク
     二 「近代化論」とアメリカ開発援助政策
     三 「近代化論」の再考
     四 「近代化論」をめぐる実証研究
     五 日本の開発援政策の再考へ  

第7章 読者に届かない歴史
     ――実証主義史学の陥穽と歴史の哲学的基礎(小野塚知二)
     一 歴史研究の哲学的基礎と読者の哲学的基礎
     二 「史観」――三木清『歴史哲学』を手がかりにして
     三 戦後歴史学の起点
     四 戦後歴史学と実際の戦後との乖離
     五 戦後歴史学の零落と歴史の哲学的基礎
     六 読まれる歴史への転換をめざして
  
あとがき(恒木健太郎)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年10月21日 (水)

韓国プラットフォーム配達労働に関する画期的な協約@呉学殊

Oh_h_20201021163301 JILPTの呉学殊さんが、JILPTホームページに「韓国プラットフォーム配達労働に関する画期的な協約」という緊急コラムを寄稿しています。

https://www.jil.go.jp/tokusyu/covid-19/column/023.html

2020年10月6日、韓国で画期的なことが起きた。新型コロナウイルスの影響で世界中に急拡大しているプラットフォーム配達労働に関する労使の協約が締結されたのである。なぜ画期的なのかをいくつかの文脈でみてみることにする。・・・

以下、この協約の内容を詳しく説明していきますが、最後にこう述べています。

・・・プラットフォーム配達産業は新型コロナウイルスの影響により世界中で急拡大している。コロナがいつ終息するのかが見通せない。仮に終息しても同産業は利便性が高いので引き続き拡大していく可能性が高い。そういう中、韓国で労使が自律的に締結した同協約は、韓国のみならず世界各国に良い影響を及ぼしていくと期待する。日本でもそのような協約が締結されることを熱望する。

 

 

欧州議会の『つながらない権利指令案』勧告案@『労基旬報』2020年10月25日号

『労基旬報』2020年10月25日号に「欧州議会の『つながらない権利指令案』勧告案」を寄稿しました。

 過去数十年にわたって情報通信技術の急速な発展に伴い、世界中でテレワーク、モバイルワークといわれる事業場外勤務が徐々に拡大してきました。そこに2020年の年初から新型コロナウイルス感染症が急激に拡大し、パンデミックとなる中で、ロックダウンや緊急事態宣言の下、ステイホームの要請の中で事業活動を継続するために、在宅勤務が一気に拡大しました。こうして、日本も含め世界中で、テレワークが労働問題の一つの大きな焦点となっています。
 その中で、とりわけ欧州諸国で注目されているのが「つながらない権利」です。日本でも、フランスの法制の紹介は若干されていますが、その全貌はあまり紹介されていませんし、また現在EUレベルでもその立法化に向けた動きが始まったところでもあり、ここで紹介しておきたいと思います。まず、各国レベルの動きです。
 フランスでは、2013年の全国レベル労働協約に基づいて2016年に制定されたいわゆるエル・コムリ法により、従来から50人以上企業で義務的年次交渉事項とされてきた「男女間の職業的平等と労働生活の質」について、「労働者が、休息時間及び休暇、個人的生活及び家庭生活の尊重を確保するために、労働者のつながらない権利を完全に行使する方法、並びにデジタル機器の利用規制を企業が実施する方法」が交渉テーマに追加されました。「つながらない権利」は、仕事と家庭生活の両立を図るとともに、休息時間や休日を確保するために、デジタル機器の利用を規制する仕組みを設けなければなりません。「つながらない権利」の実施手続は企業協定又は使用者の策定する憲章で定められ、そこにはデジタル機器の合理的な利用について労働者や管理職に対する訓練、啓発も含まれます。つながらない権利を定める企業協約は2020年に1,231件に達しています。最もよく用いられているのは、所定時間外にアプリが起動されると使用者と労働者にそれを通知するソフトウェアであり、燃え尽き症候群を防止するためのワークライフバランスの必要性を警告し訓練するものです。もっと強烈なものとしては、所定時間外には回線を切断してしまうものもあります。
 イタリアでは、2017年の法律第81号により、使用者と個別労働者との合意によりスマートワーク(lavoro agile)を導入することが規定されました。これは仕事と家庭生活の両立に資するため、法と労働協約で定める労働時間上限の範囲内で、勤務場所と労働時間の制限なく事業所の内外で作業を遂行できます。使用者は幼児の母又は障害児の親の申出を優先しなければなりません。この個別合意は作業遂行方法、休息時間を定めるとともに、労働者が作業機器につながらないことを確保する技術的措置を定めることとされています。スマートワーカーは2019年には48万人でした。
 ベルギーでは、2018年の経済成長社会結束強化法により、安全衛生委員会の設置義務のある50人以上企業において、同委員会でデジタルコミュニケーション機器の利用とつながらない選択肢について交渉する権利を与えています。もっとも、厳密な意味でのつながらない「権利」を規定しているわけではありません。
 スペインでは、EU一般データ保護規則を国内法化するための2018年の個人データ保護とデジタル権利保障に関する組織法により、リモートワークや在宅勤務をする者に、つながらない権利、休息、休暇、休日、個人と家族のプライバシーの権利が規定されました。この権利の実施は労働協約又は企業と労働者代表との協定に委ねられ、使用者は労働者代表の意見を聞いて社内規程を策定しなければなりません。この規程は「つながらない権利」の実施方法、IT疲労を防止するための訓練と啓発を定めなければなりません。
 次に、こういった各国の動きを受けたEUレベルの動きです。ただし、行政府である欧州委員会は今のところ特段の動きはなく、立法府である欧州議会において、その立法化に向けた動きが見られます。ただここで注意しておかなければならないのは、EU運営条約では、立法提案をする権限は行政府である欧州委員会にのみあり、立法府である欧州議会にはないということです。欧州議会は欧州委員会が提案した指令案や規則案を審議して採択するかしないかをきめる権限があるだけです。ただ、立法提案自体の権限はなくとも、一般的に政策課題を審議し、決議をする権限は当然あるので、その決議の中で、欧州委員会に対してこういう立法提案をすべきだと求めるということは十分可能です。本稿で取り上げる欧州議会の立法提案というのも、条約上不可能な厳密な意味での立法提案ではなく、欧州委員会に対して指令案提出を勧告する決議の案といういささか間接的な性格のものとなります。とはいえ、そこにはそのまま指令案になるような形式の文書が付属されており、実質的には欧州議会の指令案の案の案とでもいうべきものになっています。
 これは、2020年7月28日付の「つながらない権利に関する欧州委員会への勧告に関する報告案」と題され、9月7日の雇用社会問題委員会に提出された文書です。付録でない本文には、ICTなどデジタル機器により労働者が時間、空間の制約なくいつでもつながることが可能になり、これが身体、精神の健康やワークライフバランスに悪影響を及ぼしうるので、つながらない権利をEU指令として制定することが必要だと主張しています。そのほかにもいろいろ書いていますが、ここではむしろ、付属文書の指令案の案自体をみておきましょう。以下に指令案の訳文を掲げます。

第1条 主題と適用範囲
1.本指令はICTを含めデジタル機器を作業目的に使用する労働者がつながらない権利を行使できるようにし、使用者が労働者のつながらない権利を尊重するよう確保するための最低要件を規定するものとする。これは官民の全産業及び、欧州司法裁判所による労働者性判断基準を満たす限り、オンデマンド労働者、間歇的労働者、バウチャーベースの労働者、プラットフォーム労働者、訓練生及び実習生を含め、全労働者に適用される。
2.本指令は、第1項の目的のため、労働時間指令、透明で予見可能な労働条件指令及びワークラフバランス指令の特則を定め、補完する。
第2条 定義
 本指令において、以下の定義が適用される。
(1) 「つながらない(disconnect)」とは、労働時間外において、直接間接を問わず、デジタル機器を用いて作業関連活動又は通信に関与しないことをいう。
(2) 「労働時間」とは、労働時間指令第2条第1項に定める労働時間をいう。
第3条 つながらない権利
1.加盟国は、労働者がそのつながらない権利を行使するための手段を使用者が提供するよう確保するものとする。
2.加盟国は、使用者が客観的で信頼でき、アクセス可能な方法で個別の労働時間を記録するよう確保するものとする。いかなる労働者もいつでもその労働時間記録を要求し、入手することができるものとする。
3.加盟国は、使用者が公平で合法的かつ透明な方法でつながらない権利を実施するよう確保するものとする。
第4条 つながらない権利を実施する措置
1.加盟国は、労働者がそのつながらない権利を行使でき、使用者がその権利を実施することを確保するものとする。このため、加盟国は少なくとも以下の労働条件を定めるものとする。
(a) 作業関連のモニタリング又は監視機器を含め、労働目的のデジタル機器のスイッチを切る実際の仕組み
(b) 使用者が労働時間を記録する方法
(c) 心理社会的リスク評価を含め、つながらない権利に関わる使用者の安全衛生評価の内容及び頻度
(d) 労働者のつながらない権利を実施する義務から使用者を適用除外する基準
(e) 第(d)号の適用除外の場合、労働時間外に遂行された労働の補償の算定方法を決定する基準
(f) 作業内訓練を含め、本項にいう労働条件に関して使用者がとるべき意識啓発措置
 第1文第(d)号のいかなる適用除外も、不可抗力その他の緊急事態のような例外的状況においてのみ、かつ使用者が関係する各労働者に書面で、適用除外が必要なすべての場合に適用除外の必要性を実質的に説明する理由を提示することを条件として、提供されるものとする。
 加盟国は、第2項及び第3項にいう労使団体間の協約によるのでなければ、第1文第(d)号によるつながらない権利を実施する義務から使用者を適用除外することを禁止するものとする。
 第1文第(e)号にいう労働時間外に遂行された労働の補償は、休暇又は金銭的補償の形で行うことができる。金銭的補償の場合、少なくとも労働者の通常の報酬と等価でなければならない。
2.加盟国は第1項にいう労働条件を定める労働協約を締結することを労使団体に委任することができる。
3.加盟国は第2項にいう選択肢を利用しない場合、第1項にいう労働条件が使用者企業のレベルにおける労使の間で協定されることを確保するものとする。
第5条 不利益取扱いからの保護
1.加盟国は、労働者がつながらない権利を行使したこと又は行使しようとしたことを理由とした差別、より不利益な取扱い、解雇又は他の不利益取扱いを使用者に禁止するように確保するものとする。
2.加盟国は、本指令に定める権利について使用者に不服をを申し立てたり、その遵守を目的とした手続きを行ったことから生じるいかなる不利益取扱い又は不利益な結果からも、労働者代表を含む労働者を保護するよう確保するものとする。
3.加盟国は、つながらない権利を行使し又は行使しようとしたことを理由として解雇されたと考える労働者が、裁判所又は他の権限ある機関に、かかる理由によって解雇されたと推定されるに足る事実を提出した場合には、当該解雇が他の理由に基づくものであることを立証すべきは使用者であることを確保するものとする。
4.第3項は加盟国がより労働者に有利な証拠法則を導入することを妨げない。
5.加盟国は事案の事実を認定するのが裁判所又は権限ある機関である手続に第3項を適用する必要はない。
6.第3項は、加盟国が別段の定めをしない限り、刑事手続には適用しない。
第6条 救済を受ける権利
1.加盟国は、そのつながらない権利が侵害された労働者が有効かつ公平な紛争解決及び本指令から生ずる権利の侵害の場合の救済を受ける権利にアクセスできるよう確保するものとする。
2.加盟国は、労働組合又は他の労働者代表が、労働者のために又は支援するためにその同意の下に、本指令の遵守又はその実施を確保する目的で行政上又は司法上の手続に関与する権限を確保するものとする。
第7条 情報提供義務
 加盟国は、適用される労働協約の条項を規定する書面の通知を含め、つながらない権利に関する十分な情報を使用者が各労働者に適用するよう確保するものとする。かかる情報には少なくとも以下のものが含まれるものとする。
(a) 第4条第1項第(a)号にいう、作業関連のモニタリング又は監視機器を含め、労働目的のデジタル機器のスイッチを切る実際の仕組み
(b) 第4条第1項第(b)号にいう、使用者が労働時間を記録する方法
(c) 第4条第1項第(c)号にいう、心理社会的リスク評価を含め、つながらない権利に関わる使用者の安全衛生評価の内容及び頻度
(d) 第4条第1項第(d)号にいう、労働者のつながらない権利を実施する義務から使用者を適用除外する基準
(e) 第4条第1項第(e)号にいう、本条第(d)号の適用除外の場合、労働時間外に遂行された労働の補償の算定方法を決定する基準
(f) 第4条第1項第(f)号にいう、作業内訓練を含め、本項にいう労働条件に関して使用者がとるべき意識啓発措置
(g) 第5条に従い、不利益取扱いから労働者を保護する措置
(h) 第6条に従い、労働者の救済を受ける権利を実施する措置
第8条 罰則
 加盟国は、本指令に基づき採択された国内規定又は本指令の適用範囲にある権利に関し既に施行されている関連規定の違反に適用される刑罰に関する規則を規定し、それが実施されるよう必要なあらゆる措置をとるものとする。規定される罰則は、有効で比例的かつ抑止的なものとする。加盟国は(本指令の発効の2年後までに)当該罰則とその措置を欧州委員会に通知し、遅滞なくその実施的な改正を通知するものとする。
(以下略)

 前述したように、これは法的には権限ある機関の提案した指令案ではありません。立法提案権のない欧州議会が立法提案権のある欧州委員会に対してこういう立法提案をしたらどうかと「勧告」することを、その欧州議会の議員が欧州議会の委員会に提案しているという段階のものに過ぎません。とはいえ、コロナ禍でテレワークが急激に広がったヨーロッパにおいて、このつながらない権利というトピックが急速に議論の焦点になりつつあるという状況を考えると、その行方は注目に値します。日本でもテレワークに関する議論が沸騰することが予想される中、本指令案の勧告案を紹介する所以です。 

 

NewsPicksにインタビュー記事「【直言】ジョブ型で実現する、「プロなら安心社会」」

最近いろんなメディアに近頃のいんちきジョブ型論を批判する記事を喋ったり書いたりしていますが、これはその中でもけっこう長めのインタビュー記事です。

https://newspicks.com/news/5314521/body/

冒頭の佐藤留美さんが解説している部分を:

Enterprisecover  「ジョブ型導入」を打ち出す企業が増えている。バブル崩壊後に各社が競うように導入を試みた「成果主義」を彷彿とするブームのような様相を呈しているが、「ジョブ型」「メンバーシップ型」という言葉の名付け親であり、労働問題の第一人者である、労働政策研究・研修機構研究所長の濱口桂一郎氏は、目下の状況をどう見ているのか。
 ジョブ型に関する理解や報道には誤解が多く、なかでも「ジョブ型は最先端の働き方である」という捉え方は逆で、世界的に見ると、ジョブ型はむしろ崩壊しつつあるという議論も出ているという。
 また、ジョブ型導入を進める目的は、ミドル以上の社員の働きに応じた適正処遇(=成果主義の徹底)とする日本企業が多い。
だが、世界標準のジョブ型雇用におけるプロ職は、成果主義というよりも、同じ仕事、同じ給料で末長く働けるという安定性が得られるのが特徴だと、濱口氏はいう。
 ジョブ型は100年ほど前にアメリカで始まり、そのあと世界に広まった、いわば世界標準の働き方だ。
だが、日本は例外的に戦後から新卒一括採用のメンバーシップ型が当たり前になっている。そのため、会社に入る「就社」ではなく、職に就く「就職」がベースとなる世界標準のジョブ型雇用への理解がなかなか進まない。
 特集「ジョブ型時代の働き方」3回目は、世界の労働政策を研究する濱口氏が、目下のジョブ型ブームの誤解を解き、実はシニアまで職が安定しやすくなるジョブ型雇用の真の姿、そして今後の日本の雇用の変化までを解説していく。・・・ 

 

2020年10月20日 (火)

山下ゆさんの『働き方改革の世界史』評

9784480073310_600_20201020235701 ネット上でもっとも有名な書評家の一人である山下ゆさんが、『働き方改革の世界史』を書評していただいています。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52288270.html

本書の内容を大変丁寧に、一章ずつ順を追って解説していただいているのですが、こちらの意図を見事に汲んでいただいているのがうれしいです。

・・・ただ、本書の中盤以降はそういった「勉強」を超えた面白さがあります。アメリカやイギリスで「経営」と「労働」を峻別したがゆえに「経営」がコントロールを失っていくさまや、「日本的雇用」を思い起こさせる一部のアメリカ企業の存在は、「権力」といったものを考える上でも非常に興味深いものです。また、最後にとり上げられている藤林敬三の日本の労使関係についての洞察にも、運動論・組織論的な面白さがあります。労働問題に興味がある人だけでなく、組織や運動や権力の問題(つまり政治か)に興味がある人が読んでも得るものが多い内容だと思います。・・・

最後の言葉がこれなのは、やはり海老原さんの感想と通じるものがあるのでしょうね。

・・・そして、政治や経営に単純な正解がないように、労働組合のあり方にもまた単純な正解がないということを教えてくれる本でもありますね。

 

 

『企業競争力を高めるこれからの人事の方向性』(労務行政)に寄稿

8614_m 労務行政研究所編『企業競争力を高めるこれからの人事の方向性』(労務行政)に寄稿しました。

https://www.rosei.jp/products/detail.php?item_no=8614

本書は、『労政時報』4000号を記念して刊行されたもので、目次は以下の通りで、けっこうなビッグネームの方々が寄稿されていますね。

[総論]変革迫られる人材マネジメントと人事部
守島基博 学習院大学 経済学部経営学科 教授
[各論]識者が語る人事マネジメントの未来
1 進む少子高齢化と労働力不足
阿部正浩 中央大学 経済学部 教授
2 経営戦略と人事戦略
柴田 彰 コーン・フェリー・ジャパン株式会社 シニア クライアント パートナー コンサルティング部門リーダー
3 日本型雇用の変遷
大久保幸夫 株式会社職業能力研究所 代表 株式会社リクルート フェロー
4 ジョブ型雇用に向けたジョブポートフォリオ・マネジメント
石黒太郎 三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社 コンサルティング事業本部名古屋ビジネスユニット 組織人事戦略部長 プリンシパル
5 日本企業のグローバル人材マネジメントの方向性
白木三秀 早稲田大学 政治経済学術院 教授
6 激変する環境下において求められる人事部の変化
小野 隆 デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 ヒューマンキャピタル/ HRトランスフォーメーション パートナー
7 人事制度設計に当たり、今後求められる視点とは
本寺大志 コーン・フェリー・ジャパン株式会社 アソシエイト クライアント パートナー
8 賃金――金銭的報酬
石田光男 一般社団法人国際産業関係研究所 所長
9 人事マネジメントのパラダイムシフトと評価制度の在り方
寺崎文勝 株式会社寺崎人財総合研究所 代表取締役 プリンシパルコンサルタント
10 イノベーション人材の育成方法を考える
藤村博之 法政大学 経営大学院イノベーション・マネジメント研究科 教授
11 配置転換・転勤
西村孝史 東京都立大学 大学院経営学研究科 准教授
12 副業・兼業で求められる人事部の対応
石山恒貴 法政大学 大学院政策創造研究科 教授・研究科長
13 次世代経営者の選抜、育成をどのように進めるか
柴田励司 株式会社Indigo Blue 代表取締役会長
14女性の両立支援から活躍支援へ
佐藤博樹 中央大学 大学院戦略経営研究科(ビジネススクール) 教授
15 高年齢者雇用
山田 久 株式会社日本総合研究所 副理事長
16 日本企業のグローバル化と外国人材採用
佐原賢治 株式会社ジェイ エイ シー リクルートメント 海外進出支援室 室長
17 非正社員の人事管理
今野浩一郎 学習院大学 名誉教授 学習院さくらアカデミー長
18 新卒採用の未来を考える
服部泰宏 神戸大学 大学院経営学研究科 准教授
19 HR領域のテクノロジー進化・データ活用
大湾秀雄 早稲田大学 政治経済学術院 教授
20 ポスト・コロナ時代の労働政策
濱口桂一郎 独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT) 労働政策研究所長
21 近年の最高裁判決が人事実務に投げかけるもの
丸尾拓養 弁護士 丸尾法律事務所
22 労使関係――日本的労使関係の変遷と課題
荻野 登 独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT) リサーチフェロー 

ちなみに、『労政時報』4000号記念というのはいつから数えているのかというと、なんと戦前の1930年からなんだそうです。つまり、90年目でもあるわけですね。

トリを務めているJILPTの荻野さんのは、たった11ページに過去100年の日本労使関係史を凝縮して描いたエッセイになっています。

実は、こういうのも書きたいテーマなんですよね。

9784480073310_600_20201020113901 『働き方改革の世界史』の続きは日本編。既に同書には藤林敬三が入っており、その後『HRmics』には経済同友会の『企業民主化試案』を取り上げましたが、次は(恐らく多くの人の意表を突いて)沼田稲次郎の『現代の権利闘争』を取り上げます。そこまでで残念ながら『HRmics』は廃刊となってしまいますが、でも頭の中には戦前や戦時中の労働関係のあれこれの著作を取り上げたいなあという思いがわだかまっています。

やがて何時の日か、『働き方改革の日本史』(仮題)なんていうのにまとめてみたいと思っています。

 

 

 

2020年10月19日 (月)

津谷典子・菅桂太・四方理人・吉田千鶴編著『人口変動と家族の実証分析』

26730 津谷典子・菅桂太・四方理人・吉田千鶴編著『人口変動と家族の実証分析』(慶應義塾大学出版会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766426731/

少子高齢時代における日本とアジアの家族や男女の働き方を詳細なデータに基づいた実証分析によって透視する。 

本書は編者の一人である津谷さんの定年記念企画とのことで、巻末には津谷さんの研究業績一覧が載っていますが、本書自体でも日韓台の東アジア三か国の人口動態と家族変動の興味深い研究書になっています。

目次は以下のとおりですが

序章 人口変動と家族――日本と東アジア (津谷典子)

 第Ⅰ部 低出生力社会における家族・人口変動のダイナミズム

第1章 出生水準が長期的な人口動向に及ぼす影響について (石井 太)
第2章 歴史人口学から見る低出生力社会の養子慣行
――近世東北農村1716-1870 年を中心に (黒須 里美)
第3章 国内人口移動の現状と変動要因 (直井 道生)

 第Ⅱ部 低出生力社会における就業パターンの変化と格差

第4章 就業寿命
――戦後わが国における長寿化、晩婚・未婚化と就業パターン (菅桂太)
第5章 女性博士のキャリア構築と家族形成 (小林 淑恵)
第6章 家族の変化と就労収入の格差 (四方 理人)

 第Ⅲ部 低出生力社会における夫婦の生活時間

第7章 日本の夫婦の生活時間と子ども (吉田 千鶴)
第8章 韓国における有配偶夫婦の時間配分 (曺 成虎)

 第Ⅳ部 東アジアにおける超低出生力の特徴と少子化対策

第9章 東アジア先進諸国における少子化の特徴と背景要因 (松田 茂樹)
第10章 台湾における育児休業制度の利用と女性の復職 (可部 繁三郎)
第11章 子育て支援施策の変遷と地方と国の予算の推移 (前田 正子)

津谷典子教授 履歴・研究業績

いろんな観点からいろんな読み方ができるのでしょうが、面白いなと思ったのは文部科学省の小林淑恵さんの「女性博士のキャリア構築と家族形成」という論文です。

かつてと比べれば女性博士という存在も増えていますが、そのキャリアパスと結婚・出産という問題に取り組んだ研究はあまりないので、興味深く読みました。

 

 

 

2020年10月17日 (土)

労働新聞に書評

9784480073310_600_20201017081701 『働き方改革の世界史』の短評が、『労働新聞』の「今週の労務書」に載りました。「古典でたどる欧米の雇用観」

https://www.rodo.co.jp/column/96601/

 働き方改革というより、本書では労使関係論の歴史を概観する。英米独仏の11の古典を取り上げ、各国でどのように労働運動が展開し、結果的にどんな考え方が生まれたのか、紐解いていく。「ジョブ型」と一括りにされがちな欧米の雇用システムが、実際には多様な形を経てきたことを学べる。
 企業横断的な職業組合を前提とするイギリスの雇用システムを皮切りとして、アメリカにおけるトレード(職業・職種)からジョブ(職務)への移行、ドイツで起こった共同決定に基づくパートナーシャフトなどが紹介される。他方でマルクス主義の本は扱わず、最後の12冊目でようやく国内の本が登場する。“純粋なメンバーシップ型雇用”が続く日本の特異さを改めて思い知らされ、今後向かうべき先を考えさせられる。 

短い中に、本書のメッセージを的確に伝えていただいていると思います。

 

 

2020年10月14日 (水)

名付け親が語る「ジョブ型雇用」本当の意味とは?@『BizHint』インタビュー

Bizhint 立て続けに「ジョブ型」の誤解を糺すインタビュー記事が続々と現れてきますが、こちらでは『BizHint』のインタビューに登場しました。題して「名付け親が語る「ジョブ型雇用」本当の意味とは?」

https://bizhint.jp/report/459165

テレワークが普及してにわかに注目を浴びる言葉に「ジョブ型雇用」があります。ジョブ型雇用とは職務や勤務地を限定した雇用契約。一方で、これまで日本では「メンバーシップ型雇用」と呼ばれる職務や勤務地、労働時間などが限定されない雇用契約が主でした。コロナ禍をきっかけに企業では「ジョブ型雇用」を推進していく動きがありますが、労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎氏は巷で議論される「ジョブ型雇用」に対して、「誤解されている点が多い」と話します。ジョブ型雇用を考える前に、覚えておきたいことについてフォーカスします。・・・

ジョブ型雇用、前提は「ジョブ・ディスクリプション」を明確に
ジョブ型雇用、都合よく会社が変えられるわけではない
日本の教育制度や企業文化は「メンバーシップ型」前提で作られている
「ジョブ型雇用」は硬直性を引き受けること、それでも改革しますか? 

 

間違いだらけの「ジョブ型」議論、成果主義ではない…第一人者・濱口桂一郎氏が喝!@産経新聞

Sankei 産経新聞プレミアムに、私のインタビュー記事が掲載されました。題して「間違いだらけの「ジョブ型」議論、成果主義ではない…第一人者・濱口桂一郎氏が喝!」いやまあ、「喝!」といっても張本さんじゃありませんが。

https://www.sankei.com/premium/news/201014/prm2010140001-n1.html

新型コロナウイルス禍でのテレワーク拡大で社員の評価が難しくなっていることを受け、日本企業の雇用システムを欧米流の「ジョブ型」に切り替えるべきだとする議論が新聞や雑誌で盛んになっている。だが、ジョブ型の名付け親で、労働問題の第一人者として知られる濱口桂一郎労働政策研究・研修機構労働政策研究所長は「ジョブ型を成果主義と結び付ける誤解が多く、おかしな議論が横行している」と警鐘を鳴らす。(文化部 磨井慎吾)

「就職」と「入社」

ジョブ型=成果主義?

「いいとこどり」は不可能 

2020年10月13日 (火)

ジョブ型は成果主義じゃないし、解雇自由でもないけれど、同一労働同一賃金なんだぜ

なんか最近、

https://twitter.com/pandadnap9999/status/1315867522567077888

なんで新しい人事用語が出てくると時間外管理しなくていいとか解雇しやすくなるみたいな意味合いを付与したがるんだろうな。最近だとジョブ型とかさ。

いやそもそも「新しい人事用語」ですらないと思うんだけど。

でも、「ジョブ型」ってあんたの作った言葉だろう(いやそうなんだけど)、ていうわけで、一番初等レベルの

ジョブ型は成果主義じゃないし、解雇自由でもない

ってのをやたらにあちこちで喋ったり書いたりすることが多くなって、正直そろそろ食傷気味ではある。

トンデモなジョブ型論を叩くのは、名付け親のお前の責務だと言われれば、おっしゃる通りでやらざるをえないんだけどさ。

(追記)

下のコメント欄である外資系人事マンさんが言われているように、全然ジョブ型じゃない話では山のように「ジョブ型」が出てくるのに、同一労働同一賃金というまさにジョブ型の中核の話になると、なぜか誰も「ジョブ型」っていう言葉を発しなくなるという、この天下の奇観(注1)。

同一労働異なる賃金、異なる労働同一賃金のメンバーシップ型の世界で、ジョブ型を前提とする同一労働同一賃金なんてものがそもそもいかにして可能なのか、という本質的な問いを発したことなんか一人もいないんだろうね。

ジョブ型は成果主義じゃないし、解雇自由でもないけれど、同一労働同一賃金なんだぜ 

 (注1)今のところ、経営法曹の倉重公太朗さんだけが、この問題で「ジョブ型」に触れていますね。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20201014-00202908/

Profile1522398932_20201014092601  同一労働同一賃金の問題は、日本型雇用の崩壊に伴う、移行期であるが故の問題であるともいえます。メンバーシップ型雇用における「メンバー」と「メンバー外」の争いから、緩やかに「ジョブ型」に移行しようとする中で、「ジョブ」とは何なのか、業務とは、責任とは、人材配置の在り方とは、という根本が問い直されています。 

不透明感が増すこれからの時代、未来を担う若者が働きに出る頃、せめて日本がまっとうな労働市場があるためには、今の時代に合わせた「新・日本型雇用のグランドデザイン」を提示する時機に差し掛かっているといえます。

本判決をきっかけに、このような日本型雇用の根本について考える人が一人でも多く現れることを切に願って、夜なべして本稿を書きました。。。

 

 

日本的ジョブ型雇用は、単なる「成果主義の言い換え」だが合理的な理由@ダイヤモンドオンライン

Img_dd1207143d9bbd70328374e4e8bab0793326 ダイヤモンドオンラインに、毎日ちびりちびりと掲載されてきている「賢人100人に「コロナ後の未来」を聞く! 」というインタビューシリーズに、ようやくわたくしも登場しました。

https://diamond.jp/articles/-/249017

日立製作所や富士通など多くの日本企業が「ジョブ型雇用」へとかじを切る。ジョブ型は日本企業に定着するのか、これからの雇用はどうなるのか。日本でジョブ型の概念を広めたとされる労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎氏に話を聞いた。(聞き手・構成/ダイヤモンド編集部 笠原里穂)

 人に仕事を付けるのが「メンバーシップ型」で、初めにジョブ(職務)ありきでジョブに人を付けるのが「ジョブ型」です。しかし、経団連や多くの企業の動きを見ていると、そうしたジョブ型への移行を目指しているようには到底思えません。

 少なくとも「初めにジョブがある」という前提に基づけば、採用の仕方を変えないと本来の意味でのジョブ型とはいえません。ところがコロナ禍の今、新卒一括採用を本気で変えようと思っている会社がどのくらいあるでしょうか。

 私には、今の状態は「成果主義」をジョブ型と言い換えているだけに見える。しかし、単に成果主義のように差をつけることをジョブ型だとするのは、完全に間違っています。・・・

 

誤解だらけの「ジョブ型」論 @WEB労政時報

WEB労政時報に「誤解だらけの「ジョブ型」論」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/login.php

今年1月に経団連が公表した『2020年版経営労働政策特別委員会報告』がかなり大々的に「ジョブ型」を打ち出した(と、少なくともそうマスコミに報道された)ことに加え、年初からのコロナ禍でテレワークが急増し、「テレワークがうまくいかないのはメンバーシップ型のせいだ、ジョブ型に転換すべきだ」という声が湧き上がってきたことから、マスコミやネット上では「ジョブ型」という言葉が氾濫している状態です

もともと、日本型雇用システムの特徴を、欧米やアジア諸国の「ジョブ型」と対比させて「メンバーシップ型」と名付けたのは私自身なのですが、近年の「ジョブ型」の氾濫には、正直眉を顰(ひそ)(ひそ)めっぱなしの状態です。というのも、マスコミに溢れる「ジョブ型」論のほとんどは、一知半解で「ジョブ型」という言葉を振り回しているだけだからです。いや、一知半解どころか、そもそも「ジョブ型」とは何かというイロハのイすらわきまえていない、知ったかぶりの議論が横行しているのが現状です。その典型例をひどいものから見ていきましょう。・・・・・

 

2020年10月12日 (月)

公益財団法人世界人権問題研究センター編『企業と人権の現代的問題』

Jinken 以前、ブックレット『真の女性活躍のために』(公益財団法人世界人権問題研究センター)をいただいていた特定社労士の藤木美能里さんから、今度は『企業と人権の現代的問題』をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://khrri.or.jp/news/newsdetail_2020_10_09_post_34.html

•はしがき / 西村健一郎著
•第1章 SDGs(持続可能な開発目標)と企業の課題 / 桑原昌宏著
•第2章 働き方改革における「同一労働・同一賃金」 : 判例、指針を踏まえて / 島田裕子著
•第3章 複数就業と社会保険・労働保険 / 藤木美能里著
•第4章 社会保険の適用除外と非正規労働者 / 藤木美能里著
•第5章 外国人労働者をめぐる労働法上の諸問題 / 稲谷信行著
•第6章 うつ病等による休職者の復職とリハビリ就労の課題 / 西村健一郎著
•第7章 公益通報者保護法制の現状と改正課題 / 青木克也著
•第8章 コンビニ・フランチャイズ契約の適正化に向けて / 青木克也著

藤木さんは3章と4章と、二つの章を書かれています。

このうち、特に第4章は、私も興味を持っていろいろと書いてきた分野でもあります。

また、最後のコンビニ・フランチャイズ契約の章は、会計学的な問題提起から、労働法と経済法を横断する議論が展開されており、大変勉強になります。

 

2020年10月10日 (土)

京都大学経済学部図書館の「留学生へのおすすめ」

京都大学経済学部図書館の「留学生へのおすすめ」というのに、拙著『新しい労働社会』が顔を出しています。もう11年も前の本ですが、でも、世間で誤解誤用されている「ジョブ型」ってのを理解する上では少しは役に立つかもしれません。

http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/library/wp-content/uploads/2020/10/2020list2.pdf

Kyodai

 

 

規制改革推進会議が「時間や場所に囚われない働き方の推進」へ

去る10月7日、規制改革推進会議が議長・座長会合というのを開催し、そこに提出されたペーパーがアップされています。

https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/meeting/coremeeting/20201007/201007coremeeting01.pdf

冒頭に出てくるんは今話題のハンコの話ですが、それに続く部分にテレワークが出てきます。

(3)テレワーク推進の観点から、時間や場所に囚われない働き方の推進
・労働時間管理や労働環境などの労働関係の規制・制度について、テレワーク推進の観点からガイドラインで制度の取扱いや運用の明確化や柔軟化等を行う。

昨年の答申では深夜業にちょびっと触れただけでしたが、今年に入ってコロナ禍で在宅勤務が急速に拡大したことを受け、かつての経済財政諮問会議労働市場改革専門調査会での議論の復活という面もあり、かなり全面に出てきていますね。

 

 

 

 

2020年10月 9日 (金)

『猫と東大』

531803 どういうわけだか、『猫と東大 猫を愛し、猫に学ぶ』(ミネルヴァ書房)という本が送られて来ました。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b531803.html

猫も杓子も東大も。
大学は大学らしく猫の世界を掘り下げます。

世はまぎれもない猫ブーム。一方で、ハチ公との結びつきが深い東大ですが、学内を見回してみると、実は猫との縁もたくさんあります。
そこで、猫に関する研究・教育、猫を愛する構成員、猫にまつわる学内の美術品まで取り揃えて紹介します。

さすが東大、猫ブームに乗って猫本を出すとは。

駒場や本郷のキャンパスを逍遥する猫たちの写真に挟まれて、東大の先生方がそれぞれに猫談義を繰り広げるという、いかにもネコノミクスな本ですね。

その話題の広がりは下の目次のとおりですが、むかし東大出版会でこの手の一つお題を出して、いろんな分野の先生方がそれにまつわる話題を書くという趣向の本がありましたが、その猫版ですな。

最後の方には、シュレディンガーの猫のメンバーカードがもらえる研究支援基金なんてのもありますね。

 

はじめに(須田礼仁:情報理工学系研究科教授)


猫好き4教授座談会
(西村亮平:農学生命科学研究科教授/野崎 歓:東京大学名誉教授/本郷恵子:史料編纂所教授/須田礼仁)

特別掲載・猫の香り(野崎 歓)


猫と学問 その1

  【猫と獣医内科学】病院と研究科が一体となって進む 動物医療と研究・教育(辻本 元:農学生命科学研究科教授)
  【猫と動物行動学】ペットの声を聴く行動診療で 人と動物をよりなかよしに(武内ゆかり:農学生命科学研究科教授)
  【猫と医科学①】異分野の発想で進んだ特効薬開発 「AIM」でネコの寿命が二倍に!? (宮崎 徹:医学系研究科教授)
  【猫と獣医病理学】ネコもアルツハイマー病に!? ヒトの難病の鍵を握る動物たち
   (チェンバーズ ジェームズ:農学生命科学研究科助教)
  【猫とゲノム遺伝子学】獣医学とゲノム学と情報学を融合 ネコゲノム解析プラットフォーム
   (渡邊 学:新領域創成科学研究科特任教授)
  【猫と医科学②】インフルエンザウイルスの中間宿主として ニューヨークの猫が教えてくれたこと
   (河岡義裕:医科学研究所教授)
  【猫とソフトロボット学】完成したら「カエル型」!? 誕生・しなやかなネコ型ロボット(新山龍馬:情報理工学系研究科講師)
  【猫と応用獣医学】ネコの加齢に伴う腸内細菌叢の変化とは ネコにはネコの乳酸菌!?
   (平山和宏:農学生命科学研究科教授)
  【猫と獣医外科学】日本ペットサミット(J-PETs)を設立 どうぶつ達と共に暮らす幸せな社会へ(西村亮平)


猫とキャンパス

  猫と駒場キャンパス 追悼文「さよなら、まみちゃん」
  キャンパスの歴史的建造物と猫と 駒場点景(永井久美子:総合文化研究科准教授)
  東京大学本郷構内の遺跡調査にて 発掘・猫の玩具(小林照子:埋蔵文化財調査室)
  再録・本郷ネコ散策マップ


猫と学問 その2

  【猫と日本文学①】『吾輩は猫である』にみる 「皮膚」の「彩色」の政治学(小森陽一:東京大学名誉教授)
  【猫と歴史学】東京大学所蔵史料から見る 鼠を捕る益獣としての猫(藤原重雄:史料編纂所准教授)
  【猫と日本文学②】口語自由詩の地平を拓いた詩人 萩原朔太郎の猫は……(エリス俊子:総合文化研究科教授)
  【猫と社会学】飼い主との間にある独特な関係性とは? 猫ブームの理由(赤川 学:人文社会系研究科教授) 
  【猫と美術史学】徽宗・春草・栖鳳 画猫の系譜(板倉聖哲:東洋文化研究所教授)
  【猫と経済史学】生殖の統御は完全に正当化しうるか? 野良猫のいる社会といない社会(小野塚知二:経済学研究科教授)
  【猫と考古学】遺跡が伝える新石器時代の人猫交流 飼いネコの始まり)西秋良宏:総合研究博物館教授・館長)
  【猫と教育プログラム】猫と人のよりよい関係を 東大生が3か月考えてみたら(真船文隆:総合文化研究科教授)


猫好き研究者夫妻に聞く「猫と日本史」(本郷恵子・本郷和人:史料編纂所教授)


「東大×猫」トピックス

  東大出身作家が書いたシャム猫が主人公の恋愛小説 
  猫のイラストが目印のUTokyoハラール認証チョコ
  先端研所属のアーティストによる猫絵本『ぼくのにゃんた』
  明治新聞雑誌文庫の猫画像資料
  「シュレディンガーの猫」のメンバーカードがもらえる 光量子コンピューター研究基金
    (古澤 明:工学系研究科教授/井上清治:光量子コンピューター支援基金ファンドレイザー)
  『猫号』制作後記(高井次郎:東京大学広報課)


おわりに(木下正高:地震研究所教授)

 

2020年10月 7日 (水)

トヨタはジョブ型じゃねえぞ

本日の日経の社説が「年功制が限界に来たトヨタ」。あたかも、日本型雇用の典型であったあのトヨタがジョブ型に舵を切ったかの如く、そういう印象操作をしたくてたまらない感が溢れていますが、

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64680860W0A001C2SHF000/

トヨタ自動車が毎年の定期昇給(定昇)の算定方法を見直す。一律的に上がる部分をなくし、人事評価のみを反映した昇給とすることで労働組合と合意した。

日本型雇用を実践する企業の代表格とされてきたトヨタの動きは年功賃金がいよいよ限界に来た表れだ。デジタル化で企業の競争はかつてなく激しい。他企業も人事・賃金制度改革を急ぐべきだ。・・・

いやいや、今回のトヨタの賃金改革は、朝日のこの記事が詳しいですが、

https://www.asahi.com/articles/ASNB36DLFNB2OIPE02Q.html

職位に応じて一律に決まる「職能基準給」と、評価によって決まる「職能個人給」を、評価に応じて決まる「職能給」に一本化するというものであって、ジョブ型の正反対の「能力主義」をさらにますます全開にするというものなんであって、終戦直後の電産型以来の年齢平等主義の残滓を振り払うという意味では「改革」ではありますが、ジョブ型に向かうようなものでは全くない、ということが、やはり日経記者さんにはよく分かっていないようです。

むしろ、評価項目に「人間力」が加わり、「頑張った人がより報われるようになる」というのは、メンバーシップ型精神のより純化とすら言えるものであって、これでもって、社説の後ろの方に

・・・貢献度に応じた処遇制度の整備は急務だ。職務によって報酬を決める「ジョブ型雇用」は選択肢の一つになる。・・・

などといささか寝ぼけたことを書いているんですから、ちょっと呆れます。頭の中を整理した方がいいと思いますよ。

(追記)

https://twitter.com/treeina/status/1313837841638596614

hamachanも吠えてるやろうなぁと思ってブログみたらやっぱり吠えてた。・・・

(^^;)

 

 

 

2020年10月 6日 (火)

プラットフォーム労働者の団体交渉権の行方

本日、ソーシャル・ヨーロッパに寄稿された「Collective-bargaining rights for platform workers」(プラットフォーム労働者の団体交渉権)は、この問題が今置かれている状況をよく伝えています。筆者はNicola Countouris と Valerio De Stefanoです。

https://www.socialeurope.eu/collective-bargaining-rights-for-platform-workers

この問題の先頭を切って、2年前の2018年、デンマークでプラットフォームによるフリーランス家事労働者(アプリで呼ばれて、介護、家事、清掃、哺育等をする)とプラットフォーム事業者との間で労働協約が締結され、労働界で賞賛されたのですが、その協約にフリーランスの最低報酬(minimum fees)が規定されているのが競争法違反でけしからんと、デンマーク政府の競争・消費者当局が去る8月、最低報酬の支払いをやめるよう命令したというのですね。デンマークの競争法の仕組みはよく分からないのですが、フリーランス労働者の集団的労使関係が競争法当局によってこうできされがちであるというのは、以前オランダの例で取り上げたことがあります。

この問題、最近EU当局のみならず、OECDも強い関心をもっているところであり、引き続きウォッチしていく必要があります。

 

 

2020年10月 5日 (月)

武石恵美子・高崎美佐『女性のキャリア支援』

9784502354618_240 武石恵美子・高崎美佐『シリーズ ダイバーシティ経営/女性のキャリア支援』(中央経済社)をお送りいただきました。

https://www.biz-book.jp/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%20%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E7%B5%8C%E5%96%B6%EF%BC%8F%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%94%AF%E6%8F%B4/isbn/978-4-502-35461-8

 なぜ女性の能力発揮が重要なのか、女性の活躍によって何を目指すのか。日本のダイバーシティ経営の推進や女性が主体的にキャリア形成に取り組むための課題を明らかにする。

第2章の採用と就職、第3章の初期キャリア、第4章の出産・育児期、第5章の昇進までは、大体通例のパターンですが、最後の第6章が「女性一般職のキャリア形成」を取り上げていて、これがなかなか興味深いです。

この章の最後で武石さんもこう述べていますが、やはりノンエリート女性のキャリアというものをもっときちんと見つめていく必要がありますね。

・・・最後に、管理職女性や女性の昇進というような上方に向かう女性のキャリア形成を扱う研究に比べると、女性一般職の現状や課題について明示的に取り上げる研究は少ないことを問題提起したい。現実には、昇進を視野に入れずに就業を継続して仕事にやりがいをもって働く多くの女性が職場を支えている。・・・

 

北欧の労働組合はEU最低賃金指令を断固拒否するぞ!

昨年来、EUではフォンデアライエン委員長が言い出しっぺのEU最低賃金という構想が着々と進んでいて、既に2次にわたるEUレベル労使団体への協議を終え、欧州委員会が指令案を出すんじゃないかという状況になりつつありますが、それに断固としてNO!を突きつけているのが、EUで一番組織率が高く、団体交渉が盛んな北欧諸国の労働組合です。

https://www.socialeurope.eu/eu-legislation-on-minimum-wages-is-not-the-solution

例によって「ソーシャル・ヨーロッパ」から、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン3か国の労働組合の代表の連名による「EU legislation on minimum wages is not the solution」(EU最低賃金立法は解決じゃない)という文章を紹介しておきます。

 We are deeply worried and concerned that the European Commission, after its second-stage consultation with the social partners, is planning to proceed with a legislative initiative on minimum wages—a proposal, which will not respect treaty limitations and be counterproductive for a social Europe built on robust, multi-employer collective bargaining.

われわれは欧州委員会が労使団体への2段階協議を終えて最低賃金に関する立法提案を提出しようと計画していることを深く憂慮し懸念する。それは、条約の制約を尊重せず、健全な多数使用者との団体交渉の上に構築された社会的ヨーロッパに対して反生産的である。

現に労働組合が強く活動している北欧諸国からすれば、最低賃金立法など不必要である以上に有害なのです。

We do acknowledge the need for higher wages and better-functioning labour markets. But what Europe needs is more collective bargaining and stronger social partners, not a straitjacket on social dialogue and wage-setting, which would not only be detrimental to Scandinavian labour markets but also risk harming social dialogue in other member states.  

われわれは高賃金と良好に機能する労働市場の必要性を理解している。しかし、ヨーロッパに必要なのは、もっと多くの団体交渉ともっと強い労使団体なのであって、労使対話と賃金決定に対する拘束衣じゃない。それはスカンジナビア諸国の労働市場を損なうだけではなく、他の加盟国の労使対話にも悪影響を与える危険性がある。

 

 

2020年10月 4日 (日)

竹中平蔵と習近平の「共鳴」@梶谷懐

Takenaka 中国経済の梶谷懐さんが、現代ビジネスに「竹中平蔵氏と中国・習近平政権、提唱する「経済政策」がこんなに似てきている」というエッセイを寄稿しています。これが大変面白い。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76094

あの竹中平蔵氏が、中国で大いに人気を集めているらしい。中国の人々はいったい竹中氏の何に惹かれ、彼から何を得ようとしているのか。神戸大学・梶谷懐教授による全3回のレポート。最終回となる今回は、竹中氏が提唱する経済政策と、習近平政権が目指す経済体制(「シーノミクス」と呼ばれる)に見られる類似、そして、日中で共振する「新自由主義」の動きについて解説する。 

Xi まあ、今の中国社会を、共産党一党独裁による徹底した新自由主義と考えるのは、割とポピュラーな見方だとは思いますが、そこにここ二十数年にわたって陰に陽に日本の政策決定に関わり続けてきた竹中平蔵という補助線を引いてとらえなおしてみると、改めていろいろと興味深い論点が浮かび上がってくるという感じです。逆に、中国社会という補助線を引いて竹中路線というものをとらえなおしてみると、またいろいろなものが見えてきます。

例えば、竹中氏らが主導している規制緩和のためのサンドボックスについても、こういう視点があり得るのですね。

ただ、注意しなければならないのが、このレギュラトリー・サンドボックス制度が、実際にそう銘打っていなくても、実質的に採用されているようにみえるのは、中国社会がそもそも「法の支配(rule of law)」が極めて脆弱な社会だということと深い関係があるということだ。
レギュラトリー・サンドボックスが採用された都市では、規制やルールはイノベーションという「結果を出す」ための存在となり、「法の支配」で重視されるような「政府を縛る」という側面はそれほど重視されない。その意味ではむしろ、竹中氏らが強調する、「事前的な規制から事後的チェックを行う政府への転換」とは、中国のような法の支配が弱い社会における、革新的なテクノロジーへの対応を、日本を含む先進国が模倣しつつある、という側面があるのではないか。 

Img_7119e6535e8d93bad458588317af5bf05702 「中国化する日本」というと、與那覇潤さんのベストセラーのタイトルですが、竹中流の規制緩和が「法の支配の弱体化」という意味における「中国化する日本」の表れであるという視点は新鮮でした。

それでも、小泉政権時代からその構造改革路線が中国で高い評価を受けてきたのは事実だし、すでにみたように彼が第二次安倍政権の下で提言している政策は、スーパーシティ構想も含め、習近平政権が進めている国家と民間資本が一体となった経済戦略(シーノミクス)とその根本で共通するものを持っている。その意味で、竹中氏の目指す経済改革と、ここ25年ほどの中国経済の方向性は明らかに「共鳴しあっている」というのが筆者の結論である。

竹中氏の政治的立場は、批判的なニュアンスを込めて「新自由主義的」と形容されることが多い。これは一般的には「小さい政府」を志向することだと理解されている。

しかし、すでに述べたように、竹中氏は小泉政権で閣僚を務めていた時期から、「構造改革」に、単に「国家の役割の縮小」を主張するだけではなく、終身雇用制度や特定郵便局制度、さらには「自治」の名を借りて改革を拒む大学やマスコミの談合体質にいたるまで、日本社会に残る様々な「古い慣習」や中間団体を「既得権益」としてその解体を目指す、という性格を濃厚にもっていた。

中間団体を解体した一君万民型社会。そういわれればまさしく竹中路線とは「中国化する日本」そのものなのかもしれません。

一方、筆者が研究対象とする中国社会はもともと国家から相対的に独立した「中間団体」の形成が極めて困難な社会である。明清史を専門とする足立啓二氏は、その著作『専制国家史論』の中で、国家が唯一の権力ならびに公共財供給の担い手としてそびえたち、それに対抗するような自律的団体や権力への抑止力が社会の中に形成されないことが、「専制国家」としての中国の本質だと喝破している。

すでに述べたコロナ・ショックへのバッファーとして機能した雇用に流動性の高さも、中国社会において国家=共産党から独立した労働組合、すなわち労働者を守る中間団体の形成が極めて困難であるという事実と表裏一体である(足立、2018)。このような中間団体の弱さを補完するのが、ビジネスなど特定の目的を実現するために集まり、利益を得たら解散する、流動性の高い「弱いつながり」である。

このような流動性が極めて高く、自律的な中間団体がなかなか形成されないために、人々が互いに「信用」に基づいて秩序だって行動するのが困難な社会に出現したのが、大企業と政府が個人と事業体の情報を一元的に管理し、ひとびとを「よりよき行い」に誘導する現在のデジタル監視社会にほかならない。

51kts8kzz4l_sx353_bo1204203200_ この足立さんの本も、与那覇さんの本のもとになったものですね。

竹中氏はいわゆる「親中派」ではない。しかし、その目指すべき経済や社会に関する思想のレベルにおいて、中国の改革派のエコノミストや、官僚たちと近いマインドにあることは、彼の発言のはしばしから伺える。それは、必ずしも前回の記事で述べたような、雇用の流動化に関わることだけではない。たとえば、竹中氏はインタビューや著作の中で「自分は弱者の切り捨てを行っているのではない」「本当の意味で改革を進めれば弱者は救済され、格差は縮小するはずだ」といったことを繰り返し語っている。 

ただ、そこで言われている「弱者救済」は、企業を含む中間団体から切り離された個人が文字通り「弱い存在」として国家や大企業に直接対峙することを前提している。それは端的にいえば、それまで人々がよりどころにしていた中間団体が解体された後に、いわば決して怪我をしないように遊具や砂場が工夫されて配置された「安全な公園」を政府や大企業のエリートが設計し、そこで庶民がのびのび遊ぶような社会のイメージである。ちょうど習近平政権下の中国社会がそうであるように。

そこには、今の中国と同じように、自主的な労働組合の存在する余地はそもそもないのでしょうね。

9784480073310_600_20201004180001 先月出した拙著『働き方改革の世界史』の「あとがきに代えて-マルクスが入っていない理由」の中で、ちょびっとだけ中国に言及したところが、こうなるととても深い意味があったような気がしてきます。

・・・なお、ロシアも含め旧ソ連・東欧圏の労働組合はITUCに加盟していますが、中国共産党支配下の中華全国総工会は(もしそれを労働組合と呼ぶならば、組合員三億人を超える世界最大の労働組合ですが)ITUCに加盟していません。これに対し、台湾の中華民国総工会はITUCに加盟しています。労働組合は国際政治に妙な忖度をしないのです。ちなみに香港の二つの自由な労働組合はITUCに加盟していますが、その運命が心配です。
 というわけでせっかく海老原さんが「マルクスなんてワン・オブ・ゼム」というサブタイトルをつけてくれたにもかかわらず、遂に一冊も取り上げるに至らなかったことの背後には、こういう複雑怪奇な事情があったわけです。お判りいただけましたでしょうか。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年10月 3日 (土)

テレワーク検討会議事録から濱口発言部分

8月17日に開催された第1回これからのテレワークでの働き方に関する検討会の議事録がアップされているようなので、そのうち私が発言している部分を紹介しておきます。初めのところは、おそらく多くの方の頭の整理にちょうど良いのではないかと思います。

https://www.mhlw.go.jp/content/000677489.pdf

〇 濱口委員
濱口でございます。ありがとうございました。特に、小豆川さんのお話は、大変詳細でかつ、私の知らないような細かい事も教えていただいて、非常に勉強になりました。ただ、冒頭の 7 つの時期区分とされたのですが、非常に細かくて、もう少しざっくりとした時期分を紹介したいと思います。
今回新型コロナ危機で世界的にテレワークが注目されていますが、その直前までも、ここ数年来、世界的にテレワークというのが大変注目を集めたトピックになっていました。とりわけ、昨年 2019 年に ILO が「21 世紀におけるテレワーク」という報告書を出していまして、日本、EU、アメリカ、インド、ブラジル、アルゼンチンの実態を調べています。その序章で、メッセンジャーさんという方が、テレワークの進化を3段階に区分されています。これが非常に分かりやすく、かつ、今ものを考える上でも役に立つのではないかと思います。
第1世代は 70 年代末ぐらいから 80 年代にかけての時期です。この頃はだいたいコンピューターはスタンドアローンで、通信機器も電話とファックスでやっていたような時代です。彼はこの時期を「ホームオフィスの時代」と呼んでいます。通勤する代わりに自宅が職場になるという意味で、テレコミューティングとも呼ばれました。次の第 2 世代は、90 年代から 2000 年代の時期です。これは彼は「モバイルオフィスの時代」と呼んでいます。コンピューターはラップトップになり、また携帯電話(モバイルフォン)を使って、家を離れても仕事ができるようになったので「モバイル」なんですが、データはやはりオフィスに集中されていました。それが、2010 年代、とりわけその半ば以降は、彼はそれを第 3 世代と呼ぶのですが、「バーチャルオフィスの時代」になります。スマートフォンやタブレットのように、情報機器と通信機器が完全合体して、どこに居ようが職場や自宅と同じように仕事ができる、同じようなレベルで仕事ができるという時代です。この時代を最もよく言い表すフレーズとして、私が気に入っているのが、少し前の 2017 年に、ILO と EU の労働研究機構が共同で出した研究報告書のタイトルで、「Working Anytime Anywhere」というものです。いつでもどこでも働けます。というすごいタイトルですが、これができるようになったことで、今までの時間的、空間的に限定された場所で、それが職場であろうが自宅であろうが、あるいはサテライトオフィスであろうが、そこで働くのが労働だという、労働法の基本概念自体がガラガラと変わりつつあるという議論をしています。このように、大きく3段階に分けると見通しが良くなるのではないかと思います。そういう意味から言うと、今回の新型コロナ危機というのは、直前まではこの3段階のいわば先端部分が、技術の発達に乗っかる形で、できるところがどんどん先に行くみたいな形で進んでいたのが、むしろそうじゃなかったところに、いきなりロックダウンとか緊急事態宣言により、ステイホームでホームオフィスが強制されたようなところがあります。つまり、テレワークの進化の段階からいうと最先端ではなくむしろやや古いタイプのホームオフィスですが、それが今までテレワークなどしていなかったような人々にまで大量に適用されることで、多くの問題が出てくる。そういう状況ではなかろうかと思うのです。
先程、小豆川さんが言われたような、最近までずっとここのところ、テレワークというのはワークライフバランスに資すると言ってきたわけですが、実際にやってみたらワークライフバランスどころか、むしろワークライフコンフリクトが噴き出してきているという面もあります。あるいは、これはもしかしたら、日本の雇用システムの問題かもしれませんが、仕事の仕方が個人のジョブに切り分けられていないために、テレワークをしようとしたらいろいろトラブルが発生するという話もあります。先程の3段階論で言うと、最先端というよりも少し前の世代のテレワークなのですが、新型コロナ危機によりそれが一気に拡大したことで、雇用システムとしていろいろ問題が起きているとも言えます。そういう意味では、今テレワークを論じるに当たっては、去年まで先端的なところで議論していたような「いつでもどこでも働ける」という話と、世代論的にはむしろ旧世代のテレワークになりますが、強制的に在宅勤務をせざるを得なくなったために今までの働き方との間でいろいろ矛盾が生じているという話との、両にらみのような形で議論していくことが必要であろうと思っています。先程の開催要綱からすると、この検討会はどちらかというとやや後者に重点があるのだろうとは思いますが、一方で最近ワーケーションという言葉もちらちら出てきています。ワーケーションは、ある意味まさしく典型的な working anytime anywhere の表れみたいなところがありますから、それが労働の在り方、労働法とか労使関係の在り方にどう影響するかということも、併せて念頭に置きながら議論していく必要があるのではないかと感じました。 

〇 濱口委員
先程、小西先生が言われたことに、若干補足する話です。今回のこの検討会の対象は、いわゆる雇用型テレワークということになっています。一方に自営型テレワーク、あるいはむしろ雇用類似の働き方といわれる領域もあり、どちらも同じ在宅労働課の所管です。われわれ JILPT はその雇用類似の方も、いろいろな調査をやらせていただいておりまして、それらがごっちゃにならないように区別していかないといけません。ただやはりこの両者は一定の関わりはあるので、その関係を考えておく必要があります。雇用型テレワークであっても、時間的、空間的に離れているために、指揮命令関係が非常に希薄化します。ということは、雇用型テレワークは雇用労働だよと言いながら、雇用労働としての性格がある面で希薄になるということです。これを言い換えますと、いわゆる労働者性の判断基準の中に、指揮命令であるとか、時間的、空間的制約というのがあるのですが、それらがないから、労働者ではないんだという風に、話が裏返しになってしまう、危険性もあるわけです。危険性という言い方をしたのは、雇用労働者であるならば、労働時間規制だけでなく、契約保護とかコスト負担、リスク負担といったような幅広い範囲で、さまざまな保護を受けることができるわけですが、雇用労働者ではないとなってしまったら、そういう様々な保護が全部なくなってしまうわけです。これは両者裏腹なのですね。ですから、雇用を前提としたテレワークについて、どういうルールにしていくべきかを考える際には、常にその裏側では、そのルールに合わないからといって雇用ではないテレワークに追い込んでしまったらどういうことになるのかという点を、常に意識しながら、議論していく必要があるのではないかということです。労働時間規制というのは確かに労働者保護の重要なトピックではありますが、ただ、そこを、先程、風神先生が言われましたが、過度に強調しすぎると、労働者であるならば労働時間規制に服さねばならない、労働時間規制から外れるようなものは労働者ではないということになってしまうと、話が反転してしまい、労働時間規制以外の様々な保護もなくなってしまい、元も子もなくなってしまうという危険性も考えられます。もちろん、この検討会のトピックは、あくまでも雇用型テレワークなのですが、その裏側には非雇用型、自営型テレワークにいつでも変わりうるのだということを、常に念頭に置く必要があると感じております。

この最後のところで出てくる「風神先生」は、昨日紹介した清家篤・風神佐知子『労働経済』の著者のおひとりです。この時はリモートで参加されていたので、直接お目にかかってはいないのですが、この前のところで労働時間規制について発言されていたので、それを受ける形での私の発言でした。

 

 

 

山田孝之がユニオン結成へ!@『女性自身』10月13日号

Joseijishin_20200929 いやこれ、単なる芸能ネタではなく、立派な労働ネタでもあると思うんですが、今のところ取り上げているのは『女性自身』だけのようですね。

https://news.yahoo.co.jp/articles/8db0d02c7b4646e1444ed0bbafb630bdd2c479a3

Yamada 「山田さんは3年前から俳優や監督を守るために奔走してきました。その思いが来年、とうとう形になるそうです……」(芸能プロダクション関係者)・・・

・・・実はそんな彼が今、俳優や監督のためのユニオン結成をくわだてているという。

「日本で映画を製作すると、売り上げの30~40%は映画配給会社のもとに入ります。俳優の場合は固定ギャラですが、短い拘束期間に対してギャラが高額なケースも少なくありません。

いっぽうで監督は長期にわたって製作に関わることがほとんど。にもかかわらず、ギャラが固定給で安いということも多々あるそうです。山田さんは『これでは監督に夢がないよ』と憂いていました」(映画関係者)

最近はなぜか公正取引委員会がフリーランスの味方みたいな感じでしゃしゃり出てくることが多いんですが、諸外国ではやはりこういう時は集団的労使関係の出番というところが結構あります。

日本の風土でどこまでやれるのかやれないのかというところはありますが、せっかくの試みでもあり、先行きを見守りたいと思いますし、他のマスコミも追いかけてほしいですね。

 

 

2020年10月 2日 (金)

清家篤/風神佐知子『労働経済』

12382_ext_01_0 清家篤/風神佐知子『労働経済』(東洋経済)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

https://str.toyokeizai.net/books/9784492396544/

  多くの人々が生活の糧を得ている労働は、企業の利潤や一国の豊かさの源泉にもなっている。この労働に関わる事柄を経済学的に理解し、現実的に起こっている問題を考えてみようという教科書。
 労働経済学の基本的考え方を示す基礎編の第Ⅰ部と,その労働経済学を使って現実の問題を考えてみる応用編の第Ⅱ部という二部構成になっている。
 とくに第Ⅱ部は、少子高齢化時代の女性労働、高齢者雇用、第4次産業革命と労働、非正規雇用と人的資本投資など、いま最もホットなテーマを真正面から扱っており、それらの問題について、経済学的な観点と現実をつきあわせて考えるために最適な書。

清家さんは言わずと知れた労働経済学の大家ですが、風神さんは慶應のその後任者で、はしがきによると、清家さんが2002年に旧『労働経済』を出したときには、まだ慶應商学部の学部生だったそうです。

ということで、ちょうど一世代上と下の二人による労働経済学の教科書ということになりますね。

中身は、第一部はまことにオーソドックスな労働経済学のテキストブックで、例えば第2章の労働供給なども、とても丁寧に無差別曲線を導き出し、」労働供給曲線を導き出しています。

一方第二部は様々な労働政策の場に関与されてきた清家さんらしく、各分野の労働政策を論じています。今回の本の特徴はやはり何といっても第12章の「第4次産業革命と労働」でしょう。ここで、日本では第4次産業革命は少子高齢化と相性が良いと言われている点は、いろいろと議論の種になりますね。

第Ⅰ部 基礎編
 第1章 労働経済学とは何か
 第2章 労働供給
 第3章 労働需要
 第4章 失業
 第5章 賃金
 第6章 労働時間
 第7章 労働市場における情報の役割
第Ⅱ部 応用編
 第8章 経済の構造変化と雇用・労働市場
 第9章 高齢者雇用の経済分析
 第10章 女性雇用の経済分析
 第11章 人的資本投資
 第12章 第4次産業革命と労働
 第13章 労働力のフロー表
 第14章 雇用調整
 第15章 労使関係

 

 

 

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