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2020年5月 9日 (土)

ジョブなきメンバーシップ型公務員制度運用の帰結としてのスレイブ厚労省とポエム経産省

最近の本ブログのエントリで比較的バズったのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-692577.html (若手官僚二題:スレイブ厚労省vsポエム経産省)

と、つい先日の

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-978e1a.html (ジョブなき社会の公務員減らしの帰結)

ですが、実はこの二つのトピックは論理的に密接につながっているんですね。

日本の公務員法制は、終戦直後にGHQの命令でできたときは、職階制というもっとも純粋かつ極端なジョブ型公務員制度として作られたにもかかわらず、その後の運用は民間企業以上に徹底したメンバーシップ型でもって運用されてきたということについては、去る3月に刊行された『季刊労働法』2020年春号に掲載した「職階制-ジョブ型公務員制度の挑戦と挫折」で詳しく論じたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-14393e.html(職階制-ジョブ型公務員制度の挑戦と挫折@『季刊労働法』2020年春号(268号))

この、ジョブなきメンバーシップ型公務員制度運用の世界に、全省庁一律の定員削減という平等主義的負荷がかかると、何が起こるのかという社会的実験を、見事に示してくれているのが、片や「生きながら人生の墓場に入ったと ずっと思っている」スレイブの館厚生労働省であり、もう一方では「半年かけて、若手100人で30年後の未来を議論」できるポエムの館経済産業省であるわけです。

もともと法律上は徹底したジョブ型で作られたはずなので、それぞれの定員は本来その行政需要に応じたジョブの数に対応して設定されていたはずです。

つまり、戦後復興から経済成長の時代、社会の求めるものが何よりも産業、企業の発展であった時代には、鉄鋼業の振興、造船業の振興、自動車産業の振興、電機産業の振興等等々と、旧通商産業省に求められる行政需要は莫大で、それに応じてジョブの数も多く、そのジョブを遂行するべき通産官僚の数もたくさん必要でした。

一方、労働省や厚生省の業務は相対的に量的にも質的にも社会的地位はそれほど高くなく、はっきりいえば経済産業政策の後始末、しりぬぐいだけやってればいいという、どちらかといえば二の次三の次的な位置づけであったため、相対的にジョブの数も少なく、そのジョブを遂行すべき旧厚生・労働官僚の数もそれほど割り当てられませんでした。

始まりの時点ではこれはそれなりに合理的であったといえるでしょう。そして、その後数十年の時代の推移の中で、かつては重要性が高かった産業振興行政の意義が低下し、それに必要なジョブの数が縮小し、他方かつてはそれほど社会的需要が高くなかった厚生・労働関係に必要なジョブの数は、年金、医療、介護、子育て、雇用、労働基準等々と格段に増大したわけですが、その時にはもはや終戦直後に公務員制度が作られたときのジョブ型の理念はきれいに忘れさられており、各省庁は最早その所管する行政需要の総量や必要とされるジョブの数などとは全く関係なく、もっぱらそれら組織を構成するメンバーシップ型構成員の塊とみなされ、総定員法というきわめて平等主義的な拘束のみが課せられるという時代になっていたわけです。

ジョブ型公務員制度がもしその趣旨通りに運用されていたならば、当然社会的に必要性が乏しくなった旧通産省のジョブはバッサリと切られ、その分が社会的に需要の高まった旧厚生・労働省に配分されてしかるべきだったのでしょうが、そういうジョブ型理念は最早誰の脳みその中からもきれいに消え失せていたのでしょう。まさしく、ジョブなきメンバーシップ型官僚制ゆえに、かつての少なかったジョブに対応した人員で膨大なジョブをこなす役所と、かつての膨大なジョブに対応した人員で縮小したジョブをこなす役所という不均衡状態が永続化してしまったわけです。

もひとつ、これはやや言いにくいことですが、かつて旧通産省の行政需要が高くそのジョブが膨大であった時代には、より優秀な学生がそこに入ろうとし、かならずしもそうではない旧厚生・労働省にはかならずしもそうではない学生が行くという傾向がありました。これ自体は自然な現象ですが、その後、前者の行政需要が縮小し、こなさなければならないジョブの数が減った時代になっても、ジョブなきメンバーシップが社会全員の常識となった時代には、通産省、経産省が具体的にどういう行政実務をやっているかやっていないかなどという枝葉末節なことよりも、それこそ世界に関たるノトーリアスMITIという組織の一員となること、そしてそこで天下国家を論じ、未来のビジョンなる美辞麗句に満ちた作文をでっちあげることそれ自体が何よりも自慢であり誇りであるという(本来の公務員法制からすれば)著しく倒錯した発想が誰もに共有され、依然として優秀な学生が(今や必要なジョブは激減した)通産省、経産省に入りたがるという事態がすっと継続したわけです。

かくして、依然として相対的により優秀な学生が経産省のメンバーシップを得て、しかし社会が「さあ、今すぐこれやれあれやれ、何やってんだ」と殴りつけるようなジョブはあまりなく、暇を持て余した優秀な頭脳はポエムに満ちた未来ビジョンの作文にいそしむことになる一方、より実直とはいえかならずしもそれほど優秀とはいえない厚労省のメンバーシップを得た若者は、年々、いや日々増大する社会が求める需要をこなすべき膨大なジョブを少ない人数でやらねばならず、まさに「生きながら人生の墓場に入ったと ずっと思っている」ような状態が恒常化するに至ったわけです。

言うまでもないことながら、これは誰が悪いという話ではありません。誰もかれもがみんな、公務員制度創設時のジョブ型の発想を完璧に忘れ去り、誰もかれもがみんな経産省も厚労省もその他の役所も民間企業も何もかもがメンバーシップ型の組織であり、その組織の風土文化に合った者をメンバーとして受け入れ、当該組織の中でいろんなジョブにぐるぐる回しながらやっていくのであると、何の疑いもなく考えるようになってしまったことの帰結なのです。

 

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コメント

濱口先生にこそ、是非とも公務員(と労働?)に関する本を書いていただきたいです。

厳密に言うと「全省庁一律の定員削減」ではありません。
中央省庁の削減比率は低く、地方支分部局の削減比率は高いのです。
その結果、地方支分部局の職員数の多い厚生労働省は定員削減の割合が若干高いのです。

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