フォト
2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 新型コロナウイルスで瓢箪から駒のフリーランス休業手当@WEB労政時報 | トップページ | 学部廃止を理由とした大学教授らの整理解雇――学校法人大乗淑徳学園事件@『ジュリスト』2020年4月号(No.1543) »

2020年3月24日 (火)

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

418komdsf5l 本田由紀さんの『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。ところで、本田さんの岩波新書の単著って、これが初めてなんですね。もっと前に出ているように感じていましたが。

https://www.iwanami.co.jp/book/b498677.html

なぜ日本はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった。教育が私たちに求めてきたのは、学歴なのか、「生きる力」なのか、それとも「人間力」なのか――能力・資質・態度という言葉に注目し、戦前から現在までの日本の教育言説を分析することで、格差と不安に満ちた社会構造から脱却する道筋を示す。

ただこの本、本田さんがものすごく力を込めて書いていることは伝わってくるのですが、肝心の枠組がぼやけているというかいささかねじれているように感じられ、話がすとんと落ちてこない恨みがあります。

第1章 日本社会の現状――「どんな人」たちが「どんな社会」を作り上げているか
第2章 言葉の磁場――日本の教育の特徴はどのように論じられてきたか
第3章 画一化と序列化の萌芽――明治維新から敗戦まで
第4章 「能力」による支配――戦後から一九八〇年代まで
第5章 ハイパー・メリトクラシーへの道―― 一九八〇~九〇年代
第6章 復活する教化――二〇〇〇年代以降
終 章 出口を探す――水平的な多様性を求めて 

あとがきにもあるように、多くのデータをたくさん盛り込んで主張を立証しようとしているのですが、肝心の理屈立てが頑健に構築されておらず、やや気分めいたもので説得しようとしているきらいもあります。

いや、言いたいことは第1章に「筆者の答をあらかじめ掲げておこう」にまとめられています。日本社会の問題点、とりわけ教育に露呈されるその問題点とは、垂直的序列化と水平的画一化である、と。この議論は本田さん自身むかしから繰り返してきたものですし、私も職業教育訓練政策の推移を分析する中で指摘してきたことです。

そして、それが戦後日本社会で確立するプロセスについても、本書第4章で手際よくまとめられています。

1950年代から1960年代にかけて、(「能力主義」という名の下に)水平的多様化を進めようとしたのは政府や経済界であり、それを目の敵にしたのが進歩派、とりわけ教育学者たちであり、その水平的多様化を敵視する水平的画一化の帰結が単線的な垂直的序列化であった・・・というのは、本書でも引用されているように、かつて乾彰夫さんが鮮烈に指摘したことでした。

その後、政府や経済界は水平的多様化路線をあきらめ、いわば進歩派の掲げる水平的画一化に寄り添うように(これまた「能力主義」の名の下に)単線的な垂直的序列化を進めていきます。高度成長期までの(欧米型社会を目指す)近代化路線が撤回され、1970年代から80年代にかけての日本型システムを高く評価し、「近代を超えて」が高唱される時代になるわけです。ロジックとしては、それは進歩派の勝利なんですよ。皮肉だけど。

ところが本書では、この高度成長期に進歩派が高唱した水平的画一化とは別に、戦前来の「教化」のロジックでもって水平的画一化を描き出します。そしてそれが21世紀以降強まっていると危機感を露わにします。ところが、こちらはイデオロギー的な批判が先に立って、いちばん肝心の、ではそれは高度成長期に進歩派が固執したあの水平的画一化と同じなのか、違うのか、違うとしたらどこが違うのか、というところがぼやけています。私は両者は共通の根を持っていると思いますが、そこをきちんと追及せずに、単に保守派への悪口で済まされているところが、本書のいちばん弱いところだと思います。

この論点は、昨年苅谷剛彦さんが出した『追いついた近代 消えた近代』でも隠れた一つの論点だったと思いますが、とにかく、1963年の経済審議会答申こそが戦後日本の教育訓練政策を考える上での最大エポックであることは間違いありません。

(追記)

著者ご本人によるコメント:

https://twitter.com/hahaguma/status/1242278584468664320

本書における「水平的画一化」とは、全員に「こうであれ」と上位下達的に強制するもので、ここでいわれている「進歩派、とりわけ教育学者たち」がそうしたことを強力に提唱していたかは慎重に検討する必要がある。少なくとも「無限の発達可能性」といった理念とは抵触する。

いや、本田さんがこれまでの「水平的均質化」という用語をあえてやめて、「水平的画一化」という言葉に代えたのは、単に「読者にとってよりイメージしやすい」からだけではなく、(進歩派のいういい意味のコノテーションのある)「均質化」ではなく、(保守派による悪いものというインプリケーションを醸し出す)「画一化」に代えたという面があるのでしょう。そういうイメージ戦略は分かった上で、でもそれって本質的には同じたぐいのものに白っぽいラベルを貼るのと黒っぽいラベルを貼るのの違いに過ぎないんじゃないのかな、と首をかしげているわけです。

https://twitter.com/hahaguma/status/1242280796385247233

このブログで「進歩派、とりわけ教育学者たち」が強力に提唱していた「水平的画一化」として何を念頭に置いているのかを明示してもらえれば、より生産的な議論ができる。「職業学科でなく普通科の高校を」ということだろうか?それも「水平的画一化」とみなしうるとしても、徳目の強要とは性格が違う 

この本のコンテクストで言えばまさに「職業学科でなく普通科の高校を」でしょう。そして、それは少なくとも現象次元では教育勅語の強制といったこととは違うのでしょう。でも、これまでわざわざ「垂直的多様化」と「水平的均質化」というより抽象度の高い概念を使うことで、右翼だの左翼だのといった現象レベルの対立の奥底に潜む日本社会における共通性を摘出しうる論理が、わざとそれを嫌がって放擲されてしまったようにも見えます。世間に通りのよい表層的な対立図式に素直に乗って、下らない敵味方意識に満ちた人々に問い直すような認知的不協和をわざと起こさないようにうまく書き上げてしまったという感が否めません。

 

« 新型コロナウイルスで瓢箪から駒のフリーランス休業手当@WEB労政時報 | トップページ | 学部廃止を理由とした大学教授らの整理解雇――学校法人大乗淑徳学園事件@『ジュリスト』2020年4月号(No.1543) »

コメント

あー、これは本田さんはよくないですね。

今日の教育システムの行き詰まりをもたらしたのが進歩派教育学者たちの路線にあったのは明らかなのにそこをごまかしてしまうというのは無責任極まりないでしょう。

根本的な要因は国民の意志ではあるわけですが。

進歩派が追い求めた「無限の発達可能性」と、国民の中流幻想とが結託したことで今日の事態が生まれた。

水平的な多様化とは結局のところ階級社会の肯定を多かれ少なかれ含まざるをえないのにそこを等閑視するとしたら不誠実限りないでしょう。まさに国民はそれを拒否したのであり、それと進歩派が同調したのである。

そもそも戦前の教育勅語的な建前と立身出世主義的な本音とは表裏一体のものであって、それが日本の対外侵出と無謀な戦争につながったのは明らかである。戦後の進歩派はそれと同様なことを違った形で再演したにすぎない。もちろん国民が望んだことであるが。

何故本田さんはこのような議論に陥るのか

本田さんの
日本社会と教育の〈いま〉 : ハイパー・メリトクラシーからハイパー教化へ.
の末尾
>>戦前の教育勅語は、「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」
するための徳目をすべての国民に植え付ける【教化】
の装置であった。敗戦後において、日本国憲法・教
育基本法の中に「能力」という言葉が新たに織り込
まれたことにより、個々人間の「能力」の差異に基づ
く教育機会や進路選択を掲げる【(日本的)メリトク
ラシー】( 20)の体制が現れた。それは80年代後半以降、
「個性」や「生きる力」などに拡張され、筆者が【ハ
イパー・メリトクラシー】と呼ぶ状態が進行するよう
になった( 21)。そして直近では、これらにさらに追加さ
れる形で、「資質」「態度」という新たな徳目を、「主
体的・対話的で深い学び」や「カリキュラム・マネジ
メント」により再びすべての国民に要請する、いわば
【ハイパー教化】とも呼べるような事態が出来しつつ
ある。
その背景には、他国と比べても特に著しい形で
1990年代以降の日本に噴出している、資本主義の構
造的矛盾が存在すると考えられる。経済の成長が衰
える中で、かろうじて得られる富を一部の企業経営
者らと権力者の癒着により吸い取り、賃金・労働時
間など労働条件の悪化により国民の疲弊と困窮、格
差化が進み、家族の形成・維持さえ危うくなり少子
高齢化が加速したことで政府財政収支はますますバ
ランスを失ってゆく。こうした危機への人々の不満と
怒りを抑えるためには、近隣他国への憎悪と自国へ
の忠誠を煽ることが不可欠であり、そこに向けて学
校や家族を動員する新たな「教化」の策を支配層は
張り巡らしつつある。

ここにはやはり重大な事実誤認が含まれていると言わざるを得ませんね。日本では「かろうじて得られる富を一部の企業経営者らと権力者の癒着により吸い取り」という事態は欧米ほどには進んでいないのであって、「他国と比べても特に著しい形で1990年代以降の日本に噴出している、資本主義の構造的矛盾が存在する」とはいえない。「賃金・労働時間など労働条件の悪化」は国民が享受する安価で便利で快適な消費生活と一体のものである。「政府財政収支はますますバランスを失ってゆく」のは税負担が少ないからであって、特に自営業者などの旧中間層の負担が少なく、自営業者が温存され、ゆえに資本家と厖大な無産労働者との政治的対立という構図が日本では成立しない。だからこそ欧米と比べて日本は格差が少なく政治的に安定しているのであって、アメリカのMMT学者が日本をMMTの成功例と認識するのはあながち間違ってはいない。日本は欧米のようなむきだしの資本主義とはまったく異なる歴史的展開を遂げているのであって、それゆえにこそ欧米とは異なる困難に陥っているのである。ハイパー教化はむしろ一億総中流幻想にしがみつく国民の意志と分かちがたく結びついていると考えるべきであろう。支配層と国民との対立という教条的な左翼図式が日本では成り立ちがたいのであって、これに囚われた議論は明後日の方向に行くしかないでしょう。

濱口先生と全く同じ感想です。私はこれまでの本田先生の研究から多くの影響を受けていますが、最近の本田先生は、ツイッター上で現政権に打撃を与えるような内容であれば真偽不明な質の低い情報でも積極的に拡散し、子どもじみた陰謀論を披瀝することを我慢できなくなっています。それでもツイッターは言論活動としてあえて戦略的に振る舞われているのかなと考えることにしていましたが、今回の岩波新書を読むと、本職の研究の質にも悪い影響を与えてしまっていることが如実に出ていて、非常に残念な気分です。もちろんこれまで通り勉強になる部分も多いのですが、政治や教育行政の動きばかりで学校教育の現場がリアルに浮かんでくるような叙述がほとんどなく、本田先生の究極的な関心は教育や労働ではなく政治や政局なのか、という印象は拭えませんでした。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新型コロナウイルスで瓢箪から駒のフリーランス休業手当@WEB労政時報 | トップページ | 学部廃止を理由とした大学教授らの整理解雇――学校法人大乗淑徳学園事件@『ジュリスト』2020年4月号(No.1543) »