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2020年3月 5日 (木)

内田良他『迷走する教員の働き方改革』

498531 内田良・広田照幸・高橋哲・嶋崎量・斉藤ひでみ『迷走する教員の働き方改革 変形労働時間制を考える』(岩波ブックレット)をお送りいただきました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b498531.html

2021年度より公立学校教員への導入が可能になった「1年単位の変形労働時間制」。この制度は教員の多忙化解消につながらないどころか、さらに多忙化を進展させる可能性すら含んでいる。本書では、学校がおかれている実情や法制度を踏まえつつ、この制度の持つ問題点について、現場教員を含む様々な視点から論じる。・・・

学校教師、正確に言えば地方公務員たる公立学校教員の労働時間制度の問題については、私も関心を持ち、本ブログでも何回か取り上げてきました。その意味では、まことに時宜に適した書と褒めるべきなのかも知れません。

でも、正直言うと、問題の本質が何よりも給特法に、より正確に言えば、超勤4項目以外の残業は教師が好き勝手にやってんだから時間外労働に非ずなどという、公立学校の世界を一歩出たら絶対に通用しない訳の分からない理屈が堂々とまかり通っている点にこそあるのであって、昨年の改正で導入された1年単位の変形労働時間制が諸悪の根源みたいな本の作りはいかがなものかと思わざるを得ません。だって、(労使協定じゃないとかいくつか問題点はあるとはいえ)変形労働時間制自体は公立学校という特殊空間以外の普通の労働者の世界でも普通に行われているものですからね。

世間に出たら絶対に通用しない代物と、世間でもわりと普通に通用している代物を、前者は公立学校では今まで常識であったけれども、後者は今まで存在していなかったからなどという特殊空間的感覚で、そっちばかり叩いているような本の作りをしているようでは、正直あまり評価できません。きついようだけど、それが正直な感想です。

とはいえ、この本なかなか有用です。特に、第2章の広田さんの給特法の起源を解説したところと、第3章の髙橋さんの給特法の矛盾を摘出しているところは、この問題を端的に分かりやすく解説していて、是非世に広めたいですね。

第2章 なぜ、このような働き方になってしまったのか――給特法の起源と改革の迷走 広田照幸
1 給特法の成立過程――ボタンの掛けちがい
2 三十年以上にわたる教育改革疲れ――業務の水膨れ
3 広がる教員の業務範囲
4 上に弱く、下に強い文科省の構造
5 学び続ける教員であるために

第3章 給特法という法制度とその矛盾 髙橋哲
はじめに
1 勤務時間管理の基本ルール
2 給特法の法的特徴
3 文科省の示す労働時間概念の問題
4 給特法下での三六協定の可能性
おわりに:給特法問題のあるべき「出口」 

972 せっかくなので、ついでに広田さんが最近編著で出された本についても言及しておきますね。

それは、広田照幸編『歴史としての日教組』(上巻)(下巻)(名古屋大学出版会)です。

https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0972-0.html

973 これも、正直言って大変失望しました。なぜって、この上下2巻を通じて、日教組という団体はほとんどもっぱら路線対立に明け暮れる政治団体みたいに描かれていて、それこそ、このブックレットで取り上げている学校教師の超勤問題への取組みや、あるいは『働く女子の運命』で取り上げた女性教師の育児休業問題といった、まさに労働者としての教師の労働組合たる所以の活動領域がすっぽりと抜け落ちてしまっているからです。いやいや、日教組って、ちゃんと教師は労働者であると主張して、その労働条件を守るべく(法律の制約の中で)闘ってきた労働組合なんですよ。そんじょそこらの政治スローガンをわめいているだけのイデオロギー団体ではないのです。

上巻の最後に、広田さんが「「日教組=共産党支配」像の誤り」を論じているんですが、いやそんな「ニッキョーソ!、ニッキョーソ!」みたいな噺じゃなくって、もっと大事な話があるんじゃないかと、読みながら何遍も思いましたよ。

なんだか話が散乱してしまいましたが、給特法の問題をざっと頭に入れるには手ごろな本であるのは確かなので、本屋さんで見かけたら是非。

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コメント

逆に言えば超勤4項目というのは、本来専門職である教師のジョブの内容を明示している、ほとんど唯一の規定とも言えそうですからね。
それ以外の部活だのは勝手に現場の暴走でやってることだから金は出せんというのは使用者である国民の立場からは至極まっとうな理屈ではあります。
専門職のはずなのに総合職のような年功賃金の恩恵を受けて、それを正当化するために勝手に仕事を増やして、あまつさえ残業代まで毟り取ろうとはふてえ了見だ、という見方もできるわけです。

教員の働き方改革については、何よりもまず学校が果たすべき機能を整理して、それに応じてさまざまな専門職を配置し、仕事と責任の範囲を明確にし、マネジメント層を教師から人事ライン上分離してきちんと育て、彼らにしかるべき権限と待遇を与え、全職員に対して責任と負担の重さに応じたメリハリのある賃金構造を適用することが大前提でしょう。教師を単なる専門職として位置づけ、学校を教師たちの独立王国から解放し、機能的な組織として再編成することが必要です。
文科省は「チーム学校」といってるようですが、むしろ権限と責任を明確化した「組織学校」を目指すべきです。

しかし日教組が、そのような組織マネジメントを学校に導入することに反対し、教師たちの独立王国を維持することを一つの運動の柱にしていたのは否定できない事実でしょう。

それは根本的には教師が自分たちを単なる労働者と観念することを拒否してきたことの結果であって、現在の学校現場の惨状は自業自得の面があることをまず教師たちが自覚すべきです。

いやいや、使用者は教育委員会でしょ。
というか、ある意味親に代表される国民の方がはるかに学校メンバーシップ型の教員像を要求し、学校側がそれに必死で答えてきたわけで。
学校の部活を学童保育代わりに便利遣いしてきた「使用者」さまはそのコストを払う必要があるでしょうね。

そういうありかたが、そもそも近代社会における学校というシステムとしてどうなのか、という問題は、まあその先の問題でしょう。

平成23年7月12日最高裁判決(京都市教組超勤事件)から引用します。

 (1) 前記事実関係によれば、本件期間中、被上告人らはいずれも勤務時間外に職務に関連する事務等に従事していたが、勤務校における上司である各校長は、被上告人らに対して時間外勤務を命じたことはない上、被上告人らの授業の内容や進め方、学級の運営等を含めて個別の事柄について具体的な指示をしたこともなかったというのである。そうすると、勤務校の各校長が被上告人らに対して明示的に時間外勤務を命じてはいないことは明らかであるし、また、黙示的に時間外勤務を命じたと認めることもできず、他にこれを認めるに足りる事情もうかがわれない。
 したがって、勤務校の各校長は、本件期間中、教育職員に原則として時間外勤務をさせないものとしている給特法及び給与条例に違反して被上告人らに時間外勤務をさせたということはできないから、上記各校長の行為が、国家賠償法1条1項の適用上、給特法及び給与条例との関係で違法の評価を受けるものではない。
 (2) 使用者は、その雇用する労働者に従事させる業務を定めてこれを管理するに際し、業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務を負うと解するのが相当であり、使用者に代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う権限を有する者は、使用者の上記注意義務の内容に従ってその権限を行使すべきものである(最高裁平成10年(オ)第217号、第218号同12年3月24日第二小法廷判決・民集54巻3号1155頁参照)。この理は、地方公共団体とその設置する学校に勤務する地方公務員との間においても別異に解すべき理由はないから、以下、この見地に立って検討する。
 前記事実関係によれば、被上告人らは、本件期間中、いずれも勤務時間外にその職務に関連する事務等に従事していたというのであるが、上記(1)のとおり、これは時間外勤務命令に基づくものではなく、被上告人らは強制によらずに各自が職務の性質や状況に応じて自主的に上記事務等に従事していたものというべきであるし、その中には自宅を含め勤務校以外の場所で行っていたものも少なくない。他方、原審は、被上告人らは上記事務等により強度のストレスによる精神的苦痛を被ったことが推認されるというけれども、本件期間中又はその後において、外部から認識し得る具体的な健康被害又はその徴候が被上告人らに生じていたとの事実は認定されておらず、記録上もうかがうことができない。したがって、仮に原審のいう強度のストレスが健康状態の悪化につながり得るものであったとしても、勤務校の各校長が被上告人らについてそのようなストレスによる健康状態の変化を認識し又は予見することは困難な状況にあったというほかない。これらの事情に鑑みると、本件期間中、被上告人らの勤務校の上司である各校長において、被上告人らの職務の負担を軽減させるための特段の措置を採らなかったとしても、被上告人らの心身の健康を損なうことがないよう注意すべき上記の義務に違反した過失があるということはできない。

>いやいや、使用者は教育委員会でしょ。
というか、ある意味親に代表される国民の方がはるかに学校メンバーシップ型の教員像を要求し、学校側がそれに必死で答えてきたわけで。
学校の部活を学童保育代わりに便利遣いしてきた「使用者」さまはそのコストを払う必要があるでしょうね。

逆にいえばコストを十分に払う気がない「使用者」に対して、労働者であるならば、ノーペイノーワークを主張すべきです。これは自分たちの仕事にあらずと放棄すればよかった。しかし、教師側に自らを単なる労働者と規定することへの忌避があったゆえに、ずるずると事態が悪化しつづけた側面はあったでしょう。
そして直接の使用者である教育委員会は教師上がりの人間が支配しているわけで、欧米と比べて教師の賃金が高い日本において、この状況で残業代を出すのはお手盛り感があるのは否めないところです。

この構図は従業員上がりの経営者が支配するメンバーシップ型雇用の日本企業と株主の関係に相似的ではあります。

学校メンバーシップ型の教員像を要求したのが、教師側なのか国民側なのかは、卵が先か鶏が先かといった水掛け論になるでしょうが、戦後の教育史を眺めると初期には教師の側にイニシアティヴがあったことは否定できないでしょう。まあ、その後国民の側がそこに付け込んだということになるでしょうが。

部活については単線型の教育システムのまま高校全入化したということの結末でしょうね。アカデミックな勉強になじまない、やっても期待リターンが低い層が高校に吸収されて、当然ながら彼らは不満を高めた。かつての校内暴力の嵐はその結果でしょう。部活は彼らをコントロールして学校秩序に同化するための管理技術として発達した現場の工夫でしょうね。制度の弊害を現場レベルで解決してしまったのが仇となった。メンバーシップ型の教員ゆえに可能となったことではある。

まあ、事態がここまできた以上、給特法を廃止して実際の教育コストを白日のもとにさらすというのも意味のあることでしょう。そこからようやく学校のはたすべき機能とは何かという議論が始まるかもしれない。国民がそんなに沢山のコストは払いたくないというなら仕方がない。教師も労働者として払いの分しか働きませんというべきでしょう。結果として欧米のように地域の治安が悪化しても、それは民主主義の結末というしかない。

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