橘木俊詔『日本の経済学史』
個人的には、戦前の社会政策学会とか戦後の労働経済学に関する記述をみたいと思って読み出したのですが、労働経済学はほとんど取り上げられておらず、むしろ近年のマルクス経済学の衰退に関する部分の叙述がなかなか面白くて、ちょっと紹介しておきます。
まずはこれ。本ブログでも繰り返し取り上げてきたレリバンスのない学問の学生を採用してきた日本企業の話。
一昔前はマルクス経済学を専攻する学生は多かったのに、なぜ企業はそういう学生を採用してきたかといえば、特に事務系の社員に関しては、学生の頃は何を勉強しようがお構いなしの雰囲気が企業で強かったからである。やや誇張すれば、何も勉強をしておく必要はなく、適当な頭の良さと一生懸命頑張る元気さがあればそれで十分とみなしてきた。企業人としての訓練は入社後にしっかり行うという人事政策を採用していたのである。しかもたとえ経済学部でマルクス経済学を勉強した学生であっても、入社後に過激な労働運動や反資本主義的な行動をする人はほとんどおらず、入社後は猛烈なサラリーマンになる人が大半であった。・・・
これね、よく文学部が槍玉に挙がるんだけど、実は経済学部だって、企業が大学で勉強してきたことになんの期待もしていないという点ではなんら変わらない、という話も、昔のエントリで取り上げたことがあります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)
・・・・哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。
なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。
・・・・経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。・・・・
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html (経済学部の職業的レリバンス)
・・・・ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。・・・・
で、実はこのブログの台詞が、そっくりそのまま橘木さんの本に載ってます。いや今回のじゃなくて、6年前の『ニッポンの経済学部』(中公新書ラクレ)って本ですが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-2b50.html (橘木俊詔『ニッポンの経済学部』)
・・・この図表4をもとに、濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)は「『大学で学んだことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる』的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、『忘れていい』いやそれどころか『勉強してこなくてもいい』経済学を教える」と鋭く指摘しています(濱口氏のブログより)。
拙著の一部が本や論文に引用されることは結構ありますが、さすがに本ブログの記述がそのまま橘木さんの本に引用されるとは思ってませんでした。いやいや。・・・
「ネコ文Ⅱ」が近経やろうがマル経やろうが変わりはねえだろ、ってか。
ただ、とはいえ、ソ連はじめ共産圏の崩壊で、わざわざマル経を勉強しようという学生はいなくなります。
ところが世界において社会主義ないしマルクス主義が崩壊する姿を学生が見るにつけ、大学でマルクス経済学を勉強しても意味ないなと思うようになり、既に述べたように学生はマルクス経済学の諸科目を受講しなくなり、ゼミの教授としてもマルクス経済学者を選ばなくなったのである。一言で述べれば、マルクス経済学の人気の凋落と近代経済学のそれの急騰である。大学教員としてマルクス経済学者の余剰感が高まり、大学がそれらの人の数を減らして、近代経済学者を増加させようとする時代になったのである。
ところが、そこはジョブ型じゃなくってメンバーシップ型の日本社会なので、こういうやり方になります。なお橘木さんは国立と私立を対比させていますが、そこはかなりミスリーディングで、いや私立大学だって、マル経を理由に解雇したところなんてないはずです。
国立大学では公務員としての身分保障があったので、マルクス経済学者の解雇をするようなことはなく、そういう人が定年退職したときの補充、そして新規採用を近代経済学者に特化するようになった。私立大学では、国立大学よりも自由なので、この政策をより強固に行った。特に当時は私立大学の創設が目立った時代であり、新規採用者のほとんどが近代経済学者であった。・・・
マル経のおじさんの定年退職を待って若い近経の研究者を採用したということに変わりはないんでしょう。私立大学だってどっぷりメンバーシップ型ですから。
これに対して、これは読んでびっくりしましたが、東西統一したドイツでは凄いことをやったようです。
東ドイツの大学ではマルクス経済学が研究・教育されていたのであり、統一後これを信じる経済学者の処遇に関して、想像を絶することが発生した。ドイツ政府はマルクス経済学者に対してマルクス主義を放棄しない限り、大学で再雇用しないと決定したのである。ドイツではほとんどが州立大学なので、地方公務員という姿での採用であり、公務員を政治と経済の信条で差別する方策なのである。個々の経済学者の対応は、マルクスを捨てて我々のいう近代経済学に転向した人、自己の心情に忠実でいたいため、再雇用されることを嫌って他の職業を選択した人など、様々であった。中には工場労働者やタクシー運転手になった人もかなりいた。
ふむ、これはどう見ても思想信条による雇用差別ですが、それが正当とされたのは、国や公共団体は傾向経営(テンデンツ・ベトリープ)でらって、特定の思想信条を排斥することが許される組織であるということなのでしょうか。ドイツ法に詳しい人の解説が欲しいところです。
それまで極めて潤沢に存在したマルクス経済学の教授という雇用機会が、ドイツ統一によって一気に消滅したので、当該ジョブの喪失による整理解雇だというのなら、それはよく理解できるのですが。
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