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2020年2月11日 (火)

新書の読者はおじさんなんだから、男女平等の話なんて読まされたくないですよ

5e4086222400003100c1dd78 ハフポストというネットメディアで、高崎順子さんという方が西村博之さんという方にインタビューしている「ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか?」という記事があって、なんとはなしにぼんやりと読んでいたのですが、

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e3cb7f5c5b6b70886fd0627

その中で、高崎さんがこう言うことを言っていたので、思わず「へえ」とつぶやいてしまいました。

髙崎:思い出したんですが、2016年に少子化関係の新書(『フランスはどう少子化を克服したか』)を出版した後、新書編集部に男女平等の企画を提案したことがあったんですよね。
でもけんもほろろで、「新書の読者はおじさんなんだから、男女平等の話なんて読まされたくないですよ」と。なるほど〜!と。 

51h3lh2bfal_sx312_bo1204203200_ その前の年に文春新書で『働く女子の運命』を出してたんですが、結構それなりに売れているんですが。

26184472_1_20200211141601 むしろ、その前の年にちくま新書から『日本の雇用と中高年』ていう、まさに働く and/or 働かないおじさんをテーマにした本を出してんですが、こっちが実に売れ行きが悪い。

Chuko_20200211141701 そのまた前に中公新書から出した『若者と労働』は売れ行きが良かっただけに、どうも新書の読者たるおじさんは他人事を扱った本なら安心して読むけれども、自分らのことをあからさまに書かれると拒否反応を示すようですね。

まあ、私の書いた本という狭い範囲で判断する限りではありますが、「新書の読者はおじさんなんだから」といって、おじさん自身の姿を描き出してしまうと嫌がられるようです。

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コメント

性的魅力をもう少し一般化した概念でいえば「官能」って言葉になりますかね。
実は、本ブログではかつて(はるか昔)そのあたりをめぐってあれこれ論じたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_384b.html">http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_384b.html

労務屋さんの「新卒採用は官能的な要素」という言葉に、本田先生が大変カチンときたということのようであります。・・・・専門性で人間を測るのではなく、俺たちが一から教えるのにふさわしい奴かどうかを見るのですから、そりゃあ「官能的」になるでしょう。
企業側が、職業を蔑視する教育界の我が儘に適応した結果が、この本田先生の言う「職業レリバンスの欠如」なのですから、この因果関係自体について今さら企業を責めてみても始まりません。教育界の自業自得であり、ツケが回ったのです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html">http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。
一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

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この、就職と結婚のアナロジーから窺えるように、「官能性」重視の根源にあるのは、ジョブ型かメンバーシップ型かという雇用システムのあり方であるわけで、新卒一括採用というのはその一つの現れに過ぎません。
それはさらに、本田先生が繰り返し指摘されるように、雇用システムだけでなく、メンバーシップ型雇用システムと相補的な職業レリバンスの希薄な教育システムとも対応しているわけです。「官能性」だけを目の敵にして済むものではありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-074f.html">http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-074f.html

皮肉なことに、「仕事に直接関係しないこと」を会社が学生に聞くな、調べるな、と(それだけとれば、徹底した職業レリバンス論を主張しているとしか思えぬことを)言っているその舌の根も乾かぬうちに、大学は「仕事に直接関係しないこと」を教えるんだ、キリッ、という徹底して反職業レリバンス論を唱えて、その矛盾に気がついていそうにないというあたりに、日本の人文社会科学系の学問をしている人々の知的インテグリティの希薄さが感じられないでもありません。
言うまでもなくこれは、どちらが正しいとか間違っているとかという議論とは関係ありません。どちらにもそれぞれメリットもあればデメリットもある。ただ、ある立場を取ってそのメリットを称揚するならば、それが論理必然的に随伴するデメリットについても、率直に認めるのは最低限の知的誠実性ではありましょう。
企業がメンバーシップ型の「官能性」に基づく採用をしてくれているおかげで、「仕事に直接関係しないこと」を教えるという大量の雇用機会を享受し得ている人文社会科学系の大学教師の方々が、そのことの論理必然的コロラリーである「仕事に直接関係しないこと」ばかりを企業が気にして調べたがることを批判するというのは、控えめに言っても天に唾する行為と言うべきでしょうし、人文社会科学系の学問をすることの最低限の意味があるとすれば、そういう内在的矛盾に対する鋭い感覚を養うことくらいではないかと思ったりもするのですが、まあこれも余計なことかも知れません。


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