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« 新書の読者はおじさんなんだから、男女平等の話なんて読まされたくないですよ | トップページ | 第二東京弁護士会労働問題検討委員会『労働事件ハンドブック追補 働き方改革関連法その他重要改正のポイント』 »

2020年2月11日 (火)

アセモグル&ロビンソン『自由の命運』(上・下)

5185txfompl_sx342_bo1204203200_ 今本屋に平積みされているアセモグル&ロビンソン『自由の命運』(上・下)は、前著『国家はなぜ衰退するのか』の足らざるところを相当程度補ってくれる本ではありました。とりわけ、ホッブズが描いたそもそも怪物を必然たらしめる「不在のリヴァイアサン」と、その怪物に振り回される「専横のリヴァイアサン」のはざまの「狭い回廊」としての「足枷のリヴァイアサン」という図式は、正直言うと政治思想史の常識だよな、という気持ちもありつつ、こういう形できれいに図式化してくれると、大変わかりやすいよなと思うし、とりわけある種の経済学に凝り固まってしまった人が、そもそもの「不在のリヴァイアサン」の悲惨さに対する想像力が見事に欠落してしまっていた経験(後述の過去エントリ参照)からすると、一般向けの経済学の教科書を書いている名の通った経済学者がこういう本で啓もうしてくれるのは大変いいことだと思ったところです。

多分、新型コロナウイルスを目の当たりにしている読者からすると、上巻最後の第7章「天命」で描かれる中国の「専横のリヴァイアサン」がこれからどうなるかが興味深いところだと思います。

・・・これまでのところ、高度経済成長のおかげで問題は生じず、中国国家は膨大な新しいインフラを建設することができている。だが経済成長が鈍化したらどうなるのか?共産党は持続的な経済成長と道徳的リーダーシップを、その支配の正当性の根拠としてきた。現在の共産党最高指導者である習近平主席は、前に見た孔子の言葉を引いて、自身を北極星にたとえることを好んでいる。だが状況は変わりうる。特に、習近平と中国指導部が当然のものとしてきた、人民の敬意が得られなくなるようなことがあればなおさらだ。・・・

とはいえ、そこは誰もが注目すると思うので、ここでは(解説で稲葉振一郎氏も注目している)スウェーデン型「足枷のリヴァイアサン」への褒め文句を。足枷のリヴァイアサンってのは、国家も強く、社会も強く、両者ががっぷりよつで取っ組み合ってうまくバランスが取れている状態のことですが、そのバランスの取れ方にも、アメリカ型よりもスウェーデン型の方がメリットがあるというんですな。

51sdewzcqsl_sx342_bo1204203200_ いわゆる普通の経済学者の議論と一線を画すアセモグル流の議論とは:

・・・第3の重要な教訓は、政府介入の形態に関するものだ。この点で私たちの考えは、ハイエクや経済学の教科書的回答とは一線を画する。彼らの主張は、市場価格への介入はつねに避けることが賢明で、政府がより公平な所得分配を目指すならば、市場を自由に機能させ、課税による再分配を通じて望ましい分配に近づけるべきだというものだ。。だがこの考え方は、経済を政治から誤って分離してしまう。リヴァイアサンが市場価格と所得分配を所与とみなし、財政による再分配だけに頼って目的を達成しようとすると、税金と再分配の水準が非常に高くなる恐れがある。とくにリヴァイアサンの制御という見地からすれば、市場価格を調整して、さほど財政再分配を行わずに目標を達成できるのなら、そのほうがよくないだろうか?まさにこれがスウェーデンの福祉国家が行ったことだ。社会民主連合は、労働組合と国家官僚機構が労働市場を直接規制するという、コーポラティスト・モデルを土台にして作られた。これにより労働者の賃金水準が上がったため、資本家や企業の収益を労働者に再分配する必要性が薄れた。また、このモデルのもたらした賃金圧縮により、労働者間の所得分配がより公平になったため、課税による再分配の必要性が低下した。・・・国家はこの仕組みによって、賃上げと圧縮を確実にもたらし、規制されない市場行動の結果から離れることにより、さらに高水準の財政再分配と課税が必要になる状況を回避したのだ。そして財政の役割が縮小したおかげで、国家の抑制はより実行しやすい目標となった。

・・・・ここでもスウェーデンの経験を参考にすると、税金と再分配政策だけに頼って目標を追求するのは間違いだといえる。むしろ、労働者が労働協約や最低賃金制度、その他の賃上げ政策に参加する機会を拡大するなどして、経済成長の利益がより公平に分配された状態を直接的にもたらすような労働市場制度を設計することが望ましい。このような政策は国家の負担を減らす(またその結果として国家を御しやすくする)と同時に、制度の維持を支持する幅広い連合を築くのにも役立つはずだ。

ほかの方ならこういう箇所を引用しないかもしれませんが、本ブログとしてはここを強調したいところでした。

さて、上述のある種の経済学に凝り固まってしまった人が、そもそもの「不在のリヴァイアサン」の悲惨さに対する想像力が見事に欠落してしまっていた経験ですが、その昔、蔵研也さんというリバタリアンな方の発言をめぐって、こういうことを縷々書いたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html (警察を民営化したらやくざである)


リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

(警備業務実施の基本原則)

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html (それは「やくざ」の定義次第)


松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , , 国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

(注釈)「辺境最深部に向かって退却せよ! 」はゲバリスタ太田龍の著書、「すべての犯罪は革命的である! 」は平岡正明の著書。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html (アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。


http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html (人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)


typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-57fb.html (蔵研也さんの省察)


本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

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コメント

というか、そもそも「警察の民営化」という言葉で彼らが思い浮かべている状態っていうのが
 
    武器の所有と使用において、警察と一般人を区別するな
 
って話でしょ。例えば、現状、銃の所持は警察は認められて、民間は認められていないとか、そういう状況に反対しているだけでしょ。(でも、猟銃の所持は一定の条件下で認められてはいますね。警察も武器の使用については強い制約にあります。)
あるいは、警察業務の一部を民間に発注してもいいじゃないか、とか、そういう話であって、具体的なとこを見てみると、原理的に特異な主張は含まれてはいないようです。
「裁判所は逮捕状の無料自販機だ」(何で警察だけに人間を拘束することを簡単に認めるんだ!)と正当に批判している人達とあんまり変わらない訳です。

>法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

裁判所は法律に基づいて、人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定します。
その意味で、裁判所は法律(立法機関)の下部装置だと思います。


>したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

裁判所より上位にある法律(立法機関)を民間営利企業として運営すると次の様になるのでしょうか?
予定した出張が急に中止になり帰宅したら妻が不貞を行っていたので妻と相手の男を成敗した夫が、
  私が契約している葵立法株式会社の法律では、夫は不貞を行った妻と相手を成敗できる
と主張し、成敗された男の遺族が
  彼が契約している石田立法株式会社の法律では、不貞は罪ではない
と主張すれば、桜上水裁判株式会社や豪徳寺裁判株式会社はどう判断すべきでしょうか?
公的業務の民営化でも、水道事業では(個人がそれぞれ運営企業を選ぶ事はできず)地域全体の水道事業を1つの企業が運営します。法律(立法機関)の場合も、個人がそれぞれ運営企業を選ぶと上で述べた問題が起きるので、地域全体の法律(立法機関)を1つの企業が運営し、その企業をその地域の住民の投票で選ぶ事にすれば、立法府の政党(議員)を住民の投票で選ぶ現在のやり方とあまり変わらないような気がします。
一周回って元に戻ったという事でしょうか?

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