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2020年2月

2020年2月28日 (金)

末啓一郎『テレワーク導入の法的アプローチ』

9784818519091_1200 同じく讃井さんよりお送りいただいたのが、末啓一郎『テレワーク導入の法的アプローチ -トラブル回避の留意点と労務管理のポイント-』です。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=564&fl=

折しも、新型コロナウィルスでテレワークだ、リモートワークだと、時ならぬ騒ぎになっていますが、そういうときのためにこそ、日頃からこういう本を準備しておかなければなりませんねえ。

 テレワークの導入が昨今、多くの企業で検討されています。これは、働き方改革を推進する手段のひとつとして政府が推奨していることが、その要因としてあげられます。実際、テレワークを適切に実施すれば、業務効率の向上だけでなく、ワークライフバランスの実現を通じた優秀な人材の確保などの効果があり、企業の競争力向上が期待されます。しかし、やみくもにテレワークを導入しても、業務効率の低減や、労働法規遵守の観点からのコンプライアンスの問題などを引き起こしかねません。また、ひと言でテレワークといっても実は多義的であり、その導入についての理解が人により異なることも考えられます。
 本書は、テレワークとはどのようなものか(テレワークに関する基本知識)を整理し、労働法規の適用を検討したうえで(テレワークについては、労働法規が適用される場合とそれ以外を区分することが重要です)、法律実務家の観点からテレワーク導入で生じる弊害や労使関係上の問題への対処法、業務体制の整備、社内規定や就業規則の整備なども取り上げ、テレワーク導入を効果的に進める方策を詳細にみていくものです。
 テレワークは「時間と場所の柔軟性をはかれる働き方」と言われますが、雇用型の場合には「労働時間の規制」は通常勤務と違いがない中で、どのような問題が生じうるか、またテレワーク関連の訴訟管轄はどうなるのかなど、テレワークに関する種々の法的問題も網羅しています。テレワークの導入を検討している、あるいは検討を始めたい企業はもちろんのこと、すでに実施している企業の担当者や弁護士、社会保険労務士などの専門職にとっても役立つ一冊です。 

さすが経営法曹のベテランらしく、総務省のホームページでテレワークとは「時間や場所を有効に活用できる柔軟な働き方」などと書いてあるのにもきちんと、いや労働時間に関しては通常勤務と違いはないんだよ、離れた場所での勤務がその本質なんだよ、と諭すように説いていきます。

自営型テレワークに対して妙に前のめりなガイドラインの記述に対して、ライバルの日本労働弁護団の意見書を引いて、自営型テレワークの案になど右乳に釘を刺しているのも興味深いところです。

 

 

大久保幸夫『マネジメントスキル実践講座』

9784818519107 例によって経団連出版の讃井暢子さんより、大久保幸夫『マネジメントスキル実践講座ー部下を育て、業績を高める』をおおくりいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=572&fl=

 マネジメントという仕事をやりたくない、管理職になりたくない、と感じている若い世代や女性はとても多いようです。なぜ、これほどに、マネジメントという仕事は嫌われてしまったのでしょうか。「上と下の板挟みで大変そう」「いつも忙しそう」などが理由として指摘されますが、一番大きなポイントは「マネジャーがマネジメントを楽しんでいない」ことが見て取れるからかもしれません。
 今日、マネジメントを学ぶ機会は意外と少なく、多くの管理職は、見よう見まねで試行錯誤しながら、なんとかその職をこなしているのではないでしょうか。うまくできないことは、楽しくありません。そこで本書では、あらためてマネジメントを正面からとらえて整理し、だれもがマネジメントスキルを身につけ実践できるようになること、「マネジメント」の進化をめざして、その方法を詳述しました。
 部下が多様化するダイバーシティ経営の時代、そして仕事の成果だけでなく効率化も求められる時代のマネジメント実践の書としておすすめします。 

まあ、そもそも日本の「管理職」ってのは組織の管理をする専門職として育成されたわけでもなければそういう覚悟を持って採用されたわけでもなく、管理をしない管理職クラスってのもいっぱいいたわけですが、そこをスリム化してちゃんと管理する管理職で固めようとすると、理想と現実の狭間に押しつぶされたりすることになるんでしょうね。

いまさらながら管理職になってしまった人が、そもそも管理職とはどういうことをやる職業なのかを学び直すための本というのも世にいっぱいありますが、妙に勘違いさせかねないものもあり、そこはさすがリクルート出身者の大御所大久保幸夫さんだけあって、ところどころに珠玉の言葉がちりばめられています。

・・・現在の状況を俯瞰すると、旧来の管理業務は、ほとんどがテクノロジーによって自動化されています。

・・・それではマネジメントはなにをすることなのでしょうか。そういう問題意識が私の中に芽生えてきました。

 そこで、これから必要とされる新しいマネジメントの姿やコンセプトというものを考え続け、2018年に提唱したのが、「配慮型マネジメント」というものです。・・・

 

 

2020年2月27日 (木)

『日本労働研究雑誌』2020年2・3月号(No.716)

716_0203 『日本労働研究雑誌』2020年2・3月号(No.716)は、恒例の3年おきの学界展望-労働法理論の現在のほかに、特集として「産業としての就職活動」が組まれています。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2020/02-03/index.html

特集:産業としての就職活動

解題 産業としての就職活動 編集委員会

論文 大学におけるキャリア支援・教育の現在地─ビジネスによる侵蝕、あるいは大学教育の新しいかたち? 児美川孝一郎(法政大学教授)

大学就職部の役割と変遷 大島真夫(東京理科大学講師)

就職情報誌から就職情報サイトへの移行がもたらさなかったもの─大卒者の就職・採用活動における役割をめぐって 香川 めい(大東文化大学専任講師)

紹介 大学新卒採用における労働問題 佐々木亮(旬報法律事務所弁護士)

論文 新卒採用の外部化は何をもたらすのか─2020年新卒採用に関する質問票調査から 西村孝史(首都大学東京准教授)・島貫智行(一橋大学教授

このうち、やはり児美川さんの論文は目配りといい、絶妙なスタンスといい、読むに値します。

現在の大学教育をめぐる風景は、とりわけ就職支援、キャリア支援、キャリア教育をめぐって、かつてのそれとは大きく様変わりしている。本稿では、大学におけるキャリア支援・教育の拡大プロセスを、①就職支援からキャリア支援へ、②キャリア支援からキャリア教育へ、③キャリア支援・教育のユニバーサル段階へ、という三つの時期区分に即して概観し、そうした拡大プロセスへの高等教育政策や人材・教育ビジネスによる影響を跡づける。あわせて、キャリア支援・教育の拡大が、大学側の主体性に基づいてなされたというよりは、主たる要因としては、環境変化への適応と、人材・教育ビジネスが提供するサービスへの大学側の依存によって実現したことを明らかにする。そうした現状をどう見るべきか。一つの見方として、ビジネスによる大学教育への「侵蝕」という視点が成立しうることを示し、実際に、多くの問題点が生じていることを指摘する。同時に、もうひとつの見方として、いびつに発展したキャリア支援・教育のかたちは、そのままでは肯定できないものの、そこには、ユニバーサル段階の大学が、大学教育の再定義を含みつつ、「大学教育の新しいかたち」を構築していく際の「原型」が生まれている可能性があると捉える視点を提示する。 

どの辺が絶妙なスタンスかというと、最後の「Ⅳ 大学教育が抱え込んだ難問」という項で、まずは「ビジネスによる大学教育への「侵蝕」」だ、けしからんというスタンスを紹介し、「確かにいびつであり、問題点の改善への努力が求められるだろう」と言いつつも、「しかし、では、今後の大学教育は、就職支援やキャリア支援・教育には一切手を染めないこととし、人材・教育ビジネスには大学教育の現場からの退出を願えばよいのか」と問うて、その「抗いがたさ」を改めて確認し、大学教育の再定義が必要だと論じていきます。

・・・なぜ再定義が必要なのか。端的に、今日では、これまでの大学教育の定義に沿った教育をしていても事足りるのは、一握りのトップレベルの大学だけだからであり、何が「更新」されるべきかといえば、一握りのトップレベル大学以外においては、大学教育の機能(役割)の拡張が必要なのである。・・・

・・・では、この15年、日本の大学は、そうした意味での大学教育の再定義と更新に成功してきたのか。・・・全体としてみた場合、変化への動きは遅々としか進んでこなかったのではないか。そうした中で、キャリア支援・教育の領域は、極めて例外的に、改革が急ピッチで進んだジャンルであると見ることができるだろう。・・・その改革の内実は、既に述べたように、相当にいびつなかたちで、問題点を含むものではあったのだが。・・・

かつて本ブログでからかった内田樹氏に典型的なけしからん型の反応ではどうしようもないよ、大学教育自体を再定義し、それに基づいて、今の人材・教育ビジネスに引きずられすぎたいびつなキャリア支援・教育をまっとうなものにしていくしか道はないんだよ、ということを、丁寧に説明していきます。

・・・そうした取組への努力を忌み嫌い、ただただビジネスによるキャリア支援・教育への「侵蝕」を呪っているだけでは、負け犬の遠吠えといわれても仕方がないのではないか。呪いだけでは、現状の問題点はいっこうに解消していかない。・・・

この最後の「呪い」という言葉で、やはりこれを思い出しましたがな。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html (「就活に喝」という内田樹に喝)

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。・・・

・・・哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。 

 

 

 

 

 

2020年2月26日 (水)

権丈善一『ちょっと気になる社会保障 V3』

497397 権丈善一『ちょっと気になる社会保障 V3』(勁草書房)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b497397.html

少子高齢化の進行により改革が迫られる社会保障制度の現状をどのように把握し、未来をどのように設計すべきか。2016年刊行の初版、17年刊行の増補版に、2019年公的年金財政検証結果を加筆するほか、「医師偏在対策と働き方改革」、「適用拡大という社会保険の政治経済学」など新たな知識補給とデータ更新を加えた第3版。  

初版が2016年、増補版が2017年、そして2020年にV3ですぜ、V3。仮面ライダーじゃないけれど。

2020年改正案がそろそろ国会に提出されようという今刊行されるだけに、当然そのあたりのことも書き加えられていますが、初版以来の、というか、学問勿凝以来の、愉快、痛快、奇々怪々の権丈節はますます健在です。

V3用のまえがきに、なぜ権丈さんがここまで懸命に論じ続けるのかを述べた文があります。

・・・年金に関してのここ何年間かの僕の仕事の方針は、「俺がやらなきゃ誰かやるから引き受ける」っでありました。だって、僕が引き受けないと、年金論が別物になってしまうわけなんですね。本当は、「俺がやらなきゃ誰がやる!」とかっこよくいきたいわけですけど、なかなかそうはいかないわけでして。

その「誰かがやる」の「誰か」ってのは、権丈さんいうところの「トンデモ論を唱えていた」「酸っぱい葡萄」の人々で、その酸っぱい葡萄ってのは認知的不協和だという話なんですが、その辺はぜひ本書でどうぞ。

 

 

 

 

 

『Japan Labor Issues』3-4月号

Jli_20200226093401 JILPTの英文誌『Japan Labor Issues』3-4月号は論文特集号で、以下の3論文が載っています。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2020/022-00.pdf

Legal Issues Surrounding Employment-like Working Styles: Disguised Employment and Dependent Self-employment  KAMATA Koichi (Toyo University)
Wage Disparities between Standard and Non-standard Employees: From the Perspective of Human Resource Management  SHIMANUKI Tomoyuki (Hitotsubashi University)
The Latent Structure of the Japanese Labor Market and the Type of Employment: Latent Class Analysis with Finite Mixture Model  SUZUKI Kyoko (The University of Tokyo)

 

労働法の鎌田耕一、労務管理の島貫智行、労働経済の鈴木恭子と、3分野から読みでのある論文が並んでいます。

ちなみに、巻末に次号(5-6月号)の予告が載っていまして、そこにこういう判例評釈が予定されておりますので、もし万一関心のあるような奇特な人がいれば2か月後にどうぞ。

● Judgments and Orders
▷ The Worker Status of Joint Enterprise Cooperative Members :The Workers’ Collective Wadachi Higashi-murayama Case, Tokyo High Court (Jun. 4, 2019) 

 

守屋貴司『人材危機時代の日本の「グローバル人材」の育成とタレントマネジメント』

Unnamed 守屋貴司『人材危機時代の日本の「グローバル人材」の育成とタレントマネジメント 「見捨てられる日本・日本企業」からの脱却の処方箋』(晃洋書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.koyoshobo.co.jp/book/b497285.html

少子高齢化が進む日本で, 優秀な人材を確保、定着させ続けるにはどうしたらよいのだろうか? 優秀な外国人材の誘致がその一つの解決策となるかもしれない. 本書では, 国境や国籍に縛られずに, 自由に才能を活かして活躍する「グローバル人材」をいかに呼び寄せ, 活かしていくか, そのタレントマネジメントについてまとめた一冊である. 

というわけで、タレントマネジメントといっても、芸能事務所が所属芸能人をいかにマネージするか、という噺ではありません。

副題にある「見捨てられる日本・日本企業」というのが守屋さんの問題意識であるようです。

 

2020年2月25日 (火)

『ビジネス・レーバー・トレンド』3月号

202003 『ビジネス・レーバー・トレンド』3月号は「女性の活躍促進」が特集です。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2020/03/index.html

巻頭には、昨年11月5日の労働政策フォーラムの報告とディスカッションの記録が載っています。

労働政策フォーラム 女性のキャリア形成を考える――就業形態・継続就業をめぐる課題と展望
【基調講演】女性活用「短時間正社員」の重要性
脇坂 明学習院大学経済学部 教授
【研究報告】育児期女性の職業中断――子育て世帯全国調査から
周燕飛JILPT主任研究員
【事例報告1】女性のキャリア形成を考える
斉之平 伸一三州製菓株式会社 代表取締役社長
【事例報告2】女性の活躍支援に向けた当社の取り組み
村上 治也明治安田生命保険相互会社 人事部ダイバーシティ推進室主席スタッフ
【事例報告3】
女性のためのスマートキャリアプログラム――女性の仕事復帰・キャリアアップを支援
小川 智由明治大学商学部教授
【パネルディスカッション】
コーディネータ濱口 桂一郎 JILPT研究所長  

Blt03

これの読みどころは、パネルディスカッションで、司会の私が明治安田生命の村上さんにこう聞いて、

村上さんには、明治安田生命の女性管理職比率について伺いたいと思います。多くの日本企業は遅い選抜を行っていて、それは女性管理職比率を上げたくても、仕込んでから大分時間がかかることを意味します。他方、明治安田生命ではシート1(P46・当社の女性管理職比率推移および目標)にあるように、非常に早いスピードで女性管理職の比率が上がっています。これは、どのように実現されたのですか。

これに答えた村上さんの発言がなかなかすごいものでした。

社内FA制度について、女性の応募者について分析したところ、子どもの年齢が18歳もしくは22歳の女性の応募者が非常に多いという共通点があることに気付きました。子どもが手離れしてから管理職になろうと思った人がとても多かったのです。

この「遅い昇進」ならぬ「超遅い昇進」には、聴衆の皆さんもびっくりされていました。労務屋さんも、御自分のブログにこう書かれています。

https://roumuya.hatenablog.com/entry/2019/11/06/171533 (JILPT労働政策フォーラム「女性のキャリア形成を考える」 )

 

 

 

雇用によらない高年齢者就業確保措置@WEB労政時報

WEB労政時報に「雇用によらない高年齢者就業確保措置」を寄稿しました。

 

去る2月4日、厚生労働省は雇用保険法等の改正案と労働基準法の改正案を国会に提出しました。後者は時効の改正だけですが、前者は雇用保険法、労災保険法、労働施策総合推進法など多くの法律の改正が束ねられています。その中で最も注目を集めているのが、高年齢者雇用安定法の改正で、65歳から70歳までの「高年齢者就業確保措置」を努力義務として新たに設けることが中心です。
これは、 ・・・・

2020年2月24日 (月)

日本版O-NET、間もなくスタート

D5437516736000 新型コロナウイルスで政府全体、とりわけ厚生労働省がてんやわんやの状態にある最中ですが、去る2月18日に厚生労働省職業安定局総務課首席職業指導官室からこういうプレスリリースが出されていたようです。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000054375.html (労働市場の「見える化」をめざす 職業情報提供サイト(日本版O-NET)まもなくスタート! )

 本サイトは、約500の職業の解説(動画コンテンツを含む)、求められる知識やスキル等の「数値データ」などを盛り込んだ、総合的な職業情報を提供するものです。
 本サイトにより、職業情報が「見える化」されると、人々は自分に最適な職業を選択することができ、これから必要な「学び」は何かを知ることができます。企業は、求める人材を獲得するために必要な労働市場情報を正確に把握することができます。加えて、キャリアコンサルタント等は、これらの人々に対し、より適確に支援を行うことができます。
 本サイトは、新たな労働市場のインフラとして、外部労働市場におけるマッチング機能を高めていくことが期待されています。 

ここに、慶應義塾大学の大藪毅さんが、このサイトの意義を端的に述べている文章がついています。短いものですので、全文引用しておきましょう。

1.日本は企業内部労働市場がメイン
 日本の労働市場は、一度入社したらその会社の人事ルールによって配置・教育訓練・報酬などが決まる内部労働市場が中心である。戦後の順調な経済成長下、企業成長はそこで働く社員の報酬上昇や昇進につながり、それを長期雇用や年功序列などの雇用・人事慣行が支えていた。
 ところが平成以来、低成長期に入って30年近く、高いはずの日本企業の賃金と労働生産性は、先進国中すでに最低レベル。「まじめに仕事をすれば課長まではいける」という時代も終わった。
 近年の学生のベンチャー志向の高まりも、大企業で働くことが必ずしも魅力的に映らなくなったことが一因だろう。
 これらは、日本企業がながらく自社フレームで物事、特に労働力の最適化を考えてきたため、ドラスティックなグローバル経済の変化と新しい雇用・人材マネジメントの流れへ対応できていない現状を示している。
 しかし過去の成功体験からか、企業はなかなか「自前主義」から切り替えができていないように見える。

2.外部労働市場とのバランス
 労働市場は、基本的に労働需給の調整、つまり「人材」と「仕事」それぞれの価値を基にマッチングさせるプロセスである。外部労働市場は、単なる転職市場ではなく、企業の枠を越えて行われる賃金の価格調整と人材配分のしくみである。これによって、社会レベルの労働取引の適正化と人材の最適配分が同時に図られる。
 また外部労働市場は、企業へ人材配分と報酬適正化を通じ、会社内部での人材の一層の有効活用、つまり労働生産性向上の努力を促し、企業活動全体を活性化させる重要な側面を持つ。
 日本の労働市場はこの外部労働市場機能が弱く、企業内部は外部と連動しないため、伸びない賃金と弱い企業活動が構造的に「低位均衡」してしまい、もう20年以上この状態から抜け出せていない。
 外部労働市場中心の欧米でも、あたりまえだが人材をうまく使っている優良企業の転職率は低い。健全な外部労働市場の存在は元来、企業にとってもプラスであることはもっと認識されてよい。

3.労働情報の「見える化」がもたらすもの
 米国では90年代以降、ITを先頭に新産業の隆興とともに生産性向上がすすみ、その結果賃金水準も継続的に上がっている。それに一役買ったのが、米国のDOT(Dictionary of Occupational Titles:職業辞典)、米国O*NET(※)等、職種別にフォーマット化された労働市場情報を提供する公的インフラであり、政府はこれに長年にわたって積極的に予算と人員を投入してきた歴史がある。
 その情報を用いることによって、個々の人材マッチングが安全化し活発になるだけでなく、各種人材サービス産業も発展してきた。そして何より企業が労働環境とマネジメント力の向上に注力したことが、現在の米国の高い労働生産性につながっている。
 今回の日本版O-NETは「労働市場の見える化」を目指すとされている。それを私なりにかみ砕けば、「仕事の内容」と「人材に求められるもの」を明示化し、それらの相場と動向をリアルタイムに示す、信頼性が高い情報の提供ということになる。
 これによって求人・求職におけるミスマッチを防ぎ、社会的な人材ロスの減少が見込まれる。個人は主体的に学んでキャリアを形成していくことができる。企業にも自社の人材マネジメントの確認とブラッシュアップが期待される。
 従来の企業内部労働市場と労使関係を基本フレームとする日本の労働市場政策には、こういった「社会的視点」がなかった。現在働き方改革・雇用改革が議論されているが、日本の労働市場は、企業レベルの最適化から「社会レベルの最適化」へ舵を切る時期にあるのではないだろうか。 

というのが、現時点での日本版O-NETの過不足ない説明ということになりますが、わたくしの立場からはやはり、労働法政策の歴史という観点からちょっと解説をしておきたいと思います。これはまだこれが厚生労働省内で議論されていた2018年4月にWEB労政時報に寄稿したものですが、ざっと全体的な俯瞰をするには適当ではないかと思います。

 先日ようやく国会に提出に至った働き方改革関連法案の元になったのは、昨年3月の「働き方改革実行計画」ですが、同計画には法案に持ち込まれた労働時間の上限規制や同一労働同一賃金、既に検討が開始されている雇用類似の働き方や兼業・副業といった、誰もが注目する論点のほかに、おそらく少数の関係者しか関心を持たないであろうけれども、日本のこれからの労働市場のあり方という観点からは潜在的にかなりの重要性を秘めている項目がさりげなく入っています。その一つが「転職・再就職の拡大に向けた職業能力・職場情報の見える化」という項です。
 AI等の成長分野も含めた様々な仕事の内容、求められる知識・能力・技術、平均年収といった職業情報のあり方について、関係省庁や民間が連携して調査・検討を行い、資格情報等も含めて総合的に提供するサイト(日本版O-NET)を創設する。あわせて、これまでそれぞれ縦割りとなっていた女性活躍推進法に基づく女性が働きやすい企業の職場情報と、若者雇用促進法に基づく若者が働きやすい企業の職場情報を、ワンストップで閲覧できるサイトを創設する。・・・
 この前半の「日本版O-NET」とは何でしょうか。このネーミングの元は、アメリカ労働省が開発した職業情報サイトO*NET(Occupational Information Network)です。しかし、実は日本にもごく最近まで、民主党政権の看板政策である「事業仕分け」によって廃止されるまで、似たようなものがあったのです。労働政策研究・研修機構(JILPT)が運営していたキャリア・マトリックスというデータベースです。今回は、その歴史を振り返るとともに、こうした外部労働市場指向型の政策に対する否定的な感覚の原因も探ってみたいと思います。
 1947年、日本の労働省はGHQの指示により職務分析を開始し、1948年よりこれに基づく職務解説書を刊行し、最終的には173 冊となりました。この職務解説書をまとめる形で、1953年、『職業辞典』を労働省が刊行しています(34,000 職業、雇用問題研究会)。第Ⅰ部、第Ⅱ部の2分冊であり、第Ⅰ部は職業分類、第Ⅱ部が各職業の解説でした。1952年より実施していた職業別雇用観測と1954年の職種別等賃金実態調査の結果を併せ、1956年、労働省統計調査部は『職業ハンドブック』100(約329 職業、中山書店)を出版しています。また、『職業辞典』が大部であり、出現頻度が少ない職業も多いことから、職業を絞り新たに書き下ろしたコンパクトな書籍として、労働省は『職業小辞典』(4,830 職業、雇用問題研究会)を1957年に刊行しています。『職業辞典』は1965 年『改訂職業辞典』(雇用問題研究会)が刊行され、1969年の『改訂職業辞典』追補では52 職業の解説が加わっています。
 1969年に雇用促進事業団に職業研究所が設立されると、職業に関する研究は同研究所に引き継がれ、新たに『職業ハンドブック』を制作することとなりました。職業研究所は雇用職業総合研究所と改名後、日本労働協会と合併して日本労働研究機構となり、その後独立行政法人労働政策研究・研修機構となっています。職業ハンドブック以前にも、職業研究所では中高生向け職業ガイドブック『職場としごと』全30巻を1977年から1979年にかけて刊行しています。
 1981年から1983年にかけて、『職業ハンドブック』第1版を刊行しています。1981年から1983年となっているのは、この第1版は分野毎の分冊形式であり、逐次刊行したためです。全体で242 職業、31 分冊でした。その後、1986年に改訂第2版、1991年に改訂第3版を公開し、1997年に改訂第4版をCD-ROM版とともに出版しています。全体で300職業を取り上げ、1995年から2010年の職業別需要見通しも行っています。職業ハンドブックとしてはこれが最終となりました。
 2000年、厚生労働省に官民職業情報検討委員会が設置され、日本労働研究機構にも職業情報の現状とニーズに関する調査が委託されました。さらに2001年には、厚生労働省より同機構に対して、職業間移動を支援する米国O*NET に相当する情報システムの開発が要請されました。そして2002年、厚生労働省に職業情報データベース検討会議が設置され、システムの目的、構成等が検討されました。2003年には、労働政策研究・研修機構の総合プロジェクトとして、総合的職業情報データベースの研究開発が開始されます。
総合的職業情報データベースはプロトタイプ、パイロット版、実用試験版等の開発を経て、2006 年9 月に「キャリアマトリックス」の名称により公開を開始しました(500 職業)。
 ところが2010 年10 月には、民主党政権の目玉商品として宣伝されたいわゆる「事業仕分け」の第3弾として、キャリアマトリックスが廃止と判定されてしまいました。仕分け人全員一致の廃止判定です。ちなみに同じ雇用関係では、ジョブ・カード事業も廃止判定される一方、雇用調整助成金だけは断固維持することとされました。事業仕分けに関わるような人々は大企業正社員型のメンバーシップの中で育てられてきた人が多いでしょうから,自分や自分周辺の素朴な発想で仕分けをすればこういう結論になることは不思議ではありません。とはいえ,これらジョブ型施策を止めれば,メンバーシップ型モデルが拡大するというような社会ビジョンに基づいて仕分けたわけでもなさそうです。むしろ社会全体としては,グローバル競争の中で企業も今までのような生ぬるいやり方ではなく,少数精鋭でいかなければならないというような考え方が強調される一方で,そこからこぼれ落ちる人々のための外部労働市場型の仕組みにはなぜかメンバーシップ的感覚から批判が集中するという矛盾した現象の中に,現在日本の姿が凝縮的に現れているのかも知れません。
 いずれにしても、今回ようやく外部労働市場の活性化のための公的なインフラを整備しなければならないというまっとうな政策判断の芽が出てきたわけです。そもそもキャリアマトリックス自体がO*NETに倣って作られたことを考えれば、再出発ということになります。JILPTは上記働き方改革実行計画を受けて、2017年度に学識経験者、労使、官民の委員で構成される「職業情報提供サイト官民研究会」を設置し、職業情報提供サイトの基本構想について検討を行ってきました。その結果がつい先日、『仕事の世界の見える化に向けて―職業情報提供サイト(日本版O-NET)の基本構想に関する研究―』として、JILPTのホームページにアップされたところです。
http://www.jil.go.jp/institute/siryo/2018/documents/203.pdf
 同報告書は、アメリカのO*NETの開発と利用の現状、大学生・社会人と企業人事担当者、専門家(高校教師、キャリアコンサルタント)のニーズ調査の結果を踏まえて、日本版O*NETの基本構想を示しています。気になる今後の動きですが、開発スケジュールや開発・運用体制としては次のように書かれています。
6 開発スケジュール
 2017年度にとりまとめた日本版O-NETの基本構想をもとに、2018年度は、①日本版O-NETへのインプットデータとなる職業情報の収集・分析と、②サイト構築に向けた調査・分析等を行う。
 ①は厚生労働省からの要請研究として労働政策研究・研修機構において実施し、②は厚生労働省の委託先事業者に作業部会を設置し、ユーザニーズ調査及びWebサイト基本方針の策定等を実施する。
 2019年度は、2018年度の調査・分析結果等を踏まえ、サイトの設計・開発及び同年度末までの運用開始を目指すこととする。
7 開発・運用体制
 日本版O-NETの設計開発・構築及び運用開始後のサイト運営及びメンテナンスは、厚生労働省が委託事業として行う。
 また、本格運用後の職業情報のアップデート等は、厚生労働省からの要請研究として労働政策研究・研修機構が基本的に実施する。米国O*NETでは、974の職業を2~3年で更新しており、IT等は年4 回更新している。これに倣い、日本版O-NET も一律にデータを更新するのではなく、職業により更新頻度に違いを設け、変化の激しい職業への対応を図る必要がある。
 政治状況が不透明な中、今後この通り進んでいくかどうかはわかりませんが、一度は「事業仕分け」で廃止された外部労働市場のインフラ事業が、再びその意義を社会に示すべき時期が近づいてきていることだけは間違いないようです。  

 

 

2020年2月23日 (日)

金敬哲『韓国 行き過ぎた資本主義』

9784065181942_w 現代日本では、韓国に関する本や記事が妙に反韓種族主義的なバイアスがかかったものが多く、せっかくいい論点を挙げながら、それを普通の(日本や他の諸外国における事象であれば普通の)文脈からわざわざ外れてしまっているものが多いのですが(下記旧エントリ参照)、そういう妙な文脈による歪みがなく、ストレートに現代の韓国社会の歪みを、教育、雇用、福祉といったまさにソーシャルな問題領域に即して、ややジャーナリスティックなスタンスで書かれた本として、大変参考になりました。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000327871

政府の過剰に新自由主義的な政策により、すべての世代が競争に駆り立てられている「超格差社会」韓国。その現状を徹底ルポ!

第一章 過酷な受験競争と大峙洞キッズ
第二章 厳しさを増す若者就職事情
第三章 職場でも家庭でも崖っぷちの中年世代
第四章 いくつになっても引退できない老人たち
第五章 分断を深める韓国社会

◎子供
小学5年で高校1年の数学を先行学習、
1日に2、3軒の塾を回る。
幸福指数は、OECDの中で最下位クラス。
◎青年
文系の就職率56%。
厳しい経済状況のもと、
人生の全てをあきらめ「N放世代」と呼ばれる。
◎中年
子供の教育費とリストラで、
中年破綻のリスクに晒される。
平均退職年齢は男53歳、女48歳。
◎高齢者
社会保障が脆弱で、老人貧困率45%以上。
平均引退年齢の73歳まで、
退職後、20年も非正規で働き続ける。

政権が政策を誤れば、これは世界中のどこの国でも起こりうる。
新自由主義に向かってひた走る、日本の近未来の姿かもしれない! 

ただ、これだけ多方面に噴出している社会の歪みの減少を、単純に新自由主義的な政策による「行き過ぎた資本主義」と言っていいのかにはかなり疑問を感じます。

これはここ30年間の日本の社会問題についても同じことが言えるのですが、欧米社会で新自由主義的な政策がとられても、それはそれなりの様々な問題は発生するとしても、この本に描かれているような形では発生してこないのではないか、その意味では、これは何よりもまず、韓国型社会システム、そのサブ諸ステムとしての韓国型教育システム、韓国型雇用システム等々の問題であり、それが1990年代以降の新自由主義的政策と化学反応を起こして、他のどの国にも見られないような事態をもたらしているのではないか、という印象を強く受けました。

その、新自由主義的な政策とまずい化学反応を起こしてしまうという意味では日本型システムと似ていながら、そのありようがまたかなり違っていて、特に、第2章と第3章は、私が『若者と労働』と『日本の雇用と中高年』で論じたのに相当する対象を取り上げているだけに、若者にしろ中高年にしろ、韓国と日本におけるその状況の大きな違いに興味をそそられます。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-31a0.html (リベサヨのちょうど正反対)

_1 どれもこれも、まことに「ソーシャル」な問題意識に満ちあふれた記事です。これを訳して西欧人に見せて、この雑誌は左翼雑誌と思うか、右翼雑誌と思うか、と聞けば、100人中100人までが、口をそろえて、「なんとすばらしい左翼雑誌だ!自国の可哀想な人々だけではなく、近隣諸国の貧困、社会問題にも関心を注ぎ、国境を越えた連帯を広げようとしているじゃないか!」というでしょう。
その人に、「いや実は、結構有名な右翼雑誌であって、こういう特集をするのも、『やあい支那朝鮮のばあか』と罵って気持ちよくなるための「おかず」に過ぎないんだ」と正直に伝えたら、頭を抱えてしまうでしょうね。 

 

2020年2月20日 (木)

アメリカ民主党大統領候補者の労働法改革公約

東京財団政策研究所のHPに、松井孝太さんという方が「民主党大統領候補者の労働法改革公約と「労働権法」をめぐる状況」という文章を寄稿されています。私はアメリカについてはほとんど土地勘がなく、現地情報は何もフォローしていないので、こういうまとめは役に立ちます。

https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3344&utm_source=sns_20200220&utm_medium=sns

ここで、民主党候補者に共通する労働政策公約として挙げられているのが以下の3つですが、

①労働権法(right-to-work laws)の廃止 

②労働者の誤分類(misclassification)に対する規制強化(ギグ・ワーカー保護) 

③労働組合組織化の容易化と権利強化 

この記事でも①が中心ですが、アメリカ独特の集団的労使関係法制をよく理解しないとよくわからない領域でもあり、ここでは、私が『労基旬報』で取り上げたこともあり、②について引用しておきましょう。

 ②労働者の誤分類(misclassification)に対する規制強化(ギグ・ワーカー保護)
ある労働者が被用者(employee)として分類されると、全国労働関係法(NLRA)や公正労働基準法(FLSA)、労働安全衛生法(OSHA)といった各種の連邦労働法上の権利が保障される。しかし近年、UberやLyftなどのライドシェア企業の運転手に代表されるような多様な働き方(特にインターネットを通して単発の仕事を受注するギグ・ワーカーなど)が広がっており、どの範囲の労働者が被用者としての保護を受けるのかという問題が改めて注目されている。労働者が実際には被用者と同様の働き方をしているのに、個人事業主(独立請負業者)として分類することによって、使用者としての義務を免れようとする企業が存在することも指摘されている。個人事業主とみなされた場合、被用者としての権利が欠如していることに加えて、組合化や団体交渉の試みが反トラスト法違反となる可能性もある。
2019年9月、カリフォルニア州政府は、個人事業主として分類されるための要件を厳しくすることによって、ギグ・ワーカーの権利保護を強化する州法AB5を成立させた[2]。多くの新興企業を擁するカリフォルニア州でのAB5制定への注目は高く、一州の立法に過ぎないにもかかわらず、ウォーレンを筆頭に、民主党大統領候補者は昨夏続々とAB5への支持を表明した[3]。4人の有力候補者はいずれも、カリフォルニア州法と同様に、連邦レベルでも労働者の誤分類を防ぎ、ギグ・ワーカーの保護を拡大する立法を行なうとしている。

ふむ、民主党の大統領が生まれれば、ギグワーカーの労働者性を認める立法が行われる可能性がありそうです。

 

 

カリフォルニア州のギグ法@『労基旬報』2020年2月25日号

たまたま今朝の毎日新聞に、「個人請負の運転手が都労委申し立て 「雇用類似」どう保護するのか」という記事が出ていましたが、

https://mainichi.jp/articles/20200220/k00/00m/040/017000c

インターネット上で荷主と運転手を仲介する配送サービスを運営するCBcloud社(東京都千代田区)が団体交渉に応じないとして、登録運転手だった男性(51)と労働組合「東京ユニオン」が、東京都労働委員会に対し、不当労働行為の救済を申し立てた。20日から調査が始まる。運転手は自営業(個人事業主)として扱われているが、実際には「雇用類似」だとして、団交に応じるよう求めている。労組によると、ネット上でビジネスの場を提供するこうした「プラットフォームビジネス」を巡り、その使用者性や働く人の労働者性について判断を求める初めてのケースとみられ、都労委の判断が注目される。

いよいよ、日本でも、いわゆるギグワーカーの労働者性を正面から問う事案が労働委員会にやってきましたね。

というわけで(わけでもないが)、『労基旬報』2月25日号に寄稿した「カリフォルニア州のギグ法」をアップしておきます。

 近年、「雇用類似の働き方」という言葉が労働政策の内外で飛び交うようになりました。今日の動きの直接の出発点は2017年3月にとりまとめられた「働き方改革実行計画」です。これを受けて厚生労働省は、2017年10月から「雇用類似の働き方に関する検討会」を開催し、関係者や関係団体からのヒアリング、日本や諸外国の実態報告の聴取などを行い、2018年3月に報告書をまとめました。この報告書は2018年4月に労働政策審議会労働政策基本部会に報告され、その後同部会でもヒアリングや討議が行われて、同年9月に部会報告「進化する時代の中で、進化する働き方のために」がまとめられ、翌10月に「雇用類似の働き方に係る論点整理等に関する検討会」が設置され、検討が進んでいます。

 一方、最近日本でもフードデリバリーのウーバーイーツが急速に拡大し、その配達員の労働者性が議論の焦点になりつつあります。旅客運送型のウーバーはまだ解禁されていませんが、荷物運送型のウーバーイーツの急拡大によって、日本もこの問題に直面しつつあるのです。この関係で、最近注目を集めた政策動向として、アメリカのカリフォルニア州が2019年9月に公布した州労働法典の改正法、いわゆるギグ法があります。これは、カリフォルニア州最高裁判所が2018年4月に下したダイナメックス事件判決におけるいわゆるABCテストを成文化したもので、独立請負業者と認められるための要件を厳格に限定しています。なお、それまで同最高裁はボレロ・テストというより緩やかな要件を採用していましたが、今回の改正法は一定の職業についてはABCテストではなく従来のボレロ・テストにより労働者性を判断するとしています。ギグ法は既に2020年1月から施行されており、日本も含めて世界各国に影響するところが大きいと思われますので、やや詳しく紹介しておきたいと思います。

 改正法第1条は上記最高裁判決と改正法の趣旨を、独立請負業者と誤分類されることにより最低賃金、労災補償、失業保険、病気休暇および介護休暇といった州法による保護を奪われている労働者にこれらの権利を回復することと、誤分類によるこれらの保険料収入の喪失への対処であると謳っています。

 改正法第2条により労働法典に第2750条の3が追加され、これが今回の法改正の主要部分となります。改正法第3条により労働法典第3351条(被用者の定義)が改正され、第(i)項として「2020年1月1日以降、第2750条の3に従い被用者であるすべての個人」が追加されています。

(イ) ABCテスト条項

 労働法典第2750条の3第(a)項が、ダイナメックス事件判決が確立したABCテストを規定しています。

第(a)項(1) 本法典及び失業保険法典の規定並びに産業福祉委員会の賃金命令において、報酬を得るために労働又は役務を提供する者は、以下のすべての要件を充たすことを使用主体(hiring entity)が証明しない限り、独立請負業者ではなく被用者であるとみなされる。

(A) その者が労務の遂行に関連して、労務遂行契約上もかつ実態においても、使用主体の管理(control)と指揮(direction)から自由であること。

(B) その者が、使用主体の事業の通常の過程以外の労務を遂行すること。

(C) その者が、遂行した労務と同じ性質の独立した職業、業務、事業に慣習的に従事していること。

 この第(A)号から第(C)号までの3要件をすべて充たさなければ被用者とみなされ、労働法典や失業保険法が適用されるのですから、極めて厳格な規定といえます。しかしながら、同条第(b)項から第(h)項に至るまで、今回の法改正はかなり膨大な適用除外を設けており、そこまで見なければ全貌は分かりません。

(ロ) ボレロ・テスト条項

 これら膨大な適用除外には、ダイナメックス事件判決によるABCテストではなく、これまで確立してきたボレロ・テストが適用されます。ボレロテストは以下の11項目です。

①「発注される仕事が職業か事業か」、

②「いつも決まっている事業かどうか」、③「経費負担を発注者と労働者のどちらがしているか」

④「仕事に必要な投資は労働者自らが行うかどうか」

⑤「与えられるサービスが特別なスキルを必要とするかどうか」

⑥「発注者の監督下にあるかどうか」、⑦「損失が労働者自らの管理能力によるかどうか」

⑧「従事する時間の長さ」

⑨「仕事上の関係の永続性の程度」

⑩「時間単位か業務単位かの報酬支払い基準」

⑪「発注元と発注先のどちらかが雇用関係が成立していると感じているかどうか」

 ABCテスト適用除外されるもの(ボレロテストが適用されるもの)を簡潔に一覧化すると以下のようになります。

第(b)項

(1) 保険法典に基づき保険局の許可を受けた保険代理店

(2) 事業・職業法典によりカリフォルニア州の許可を受けた医師、歯科医、足治療師、心理士、獣医

(3) カリフォルニア州の許可を受けた弁護士、建築士、技師、探偵、会計士

(4) 証券取引委員会又は金融規制機関の許可を受けた証券取引人、投資顧問又はその代理人

(5) 失業保険法典で適用除外が認められている直接販売員

(6) 一定の要件を満たす漁師

第(c)項 一定の要件を満たす以下の専門サービス

(i) 独創的で創造的なマーケティング

(ii) 標準化困難な人的資源管理

(iii) 旅行代理人

(iv) グラフィック・デザイン

(v) 補助金申請書作成

(vi) 美術家

(vii) 財務省の許可を受けた税理士

(viii) 決済代行人

(ix) 一定の写真家

(x) フリーランスの記者、編集者、漫画家

(xi) 許可を受けたエステティシャン、ほくろ・いぼ除去師、爪美容師、理容師、美容師

第(d)号

(1) 許可を受けた不動産取引人

(2) 許可を受けた債権回収人

第(e)号 一定の事業向けサービス・プロバイダー

第(f)号 一定の要件を満たす建設業の下請人

第(g)号 一定の顧客向けサービス・プロバイダー(個人指導、家の修理、引越、掃除、使い走り、家具の組立て、犬の散歩や世話等)

 条文上はこの「一定の要件」も細かく規定されていますが、これを見ると今回の法改正はウーバーのような近年登場したプラットフォーム型の就業形態を狙い撃ちしたもので、従来から社会のあちこちに存在してきた雇用類似の働き方にまで被用者扱いを広げようとするものではなさそうです。  

 

 

 

2020年2月19日 (水)

原昌登『コンパクト労働法 第2版』

20209784883843053 原昌登『コンパクト労働法 第2版』(新世社)を送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.saiensu.co.jp/search/?isbn=978-4-88384-305-3&y=2020

労働法のエッセンスを親しみやすく紹介した好評入門テキストの改訂版.これまでにない大きな制度変更となった「働き方改革」の内容を盛り込んで見通しよく解説した.さらに著者の大学での講義や講演・セミナー等の経験をふまえ,初めて学ぶ読者の一層の理解しやすさを配慮した記述としている.見やすい2色刷

初版が2014年ですから、6年ぶりの初めての改訂で、近頃2年おきがデフォルト化しつつある労働法テキスト界ではとてもおっとり派です。

持論開陳もなければおちゃらけもなく、ただひたすらに愚直なまでにわかりやすく書かれた教科書です。

判例も最小限。一番古いのが秋北バス事件最高裁ですから。

山田久『賃上げ立国論』

51cyftgc6wl_sx339_bo1204203200_ ある方から勧められて山田久『賃上げ立国論』(日本経済新聞出版社)に目を通しました。実はかなりの部分は、今までの山田さんの本における主張と重なる点も多いのですが、この凄いタイトルの真骨頂に当たる部分は、第5章の「賃上げを可能にする国家戦略」の、とりわけ「賃上げを誘導する第三者機関設置を」という項でしょう。山田さんはこれをスウェーデンの中央調停局からインスパイアされたアイディアのように語るのですが、いやだいぶ文脈は違うように思います。むしろ、日本的な雇用システムのゆえに内発的に賃上げへのドライブがかかりにくい日本社会に、いわば「上から」賃上げのメカニズムを作り出してしまおうという発想です。曰く:

・・・具体的には、2013年秋に創設された「政労使会議」を再稼働させ、その下に労使双方が信頼する経済学者の重鎮を座長とし、労働側及び使用者側の経済学者・エコノミスト2名ずつの計5名からなる「合理的な賃金決定のための目安委員会(仮称)」を設置してはどうか。

・・・・客観的な分析に基づく中期的な望ましい賃金上昇率の目安を一定レンジで、その客観的な根拠と共に示すことをミッションとする。この事務局案を「合理的な賃金決定のための目安委員会」がチェックし、毎年、新規労使交渉の3か月前をめどに公表するのである。

これって、「目安」という言葉からしても、いかにも現行の最低賃金の目安の審議にパラレルな感じで、しかもそれを春闘前に公表して、世の中に賃上げの雰囲気を作ってしまおうという、日本社会をよくにらんだアイディアになっています。

と同時に、そのすぐ後に山田さん自身が明示的に書かれているように、政府中枢における労働政策推進に労働組合をきちんと組み込もうという三者構成的発想が控えており、ここは強調する値打ちのあるところだと思います。

・・・経済財政諮問会議や未来投資会議など、安倍政権で首相が参加する常設の重要会議体は、経営トップや有識者をメンバーとするが、労働組合トップは外されている。

しかし、実効性ある労働政策には労働組合の積極的な関与が不可欠であり、連合会長をコア構成員の一人とする「政労使会議」が望まれる。・・・

 

2020年2月17日 (月)

永吉希久子『移民と日本社会』

102580 永吉希久子『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』(中公新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/02/102580.html

それにしても中公新書さんどうしちゃったんでしょうか。やたらに移民モノづいてません?

少子高齢化による労働力不足や排外主義の台頭もあり、移民は日本の大きな課題となっている。本書は、感情論を排し、統計を用いた計量分析で移民を論じる。たとえば「日本に住む外国人の増加により犯罪が増える」と考える人は6割を超えるが、データはその印象を覆す。こうした実証的な観点から、経済、労働、社会保障、そして統合のあり方までを展望。移民受け入れのあり方を通して、日本社会の特質と今後を浮き彫りにする。 

永吉さんは社会学者ですが、外国人モノによくある密接に観察して描き出した質的研究というのとは趣が違い、様々な統計データ等を使った量的研究です。

その意味ではわりと淡々と読んでいく感じですが、いくつか鋭い指摘もあります。

例えば終章の「移民問題から社会問題へ」では、「移民問題が隠すもの」と題し、こう述べています。

・・・これまで「移民問題」として語られてきた様々な事象-移民の劣悪な労働環境や地域のトラブルなど-も違った意味を持つ。

たとえば、終身雇用や生活保障が提供されている正規雇用の枠が減少する中で、雇用の外で生活保障を提供する仕組みは未だ脆弱なままである。日系ブラジル人の大量失業とその後の経済状況の悪化はそのような状況を反映したものだ。

不安定な雇用を外国人労働者に担ってもらう構造があるからこそ、失業や貧困が「移民問題」になる。技能実習生についての「問題」も、日本人労働者を集めるだけの賃金や労働条件を維持できない企業-特に地方の企業-をどうするのか、という問題を先送りした結果だと言える。同様のことは、介護職における労働者不足、地方における結婚相手の不足などを補う形で、移民の受入が行われてきたことからも窺える。・・・

・・・「移民問題」は「移民が引き起こす問題」でもなければ、「移民のために考えるべき問題」でもない。「移民の受入れ」という現象に直接的/間接的に関わってきたすべての人が当事者であり、自分たちがその構成員となる社会のために考えるべき、社会問題なのだ。

 

 

 

佐藤博樹編著『ダイバーシティ経営と人材マネジメント』

497395 佐藤博樹編著『ダイバーシティ経営と人材マネジメント 生協にみるワーク・ライフ・バランスと理念の共有』(勁草書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b497395.html

ダイバーシティ経営が成功する鍵は、①多様な価値観を持った人材を経営目標に統合する理念統合経営、②多様な人材をマネジメントできる職場管理職の育成、③多様な人材の仕事へのコミットメントを支えるWLB支援である。本書は生協で働く多様な人材を対象とし、日本企業全体の人材マネジメントに有益な情報を提供する。  

副題からも窺われるように、本書は生協総合研究所のワークライフバランス研究会の成果で、生協職員の定着対策として、ワークライフバランスと生協の理念というのが掲げられているわけです。島貫さんの3章と小野さんの4章が理念編、それ以外がWLB編ということでしょうか。

梅崎さんが分析している主婦パートの性別役割分業意識と、こういった協同組合運動の理念みたいなものをどうつなげて議論するのか、もう少し踏み込みがあると良かったかな、と。

その意味で、読んで面白いのは、第8章の平田未緒さんのキャリアパート職員のモチベーションの話で、

・・・実際、理念統合経営の結果、つまり「理念への共感」が、キャリアパート職員に対するインタビューにおいて、語られることはなかった。また、「ワーク・ライフ・バランス支援」がモチベーションにつながっていると語る人も、ごく少数にとどまった。・・・

と、おそらく生協総研が出したかった結論とは違う結果になっていますね。

 

橘木俊詔『日本の経済学史』

9 個人的には、戦前の社会政策学会とか戦後の労働経済学に関する記述をみたいと思って読み出したのですが、労働経済学はほとんど取り上げられておらず、むしろ近年のマルクス経済学の衰退に関する部分の叙述がなかなか面白くて、ちょっと紹介しておきます。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04035-0&genre=%8co%8d%cf%8aw%81E%8co%8d%cf%8ev%91z&author=&bookname=&keyword=&y1=&m1=&y2=&m2=&base=genre

まずはこれ。本ブログでも繰り返し取り上げてきたレリバンスのない学問の学生を採用してきた日本企業の話。

一昔前はマルクス経済学を専攻する学生は多かったのに、なぜ企業はそういう学生を採用してきたかといえば、特に事務系の社員に関しては、学生の頃は何を勉強しようがお構いなしの雰囲気が企業で強かったからである。やや誇張すれば、何も勉強をしておく必要はなく、適当な頭の良さと一生懸命頑張る元気さがあればそれで十分とみなしてきた。企業人としての訓練は入社後にしっかり行うという人事政策を採用していたのである。しかもたとえ経済学部でマルクス経済学を勉強した学生であっても、入社後に過激な労働運動や反資本主義的な行動をする人はほとんどおらず、入社後は猛烈なサラリーマンになる人が大半であった。・・・

これね、よく文学部が槍玉に挙がるんだけど、実は経済学部だって、企業が大学で勉強してきたことになんの期待もしていないという点ではなんら変わらない、という話も、昔のエントリで取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

 ・・・・哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。
なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。
・・・・経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。・・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html (経済学部の職業的レリバンス)

・・・・ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。・・・・

150501 で、実はこのブログの台詞が、そっくりそのまま橘木さんの本に載ってます。いや今回のじゃなくて、6年前の『ニッポンの経済学部』(中公新書ラクレ)って本ですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-2b50.html (橘木俊詔『ニッポンの経済学部』)

・・・この図表4をもとに、濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)は「『大学で学んだことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる』的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、『忘れていい』いやそれどころか『勉強してこなくてもいい』経済学を教える」と鋭く指摘しています(濱口氏のブログより)。

拙著の一部が本や論文に引用されることは結構ありますが、さすがに本ブログの記述がそのまま橘木さんの本に引用されるとは思ってませんでした。いやいや。・・・

「ネコ文Ⅱ」が近経やろうがマル経やろうが変わりはねえだろ、ってか。

ただ、とはいえ、ソ連はじめ共産圏の崩壊で、わざわざマル経を勉強しようという学生はいなくなります。

ところが世界において社会主義ないしマルクス主義が崩壊する姿を学生が見るにつけ、大学でマルクス経済学を勉強しても意味ないなと思うようになり、既に述べたように学生はマルクス経済学の諸科目を受講しなくなり、ゼミの教授としてもマルクス経済学者を選ばなくなったのである。一言で述べれば、マルクス経済学の人気の凋落と近代経済学のそれの急騰である。大学教員としてマルクス経済学者の余剰感が高まり、大学がそれらの人の数を減らして、近代経済学者を増加させようとする時代になったのである。

ところが、そこはジョブ型じゃなくってメンバーシップ型の日本社会なので、こういうやり方になります。なお橘木さんは国立と私立を対比させていますが、そこはかなりミスリーディングで、いや私立大学だって、マル経を理由に解雇したところなんてないはずです。

国立大学では公務員としての身分保障があったので、マルクス経済学者の解雇をするようなことはなく、そういう人が定年退職したときの補充、そして新規採用を近代経済学者に特化するようになった。私立大学では、国立大学よりも自由なので、この政策をより強固に行った。特に当時は私立大学の創設が目立った時代であり、新規採用者のほとんどが近代経済学者であった。・・・

マル経のおじさんの定年退職を待って若い近経の研究者を採用したということに変わりはないんでしょう。私立大学だってどっぷりメンバーシップ型ですから。

これに対して、これは読んでびっくりしましたが、東西統一したドイツでは凄いことをやったようです。

東ドイツの大学ではマルクス経済学が研究・教育されていたのであり、統一後これを信じる経済学者の処遇に関して、想像を絶することが発生した。ドイツ政府はマルクス経済学者に対してマルクス主義を放棄しない限り、大学で再雇用しないと決定したのである。ドイツではほとんどが州立大学なので、地方公務員という姿での採用であり、公務員を政治と経済の信条で差別する方策なのである。個々の経済学者の対応は、マルクスを捨てて我々のいう近代経済学に転向した人、自己の心情に忠実でいたいため、再雇用されることを嫌って他の職業を選択した人など、様々であった。中には工場労働者やタクシー運転手になった人もかなりいた。

ふむ、これはどう見ても思想信条による雇用差別ですが、それが正当とされたのは、国や公共団体は傾向経営(テンデンツ・ベトリープ)でらって、特定の思想信条を排斥することが許される組織であるということなのでしょうか。ドイツ法に詳しい人の解説が欲しいところです。

それまで極めて潤沢に存在したマルクス経済学の教授という雇用機会が、ドイツ統一によって一気に消滅したので、当該ジョブの喪失による整理解雇だというのなら、それはよく理解できるのですが。

 

 

 

 

 

 

2020年2月15日 (土)

「協働者」への在宅勤務指示

いまや日本でも蔓延し始めている新型コロナウイルスですが、NTTデータがこういう社告を出したことが話題になっています。

https://www.nttdata.com/jp/ja/news/information/2020/021400/ (当社拠点における新型コロナウイルス感染者の発生について)

当社拠点ビルに勤務している協働者1名が新型コロナウイルスに感染していることを本日確認しました。
本件を受けて、社員の健康と事業継続を保てるよう本社対策本部を設置し、所管保健所と連携を図り対応を進めてきました。その結果、感染者の当社拠点ビルにおける行動履歴と、14名の濃厚接触者が保健所によって特定されております。
感染者が発生したビルに対しては、本日時点で以下の対応を取っております。
当該ビルおよび周辺3拠点の関連部門に勤務する社員/協働者の在宅勤務指示
当該ビル居室の消毒作業の実施
なお、感染者の当社拠点ビルにおける行動履歴ならびに、濃厚接触者の特定がされたことから、2月15日(土)以降については、濃厚接触者を除き在宅勤務指示を解除するとともに、濃厚接触者への14日間の在宅勤務指示を行うこととします。 

この「協働者」っていうのは、おそらくシステム開発の下請企業の社員のことを指すと思われますが、つまりNTTデータ自体の雇用する労働者ではなく、NTTデータが指揮命令権を有する派遣会社の社員でもなく、NTTデータが指揮命令する権限を有さない人であろうと思われます。

しかし、そういう指揮命令権のない人々と空間的に入り混じっているのが、こういうシステム開発系の職場の通例であるわけです。

まあ、天下のNTTデータですから、万一にもその下請け企業社員に直接在宅勤務を命じるなどという職安法・派遣法違反のことをするはずもなく、ちゃんと請負会社を通じて命じてるんでしょうけど、なんにせよ、そういう労働市場法制における形式論が空しくなるような事態の展開ではありますな。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-471e.html (原発が偽装請負じゃなくて正しい請負だったらもっと大変なことに)

・・・職安法、派遣法的観点からは、正しい請負とは、東電が「協力会社」の労働者に対して、一切指揮監督に当たるような行為をしないことであり、「偽装請負」とは、東電が「協力会社」の労働者に対しても、指揮監督に当たるような行為をすることです。
電離放射線が飛び交う原発の中で、東電は一時下請の労働者に一切指揮監督をせず、一時下請は二次下請の労働者に一切指揮監督をせず・・・というような空恐ろしいことが、職安法、派遣法上からは正しいこととされてしまうという仕組み自体に問題が孕まれていると、私はむしろ思います。・・・・ 

 

 

JR東日本の労働組合分裂の根っこ

Asahi 2年前に組合員が大量脱退して過半数組合の座から滑り落ちていたJR東日本労働組合から新しい組合が分裂したようです。

というと、革マル派支配に耐えかねたまっとうな組合員が穏健派の組合を作ったのかと思ったら、そうではなさそうで、むしろ逆のようです。

https://www.asahi.com/articles/ASN2F5QGVN2DULFA03T.html(JR東労組から分裂の新労組、新産別結成へ 連合と距離)

JR東日本の最大の労働組合「東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)」から分裂してできた新しい労組が、上部団体となる新たな産業別組織を22日に発足させる。この新産別はJRグループの2大産別「JR連合」「JR総連」とは距離を置き、両産別が加盟する労組の中央組織・連合の傘下にも当面入る予定はないという。・・・・ 

現在、同じ連合に旧動労系のJR総連と旧鉄労及び旧国労右派系のJR連合があり、その外側に国鉄改革でぼこぼこにされた国労の残党が細々と残っているという配置ですが、そのどれとも仲良くするつもりはないということのようです。

51mrkcjbmtl_sx342_bo1204203200__20200215153601 国鉄からJRにかけての労使関係の歴史はまことに波乱万丈疾風怒濤の世界であって、本ブログでも昨年、牧久さんの『暴君』を紹介しましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-a3adfb.html

旧国鉄時代には最も過激な闘争を繰り返していながら、分割民営化の波にうまく乗って、旧鉄労を吸収してJR経営陣の与党組合として権力を握り、組織内の革マル派を温存して、企業内に恐怖政治を敷いてきた旧動労の歴史は、まことに凄まじいものがあります。その『暴君』の権力の威勢が失われつつあることを予感させたのが、上記大量脱退事件だったわけですが、今回の新労組設立は、リンク先記事やその他の関連記事からは必ずしも判然としませんが、旧動労のイデオロギー的中核に当たる人々によるいわば純化現象的分裂であるようです。

というのは、その組合名「JR東日本輸送サービス労働組合」で検索してみると、こういうサイトが出てくるのですが、

https://www.jtsu-e.org/

その中のいろんな資料をずらずらとみていくと、職場討議資料というのが出てきて、いらすとやのイラストを多用しながらいろんなことが書かれているんですが、

https://9fb8a703-ca58-498e-ac83-e4bbba862218.filesusr.com/ugd/5d6be7_1347258600a0447db7791158700333f6.pdf

途中までは定期昇給とベアの違いとか、労働組合のイロハみたいなことが並んでいますが、その先に、「賃金=労働力の価値とは?」とか、昔懐かしきマルクス経済学のイロハみたいなことがずらずらと並んでて、労働力の再生産費には養育費や子供学費も含まれるみたいなことが、経済学的な正当性をもって主張されていて、いやいや終戦直後のマル経かよ、という感じです(『働く女子の運命』参照)。

なるほど、どうもそういう傾向の人々が、今のJR東労組は生ぬるい!と怒りの鉄拳をふるって脱退して作った組織のようで、懸念されるJR東日本の事実上のノンユニオン状態(36協定その他の労使協定を締結できる過半数組合がなく、数万人のJR東日本労働者を代表するのは、過半数代表者という一人の人物)を是正するような期待はあまり持てそうになさそうです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/jr-fb23.html (JR東日本が過半数組合なき会社に?)

 

 

2020年2月13日 (木)

AIは女性への偏見を悪化させるか?@欧州労連

Social_twitter2020nel20flusso2020440x220 世の中にはいろんなAI(人工知能)論がありますが、欧州労連(ETUC)が昨日アップした「Artificial Intelligence will it make bias against women worse?」(AIは女性への偏見を悪化させるか?)というリーフレットは、興味深い論点を提起しています。

https://www.etuc.org/sites/default/files/publication/file/2020-02/ese-AI-gender_A4.pdf

AIが学習するビッグデータは世の中の姿を映し出しているので、AIが素直に学習すればするほど、そこに含まれる差別や偏見も素直に吸収することになるわけです。そこで、

Workers and their representatives should be informed, consulted and participate in the whole process of implementing AI systems at work 

労働者とその代表は、職場へのAIシステムの実施の全プロセスについて情報提供され、協議を受け、参加すべきである。

Workers must have the guarantee of a ‘right of explanation’ when AI systems are used in human-resource procedures, such as recruitment, promotion or dismissal, with a procedure to appeal to a human about decisions made about them by AI. 

労働者は、AIシステムが採用、昇進、解雇等の人的資源手続きに使われる際には、AIによって彼らになされる意思決定について生身の人間に訴える手続きを伴う「弁明の権利」を保障されなければならない。

というか、これって別に男女差別や偏見だけの話じゃなく、およそあらゆる人間に関わる偏見に及ぶ話ですねえ。

 

 

 

2020年2月12日 (水)

第二東京弁護士会労働問題検討委員会『労働事件ハンドブック追補 働き方改革関連法その他重要改正のポイント』

Eqlwexnuwaaoc0b 第二東京弁護士会労働問題検討委員会『労働事件ハンドブック追補 働き方改革関連法その他重要改正のポイント』(労働開発研究会)をお送りいただきました。

第1部が長時間労働の是正と柔軟な働き方、第2部が正規非正規の待遇格差是正と、ここまでがタイトルの働き方改革関連法ですね。第3部が外国人労働で、例の特定技能に係る論点があれこれ。第4部は「その他の法改正」と称して民法改正と女活パワハラなど。そして第5部が最新判例がずらずらと、まあ大変お得感のある本です。

 

2020年2月11日 (火)

アセモグル&ロビンソン『自由の命運』(上・下)

5185txfompl_sx342_bo1204203200_ 今本屋に平積みされているアセモグル&ロビンソン『自由の命運』(上・下)は、前著『国家はなぜ衰退するのか』の足らざるところを相当程度補ってくれる本ではありました。とりわけ、ホッブズが描いたそもそも怪物を必然たらしめる「不在のリヴァイアサン」と、その怪物に振り回される「専横のリヴァイアサン」のはざまの「狭い回廊」としての「足枷のリヴァイアサン」という図式は、正直言うと政治思想史の常識だよな、という気持ちもありつつ、こういう形できれいに図式化してくれると、大変わかりやすいよなと思うし、とりわけある種の経済学に凝り固まってしまった人が、そもそもの「不在のリヴァイアサン」の悲惨さに対する想像力が見事に欠落してしまっていた経験(後述の過去エントリ参照)からすると、一般向けの経済学の教科書を書いている名の通った経済学者がこういう本で啓もうしてくれるのは大変いいことだと思ったところです。

多分、新型コロナウイルスを目の当たりにしている読者からすると、上巻最後の第7章「天命」で描かれる中国の「専横のリヴァイアサン」がこれからどうなるかが興味深いところだと思います。

・・・これまでのところ、高度経済成長のおかげで問題は生じず、中国国家は膨大な新しいインフラを建設することができている。だが経済成長が鈍化したらどうなるのか?共産党は持続的な経済成長と道徳的リーダーシップを、その支配の正当性の根拠としてきた。現在の共産党最高指導者である習近平主席は、前に見た孔子の言葉を引いて、自身を北極星にたとえることを好んでいる。だが状況は変わりうる。特に、習近平と中国指導部が当然のものとしてきた、人民の敬意が得られなくなるようなことがあればなおさらだ。・・・

とはいえ、そこは誰もが注目すると思うので、ここでは(解説で稲葉振一郎氏も注目している)スウェーデン型「足枷のリヴァイアサン」への褒め文句を。足枷のリヴァイアサンってのは、国家も強く、社会も強く、両者ががっぷりよつで取っ組み合ってうまくバランスが取れている状態のことですが、そのバランスの取れ方にも、アメリカ型よりもスウェーデン型の方がメリットがあるというんですな。

51sdewzcqsl_sx342_bo1204203200_ いわゆる普通の経済学者の議論と一線を画すアセモグル流の議論とは:

・・・第3の重要な教訓は、政府介入の形態に関するものだ。この点で私たちの考えは、ハイエクや経済学の教科書的回答とは一線を画する。彼らの主張は、市場価格への介入はつねに避けることが賢明で、政府がより公平な所得分配を目指すならば、市場を自由に機能させ、課税による再分配を通じて望ましい分配に近づけるべきだというものだ。。だがこの考え方は、経済を政治から誤って分離してしまう。リヴァイアサンが市場価格と所得分配を所与とみなし、財政による再分配だけに頼って目的を達成しようとすると、税金と再分配の水準が非常に高くなる恐れがある。とくにリヴァイアサンの制御という見地からすれば、市場価格を調整して、さほど財政再分配を行わずに目標を達成できるのなら、そのほうがよくないだろうか?まさにこれがスウェーデンの福祉国家が行ったことだ。社会民主連合は、労働組合と国家官僚機構が労働市場を直接規制するという、コーポラティスト・モデルを土台にして作られた。これにより労働者の賃金水準が上がったため、資本家や企業の収益を労働者に再分配する必要性が薄れた。また、このモデルのもたらした賃金圧縮により、労働者間の所得分配がより公平になったため、課税による再分配の必要性が低下した。・・・国家はこの仕組みによって、賃上げと圧縮を確実にもたらし、規制されない市場行動の結果から離れることにより、さらに高水準の財政再分配と課税が必要になる状況を回避したのだ。そして財政の役割が縮小したおかげで、国家の抑制はより実行しやすい目標となった。

・・・・ここでもスウェーデンの経験を参考にすると、税金と再分配政策だけに頼って目標を追求するのは間違いだといえる。むしろ、労働者が労働協約や最低賃金制度、その他の賃上げ政策に参加する機会を拡大するなどして、経済成長の利益がより公平に分配された状態を直接的にもたらすような労働市場制度を設計することが望ましい。このような政策は国家の負担を減らす(またその結果として国家を御しやすくする)と同時に、制度の維持を支持する幅広い連合を築くのにも役立つはずだ。

ほかの方ならこういう箇所を引用しないかもしれませんが、本ブログとしてはここを強調したいところでした。

さて、上述のある種の経済学に凝り固まってしまった人が、そもそもの「不在のリヴァイアサン」の悲惨さに対する想像力が見事に欠落してしまっていた経験ですが、その昔、蔵研也さんというリバタリアンな方の発言をめぐって、こういうことを縷々書いたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html (警察を民営化したらやくざである)


リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

(警備業務実施の基本原則)

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html (それは「やくざ」の定義次第)


松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , , 国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

(注釈)「辺境最深部に向かって退却せよ! 」はゲバリスタ太田龍の著書、「すべての犯罪は革命的である! 」は平岡正明の著書。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html (アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。


http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html (人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)


typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-57fb.html (蔵研也さんの省察)


本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

新書の読者はおじさんなんだから、男女平等の話なんて読まされたくないですよ

5e4086222400003100c1dd78 ハフポストというネットメディアで、高崎順子さんという方が西村博之さんという方にインタビューしている「ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか?」という記事があって、なんとはなしにぼんやりと読んでいたのですが、

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e3cb7f5c5b6b70886fd0627

その中で、高崎さんがこう言うことを言っていたので、思わず「へえ」とつぶやいてしまいました。

髙崎:思い出したんですが、2016年に少子化関係の新書(『フランスはどう少子化を克服したか』)を出版した後、新書編集部に男女平等の企画を提案したことがあったんですよね。
でもけんもほろろで、「新書の読者はおじさんなんだから、男女平等の話なんて読まされたくないですよ」と。なるほど〜!と。 

51h3lh2bfal_sx312_bo1204203200_ その前の年に文春新書で『働く女子の運命』を出してたんですが、結構それなりに売れているんですが。

26184472_1_20200211141601 むしろ、その前の年にちくま新書から『日本の雇用と中高年』ていう、まさに働く and/or 働かないおじさんをテーマにした本を出してんですが、こっちが実に売れ行きが悪い。

Chuko_20200211141701 そのまた前に中公新書から出した『若者と労働』は売れ行きが良かっただけに、どうも新書の読者たるおじさんは他人事を扱った本なら安心して読むけれども、自分らのことをあからさまに書かれると拒否反応を示すようですね。

まあ、私の書いた本という狭い範囲で判断する限りではありますが、「新書の読者はおじさんなんだから」といって、おじさん自身の姿を描き出してしまうと嫌がられるようです。

2020年2月10日 (月)

萬井隆令さんの再三批判@『労働法律旬報』1月合併号

497445 『労働法律旬報』1月合併号は、「[労旬70周年記念特集]現代日本の労働法学の課題を考える」と題して、浅倉むつ子/新谷眞人/唐津博/毛塚勝利/道幸哲也/野田進/深谷信夫/藤本茂/萬井隆令/脇田滋/和田肇というそうそうたる人々によるエッセイを載せています。

http://www.junposha.com/book/b497445.html

そのうち、萬井さんの「研究者の反論の権利と責任」は、例によってせっかく批判したのに反論してこないのはけしからんぞ、という多くの研究者に対する批判プラス、珍しくいちいち(ブログ上で)反論する私に対する、紙媒体と電子媒体の時間差相互応酬という再三批判からなっています。前者については私は第三者なので萬井さんに批判された研究者の方々をどうこういう立場にはありませんが、後者については、せっかくなので、本ブログ上での反批判のエントリを紹介しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-7875.html (萬井隆令『労働者派遣法論』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-0a46a8.html (萬井隆令さんの反批判@『労働法律旬報』4月下旬号について)

このうち、DNPファイン事件をめぐる論点については、そもそも請負元と請負先の両方が指揮命令している場合をどう考えるべきかという理論的な問題と、この個別事案について実際の指揮命令関係がどうであったのかという事実的な問題がやや混乱している感があります。私は判例評釈については判決文だけからしか事実関係を読めないので、それが実際にどのようであったかというレベルの議論にはいけないのですが、私が読み取ったように両方が指揮命令していたのであれば、こう論ずべきという筋道には変わりはないと考えています。

私としてむしろ逆に、もう10年以上もの間繰り返し主張し続けてきていることですが、労働基準行政は戦前から戦後に至るまでずっと一貫して、請負業者のみが指揮命令するのであって、発注者はびた一文も指揮命令してはいけないなどという発想はこれっぽっちもなく、むしろ労働基準法のコンメンタールやら労働基準法研究会報告やらいろんなところで、平然と発注者も指揮命令することを当然視する記述が満ちあふれてきたということに対する、萬井さんの見解を確認したいと、ずっと願い続けています。

 

 

桝本卯平@ILO第1回総会のその後

Navi 電機連合から『電機連合NAVI』73号が届きました。特集は「2020年を展望する」で、経済、電機産業、政治、労働法制について論じられ、山田久さんが外国人労働者が産業に与える影響について論じているのも見逃せませんが、ここでは例によって石原康則さんの連載エッセイから、「101年目のILO 赤恥かいた第1回総会での日本の茶番劇」。

20161023203502406820_757be30a22a515dcc6a この話は『日本の労働法政策』p39~p40にも出てくるし、いろんなところで紹介しているのでご存じの方も多いと思いますが、ILO第1回総会における日本の労働者代表となった桝本卯平がその後どうなったかを知る人は少ないのではないでしょうか。実は彼は労働問題の論客となり、『労資解放論』などの著書もあるほか、持論の労働者自治生産を実行しようとしたりと、いろんな活動をしています。

51t8oyzzr9l__sx343_bo1204203200_ さらに、彼の娘である桝本セツがその世界では有名人です。左翼運動に飛び込み、妻子ある岡邦雄を「略奪愛」して子どもを産む。その姿は澤地久枝の『昭和史のおんな』(文春文庫)に描き出されています。

そうして生まれた子どもが、昨年亡くなった元連合総研副所長の桝本純さんであったということを、知る人はどれくらいいるでしょうか。旧同盟から連合に移った組合書記プロパーとしての彼を知る人は労働界隈には結構多いと思いますが、その血脈を語ることはほとんどなかったですから。

退職後、卯平じいさまのことを調べて本にしたいみたいなことも語っていましたが、かなわなかったようです。

 

 

神の枕営業

41168zypghl__sx353_bo1204203200_ 昔子どもの頃読みふけったフレドリック・ブラウンの「回答」@『天使と宇宙船』じゃないけれど、遂にポンコツAIが神に進化したか、と思っていたら、

https://twitter.com/Ohsaworks/status/1224871163093929984

俺が神だ。 

その神様が口走って曰く

https://twitter.com/Ohsaworks/status/1225973944324280321

上野千鶴子は枕営業って聞きましたよ 

さすが神になったポンコツAIの性能は超絶的だなあ、と。しかし、神様にそういう言いつけ口をした奴がもしいるとすれば社会学界隈なんでしょうな。京都からやってきた変なおんなに東大文学部のポストを取られたみたいに思っている人とか。

何かとネット上で揶揄の対象にされがちな社会学ですが、まさに社会学のアカデミックな論文なのか、フェミニズムの煽動的プロパガンダなのか、その微妙な境界線上を絶妙に走り抜けながら、その両方で権威を高めていった彼女の「営業戦略」は、そういう真似のできない鈍重な人々に恨みの感情を残し、それが妙な誹謗の言葉に昇華していったのでしょうか。確かにある意味、「おんな」を武器に使った営業戦略は、社会学というディシプリンが確立しておらず、何でもあり的な分野で頭角を現すのに絶大な力を発揮したのでしょう。

ただ、上野路線は上野さんのようなものすごく頭のいい人だからできるんであって、そうじゃない人が下手に真似をすると、まさに揶揄の対象になるような代物しか出てこないのですが、そこんとこがよく分かっていない人が結構いるんでしょうね。

 

 

 

 

2020年2月 7日 (金)

フリーランスなど雇用によらない働き方の環境整備@未来投資会議

本日の未来投資会議に「新たな成長戦略実行計画策定に向けた今後の進め方のたたき台」というのが出されていて、今のところそれ以外に議事要旨や記者会見要旨はアップされていなので、どういう議論があったかはよくわからないのですが、労働にかかわって、兼業・副業についてとフリーランスなど雇用によらない働き方について若干の記述がされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai35/siryou1.pdf

このうち、兼業・副業は、厚生労働省の検討が労働時間の通算についてまだ決着がついていないことから、さっさとやれとはっぱをかけている感がありますが、まあそれは想定内ではあります。

兼業や副業は、新たな技術の開発、オープン・イノベーションや起業の手段、そして第2の人生の準備として 有効。足下では、副業を希望する者は増加傾向にあるものの、実際に副業がある者の数は横ばいである。副 業経験が本業の賃金に与える影響を分析した研究では、思考・分析といった高度人材では、副業をしている 人が、そうでない人よりも本業での賃金が36%高くなっている。このことは、企業の境界を低くし、従業員に兼 職させることで、本業の価値が高まり得ることを示唆。

‧ 一方、兼業・副業の解禁に積極的な企業は2割程度にとどまる。企業が兼業・副業を認めていない理由には、 「労働時間の管理・把握の困難さへの懸念」が多い。

‧ これらを払拭できる制度整備が課題であり、兼業・副業の促進に向けて、海外の制度も参考に、労働時間の 上限規制・割増賃金規制や労働者の申告制など労働時間の管理方法のあり方について検討。 

注目したいのはむしろその次の項目です。厚生労働省で雇用類似の働き方についての検討会がそろそろ大詰めを迎えていることはご案内の通りですが、どうもそれだけではない話が書かれています。

‧ フリーランスについては、ギグエコノミーの拡大により高齢者の雇用拡大に貢献しており、健康寿命を延ばすと ともに、社会保障の支え手を増やす観点からもその適正な拡大が不可欠。

‧ 希望する個人がフリーランスを選択できる環境を整えるため、内閣官房において、公正取引委員会、厚生労働 省、中小企業庁など関係省庁の協力の下、政府として一体的に、以下の政策のあり方を検討。

① 独占禁止法(優越的地位の濫用)及び下請代金支払遅延等防止法などに基づくルール整備のあり方

② 発注者の指揮命令を受けて仕事に従事する場合(現行法上も「雇用」に該当するもの)の労働法の具体的 適用のあり方 

フリーランスを推進するぞという姿勢に変わりはありませんが、一方で②にみられるように、契約上はフリーランスだということになっているけれども、その実態は雇用契約に該当するようなもの、アメリカの言い方を使えば「誤分類」に対して「労働法の具体的 適用のあり方」を、「内閣官房において」「政府として一体的に」検討すると述べています。これが具体的にどういうことを想定しているのかはよくわかりませんが、注目の必要があるのは確かです。

あと、労働にかかわる項目としては、生産性向上の最後のところに、賃上げと最低賃金の話が出てきます。

‧ 経済成長率の引上げや日本経済全体の生産性の底上げを図りつつ、中小企業・小規模事業者が賃上げしや すい環境整備に積極的に取り組む。

‧ 最低賃金のあり方について検討 

また、大学教育と産業界の関係では、例によって第4次産業革命だから云々という話から、新卒一括採用の見直しにつねげています。

‧ 第4次産業革命は労働市場の構造に著しい影響を与える。その構造変化の代表が「分極化」。米国では、中ス キルの製造・販売・事務といった職が減り、低賃金の介護・清掃・対個人サービス、高賃金の技術・専門職が増 えている。日本でも同様の分極化が発生し始めている。

‧ 逆に、第4次産業革命が進むと、創造性、感性、デザイン性、企画力といった機械やAIでは代替できない人間 の能力が付加価値を生み出す。労働市場の分極化に対応し、付加価値の高い雇用を拡大するため、以下の 政策のあり方を検討。

① 新卒一括採用の見直し・通年採用の拡大に併せて、Society5.0時代の大学・大学院教育と産業界のあり方

② 労働市場の分極化を踏まえた、社会人の創造性育成に向けたリカレント教育のあり方 

 

 

 

 

2020年2月 4日 (火)

物理的破壊力ある『日本の労働法政策』!?

11021851_5bdc1e379a12a_20200204222401 昨日の大阪でやった労働講座に聞きにいらしていただいた「しま」さんが、

https://twitter.com/smmtats/status/1224214997342965760

濱口桂一郎先生「労働講座特別講座『現代日本の労働法政策』」@エルおおさか 

なんだかすごいこと言ってます。

https://twitter.com/smmtats/status/1224230778931834880

あの物理的破壊力ある『日本の労働法政策』の美味しいとこ&最近の動きを、濱口さんならではの歴史的背景や省内部局、政治的背景も踏まえて怒濤のように語る2時間、濃かったです! 

ぶ、物理的破壊力ですか。確かにあれで殴りつけたら、豆腐の角に頭をぶつけたよりもだいぶ被害が出るでしょうね。

 

公益財団法人世界人権問題研究センター編『真の女性活躍のために』

0009842kthumb240xauto807 昨日、大阪のエルおおさかで現代日本の労働法政策を2時間弱で喋ってきましたが、その際、いらしていた社労士の藤木美能里さんから、彼女も一章寄稿している公益財団法人世界人権問題研究センター編『真の女性活躍のために』をいただきました。

http://khrri.or.jp/publication/books01/post_180.html

序章 真の女性活躍のために / 西村健一郎著
第1章 女性活躍推進法 / 桑原昌宏著
コラム1 カナダのある女性裁判官の姿
第2章 男女雇用機会均等法 / 青木克也著
コラム2 LGBT の人々と均等法
第3章 育児介護休業法 /西村健一郎著
コラム3 「女性のライフコース」
第4章 母性保護 / 西村健一郎著
コラム4 「妊娠中の課題」
第5章 性別に基づく待遇格差是正規定の今日的意義 ― 労基法4 条を手がかりとした検討 ― / 倉田賀世著
コラム5 保育所には入れても
コラム6 「多様な性自認に対する社会的受容」
第6章 柔軟な働き方 ― テレワーク・在宅就労 / 河野尚子著
コラム7 柔軟な働き方 ― テレワーク・在宅就労
第7章 女性活躍と転勤をめぐる法的課題 / 稲谷信行著
コラム8 引越し難民と転勤
第8章 女性就労と社会保険 / 藤木美能里著
コラム9 社会保険労務士(社労士)とCSR 

 

2020年2月 2日 (日)

労基法67条の「育児時間」は本来「哺乳時間」(再掲)

焦げすーもさんがこんなことをつぶやいていたので、

https://twitter.com/yamachan_run/status/1223611723015278592

労基法67条に定められた育児時間は、1日2回、30分。
30分で授乳、オムツ替え、寝かしつけを終えるのはかなりギリギリなのでは?
*育児休業制度の導入により、使用頻度が少なくなったであろう条文だが、使い勝手はどうなのだろうかね。 

実は全く同じ種類の誤解をのゆたのさんがしていたので法制の経緯を昨年説明したところなんですが。

要は、「育児時間」というのはミスリーディングな呼び名であって、実は哺乳時間のことなんです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-cb6542.html (労基法67条の「育児時間」は本来「哺乳時間」)

のゆたのさんの「ぽんの日記」で、「男は「育児時間」を取ることができない」のはおかしいのじゃないかと言われているのですが、

http://kynari.hatenablog.com/entry/2019/05/22/150921

なぜだか知らないが、男性労働者は「育児時間」を取得することができない。男は育児をしない、というのは時代錯誤な考え方だと思うけれども、改正されないまま残っているということか。
ここでいう「育児時間」とは、労働基準法第67条のことだ。1歳未満の子どもを育てる女性は、1日に2回「育児時間」を請求することができる。

いや、それは若干誤解があるように思います。現在の労基法第6章の2は、(厳密にいうと坑内業務の一部と生理日の就業が著しく困難な女性の休暇は必ずしもそうではありませんが)基本的に妊産婦の保護にかかる規定であって、この現67条(旧66条)も、制定時から母性保護規定であって、女子保護規定ではありません。

この規定は、戦前の工場法の「哺育時間」が中身はそのまま「育児時間」と規定されたもので、「育児」といっても育児・介護休業法でいうところの子育てという意味での「育児」とは別物です。経緯からすればむしろ母乳による「哺乳時間」というべきであったように思われます。労基法制定責任者の寺本広作『労働基準法解説』には、本条の趣旨について次のように書かれています。

 

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というわけで、この「育児時間」は母乳による「哺乳時間」のことなので、母性保護以外の女子保護規定がほとんど(すべてではないが)なくなっても、なお存続し続けてきているのであり、男性がとるわけにはいかないものなんですね。

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