石井知章・及川淳子編『六四と一九八九』または「進歩的」「左派」の「歴史修正主義」
石井知章・及川淳子編『六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか』(白水社)をお送りいただきました。ありがとうございます。
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b487699.html
1989年に起きた一連の出来事が、急速に歪められ、忘却されつつある。その中心にあるのが六四・天安門事件である。
従来、「民主化の第三の波」(ハンチントン)や「国家超越的な共同社会」(M・ウォルツァー)への動きと理解されてきた〈一九八九〉は、いつのまにか「新自由主義革命」として矮小化されつつある。「民主化」ではなく「新自由主義」の確立がこの画期を特徴づけるというのだ。
果たしてそうなのだろうか――。本書はこの疑問から出発している。
「新自由主義革命」と事態を捉えた場合、30年後に緊迫化した香港情勢はどう理解すればいいのだろうか。また「紅い帝国」(李偉東)として世界に君臨しつつある習近平体制と民主化という視角なしに果たして対峙できるのか。
本書は、アンドリュー・ネイサン、胡平、王丹、張博樹、李偉東、矢吹晋、石井知章、及川淳子という、これ以上望めない世界的権威が六四と一九八九という歴史的事件に挑んだ。
その中核にあるのは、危機に瀕しているデモクラシーと市民社会の擁護である。過去のものとして暴力的に忘却されつつある両者をいかに恢復するか。その答えが六四・天安門事件にあるのだ。現代のはじまりとしての一九八九へ。
本書もまた、あまりにも時宜に適したこの時期に世に問われる運命の本ですね。奥付の発行日2020年1月10日というのは、台湾の総統選挙で蔡英文氏が地滑り的勝利を収めた1月11日のその前日です。
本書の中身自体は、昨年6月に明治大学で開かれた国際シンポジウムの報告集ですが、まさに香港と台湾の市民がノーを突きつけている中国共産党の独裁体制を徹底して分析しているこの本ほど、今この時に読まれるべき本はほかにあり得ないという唯一の本といえましょう。
序章 「六四と一九八九」 石井知章
第一章 習近平と天安門の教訓 アンドリュー・J・ネイサン(大熊雄一郎訳)
第二章 「六四」が中国を変え、世界をも変えた 胡平(及川淳子訳)
第三章 天安門事件の歴史的意義 王丹(大熊雄一郎訳)
第四章 三十年後に見る天安門事件 張博樹(大熊雄一郎訳)
第五章 天安門事件が生んだ今日の中国 李偉東(大熊雄一郎訳)
第六章 趙紫陽と天安門事件ーー労働者を巡る民主化の挫折 石井知章
第七章 「一九八九年」の知的系譜ーー中国と東欧を繋ぐ作家たち 及川淳子
第八章 新全体主義と「逆立ち全体主義」との狭間で 矢吹晋
終章 「六四・天安門事件」を読む 及川淳子
あとがき 石井知章
もちろん、本書の最大の読みどころは、中国から亡命して言論活動を続けている在外中国知識人による諸論考ですが、心中の炎を秘めつつ冷静な筆致を失わないそれらに比べて、序章とあとがきで編者の石井知章さんがほとんど噴出まぎわにまで至っているある種の「進歩的」「左派」に対する憤怒の思いが興味深いです。彼によれば、岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」は、習近平体制に対する「忖度」で、1989年問題に対する「沈黙」を繰り返しているというのです。その文章がどれくらい激情的かというとですね、
・・・だが、これは原因と結果の順番をまったくはき違えた深刻なる思想的倒錯であり、歴史的事実をあからさまにねじ曲げる本末転倒であるといわざるをえない。なぜなら、このポスト1989で創出された政治経済システムにおいて、まっさきに「新自由主義」体制を導入したのは、「社会主義体制」が崩壊した東欧ではなく、むしろ「血の弾圧」によって専制的権力の基礎をより盤石なものとした「現存する社会主義」、すなわち、ほかでもない一党独裁国家そのものとしての中国だったからである。・・・
・・・これらの言説は、汪暉や柄谷行人らによって推し進められた、いわば「日中間共同イデオロギー戦略の創出」とでも呼ぶべき知的作業の一環として理解できる。それは、習近平という「唯一の所有者」(マルクス)の政治的意志を密かに「忖度」しつつ、しかも「脱政治化」することに見事に成功しているという点において極めて象徴的である。これらはいずれも、「事実」を「事実」として認めることのできない、日本の歪んだ「進歩的」知識人たち、そしてシニシズムの言説に依拠してしか社会的には一言も発言できない、中国国内の「新左派」知識人たちの基本的性格をまざまざと示すものである。・・・
あとがきでは、石井さんはこういう「進歩的」「左派」をつかまえて「歴史修正主義」とまで罵倒しています。でも、それはまったく同感です。
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ブログ主でない方の意見にコメントするのは良くない事かもしれませんが、
>編者の石井知章さんがほとんど噴出まぎわにまで至っているある種の「進歩的」「左派」に対する憤怒の思いが興味深いです。
石井知章さんがある種の「進歩的」「左派」に対してそのように評価される理由がよく理解できません。
>彼によれば、岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」は、習近平体制に対する「忖度」で、1989年問題に対する「沈黙」を繰り返しているというのです。
習近平体制が成立した(習近平氏が中国共産党中央委員会総書記になった)のは2012年で、それ以前から1989年問題に対する態度(「沈黙」)は変わっていないと思うので、習近平体制に対する「忖度」で「沈黙」しているわけではないと思います。
岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」の方の1989問題に対する態度(「沈黙」)は、世界的に見て特異なものでしょうか?私は世界的に見ても1989問題に対する態度は初期の批判を除けば「沈黙」が多いと思います。特に日本政府は、事件発生後に世界に中国の孤立化の回避を訴え、欧米に先駆けて対中制裁を解除しました。日本政府がそのような行動をとったのは、岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」の方の態度が影響したからではなく、
1989問題を起こした鄧小平氏は中国の開放政策を推進しているが、保守派からの反対も強く、その地位は不安定である。1989問題を強く追及すると鄧小平氏が失脚し、中国は保守派が主導して文革や四人組の時代に戻って巨大な北朝鮮のような国になる可能性がある。それよりは1989問題には目をつぶっても(「沈黙」しても)開放政策を支援し、中国を世界の経済システム(資本主義体制)に組み込んで、13億人の生活を向上させるほうが我が国や世界の平和や繁栄にとってプラスである。
という考えによるものだという説を聞いた事があります。欧米の政府も内心そう思っていたから日本政府の行動を黙認し追随したそうです。
1989問題で最も批判されるべきなのは事件を引き起こした中国政府であり、次に批判されるべきなのは(上のような考えで?)事件に目をつぶって(「沈黙」して)開放政策を支援した各国政府だと思います。それらに比べると、岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」の方の順番はずっと後だと思います。石井知章さんはなぜ中国政府や各国政府を批判せず、岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」の方を批判されるのでしょうか?
岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」の方は、政府のような(汚辱にまみれた)現実派とは異なり、理想を追求すべきだ とお考えなのでしょうか?
投稿: Alberich | 2020年1月16日 (木) 21時40分
そりゃそうでしょ。
政府や経済人に対して「御用評論家」という悪罵を浴びせる人はいません。『御用』を務められる側なんですから。
いっぱしの高踏的な『思想家』『哲学者』を気取りながら、その実は独裁者に対する忖度に満ちた御用評論家だから、石井さんは批判しているわけです。
投稿: hamachan | 2020年1月17日 (金) 11時50分
石井氏が親中的「左派」を批判したいと考えること自体は理解できるのですが、それを「岩波の『思想』誌などに集うそういう「進歩的」「左派」」という風にまとめるのは飛躍があると思います。石井氏が念頭においているのは、『思想』の特定の号に載った特定の論文だと思いますが、同じ雑誌には非常に多様な傾向の論者が書いています。同じ岩波書店の雑誌でも『世界』なら、ある種のイデオロギー性を指摘できるでしょうが、『思想』にそれを当てはめるのは無理だと思います。石井氏は特定の人たちに対する反撥のあまり、それを極度に一般化しているのではないかと思われてなりません。こういった十把一からげなレッテル貼りではなく、特定の論者を取り上げた具体的な論争を望みたいと思います。
なお、「1989」を「民主化の波」ととらえる考えは広い範囲に分かち持たれたもので、心情的には理解できますが、現実の歴史に即して考えるなら、願望を現実を取り違えたものだというのが冷厳な現実でしょう。むしろ「短期的に抱かれた民主化の願望の急速な後退」こそが1989-91年を特徴付けたと思います。
投稿: 塩川伸明 | 2020年1月17日 (金) 21時51分
引用しただけの私がしゃしゃり出る筋合いでもなかろうとも思いますが、おそらく「進歩的」だの「左派」だのという形容はどうでもよくて、石井さんは親中派、正確に言えば現在の中華人民共和国共産党政権擁護派のイデオローグの方々の、『思想』誌という一見高踏的な哲学雑誌上での党派的な振る舞いが腹に据えかねているということではないかと思われます。
わたくし自身は、『世界』誌は一応毎月ざっと目を通しているものの、『思想』誌はよほどのことでもない限り手に取ることもない世俗の輩なので、本書で石井さんが激怒している号ももちろん知りませんでしたし、正直なんでそこまで怒りに震えるのか、今一つ感覚的によくわからないところがあります。
いずれにしても、本書で私が一番紹介すべきだと感じたのは、序章とあとがきに噴出している石井さんの怒りに満ちた弾劾の言だったので、そこを引用したわけで、その意味では紹介文の役割は十分に果たしたのかなと思っております。
投稿: hamachan | 2020年1月18日 (土) 20時13分