今年も年末が近づいてきたので、恒例のhamachanブログ今年のエントリPVランキングの発表を行います。
今年の1位は、「第3号被保険者問題の経緯」でした。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-237e1b.html (7,528PV)
なんだか『週刊ポスト』の記事がやたらにバズっているようですが、コメントを見ていると、この問題の長い経緯がほとんど理解されていないように見えるので、本来の私の守備範囲ではないのですが、ごく簡単にまとめておきたいと思います。・・・・
この問題の起源は、1959年の国民年金法制定時にさかのぼります。「国民皆年金」という掛け声で作られた国民年金は、厚生年金などの被用者年金加入者以外をみんな入れるはずでしたが、その例外として被用者年金加入者の妻と学生・生徒は任意加入としました。この後者の学生・生徒は、その後20歳で強制加入に変わったことは周知のとおりです。
被用者年金加入者の妻についてはいろいろの議論の末、1985年年金改正で、国民年金の強制被保険者としつつ、その保険料は夫の加入する被用者年金全体で賄うこととしました。これが今日に至る第3号被保険者です。それまでの任意加入では自ら保険料を払わなければならなかったのが、払わなくても受給資格を得られるのですから、これこそが「婦人の年金権の確立」の切り札とされたわけです。しかし逆に言うと、これは被用者の妻を被用者の妻であるというだけで優遇する差別的取扱いでもありました。この改正が、労働法政策においては男女雇用機会均等法が立法された1985年という年に行われたという事実に、皮肉なものを感じざるを得ません。
というわけで、特に何か目新しいことを主張しているわけでもなんでもなく、この問題に詳しい人にとっては常識に近いことをただ解説しただけのエントリだったのですが、そういうちょうどいいくらいの解説マテリアルがなかったせいか、なぜかこれが年間1位になるくらい読まれてしまったようです。
第2位は「悪質クレームを許さない by UAゼンセン」でした。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-251998.html (7,290PV)
こちらに至っては、UAゼンセンの作成した動画を張り付けただけですが、カスタマーハラスメントを大変わかりやすく映像化したものだったためか、年間2位になるくらい見られたようです。
VIDEO
第3位は、これはそもそも2019年のエントリではなく、2018年のエントリなんですが、今年中ずっとじわじわ読まれていたエントリですね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-dd55.html (勝谷誠彦氏死去で島田紳助暴行事件を思い出すなど、5,555PV)
勝谷誠彦氏が死去したというニュースを見て、・・・ 吉本興業で勝谷氏担当のマネージャーだった女性が島田紳助に暴行された事件の評釈をしたことがあったのを思い出しました。 これは、東大の労働判例研究会で報告はしたんですが、まあネタがネタでもあり、『ジュリスト』には載せなかったものです。 せっかくなので、追悼の気持ちを込めてお蔵出ししておきます。
ネタがネタとはいえ、判例評釈が年を超えてまで読まれ続けるというのも興味深いことでした。
第4位の「研究時間が3割の大学教授は専門業務型裁量労働制が適用できない件について」も、中身は専門業務型裁量労働制の通達を示しただけのものですが、文部科学省の調査で、大学教授が研究に割ける時間は3割強というニュースが流れたときだったので注目されたようです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-cce81a.html (4,586PV)
ネット上では、いやいや俺は3割もないとかコメントがついているようですが、いやいやほんとに研究時間が労働時間の3割、というか半分未満であれば、労働基準法第38条の3によって大学教授諸氏に適用されている専門業務型裁量労働制は本来適用できないはずなんですが、そこんとこわかった上で言ってんのかな、と。
第5位も、これは普通バズるようなネタではないはずなんですが、船員法の労働時間規制の話がなぜか読まれました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/11472-bfad.html (1日14時間、週72時間の「上限」@船員法、3,827PV )
先日都内某所である方にお話ししたネタですが、どうもあんまり知られていなさそうなのでこちらでも書いておきます。といっても、六法全書を開ければ誰でも目に付く規定なんですが。・・・
第6位になってようやく、皮肉を効かせたブログ記事らしい記事が上がってきます。標的は例によって内田樹氏です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-026389.html (イエスマンを作り出したのはあなた方ではないのか?、3,286PV)
例によって、内田樹氏の壮大なブーメラン的言説をからかうエントリです。中身に新しいことは一つもなく、すべて過去のエントリに尽くされていますが、内田氏が性懲りもなくこういうことを口走るので、・・・・
拙著『若者と労働』で詳しく解説したように、このジョブのこのスキルがあるという「売り」を何一つ持てないままで労働市場で自分を売り込まなければならないという状況こそが、そう、言葉の正しい意味での「即戦力」が交渉のための素材でありえない状況こそが、内田樹氏の言うところの「イエスマンシップ」をその代替物として提示しなければならない状況のもとになっているということが、どうしてこの(「思想家」とやら自称しているらしい)人にはわからないのだろうか。 そして、そういう言葉の正確な意味での「即戦力」、「専門的な知識や技能の教育を求め」ることなく、「大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」とだけ求めてきたメンバーシップ型雇用システムこそが、そういう真の即戦力なき「イエスマンシップ」を測定不可能な職業能力の代替指標として提示せざるを得ない状況を作り出して来たというあまりにもわかりやすい因果関係を、この(信じられないことに「知性」を売り物にしているらしい)元大学教師はかけらも理解することができないらしいのだ。 いや、正確に言えば、理解する回路が初めから閉ざされているのだ。なぜなら、内田樹氏のような人々こそが、学生にいかなる「専門的な知識や技能の教育を求め」ることなく、「大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」とだけ求めてきた企業の最大の共犯者たちなのだから。企業が学生に「イエスマンシップ」を求めるような状況のおかげで飯を食ってきた者たちこそ、内田樹氏自身ではないのかという最も初歩的な反省のかけらもないこの独善ぶり。・・・・
(追記) なぜかホッテントリとなり、コメントがいくつかつていますが、例によってどっちが正しい間違っているとか、どっちの味方だ敵だというたぐいのコメントばかりで、一番肝心のこと、つまり内田樹という「知性」を売り物にしているらしい「思想家」と自称している人物の議論が、まるで矛盾撞着しており、壮大なブーメランになっているという点には皆さん関心がとんとなさそうなのが、はてぶの世界を象徴しているのでしょうね。 どっちの立場に立とうがそんなことは二の次三の次で、どっちでもありうる。断固として内田氏のような大学教授を大量に扶養しうるような「専門的なことは入社してから教えますから、大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」というメンバーシップ型雇用システムを擁護する立場があってもいいし、それを断固として糾弾する立場があってもいい。 しかしながら、およそ知性を売り物にするのであれば、およそ思想家を自称するのであれば、議論の半分ではこっち側、残りの半分ではあっち側というような都合のいい議論をしてはいけない。自分がとった立場の理論的帰結を知らぬそぶりで平然と非難糾弾するのは、少なくとも知識人と自称するのであれば、最も許されない所業でしょう。 本エントリにしろ、過去のエントリにしろ、要するにそういう話に尽きるのです。毎度毎度、性懲りもなくブーメラン言説を繰り返しながら、それを平然と「知性」の表れと演じてしまえるその厚顔無恥さにあきれてるのです。それだけ。
第7位は、いまも東大の一角で「東大闘争2.0」とやらをやっておられるらしい最年少(特任)准教授氏について、そのいきがって叫んでいる中身ではなく、彼の進路選択は意味のあるものであったと述べています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-914135.html (大澤昇平『AI救国論』を読んで思ったこと、3,126PV)
その中でも、今回の件でいささか揶揄的な調子で語られた彼のこれまでの学歴にかかわる部分は、「救国」なぞという大風呂敷の話はともかく、若者たちの職業人生を考えたうえでの進路選択という観点からすると、極めて示唆的なものだと感じました。特任准教授に「登り詰めた」などという自意識過剰な表現はとりあえずスルーして読んでください。 ・・・・
少なくとも、経済的なリソースがそれほど潤沢でない若者が、技術系のハイエンドの職業人生を目指すのであれば、高専→大学後期課程に編入→大学院というコースは極めて有効な選択肢であることは確かでしょう。 先日亡くなった眉村卓の用語でいえば、産業士官候補生としての進路選択には有効な選択肢でしょう。ビッグタレントを目指すのであれば、もう少し雑学も齧ったほうがよかったのでしょうが。
第8位は、新しい1万円札に内定した渋沢栄一と労働法のかかわりについて述べた時間差のある2つのエントリの前編です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-7677.html (渋沢栄一の工場法反対論、3,091PV)
・・・夜業ハイカヌト云フコトハ、如何様人間トシテ鼠トハ性質ガ違ヒマスカラ、昼ハ働ライテ夜ハ寝ルノガ当リ前デアル、学問上カラ云フトサウデゴザイマセウガ、併シナガラ一方カラ云フト、成ルベク間断ナク機械ヲ使ツテ行ク方ガ得デアル、之ヲ間断ナク使フニハ夜業ト云フ事ガ経済的ニ適ツテヰル・・・唯一偏ノ道理ニ拠ツテ欧州ノ丸写シノヤウナモノヲ設ケラルルト云フコトハ絶対ニ反対ヲ申シ上ゲタイ
ちなみに、後編の「渋沢栄一の工場法賛成論」は、わずか826PVで42位でした。いやこれは、両方読んでくれないと完結しないんですけど。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9402.html (渋沢栄一の工場法賛成論、826PV)
第9位は、これはいかにも本ブログらしいエントリというべきか、松尾匡さんらの反緊縮マニフェストをめぐって、世の議論のありようを4象限に位置づけてみたものです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-02b2.html (バカとアホが喧嘩するとワルが得する、2,961PV)
・・・結論から言うと、社会保障費に充てるために消費税を上げるという触れ込みで始まったはずの政策が、「増税しないと財政破綻」論のバカ軍団と「増税すると経済崩壊」論のアホ軍団の仁義なき戦いのさなかに放り込まれると、「社会保障なんか無駄遣いやからやめてまえ」論という一番あってはならないワル軍団お好みの結論に導かれてしまうからです。 あえて表にすればこういうことになります。
おそらく松尾さんたちはこの表の左下の欄、つまり増税反対だけど再分配賛成というところに属しているのでしょう。ところが、その主張がもっぱら増税反対というところに集約され、もっぱら右上の「増税しないと財政破綻」論を仮想敵国として戦っていくと、現在の政治的配置状況の下では、それは右下の社会保障なんか無駄やからやめてまえ論との共闘になり、本来の政策だったはずの「増税して社会保障に」というのは冥王星の彼方に吹き飛ばされてしまいます。 そんなに増税が嫌なら、これくらい面倒見てやろうかという軽減税率の財源にそもそもの目標であったはずの社会保障費があてられるというのが今の姿ですが、この先、米中対決その他の影響で経済情勢波高しということになって「めでたく」(皮肉です)増税が回避されたら、結局得をしたのは社会保障を目の敵にするワル軍団でしたということになりかねません。正直、その可能性は結構高いように思います。そうでなくても、今ではそもそも何のために消費税を上げるという話になったのか、だれも覚えていないという状況ですから、その目論見は達せられたというべきかもしれません。 バカとアホが喧嘩するとワルが得するという教訓噺でした。
第10位は今年のベストセラー小熊英二さんの本の紹介です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-e5878d.html (小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』、2,771PV)
日本型雇用システムを下手に論じる人の陥りがちな落とし穴は、ややもするとある政治勢力や社会勢力に一方の在り方を重ね焼きして非難の対象とし、それに反する歴史的事実は無視するという傾向ですが、小熊さんは極めて丁寧に様々な勢力の動きをフォローしており、歴史叙述としては(当たり前と言えば当たり前ですが)安心できます。 逆に言うと、その叙述の大部分は、私にとっては既視感のあるところが大きいのですが、最後のところで、私の変に世に普及してしまった図式に対する異論が提示されています。・・・・ というわけで、小熊さんは2類型ではなく「企業のメンバーシップ」「職種のメンバーシップ」「制度化された自由労働市場」の3類型を唱えます。日本は「企業のメンバーシップ」が支配的な社会であり、ドイツは「職種のメンバーシップ」、アメリカは「制度化された自由労働市場」が支配的な社会だというのです。 実は、それには私はほぼ全面的に賛成です。ただ、話は日独米の3社会だけでは終わらないでしょう。他の労働社会もそれぞれに特殊性があり、それぞれに類型化していくと類型はどんどん増えてしまいます。 これは、本書でも引用されている拙論「横断的論考」で、イギリスやフランス、さらにはオランダやスウェーデン等も含めてあれこれ(ごく簡略に)考察したところですが、限られた紙幅の中で分かりやすく説明するという状況下であれば、最初の2類型がある意味一番間違いのない類型化なんじゃないかと考えているところです。 もちろん、私にも600ページを超える新書を書かせてくれる奇特な編集者がいれば、もう少し詳しく突っ込んでみてもいいんですけど。
次点の第11位は、藤田孝典さんのつぶやきに対する批判ですが、これは決してトリビアな話ではなく、こういう基本的なことをないがしろにするような議論が蔓延する事こそが深刻な問題ではないかという危機感からのエントリです。藤田さんに伝わったかどうかはわかりませんが、本ブログの読者にはぜひじっくりと呼んでいただきたいと思います。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-9979b9.html (無知がものの役に立ったためしはない、2,467PV)
例の「年金返せ」デモについて、藤田孝典さんがこういうことをつぶやいていたようですが、https://twitter.com/fujitatakanori/status/1141039413918437377 年金について勉強してから発言したり、行動するべきだ、という議論もあるみたい。しかし、そんなことは政治家、官僚、研究者、専門家の仕事。一般市民や大衆は、怒りを感じたらみんなで集まり、デモや示威行動で表現すればいい。何も行動しないよりはるかにマシ。 いやこれは全然駄目。 細かいところまで勉強せよとは言わない。しかし、公的年金とはそもそも如何なるものであるか、そして公的年金制度において「年金返せ」なるスローガンが如何なる、どちら向きのベクトルを持った台詞であるかという、基礎の基礎のそのまた基礎に当たるようなことを全く理解しないほどの不勉強な、方向性を全く間違えた「怒り」なるものを、それが無知な大衆の怒りであるという理由で賞賛するような議論は、良く言って愚かの極みであり、悪く言えば利敵行為以外の何物でもないでしょう。 保険料の拠出という形で個人の権利性を確保しつつ、公的社会保障制度全体で貧富間の再分配を図るという仕組みの根源を破壊する方向の論理だからです。 公的年金をつかまえて、あたかも私的な取引に基づく積立貯金であるかの如く「返せ」などという言語を発すること自体が、脳内主観では敵対していることになっているホリエモンと全く寸分違わない立場に自らをおいているという基礎の基礎すら理解できていないような人間は、やはり最小限のことを勉強してから発言したり行動すべきなのです。 同じ社会保障制度で例を取れば、健康保険で医者にかかって本人負担分の高さに逆上して、「健康保険料返せ」とわめき散らして、公的健康保険を破壊し、市場ベースの医療保険だけの、ムーア監督の「シッコ」の世界を求めるかの如き無知な「庶民の怒り」を、褒め称えるようなことを言ってはいけないのです。
ちなみに、この「無知がものの役に立ったためしはない」というセリフがそもそも誰の言葉であったかを指摘する人が一人もいなかったのも、マルクス御大がいかに忘れ去られているかを象徴するようなことだったなあ、と。
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