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2019年9月27日 (金)

早川行雄『人間を幸福にしない資本主義』

480478 早川行雄さんより『人間を幸福にしない資本主義』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.junposha.com/book/b480478.html

アベ政権下で広がる経済格差、非正規労働者問題、労働法規制緩和……。
労働組合の存在意義である「春闘」にも政権の手がおよび、「官製春闘」と揶揄される始末。
アベノミクスの分析から、資本主義の行きづまりを働くものの側からどう克服していくべきかを問う。

ただ、私は本書をあまり高く評価できません。それは、かつて早川さんが連合総研時代に編集担当した『DIO』311号に対して辛口の批判をしたことの延長線上にあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-1e75.html (労働組合は成長を拒否できるのか?)

正直言って、労働者の労働者としての利益を追い求めるために存在するはずの労働組合のシンクタンクが、こういう(あえてきつい言い方をしますが)腹ふくれ満ち足りたブルジョワの息子の手すさびみたいな議論をもてあそんでいて良いのでしょうか、という根本的な疑問が湧いてくるのを禁じ得ません。特に最初の二つ。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-83ac.html (そのつど「対抗軸」を探し求めるのか?)

そもそも、労働組合という社会的存在は、それ自体が自らの「軸」を持っているはずではないのか?その、しっかりと存在している「軸」から、あれやこれやの政党の掲げる、あるいはその時その時の思いつきで繰り出すさまざまな「軸」に対して、これは「是」、これは「非」と、しっかり言うべき立場のではないか、というのがわたくしの基本的な認識なのです。

労働組合は政党ではありません。政党ならば、野党であるから与党の「軸」に対して反対しなければならない、「対抗軸」とやらを打ち出さなければならないということもあるのかも知れません。いや、本当は政党であってもそんなのはおかしいのであって、本来ちゃんとした「軸」があって、そこから是非の判断が出てくるべきと思うのですが、全く逆向きの考え方の政治家たちがただ一つ政権交代という「軸」だけで寄り集まったような政党であれば、そんなことを言っても仕方がないのかも知れません。

でも、繰り返しますが、労働組合はそうではありません。たまたま与党が賃金抑制を言っていればそれに反対する、与党が賃金引き上げをいえばそれに反対する、というような訳のわからない存在ではないはずです。何が何でも「対抗軸」をでっち上げなければならないと思うから、話がおかしな方に向いていくのではないか。与党が何を言おうがぶれない「軸」があるはず。

要するに、労働組合は与党の言うことにいちいち対応してその都度一生懸命に「対抗軸」とやらを考えなければならない義理など、誰に対してもないはずなのです。なぜなら、労働組合の「軸」は移ろうゆくその都度の政府与党の政策に対してその都度移ろいゆく「対抗軸」などではなく、誰を相手にしても変わらない自分たちの「軸」であるはずだから。

もし、その労働組合本来の「軸」がいささか不明瞭になってきたために、野党まがいの「対抗軸」探しに向かいだしているとしたら、実はその方が遥かに問題だと思いますよ。

ややきつい言い方をすると、本書はあまりにも「反アベ」の対抗軸に熱中しすぎているように思われます。それがなぜ悪いか。敵対しようとする「アベ」政策が実は必ずしも理論的整合性のないやや雑多な思想のアマルガムであることを見事に鏡像的に映し出して、その対抗軸自体もあまり理論的整合性のない雑多な思想のアマルガムになってしまうからです。ある理論に反対を貫くのであれば(是非はともかく)それなりに一貫した理論になり得ます。しかし誰かに反対を貫くと、それが一貫するかしないかはその敵対者の理論的一貫性に全面的に依存してしまうことになります。そういう「対抗軸」路線はつまらない、と私は思います。

本書の第4章は「定常状態経済と社会の再封建化」と題されています。

資本主義社会が成長しなければ倒れてしまう自転車操業の社会であるのに対して、封建社会というのはそもそも成長を目指さない定常状態を理想とする社会です。それを是とするか非とするかはともかく。

ところが本章で早川さんは、上記DIOで広井良典氏や水野和夫氏が展開しているような定常状態経済をポスト資本主義論として賞賛しておきながら、そのすぐあとで「再封建化」を悪口として使っているようなのです。いやどちらの立場でもいいのですが、ごちゃごちゃにしては行けないと思いますよ。

なぜそういうことになるのか。端的に言って、「対抗軸」路線だからです。確かに「アベ」政策は、むき出しの資本主義的経済成長志向であるとともに、ある種の伝統社会的な要素(それこそ戦後社会の感覚では「封建的」と(やや不正確に)呼ばれてきたような)に執着する傾向があります。

だから、「反アベ」であることをすべてに優先する絶対基準とするならば、その立場は「反経済成長」でありかつ「反封建化」でなければならないでしょう。でも、それは、繰り返しますが、敵対者の理論的整合性に全面的に依存することであり、敵対者が理論的整合性のない雑多な思想のアマルガムであれば、それを鏡像的に映し出した単なる正反対の雑多なアマルガムを作り出すことにしかなりません。くりかえしますが、私はそういうやり方はつまらないと思います。

まあ、でも早川さんはこういう批判に納得しないでしょうね。

ではお前はどう考えるのか?と言われれば、現時点で脱資本主義だの定常状態だのといった「腹ふくれ満ち足りたブルジョワの息子の手すさびみたいな議論」をもてあそぶべきではない、と思います。

本書のタイトルは『人間を幸福にしない資本主義』ですが、これを「資本主義はそもそも人間を幸福にしない」(からやめるべき)と読むのではなく、「人間を幸福にする資本主義」があるはずだからそれを目指そうと読む立場です。

そして、労働組合とはなによりも市場経済を人間にとってよりよいものにするための存在であり、労働力販売者という市場プレイヤーとしての労働者の権利利益を最大化することによって市場経済を健全化する存在だとみなす考え方です。労働者の生活が豊かになるような経済成長を目指そうという考え方です。それが少なくとも現時点では、労働組合が依拠すべき立場だと思います。

ある意味、まことに平凡な思想ですが、少なくとも「対抗軸」路線と違って、その筋道の通り工合は敵対者任せではありません。

(追記)

ちなみに、本書補論によれば、早川さんは1972年に成蹊大学法学部政治学科に入学し、大学の同じ学科で1年後輩に安倍晋三君がいたのだそうです。

 

(再追記)

本エントリに対して、高橋伸彰さんがこうツイートしているのですが、見事に「ブルジョワ」本人とここで言っている「ブルジョワの息子」をごっちゃにしています。いやもちろん、資本蓄積に余念のないブルジョワ本人はこんなポエムを口走ったりしません。親の金で豊かな生活を送りながら清貧だの反成長だのとポエムを語れるのはブルジョワの息子の方です。

https://twitter.com/EcoTakahashi/status/1178121443583807488

hamachanは「脱資本主義だの定常状態だのといった「腹ふくれ満ち足りたブルジョワの息子の手すさびみたいな議論」をもてあそぶべきではない」と言うが、そういう奴らほど成長志向で膨張主義、いくらカネを持っても満足しない「1%の奴ら」だってことを見落としているのではないか。 

ちなみに、どちら側に立ってものを言っているかというベクトルの向きでは高橋さんとは全く正反対の人が、まったく同じような勘違いをしてコメントしてきたことがあります。その時のやり取りをどうぞ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-d175.html#comment-114182652

それにしてもブルジョアで何が悪いのだろう?
言っちゃ悪いけどそうとう無能じゃないかぎりそこそこ食ってける先進国でブルジョアが増えるのは当然ですよね。まして一定の学歴を備えた知識層ならなおさらだ。
相手をブルジョア認定して勝ったつもりになってるなら、どんだけ極左なんだよと思うし、
ブルジョアに負けて悔しいなら、労働者の団結とか大きな政府とかを妄言・狂言レベルにまで貶めた社会主義の先輩方に文句を言うべきだろう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-d175.html#comment-114182859

人の文章は丁寧に読むこと。自分の頭の中のイデオロギー構造で勝手に思い込んだ脳内文章を相手に、見当外れの罵言を投げ散らかしても、なんの意味もありませんよ。自分の自慰以外には。
本エントリは、自分で事業をやって利潤を上げているブルジョワ本人については、何も語っていませんよ。阿波さんの脳内にはあるかもしれないけど。
ここで、ポエムな議論をからかうために引っ張り出しているのは、上記エントリを素直に読む人であれば、誰も誤解する余地もないくらい明らかなように、そのブルジョワの親父の金で呑気に生きられているブルジョワの息子であり、だから、腹膨れ満ち足りた、という形容をつけ、手すさびという侮蔑的表現をあえてしているわけです。
そのバカ息子の親父のブルジョワ本人であれば、事業活動で利潤を上げることの大変さを知っているブルジョワ本人であれば、こんなポエムを垂れ流すようなことはないでしょうから。
ま、なんにせよ、当該エントリからかけ離れた脳内議論を垂れ流すまえに、せめて当該エントリをしっかり読むことを心掛けた方がよろしいように思います。 

(さらに追記)

というわけで、せっかくなので2012年ごろから2014年ごろまで間歇的に本ブログ上で交わされていた「左派と成長」をめぐるエントリをお蔵出しして、(いるかどうかわかりませんがもしいれば)関心ある方のご参考に供しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-5bad.html (「成長」は左派のスローガンなんだが・・・)

いうまでもなく、ヨーロッパでは、これが左派の代表的な発想なのであって、それがねじれている日本は、さて誰に責任があるのでしょうかね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-211d.html (「成長」は労組のスローガンなんだし)

いや、あまりにも当たり前のことではあるのですが、極東に来ると、「成長」論者というのは「質の高い仕事、社会正義、そして不平等との戦い」を敵視する人々であるという社会認識(というか、自己認識)がけっこう広まっているので、頭を抱えたくなるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-a0c8.html (左翼が「成長」なんて主張したことはない だって!?)

確かに、まっとうなリフレ派じゃない「りふれは」の手合いの言う「成長」は、社会全体のブラック企業化を狙っているとしか思えないようなニュアンスがぷんぷん漂ったりしてますからね。

でも、そういう「りふれは」風インチキ「成長」が嫌だからといって、反成長論になだれ込んでみたって、いいことは一つもないわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-8159.html (何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか)

ジョブ型社会では、経済成長すると、「ジョブ」が増える。「ジョブ」が増えると、その「ジョブ」につける人が増える。失業者は減る。一方で、景気がいいからといって、「ジョブ」の中身は変わらない。残業や休日出勤じゃなく、どんどん人を増やして対応するんだから、働く側にとってはいいことだけで、悪いことじゃない。

だから、本ブログでも百万回繰り返してきたように、欧米では成長は左派、社民派、労働運動の側の旗印。

メンバーシップ型社会では、景気が良くなっても「作業」は増えるけれど、「ジョブ」は増えるとは限らない。とりわけ非正規は増やすけれど、正社員は増やすよりも残業で対応する傾向が強いので、働く側にとってはいいこととばかりは限らない。

とりわけ雇用さえあればどんなに劣悪でもいいという人じゃなく、労働条件に関心を持つ人であればあるほど、成長に飛びつかなくなる。

も一つ、エコノミック系の頭の人は「成長」といえば経済成長以外の概念は頭の中に全くないけれど、日本の職場の現実では、「成長」って言葉は、「もっと成長するために仕事を頑張るんだ!!!」というハードワーク推奨の文脈で使われることが圧倒的に多い。それが特に昨今はブラックな職場でやりがい搾取するために使われる。そういう社会学的現実が見えない経済学教科書頭で「成長」を振り回すと、そいつはブラック企業の回し者に見えるんだろうね。

まあ、要すれば文脈と意味内容のずれによるものではあるんだが、とりわけ経済学頭の人にそのずれを認識する回路がないのが一番痛いのかもしれない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html (決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

「1日の平均勤務時間は16時間くらいでしたね。サービス残業はあたりまえで、泊まりもありました。みんなけっこう自分から長時間労働をしているので、おかしいなと思い、『どうしてこんなに働くんですか』って聞いたことがあるんです。そうしたら『決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!』と……。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-5698.html (「成長」をハードワークの同義語として擁護/反発する人々)

本ブログでも何回も指摘しているのですが、なまじまじめに経済学を勉強してしまったありすさんは、世間一般で、とりわけブラックな職場で人をハードワークに追い込むマジックワードとして用いられる「成長」という言葉が、厳密に経済学的な意味における「成長」とは全然違うことにいらだっているわけです。

でもね、その「成長」への反発は、そういう「成長」を振りかざす人々がいるからその自然な反作用として生じているのである以上、お前の用語法は経済学における正しい「成長」概念と違う、といってみても、なかなか通じきれないわけです。

 

 

 

 

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コメント

拙著をご紹介いただきありがとうございます。いろいろとご批評をいただいておりますので、4-5年前のDIO論争の蒸し返しのようでもありますが、批評にはお答えするのが世の仁義でしょうから、二三の私見を述べさせていただきます。
「敵対しようとする「アベ」政策が実は必ずしも理論的整合性のないやや雑多な思想のアマルガムであることを見事に鏡像的に映し出して、その対抗軸自体もあまり理論的整合性のない雑多な思想のアマルガムになってしまうからです。」という点については、本書はもともと個別課題についての評論集であり、それぞれが独立した論考となっています。それを整合性のないごった煮とみるのか、ほかの誰でもないひとりの知識人の揺るぎない思想に裏打ちされたものとみるのかは、評者の立場や理解の程度によって自ずと変わってくるものです。十分にご理解を得られなかったことは残念ではありますが、ここで重要なことは、それぞれの見解が真に対抗軸となりえているのか否かということでしょう。本来、批評というものはそうした視点からなされて然るべきと思います。
「広井良典氏や水野和夫氏が展開しているような定常状態経済をポスト資本主義論として賞賛しておきながら、そのすぐあとで「再封建化」を悪口として使っているようなのです。いやどちらの立場でもいいのですが、ごちゃごちゃにしては行けないと思いますよ。」というところは全くの誤読か理解不足です。「再封建化」という表現(執筆当時、来日公演したジークハルト・ネッケルの再封建化論に触発された面もありました)が誤解や多様な解釈を許しかねないことから、本書では一応ここでの意味合いを定義していますので、ご確認ください。付言すれば、中世封建社会は近世絶対主義権力の確立によって衰退し、絶対主義時代を過渡期として近現代の資本主義の時代に至ったが、市場経済はというのは中世、近世から今日にいたるまで発展しながら継続しており、資本主義というのは近代以降に市場経済を機能させてきたOSのようなものというのがわたしの歴史観です。そしてこのOSはバージョンアップやニューバージョンへの転換を繰り返しつつ、ついに耐用年数を超え始めたということです。因みにいえば、封建社会は定常的で資本主義は発展を続けるというのは一面的な認識です。封建社会にも生成、発展そして長い成熟=停滞期があったが、資本主義も歴史的な展開は同様です。ただ資本主義というOSのままでは今日の市場経済の定常化に対処できないというのが本書の見解です。お分かりのように、資本主義と市場経済を同義のように扱うことが混乱の根本原因です。
「労働組合とはなによりも市場経済を人間にとってよりよいものにするための存在であり、労働力販売者という市場プレイヤーとしての労働者の権利利益を最大化することによって市場経済を健全化する存在だとみなす考え方」は、一見まともなようで、その実は新古典派と同根のステレオタイプ化された労働組合観にすぎません。労働組合が「市場経済を人間にとってよりよいものにする」「市場経済を健全化する存在」であることに異論はありませんが、労働組合は決して「労働力販売者という市場プレイヤー」に自らを限定するものではありません。連合が市民セクターとの連携を打ち出しているように、社会的労働運動の役割もまた重要ですし、わたしなどは安保闘争や日韓闘争のような政治闘争を中心的に担う(べき)ものとして労働組合を位置付けてきました。トロツキーは労働組合のこうした役割を「革命の学校」と表現しましたが、政治ストと大衆行動の街頭の圧力を組み合わせた闘争を抜きにして市場経済の健全化など夢想もできないというのが、いわばわたしの左派としての矜持みたいなものですね。
「本書のタイトルは『人間を幸福にしない資本主義』ですが、これを「資本主義はそもそも人間を幸福にしない」(からやめるべき)と読むのではなく、「人間を幸福にする資本主義」があるはずだからそれを目指そうと読む立場です。」という部分。労働組合の役割では「市場経済の健全化」といい、ここでは「人間を幸福にする資本主義」という。市場経済と資本主義をいっしょくたに論じてはいけません。本書のタイトルに合わせた比喩的表現ではすまされない本質的な問題がここには含まれています。
余談ですがその『幸せになる資本主義』の著者、田端博邦さんがデジタル版現代の理論に拙著の書評を書かれるそうです。田端さんのご著書の資本主義は、明らかに市場経済と読みかえた方が分かりやすいと思いましたが、いずれにしても戦々恐々としてお待ちしているところです。

早速詳細な反論ありがとうございます。

細かい点は別として、根っこにあるのは労働組合観(あるいは「資本主義」観、「市場経済」観)それ自体の違いであることは間違いないようです。(hayachanさんが「誤読」といわれる点も、「資本主義」観の裏返しとしての「封建制」観の違いを反映しているようですし)

それくらい広くかつ深い話をこのコメント欄で展開するのは無理筋なので、『DIO』311号の時に金子良事さんがコメントされたエントリを紹介しておきます。上記リンク先です。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-416.html


ブルジョワの息子に人気があるのが「脱成長」、「清貧」とかだとすると、ブルジョワの娘に人気があるのが「フェミニズム」であると。

息子と娘で「親の遺産」の分捕りあいをするのは勝手にすればいいと思うのだけど、お前ら、邪魔だから、こっちに来んなよ、と思いますね。

>どちら側に立ってものを言っているかというベクトルの向きでは高橋さんとは全く正反対の人が、まったく同じような勘違いをしてコメントしてきたことがあります

 阿波さんですね。懐かしい。人種・性別・宗教などの差別に怒りを燃やし、一方で格差の拡大を容認しソーシャルを攻撃する。そして、そのためには手段を選ばない。管理人をはじめ、多くの人に迷惑がられていましたね……。2016年末から2017年初めの辺りでしたっけ。月日が経つのは早いものです。

 最近は、#MeTooや、TV番組での黒塗り騒動など、人々の間で「差別」がクローズアップされ、反差別・PCが大きな声で叫ばれるようになっています。これも、昨今の日本経済が好調だからかもしれません。2000年代の日本は「貧困に苦しむ中で、反差別どころではない」というムードで、その中で出てきたのが赤木智弘の「希望は、戦争。」だったわけです。

 最後に一つだけ言えるのは、「差別と、思想・イデオロギーは関係が無い」ということです。右派も差別をするし、左派も差別をします。あるカテゴリでは善良に振舞っていても、別のカテゴリで差別をしていたりする。人間、分からないものですね。

前回のコメントで「予告」していました田端博邦さんの書評がデジタル版「現代の理論」に掲載されましたので、ご参考までに紹介いたします。
http://gendainoriron.jp/vol.21/review/tabata.php

田端さんの書評、拝見しました。
ただ、田端さん自身も、その「社会の再封建化」なる概念については、礼儀正しく批判はしないものの全面的に持ち上げるという風情でもなさそうな感じです。

>そうした資本主義論のなかで重要な概念として用いられているものに、「社会の再封建化」というものがある。一般にはまだ流通していない概念だと思われるが、著者によれば、自由競争や政治的民主主義の「虚構」が、大企業への経済力の集中と資本による政治支配のもとで「崩壊」した結果として現れたとされている。
評者の解釈によれば、資本主義のいわば正統性を支えてきた自由市場や民主主義の虚構が、独占的大資本の経済的、政治的支配の強まりによって虚構としても崩壊し、そうした支配があらわになった状態が「再封建化」と表現されているのである。それは、あたかも生の権力的支配のごときものであり、「経済的な支配権を握る特権階層が…政治的権力をも掌握して人民を支配する」封建制度に似ている、というわけである。虚構としての民主主義そのものが、虚構としても衰退する傾向についてはクラウチの「ポスト・デモクラシー」論も参照されている。
このような「再封建化」の概念は、著者自身がその内容を紹介しているハーバーマスの『公共性の構造転換』から借用したものである。著者の概念とハーバーマスのそれとは正確に同じものではないが、大きな部分で重なっている。ハーバーマスの再封建化と本書のそれとの関係についてはさまざまな議論がなされる可能性があろう。また、日常用語との距離が大きいということを考慮すると、例えばシュトレークが言うような「非/反民主主義化」あるいは日本語としては古典的な「政治反動」というような表現で代替されうるのか、という点も考えてよいかもしれない。しかし、いずれにしても、「再封建化」概念の基本的な意義は、市場原理主義、新自由主義的な政策が、その言説上の外見と裏腹に、再封建化を推進する役割を果たしているということにある。それは、市場原理主義に対する、そして資本主義化した資本主義に対する最大級の批判概念となっていると言ってよいであろう。
そのような再封建化は「資本主義の断末魔のあがき」にほかならない。ポスト資本主義の社会運動を構築することが「私たちの革命の課題」である、と著者は言う。これは非常に困難な課題であると思われるが、しかし、真剣に向き合う価値のある課題である。

わたしは田端さんほど慇懃な物言いはしないたちなので、ずばり言ってしまうと、「資本主義の断末魔のあがき」たる「市場原理主義」を「再封建化」などと描写する用語法は、兎に角悪口を言いたいという以上の論理的整合性のないものの言い方だと思います。

中世の封建制とはいかなるものであったのか、それを否定して出てきた資本主義社会とはいかなるものであったのか、その中から現れた社会主義運動とはいかなるものであったのか、という歴史の弁証法をちょっとでも考えたことがあれば、こういう終戦直後の「ホーケンテキ」が万能の貶し言葉であった時代のような用語法になんの疑いも持たずにいられないと思うのですが。

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