35年前のエッセイ
パソコンの奥の奥から、なぜか今から35年前(1984年)にひっそりと書いたエッセイみたいなものが出てきました。まだ就職してそれほど経たない頃の若気が匂ってくるような文章ですが、そしてその用語法には今では違和感が結構ありますが、それにしても大きな枠組みとしては考えていることは35年たってもあんまり変わっていないな、という感想もこれあり、正直恥ずかしい若書きの代物ですが、人様のお目に触れるところにアップしてみようと思います。
いうまでもなく、まだバブルが崩壊し、日本経済が凋落していくなんてことが誰も想像していなかった頃の、まさにジャパン・アズ・ナンバーワンを信じていたころの、その成功のメカニズムをやや斜に構えて、かつその将来をやや悲観的めいた視座で綴ってみた作文ですが、現在の時点から読み返してみると、いろいろな意味で感慨深いものがありますな。
「仕切られた平等」の崩壊
1984/3/29
現在進行しつつあるのは、老壮青男女の「仕切られた平等」システムの崩壊である。「青少年はただ勉強していればいい。他はするな。」「成人女性はただ家事をしていればいい。他はするな。」「成人男性はただ仕事をしていればいい。他はするな。」という社会的棲み分けが現代社会の基本的な構造をなしているが、この構造はそれぞれの内部における強い平等主義--それも競争意識に満ちた平等主義に彩られている。平等主義と競争意識は建前・本音構造をなし、閉じられた不自由性と相まって、ものすごい緊張をその中に発生することになる。
「仕切られた平等」システムの中核をなすのは、成人男性における「社員の平等」である。これは次の3つからなる。第1は平等な出発点としての新卒一括採用システムであり、第2は平等な過程としての年功序列システムであり、第3は平等な結末としての一律定年システムである。これらはいずれも能力による差別の否定という建前の上に成り立っている。企業ができるだけ中途採用を避け、新卒一括採用をしたがるのは、それが新入者間に格差なしという建前にもっとも合致するからである。中途採用の場合、どうしても資格・経験等による能力判断を強いられる。その点、新卒ならどうせ皆未経験な未熟者なのだから、同じスタートラインに乗せても問題はない。しかし、この平等主義の建前の裏では、その平等なスタートラインに乗るための競争、本音のレベルであるが故に正当化されえず、それゆえいっそう緊張度の高い競争が渦巻くことになる。この矛盾の象徴が、個性を殺すことによって目立とうとするリクルートスタイルであるといえよう。
こうしていったん会社にもぐり込むと、皆等しく「社員」である。元来「社員」とは財産法上の概念であって、会社の出資者を指すのだが、それがいつの間にか、雇用労働者を指すことになっていたというのも面白い現象である。「社員」という言葉で彼らを表現することによって、共同体の成員であるかのような意識が発達する。この「皆同じ社員」たちを、いつまでも皆同じ社員にしておくための労務管理システムが年功序列システムであるが、これもまた建前としての平等主義による同期一斉昇進システムと本音としての足の引っ張り合い競争の中で、「同期間で微妙に差を付けながら、逆転人事はしない」という同期間競争年功序列システムという表現型をとっている。
賃金制度の面からいうと、彼らは皆三角家族の世帯主あるいはそうなるべき者として年功型生活給賃金体系のもとにある。労働力としての限界生産性ではなく、家族を扶養して生活していける賃金というのがその決定原則であり、これは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義原理の具体化とみることもできよう。このため若年者において生産性以下の賃金しか支払われない分を中高年者において生産性以上のプレミアムとして分配することになり、労働市場の需要供給関係を著しく歪めることになる。企業それ自体は市場の海に浮かんでいるため全体として労務費の採算がとれていなければならず、生産性と分配の差が一定限度を超える者は排出する必要が発生するが、これもまた一律定年システムとして平等主義的に解決される。
このように、成人男性に与えられた生き方は、入るときから出るときまで、一律平等に「社員」という身分のもとで会社に忠誠を誓いながら隠れた競争を行い、三角家族世帯主たることを前提とした年功序列型分配システムのもとで建前としての平等を享受するというものであった。この「社員の平等」と対をなすのが成人女性における「主婦の平等」である。「主婦」というのは戦前の山の手族の間で発生した概念で、「家政」を取りしきり、女中や下男を使用する主体としての「主」なる「婦」という意味だったのだが、戦後システムにおいては核家族(三角家族)の妻を指すようになった。つまり誰でも結婚さえすれば「主婦」になれるわけで、上野千鶴子流にいえば「主婦の粗製濫造時代」であり、著しい意味のインフレをきたしているわけだが、これはちょうど成人男性が誰でも雇われれば「社員」になれるのと対応している。しかも「社員」以上に「主婦」は相互に対等であり、社会全体にわたってもっとも無階層的均質化に到達したのは戦後システムにおける主婦たちであったといってもいいであろう。核家族というのは、すべての成人女性が等しく主婦であり得るための制度である。それは姑と嫁という同一世帯内における主婦相互間の緊張を伴った階層化を排除するとともに、家族構成を相互に同型的にすることによって(三角家族)、異なる世帯の主婦の間における格差を極小化した。
「主婦の平等」はさらに3つに分けられる。第1は「結婚の前の平等」であり、「女の平等」と呼べるものである。第2は「家事の前の平等」であり、「妻の平等」と呼べるものである。第3は「育児の前の平等」であり、「母の平等」と呼べるものである。
第1の「結婚の前の平等」を支えるものとして恋愛結婚イデオロギーがある。これは結婚の正当性は当事者男女間の恋愛感情の存在によってのみ根拠づけられるとするものであって、所有財産や稼得能力に基づく結婚を「不純」として非正統化することによって、女性をその社会的属性から切り離された「女として平等」な地位に置く。多くの少女向け読み物が、男性獲得競争において取り柄のない平凡な娘が取り柄のある少女たちに勝利するというテーマを好んで描いてきたのは、このことを示している。これが目立たないことによって選ばれるというリクルートスタイルの思想と相似形をなしているのは興味深い。
結婚して妻になると、彼女らは「家事の前に平等」である。戦後システムの最大の特徴は、かつて主婦から女中に至る階層構造をなしていた「家政」が、ただ「主婦」のみによって担われる「家事」に移行したことであり、これは女中という大量の女子労働力が消滅したことによって示される。家事の非市場化は、「家事は主婦がすべてこれを行い、しかも主婦のみがこれを行う」という新しいパラダイムの成立を告げるものであった。この背景として、電化等の技術革新によって、一家の家事量が一人の労働力で賄え、しかも一人の労働力は必要である程度にまで収縮したことがある。その意味では、やがて技術革新の一層の進展により「妻無用論」(梅棹忠夫)が出てくることが予想されたわけだが、少なくともそれまでは、主婦というのは結婚したその日から相互に対等であり、しかも家族にとって唯一無二必要不可欠なものとして社会的に評価される存在として、学校教師に似たところがあった。
出産によって妻は母に昇進する。母は「育児の前に平等」である。子守や乳母といった育児労働者はほとんど姿を消し、育児に最大限の考慮を払わない母は道徳的非難の対象となる。母の価値は育児への投下労働量で決まるため、戦後生まれの子供は空前絶後の過保護下で育つことになった。
核家族化によって主婦はかなり徹底した相互平等性を獲得したが、これはもちろん競争の不存在を意味するものではない。ただ彼女らにあっては競争の認識・評価主体と実行主体が分離しており、夫の出世や子供の成績のいいことが競争の対象となる。そのことが建前としての「妻の平等」のもとでの本音としての自らの妻としての優位性、建前としての「母の平等」のもとでの本音としての自らの母としての優位性を求める感情を満足させてくれることになる。
いずれにしても、戦後システムにおける「主婦の平等」は非常に広い範囲にわたって平等性を実現したという点で空前絶後のものであろう。そして、これと先述の成人男性における「社員の平等」とが相まって、世界でももっとも世帯間平等度の高い社会となったわけである。このシステムがもっとも完成に近づいたのは、世帯主外労働力率が最低になった1970年代中頃とみられる。これは世帯主間所得格差を埋めるべき必要が最少になったことを意味している。このことは戦後パラダイムにおいては幸福の絶頂と評価すべきことであった。戦後型「仕切られた平等」システムが崩壊し、能力主義的多就業世帯システムに移行すると、雇用機会の配分が偏る危険性が高い。つまり、今まではすべての世帯に一つづつ世帯主用就業機会を配分した後、世帯間所得格差縮小のため低所得層ほどより多くの雇用が配分されたわけであるが、老壮青男女すべてが就業することが前提となると、かつては世帯主間だけにあった良好雇用機会獲得競争がすべての人々の間に広がることになり、世帯主であるなしに関わらずその能力順に良好な雇用機会が配分されるため、ある世帯は成員が皆良好な雇用機会を得ているのに、他の世帯は誰も良好な雇用機会、いや劣悪な雇用機会すら得られないという状況が発生しやすくなる。「結婚の前の平等」が薄れるため、階層内インブリーディングの傾向が強まることもこの事態を促進すると考えられる。つまり、良好な雇用機会を獲得しやすい者同士が結婚するため、追い出され効果によって獲得しにくい者同士が結婚せざるを得ず、結果的に良好な雇用機会から疎外された世帯が多数発生することが予想されるのである。マイクロエレクトロニクスを始めとする情報化によって社会全体として必要労働量が著しく減少することを考慮に入れると、社会の少なからぬ部分が雇用機会がほとんど配分されない完全失業世帯となる危険性もある。
もちろん時代の雰囲気が「必要」「生活」「平等」といった社会主義的なものから、「能力」「機会」「自由」といった資本主義的なものに変わっているであろうから、それが直ちに正義に反するものとして断罪されることはないにしても、世帯間雇用機会配分の不均等は低所得層における反社会的意識傾向を強めることになろう。いうならば、かつての産業化の時期にも似た階級分化が進むわけである。
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