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2019年8月22日 (木)

戦後労働法学の歴史的意味@『労基旬報』8月25日号

『労基旬報』8月25日号に、「戦後労働法学の歴史的意味」を寄稿しました。

http://www.jade.dti.ne.jp/~roki/hamaguchisensei.html

 昨年刊行した『日本の労働法政策』(労働政策研究・研修機構)では、近代日本の労働法政策の歴史をほぼ20年周期で区分し、自由主義の時代(1910年代半ば~1930年代半ば)、社会主義の時代(1930年代半ば~1950年代半ば)、近代主義の時代(1950年代半ば~1970年代半ば)、企業主義の時代(1970年代半ば~1990年代半ば)、市場主義の時代(1990年代半ば~)と名付けています。この時代区分自体にもいろいろと議論のあるところですが、今回はそれと労働法学の動向がどこまで対応していたのか、あるいはいなかったのかについて考えてみたいと思います。その際、終戦直後に誕生し、高度成長期に至るまで大きな影響力を振るったいわゆるプロ・レイバー労働法学をどう位置付けるべきかに焦点を当てて考えます。
 戦前の自由主義の時代には、そもそも労働法学という分野自体確立しておらず、末弘厳太郎ら一部の研究者が新分野を開拓する形で研究を進めていました。これは当時内務省社会局が政府部内で社会立法に向けて気を吐いていたのと対応しています。労働法研究が大きく拡大するのは、戦時体制下で続々と勤労統制立法が相次ぐようになってからです。当時の労働法学者は、時代の空気を読んで国家主義的なレトリックをまぶしながら、次々と作り出される労働立法の解説に勤しみました。
 日本が戦争に敗れた1945年は圧倒的に多くの歴史叙述において20世紀最大の画期とみなされていますが、労働法政策の観点からすれば同じ社会主義的労働政策の中で、ナチス流の国家社会主義的な方向からアメリカのニュー・ディール風の偏差を持った社会民主主義的な方向への転換がされた年という位置づけになります。では労働法学においてはどうだったのでしょうか。GHQ占領下で続々と制定された戦後労働立法を受けて、社会民主主義的な労働法学の潮流が確立していった・・・・というわけではありませんでした。むしろ、当時の急進的な労働運動に引きずられるように、あるいはそれを引きずるような形で、マルクス・レーニン主義や唯物史観を掲げる労働法学が一世を風靡し、多数派となっていったのです。世に言う「プロ・レイバー労働法学」です。これに対し、「労働力の集団的コントロール」を掲げ、欧米型のトレード・ユニオニズムを理念型とする吾妻光俊らは少数派にとどまりました。
 当時の労働法学はその関心のほとんど大部分を労使関係法に向けていたので、その対立もほとんど労働組合、団体交渉、労働争議といったことに関わるものでした。まずもって終戦直後の労働組合が実行した生産管理闘争に対して、欧米労働組合の「労働力の売り止め」という労働争議のあり方に反することから否定的な吾妻らに対し、プロ・レイバー派はその正当化に努めました。その後も、職場占拠、ピケット、ビラ貼り、リボン闘争など、トレード・ユニオニズムからは正当化しがたい日本独自の職場闘争スタイルをいかに正当化するかがプロ・レイバー派の課題であり続けました。
 これは、労働法政策が近代主義の時代に入った後もかなり長く続き、たとえば1966年に労働省の労使関係法研究会が浩瀚な報告を出したときも、会長の石井照久を始め、欧米型トレード・ユニオンの理念型から現実の日本の労働運動を批判する論調であったのに対して、プロ・レイバー派は非難を浴びせました。その最大の理由は、現実の日本の労働組合が圧倒的に企業別組合であるにもかかわらず、労使関係の近代化を主張することは結果的に労働運動の弱体化につながるではないかという点にありました。職務給の導入など欧米型の労働市場への近代化を唱える政府に対して、それが中高年男性の賃下げにつながると否定的であった当時の労働運動やマルクス経済学者とよく似た構図であったと言えましょう。
 この、近代主義の時代に近代化を拒むスタンスは、言葉の上ではマルクス主義や唯物史観の用語がちりばめられているため「左翼的」に見えますが、現実の社会構造上の機能という観点から見れば、企業別組合という変えがたい現実に限りなく妥協しようとする現実主義であったと評することもできるでしょう。そしてそれは、戦時中の産業報国会を受けつぐものであり、その意味で社会主義の時代の産物でした。このことを最も明確に語っているのは、プロ・レイバー労働法学の旗手と言われた沼田稲次郎です。彼は著書『現代の権利闘争』(労働旬報社、1966年)の中でこう述べています。やや長いですが、戦後労働運動の本質、そしてそれを擁護した戦後労働法学の本質がくっきりと描き出されています。

 ・・・戦後日本において労使関係というもの、あるいは経営というものがどう考えられているかということ、これは法的意識の性格を規定する重要なファクターである。敗戦直後の支配的な意識を考えてみると、これには多分に戦争中の事業一家、あるいは事業報国の意識が残っていたことは否定できないと思う。生産管理闘争というものを、あれくらい堂々とやれたのは極貧状態その他の経済的社会的条件の存在によるところには違いないが、またおそらくは戦時中の事業報国の意識の残存であろうと思われる。事業体は国に奉仕すべきだという考え方、これが敗戦後は生産再開のために事業体は奉仕すべきだという考え方になった。観念的には事業体の私的性格を否定して、産業報国とそれと不可分の“職域奉公”という戦時中の考え方が抽象的理念を変えただけで直接的意識として労働関係を捉えた。産報の下では、民草はそれぞれの職域において働く。だから経営者は経営者の職域において、労働者は労働者の職域において職域奉公をなすべく、産業報国・事業報国が規範的理念であったことは周知の如くである。かかるイデオロギーというものが敗戦を機に一朝にしてなくなったのではなく、戦後における労使関係観というものの中に浸透していったといってよいだろう。
 経営というものに対する見方についてもそういう考え方はやはり流れていたであろう。すると、その経営を今まで指導していた者が、生産サボタージュのような状態を起こしたとすれば、これは当然、覇者交替だったわけで、組合執行部が、これを握って生産を軌道に乗せるという発想になるのがナチュラルでなければならない。国民の懐いておった経営観というものがそういうものであった。経営というものは常に国家のために動いておらなければいけないものだ、しかるにかかわらず、経営者が生産サボをやって経営は動いておらない、これはけしからん。そこで組合は、我々は国民のために工場を動かしているんだということになるから、生産管理闘争というものは、世論の支持を受けたわけでもあり、組合員自身が正当性意識を持って安心してやれたということにもなる。
 そんなわけで戦後の労使関係像というものが背後にあって、ある種の労使慣行というものができた。例えば組合専従制というもの、しかも組合専従者の給与は会社がまるまる負担する。組合が専従者を何人決めようが、これは従業員団であるところの組合が自主的に決めればいいわけである。また、ストライキといっても、労働市場へ帰って取引する関係としてよりも、むしろ職場の土俵の中で使用者と理論闘争や権力の配分を争う紛争の状態と意識されやすい。経営体として我々にいかほどの賃金を支払うべきであるかという問題をめぐって経営者と議論をして使用者の言い分を非難する-従業員としての生存権思想の下に-ということになる。課長以下皆組合に入っており、経営者と談判しても元気よくやれた。・・・団体交渉の果てにストライキに入ると、座り込んで一時的であれ、職場を占拠して組合の指導下においてみせる。そして、経営者も下手をすれば職場へ帰れないぞという気勢で闘ったということであろう。だから職場占拠を伴う争議行為というものは、一つの争議慣行として戦争直後は、だれもそれが不当だとは考えておらなかった。生産管理が違法だということさえなかなか承服できなかった。職場、そこは今まで自分が職域奉公していた場所なのだから、生産に従事していた者の大部分が座り込んで何が悪いのか。出て行けなんていう経営者こそもってのほかだという発想になる。経営というものは「私」さるべきものではなくて、事業報国すべき筋合いのものであるならば、経営を構成する者の大部分を占める従業員団が支配したって何が悪いか、というのも当然であったろう。
 もちろん当時は共産党の指導していた産別会議時代だから、生産管理戦術には工場ソヴィエト的な考え方が流れていたかも知れない。あるいは、工場ソヴィエト的な考え方と、事業一家、職域奉公の意識が結びついて、一種独特な経営像が成り立ったといえるのかもしれない。いずれにせよ、そこから出てくる労使慣行というものは、労、使の立場が分離しない条件に規定せられていたといえよう。労働組合が、かえって労務管理的な機能を営んでいたともいえそうである。戦争中の労務管理体制というものは崩れてしまって、組合の執行部を通して労働力がようやく使用者によって握られていたという関係があったから、組合専従者が会社から月給を取るのも当たり前だとせられたのも不思議なことではなかった。そしてそのような労働慣行を承認しつつ労働法が妥当していたといえよう。・・・

 一言で言えば、戦時中の産業報国会に左翼的な工場ソヴィエトの風味を若干まぶしたようなものを、欧米型のトレード・ユニオンを前提に作られた労働組合法上の労働組合としていかに正当化するかが戦後労働法学の最大の使命であったわけです。とりわけ、アメリカ型労使関係法制の全面的導入を目論見ながらそれが中途半端に終わった1949年改正の後には、それでもなお残る労使慣行をいかに擁護するかに精力が注がれました。沼田は1949年改正の意味を「戦後に残っていた産業報国会的な経営観、労使関係観を破るところにあった」とし、「「労」と「使」の立場を峻別するということにほかならなかった」と評しています。そして、結局、在籍専従制度の定着、チェック・オフの慣行化、組合事務所の貸与、就業時間中のある程度の組合活動など、完全には労、使の立場を峻別しない特有の妥協点に至ったと述べています。吾妻光俊や石井照久らトレード・ユニオン派の労働法学者に対抗するプロ・レイバー労働法学者たちの任務は、これら産業報国会の残滓を断固擁護することであったわけです。
 この歴史叙述はほぼ正確なものだと思われますが、問題は終戦直後にはかなり強く匂っていた「工場ソヴィエトの風味」が、時代の推移とともに蒸発していき、一部の労働組合活動家や労働法学者以外にはほとんど何の意味もないものになっていったということです。工場ソヴィエトの風味をまぶした産業報国会からその風味が蒸発したら、残るのはただの産業報国会となります。「労」と「使」を峻別せず、事業一家的な経営観の下で、従業員団の代表としての経営者の指導の下に、労働組合が労務管理的な機能を果たし、従業員たちが「職域奉公」する世界です。そこにおいては、かつて(工場ソヴィエトの幻想に浸って)従業員団の代表として活躍した組合活動家たちは、企業秩序を破壊する生産阻害者とみなされ、少数派組合へと追いやられていきます。従業員の圧倒的多数は、自分たちにとってより素直になじめる労使協調型、あるいはむしろ労使一体型の企業別組合に流れ込んでいったのです。
 プロ・レイバー労働法学者たちはこの事態に悲憤慷慨しましたが、事態は深刻でした。工場ソヴィエト風味が消え失せた労使協調型組合は、プロ・レイバー労働法学が(トレード・ユニオン派に抗して)作り上げ、一定の判例法理に反映させてきた、企業別組合に適合したさまざまな小道具-ユニオンショップ協定やチェックオフや統制処分-を使える立場になったからです。大変皮肉なことですが、プロ・レイバー労働法学は、自分が作り上げてきた武器によって自分が擁護したい当の勢力が追い詰められるという立場に立たされたわけです。
 おそらくはこうした矛盾に耐えきれなくなったためでしょうが、1970年代にはプロ・レイバー労働法学が大きな方向転換を試みていきます。一言で言えば、企業、職場レベルの集団性に立脚し、従業員としての生存権を強調する考え方から、労働者個人の人権に立脚し、企業や組合からの自由を強調する考え方への大転換です。集団志向と個人志向、統制志向と自由志向というのは、およそ社会思想を大きく二分する最大の分類基準であることを考えると、これはもうほとんど180度の大転換ということができます。そんなことがあり得たのは、彼らが擁護しようとしていたかつての工場ソヴィエト風味の残党が、もはや少数派ですらなく、孤独な闘争を繰り広げる個人になりつつあったからかもしれません。最も強硬な集団主義者たちが個人レベルにまで少数化してしまったことの帰結としての逆説的な個人主義の称揚を、どこまで真の個人主義、自由主義と呼ぶことができるのかわかりませんが、いずれにしても、1970年代はプロ・レイバー労働法学の大転換の時期でした。
 そしてそれは、社会の主流派における逆向きの大転換とも軌を一にしていたのです。そう、1970年代というのは、それまで政府や経営側が(少なくとも建前としては掲げていた)近代主義の旗を降ろし、日本的な雇用慣行や労使関係の素晴らしさを正面から称揚し、「近代を超えて」などと言い出していた時代です。それまで「労使関係の近代化」を掲げ、欧米と異なる日本的なあれこれの特徴を否定的に見ていた発想も、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の大合唱の中でいつの間にか消え失せていきました。私が労働法政策において「近代主義の時代」から「企業主義の時代」へとして描いた転換は、この時期の日本社会の相当部分で同時に進行していた変化でもあったように思われます。その中で、欧米のトレード・ユニオニズムを理念型とする「労働市場の集団的コントロール」理論も現実社会に何の存立基盤もない理想論として、疾うに消え失せていたのです。
 こうして、集団主義者だったはずの者が個人主義者になり、個人主義者だったはずの者が集団主義者になるという二重のパラドックスをくぐり抜けて、集団主義的な日本型雇用システムに即した労働法学と、それに批判的で労働者個人の人権を強調する労働法学が対峙する構造がようやく達成された・・・と思ったのもつかの間、その図式は再び揺るがされます。1990年代には再び労働法政策の大転換が進み、「市場主義の時代」が押し寄せてきたからです。企業中心の発想から再び個人の自由重視の発想が支配的イデオロギーとなりました。転換したプロ・レイバー労働法学は再度、労働者個人はそれほど強い存在ではなく、個人の自由を掲げるだけでは市場の強大な力に流されてしまうだけだという、古典的な労働法の公理を噛みしめることになっていきます。

 

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