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2019年6月

2019年6月29日 (土)

留学生のアルバイトは最大のサイドドア

最近、東京福祉大学の外国人留学生が大量に行方不明になったり、日本語学校が留学生を強制帰国させようとしたとか、留学生がらみの問題が話題ですが、実は、外国人留学生というのは現在の日本における、いわゆるサイドドアからの外国人労働力の中ではほぼ最大勢力になっているんですね。

今年1月に公表された「外国人雇用状況」の届出状況まとめによると、2018年10月末現在の外国人労働者総数1,460,463人のうち、留学生の資格外活動は298,461人(20.4%)です。これは、技能実習生の308,489人(21.1%)にほぼ匹敵し、専門的・技術的分野の在留資格276,770人(19.0%)や永住者の287,009人(19.7%)よりも多いのです。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_03337.html

https://www.mhlw.go.jp/content/11655000/000472892.pdf

https://www.mhlw.go.jp/content/11655000/000472893.pdf

 他の在留資格と明確に異なるその特徴は就労業種にあります。技能実習生は308,489人のうち186,163人(60.3%)が製造業、45,990人(14.9%)が建設業と、圧倒的に第2次産業に従事しているのに対し、留学生の資格外活動は298,461人のうち、宿泊・飲食サービス業が109,175人(36.6%)、卸売・小売業が61,360人(20.6%)、その他のサービス業が47,152人(15.8%)と、圧倒的に第3次産業に集中しています。

ところが、同じサイドドアの外国人労働者でも日系南米人や技能実習生については結構山のような調査研究が積みあがっているのですが、留学生のアルバイトを正面から取り上げたものはあまり見当たりません。これは、同じ非正規労働の中でも、日本人学生のアルバイトもパートや派遣に比べてあまり注目されてこなかったことと共通しているのかもしれませんが、一種のエアポケットになっていたようにも思われます。

上記外国人雇用状況によると、留学生の資格外活動は、2012年の91,727人(13.4%)から2018年の298,461人(20.4%)へと、6年間で3倍増し、割合も大幅に増えています。そろそろ正面からきちんと議論すべき時期が来ているように思われます。

610767_l ちなみに、最近出た一般向けの本ですが、芹澤健介『コンビニ外国人』(新潮新書)があります。「日本語学校の闇」では、「日本語学校の中には、学校というよりただの人材派遣会社になりさがっているところもありますしね」という証言など、興味深い記述も多く、この問題を考える上で参考になります。

https://www.shinchosha.co.jp/book/610767/

2019年6月28日 (金)

近刊案内:倉重公太朗『雇用改革のファンファーレ』

17091202x300 来月早々、7月7日(七夕じゃないですか)に、倉重公太郎さんの『雇用改革のファンファーレ~「働き方改革」、その先へ~』(労働調査会)が刊行されるようです。

https://www.chosakai.co.jp/publications/22754/

 これまでの「働き方」「働かせ方」が通用しなくなる日本型雇用神話の崩壊と、新時代の「働き方改革」の到来を告げるファンファーレが労働市場に鳴り響いた。今後、企業は、経営者は、働く人はどのような選択をしていくべきか。企業労働法専門の弁護士が、わが国における雇用慣行の問題点を指摘し、現代の世相や法的問題を読み解いた上で、これから真に求められる「働き方改革」について解説、提言する。
筆者と雇用・労働問題に詳しい著名な有識者、実務家6名との対談も収録。

というわけで、その対談編に、わたくしもちらりと顔を出しております。

序章 日本型雇用の「終わりのはじまり」
第1章 日本型雇用のひずみと崩壊
第2章 「働き方改革」ってなに?
第3章 脱「時間×数字」の働き方
第4章 解雇の金銭解決制度のススメ
最終章 「雇用改革のファンファーレ」~4つの視点から~
対談編 荻野勝彦氏×筆者
◇◇◇◇濱口桂一郎氏×筆者
◇◇◇◇唐鎌大輔氏×筆者
◇◇◇◇森本千賀子氏×筆者
◇◇◇◇田代英治氏×筆者
◇◇◇◇井上一鷹氏×筆者 

 

 

 

2019年6月27日 (木)

産経新聞論壇時評欄で拙論が紹介

Dcyj5iw4aanqi7 今月発行された『中央公論』7月号に載せた拙論「高齢者を活かす雇用システム改革とは-“追い出し部屋”のない会社に」が、本日付の産経新聞論壇時評欄で紹介されました。

https://www.sankei.com/life/news/190627/lif1906270009-n1.html

少子高齢化と人口減少による働き手の不足への対策として、政府は雇用機会を70歳まで拡大する検討を始めた。いよいよ「70歳定年時代」の到来か。
 7月号の月刊各誌は、「定年消滅-人生100年をどう働くか」(『中央公論』)、「令和の幸せな働き方」(『Voice』)などの特集を組んだ。・・・・

労働政策研究・研修機構研究所長の濱口桂一郎は、『中央公論』で日本特有の課題を挙げた。「日本のように雇用システム自体が根本的に年齢に基づくシステムになっている場合には、雇用システムの組み替えなしに七十歳までの雇用を実現しようとするのは大変難しい」との指摘だ。会社とはジョブ「職」の束であり、その「職」にふさわしい技能を有する人を欠員採用する「就職」が行われる欧米の「ジョブ型社会」と違い、日本は「メンバーシップ型社会」だという。メンバーたる「人」の束である会社にふさわしい人を新卒一括採用で「入社」させ、定期的に適当な「職」をあてがい、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)で作業させながら技能習得させ、勤続とともに「能力」向上を前提に年功的に賃金を上昇させている。
しかし円高不況やバブル崩壊で、中高年が高い賃金に能力が見合わないと判断されると、「追い出し部屋」にリストラされる。これこそメンバーシップ型社会の象徴という。
 このやり方では、労働者を年齢によって一律に正規雇用から非正規雇用に移行させ、「嘱託」という奇妙な日本語で雇用契約を結び、フルメンバーとして活躍できる高齢者も一律に非正規化し、社会的な人的資源の有効活用という点で問題と疑問を呈す。そして「個々の労働者の能力に応じてさまざまに従事する職務を定め、その職務に基づいて賃金を決定する仕組み-すなわち欧米やアジア諸国と同様のジョブ型人事管理にしていく必要があるのではなかろうか」と主張する。
 労働力人口に占める65歳以上の割合は、昭和55年の4・9%から平成29年には12・2%になった。年金支給開始年齢が引き上げられ、働き方も変わりつつある。社会の支え手が増えれば、社会保障費の抑制も期待できる。サラリーマンの生涯現役のために会社は、「追い出し部屋」のない高齢者を生かす雇用システム改革をすべきだろう。・・・・

 

 

研究時間が3割の大学教授は専門業務型裁量労働制が適用できない件について

朝日にこういう記事が載って、

https://www.asahi.com/articles/ASM6V4V2JM6VULBJ00B.html (労働時間の3割だけで研究? 大学教員、他の仕事多く…)

大学教員が研究に使えるのは働いた時間の3割強で、16年前より10ポイント以上減っていることが文部科学省が26日に公表した調査でわかった。学生を教育するのに費やす時間や、医学教員が診療する時間の割合が増えたことなどが影響した。事務作業には2割弱が割かれており、担当者は「事務時間を研究に回せる対策が必要だ」と話している。・・・・

ネット上では、いやいや俺は3割もないとかコメントがついているようですが、いやいやほんとに研究時間が労働時間の3割、というか半分未満であれば、労働基準法第38条の3によって大学教授諸氏に適用されている専門業務型裁量労働制は本来適用できないはずなんですが、そこんとこわかった上で言ってんのかな、と。

https://www.mhlw.go.jp/general/seido/roudou/senmon/a12.html

(12)  学校教育法(昭和22年法律第26号)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)
  当該業務は、学校教育法に規定する大学の教授、助教授又は講師の業務をいうものであること。
  「教授研究」とは、学校教育法に規定する大学の教授、助教授又は講師が、学生を教授し、その研究を指導し、研究に従事することをいうものであること。患者との関係のために、一定の時間帯を設定して行う診療の業務は含まれないものであること。
  「主として研究に従事する」とは、業務の中心はあくまで研究の業務であることをいうものであり、具体的には、講義等の授業や、入試事務等の教育関連業務の時間が、多くとも、1週の所定労働時間又は法定労働時間のうち短いものについて、そのおおむね5割に満たない程度であることをいうものであること
  なお、患者との関係のために、一定の時間帯を設定して行う診療の業務は教授研究の業務に含まれないことから、当該業務を行う大学の教授、助教授又は講師は専門業務型裁量労働制の対象とならないものであること。 

 

 

2019年6月26日 (水)

極右インターナショナル

Leaypi3250x250 ソーシャル・ヨーロッパに、「The far-right international is here—when will the left wake up?」(極右インターナショナルがここに-左翼はいつ目覚めるのか?)というエッセイが載っています。筆者はLea Ypi (リー・ワイピさん?)という方ですが、「極右インターナショナル」という言葉が、まさにぴったりだなあと思ったので。

https://www.socialeurope.eu/the-far-right-international

The secret of the advance of the new right is that it practises what the old left used to preach. It is a new international, with a shared message, a shared vision of social change, shared adversaries and now a shared political platform. It does all that while cultivating local roots and speaking a language that people understand. Instead of classes it speaks of nations, instead of politics it speaks of culture, and instead of capitalists it speaks of immigrants.

新右翼の進出の秘密は、旧左翼が説教していたことを実践していることにある。それは、メッセージを共有し、社会変革のビジョンを共有し、敵を共有し、そして今や政治的プラットフォームを共有する新たなインターナショナルなのだ。それは地域の根っこを開拓して人々が理解できる言葉を語る。階級ではなく民族を語り、政治ではなく文化を語り、資本家ではなく移民を語るのだ。

そう、左翼がすっかりブルジョワ化し貴族化した空隙で、右翼がかつての左翼とそっくりの行動様式をとっているのです。これはヨーロッパの反移民右翼の話であるとともに、日本にもかなりの程度言えるでしょう。ただ、ヨーロッパと違って、日本の右翼はインターナショナルな連帯はする気がないようですが。

実は、右翼のデモが近づいてくるのを、最初声だけ聞いて、てっきり昔懐かしい左翼のデモかと思っていたら、旭日旗が見えて勘違いしていたことに気がついたことがありましてね。「我々は何々を許さないぞー!」「何々と闘うぞー!」というシュプレヒコールは、その何々が良く聞こえないと、全く区別がつかない。

2019年6月25日 (火)

『日本労働研究雑誌』2019年7月号

708_07 『日本労働研究雑誌』2019年7月号は「観光産業の雇用と労働」が特集です。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/index.html

提言 観光産業の持続的発展に向けて 山内弘隆(一橋大学大学院特任教授)
解題 観光産業の雇用と労働 編集委員会
論文 旅行産業の成長と宿泊業における雇用・労働に与える影響 矢ケ崎紀子(東京女子大学教授)
観光産業の生産性 深尾京司(一橋大学教授)・金榮愨(専修大学教授)・権赫旭(日本大学教授)
観光系大学における教育が観光産業に果たす役割 髙橋伸子(流通経済大学准教授)
宿泊業界における成長戦略としての人材育成─ホテル業の現状と課題 テイラー雅子(大阪学院大学教授)
宿泊業従事者の就業意識─その特徴と課題 田村尚子(西武文理大学教授)
地方小規模宿泊業(旅館業)における労働環境 井門隆夫(高崎経済大学教授)
紹介 観光産業における労使関係・課題 神田達哉(サービス連合情報総研理事)

髙橋さんの論文には観光関連の学部学科やコースのある大学が2ページにわたって載っており、へえ、こんなにあるんだという驚きですが、読んで面白かったのは井門さんの論文で、旅館業史を、宿の誕生と一夜湯治から始まって、戦後旅館業の労働環境を綴っていくその文章が実にいいです。住み込み制や接客要員が仮名で勤務する「源氏名」制なんてのもあったんですね。これは、事情があり身を明らかにしたくない女性にとっては駆込み寺のような存在であり、そうした女性の社会的な雇用プールであった・・・と語ります。

あと、最後のコラムで、

フィールド・アイ 大麻合法化と職場における諸問題(トロントから③)所浩代(福岡大学教授)

が、最近大麻を合法化したカナダの状況を伝えていて、興味深いです。

 

 

デジタルエコノミーの進展と働き方の変化@『ビジネス・レーバー・トレンド』2019年7月号

201907 JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』2019年7月号は、去る3月25日に開催した労働政策フォーラム「デジタルエコノミーの進展と働き方の変化」が特集記事です。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2019/07/index.html

労働政策フォーラム デジタルエコノミーの進展と働き方の変化
【問題提起】濱口 桂一郎 JILPT研究所長 【研究報告】第四次産業革命下における労働法政策をめぐる日・独比較―
Comparative Labor Law on Labor Policy for the Fourth Industrial Revolution
山本 陽大 JILPT副主任研究員【事例報告①】ベイシアにおける生産性向上対応―AI導入でレジ混雑緩和
重田 憲司 株式会社ベイシア 執行役員 流通技術研究所 所長【事例報告②】人と機械の共存に向けて―RPAの導入と計画
塚本 隆広 フジモトHD株式会社 情報システム室 企画・管理担当課長【事例報告③】RPAによる組織・働き方の変化
矢頭 慎太郎 パーソル テンプスタッフ株式会社 業務改革推進部 RPA推進室 室長
【パネルディスカッション】

それに加えて、JILPTが実施した4社1労組へのヒアリング結果も載せています。

AI等の技術革新が雇用・労働に与える影響に関するヒアリング調査
―4社、1労組の事例から見る現状と課題
【事例1】新技術を採り入れたデータ活用でキャリアアドバイザーの仕事を深化 パーソル キャリア
【事例2】機械学習を応用した来客予測システムで接客価値を高める仕事に注力 ゑびや/EBILAB
【事例3】RPAの推進・拡大で人のやるべき仕事の見極めを パーソル テンプスタッフ
【事例4】窓口の手続きをタブレットで対応することで地域サービスの向上を 伊予銀行
【事例5】デジタル技術革新の導入に向けて生産性三原則を前提にした労使協議を要求 UAゼンセン

はやりのテーマですが、一つ一つ事例を積み上げて考察することが大事であることはいうまでもなく、そのためにもこういう特集記事は有用だと思います。

 

 

日本型雇用システム論と小池理論の評価(再掲)

小池和男さんが亡くなられました。日本の労働研究者の中でも、世界的に有名な方の一人であり、その理論は小池理論として多くの人々に受容されています。

ただ、私はその【受容】の内実がかなり違っているのではないかと考えてきました。鶴光太郞さんに依頼され、経済産業研究所で報告したこともあります。それをまとめたのが、一昨年にWEB労政時報に掲載した「日本型雇用システム論と小池理論の評価」です。昨年、本ブログに全文アップしており、ここでもそれを再度掲載することで、多くの方々が小池理論について突っ込んだ議論を展開するよすがになればと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-af37.html (小池ファンは小池理論を全く逆に取り違えている件)

 日本型雇用システムについての議論では、ほぼ必ず小池和男氏の理論が道しるべとして用いられます。しかし、世間の人々が小池理論を理解している理解の仕方は、実は必ずしも小池氏が一貫して説き続けてきていることとは異なるのではないか、むしろその理論的方向性においては逆向きに理解されてきているのではないかという風に、私は感じるようになっています。「理論的」方向性とは、政治的とか社会的な方向性、いわゆるイデオロギー的な傾きのことではありません。実を言えば、そういう方面からの批判や称賛は山のようにありますが、そういう類いの議論は全て、小池理論の「理論」たる根幹のところを取り違えてしまっているのではないか、取り違えて褒めたり貶したりしてしまっているのではないか、という疑問です。
 今回は、実務的な本サイトの性格からするとやや違和感があるかも知れませんが、上述した違和感を、小池氏の著作の文言そのものを正確に把握することを通じて確認してみたいと思います。今まで著書で部分的に論じてきたことを、この際まとめておきたいという気持ちもあります。

 私自身の「メンバーシップ型」「ジョブ型」論も含め、日本型雇用システムに関する議論はほとんどすべて、欧米の雇用社会と日本の雇用社会が対照的であるという「常識」に立脚して論じられてきました。この「常識」はもちろんあくまでも事実認識として共有されているということであって、価値判断としては真っ向から対立する思想を含みます。むしろ、「ジョブ型」万歳論も「メンバーシップ型」万歳論も、一見対立しているように見えて、その土俵となる事実認識としてはほぼ同じ認識枠組を共有してきたということがここでは重要です。
 この「常識」を共有するさまざまな見解を、その時々の時代の主流となった意見の順番に見ていくと、まず1960年代までの経営側と政府の考え方は、①日本も欧米型職務給を目指すべき、というわりと素朴なジョブ型推進論でした。その当時の労働側の主流(総評)は、②いや建前上からはそうかも知れないけれど、そんなことをしたら労働者とりわけ中高年に不利益になるから反対だというものでした。もっともその頃でも、労働側の非主流派には、③経営側の主張する職務給ではなくて西欧のような横断賃率を目指すべきだと主張する人々もいました。ところが1969年の日経連『能力主義管理』ととりわけオイルショックを過ぎて、世の中の雰囲気は一変し、④いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方が世の中に広まりました。1970年代から1980年代はこの思想が世の中を覆った時代です。恐らく世の中の圧倒的に多くの人々は、小池理論とはこの④の見解を実証に基づいて説いたものと思われているのではないでしょうか。ところが1990年代にバブルが崩壊した後は、⑤やっぱり日本型はダメで欧米型を見倣うべし、という考え方が「常識」として政策を駆動していくことになりました。
 と見てくると、方向性は目まぐるしく変わっているように見えますが、いや確かにそうなのですが、日本型と欧米型が対照的であるという(価値判断以前の)事実認識の次元においては、何ら変わることなく一貫していることが分かると思います。そう、私が言う「理論的」とはこの次元のことです。そして、恐らく圧倒的に多くの読者にとって意外に聞こえると思いますが、この「理論的」次元において、一貫して上記さまざまな意見と異なる地点にいたのが、実は小池和男氏の理論だったのです。すなわち、これらベクトルはさまざまでも基本構造は共通の「常識」とはまったく異なり、「欧米型は実は日本型と同じなんだ」という「常識はずれ」の理論を一貫して唱え続けてきたのが小池氏なのです。

 小池氏が初めて自らの賃金理論をまとめて世に問うた『賃金 その理論と現状分析』(ダイヤモンド社、1966年)から、その理論のエッセンスを抜き出してみましょう。小池氏は言います。

・・・わが国の通説は、日本の賃金や労働組合が欧米諸国に比べきわめて特殊だ、と強調している。熟練は本来企業をこえて通用し、労働者は企業間を移動できるはずなのに、日本の労働者は終身雇用によって個別企業に結びつけられ、その企業にしか通用しない「年功的熟練」をもつにすぎない。賃金は本来職種ごとにきまり、企業や年齢によって異ならないはずなのに、日本の賃金は企業によって差があり、また年齢によってはなはだしく異なる。労働組合は本来職業別あるいは産業別の「横断組織」であるはずなのに、日本の労働組合は企業別だ、というのである。
 ここで日本を特殊だという基準は、欧米諸国の「実態」におかれている。あるいは、よりあいまいに「近代的」という言葉が使われている。たしかに・・・右の基準は産業資本主義段階では充分妥当する。だが・・・それらの条件が独占段階に入ってもなお支配的に存在するかは、きわめて疑わしい。近時独占段階の資本蓄積様式の研究が進み、かなり著しい変化が確かめられている。それらは労働力の性質や賃金などにはほとんど及んでいないけれども、変化がそこにも起こっていると推測させるに充分である。そしてわずかに見出された若干の事象をみると、これまで「日本的」とされていたものと少なからず類似している。吟味が要求される。
 まず労働力の性質について、「内部昇進制(job promotion)」と「先任権制度(seniority)」という現象が注目される。・・・先任権制度が確立するなら、労働者は原則として未経験工として入社し、勤続を重ねながらしだいに上級の仕事に進むことになる。他社に移ると勤続による利得を失うことになるから、労働者は個別企業と深く結びつく。その本質はなお吟味されねばならないが、一見日本の「年功的熟練」と似た事象が見出されてくるのである。
 勤続に応じてより上級の仕事につくのが一般的傾向であれば、賃金率が仕事ごとにきまっていても、結果的には勤続に応じても上昇する。この点を確かめるべき資料に恵まれないけれども、充分推測される。そうすると、勤続や年齢に応じて上昇する日本の年功賃金と似ていることになろう。また労働者がひとつの企業に長く勤続するなら、その賃金は企業をこえてまったく共通するとは限らないだろう。・・・こうした類似点は、たんに表面的なものにすぎないのであろうか。それとも、独占段階一般の傾向なのだろうか。その点の研究はまだきわめて貧しく、以下、まだ市民権を得ていない筆者の仮説-ありうべきひとつの説明を提示するほかない。・・・

 誤解の余地はないでしょう。小池理論とは、「欧米諸国でも内部昇進制や先任権制度があるから、日本と変わらない、つまり日本は全然特殊ではないという議論」であって、前記④ではありません。せいぜい、同じ方向に進む同士の中で若干先進的という程度です。そしてその理論的根拠は、これまた多くの人にとっては意外かも知れませんが、今ではあまりはやらなくなった宇野派マルクス経済学の独占資本主義段階論であり、本人自ら実証的根拠はないと認識していたことがわかります。

 いやそれはもう半世紀以上も昔の若い頃の議論であって、その後は変わっているんじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。既に上記④が終わりつつあった1994年に出版された『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)でも、一見紛らわしいその標題にもかかわらず、「日本は全然特殊ではない」という議論を全面展開しています。

・・・通念によれば、日本方式とは、なによりも「年功賃金」「終身雇用」「年功的昇進」「企業別組合」そして「集団主義」である。「年功賃金」で暮らしに応じた賃金を払い、「終身雇用」で雇用が確保されれば暮らしが保障される。ただし、保障されたからといって、人はよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれが起こらないとすれば、それは集団主義という気風の賜だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
 だが、一体絵に描いたような「年功賃金」や「終身雇用」が日本に存在し得ようか。ときに「年功賃金」を、ほとんど勤続や年齢で賃金額が決まるもの、働きにあまり関係なく暮らしで決まるものと想定する。・・・日本では、毎年定期昇給があることをもって、先のように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給制は、毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う。・・・個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそも働こうが怠けようが賃金に差がつかなければ、誰がよく働こうか。

 自称小池ファンの多くは無意識的に④の立場に立って、日本型システムのすばらしさを実証している理論だと思い込んでいるようですが、小池著をちらとでも読めばそれは全く逆であって、そういう「通念」「常識」を批判しているのが小池理論であることがわかります。
 ただし、その議論の仕方はあまりにもアンフェアと言わざるを得ません。ほとんど非現実なまでにカリカチュアライズされた④をこしらえて、その非現実性を叩くというやり方です。本来問題の立て方は、なぜ欧米では一般労働者層には個人査定はないのに、日本では末端に至るまで「毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う」のか?でなければならないはずなのに、そういう疑問が生じないように議論を誘導することで、雇用・賃金システム論を封じ込めてしまっています。
 しかしむしろ問題は、そういう議論の構成であるにも関わらず、つまり日本型は欧米型と変わらず、むしろ欧米よりも欧米型であること(=普遍性)がその「強み」だという議論であるにも関わらず、なぜか世間では欧米型に対する日本型の「強み」を実証した議論だと理解されているという皮肉な事態にあります。
 その背景事情には、青木昌彦企業論における「J企業論」とともに、日本経済の全盛期にその活力の理由を説明する理論として「消費」されたからではないかと思われますが、圧倒的に多くの小池読者たちは、こういう文章を目の前に読みながらその文字通りの意味を理解しようともせず、脳内で勝手に小池理論を上記④の議論だと思い込んでしまい、この壮烈なパラドックスを的確につかまえられていないのではないかと思われるのです。

 さらにその後、1999年に出された『仕事の経済学(第2版)』(東洋経済新報社、1999年)では、その「第13章 基礎理論と段階論」で、30年以上前の宇野マルクス経済学の段階論のロジックを繰り返しています。それによると、まず4つの労働力タイプ論が提示されます。

A 技能がやや高く、時間によっても不変のタイプ(熟練労働者タイプ):
B 技能が低く、時間によっても不変のタイプ(不熟練労働者タイプ)
C 技能が時間によってかなり高まるタイプ(内部昇進タイプ)
D 技能が時間によってやや高まるタイプ(半熟練労働者タイプ)

 これを産業化の2段階論と組み合わせると、こうなります。

(1)クラフトユニオンの時代:AタイプとBタイプが主役、組合が熟練を形成し、職種別賃金率。
(2)産業別組合の時代:CタイプとDタイプが主役。
(3)これをさらに前期と後期に分け、前期はDタイプがやや主役でCタイプは専門管理職的ホワイトカラーにとどまるが、後期はCタイプが生産労働者にも広まる。

 つまり、日本型特殊性論を否定し、それ(「ブルーカラーのホワイトカラー化」)を産業別組合時代後期の一般的性質に解消する議論なのです。しかし、再びその実証的根拠は希薄です。その正否はともかく、宇野マルクス経済学の段階論で一貫している点だけは明らかです。そして、殆どすべての小池読者たちが(表面上の価値判断の片言隻句に囚われて)見落としてきたのもこの理論的一貫性です。
 では現実に存在する各国間の差異を小池氏はどう説明するのでしょうか?

・・・それぞれの発展段階には、それぞれ最も適合した経済や技術の方式があるのみならず、さらに最も適した労働力タイプ、労働組合、労使関係などの社会制度があろう。・・・第1段階が長い間反映すると、それに適合した社会制度が十二分に発達し、深く根を下ろして確立する。第2段階になっても前代の制度があまりに強く確立しているためにその廃棄、従ってその移行コストが高くなりすぎ、第2段階の社会制度の普及がかえって遅れる。
・・・そうじて第2段階の社会制度をより広く十分に確立させたという点で、日本の技能形成制度、労使関係制度は、世界の流れを半歩先んじている。
・・・なお、単なる後発効果の強調ですむなら、後発の国は他に多い。なぜ今のところ日本だけが先んじているのであろうか。恐らく第2段階への移行の時期と、日本の当時の内的発展の高さがうまく適合したのであろう。他の多くの国は第2段階がかなり進んでから産業化に乗り出し、第2段階の先頭を切るには遅すぎた。

 正直言って、本気か?と言いたくなります。あまりにも「常識はずれ」です。もっとも、小池氏はあまりにも宇野マルクス経済学に忠実なので、いかなる社会も同じ道を進歩していくという考え方以外が目に入らないのかも知れません。そういう単線発展論の土俵の上で「日本のふつうの議論は長らく日本の遅れによる、とみてきた。はたしてそうか。」という反論をしているつもりなのでしょう。議論が壮大にすれ違っているわけです。

 ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
 戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
 いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。

 この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。

・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・

 さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
 とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。

 よく知られているように、1969年の『能力主義管理』は、日経連の20年に及ぶ職務給化唱道からの撤退宣言です。「職務」による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的「上がり方」を経済学的に合理的なものとして運用することが可能になりました。それゆえそれは運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差のつく運用にもなりえます。「能力」概念の曖昧さが、年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするというパラドックスです。それを初めからそのように構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎません。
 この「能力主義」を経済学的に説明する道具として70-80年代に活用されたのが小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」です。しかしその原型は『賃金』(1966年)にあるとおり、中小企業と大企業の賃金の上がり方の違いの経済学的に見える説明でした。今ではほとんどの人がその原型を知らずに使っていると思いますが、「知的熟練論」とはこういうものだったのです。

・・・この傾向を素直に解すると、5~10年以上の勤続の意味が、大企業と中小企業とでは、ちがうらしい。大企業では5~10年をこえても勤続年数はなお技能(広い意味での)と相関し、それゆえ賃金も上昇していくのであろう。それに対し中小企業では、それまでは技能とかなり深く相関し、それゆえやはり賃金も上昇していくのだが、それをこえると、もはや技能との相関が浅くなり、そのため賃金も鈍化ないし横ばいとなっていくのではあるまいか。いいかえれば、大企業の労働能力は、10年をこえてもなおより高い職務へと昇りつづけるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は、必要経験年数が5~10年どまりの職務の遂行にとどまっているのではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は、労働能力の性質のちがいによると推測される。だから労働市場の逼迫によっても、依然格差が残ったのではあるまいか。・・・
では、なぜ中年長勤続層では労働能力の種類のちがいが生じるのだろうか。・・・大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。・・・大企業の巨大な複雑化した機械体系は、・・・しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につける必要があり、かくして、想像以上に長い経験年数が必要とされる。・・・要するに、中年長勤続層のはなはだしい格差は、おもに労働能力の種類のちがいによるものと考えられる。

 正直な感想を言えば、「あるまいか」の連発のあげくの「知的熟練」という万能の説明であり、笑止千万としか言いようがありません。言うまでもなく、日本には欧米のような企業を超えてその職業能力を認証する仕組みは存在しません。本当に大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業の中高年労働者の能力がその低賃金に見合うだけ低いのかどうかを客観的に測定する物差しは、どこにも存在していないのです。小池氏の説明は、現実に存在する大企業と中小企業の年功カーブの格差を、労働能力の格差を反映しているに違いないと推測しているだけです。存在するものは合理的というヘーゲル的な論理というべきでしょう。

 しかしこの説明の仕方は、後年の『中小企業の熟練』(1981年)でも全く変わっていません。証拠のない仮説のままで。

・・・かくて、労働力の質を強調する仮説が残る。この仮説にとって有利な状況は、大企業は、そこに働くすべての労働者に対して、より高い賃金を払ってはいない、ということである。大企業の仕事をしていても、季節工、社外工、下請、臨時という形で、かなりの人々には、中小企業労働者や不熟練労働者と変わりない賃金が支払われている。本工とホワイトカラーだけが、より高い賃金を支払われているに過ぎない。そして、その人々は、かなり広い範囲の職務を遍歴する内部昇進制の下にある。その内部昇進制が、他のグループとは違った労働力の質を形成しているのではないか、というのである。
・・・この仮説の難点は、労働力の質について経験的研究が乏しく、それを直接支持する証拠が提出されていない、ということである。労働能力それ自体について、統計的資料など存在しない。ごく若干のケースについて細かい観察があるに過ぎない。これはまだ証拠に恵まれない、一つの仮説に過ぎない。ただこの仮説を採ると、他のいくつかの仮説も生きてくる。・・・
・・・大企業と中小企業の労働力の質について、前節で見た規模別賃金格差の実態がまことに示唆的である。労働需給が逼迫して久しい時期にもかなりの格差が残る。残る格差は、製造業ブルーカラーに著しい。・・・これだけの格差があれば、そして需給関係にその原因を求められないとすれば、何らかの労働力の質の差、あるいは労働力タイプの違いとみるのは、けだし当然であろう。

 「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかない、というこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値します。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論です。そして純粋経済学であるがゆえに、「証拠なき仮説」が平然と通用してしまうのです。

 しかし、「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても、現実社会では企業行動自体によって裏切られてしまいます。上記『日本の雇用システム』(1994年)ではこう高らかに論じているのですが、

・・・しばしば日本の報酬制度は、単に「年功」つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた。職場における能力とは、端的には技能にほかならない。ところが、技能の伸長と報酬との関係はあまり立ち入って吟味されなかった。技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、これまで最も深く技能を吟味した業績によれば、勤続20年を超えて、なお技能は伸び続けるという結果が得られている。・・・知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。この二つは、普通の報酬の方式では促進できない。

 問題は、その「知的熟練」が、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。

・・・では現代日本の解雇の方式に何の問題もないのか。いや、そうではない。通念とは全く逆に、日本の方がコストの高い人たちを解雇しているかも知れないという疑問である。
・・・この日独の差は何を意味するか。中高年の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。 ・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。・・・そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。

 何でしょう、この無責任ぶりは。欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論ではありません。
 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
 「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできません。リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているのです。

 そろそろまとめておきましょう。
 戦後日本の労働政策において、中高年雇用は常に問題であり続けました。高度成長期にはその問題点は極めて明確で、経済的合理性に反する年功賃金制のため、企業が中高年雇用を選好しないためでした。職務給を唱道する経営側だけでなく、生活給を死守しようとした労働側も、問題構造の認識は同じだったのです。それゆえ当時は賃金制度改革が答えでした。「常識」に立脚しつつ「存在するものは(必ずしも)合理的ではない」という非ヘーゲル的認識からの経済学的答案です。
 ところが、小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証することにより「存在するものは合理的」にしてしまいました。つまり問題そのものを消去したのです。
 しかし紙の上で問題を消去しても、現実世界の問題は消え失せてくれません。その理論上の「合理性」に反する(不況のたびに繰り返される)企業行動を批判する小池理論は、矛盾を内在するパラドックスになってしまったといえましょう。
 その原因は挙げて、ほとんどすべての当事者たちが共有していた「常識」「通念」に反する理論構成をしたためです。
 「常識」はずれの議論は、いかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても、最後は破綻するのです。

 

 


 

『労働契約論の再構成 小宮文人先生古稀記念論文集』

Komiya 淺野高宏・北岡大介編『労働契約論の再構成 小宮文人先生古稀記念論文集』(法律文化社)をお送りいただきました。タイトル通り小宮文人先生の学恩を受けた方々による論集ですが、冒頭に小宮先生自身の論考も載っています。

http://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04018-3

労働環境の変動への対応から体系的に立法された労働契約法は、成立以降、その法理の妥当性が常に問われている。労働契約論に関する主な論点につき、理論的到達点を踏まえ、あらためて再定位を試みるとともに、今日的課題を探る。

収録されている論文はいずれも重要な論点ですが、ここでは恐らく圧倒的に多くの方々がほとんど関心を払わないであろうトピックを扱った論文を紹介しておきたいと思います。それは、日本大学の南健悟さんの「海上労働契約の構造」です。

船員の労働法体系が陸上のそれと異なっていることはよく知られていますが、そもそも雇用契約と雇入契約という二重契約(かどうかが大問題)の仕組みであることはほとんど知られていないのではないでしょうか。私は『日本の労働法政策』の付章で若干詳しく歴史的に解説しましたが、この問題に正面から挑戦しているのが南さんの論文なのです。

 

2019年6月24日 (月)

70歳までの就業機会確保@『労基旬報』2019年6月25日号

『労基旬報』2019年6月25日号に「70歳までの就業機会確保」を寄稿しました。

 現在、未来投資会議で審議されている成長戦略実行計画には、「第3章 全世代型社会保障への改革」の冒頭に「70歳までの就業機会確保」という項目が掲げられています。そこでは、「65歳から70歳までの就業機会確保については、多様な選択肢を法制度上許容し、当該企業としては、そのうちどのような選択肢を用意するか、労使で話し合う仕組み、また、当該個人にどの選択肢を適用するか、企業が当該個人と相談し、選択ができるような仕組みを検討する」とされ、具体的な選択肢としては次の7つが提示されています。
(a) 定年廃止
(b) 70歳までの定年延長
(c) 継続雇用制度導入(現行65歳までの制度と同様、子会社・関連会社での継続雇用を含む)
(d) 他の企業(子会社・関連会社以外の企業)への再就職の実現
(e) 個人とのフリーランス契約への資金提供
(f) 個人の起業支援
(g) 個人の社会貢献活動参加への資金提供
 このリストはなかなか興味深いものがあります。(a)から(c)までは現在の高齢法第9条の高年齢者雇用確保措置と同じです。ですが、これを60歳代後半層にそのまま押しつけるのは無理だろうというのは多くの人々の共通の認識でした。そこで、同じ高齢法の後ろの方にある第15条(再就職援助措置)を持ってきて、他企業への再就職(d)も選択肢に入れるというのは、想定の範囲内であったと思われます。
 しかしこのリストはそれよりもさらに広く、個人請負による自営業も就業機会として含めています。ただこれも、実はそれほど意外感はありません。高齢者対策では既に長らくシルバー人材センターという形で雇用によらない就業形態を推進してきていますし、隣接分野である障害者対策では、2005年改正で雇用によらない在宅就業障害者に仕事を発注する事業主に対して、障害者雇用納付金制度において特例調整金、特例報奨金の支給を行うこととされています。(e)(f)はその高齢者版と位置付けられるのでしょう。
 (g)の社会貢献活動になると、解釈によってはそもそもここでいう「就業機会」に含まれるのかという疑問も生じますが、恐らくここで想定されているのは、NPOやNGOなどの非営利組織の一員となって社会的に有用な経済活動に参加するものなのだと思われます。
 「企業は(a)から(g)の中から当該企業で採用するものを労使で話し合う。それぞれの選択肢についての企業の関与の具体的な在り方について、今後検討する」とありますが、この「労使で話し合う」の中身が恐らく過半数組合又は過半数代表者との協定で云々という形になるとすると、2004年改正で継続雇用対象者の選別を委ねたときと同様に、改めて従業員代表制の議論を喚起することになるでしょう。
 この立法は二段階方式で進めるということです。まず第1段階は、「法制度上、上記の(a)~(g)といった選択肢を明示した上で、70歳までの就業機会確保の努力規定とする。また、必要があると認める場合は、厚生労働大臣が、事業主に対して、個社労使で計画を策定するよう求め、計画策定については履行確保を求める」とされ、この第1段階の実態の進捗を踏まえて、第2段階として、「現行法のような企業名公表による担保(いわゆる義務化)のための法改正を検討する。この際は、かつての立法例のように、健康状態が良くない、出勤率が低いなどで労使が合意した場合について、適用除外規定を設けることについて検討する」とされています。
 まず努力義務で促進し、その上で義務化するというのは、60歳定年でも65歳継続雇用でもとられてきたやり方なので違和感はありませんが、企業名の公表が義務化であるかのような表現ぶりには疑問があります。いうまでもなく、企業名の公表というのは1986年改正時に60歳定年の努力義務を定めた時にその実効確保のために導入されたもので、義務化とともに廃止されています。ここにはいささか概念の混乱が見られるようです。
 また、「混乱が生じないよう、65歳(現在63歳。2025年に施行完了予定)までの現行法制度は、改正を検討しないこととする」というのは、法的安定性を考えれば当然のこととはいいながら、高齢期の人事管理が60歳まで、60歳から65歳まで、65歳から70歳までと5歳刻みで分断されてしまい、本来あるべき一貫した人事管理が難しくなるという難点があります。もちろん、早い段階から社会貢献活動に専念するわけにもいかないでしょうが、たとえば再就職や起業をするにしても、65歳というのでは遅すぎて、もっと早い段階から進めていかなければならないといった意見が出てくるのではないでしょうか。
 今後の日程としては、「労働政策審議会における審議を経て、2020年の通常国会において、第一段階の法案提出を図る」ということなので、実はあまり時間はありません。秋口から審議会で議論をし、年末には建議を取りまとめるというスケジュールで動いていくことになります。その際、上述のような問題点がどこまできちんと議論されるのかが重要でしょう。
 なお、今回はわざわざ念押し的に「70歳までの就業機会の確保に伴い、年金支給開始年齢の引上げは行わない。他方、年金受給開始の時期を自分で選択できる範囲(現在は70歳まで選択可)は拡大する。 加えて、在職老齢年金制度について、社会保障審議会での議論を経て、制度の見直しを行う」と書かれています。これまでの高齢者雇用対策がほとんどすべて厚生年金の支給開始年齢の引上げと連動する形で進められてきたことを考えると、この点は大きな違いです。これは、年金受給開始時期を60歳に繰り上げ受給することから70歳に繰り下げ受給することまで可能である現行年金法の枠内で、70歳就業の自然な帰結として70歳繰り下げ受給を拡大していこうという温和なやり方で、無用の反発を回避する狙いがあるのでしょう。
 ただ、在職老齢年金の見直しというのは、もちろん60歳代後半層の就労意欲を高めるためという意図はわかるのですが、要は在職しているが故に削減されている部分を満額支給するということなので、数千億円の追加支出を必要とすることになり、ただでさえ逼迫している年金財政にさらに悪影響を与えることになりかねません。これは年金政策サイドとしては、そう簡単に実施できないように思われます。

なお、成長戦略実行計画は先週金曜日に閣議決定されています。

 

2019年6月22日 (土)

カナダの雑誌『Edge』にインタビュー記事

今まで気が付いていなかったのですが、カナダの雑誌『Edge』のネット版(4月27日付)に、日本の長時間労働に関するわたくしのインタビュー記事が載っていました。

https://theedgeleaders.com/from-japan-to-france-laws-meant-to-protect-workers-can-end-up-triggering-a-cultural-clash/

これ、実はそのちょっと前の4月19日に、カナダのテレビ局CBCの電話取材を受けた時の内容です。テレビ局の電話取材ということで、日本でカナダのテレビを見ることもないので、そのまま忘れていたのですが、その時のやり取りが雑誌記事になっていたんですね。

この記事は日本とフランスを対照させている記事で、私はその前半の日本の話に出てきます。

Take Japan, where overwork thrives.
“Blue and white collar workers … have a sense of guilt to leave the office,” says Keiichiro Hamaguchi of the Japan Institute for Labour Policy and Training.
Last year, an Expedia survey found 58 per cent of Japanese respondents felt guilty for taking a vacation. This year, some workers are even complaining about the special 10-day nationwide holiday at the end of the month to mark Emperor Akihito’s abdication.
“The Japanese workplace is a very collective atmosphere,” Hamaguchi says, adding that it’s as if each worker has no individual job description.
“The job description is attributed to the division or department,” he says. “So if the department hasn’t completed their task, then any member should not leave the office.”
At its most extreme, this work mentality leads to “karōshi,” the well-worn term in Japanese society for death from overwork.

長時間労働が蔓延している日本を取り上げよう。

「ブルーカラーもホワイトカラーも、職場を離れることに罪悪感を持っている」とJILPTの濱口桂一郎は言う。

昨年、エクスペディアの調査では、日本人の58%が休暇を取るのに罪悪感を感じている。今年、明仁天皇の退位による月末の10日にわたる公休日に不満を漏らす労働者もいる。

「日本の職場はとても集団的な雰囲気がある」と濱口は述べ、あたかもどの労働者も個別のジョブディスクリプションを持っていないかのようだと付け加えた。

「ジョブディスクリプションは係や課に与えられている」と彼は述べ、「なので、課がその任務を完了していないならば、課員は誰も職場を離れるべきではない」と。

その極限において、この労働メンタリティは日本社会でよく知られた「過労死」に至る。

電話越しの口頭でのやり取りなので、ややニュアンスがずれたところもありますが、まあおおむね趣旨は通じていたようです。

一番最後に「This story originally appeared on CBC」とあるので、ほぼこういうやり取りがカナダのテレビに流れたんだと思います。

 

 

 

2019年6月20日 (木)

無知がものの役に立ったためしはない

例の「年金返せ」デモについて、藤田孝典さんがこういうことをつぶやいていたようですが、

https://twitter.com/fujitatakanori/status/1141039413918437377

年金について勉強してから発言したり、行動するべきだ、という議論もあるみたい。しかし、そんなことは政治家、官僚、研究者、専門家の仕事。一般市民や大衆は、怒りを感じたらみんなで集まり、デモや示威行動で表現すればいい。何も行動しないよりはるかにマシ。

いやこれは全然駄目。

細かいところまで勉強せよとは言わない。しかし、公的年金とはそもそも如何なるものであるか、そして公的年金制度において「年金返せ」なるスローガンが如何なる、どちら向きのベクトルを持った台詞であるかという、基礎の基礎のそのまた基礎に当たるようなことを全く理解しないほどの不勉強な、方向性を全く間違えた「怒り」なるものを、それが無知な大衆の怒りであるという理由で賞賛するような議論は、良く言って愚かの極みであり、悪く言えば利敵行為以外の何物でもないでしょう。

保険料の拠出という形で個人の権利性を確保しつつ、公的社会保障制度全体で貧富間の再分配を図るという仕組みの根源を破壊する方向の論理だからです。

公的年金をつかまえて、あたかも私的な取引に基づく積立貯金であるかの如く「返せ」などという言語を発すること自体が、脳内主観では敵対していることになっているホリエモンと全く寸分違わない立場に自らをおいているという基礎の基礎すら理解できていないような人間は、やはり最小限のことを勉強してから発言したり行動すべきなのです。

同じ社会保障制度で例を取れば、健康保険で医者にかかって本人負担分の高さに逆上して、「健康保険料返せ」とわめき散らして、公的健康保険を破壊し、市場ベースの医療保険だけの、ムーア監督の「シッコ」の世界を求めるかの如き無知な「庶民の怒り」を、褒め称えるようなことを言ってはいけないのです。

 

 

2019年6月18日 (火)

ワシの年金バカ再掲

なんだかもう、バカとアホとタワケが三つどもえで南海の大決闘をやらかしているような悲惨な状況下で、とりわけ狂った正義感に満ちあふれているらしき「りべらる」諸氏の言動には絶望感しかないので、新たに何かを書く元気も起こらず、過去のいくつかのエントリを再掲することで、一応の対応ということにしたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

・・・これは確かにわたしも感じていることです。ただ、理由付けは異論があります。官僚への期待値も政治的疎外感も、逆方向に向かう蓋然性の方が高いはずです。

では、お前の考える理由は何か?

彼らが「年金生活」に入っていることそれ自体が最大の理由ではないか、と思うのです。

ただし、これは社会保障がちゃんと分かっている人には理解しにくいでしょう。

公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。

社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。

労働教育より先に年金教育が必要というのが、本日のオチでしたか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

・・・この問題をめぐるミスコミュニケーションのひとつの大きな理由は、一方は社会保障という言葉で、税金を原資にまかなわなければならない様々な現場の福祉を考えているのに対し、他方は年金のような国民が拠出している社会保険を想定しているということもあるように思います。

いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d4d3.html (「ワシの年金」バカの脳内積立妄想)

・・・このエントリは、どちらかというと大きい政府小さい政府論の文脈で、なぜ社会保障で生活しているはずの年金世代が小さい政府といいたがるのかというパラドックスを指摘したものですが、実は、年金制度それ自体の内部で、まさにこの「脳内積立妄想」が猛威を発揮しているのが、今日ただいまの「年金カット法案」という醜悪なネーミングであるように思われます。

ニッポンという大家族で、子どもと孫の世代が一生懸命耕して田植えして稲刈りして積み上げたお米を、もう引退したじいさまとばあさまも食べて生きているという状況下で、その現役世代の食えるお米が少なくなったときに、さて、じいさまとばあさまの食う米を同じように減らすべきか、断固として減らしてはならないか。

多分、子どもや孫が腹を減らしてもじいさまとばあさまの食う米を減らしてはならないと主張する人は、その米が何十年もむかしにそのじさまとばあさまが現役で田んぼに出て働いていた頃に、自分で刈り取ったお米が倉の中に何十年も積み上げられていて、それを今ワシらが食っているんじゃ、と思っているのでしょう。

いろいろ思うに、ここ10年、いや20年近くにわたる年金をめぐるわけの分からない議論の漂流の源泉は、そもそも現実の年金が仕送りになっているということを忘れた「ワシの年金」バカの脳内積立妄想に在るのではないか、というのが私の見立てです。

そのとんでもない破壊力に比べれば、経済学者の中の積立方式に変えろ論など可愛いものではないか、と思ってしまいます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0196.html (上野千鶴子氏の年金認識)

いやもちろん、拙著『働く女子の運命』の腰巻で「絶賛」していただいた方ですから、悪口を言いたいわけではないのですが、やはり問題の筋道は筋道として明らかにしておく必要があろうかと思います。・・・・

なお、もう少し理論的に説明したものとしては、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9649.html (財・サービスは積み立てられない)

・・・この問題は、いまから10年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積み立て方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html (積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?)

・・・「積み立て方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想がにょきにょきと頭の中に生え茂ってしまうのでしょうね。

非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なんですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-545a.html (年金証書は積み立てられても財やサービスは積み立てられない)

・・・従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

 

 

2019年6月16日 (日)

メールマガジン労働情報1500号記念企画 第1回「雇用類似の働き方」

労働政策研究・研修機構のメールマガジン労働情報1500号記念企画として、第1回「雇用類似の働き方」がアップされています。

https://www.jil.go.jp/kokunai/mm/memorable/1500th/01.html

 現在世界的に、最もホットな労働問題となっているのが、第4次産業革命とともに登場してきた新たな就業形態であり、シェアリング経済、プラットフォーム労働、クラウド労働等々のバズワードが世界を飛び交っている。今回の特徴はそれが日米欧といったこれまでの先進諸国だけでなく、中国や韓国など他のアジア諸国においても同時進行的に進んでいるという点である。JILPTは毎年日中韓の枠組みで労働フォーラムを開催しているが、昨年末2018年11月に中国青島(チンタオ)で開催した会議では、中国側の主導で「新たな就業形態」がテーマとされ、3か国の実態と対応が討議されたが、とりわけ従来型産業規制が希薄な中国においてこの種の新たなビジネスモデルが急速に展開していることが窺われた(参考資料1)。一方、2018年6月には日本の厚生労働省とEUの欧州委員会による日・EU労働シンポジウムでも「新たな就業形態」がテーマに取り上げられており、EUのこの問題への高い関心を示している。・・・・・

前半はこのトピックにかかわるJILPTの研究成果を紹介し、後半は雇用類似の働き方に対する法政策の在り方についてのごく簡単な解説です。

 

労働基準監督システムの1世紀@『季刊労働法』2019年夏号(265号)

1837028_o 『季刊労働法』2019年夏号(265号)に「労働法の立法学」第54回として、「労働基準監督システムの1世紀」を執筆しました。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/6893/

■労働法の立法学 第54回■
労働基準監督システムの1世紀
労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎

はじめに
1 工場監督システムの形成と展開 
(1) 工場法の制定経緯
(2) 工場監督システムをめぐる問題
(3) 工場監督システムの整備
(4) 内務省社会局時代
(5) 戦時体制下の労務監督制度
2 鉱山監督制度
3 労働基準監督システムの形成
(1) 労働基準法の制定
(2) 労働基準監督システムの船出
(3) 監督行政の段階的展開
4 労働基準監督システムをめぐる有為転変
(1) 労働基準監督行政の地方移管問題 
(2) 都道府県労働局の設置とその後の動向
(3) 労働基準監督業務の民間活用問題
5 労働基準監督行政の展開
(1) 戦後復興期の監督行政
(2) 高度成長期の監督行政
(3) 安定成長期の監督行政
(4) 臨検監督と司法処分
(5) 労働基準監督官行動規範

 

 

 

2019年6月15日 (土)

職業安定法旧第33条の4(兼業の禁止)

あるニュースを見て、職業安定法の今は亡きある規定を思いだしました。

(兼業の禁止)
第三十三条の四 料理店業、飲食店業、旅館業、古物商、質屋業、貸金業、両替業その他これらに類する営業を行う者は、職業紹介事業を行うことができない。 

この規定、すでに2003年の改正で削除されているんですが、このうち貸金業については、いろいろと問題があります。

この規定を思いだしたニュースというのはこれですが、

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190614/k10011952671000.html (借金ある男性に除染現場で強制労働させた疑い 男3人逮捕)

・・・米倉容疑者は、知り合いからの借金があった男性を「返済のため仕事しろ」などと脅して、ともに逮捕された男が経営する福島県の会社で除染作業員として日当1500円で2日間働かせたということです。

警視庁によりますと調べに対して、米倉容疑者は「借金返済を理由に仕事を勧めたが、無理やり連れていってはいない」などと容疑を否認しているということです。

実は今から8年前にこういうエントリを書ていたんですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-58bd.html (女は風俗、男は原発)

これでもそうとうにやばいですが、その先はいよいよ・・・

>そして、もう一つのルートが多重債務者だ。貸金業法改正によって、正規の業者から融資を受けられなくなった人が、いわゆるヤミ金から斡旋されて作業員になるケースもあるという。
>「女は風俗、男は原発というのが昔からの常識。元金にもよるけど、利子を引かれて元に残るのは5000円とか。一杯飲んでタバコ買ったら終わり。だからなかなか辞めない。でもよく働くよ、最近の多重債務者は。ほかに貸してくれるところがないからだろう」

ちなみに2003年改正まで、職業安定法には兼業禁止規定がありました。もとをたどると戦前の職業紹介法に由来し、料理店業・飲食店業・旅館業・古物商・質屋業・貸金業・両替業等と職業紹介事業との兼業は禁止されていたのです。「借りた金を返せねえのなら、体で返してもらおうか」という世界が現実にあったからですが、改正時にはそういう現実が遠いものに感じられるようになっていたのでしょう。 

借金のカタにやばい仕事に送り込むという世界は、戦前以来脈々と続いているようです。

 

2019年6月14日 (金)

大学教授はジョブ型正社員か?

大学教授と言えば、その専門分野の学識で採用される真正高級のジョブ型正社員じゃないかとも思われるところですが、必ずしもそういうわけでもないということが、最近の裁判例で明らかになったようです。今年5月23日の東京地裁の判決、淑徳大学事件では、

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/728/088728_hanrei.pdf

本件は,被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し,被告の設置する大学の教員として勤務していた原告らが,被告が原告らの所属していた学部の廃止を理由としてした解雇が無効であると主張して,被告に対し,労働契約に基づき,それぞれ労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を求めるとともに,解雇後の月例賃金,夏期手当,年末手当及び年度末手当である原告Aにおいて別紙①請求一覧表1の,原告Bにおいて別紙①請求一覧表2の,原告Cにおいて別紙①請求一覧表3の各支給日欄記載の日限り各金額欄記載の各金員並びに各金員に対する各起算日欄記載の日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

大学教授も無限定正社員なの?

淑徳大学の就業規則によれば、

被告の就業規則8条は「学園は,業務上必要と認めた場合,教職員に対し勤務地,所属部署,職種及び職務の変更を命ずることができる。」と定め,同14条は「教職員が次に掲げる各号の一に該当するときは,解雇する。」と定め,同条4号は「やむを得ない理由により事業を縮小または廃止するとき」と定めている(甲6)。

ふむ、普通の会社と一緒ですね。ただ、原告側主張では、職種は大学教授に限定されているけれども、職務つまり何を教えるかは無限定だということのようです。だから、国際コミュニケーション学部を廃止しても、他学部に配置転換することで雇用を維持できるはずだと。

それに対して被告大学側は、「大学は学部ごとに研究及び教育内容の専門性が異なるから,大学教員は所属学部を限定して公募,採用されることが一般的であり,淑徳大学においても,教員を採用する際は,公募段階で所属学部を限定した上,所属予定の学部の教授会又は人事委員会が承認した場合に限って採用している」と主張しています。

この点について、判決はなんだかずらして議論をしています。

・・・しかし,原告らの所属学部が同学部に限定されていたか否かは別として,淑徳大学には,アジア国際社会福祉研究所その他の附属機関があり,学部に所属せずに附属機関に所属する教員が存在し,原告らが配置転換を求めていたことは前記認定のとおりであるから,被告は,原告らを他学部へ配置転換することが可能であったかはともかくとしても,附属機関へ配置転換することは可能であったことが認められる。そうすると,仮に原告らの所属学部が同学部に限定されていたとしても,国際コミュニケーション学部の廃止によっても,原告らの配置転換が不可能であった結果,原告らを解雇する以外に方法がなかったということはできず,被告の主張は採用することができない。

他学部への配置転換を考慮する義務があるかどうかはともかくとして(なんやこれ)、附属機関への配置転換はできるやろうと。結論として解雇回避努力を尽くしておらず解雇無効としています。

と、これだけでもいろいろと議論のネタになりそうな判決ですが、そもそも最近の大学教授の皆様の状況は、むしろ率直に無限定社員化しつつあるというべきなのかもしれません。

 

 

 

2019年6月13日 (木)

[書評]160 神と天使と人間と 大澤真幸『社会学史』(1)by 佐藤俊樹@『UP』6月号

456895 先日、名著『社会科学と因果分析』をお送りいただいた佐藤俊樹さんが、東大出版会の広報誌『UP』で、大澤真幸さんの『社会学史』を批評しているんですが、これが破壊力すごすぎて、正直がれきの山という感じです。何が?って、大澤さんのこの本が。

http://www.utp.or.jp/book/b456895.html

[書評]160 神と天使と人間と 大澤真幸『社会学史』(1) 佐藤俊樹

何がどうがれきの山なのか、それは読んでいただくしかなさそうです。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-8337.html (佐藤俊樹『社会科学と因果分析』)

・・・思いだしてみると、今から40年余り前に大学に入ったころのマックス・ウェーバーという人のイメージって、(当時駒場にいた社会学者が折原浩という典型的なウェーバー考証学者だったこともあり)確かにガチ文系という感じでしたね。同じ文系でも数学を駆使している近代経済学とは対極にある感じでした。でも、それって、ウェーバーのそういうところばっかり「研究」してきた日本のウェーバー学者たちのバイアスだったようです。

佐藤さんのすごいところは、ウェーバーの論文で参照されている同時代のフォン・クリースという統計学者をはじめとして、関連する学問分野の文献を丁寧に見ていき、リッカート的ブンケー論に引き寄せて解釈されがちだったウェーバーが、実は同時代の最先端の統計論と取っ組み合っていたということを論証していくところです。そのスタイルは、それこそまさに文系の学者たちの得意とする文献考証そのものですが、それでこれだけ世の通俗的な認識と異なる絵図が描けてしまうということは、いかにこれまでのガチ文系のウェーバー学者たちが、自分の乏しい認識枠組みの内部だけで、ウェーバーの論文をあーでもないこーでもないとひねくり返して読んできていたかを示しているともいえるのでしょうね。

 

 

『福祉社会へのアプローチ 久塚純一先生古稀祝賀』(上)(下)

Hisatuka 『福祉社会へのアプローチ 久塚純一先生古稀祝賀』(上)(下)(成文堂)が届きました。上下巻合わせて1500ページに及ぶ大冊です。

わたくしは下巻に「国家と企業の生活保障」を寄稿させていただいております。

久塚さんは社会保障法学者なので、そちらの論文が多いのですが、そうでないかなりはなれたテーマの論文もいくつか散見され、久塚さんのおつきあいの広さを窺わせるものとなっています。

労働法、労働研究の観点から興味を惹きそうなものをいくつかピックアップしておきますと、

フランスにおける障害者雇用支援システム 大曽根寛

地方公務員の退職勧奨における性別格差-1960年代の一般行政職を中心として 大森真紀

ワークライフバランス(WLB)理念の法的検討-再構成に向けての一考察 河合塁

ワークライフバランスと公共的相互性 後藤玲子

保険料拠出の意義と被保険者の地位に関するメモランダム 小西啓文

災害時の労働者の労務給付拒絶権に関わる一試論 春田吉備彦

ドイツの障害者雇用における使用者の法的義務と障害に関する情報の取得について 松井良和

日本福利厚生形成史に関する一考察 森田慎二郎

なぜ在華紡は大事か 篠田徹

ちなみに、この中でいちばん面白かったのは、大森真紀さんの論文です。『働く女子の運命』で触れた1960年代の企業の感覚とほぼ同じ感覚が地方自治体でも支配的で、あちこちの自治体で退職勧奨の対象が「満30歳以上で在職10年以上の女子」とか「有夫・有児で月収3万5千円以上の女子」とか、あるいは採用時に結婚退職の誓約書を提出させていたとか、山のようにあります。

某市の総務課長曰く、「市職員になりたい人が多い現状なので、市としては1世帯にひとりずつ採用する方針を採っており、一部には結婚して出産したら辞めるよう勧告したこともある。昇給ストップもやむを得ない」

大森さん曰く:大都市圏でもなく大企業が立地しない地方地域において、地方公務員職は、性別にかかわらず希少な雇用機会を提供していたから、夫婦で安定した現金収入を稼ぐことへの住民の反発も強く、それが地方自治体による女性への退職勧奨圧力を支えていたのだろう。

 

2019年6月12日 (水)

労働立法政策史における「連続」と「断絶」 by 石田眞@『労働法律旬報』6月上旬号

457079 『労働法律旬報』6月上旬号は、例のベルコ事件が特集ですが、巻頭言に、 石田眞さんが「労働立法政策史における「連続」と「断絶」―労働法研究における「歴史」の面白さ」を書かれています。

http://www.junposha.com/book/b457079.html

昨年末は、石田さん編著の『戦後労働立法史』、石井保雄さんの『わが国労働法学の史的展開』、わたくしの『日本の労働法政策』と、歴史物の大冊が並びましたが、このコラムは、石田編著と拙著の論点として戦前、戦中、戦後の「連続説」「断絶説」を取り出し、読者の興味をそそったところで、今年10月に立命館大学で開催される日本労働法学会におけるワークショップに勧誘しています。

というわけで、皆様是非このワークショップに参加して、議論をぶつけていただければと存じます。

ついでに、本号特集のベルコ事件については、『Japan Labor Issues』5月号に英文で短い評釈を書いておりますので、ご参考までに。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2019/014-03.pdf

 

 

 

 

教育再生実行会議の高校改革提言@WEB労政時報

WEB労政時報に、「教育再生実行会議の高校改革提言」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/article.php?entry_no=76230

 去る5月17日、官邸に設置されている教育再生実行会議が「技術の進展に応じた教育の革新、新時代に対応した高等学校改革について」と題する第11次提言を発表しました。内容は大きく、AIやIoTなど「技術の進展に応じた教育の革新」の話と、「新時代に対応した高等学校改革」の二つからなります。後者はやや目新しい感じがしますが、実はよく読んでいくと、今から半世紀以上昔の高度成長期の議論が復活している感もあります。まずは、何を論じているのかを見ていきましょう。

 最初の能書きは、高等学校は中学校を卒業したほぼ全ての生徒が進学する一方、高校生の能力、適性、興味・関心、進路等が多様化している。高等学校が対応すべき教育上の課題は複雑化している。一方、少子高齢化、就業構造の変化、グローバル化、AIやIoTなどの技術革新の急速な進展によるSociety5.0の到来など、高等学校を取り巻く状況は激変している。そこで、これからの高等学校においては、・・・・ 

というわけで、例によって労働問題温故知新噺です。

ついでに一つ紹介。同じWEB労政時報に、JILPTの藤本真さんが「雇用・労働の平成史」という連載の第1回目を書いています。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/article.php?entry_no=76233

1回目は淡々とこの間の変化を叙述していますが、次回以降どういう議論を展開するのか楽しみです。

 

2019年6月11日 (火)

エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』

Amy エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇 ゼネラルモーターズ倒産と企業城下町の崩壊』(創元社)を、版元の創元社よりお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3983

「二分されたアメリカ」の縮図を浮彫りに!

世界トップレベルの自動車企業・ゼネラルモーターズ(GM)。
その生産工場が閉鎖したとき、企業城下町ジェインズヴィルの分断が始まった――。
『ワシントン・ポスト』で30年以上のキャリアを持つ女性ジャーナリストが、一市民のパーソナルな物語を通して「分裂したアメリカ全体の物語」を描き出した、衝撃のノンフィクション!

★ファイナンシャル・タイムズ&マッキンゼー「ベスト・ビジネスブック2017」
★ニューヨーク・タイムズ「100の名著2017」

***

GM最古の自動車組立プラントを擁するウィスコンシン州南西の街ジェインズヴィルでは、経済のすべてがGMを中心に回っているといっても過言ではなかった。
退屈だが高給の工場作業。工員の家族は半地下や庭つきの一軒家に住み、安定した生活を送っている。家族3代、組立プラントに勤めているという家庭も少なくない。
しかし「大不況(グレート・リセッション)」の渦中にある2008年、クリスマスを目前に控えた冬の日、ジェインズヴィル組立プラントの長い歴史は唐突に幕を下ろした。
最後のシボレーがラインを通過していくのを呆然とした気持ちで見守っていた工員たちに、怒涛の苦難が押し寄せる――。

工場の再開を信じるのか? よりよい雇用を求めて職業訓練を受けるのか? 遠方の求人に縋って単身赴任をするのか? 生活レベルを落として援助を受けるのか?
かつては同じ工場で共に働いていた人々も、同じ街を故郷とする同胞も、その立場と選択によって運命は大きく分かれてしまう。
家族がバラバラになり、十分な援助も受けられず、日々の食事にも事欠くような元工員の家庭があるいっぽう、政治家や財界人はインセンティヴをばらまいて新企業の誘致に奔走しつつも、まだ「グラスは半分以上残っている」と楽観的に構えている。
災厄を免れた者と、災厄へと滑り落ち、いまだに抜け出せずにいる者。
ジェインズヴィルという一都市の悲劇はまさに、二分されたアメリカの縮図となっている。

著者は現地に赴き、元GM工員、その家族、教育者やソーシャルワーカー、政治家、財界人など、ジェインズヴィルのさまざまな人々に緻密なインタビューを実施。プラント閉鎖以降の彼らの生活や行動を事実のみならず心理まで克明に描写し、すべて実名によるノンフィクションでありながら、小説さながらのストーリーテリングに成功している。。
また、補遺には著者が2013年晩冬~春にかけてロック郡で行った、住民の経済状況に関する調査および職業訓練の成果に関する調査統計結果を多数の収録。本編とは異なる視点から、ジェインズヴィルの「その後」を検証する。

一企業に依存していた自治体がそれを喪った途端、ドミノ倒しのようにあらゆる経済活動が停滞し、人々の人生が坂を転げ落ちていくさまを目の当たりにする時、これがはるか遠い異国の、耳慣れない地方都市だけに起こりうる物語だとは決して思えないだろう。

というわけで、まさにトランプのアメリカを生み出した今の姿を描き出しています。

 

2019年6月10日 (月)

『中央公論』2019年7月号

D8004cc34449c0cf078e910b2a814160a8f538e0 本日発売の『中央公論』2019年7月号が、「定年消滅――人生100年をどう働くか」という特集を組んでいます。

http://www.chuko.co.jp/chuokoron/newest_issue/index.html

その中に、わたくしも一本寄稿しております。

●対談
 賢くボケて空っぽになる  生涯現役をめざして  五木寛之×横尾忠則

●高齢者を活かす雇用システム改革とは  濱口桂一郎

●ITが変える!? シニアの就労環境  廣瀬通孝

●【ルポ】〝定年〞のない会社、高齢者が活躍する会社  樋田敦子

 《生涯現役の達人》
●「不機嫌老人」よりも「理系老人」になろう  若宮正子

●計三〇六歳の四人が、六〇年間歌い続けられた理由 ボニージャックス

●対談
 男のキャリア、女のキャリア 定年後を輝かせる働き方、マネー、人間関係  勝間和代×楠木 新

 

 

 

 

 

『Works』154号「巧みに休む」

Works_1 リクルートワークス研究所の『Works』154号が「巧みに休む」という特集を組んでいます。

http://www.works-i.com/pdf/w_154.pdf

はじめに そんなに休んで仕事が進むのか、という疑問を持つ人たちへ

●日本人は、なぜ休むのが下手なのか
・日本人は休めているのか
・日本人はなぜ休めないのか 3つの理由
 理由1 “休むこと”を軽視している
 理由2 法規制が不十分である
 理由3 “休まない”組織文化がある

●巧みな休み方を知る・実践する
・巧みに休む1 日々、きちんと疲れを取る
睡眠(いい睡眠とは何か/睡眠の改善に企業が動き始めた/社員の睡眠の質・量を計測/昼寝のための個室を用意)
インターバル制度(休む時間を起点に、労働時間を決める/欧州並みの11時間のインターバルを設定)
つながらない権利(“働かせたい企業”“働きたい個人”を抑制する)
“田舎”に暮らす(サテライトオフィスを海辺の町に設置)

・巧みに休む2 長い休みでリフレッシュする
“山ごもり”の権利(休暇中は、“つながらない”を徹底)
会議をやめる(“ハッピーオーガスト”に連続休暇の取得を推進)
ワーケーション(長期休暇の途中で“働く”)

・Column: 海外の“休み方” Germany
・Column: 海外の“休み方” Norway
・Column: 海外の“休み方” U.S.A.

まとめ:“休むこと”を起点に考え方と行動をどこまで変えられるか/石原直子(本誌編集長)

この「日本人はなぜ休めないのか 3つの理由」の「理由2 法規制が不十分である」のところで、わたくしが顔を出しております。

・・・たとえば有休について。「欧州での有休に関する諸制度は、1936年に国際労働条約(以下、ILO条約)として1年に6営業日と定められたことによって枠組みが決まりました。このときの原則は、“6日連続で取る”ことでした。6営業日ということはつまり、日曜を含めた1週間という意味です。欧州において有休は週単位で取るものであって、心身を休めるには1週間程度は必要という、働く人々の健康確保の視点が入っていました」(濱口氏)
 1970年には、国際労働機関(以下、ILO)が有休は最低3週間と宣言した。このときは、分割してもいいがそのうちの1回は必ず2週間以上の連続休暇を取得させること、とされている。「EU指令では、これを上回る4週間の有休を与えるべきとしています。単位は“週”であっ、“日”ではありません」(濱口氏)。欧州の人々は実際に、夏には2週間から4週間のバカンスを当然の権利として取得している。先のエクスペディア・ジャパンの調査によれば、ドイツ、フランス、スペインの有休取得率は100%、英国、イタリアもそれに準ずる高い数字である。
 では、我が国の法律はどうなっているのか。労働基準法では、フルタイムで6年6カ月以上働いた従業員には毎年20日ずつの有休の付与が義務付けられている。そもそも付与日数が、欧州各国の3分の2程度であるが、「問題視すべきは、連続取得の規定がないこと。これは、1947年の労働基準法の制定時の思想が変わることなく残っているために生じる問題です」(濱口氏)

労働基準法の制定は、1947年、つまり終戦直後である。有休は従来の工場法などにはまったく規定がなく、ILO条約などに基づき新たに導入するものだった。「当時、制定に携わった担当者は、有休が週単位でまとめて取られているという欧州の事情を知っていたことがわかっています。原案では継続6日を要求していたものの、『一定期間継続的に心身の休養を図るという年次有給休暇本来の趣旨は著しく没却されることになるが、我が国の現状では労働者に年次有給休暇を有効に利用させるための施設も少なく、労働者は生活物資獲得のため、週休以外に休日を要する状況もあり』(*)分割を認めることとなったのです」(濱口氏)
 戦後間もなく、焼け野原が広がる時代にあっては、有休のときに利用する宿泊施設やレジャー施設がほとんどなかったのは想像に難くない。そして、人々が日々の暮らしのために一日がかりで買い出しに行くのも当時の日常の光景であり、有休があれば、その買い出しの日に仕事を休んでも給料をもらえる、というのは大きなメリットがあったのだ。
「高度経済成長期になると、こうした特殊な事情はなくなっていきます。もはや買い出ししなくてもどこでも買い物はできるし、宿泊施設やレジャー施設も十分にできました。それなのに、本来の年次有給休暇とは何か、というところに立ち戻ることを忘れたまま、有休取得率をいかに増やすか、という議論だけが積み重ねられました。“長期”休暇をいかに取るかということは検討の俎上に載ることがないまま、今日に至っているのです」(濱口氏)
 今や半日単位、時間単位での有休を取得可能にするなど、さらに細分化する傾向にある日本の有休制度は、「諸外国のなかでは非常に特殊な発展の仕方」(濱口氏)をしており、本来の趣旨からどんどん離れていっているのが現状なのだ。

この話、わたくしの講義を聞いたことのある人にとっては毎度おなじみの「ああ、あの話か」でしょうが、意外に世の中に知られていません。

 

 

2019年6月 8日 (土)

大学の学部譲渡と労働契約承継

こんな記事を見て気になったことがあります。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201906/CK2019060602000295.html (私大間、学部譲渡しやすく 文科省が再編統合後押し)

 文部科学省が、私立大同士で学部の譲渡ができるよう制度を改正し、全国の学校法人などに通知したことが六日、分かった。従来は特定の学部だけを譲り渡すことはできず、いったん学部を廃止した後、譲渡先の大学が改めて新設する必要があった。
 十八歳人口が減少し、私大経営は厳しさを増している。文科省は、強みのある学部に教育資源を集中させようとする私大などの利用を見込んでいる。学部譲渡の手続きが大幅に簡素化されたことで、私大の再編が進む可能性がある。
 当該の学部などの学生は、譲渡によって在籍する大学が変わることになる。所属する教員の待遇や研究体制の維持にも目配りが必要となる。文科省は、学生や保護者らに対して十分な説明機会を設けるといった配慮も求めている。

この場合、学部の譲渡というのは事業譲渡に当たるのでしょうか。つまり、大学というのは2016年の事業譲渡等指針でいう会社等の「等」に含まれるのでしょうか。

 中教審が昨年十一月、円滑な学部単位の譲渡ができる仕組みを作るよう答申したことから、検討が進められていた。既に関西国際大(兵庫県三木市)と神戸山手大(神戸市)が制度活用に手を挙げている。

とあるので、その中教審答申を見てみても、

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2018/12/20/1411360_1_1_1.pdf

 さらに、これらの各大学におけるマネジメント機能や経営力を強化する取組に加え、複数の大学等の人的・物的リソースを効果的に共有すると同時に教育研究機能の強化を図るため、一法人一大学となっている国立大学の在り方の見直し、私立大学における学部単位等での事業譲渡の円滑化、国公私立の枠組みを越えて大学等の連携や機能分担を促進する制度の創設など、定員割れや赤字経営の大学の安易な救済とならないよう配意しつつ、大学等の連携・統合を円滑に進めることができる仕組みや、これらの取組を促進するための情報の分析・提供などの支援体制の構築など実効性を高める方策について検討することが必要である。

とあるだけで、詳しいことはよくわかりません。

これから若年人口がますます減少し、大学等の経営も苦しくなっていくでしょうから、いろいろと問題が起こってくることが予想されます。学部譲渡に伴う労働契約の承継不承継問題なんてのも、あちこちで発生するのかもしれません。

 

2019年6月 7日 (金)

中野円佳『なぜ共働きも専業もしんどいのか』

515fsrgunyl__sx307_bo1204203200_ ちょうどカネカの話題が沸騰している時期に世に出るという幸運(?)の書です。中野円佳さんの『なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造』(PHP新書)をお送りいただきました。

シンガポール在住、現在は日本とシンガポールを行き来しながら活動する著者が、日本の働き方の矛盾に斬りこんだ本書。

・仕事と家事・育児の両立にいっぱいいっぱいの共働き家庭
・家事・育児の責任を一手に背負い、逃げ場のない専業主婦
・「稼ぎ主プレッシャー」と滅私奉公的働き方を課された男性

こうした「共働きも専業もしんどい」状況は、じつは日本社会の「主婦がいないと回らない構造」が生み出していた。
長時間労働や無制限な転勤など、終身雇用・年功序列という制度で回してきた「日本のサラリーマンの働き方」。
これらの制度は、主婦の妻が夫を支える前提で作られている。
専業主婦前提の制度は、会社だけではない。
丁寧すぎる家事、保育を含む教育への予算の低さ、学校の仕組み……問題は社会の様々なところに偏在し、それぞれが絡み合って循環構造を作っている。

「女性が輝く社会」というスローガンがむなしく聞こえるのは、この構造が放置されたまま、女性に「働け、輝け」と要請しているから。
ギグ・エコノミーや働き方改革、多様化する働き方は、循環構造を変える契機になり得るのか。 日本の「主婦がいないと回らない構造」を読みとき、その変化の兆しを探る。
「東洋経済オンラインアワード2018」でジャーナリズム賞を受賞した好評連載に大幅加筆のうえ、書籍化。

わたくしもちらりと顔を出しています。ちょうどいま話題の転勤のところです。

・・・日本のサラリーマンの働き方は「時間・場所・職務が無限定」だと言われる。その「無限定性」、転勤が家族にもたらす影響についてみてみよう。

そもそも、転勤という仕組みは、家族の事情を踏まえず、また専業主婦がサポートすることを前提としている。・・・

と、ここでわたくしの東洋経済オンラインの記事を引用されます。

https://toyokeizai.net/articles/-/160635 (女性活躍阻む「日本型転勤」はなぜ生まれたか)

そして、

・・・総合職として働いていれば、いつどこに転勤命令が出ても、家族の状況がどうあれ、断れない。これが濱口氏の言う「メンバーシップ型雇用」だ。従来、家族の状況を一切考慮せずにこのような働き方を成り立たせることができたのは、妻は専業主婦であるという前提があったからだ。

ところが、この合理性はとっくに崩壊し始めている。共働きが増える中、夫か妻どちらかの転勤により、これまで二人三脚で生活を回していた夫婦ほど、子育てを中心とする生活がなり立たなくなってしまう。・・・

と論じていくのです。

それはまさにそうなんですが、せっかく本をお送りいただいたこともあり、もっと大昔は、日本型雇用システムががっちりと確立するもっと前の時代には、必ずしもそうではなかったというあんまり知られていない話をしておきましょうか。

今や全然はやらない集団的労使関係紛争を取り扱っている、今やあまり名の知られない機関である中央労働委員会というところが、終戦直後の設立以来、律儀に10年おきに座談会方式による『○○年史』というのを出しているんですが、その第2冊目、1966年に出された『労働委員会の二十年 回顧と展望』の第1章「わが国の労使関係」の中で、当時総評議長だった太田薫さんが、こういう台詞を喋っているんですね。

・・・私は今も、日本の組合は、企業労働組合じゃない。工場労働組合だと思う。たとえば今、最近の不況でたくさんのスクラップアンドビルドが始まったが、いま45歳のものが京浜地区に来いと言われたって行かれないわけです。なぜ行かれないかというと、おじいさんもおばあさんもおり、娘も嫁入りした中で、45歳で京浜地区へ社宅をもらってやってきて、55歳になれば、200万円で放り出されたらどうにもならぬ。45歳の人も、何々会社ではなく何々会社の何々工場で生活しているわけなんです。・・・

・・・いわゆる土着の昔なら、あるいは一反か二反の土地を持ってやっておるとか、病気になったときは、近くへ嫁に行っておる娘が来て世話をしてくれるという、そういう状態の中で安定しておるのですね。それを配置転換だからいいじゃないか、それは生産性向上に協力することじゃないかと言って、簡単に片付けられることがあるわけですけれども、本当のところはそういう問題ではない。そこが工場労働者であり、工場労働組合なんだ。・・・

この台詞がとても皮肉なのは、実はこの当時まではまさにそうであった日本の労働組合が、高度成長に伴うスクラップアンドビルドの中で、まさに企業のメンバーとしてよその場所で雇用がつながることを選択していったのが、まさにこの時代であったということなんですね。その意味では、日本型雇用システムが確立する前の、「おじいさんもおばあさんも」とか「娘も嫁入り」という高度成長期以前的な、古風な、プレモダンな、会社よりも家族(一族)の方が大事という雰囲気がかろうじて残っていた時代、しかしそれが滔滔たる近代化の中で古くさい発想だと抛り捨てられて、モダンな核家族イデオロギーの中で、「何々会社」のおとうさんに核家族員がくっついていくという社会に大きく変わっていくわけです。

で、最近、富山はスウェーデンだとか、福井モデルだとかもてはやされている北陸の社会構造ってのは、まさにこのプレモダンな大家族イデオロギーがそれなりに残存しているが故に、そういうのがすりつぶされた大都会と違って、たかが会社のワークよりも「近くへ嫁に行っておる娘が来て世話をしてくれる」みたいな一族のライフが大事というワークライフバランスが成り立っているんですね。60年代の若い女性たちが一生懸命そこから逃げだそうとしていた社会のありよう。

 

 

 

 

 

遠藤源樹編著『選択制 がん罹患社員用就業規則標準フォーマット』

Gan 遠藤源樹編著『選択制 がん罹患社員用就業規則標準フォーマット』(労働新聞社)を共著者のひとりである小島健一弁護士よりお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.rodo.co.jp/book/9784897617541/

がんに罹患した際の、社員のがん治療と就労の両立を支援するためのツールの一つである「就業規則」について、モデル規定例(先進企業の規定例も含む)とその解説を収載。
さらに、がん治療と就労の両立支援ポイントを簡潔に解説することで、がん罹患社員のニーズと企業対応が分かるものとなっています。
社員の高齢化が進むすべての企業が参考とすべき1冊です。

と言うように、本書のメイン部分はモデル就業規則なんですが、その後ろにがん治療と就労の両立支援ポイントが15項目にわたって詳しく解説され、さらにその後ろには、11名の方々による「特別寄稿」が載っています。

そのうち、小島弁護士の書かれている「両立支援の鍵は対話にあり」は、治療と仕事の両立支援は法的に強制されるわけではありませんが・・・という枕詞は間違っていると指摘し、「従業員が病気にかかわらず働き続けることを支援することは、企業にとって、紛れもなく法的な義務なのです」と語ります。

おや、昨年の法改正で入った労働施策推進法でも、国の施策に並んでいるだけじゃないかと思ったあなた。小島さんが言っているのは、障害者雇用促進法による差別禁止と合理的配慮の義務のことなんです。雇用率と違い、こちらの「障害者」は障害者手帳所持者に限られず、がん罹患者もこれに含まれるというわけです。

さらに、「がんに罹患した社員に仕事を続けさせて、もし何かあったら会社ガ責任を問われるのではありませんか」という質問に対しても、「会社は一見すると、相反する安全配慮義務と合理的配慮提供義務を両立させなければならないという難しい立場におかれるように見えます」と言いつつ、「そもそも安全配慮義務の法的性質は“結果債務”ではなく“手段債務”」なので、「決して“結果責任”を課すものではありません」と説明しています。このあたり、労働法学者がきちんと議論を展開しておかなければいけない点ですね。

 

2019年6月 3日 (月)

『季刊労働法』2019年夏号(265号)

265_hp 今月半ばに出る予定の『季刊労働法』2019年夏号(265号)の案内がもう労働開発研究会のサイトに載っています。
https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/6893/

特集 今後の外国人労働者政策

改正入管法と労働法政策

佐賀大学教授 早川智津子

実務家からみた平成30年入管法改正に対する評価と今後の課題

弁護士 山脇康嗣

最近の外国人労働者導入策を考える

―経済学の視点から―

日本大学教授 中村二朗

2018年入管法改正の政治的意義

―外国人労働力導入の先進事例分析を手がかりに―

上智大学教授 岡部みどり

「出入国管理及び難民認定法」改正と日本の外国人労働者

―外国人の受入れを社会学から考える

首都大学東京教授 丹野清人

第2特集 働き方改革と職場の健康管理

「働き方改革」と労働衛生政策の方向性

早稲田大学准教授 鈴木俊晴

産業医制度をめぐる改革の方向性と課題

九州国際大学特任助教 阿部理香

労働者の健康情報の取扱いをめぐる規制の現状と課題

―働き方改革関連法による労働安全衛生法の改正を受けて

明治学院大学准教授 河野奈月

■論説■

「働き方改革」の総括と今後に残された課題

東京大学社会科学研究所教授 水町勇一郎

労働契約の成立段階における内容決定と本質的内容の設定

―契約解釈を通じた内容決定と契約の拘束力の実現

九州大学准教授 新屋敷恵美子

労働組合の資格審査は必要か

―組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討

神戸大学大学院教授 大内伸哉

労働法体系書の未来

―土田道夫「書評『労働法』」に応えて

明治大学法科大学院教授 野川 忍

■イギリス労働法研究会 第32回■

イギリスにおける間接差別の認定手法

―Essop事件・Naeem事件を素材として―

山形大学准教授 阿部未央

■アジアの労働法と労働問題 第37回■

ラオス労働法ハンドブック作成支援

JICAラオス法の支配発展促進プロジェクト長期派遣専門家・弁護士 入江克典

労働法の立法学 第54回■

労働基準監督システムの1世紀

労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎

■判例研究■

本給とは別に支給される業務手当の時間外割増賃金該当性

日本ケミカル事件 最高裁判所第一小法廷平成30年7月19日判決 労働判例1186号5頁

琉球大学准教授 戸谷義治

■研究論文■

労働協約の法的規律に関する一考察(1)

ドイツにおける社会的実力要件と交渉請求権の議論を契機として

京都女子大学准教授 植村 新

■キャリア法学への誘い 第17回■

配置転換とキャリア権

法政大学名誉教授 諏訪康雄

■重要労働判例解説■

契約社員の退職金不支給と労働条件の不合理性

メトロコマース事件・東京高判平成31年2月20日労働判例ジャーナル85号2頁(原審(東京

地判平成29年3月23日労判1154号5頁))

弁護士・早稲田大学大学院法務研究科教授 小林譲二

厚待遇・中途採用・職種限定・即戦力型採用における試用期間中の解雇

ラフマ・ミレー事件・東京地判平成30年6月29日LEX/DB25561405

國學院大學教授 本久洋一

いやあ、これは読み応えありそうなのが目白押しです。

 

 

神津会長のブログにわたくしのなりすましが出現

昔から本ブログをお読みの方々にはまたかという思いがあるかもしれませんが、世の中にはわたくしを騙って人のブログにあれこれ書き込み騒ぎを起こしたがる手合いがおります。

今回は、連合の神津会長のブログに出現しているようです。

https://imoriki.hatenablog.com/entry/2019/06/01/143006 (あなたの労組の葛藤は? )

厳密には、わたくし本人であるとはどこにも書いているわけではありませんが、わたくしの顔写真に目線を入れたものを勝手に使い、わたくしの勤務先の略称をIDに用いているので、明らかにわたくしであるかのように誤解させようという悪意が感じられます。

ごく最近も、東北大学の川端望さんのブログにhamachan名でコメントを書き込む事件が発生しましたが、

http://riversidehope.blogspot.com/2018/10/blog-post_22.html (留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について)

こういう陰湿な嫌がらせをする連中に対して、どういう対応が可能なのか、大変悩ましいところです。

(追記)

なお、もう6年前になりますが、ツイッター上でわたくしになりすまして悪口雑言をまき散らしていた者に対して、そのアカウントを削除させた経緯が、過去ログにありますので、ご参考までに。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-4806.html (悪質なツイッターなりすましについて)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-5937.html (なりすましアカウント削除の連絡)

(後記)

神津会長のブログに書き込まれたわたくしのなりすましによるコメントが削除されたようです。

 

2019年6月 2日 (日)

再度再掲

なにやら某方面が炎上しているらしいですが、そもそも論は先日再掲したこれの通りであり、雇用契約の限定と無限定のトレードオフの問題。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-c39e06.html(「ジョブ型正社員」をめぐる錯綜@『労働調査』2013年8月号 )

 筆者はこのように職務も労働時間も勤務場所も契約で限定されておらず、無限定、すなわち使用者の命令でいくらでも変えられてしまうようなあり方を「メンバーシップ型」雇用契約と呼び、欧米で一般的な職務も労働時間も勤務場所も限定されている「ジョブ型」雇用契約と対比した(『新しい労働社会』(岩波新書)、『日本の雇用と労働法』(日経文庫))。メンバーシップ型正社員には、職務限定の権利もなければ(日産自動車村山工場事件最高裁判決)、時間外労働拒否の権利もなく(日立製作所武蔵工場事件最高裁判決)、遠距離配転拒否の権利もない(東亜ペイント事件最高裁判決)。労働組合としてまず何よりも確認すべきは、雇用契約の無限定とはこうした権利の放棄を意味するということであり、欧米の労働組合から見れば信じられないような屈従であるという点である。
 とはいえ、日本には日本の文脈がある。欧米の労働組合から見れば信じがたいような無権利状態の受け入れと引き替えにメンバーシップ型正社員が獲得したのは、欧米であれば一番正当な解雇理由とされる経営上の理由による整理解雇への制約であった。雇用契約の本来の姿に沿って職務や労働時間や勤務場所が契約で限定されていれば、使用者には一方的にそれらを変更する権利はない。それは経営上の理由で当該職務や当該勤務場所が廃止、縮小される場合でも同じである。使用者に対して「やってはならない」と禁じていることを、いざというときだけ「やれ」と命じることはできない。いざというときに「やってくれ」というためには、そうでないときでも「やってよい」といわなければならない。つまり、日本のメンバーシップ型正社員が雇用契約の無限定を受け入れたのは、整理解雇時に他の職務、他の勤務地への配転や時間外休日労働の削減によって雇用関係自体を維持する可能性を高めるためであった。
 これはメリットとデメリットを比較考量した上でのマクロ社会的選択であり、それ自体はいいとも悪いとも言うべきものではない。雇用の安定を最重要と考えるというのは、そのデメリットも含めて、戦後60年にわたる歴史の中で日本の労働者が選択してきた道である。しかしながら、いざというときのために、労働者にとって何よりも重要な職務、労働時間、勤務場所を限定する権利を放棄するというのは、欧米の普通の労働者や労働組合に理解してもらえる見込みの薄いものであることも認識しておく必要がある。「俺たちは契約が無限定なのに、限定されようとしている」などと彼らに訴えても、理解してもらえるとは思わない方がいいだろう。

 

 

のゆたのさんの拙著『日本の労働法政策』評+α

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のゆたのさんの「ぽんの日記」で、拙著『日本の労働法政策』が評されるとともに、いくつかの「誤植」を指摘していただいています。

http://kynari.hatenablog.com/entry/2019/05/31/120147 

日本の労働政策の歴史を1冊で全般的にまとめてくれているのは、非常に重宝する。「座右の書」とのコピーはむべなるかなと思う。とても持ち運びたいとは思わないが、手元には置いておきたい1冊。

と高評価していただいた上で、

一通り目を通した証拠として、気づいた誤植を掲げておく。引用文中の語句もあるけれど、引用元の誤植そのままかどうかは確認していない。

と並んでいるのですが、いやまずこれ、間違いであれば「誤植」(印刷誤り)ではなく「誤記」(原稿誤り)ですね。

253頁 8行目

 他数居住する → 多数居住する

みたいなのは、まさに私のワープロ変換ミス。よっぽど目を皿のようにしてチェックしたつもりですが、こうして残ってしまうんです。

ご指摘の大部分はこうしたものです。ありがとうございます。

一方、

373頁 (1)の9行目

 憑式 (この単語が何かわからない)

は原文ママですが、確かに読者には何のことやらわからないですね。

あと、

78頁 下から6行目

 述べ来たった → 述べて来た

みたいな、口語表現にないちょっと格式ばった言い方もやや違和感を与えるのでしょう。

 

 

 

 

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