ただ、私はその【受容】の内実がかなり違っているのではないかと考えてきました。鶴光太郞さんに依頼され、経済産業研究所で報告したこともあります。それをまとめたのが、一昨年にWEB労政時報に掲載した「日本型雇用システム論と小池理論の評価」です。昨年、本ブログに全文アップしており、ここでもそれを再度掲載することで、多くの方々が小池理論について突っ込んだ議論を展開するよすがになればと思います。
日本型雇用システムについての議論では、ほぼ必ず小池和男氏の理論が道しるべとして用いられます。しかし、世間の人々が小池理論を理解している理解の仕方は、実は必ずしも小池氏が一貫して説き続けてきていることとは異なるのではないか、むしろその理論的方向性においては逆向きに理解されてきているのではないかという風に、私は感じるようになっています。「理論的」方向性とは、政治的とか社会的な方向性、いわゆるイデオロギー的な傾きのことではありません。実を言えば、そういう方面からの批判や称賛は山のようにありますが、そういう類いの議論は全て、小池理論の「理論」たる根幹のところを取り違えてしまっているのではないか、取り違えて褒めたり貶したりしてしまっているのではないか、という疑問です。
今回は、実務的な本サイトの性格からするとやや違和感があるかも知れませんが、上述した違和感を、小池氏の著作の文言そのものを正確に把握することを通じて確認してみたいと思います。今まで著書で部分的に論じてきたことを、この際まとめておきたいという気持ちもあります。
私自身の「メンバーシップ型」「ジョブ型」論も含め、日本型雇用システムに関する議論はほとんどすべて、欧米の雇用社会と日本の雇用社会が対照的であるという「常識」に立脚して論じられてきました。この「常識」はもちろんあくまでも事実認識として共有されているということであって、価値判断としては真っ向から対立する思想を含みます。むしろ、「ジョブ型」万歳論も「メンバーシップ型」万歳論も、一見対立しているように見えて、その土俵となる事実認識としてはほぼ同じ認識枠組を共有してきたということがここでは重要です。
この「常識」を共有するさまざまな見解を、その時々の時代の主流となった意見の順番に見ていくと、まず1960年代までの経営側と政府の考え方は、①日本も欧米型職務給を目指すべき、というわりと素朴なジョブ型推進論でした。その当時の労働側の主流(総評)は、②いや建前上からはそうかも知れないけれど、そんなことをしたら労働者とりわけ中高年に不利益になるから反対だというものでした。もっともその頃でも、労働側の非主流派には、③経営側の主張する職務給ではなくて西欧のような横断賃率を目指すべきだと主張する人々もいました。ところが1969年の日経連『能力主義管理』ととりわけオイルショックを過ぎて、世の中の雰囲気は一変し、④いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方が世の中に広まりました。1970年代から1980年代はこの思想が世の中を覆った時代です。恐らく世の中の圧倒的に多くの人々は、小池理論とはこの④の見解を実証に基づいて説いたものと思われているのではないでしょうか。ところが1990年代にバブルが崩壊した後は、⑤やっぱり日本型はダメで欧米型を見倣うべし、という考え方が「常識」として政策を駆動していくことになりました。
と見てくると、方向性は目まぐるしく変わっているように見えますが、いや確かにそうなのですが、日本型と欧米型が対照的であるという(価値判断以前の)事実認識の次元においては、何ら変わることなく一貫していることが分かると思います。そう、私が言う「理論的」とはこの次元のことです。そして、恐らく圧倒的に多くの読者にとって意外に聞こえると思いますが、この「理論的」次元において、一貫して上記さまざまな意見と異なる地点にいたのが、実は小池和男氏の理論だったのです。すなわち、これらベクトルはさまざまでも基本構造は共通の「常識」とはまったく異なり、「欧米型は実は日本型と同じなんだ」という「常識はずれ」の理論を一貫して唱え続けてきたのが小池氏なのです。
小池氏が初めて自らの賃金理論をまとめて世に問うた『賃金 その理論と現状分析』(ダイヤモンド社、1966年)から、その理論のエッセンスを抜き出してみましょう。小池氏は言います。
・・・わが国の通説は、日本の賃金や労働組合が欧米諸国に比べきわめて特殊だ、と強調している。熟練は本来企業をこえて通用し、労働者は企業間を移動できるはずなのに、日本の労働者は終身雇用によって個別企業に結びつけられ、その企業にしか通用しない「年功的熟練」をもつにすぎない。賃金は本来職種ごとにきまり、企業や年齢によって異ならないはずなのに、日本の賃金は企業によって差があり、また年齢によってはなはだしく異なる。労働組合は本来職業別あるいは産業別の「横断組織」であるはずなのに、日本の労働組合は企業別だ、というのである。
ここで日本を特殊だという基準は、欧米諸国の「実態」におかれている。あるいは、よりあいまいに「近代的」という言葉が使われている。たしかに・・・右の基準は産業資本主義段階では充分妥当する。だが・・・それらの条件が独占段階に入ってもなお支配的に存在するかは、きわめて疑わしい。近時独占段階の資本蓄積様式の研究が進み、かなり著しい変化が確かめられている。それらは労働力の性質や賃金などにはほとんど及んでいないけれども、変化がそこにも起こっていると推測させるに充分である。そしてわずかに見出された若干の事象をみると、これまで「日本的」とされていたものと少なからず類似している。吟味が要求される。
まず労働力の性質について、「内部昇進制(job promotion)」と「先任権制度(seniority)」という現象が注目される。・・・先任権制度が確立するなら、労働者は原則として未経験工として入社し、勤続を重ねながらしだいに上級の仕事に進むことになる。他社に移ると勤続による利得を失うことになるから、労働者は個別企業と深く結びつく。その本質はなお吟味されねばならないが、一見日本の「年功的熟練」と似た事象が見出されてくるのである。
勤続に応じてより上級の仕事につくのが一般的傾向であれば、賃金率が仕事ごとにきまっていても、結果的には勤続に応じても上昇する。この点を確かめるべき資料に恵まれないけれども、充分推測される。そうすると、勤続や年齢に応じて上昇する日本の年功賃金と似ていることになろう。また労働者がひとつの企業に長く勤続するなら、その賃金は企業をこえてまったく共通するとは限らないだろう。・・・こうした類似点は、たんに表面的なものにすぎないのであろうか。それとも、独占段階一般の傾向なのだろうか。その点の研究はまだきわめて貧しく、以下、まだ市民権を得ていない筆者の仮説-ありうべきひとつの説明を提示するほかない。・・・
誤解の余地はないでしょう。小池理論とは、「欧米諸国でも内部昇進制や先任権制度があるから、日本と変わらない、つまり日本は全然特殊ではないという議論」であって、前記④ではありません。せいぜい、同じ方向に進む同士の中で若干先進的という程度です。そしてその理論的根拠は、これまた多くの人にとっては意外かも知れませんが、今ではあまりはやらなくなった宇野派マルクス経済学の独占資本主義段階論であり、本人自ら実証的根拠はないと認識していたことがわかります。
いやそれはもう半世紀以上も昔の若い頃の議論であって、その後は変わっているんじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。既に上記④が終わりつつあった1994年に出版された『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)でも、一見紛らわしいその標題にもかかわらず、「日本は全然特殊ではない」という議論を全面展開しています。
・・・通念によれば、日本方式とは、なによりも「年功賃金」「終身雇用」「年功的昇進」「企業別組合」そして「集団主義」である。「年功賃金」で暮らしに応じた賃金を払い、「終身雇用」で雇用が確保されれば暮らしが保障される。ただし、保障されたからといって、人はよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれが起こらないとすれば、それは集団主義という気風の賜だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
だが、一体絵に描いたような「年功賃金」や「終身雇用」が日本に存在し得ようか。ときに「年功賃金」を、ほとんど勤続や年齢で賃金額が決まるもの、働きにあまり関係なく暮らしで決まるものと想定する。・・・日本では、毎年定期昇給があることをもって、先のように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給制は、毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う。・・・個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそも働こうが怠けようが賃金に差がつかなければ、誰がよく働こうか。
自称小池ファンの多くは無意識的に④の立場に立って、日本型システムのすばらしさを実証している理論だと思い込んでいるようですが、小池著をちらとでも読めばそれは全く逆であって、そういう「通念」「常識」を批判しているのが小池理論であることがわかります。
ただし、その議論の仕方はあまりにもアンフェアと言わざるを得ません。ほとんど非現実なまでにカリカチュアライズされた④をこしらえて、その非現実性を叩くというやり方です。本来問題の立て方は、なぜ欧米では一般労働者層には個人査定はないのに、日本では末端に至るまで「毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う」のか?でなければならないはずなのに、そういう疑問が生じないように議論を誘導することで、雇用・賃金システム論を封じ込めてしまっています。
しかしむしろ問題は、そういう議論の構成であるにも関わらず、つまり日本型は欧米型と変わらず、むしろ欧米よりも欧米型であること(=普遍性)がその「強み」だという議論であるにも関わらず、なぜか世間では欧米型に対する日本型の「強み」を実証した議論だと理解されているという皮肉な事態にあります。
その背景事情には、青木昌彦企業論における「J企業論」とともに、日本経済の全盛期にその活力の理由を説明する理論として「消費」されたからではないかと思われますが、圧倒的に多くの小池読者たちは、こういう文章を目の前に読みながらその文字通りの意味を理解しようともせず、脳内で勝手に小池理論を上記④の議論だと思い込んでしまい、この壮烈なパラドックスを的確につかまえられていないのではないかと思われるのです。
さらにその後、1999年に出された『仕事の経済学(第2版)』(東洋経済新報社、1999年)では、その「第13章 基礎理論と段階論」で、30年以上前の宇野マルクス経済学の段階論のロジックを繰り返しています。それによると、まず4つの労働力タイプ論が提示されます。
A 技能がやや高く、時間によっても不変のタイプ(熟練労働者タイプ):
B 技能が低く、時間によっても不変のタイプ(不熟練労働者タイプ)
C 技能が時間によってかなり高まるタイプ(内部昇進タイプ)
D 技能が時間によってやや高まるタイプ(半熟練労働者タイプ)
これを産業化の2段階論と組み合わせると、こうなります。
(1)クラフトユニオンの時代:AタイプとBタイプが主役、組合が熟練を形成し、職種別賃金率。
(2)産業別組合の時代:CタイプとDタイプが主役。
(3)これをさらに前期と後期に分け、前期はDタイプがやや主役でCタイプは専門管理職的ホワイトカラーにとどまるが、後期はCタイプが生産労働者にも広まる。
つまり、日本型特殊性論を否定し、それ(「ブルーカラーのホワイトカラー化」)を産業別組合時代後期の一般的性質に解消する議論なのです。しかし、再びその実証的根拠は希薄です。その正否はともかく、宇野マルクス経済学の段階論で一貫している点だけは明らかです。そして、殆どすべての小池読者たちが(表面上の価値判断の片言隻句に囚われて)見落としてきたのもこの理論的一貫性です。
では現実に存在する各国間の差異を小池氏はどう説明するのでしょうか?
・・・それぞれの発展段階には、それぞれ最も適合した経済や技術の方式があるのみならず、さらに最も適した労働力タイプ、労働組合、労使関係などの社会制度があろう。・・・第1段階が長い間反映すると、それに適合した社会制度が十二分に発達し、深く根を下ろして確立する。第2段階になっても前代の制度があまりに強く確立しているためにその廃棄、従ってその移行コストが高くなりすぎ、第2段階の社会制度の普及がかえって遅れる。
・・・そうじて第2段階の社会制度をより広く十分に確立させたという点で、日本の技能形成制度、労使関係制度は、世界の流れを半歩先んじている。
・・・なお、単なる後発効果の強調ですむなら、後発の国は他に多い。なぜ今のところ日本だけが先んじているのであろうか。恐らく第2段階への移行の時期と、日本の当時の内的発展の高さがうまく適合したのであろう。他の多くの国は第2段階がかなり進んでから産業化に乗り出し、第2段階の先頭を切るには遅すぎた。
正直言って、本気か?と言いたくなります。あまりにも「常識はずれ」です。もっとも、小池氏はあまりにも宇野マルクス経済学に忠実なので、いかなる社会も同じ道を進歩していくという考え方以外が目に入らないのかも知れません。そういう単線発展論の土俵の上で「日本のふつうの議論は長らく日本の遅れによる、とみてきた。はたしてそうか。」という反論をしているつもりなのでしょう。議論が壮大にすれ違っているわけです。
ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。
この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。
・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・
さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。
よく知られているように、1969年の『能力主義管理』は、日経連の20年に及ぶ職務給化唱道からの撤退宣言です。「職務」による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的「上がり方」を経済学的に合理的なものとして運用することが可能になりました。それゆえそれは運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差のつく運用にもなりえます。「能力」概念の曖昧さが、年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするというパラドックスです。それを初めからそのように構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎません。
この「能力主義」を経済学的に説明する道具として70-80年代に活用されたのが小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」です。しかしその原型は『賃金』(1966年)にあるとおり、中小企業と大企業の賃金の上がり方の違いの経済学的に見える説明でした。今ではほとんどの人がその原型を知らずに使っていると思いますが、「知的熟練論」とはこういうものだったのです。
・・・この傾向を素直に解すると、5~10年以上の勤続の意味が、大企業と中小企業とでは、ちがうらしい。大企業では5~10年をこえても勤続年数はなお技能(広い意味での)と相関し、それゆえ賃金も上昇していくのであろう。それに対し中小企業では、それまでは技能とかなり深く相関し、それゆえやはり賃金も上昇していくのだが、それをこえると、もはや技能との相関が浅くなり、そのため賃金も鈍化ないし横ばいとなっていくのではあるまいか。いいかえれば、大企業の労働能力は、10年をこえてもなおより高い職務へと昇りつづけるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は、必要経験年数が5~10年どまりの職務の遂行にとどまっているのではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は、労働能力の性質のちがいによると推測される。だから労働市場の逼迫によっても、依然格差が残ったのではあるまいか。・・・
では、なぜ中年長勤続層では労働能力の種類のちがいが生じるのだろうか。・・・大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。・・・大企業の巨大な複雑化した機械体系は、・・・しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につける必要があり、かくして、想像以上に長い経験年数が必要とされる。・・・要するに、中年長勤続層のはなはだしい格差は、おもに労働能力の種類のちがいによるものと考えられる。
正直な感想を言えば、「あるまいか」の連発のあげくの「知的熟練」という万能の説明であり、笑止千万としか言いようがありません。言うまでもなく、日本には欧米のような企業を超えてその職業能力を認証する仕組みは存在しません。本当に大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業の中高年労働者の能力がその低賃金に見合うだけ低いのかどうかを客観的に測定する物差しは、どこにも存在していないのです。小池氏の説明は、現実に存在する大企業と中小企業の年功カーブの格差を、労働能力の格差を反映しているに違いないと推測しているだけです。存在するものは合理的というヘーゲル的な論理というべきでしょう。
しかしこの説明の仕方は、後年の『中小企業の熟練』(1981年)でも全く変わっていません。証拠のない仮説のままで。
・・・かくて、労働力の質を強調する仮説が残る。この仮説にとって有利な状況は、大企業は、そこに働くすべての労働者に対して、より高い賃金を払ってはいない、ということである。大企業の仕事をしていても、季節工、社外工、下請、臨時という形で、かなりの人々には、中小企業労働者や不熟練労働者と変わりない賃金が支払われている。本工とホワイトカラーだけが、より高い賃金を支払われているに過ぎない。そして、その人々は、かなり広い範囲の職務を遍歴する内部昇進制の下にある。その内部昇進制が、他のグループとは違った労働力の質を形成しているのではないか、というのである。
・・・この仮説の難点は、労働力の質について経験的研究が乏しく、それを直接支持する証拠が提出されていない、ということである。労働能力それ自体について、統計的資料など存在しない。ごく若干のケースについて細かい観察があるに過ぎない。これはまだ証拠に恵まれない、一つの仮説に過ぎない。ただこの仮説を採ると、他のいくつかの仮説も生きてくる。・・・
・・・大企業と中小企業の労働力の質について、前節で見た規模別賃金格差の実態がまことに示唆的である。労働需給が逼迫して久しい時期にもかなりの格差が残る。残る格差は、製造業ブルーカラーに著しい。・・・これだけの格差があれば、そして需給関係にその原因を求められないとすれば、何らかの労働力の質の差、あるいは労働力タイプの違いとみるのは、けだし当然であろう。
「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかない、というこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値します。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論です。そして純粋経済学であるがゆえに、「証拠なき仮説」が平然と通用してしまうのです。
しかし、「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても、現実社会では企業行動自体によって裏切られてしまいます。上記『日本の雇用システム』(1994年)ではこう高らかに論じているのですが、
・・・しばしば日本の報酬制度は、単に「年功」つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた。職場における能力とは、端的には技能にほかならない。ところが、技能の伸長と報酬との関係はあまり立ち入って吟味されなかった。技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、これまで最も深く技能を吟味した業績によれば、勤続20年を超えて、なお技能は伸び続けるという結果が得られている。・・・知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。この二つは、普通の報酬の方式では促進できない。
問題は、その「知的熟練」が、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。
・・・では現代日本の解雇の方式に何の問題もないのか。いや、そうではない。通念とは全く逆に、日本の方がコストの高い人たちを解雇しているかも知れないという疑問である。
・・・この日独の差は何を意味するか。中高年の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。 ・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。・・・そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。
何でしょう、この無責任ぶりは。欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論ではありません。
正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできません。リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているのです。
そろそろまとめておきましょう。
戦後日本の労働政策において、中高年雇用は常に問題であり続けました。高度成長期にはその問題点は極めて明確で、経済的合理性に反する年功賃金制のため、企業が中高年雇用を選好しないためでした。職務給を唱道する経営側だけでなく、生活給を死守しようとした労働側も、問題構造の認識は同じだったのです。それゆえ当時は賃金制度改革が答えでした。「常識」に立脚しつつ「存在するものは(必ずしも)合理的ではない」という非ヘーゲル的認識からの経済学的答案です。
ところが、小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証することにより「存在するものは合理的」にしてしまいました。つまり問題そのものを消去したのです。
しかし紙の上で問題を消去しても、現実世界の問題は消え失せてくれません。その理論上の「合理性」に反する(不況のたびに繰り返される)企業行動を批判する小池理論は、矛盾を内在するパラドックスになってしまったといえましょう。
その原因は挙げて、ほとんどすべての当事者たちが共有していた「常識」「通念」に反する理論構成をしたためです。
「常識」はずれの議論は、いかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても、最後は破綻するのです。
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