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日本型労働組合を考えるヒント(藤林敬三『労使関係と労使協議制』)

なんだか、ネット上で時ならぬ労働組合論ブームが巻き起こっているようです。と言ってもその主たる土俵ははてなダイアリー(いわゆる増田)で、それに対する反論を地下猫さんが書いているという状況です。

https://anond.hatelabo.jp/20190504184608 (労働組合はもっと他にやることがあるだろ )

https://anond.hatelabo.jp/20190507164856 (労組の件、左翼は案の定会話不能状態)

https://tikani-nemuru-m.hatenablog.com/entry/2019/05/09/021622 (なぜ労組は政治活動をしなくてはならないのか)

この議論そのものはややつまらない政治対立図式にはめ込まれやすい構図になってしまっているのであえて加わるつもりはありませんが、日本の労働組合というものがなぜ(1950年代まで、遅くとも1970年代まではは激しく)政治活動をやっていたのかという歴史的事態の解明のためには、もう少し日本の労働社会の実相に分け入った観察と分析が必要でしょう。

1 実は、ニッチモの『HRmics』32号に、原典回帰として藤林敬三『労使関係と労使協議制』を取り上げており、この本が上で議論になっている論点について、いささか、あるいはむしろかなりの洞察を与えてくれるように思われますので、ここでその全文を載せておこうと思います。

 「原典回帰」連載11回目にして、ようやく日本の古典の登場です。実を言うと、日本の労使関係に関する古典的な著作というのはかなりあるのですが、諸外国と比べた日本の労働社会の特徴を本当の意味で浮き彫りにするようなものはそれほどないのです。その中で、今ではほぼ完全に忘れられた本ですが、日本の労使関係の本質を深く省察した名著として挙げられるのが、半世紀以上前の1963年9月に出版された藤林敬三の『労使関係と労使協議制』です。
 藤林は戦前から活躍した労働経済学者ですが、戦後は神奈川地労委、そして長らく中労委の委員を務め、最後は中労委会長として1962年に亡くなり、その遺稿をまとめたのが本書です。同書の巻末には藤林が取り扱った膨大な数の争議事件が並んでいます。それだけのあっせん、調停、仲裁を通じて、日本の労使関係の本質というものを徹底して考え抜き、その精髄を本書に注ぎ込んだといってよいでしょう。
 本書の冒頭で、藤林は「労使関係は本来二元的関係である」といいます。そしてそのことが必ずしも明確に指摘されてきていない点に問題があるというのです。二元的関係とはどういうことなのでしょうか。藤林はILO第94号(労使協力)勧告を引いて、労使関係には団体交渉によって維持される関係と労使協議によって維持される関係があると説きます。ILOでは後に135号(労働者代表)条約が制定され、EU諸国では様々な従業員代表制が立法されていることを考えると、これは国際的な観点からは自然な考え方と言えます。
 藤林はこの二つの関係を第一次関係と第二次関係と呼びます。「私のいう第一次関係というのは、いいかえれば経営対従業員関係を意味し、第二次関係というのは経営対組合関係を意味している。そしてこの第一次関係と第二次関係をさらに別の見方からすれば、第一次関係すなわち経営対従業員関係は、元来が労使の親和、友好、協力の関係である。これに対して第二次関係すなわち経営対組合関係は、もともと賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象としている。これらの労働諸条件の維持・改善を中心にして考えれば、労使は明らかにここで利害が対立している。したがって労使の利害対立、時には労使が相争う関係がここで考えられなければならない。このように第一次関係、第二次関係を区別してみると、この二つの関係は性格上全く相異なるものであるといわなければならない。」(p8)
 「この第一次関係と第二次関係との性格上相異なる二元的な関係が、具体的には個々の企業の労使関係の中において、ときには明確に区別され分離された上で、労使関係が安定している場合もある。あるいは、この二つの関係が明確に区別され分離されることなく、からみ合って不分離の状態で存在している場合には、その労使関係は、ときに非常な曖昧模糊たる状態であり、また非常に矛盾した複雑微妙な関係を示すような状態である」(p9)というのが、藤林の洞察です。
 半世紀以上前の日本はまだまだ集団的労使紛争が多く起こっていた時代です。それに対して今日の日本は、いわゆる駆け込み訴えのようなものを除けば、純粋な意味での集団的労使紛争はほとんど跡を絶ってしまったような状態です。しかし、その両者を統一的に説明する原理として、この藤林の二元的関係論ほど有用なものはないように思われます。彼が曖昧模糊とか複雑微妙と評した当時の労使関係の姿を見てみましょう。
 当時も現在も、日本の労働組合の圧倒的大部分は企業内組合です。「わが国の場合は、その多くがいわば特定の会社ないし事業所の従業員だけで労働組合を形成している。したがってこのような労働組合は、名は労働組合であるが、明らかに形態上は従業員組合であり、あるいは1920年代にアメリカで多く存在したカンパニー・ユニオンと同じような会社組合であるというふうにみられるふしがある。・・・こういう形態上の相違は、これを労使関係上の問題としてみると、そこにいちじるしい特徴のある問題点が明らかにされることになる。」(p19)
 ここからが藤林理論の神髄です。「わが国の労働者が特定会社の従業員として形成している労働組合と経営との関係は、それが組合である以上は、私のいう経営対組合関係、すなわち労使関係の第二次関係であるようにもみえる。しかし、その組合が従業員の組織であるという点から見ると、それは経営対従業員関係を示すようにもみえる。すなわち第一次関係がそこに存在するようにもみえる。明らかに日本に普通みられる企業ないし事業所ごとに成立している労働組合と経営との関係は、このような第一次関係と第二次関係の両面を同時に含んでいるように思われる。また事実そう考えてよろしいと思う。したがって、このような労使関係は、私のいう労使関係の第一次関係と第二次関係とが混在し、いわば癒着し、不分離状態にある。」(p19-20)
 欧米社会では、横断的な産業別組合、職能別組合が団体交渉、すなわち労使の利害対立を前提とする第二次関係を担当し、労使協議制が労使の協力を前提とする第一次関係を担当するという形で両者が明確に分離されていますが、日本ではこの第一次関係と第二次関係が混在、癒着、不分離という状態にあることを指摘し、この点に日本の労使関係の(欧米社会との)最大の違いを見いだした点に藤林の洞察があります。「日本の労使関係、ことに経営と企業内組合との関係には、争う関係か争うべからざる関係か、そのいずれともつかないような事態の存在することは、極めて明瞭」なのです
 勘違いしてはならないのは、これは日本の企業内組合をアメリカのカンパニー・ユニオンと同一視するある種の左翼的議論とは全く違うということです。「しかしそれは必ずしも経営者が意図して御用組合的に暗に組合をつくらせた結果であるのではない。従業員自ら自主的につくった労働組合が、かくのごとき存在のしかたと、このような労使関係を維持しているのである。この点をわれわれは、かなり重要視して考えていかなければならないであろう。」(p37)
 藤林理論の真骨頂は、当時まで日本の労働運動を彩っていた激しい労働争議とそれにつきものの第二組合の発生を、この第一次関係と第二次関係の混在、癒着、不分離からみごとに説明していく点にあります。その手際を鑑賞していきましょう。
 さて、当時も今も、こうした企業内労組は産業別連合体の傘下組合であり、その上部団体として(当時でいえば総評等の、現在なら連合といった)ナショナルセンターがあります。こうした上部団体は「個々の企業にとってはまさに企業の外に厳然として存在する、いわば他人的存在としての労働組合」です。こうした「上部団体の意義はどこに存在するかといえば、そのまま放置すれば労使関係の第一次関係に傾こうとする経営対企業内労組関係を、その企業内労組を外部から指導支援することによって、経営対組合関係としての第二次関係の方向に事態を押しやろうとするところに、外部の上部団体としての労働組合の存在意義がある」(p41)のですが、「もちろんこのような上部団体としての産業別連合体組織の存在は、・・・この会社・工場の経営者を喜ばせはしない」し、むしろ「この上部団体の幹部が団体交渉の当事者として現れてくることを拒否している」(p42)のです。
 ここで、個々の企業内組合があえてストライキを行おうというような場合、上部団体の強い指導支援が行われますが、そこで企業内組合の自主性がどうなるかが問題です。
 欧米であれば、「個々の会社・工場の従業員は、特定の産業別労働組合の組合員であるかぎり、その従業員の組織は全国的な産業別労働組合の支部、あるいは単なる分会として存在するに過ぎない。すなわち全国的な大労働組合の組織の一部を形成しているにすぎない。組合運動ないしその活動の表れである団体交渉などは、原則として単一組織としての産業別労働組合がこれを行い、ストライキなどの場合にはこの組合の指示に従って支部ないし分会が行動を起こすだけのこと」(p44)です。しかし日本ではそうではありません。第一次関係にウェートが置かれた企業内労使関係が、上部団体の指導を通じて、第二次関係の方向に引っ張られるという事態になるのです。「したがってこの場合の労使関係は、第一次関係と第二次関係の緊張関係であるように思われる。」(p46)そうすると何が起こるのか?
 「いうまでもなく緊張の度は、上部団体が傘下組合をより強力に指導支援することによって、ますます強く盛り上がる。また反対に、経営者の方が上部団体の指導から企業内労組を引き離そうと陰に陽に努力を払う場合、この緊張が高まることも事実である。」「こういう緊迫の度合が非常に強くなった場合に何が生ずるか。企業内労組の分裂ということが起こる。これが第二組合の発生であることは、読者もよく知っておられると思う。」(p47)この「読者」とは、もちろん、1950年代の労働争議はなやかなりしころの読者です。
 当時の数多くの激烈な労働争議が、その多くにおいて第二組合の発生という形で収束していったことは、労働運動史を紐解けばほぼすべてのページに描かれています。しかし、それらの叙述の圧倒的大部分は、第二組合を立ち上げた反革命的右派への激しい呪詛に満ちた左派の歴史家によるものか、あるいは労働運動の原則を忘れた革命的左派を批判する右派の歴史家によるものであり、そこで彼らの価値判断の基軸とされている左右の対立軸は、その企業のその職場で現に起こっていた事態を性格に描き出すどころか、それとはかけ離れたイデオロギー闘争の素材として利用するものでしかないように思います。そう、そのとき現場で起こっていたのは、藤林にいわせるとこういうことだったのです。
 「この第二組合の発生を企業内労組自体の問題として考えてみると、その企業内労組は上部団体の指示指導を受けて、労使関係の第二次関係のほうにかなり強く働いていたことの反動であると考えられる。しかしその場合、いかなる根拠、いかなる歴史的な背景で企業内労組が誕生したのか、その企業内労組が産業別上部団体の傘下組合であったとしても、ある程度の独立性・自主性をもっているはずだからであるから、その独立性・自主性の側からの判断からすると、対経営関係はむしろ第一次関係の傾向を持っていたはずである。ところが、上部団体の指導にしたがってストライキ行動にはいった場合には、第二次関係のほうに強く傾くことになる。そして、労使関係の緊迫の度が非常に強くなるにしたがって、企業内労組の一部がこの緊迫状態の中から逃れ出て、第一次関係のほうにいわば里心を持つようになって、組合が分裂し、第二組合の発生をみるのである。」(p48)
 そう、第二組合とは「従業員」としての「里心」が生み出したものだったんですね。それゆえ、藤林は「企業内組合という組織が成立しているという事情と第二組合の発生とは、もともと不可分のものであって、企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性あり、といわなければならない」といい、「左翼の組合運動家たちは、第二組合を雇主の意に従った御用組合であるといい、その第二組合をつくり出した人々を分裂主義者といい、これを非難することにはなはだしく急である」けれども、「事態はむしろ、本質的には企業内労組の成立事情にもとづくもの」(p48)だと冷静に指摘するのです。
 ここから藤林は、当時の日本の労働運動がやたらに左翼イデオロギーを振りかざす傾向のよってきたるゆえんを、これまた犀利に分析していきます。しばしその切れ味を味わってください。
 「一般的にいって、わが国の労働組合運動はきわめて政治的である。政治闘争は、わが国の労働組合運動にかなり重要な結びつきを持っている。と同時に、わが国の組合運動を推進する労働組合のすべてではないが、とかく左翼社会主義理論に指導されていることが多い。組合内において論争、たとえば組合大会などで展開されている左翼社会主義理論の論争がそれである。」「これのよしあしを論ずることは、本章における目的ではない。しかし、客観的な事態としてこれをながめてみると、このような左翼イデオロギーあるいは政治闘争的傾向が、日本の労働組合にとってどのような意義をもっているかについて、いちおう吟味しておく必要があると思う。そして率直にいって、私の理解するところでは、わが国の組合運動にこのような事態がたえず強くまつわりついているゆえんのものは、組合運動の末端が企業内労組であるからであると考えられる。」(p49)
 「すでに繰り返し述べたように、経営対企業内労組の関係は、むしろ労使関係の第一次関係に帰着するように思われる。この場合、第二次関係はごく影が薄くならざるをえないような事態にある。」「このような関係にたつ企業内労組を、第一次関係から引き離し、第二次関係の方向に引き上げていくためには、それだけに、かなり強烈な左翼理論を必要とするとも考えられる。わが国の組合運動に、必要以上に左翼理論、イデオロギーが横行しているゆえんのものは、まさにこの点に関連しているのではないかと私には思われる。」「政治闘争の場合もやはり同様である。卑近な例では、革新政党の支持をめぐる問題がある。民社党を支持するか、社会党を支持するか、共産党を支持するかという論議が、組合員間にかなり熱心に行われる。これは直接間接に組合員をして、労使関係における第一次関係の中に眠ってしまわないようにさせるという点において十分な意義があるものと考えてよい。」(p50)
 一言で言うと、「わが国の労働組合が、もともと企業内労組であることが、イデオロギー論争を非常に強く巻き起こしている」(p51)というわけです。逆に、日本社会には他にほとんど存在しない個人加盟による純粋の産業別単一組合である海員組合は、労働運動界における最右派であり、そして1972年の職種別労働協約改定交渉では92日間の長期ストライキを成功させています。ひるがえって、左翼ぶりっこの企業内組合の労働争議ではどういう事態が展開されるのでしょうか。
 今ではほとんど記憶されていないでしょうが、かつては「わが国の労働争議が年々労働組合の季節闘争として、そしてこの季節闘争は共同闘争、統一闘争、さらにまたしばしばいわれるようにスケジュール闘争の形において」(p106)行われていました。藤林は「なにゆえにこのような争議が発生するか」と問い、「これは一種の雰囲気闘争である」「ムード闘争である」と答えます。ではなぜ、そのような雰囲気闘争、ムード闘争が必要になるのか?再び藤林節が炸裂します。
 従業員組合「には本来、基本的に労使の対立が芽生えがたい。むしろ労使の協力一致の傾向が、その中に含まれていると考えざるを得ない。それゆえにこのような企業内労組対経営関係のままで、個々の企業の中に労使関係をとじこめておき、そのまま放置しておくということは、労働者側の要求の貫徹がそこでは容易でない、ということを意味する以外のなにものでもない。労働組合運動は、そのままでは盛り上がるはずがない。・・・雰囲気闘争は、まさにこのような企業内労組対経営関係、いわば個々の企業ないし事業所内の労使関係の中にとじこもろうとする労働組合と組合員を、この企業のワクの中から引き出し、引き上げ、広く一般の労働争議・労働運動の方向に持っていくためのものであると考えられる。ここに一段と強力な指導・啓発が必要であるが、その指導・啓発をより有利にするためには、まさに雰囲気闘争こそが重要な意味をこの際もつことになる。」(p108)また、前述したように「企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性」がある以上、「雰囲気闘争、ムード闘争が、まさに第二組合的なものの考え方とその発生の可能性を抑圧しようとする機能をも」(p109)つことになるのも当然です。
 さらに、これは労働委員会で膨大な数の争議を取り扱ってきた藤林ならではの台詞でしょうが、「労働委員会がその一つの機能である争議調停の面において、年々わが国の労働争議のかなり多くのものをとりあげるということは、わが国の労使関係における労使双方の問題を自主的に解決する気構え、態度が比較的少ないことを意味している」と述べた上で、「しからば、なにゆえ日本の労使は、自らの問題として争議の解決のために自主的な努力を推し進めようとしないのか」(p112)と問います。もちろん、その答えも企業内労組にあります。
 「企業内労組を労働組合運動の中にくり入れていくためには、上部団体はかなり強い雰囲気闘争の中で、したがって強い要求、強い態度の中で問題をくり広げなければならない。日本人のよく口にする言葉でいえば、『死ぬまで戦う』などということがしばしば聞かれるところである。人々がこのような強硬な態度をゼスチュアとしても示す場合には、その反面をいえば、いささかの妥協の余地なしということを示している。いささかの妥協の余地なしという態度を示しながら、しかししょせん、なんといっても労働争議は、適当なところで適当な線で妥協をみざるをえないし、妥結に導かざるをえない。そしてそれはしょせん、私の考えでは妥協以外にはない。日本の労働組合の雰囲気闘争のゼスチュアは、妥協のない強い態度のようにみえる。しかし問題を終結するためには妥協以外にはない。自らは妥協できない。だれかがこれを妥協せしめる以外にはない。労働委員会がこの役割を演じていることはきわめて明瞭である。したがって日本の雰囲気闘争にとって、・・・その主張が強硬であればあるだけ、妥協を可能ならしめる機関としての労働委員会の存在は必要欠くべからざるものである」(p113)。
 さらに藤林は、目の前でくり広げられる企業内労組と経営側のやりとりの中から、企業内組合の労働争議にまつわるある種の匂いを敏感にかぎ取ります。「これは非常に妙な言い方であるが、われわれ日本人の人間的な関係からいうと、縁の近い者がもし互いに争うような場合には、他人同士が争う以上に激しい争いを起こす。これはよく日常生活の中にみられるところである。嫁と姑、あるいは親子兄弟等の関係において、もしひとたび争いが生ずれば、その結果はいわば血で血を洗うような争いが発生する。もしこれが他人同士の関係のなかならば、その争いはときに非常に激越なものがありえても、そう長続きし、本当に心から怨恨の情を示さなければならないようなことにはたちいらないだろうと思われる。この意味においては、ここに指摘するような過去の各種の争議は、ともにいかにも日本人的な労働争議であると考えられる。」(p115)
 さてしかし、ここまで読んでくると、なるほど当時の左右のイデオロギーばかりが表面を覆い尽くしていた労使関係の議論の中で、その隠された本質をみごとに摘出していることは分かったけれども、それはもう半世紀以上も昔の話であって、今日の日本の労働社会にとってはあまりレリバントな本じゃないね、という感想を持たれる方もいるかも知れません。なにしろ、そのいうところの雰囲気闘争、ムード闘争に充ち満ちていた頃とはうって変わって、現在の日本は争議行為を伴う争議件数が1年間で68件という世界的に見ても超争議レスな労働社会になってしまっているからです。ところがさにあらず。藤林が労働委員会で連日争議のあっせん・調停に汗をかいていた頃と、争議がほぼ完全に姿を消した今日とは、同じ企業内組合と経営の関係が違う現れ方をしているという意味で、実はコインの表と裏の関係にあるのです。
 残念ながら本書出版の前年に死去した藤林にはそれを目前の現実として語ることはできませんでした。しかし、本書の最終章にはなにやら予言者のごとき次のような一節が書き残されています。これは労働協議制の重要性を縷々説いた数章のあとに置かれた文章であるだけに、そのにじみ出るような苦渋が伝わってきます。
 「わが国の経営協議会をみると、その多くの場合に、そこは一面団体交渉の場であると同時に、他面労使協議の場でもあって、団体交渉と労使協議が必ずしも明確に区別されようとはしていない。しかし企業内労組と経営の関係としては、このような混合形態である経営協議会が多く存在することが、むしろ必然的であるともいえよう。」
 「すでにこのような一、二の点からみても、わが国の労使関係においては、経営者=従業員関係がいかに強く現れているかが明白であるのに、さらにそのうえに、経営者は経営参加を認めようとせず、産業平和と労使協力とを企図している。率直かつ端的にいってしまえば、今日の企業内組合をさらに会社組合にまで引き下ろそうというのが、明確にこれを意識すると否とを問わず、わが国の経営者の意図であるようにみえる。」
 「企業内組合が解消し、産業別単一組織が成立することが可能ならばもちろんこれを好ましいとしていいのであるが、すでに一言したように、このことは今のところ一般に望んでも容易には達せられない。そこで企業内労組とその上部団体である産業別連合体組織との関連において、経営者にははたして産業別連合体組織を中心に団体交渉を行い、また産業別労使協議制の確立を考慮するだけの積極的熱意があるだろうか。おそらくなんぴともこれを肯定するのには躊躇せざるをえないであろう。これが本当の真実であり、それがなにを意味するかは、すでに明白である。およそこのような労使関係へのクレッグ的な見解と論理を十分に味わうことも知らないままで、労使協議制をいちだんと大きく植えつけようとすることは、企業内労組をさらにhome unionismにいっそう転落せしめ、組合を去勢してしまうことにほかならないのではないだろうか。したがって、労使協議制の確立が労使関係の近代化あるいは民主主義化の方向を拒否するのではなく、むしろこれを前提とするか、あるいは少なくともこれと並行して推し進められるべきものであるとするならば、われわれの場合に今日まず考慮すべきことは、労使協議制の確立ではなく、労使関係の近代化であり、民主主義化である。言葉をかえていえば、企業内労組の存在を企業の内深く押しこめるのではなく、反対にそれを企業の外に向けしめることである。」(p210~211)
 藤林が死去してからの半世紀以上の期間に日本の労働社会で進行したのは、まさにこの懸念のどんぴしゃりともいうべき実現でした。政治闘争にばかりかまけて労働組合の本来の課題である労働条件の維持改善をないがしろにするのはけしからん、というこれ自体はまっとうな批判に基づいて労働組合主義が主張されると、そのことが労使関係における第二次関係を妙な妥協に追い込んでしまう懸念、ほっとくと第一次関係に埋没してしまう企業内労組を第二次関係の線に沿って引き上げようとする努力が弱まってしまうという懸念、労働組合主義が、その本来の目的である経営対組合関係をかえって弱め、経営対従業員関係を強化してしまうかも知れないというこの懸念は、本書出版の時点ではなおそれほど現実のものではなかったのでしょうが、その後半世紀以上経った現在の観点からすると、その予言の見通しは恐ろしいものがあります。
 藤林が皮肉たっぷりに描き出した「家族争議」がほぼ姿を消してしまった半世紀後の労使関係は、もはや一方的に従業員としての第一次関係に引っ張られるだけで、本来利害対立があるはずの第二次関係が限りなく希薄化してしまいました。今日保守政権主導でようやく十年ぶりに賃上げ闘争が行われるなどという事態を、安直な政治的説明でなくきちんと社会構造に踏み込んで説明できる理論は、半世紀以上前の藤林理論以外には見当たりません。

 

 

 

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コメント

「組合が従業員代表をしても良い」というのでは、大問題じゃないですか。
従業員代表は、労働者の権利、義務関係には立ち入らず、単に経営側が従業員の意見を参考として聴取するための機関と明確に位置づけるべきでしょう。

投稿: hottaq | 2019年5月10日 (金) 10時31分

企業の賃上げの半分が税・保険料負担で消えている現状、「労働組合は企業から利益を勝ち取ることだ」というのは無理がある。企業を相手にして労働組合ができることは、いまや限界にきていると言わざるを得ない。
今の日本の労働者は、19世紀イギリスのそれとは違う。近代は労働者はほとんど税負担者ではなかった。給料は低かった。だから、企業に分配を要求し、国にも福祉を一方的に要求すればよかった。当時は全く自らの負担を考える必要はなかった。
だが現代では労働者は税金の主な負担者となり、福祉や各種の財政バラマキを主張することが同時に労働者を苦しめることになっていまった。
私も労働者だが、給料はそこそこ高いし分配率も高い。企業は良くやっている。同僚に聞いても同じ。
私は労働者だが、企業が敵とは思えない。
むしろ税金や保険料をかっさらっていく国や弱者や税金生活者が憎い。
中間層や労働者が極右化するのはしょうがないと思う。だって財政拡大論者が弱者ばかり優遇して我々を搾取するのだから。いつだって搾取者は敵だろ?それが企業から、税金生活者に変わっただけさ。

投稿: 元しばき隊員 | 2019年5月11日 (土) 18時47分

たいへん有益な文章を読ませていただきありがとうございました。いろいろと目からウロコです。

弱小地方ユニオンで「駈込み訴え」を聞いて団交をする立場というのは、藤林のいう「第二次関係」をもっぱら担当するということであり、結果的にナショナルセンターのお偉方と同根の発想になりがちになるとは・・・

また、これから書こうと思っていたことの本質的な部分がもうすでにここに書かれてしまっているなあ、困ったなあ、などとも思っていますw

投稿: 地下に眠るM | 2019年5月13日 (月) 01時26分

別に企業から酷い搾取?はされてないし、どっちかというと社会保険料(+中流以上は所得税も)で国と税金生活弱者(高齢者含む)からめちゃくちゃ搾取されているのが現状…

アベ&左翼「賃上げしろ!」→企業「上げたよ」→アベ&国「弱者養うため社会保険料上げるね」→労働者「は?賃上げどころか手取り減ってんじゃんwww」

こういう状況で企業と戦う意味が分からない。
搾取が悪いというなら労組が戦うべきは企業じゃなく国。
「悪い資本家」よりも「福祉と分配」が労働者の生活を蝕んでいるという現実と闘わないと。

連合執行部は内心では分かってて、厚労省の社会保険の会議では経営陣とほぼ同じ論陣なんだよね。
でも、外に出るといまだに「会社は分配しろー」の建前だからな。そりゃ人気でないだろ・・

投稿: 元しばき隊員 | 2019年5月15日 (水) 11時40分

↑ここですべき議論であるか疑問はありますが、まずは税と社会保険料における中・低所得者の負担割合が高所得者よりも高いという事実を是正することが先決では?財務省レポートでも高所得者への控除をなくし、金融所得への20%均一の税負担を累進性にするだけで2.5兆円もの財源が捻出出来ると指摘されています。
https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list7/r134/r134_07.pdf
そして社会保険料が人頭税的な性格が強いのを累進性を強めることでさらなる財源の確保が出来ます。
繰り返しになりますが再分配機能の逆転減少、再分配後の方が格差が拡大している現象の是正が先ではないでしょうか?
連合執行部が法人税の段階区分の細分化と累進性の強化を言わず社会保障費の給付抑制を訴えるのは、中所得者の企業内労組の組合員の声を代弁している以上仕方ないのでは?まさにここで企業内労組の性格が出ていますね。
そう考えると元しばき隊員さまのご主張は、企業内労組があるような会社の現役労働者の声として、非常に合理的な意見だと思います。ですが、それは巷の生活保護受給者バッシングと何ら変わらないものと思います。そしてそれこそが高所得者ならびに大企業のの低負担を持続可能にしているものであると考えます。

投稿: 高橋良平 | 2019年5月15日 (水) 19時57分

元しばき隊員殿

>企業の賃上げの半分が税・保険料負担で消えている現状、

”賃上げの半分が税・保険料負担で消えている” というより、”税・保険料負担増の2倍しか賃金が上がらない” と言うべきではないでしょうか?例外はありますが、企業全体の内部留保(預金-借金)はアベノミクス以降は大幅に増えているので、賃金をもっと上げる事は可能だと思います。その意味で労働組合には、もっと頑張ってほしいです。


>むしろ税金や保険料をかっさらっていく国や弱者や税金生活者が憎い。

私はいつ弱者になるかわからないので、税金や保険料でしっかり支えてほしいです。
以前ナチスについてこんな話を聞きました。

ナチスがユダヤ人を迫害した時、私はユダヤ人ではないので無視していた。
次にナチスが共産党を弾圧した時も共産主義に反対だったので反対しなかった。
次にナチスが…

こんな童話も印象に残っています。

ある夫婦が、親が働かないのに自分達と同じ生活をしているのに腹を立て、小屋に住まわせ粗末な木の食器で食事をさせた。ある時、子供が紙に食器の絵を描いているのを見た親がなぜ食器の絵を描いているか尋ねると、
”僕が大きくなったらお父さんたちにはこれで食事をしてもらうんだ。そうすれば木の食器より安上がりだ”
と答えた。


>中間層や労働者が極右化するのはしょうがないと思う。だって財政拡大論者が弱者ばかり優遇して我々を搾取するのだから。

どのような事を指して元しばき隊員殿が”中間層や労働者が極右化する”と仰るのか分かりませんが、イギリスでEU離脱に賛成した人やフランスで黄色い服を着て暴れている人の要求は、”福祉を削減して税金を減らせ” ではなく、”もっと福祉に金を使え” だと思います。

投稿: Alberich | 2019年5月16日 (木) 23時06分

>高橋良平さん
>Alberichさん

こんなに搾取されてまだ弱者に配慮せなあかんのですか?
もう再分配だの格差是正だのいい加減にしてほしい、なんで怠け者に食わせるために汗水垂らして働かなあかんのかと。
弱者救済を叫ぶ連合や弱者救済主義の左派諸勢力も右派上級国民も労働者の敵。

なぜ弱者や上級国民はもっぱら自分たちの権利や利益を主張するのに、中間層が自らの利益を主張してはいけないのか?
上下の勢力による中間層労働者の権利侵犯に対して立ち上がらなければならない。

プロの弱者ばかり擁護して働く人を蔑ろにしたのでEU離脱やトランプに票が流れたんや。

移民だの生保だの、糞くらえってんだ。

投稿: 元しばき隊員 | 2019年5月19日 (日) 15時17分

>高橋良平さん

釈迦に説法かと思いますが、控除の場合は課税の論理を考えれば「高所得だから無制限に没収していい」というものではないですし、既に最高税率はアジアで最高・世界でも2位(住民税入れて55%超)なので日本だけ勝手に無制限に増税できるわけではないです。社会保険料も同じで高所得だからと懲罰的にどんどん上げれるわけじゃない。また、高所得層のみの所得税や社会保険料だけではたいした財源にならず、結局は汗水たらして働く中間層サラリーマンががっつり増税されて働く者が搾取され怠け者優遇が悪化するに決まっている。

金融所得課税の増税というか総合課税化は賛成ですがやっても焼け石に水です。
頑張って働いてるのに労働への罰金を取られる身としましては、福祉は消費税でやってほしい。
弱者様が消費税拒否するなら、福祉は削減してほしい。

なぜ、自分は負担せず、利益を得て当然だと思うのだろうか。

愚痴ですが
何で人類の長い歴史のなかでいろいろ課税はあれど、、現代福祉国家は労働者を敵視して労働に罰金を科すんだよ。。。これだけは本当にやめてほしい。
働くものを尊敬しない腐った福祉国家を見ると悔しさで涙が出てくる。
イギリス労働党は労働党ではなく無職怠け者党です。

投稿: 元しばき隊員 | 2019年5月19日 (日) 15時29分

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