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「ジョブ型正社員」をめぐる錯綜@『労働調査』2013年8月号

最近、規制改革推進会議が「ジョブ型正社員(勤務地限定正社員、職務限定正社員等)の 雇用ルールの明確化に関する意見」をまとめたというニュースがあり、ネット上でいろいろな意見が出されているようですが、

https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/suishin/publication/opinion2/010520honkaigi02.pdf

どうもそれらを見ていると、この問題が最初に規制改革会議から提起された2013年のころと全く変わっていないようです。

あまりにも変わっていないので、今さら新たに何かを書く気もあまり起こらず、6年前に書いたものをそのままお蔵出しすることにしました。省エネで申し訳ありませんが、おそらくもうこの文章を覚えている人もほとんどいないと思うので、それなりに新鮮な感覚で読んでいただけるのではないかと思います。

Coverpic 『労働調査』という雑誌の2013年8月号に載せた「ジョブ型正社員」をめぐる錯綜」です。

はじめに
 本特集で取り上げられている安倍内閣の諸会議による雇用制度改革については、認識のレベルにおいても価値判断のレベルにおいても議論が錯綜しきっており、そのためややもすると単純化した議論が横行しがちである。本稿では、議論の錯綜を解きほぐすことを第一の目標として、筋道をわかりやすく説明していきたい。
 とはいえ、議論の俎上に上がっている論点だけでも、労働時間、労働条件の変更、職業紹介と労働者派遣など多岐にわたっており、そのすべてに言及することは紙数からして不可能であるので、本稿では解雇規制との関連で労働組合サイドが反発しているジョブ型正社員(限定正社員)の問題に絞って論じたい。
 実は、去る6月の規制改革会議答申に出てくる「ジョブ型正社員」という言葉を、始めて用いたのはおそらく筆者である。活字として一番早いのは『労基旬報』2010年2月25日号に載せた「ジョブ型正社員の構想」であるが、ある程度まとまったものとしては政策研究フォーラムの『改革者』2010年11月号に載せた「職務を定めた無期雇用契約を―「ジョブ型正社員制度」が二極化防ぐ」になる。この間非公式な形ではあるが、連合の「多様な雇用形態における公正・公平な処遇のあり方に関するプロジェクト」において、「ジョブ型正社員への4つの道」を報告している。
 今回の議論の展開においても、筆者は4月11日の規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれて持論を述べたが、おそらくはその影響で同グループの報告や同会議の答申では「ジョブ型正社員」という言葉が用いられている。同じ言葉であるから同じ意味であるかどうかはわからないが、少なくとも報告や答申の文言からは明確に異なる印象はない。しかしながら、(筆者の報告時も含め)同会議の委員の発言からは、ジョブ型正社員それ自体に意義を見いだしているというよりは、個別解雇をやりやすくするための方便と考えているのではないかという印象を受けたことも否定できない。
 この印象をすべての出発点として論ずるのであれば、ジョブ型正社員などというのは解雇自由化という悪辣な陰謀をいかにも労働者にとって望ましいものであるかのように騙すための笑うべきぼろ隠しということになろう。しかしながら、そのような陰謀論のみで物事を進めていくことによるマイナスをもよく考えておく必要がある。
 
ジョブ型とメンバーシップ型
 まず、筆者の議論の概要を簡単に要約しておく。今日労働問題の焦点として指摘されるのは、雇用を保障された正社員は拘束が多く、過重労働に悩む一方で、非正規労働者は雇用が不安定で賃金が極めて低いという点、いわゆる労働力の二極化である。しかし、そもそも正社員は拘束が多いということ自体、欧米の感覚からすれば必ずしも当然ではない。2007年のパート法改正によって実定法上に初めて「通常の労働者」が定義されたが、欧米と異なりフルタイム、無期、直接雇用の3要件だけでは「通常の労働者」とは認められない。「当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が・・・変更されると見込まれるもの」でないと日本型正社員とは認めてくれないのである。
 筆者はこのように職務も労働時間も勤務場所も契約で限定されておらず、無限定、すなわち使用者の命令でいくらでも変えられてしまうようなあり方を「メンバーシップ型」雇用契約と呼び、欧米で一般的な職務も労働時間も勤務場所も限定されている「ジョブ型」雇用契約と対比した(『新しい労働社会』(岩波新書)、『日本の雇用と労働法』(日経文庫))。メンバーシップ型正社員には、職務限定の権利もなければ(日産自動車村山工場事件最高裁判決)、時間外労働拒否の権利もなく(日立製作所武蔵工場事件最高裁判決)、遠距離配転拒否の権利もない(東亜ペイント事件最高裁判決)。労働組合としてまず何よりも確認すべきは、雇用契約の無限定とはこうした権利の放棄を意味するということであり、欧米の労働組合から見れば信じられないような屈従であるという点である。
 とはいえ、日本には日本の文脈がある。欧米の労働組合から見れば信じがたいような無権利状態の受け入れと引き替えにメンバーシップ型正社員が獲得したのは、欧米であれば一番正当な解雇理由とされる経営上の理由による整理解雇への制約であった。雇用契約の本来の姿に沿って職務や労働時間や勤務場所が契約で限定されていれば、使用者には一方的にそれらを変更する権利はない。それは経営上の理由で当該職務や当該勤務場所が廃止、縮小される場合でも同じである。使用者に対して「やってはならない」と禁じていることを、いざというときだけ「やれ」と命じることはできない。いざというときに「やってくれ」というためには、そうでないときでも「やってよい」といわなければならない。つまり、日本のメンバーシップ型正社員が雇用契約の無限定を受け入れたのは、整理解雇時に他の職務、他の勤務地への配転や時間外休日労働の削減によって雇用関係自体を維持する可能性を高めるためであった。
 これはメリットとデメリットを比較考量した上でのマクロ社会的選択であり、それ自体はいいとも悪いとも言うべきものではない。雇用の安定を最重要と考えるというのは、そのデメリットも含めて、戦後60年にわたる歴史の中で日本の労働者が選択してきた道である。しかしながら、いざというときのために、労働者にとって何よりも重要な職務、労働時間、勤務場所を限定する権利を放棄するというのは、欧米の普通の労働者や労働組合に理解してもらえる見込みの薄いものであることも認識しておく必要がある。「俺たちは契約が無限定なのに、限定されようとしている」などと彼らに訴えても、理解してもらえるとは思わない方がいいだろう。
 一点付け加えておけば、日本国の労働法制は欧米と同様ジョブ型雇用契約を前提に作られているということである。メンバーシップ型契約は、実定法の規定にもかかわらずそれをすり抜ける形で、労使合意による事実たる慣行として確立してきたもの(を裁判所が確認したもの)に過ぎない。
 
ジョブ型正社員の提起
 メンバーシップ型正社員自体がそのデメリットも含めて労働者自身の選択であるならば、ミクロ的には無理に本来のジョブ型契約を強制する必要はない。今日(筆者も含めて)ジョブ型正社員の確立が提起されているのは、これまでの日本型雇用システムがマクロ社会的にいくつもの矛盾を生じさせているからである。
 日本型雇用システムはメンバーシップ型正社員だけで構成されているわけではない。その不可欠の構成要素としてジョブ型の非正規労働者を有している。問題はこの日本型非正規労働者が、欧米のジョブ型労働者の持つ権利をも奪われた低賃金不安定雇用であるという点である。正社員が年功的な職能給であるのに対し、非正規労働者の職務給は欧米の産業別賃金とは異なり、地域最低賃金にへばりついた水準であるし、ジョブの喪失以外では雇用が守られる欧米のジョブ型労働者と異なり、非正規労働者はいつ契約期間満了による雇い止めがされるかもしれないという不安に怯えている。
 とはいえ、1990年代初頭までは、非正規労働者の大半は家計補助的な主婦パートや小遣い稼ぎ的な学生アルバイトであって、低賃金不安定雇用は社会問題とはならなかった。ところがバブル崩壊後の不況期に、企業は正社員採用を厳しく絞り込み、結果的に多くの若者がフリーターと呼ばれる非正規雇用に吸収されていった。2000年代に入り、彼らいわゆる就職氷河期世代が30代になり、次第に中高年化していく中で、貧困格差問題の象徴として議論が交わされたことは記憶に新しいところであろう。
 上述のように日本国の労働法制はメンバーシップ型を前提にしていない以上、法が本来予定しない無限定雇用契約を強制することは背理である。それはあくまでも労使合意に基づく原則からの逸脱なのだ。ここを理解しないまま非正規労働者を無限定型の「正社員」にせよと主張する向きが多い。しかしそれは、欧米で有期労働者や派遣労働者を無期直接雇用労働者(欧米的な意味での「正規労働者」)にせよと主張するのとはまったく意味が違う。なぜなら欧米の正規と非正規は、職務、労働時間、勤務場所が限定されるという点において、何の違いもないからである。
 それゆえに、不本意ながら非正規労働者として働いている人々を「正規化」することで生み出される雇用形態は、直接的には期間満了による雇い止めの恐怖から解放された無期契約労働者であって、広範な解雇回避努力義務と引き替えに無限定の義務を負う「正社員」ではない。そして、ここにある意味で初めて、欧米型に近いジョブ型の無期契約労働者が法制度上に姿を明示したということもできる。筆者がここ数年来述べてきた「ジョブ型正社員」という言葉も、基本的にはそれを概念として明確化するためのものである。
 それと同時に、ジョブ型正社員にはメンバーシップ型正社員とジョブ型非正規労働者という二者択一を迫られる中で、不本意ながら無限定の正社員として働いている人々のための受け皿という意味もある。とかく旧世代の活動家になればなるほど、ワークライフバランスを守ることと雇用関係を守ることとの価値判断のバランスが後者に偏りがちであるが、それが若い世代のとりわけ女性労働者にも同様に共有される価値観であるかどうかは、反省してみる値打ちはあろう。クビさえ守られれば無限定で働くことを受け入れるという戦後日本型労使妥協を望まない労働者の(労働法原理からすれば本来の)感覚をむげにうち捨てるべきではない。少なくとも欧米の労働者、労働組合から見れば、異常なのはメンバーシップ型の無限定義務の方なのである。
 そして、ここでは詳論する余裕はないが、近年若者たち自身によって問題提起されてきたいわゆるブラック企業問題も、メンバーシップ型の「見返りある滅私奉公」をちらつかせて酷使し、結果的に「見返りなき滅私奉公」を強制するものと考えれば、無限定型「正社員」の絶対化は若者たちを極めて危険な隘路に追いやることにもなりかねない。
 
規制改革会議版「ジョブ型正社員」の本音は?
 筆者は以上のような見地に立ってここ数年来ジョブ型正社員の議論を展開してきたし、4月に規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれた際もその趣旨を述べた。6月に出された(鶴光太郎座長の筆になる)その報告も、少なくともその文言を見る限り筆者の認識とそう異なるところは見受けられない。それが、連合をはじめとする労働組合や野党から「解雇自由化」の陰謀として非難されているのは、政府の諸会議でこの問題が議論されてきた文脈によるものであろう。
 筆者自身、『世界』5月号に書いた「「労使双方が納得する」解雇規制とは何か──解雇規制緩和論の正しい論じ方」において、とりわけ産業競争力会議の委員から示されたあからさまな解雇自由化論に対して厳しく批判をしたところである。もちろん、批判すべき解雇自由化論とは、経営上の理由による整理解雇の規制を欧米並みにすることではなく、労働者の能力や成果等を理由として仕事がちゃんとあるにもかかわらず解雇することを正当化しようという議論である。裁判所に行く余裕のない圧倒的多数の中小零細企業労働者たちは、実はそういう欧米の基準で見ても不公正な解雇に日常的に曝されている。そのような不公正解雇はいかなる状況下にあっても許されてはならない。
 問題は、文言上ではまっとうな規制改革会議の答申をどちらの判断基準でとらえるかである。これは正直言ってなかなか難しい。筆者が雇用ワーキンググループで報告した際にも、委員から「整理解雇というよりも、パフォーマンスが悪いときに解雇できるということが非常に重要」との発言があったし、その後の議事録を見ても繰り返し提起されている。
 この部分は極めて微妙な問題なので慎重に論ずる必要がある。最終報告には盛り込まれていないが、途中段階の案には「なお、現在の判例法理では、労働者の能力や適格性の低下・喪失を理由とする解雇の合理性・相当性の判断においては、無限定正社員の場合、そのときに従事していた職務を遂行する能力ではなく、会社のなかで従事可能な職務がそれ以外にもないかが問われることが多いのに対し、ジョブ型正社員の場合、労働契約上限定された職務を遂行する能力が失われたかが主として問われており、この点を確認することが考えられる」という記述が含まれていた。念のためいえば、この記述自体は必ずしも間違っているわけではない。しかしそこで想定されているのは、片山組事件最高裁判決に見られるようなある仕事がまったくできなくなったときに配転義務があるかどうかという話であって、パフォーマンスが悪い云々というような話ではない。
 そもそもジョブ型雇用契約であるということは、雇用契約にやるべき事項が明示されているのであって、それをちゃんとこなしている限り、成績が悪いからといって解雇が正当化されるというような論理はありえない。上記筆者の報告では、それが認められ得る場合として、仕事を限定して雇ったがやらせてみたらまったくできなかったという場合を挙げた。解雇が認められやすい試用期間というのは本来そのために存在している。ちなみに職務無限定の日本ではその機能が空洞化している反面、学生時代に学生運動していたことを理由とする試用期間切れ解雇(欧米なら典型的な不公正解雇)に最高裁がお墨付きを出している(三菱樹脂事件判決)。
 職務を限定して何年も長く働いてきた労働者を捕まえて、「おまえはパフォーマンスが悪いからクビだ」などという暴挙が(ジョブ型契約であればあるほど)許されるはずはないのであるが、規制改革会議のやりとりではなぜかそこがごっちゃになっている。委員の「整理解雇の4要素に絡むものだけではなくて、当然パフォーマンスに応じた解雇の問題も、ここで扱われると理解してよろしいのでしょうか」という問いかけに対して、鶴座長は上記一節を引きながら「この議論についても、無限定正社員とジョブ型正社員においては、当然同じルールを適用しても、結果が変わってくるという確認については、ここで少し書かせていただいている」と答えており、あたかもジョブ型正社員に対してはパフォーマンスを理由とする解雇がやりやすいような誤解を与える表現になっている。この部分は最終的に報告からは消えているが、この考え方が消えたわけではなさそうである。
 
ではどうする?
 以上が、ジョブ型正社員と解雇規制をめぐる現段階の状況である。理論のレベルの問題、価値判断のレベルの問題、さらには表面上の理屈と若干乖離した本音のレベルの問題とが、さまざまなアクターのさまざまな思惑の中に入り交じって、まことに錯綜しきった状態にあると言えよう。
 これに対してどうするかは、本誌を読んでいる労働組合員自身が考えるべきことである。一労働問題研究者である筆者は、上記の通りその錯綜を整理した。その上で、何かを主張するとすればそれは理論のレベルではこうであるということに尽きる。
 理屈はその通りだが政治的にはそれは正しくないというのも一つの判断であるし、それに基づいてさまざまな行動を組織展開していくことも一つの判断である。
 ただ忘れてならないのは、政府諸会議の委員の本音がこうであるから、理屈は何であれジョブ型正社員構想はたたきつぶすという(それ自体は政治的に正しいかもしれない)判断は、とりわけ多くの若い労働者たちを出口のない隘路に追いやることになるかもしれないということである。そのリスクをきちんと認識した上での政治的判断には、筆者が口を挟むつもりはない。

 

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