フォト
2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »

2019年5月

2019年5月31日 (金)

『生活経済政策』6月号

Img_month 『生活経済政策』6月号は「民主主義と教育」が特集ですが、そちらはスルーして、本田由紀さんの連載記事を取り上げます。

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/index.html

明日への視角
•女性差別撤廃の選択議定書批准アクション/浅倉むつ子

特集 民主主義と教育
•はじめに/伊集守直
•スウェーデンの民主主義と教育/伊集守直
•日常生活と民主主義と教育をつなぐ理論/久保健太
•「自由の主体」と民主主義/山竹伸二
•民主主義の土台としての公教育/苫野一徳

連載 日本社会のこれまで・いま・これから[2]
•新卒一括採用は変わるのか/本田由紀

書評
•谷本有美子著『「地方自治の責任部局」の研究―その存続メカニズムと軌跡[1947−2000]』/辻山幸宣

本田由紀さんはいうまでもなく、「90年代以降の日本では新卒一括採用の弊害が感化し得なくなってきたことをこれまでも繰り返し指摘した立場」なので、「その変革への取り組みが本気で進められることへの期待はアル」と、まずは一応の期待を表明して見せますが、例の経団連と大学側の協議会の中間取りまとめと共同提言に対しては、「経済界から大学への要望が大半を占め、企業側が責任を持つべき採用の在り方については非常に消極的で漠然としたものにとどまる」と極めて批判的で、「企業側が率先して自らの採用方式を変革する必要があるが、そのような覚悟は経団連には希薄である。つまり、本気ではないのである」と喝破し、最後は

・・・自らが浸ってきた慣習を変える覚悟もなく、一方的に大学に対してあれこれの手前勝手な要求を突きつけるだけの経済界なのであれば、この国産業や経済の将来は危うい。

とまで糾弾しています。

まあ、どちらかというと、中西会長のやや個人プレイ的な形で進められたものであるだけに、企業側がこうするよと云うのが希薄になってしまうのはやむを得ないところなのかも知れません。

 

2019年5月30日 (木)

『現代雇用社会における自由と平等』

441250 新田秀樹・米津孝司・川田知子・長谷川聡・河合塁編『現代雇用社会における自由と平等―24のアンソロジー〔山田省三先生古稀記念〕』(信山社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b441250.html

複雑化する現代の労働法理論、雇用政策、社会保障などにアプローチし、様々な角度から一石を投ずる意欲的で多才な論文を収録。

第1部が差別・平等・ハラスメント、第2部が労働契約・企業組織・労使関係、第3部が雇用・労働政策、第4部が社会保障法・憲法における生存と平等をめぐる課題と、大変幅広い分野の論文を集めた論集です。

このうち、昨日成立したハラスメント法に関わるのは、第2章の山川隆一論文と、第6章の滝原啓允論文です。

2 職場におけるハラスメントに関する措置義務の意義と機能〔山川隆一〕 
 Ⅰ 問題の所在
 Ⅱ 労働法上の措置義務の意義と機能
 Ⅲ ハラスメントに関する措置義務の検討
 Ⅳ おわりに

6 「働きやすい職場環境」の模索―職場環境配慮義務における「変革」的要素に関する試論〔滝原啓允〕 
 Ⅰ はじめに
 Ⅱ 職場環境配慮義務の形成とその内容
 Ⅲ 職場環境配慮義務論における「変革」的要素の必要性
 Ⅳ おわりに

山川論文が大御所らしくいかにも地に足の付いた安心して読める論文であるのに対して、滝原論文は若手の意欲作らしく、職場環境配慮義務の中には、あるハラスメントを契機として、当該事業体全体を「変革」させ、第二第三の被害を防止するという視点が必要だと、思い切った議論を展開しています。

あと、先日話題になった第3号被保険者の問題を根っこに遡って考察する上では、第23章の東島論文が有用だと思いました。

23 「女性の年金権」の法的規範性に関する考察―第三号被保険者制度と近時の制度改正を踏まえて〔東島日出夫〕 
 Ⅰ はじめに
 Ⅱ 三号制度・厚年の適用拡大・離婚時年金分割制度の概要
 Ⅲ 「女性の年金権」とは何か
 Ⅳ おわりに

 

 

 

 

ハラスメント紛争の調停に参考人制度

昨日、いわゆるパワハラの措置義務等を定める労働施策綜合推進法等の改正法が成立したことを受けて、焦げすーもさんが、こうつぶやいているのですが、

https://twitter.com/yamachan_run/status/1133747768881664000

「パワハラ防止法」について 案レベルしか確認できていないが、パワハラに関する個別労使紛争で「あっせん」ではなく「調停」で対応するという箇所はそのまま成立したのだろうか。 マスコミは罰則の有無ばかり報じているが、調停に格上げされることで救済される事案がかなり増えると思う。

https://twitter.com/yamachan_run/status/1133748430700830723

相談窓口では、「あっせんではなく調停できます、制度はこう違います」と説明するくらいの変化だろうかね。

おおむねそうですが、それだけじゃない点もあります。

この点については、3月12日のWEB労政時報でやや詳しく解説をしておりましたので、せっかくなのでお蔵出ししておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-a446.html

 今期の通常国会に提出される予定となっている法案に、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律案」がありますが、101~300人規模の中堅企業にも行動計画策定と情報公表を義務づける女性活躍推進法の改正がさほど興味を惹かないものであるのに対して、職場のいじめ・嫌がらせ、いわゆるパワーハラスメントに対する事業主の措置義務等を定める労働施策総合推進法の改正は大きな注目を集めています。この問題は、法律上は「職場における労働者の就業環境を害する言動に起因する問題」という表現になりました。
 「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」から労働政策審議会雇用環境・均等分科会で激しい議論の対象となってきたのは、法律上に禁止規定を設けるべきか、事業主の措置義務を明記すべきか、ガイドラインにとどめるべきか、といった問題でしたが、結局事業主の措置義務に加えて、国の責務規定の中に「労働者の就業環境を害する(中略)言動を行ってはならないこと」について、国民一般の理解と関心を深めるための措置をとるべしというやや迂遠な表現が盛り込まれることで決着しました。また、顧客からのハラスメントをどう取り扱うかも大きな論点となりましたが、結局措置義務の対象には含めず、指針で対応することとされました。
 しかし、これら本丸の問題と並んで今後に大きな影響を及ぼしそうな規定が、改正案には盛り込まれています。それは、これまで個別労働関係紛争解決促進法に基づく「あっせん」の対象であったいじめ・嫌がらせが、今後は「調停」の対象となるという点です。「調停」は、男女雇用機会均等法に基づき男女差別問題について設けられた後、セクシュアルハラスメントや母性健康管理、育児・介護休業等にも拡大してきました。さらに、昨年成立した働き方改革推進法では、パート、有期、派遣といった非正規労働者の均等・均衡処遇問題も「調停」に移行することになっています。なお、2019年3月時点では、同じハラスメントでもセクハラやマタハラは「調停」であり、パワハラは「あっせん」ということになります。
 
では、「あっせん」と「調停」はどこが違うのでしょうか。どちらも任意の制度であるという点は変わりません。しかし、「あっせん」においてはその制定時の経緯から、あっせん申請がされても、被申請人(ほとんどは使用者側)から手続きに参加する意思がない旨が表明されれば、直ちに手続きを打ち切ることとされており、実際に不参加による打ち切りが2017年度は37.4%に達しています。それに対し、「調停」の方には、男女雇用機会均等法に次のような規定が設けられています。
 
第二十条 委員会は、調停のため必要があると認めるときは、関係当事者の出頭を求め、その意見を聴くことができる。
2 委員会は、第十一条第一項及び第十一条の二第一項に定める事項についての労働者と事業主との間の紛争に係る調停のために必要があると認め、かつ、関係当事者の双方の同意があるときは、関係当事者のほか、当該事件に係る職場において性的な言動又は同項に規定する言動を行つたとされる者の出頭を求め、その意見を聴くことができる。
第二十一条 委員会は、関係当事者からの申立てに基づき必要があると認めるときは、当該委員会が置かれる都道府県労働局の管轄区域内の主要な労働者団体又は事業主団体が指名する関係労働者を代表する者又は関係事業主を代表する者から当該事件につき意見を聴くものとする。
第二十二条 委員会は、調停案を作成し、関係当事者に対しその受諾を勧告することができる。
 
 もちろん任意の制度ですから、調停案を拒否して打ち切りになる可能性はありますが、セクハラを受けた労働者とその使用者のみならず、セクハラをした者まで出頭を求めることができる仕組みです。今回の改正案では、この仕組みがパワハラにも適用されるのですが、実はそれだけではありません。
 今回の改正案には、女性活躍推進法、労働施策総合推進法のほかに、男女雇用機会均等法の改正も含まれていて、その中では「関係当事者の同意の有無にかかわらず、調停のため必要があると認めるときに、出頭を求め、意見を聴くことができる者として、関係当事者と同一の事業所に雇用される労働者その他の参考人を加える」とされているのです。被害者がセクハラを受けているところを見たと証言してくれる同僚たちも呼び出せることになるわけです。そして、この規定も同様にパワハラに適用されることになります。
 これは、これまでの「あっせん」におけるいじめ・嫌がらせ事案の処理の仕方に大きなインパクトを与える可能性があります。私は二度にわたってあっせん事案の内容分析を行いましたが(濱口桂一郎『日本の雇用終了』『日本の雇用紛争』)、とりわけいじめ・嫌がらせ事案においては、使用者側がそもそもいじめの事実を認めない場合が極めて多く、にもかかわらず一定の解決金で解決しているケースが多いのです。これまで、いじめたとされる者も呼ばず、事実認定を行わないという前提で、とにかく労働者側がいじめられたと主張しているのだから、紛争を解決させるためにいくばくかの金銭を払って決着をつけようという、必ずしも理屈だけではないやり方でなんとか行われてきた「あっせん」という仕組みが、いじめたとされる者に加えてその同僚たちまで参考人として出頭させて意見を聴取し、ある意味で事実認定に近いことをやれる仕組みに変わるのです。
 
 現時点ではここに着目している人はほとんどいないようですが、個別労働関係紛争の実態を研究してきた者の一人としては、今回の改正のインパクトがどれくらいの規模に及ぶものであるのか、興味津々です。ちなみに、2017年度の数字ですが、あっせん申請件数5021件のうち、いじめ・嫌がらせ事案は1529件に上ります。かたや、同じ時期のセクハラの調停申請件数は全46件中34件に過ぎません。セクハラより二桁多いパワハラ事件が、当事者や参考人まで呼び出せる調整制度にやってくるのです。

 

2019年5月29日 (水)

ジョブ型入管政策の敗北

出入国在留管理庁が、法務省告示の改正を発表しています。

http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri07_00210.html

本邦の大学又は大学院を卒業・修了した留学生(以下「本邦大学卒業者」といいます。)の就職支援を目的として,法務省告示「出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定に基づき同法別表第一の五の表の下欄に掲げる活動を定める件」の一部が本年5月30日に改正されることとなり,本邦大学卒業者が日本語を用いた円滑な意思疎通を要する業務を含む幅広い業務に従事することを希望する場合は,在留資格「特定活動」による入国・在留が認められることとなります。

具体的には、

 現行制度上,飲食店,小売店等でのサービス業務や製造業務等が主たるものである場合においては,就労目的の在留資格が認められていませんでしたが,民間企業等においては,インバウンド需要の高まりや,日本語能力が不足する外国人従業員や技能実習生への橋渡し役としての期待もあり,大学・大学院において広い知識を修得し,高い語学力を有する外国人留学生は,幅広い業務において採用ニーズが高まっています。
 そこで,これらの採用側のニーズ及びこれまでの閣議決定等を踏まえ,本邦大学卒業者については,大学・大学院において修得した知識,応用的能力等を活用することが見込まれ,日本語能力を生かした業務に従事する場合に当たっては,その業務内容を広く認めることとし,在留資格「特定活動」により,当該活動を認めることとしたものです。

これ、逆に今まではなぜ文科系大学卒業生には「技術・人文知識・国際業務」という在留資格を求めていたのかというと、そりゃ世界共通のジョブ型社会の常識から言って、大学まで行ってわざわざ何かを勉強するというのは、そこで学んだ知識や技能を活かして仕事をしたいからだろう、という日本型メンバーシップとは異なる世界の常識に合わせていたからなんですね。

ところが、残念ながら日本の企業の行動様式はそういうジョブ型社会の常識とは全く違っているので、なんとかしろと詰め寄られたら、まあこうするしかないわけです。現に日本の文科系大学の卒業生は、学んだジョブのスキルと違うなどというくだらないことは一切考えずに何でもいいから空白の石版で就職(就社)しているんだから、外国人留学生だって郷に入れば郷に従えというわけです。

ひとりジョブ型原理で孤軍奮闘していた入管政策の敗北と言いましょうか。

 

 

2019年5月27日 (月)

児美川孝一郎『高校教育の新しいかたち』

33924387 児美川孝一郎さんより新著『高校教育の新しいかたち 困難と課題はどこから来て、出口はどこにあるか』(泉文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

戦後の高校制度と高校教育の歴史的展開を踏まえつつ、現在の高校が抱え込んでいる困難や課題のありようを明らかにし、それを乗り越えるためには、どのような高校教育の「新しいかたち」を展望すべきなのかを示す。

第1部の2論文は、今まで繰り返し論じられてきたことを総論的にまとめたという感じで、私のいう「教育と職業の密接な無関係」の依って来る所以を歴史的に検証し、さらに戦後教育学の大物の議論に何が欠けていたのを暴いていきます。その舌鋒は次のようにまことに鋭いものがあります。

・・・結局のところ、戦後教育学の無意識において「普通教育主義」が成り立ち得たのは、「社会的分業への分化という課題」を教育学としての研究課題の外におき、それを事実上担っていた企業内教育を、研究的関心の視野の外においていたからである。教育制度内の能力主義的「差別・選別」に対しては、舌鋒鋭く批判していた戦後教育学は、かたや企業内教育における労働者の「差別・選別」や職務の「選択の不自由」に関しては、基本的に寡黙であった。・・・

・・・「教育」の範疇に属する職業教育に対してさえ意識的・自覚的ではなかった戦後教育学は、必定、「訓練」の問題を理論的な視野の外においてきた。そのことが、教育理論としてのパースペクティブを狭めてきたことが反省されなくてはならない。それは、1990年代以降、戦後教育学が無意識のうちに(無防備なままに)若者を付託してきた「新卒一括採用から企業内教育へ」という移行ルートが、企業社会の側の作為によって一方的に縮小・変容させられたにもかかわらず、戦後教育学の側には、なすすべがなかった所以である。

まさにその通りでしょう。自分の家の玄関先だけ美しくしておけば、子供たちが行く先のことはどうでもいいというエゴイズム。

第2部は、私も何回も使わせていただいた大阪の3高校の光と影の話を始め、具体例に則して議論を深めています。

 

 

 

ジェンダーと労働研究会編『私たちの「戦う姫、働く少女」』

9784906708970_600 ジェンダーと労働研究会編『私たちの「戦う姫、働く少女」』(堀之内出版)をお送りいただきました。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784906708970

ポップカルチャーから現代社会を鋭く分析した『戦う姫、働く少女』の刊行から2年。
同書が投げかけた問いは、若手研究者たちによって受け止められ、次の議論へ発展した。気鋭の研究者たちが、メイドカフェの働き方や、男性アイドルの商品化など新たな視点で〈わたしたち〉が直面する問題に深く切り込む

内容は次の通りですが、

[序 章] 『戦う姫、働く少女』が投げかけるもの(川口 遼)
[第1章] メイドカフェに見る女性の複合的労働と承認(中村香住)
[第2章] 第三波フェミニズムはポスト新自由主義への道を拓くのか?(田中東子)
[第3章] 消費者民主主義と共通文化(河野真太郎)
[第4章] ディスカッション ポスト・フェミニズムと〈わたしたち〉の労働
おわりに (永山聡子

やはり、第二章のメイドカフェ労働の話が、知らない世界ということもあり興味深かったですね。

 

 

2019年5月25日 (土)

「ジョブ型正社員」をめぐる錯綜@『労働調査』2013年8月号

最近、規制改革推進会議が「ジョブ型正社員(勤務地限定正社員、職務限定正社員等)の 雇用ルールの明確化に関する意見」をまとめたというニュースがあり、ネット上でいろいろな意見が出されているようですが、

https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/suishin/publication/opinion2/010520honkaigi02.pdf

どうもそれらを見ていると、この問題が最初に規制改革会議から提起された2013年のころと全く変わっていないようです。

あまりにも変わっていないので、今さら新たに何かを書く気もあまり起こらず、6年前に書いたものをそのままお蔵出しすることにしました。省エネで申し訳ありませんが、おそらくもうこの文章を覚えている人もほとんどいないと思うので、それなりに新鮮な感覚で読んでいただけるのではないかと思います。

Coverpic 『労働調査』という雑誌の2013年8月号に載せた「ジョブ型正社員」をめぐる錯綜」です。

はじめに
 本特集で取り上げられている安倍内閣の諸会議による雇用制度改革については、認識のレベルにおいても価値判断のレベルにおいても議論が錯綜しきっており、そのためややもすると単純化した議論が横行しがちである。本稿では、議論の錯綜を解きほぐすことを第一の目標として、筋道をわかりやすく説明していきたい。
 とはいえ、議論の俎上に上がっている論点だけでも、労働時間、労働条件の変更、職業紹介と労働者派遣など多岐にわたっており、そのすべてに言及することは紙数からして不可能であるので、本稿では解雇規制との関連で労働組合サイドが反発しているジョブ型正社員(限定正社員)の問題に絞って論じたい。
 実は、去る6月の規制改革会議答申に出てくる「ジョブ型正社員」という言葉を、始めて用いたのはおそらく筆者である。活字として一番早いのは『労基旬報』2010年2月25日号に載せた「ジョブ型正社員の構想」であるが、ある程度まとまったものとしては政策研究フォーラムの『改革者』2010年11月号に載せた「職務を定めた無期雇用契約を―「ジョブ型正社員制度」が二極化防ぐ」になる。この間非公式な形ではあるが、連合の「多様な雇用形態における公正・公平な処遇のあり方に関するプロジェクト」において、「ジョブ型正社員への4つの道」を報告している。
 今回の議論の展開においても、筆者は4月11日の規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれて持論を述べたが、おそらくはその影響で同グループの報告や同会議の答申では「ジョブ型正社員」という言葉が用いられている。同じ言葉であるから同じ意味であるかどうかはわからないが、少なくとも報告や答申の文言からは明確に異なる印象はない。しかしながら、(筆者の報告時も含め)同会議の委員の発言からは、ジョブ型正社員それ自体に意義を見いだしているというよりは、個別解雇をやりやすくするための方便と考えているのではないかという印象を受けたことも否定できない。
 この印象をすべての出発点として論ずるのであれば、ジョブ型正社員などというのは解雇自由化という悪辣な陰謀をいかにも労働者にとって望ましいものであるかのように騙すための笑うべきぼろ隠しということになろう。しかしながら、そのような陰謀論のみで物事を進めていくことによるマイナスをもよく考えておく必要がある。
 
ジョブ型とメンバーシップ型
 まず、筆者の議論の概要を簡単に要約しておく。今日労働問題の焦点として指摘されるのは、雇用を保障された正社員は拘束が多く、過重労働に悩む一方で、非正規労働者は雇用が不安定で賃金が極めて低いという点、いわゆる労働力の二極化である。しかし、そもそも正社員は拘束が多いということ自体、欧米の感覚からすれば必ずしも当然ではない。2007年のパート法改正によって実定法上に初めて「通常の労働者」が定義されたが、欧米と異なりフルタイム、無期、直接雇用の3要件だけでは「通常の労働者」とは認められない。「当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が・・・変更されると見込まれるもの」でないと日本型正社員とは認めてくれないのである。
 筆者はこのように職務も労働時間も勤務場所も契約で限定されておらず、無限定、すなわち使用者の命令でいくらでも変えられてしまうようなあり方を「メンバーシップ型」雇用契約と呼び、欧米で一般的な職務も労働時間も勤務場所も限定されている「ジョブ型」雇用契約と対比した(『新しい労働社会』(岩波新書)、『日本の雇用と労働法』(日経文庫))。メンバーシップ型正社員には、職務限定の権利もなければ(日産自動車村山工場事件最高裁判決)、時間外労働拒否の権利もなく(日立製作所武蔵工場事件最高裁判決)、遠距離配転拒否の権利もない(東亜ペイント事件最高裁判決)。労働組合としてまず何よりも確認すべきは、雇用契約の無限定とはこうした権利の放棄を意味するということであり、欧米の労働組合から見れば信じられないような屈従であるという点である。
 とはいえ、日本には日本の文脈がある。欧米の労働組合から見れば信じがたいような無権利状態の受け入れと引き替えにメンバーシップ型正社員が獲得したのは、欧米であれば一番正当な解雇理由とされる経営上の理由による整理解雇への制約であった。雇用契約の本来の姿に沿って職務や労働時間や勤務場所が契約で限定されていれば、使用者には一方的にそれらを変更する権利はない。それは経営上の理由で当該職務や当該勤務場所が廃止、縮小される場合でも同じである。使用者に対して「やってはならない」と禁じていることを、いざというときだけ「やれ」と命じることはできない。いざというときに「やってくれ」というためには、そうでないときでも「やってよい」といわなければならない。つまり、日本のメンバーシップ型正社員が雇用契約の無限定を受け入れたのは、整理解雇時に他の職務、他の勤務地への配転や時間外休日労働の削減によって雇用関係自体を維持する可能性を高めるためであった。
 これはメリットとデメリットを比較考量した上でのマクロ社会的選択であり、それ自体はいいとも悪いとも言うべきものではない。雇用の安定を最重要と考えるというのは、そのデメリットも含めて、戦後60年にわたる歴史の中で日本の労働者が選択してきた道である。しかしながら、いざというときのために、労働者にとって何よりも重要な職務、労働時間、勤務場所を限定する権利を放棄するというのは、欧米の普通の労働者や労働組合に理解してもらえる見込みの薄いものであることも認識しておく必要がある。「俺たちは契約が無限定なのに、限定されようとしている」などと彼らに訴えても、理解してもらえるとは思わない方がいいだろう。
 一点付け加えておけば、日本国の労働法制は欧米と同様ジョブ型雇用契約を前提に作られているということである。メンバーシップ型契約は、実定法の規定にもかかわらずそれをすり抜ける形で、労使合意による事実たる慣行として確立してきたもの(を裁判所が確認したもの)に過ぎない。
 
ジョブ型正社員の提起
 メンバーシップ型正社員自体がそのデメリットも含めて労働者自身の選択であるならば、ミクロ的には無理に本来のジョブ型契約を強制する必要はない。今日(筆者も含めて)ジョブ型正社員の確立が提起されているのは、これまでの日本型雇用システムがマクロ社会的にいくつもの矛盾を生じさせているからである。
 日本型雇用システムはメンバーシップ型正社員だけで構成されているわけではない。その不可欠の構成要素としてジョブ型の非正規労働者を有している。問題はこの日本型非正規労働者が、欧米のジョブ型労働者の持つ権利をも奪われた低賃金不安定雇用であるという点である。正社員が年功的な職能給であるのに対し、非正規労働者の職務給は欧米の産業別賃金とは異なり、地域最低賃金にへばりついた水準であるし、ジョブの喪失以外では雇用が守られる欧米のジョブ型労働者と異なり、非正規労働者はいつ契約期間満了による雇い止めがされるかもしれないという不安に怯えている。
 とはいえ、1990年代初頭までは、非正規労働者の大半は家計補助的な主婦パートや小遣い稼ぎ的な学生アルバイトであって、低賃金不安定雇用は社会問題とはならなかった。ところがバブル崩壊後の不況期に、企業は正社員採用を厳しく絞り込み、結果的に多くの若者がフリーターと呼ばれる非正規雇用に吸収されていった。2000年代に入り、彼らいわゆる就職氷河期世代が30代になり、次第に中高年化していく中で、貧困格差問題の象徴として議論が交わされたことは記憶に新しいところであろう。
 上述のように日本国の労働法制はメンバーシップ型を前提にしていない以上、法が本来予定しない無限定雇用契約を強制することは背理である。それはあくまでも労使合意に基づく原則からの逸脱なのだ。ここを理解しないまま非正規労働者を無限定型の「正社員」にせよと主張する向きが多い。しかしそれは、欧米で有期労働者や派遣労働者を無期直接雇用労働者(欧米的な意味での「正規労働者」)にせよと主張するのとはまったく意味が違う。なぜなら欧米の正規と非正規は、職務、労働時間、勤務場所が限定されるという点において、何の違いもないからである。
 それゆえに、不本意ながら非正規労働者として働いている人々を「正規化」することで生み出される雇用形態は、直接的には期間満了による雇い止めの恐怖から解放された無期契約労働者であって、広範な解雇回避努力義務と引き替えに無限定の義務を負う「正社員」ではない。そして、ここにある意味で初めて、欧米型に近いジョブ型の無期契約労働者が法制度上に姿を明示したということもできる。筆者がここ数年来述べてきた「ジョブ型正社員」という言葉も、基本的にはそれを概念として明確化するためのものである。
 それと同時に、ジョブ型正社員にはメンバーシップ型正社員とジョブ型非正規労働者という二者択一を迫られる中で、不本意ながら無限定の正社員として働いている人々のための受け皿という意味もある。とかく旧世代の活動家になればなるほど、ワークライフバランスを守ることと雇用関係を守ることとの価値判断のバランスが後者に偏りがちであるが、それが若い世代のとりわけ女性労働者にも同様に共有される価値観であるかどうかは、反省してみる値打ちはあろう。クビさえ守られれば無限定で働くことを受け入れるという戦後日本型労使妥協を望まない労働者の(労働法原理からすれば本来の)感覚をむげにうち捨てるべきではない。少なくとも欧米の労働者、労働組合から見れば、異常なのはメンバーシップ型の無限定義務の方なのである。
 そして、ここでは詳論する余裕はないが、近年若者たち自身によって問題提起されてきたいわゆるブラック企業問題も、メンバーシップ型の「見返りある滅私奉公」をちらつかせて酷使し、結果的に「見返りなき滅私奉公」を強制するものと考えれば、無限定型「正社員」の絶対化は若者たちを極めて危険な隘路に追いやることにもなりかねない。
 
規制改革会議版「ジョブ型正社員」の本音は?
 筆者は以上のような見地に立ってここ数年来ジョブ型正社員の議論を展開してきたし、4月に規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれた際もその趣旨を述べた。6月に出された(鶴光太郎座長の筆になる)その報告も、少なくともその文言を見る限り筆者の認識とそう異なるところは見受けられない。それが、連合をはじめとする労働組合や野党から「解雇自由化」の陰謀として非難されているのは、政府の諸会議でこの問題が議論されてきた文脈によるものであろう。
 筆者自身、『世界』5月号に書いた「「労使双方が納得する」解雇規制とは何か──解雇規制緩和論の正しい論じ方」において、とりわけ産業競争力会議の委員から示されたあからさまな解雇自由化論に対して厳しく批判をしたところである。もちろん、批判すべき解雇自由化論とは、経営上の理由による整理解雇の規制を欧米並みにすることではなく、労働者の能力や成果等を理由として仕事がちゃんとあるにもかかわらず解雇することを正当化しようという議論である。裁判所に行く余裕のない圧倒的多数の中小零細企業労働者たちは、実はそういう欧米の基準で見ても不公正な解雇に日常的に曝されている。そのような不公正解雇はいかなる状況下にあっても許されてはならない。
 問題は、文言上ではまっとうな規制改革会議の答申をどちらの判断基準でとらえるかである。これは正直言ってなかなか難しい。筆者が雇用ワーキンググループで報告した際にも、委員から「整理解雇というよりも、パフォーマンスが悪いときに解雇できるということが非常に重要」との発言があったし、その後の議事録を見ても繰り返し提起されている。
 この部分は極めて微妙な問題なので慎重に論ずる必要がある。最終報告には盛り込まれていないが、途中段階の案には「なお、現在の判例法理では、労働者の能力や適格性の低下・喪失を理由とする解雇の合理性・相当性の判断においては、無限定正社員の場合、そのときに従事していた職務を遂行する能力ではなく、会社のなかで従事可能な職務がそれ以外にもないかが問われることが多いのに対し、ジョブ型正社員の場合、労働契約上限定された職務を遂行する能力が失われたかが主として問われており、この点を確認することが考えられる」という記述が含まれていた。念のためいえば、この記述自体は必ずしも間違っているわけではない。しかしそこで想定されているのは、片山組事件最高裁判決に見られるようなある仕事がまったくできなくなったときに配転義務があるかどうかという話であって、パフォーマンスが悪い云々というような話ではない。
 そもそもジョブ型雇用契約であるということは、雇用契約にやるべき事項が明示されているのであって、それをちゃんとこなしている限り、成績が悪いからといって解雇が正当化されるというような論理はありえない。上記筆者の報告では、それが認められ得る場合として、仕事を限定して雇ったがやらせてみたらまったくできなかったという場合を挙げた。解雇が認められやすい試用期間というのは本来そのために存在している。ちなみに職務無限定の日本ではその機能が空洞化している反面、学生時代に学生運動していたことを理由とする試用期間切れ解雇(欧米なら典型的な不公正解雇)に最高裁がお墨付きを出している(三菱樹脂事件判決)。
 職務を限定して何年も長く働いてきた労働者を捕まえて、「おまえはパフォーマンスが悪いからクビだ」などという暴挙が(ジョブ型契約であればあるほど)許されるはずはないのであるが、規制改革会議のやりとりではなぜかそこがごっちゃになっている。委員の「整理解雇の4要素に絡むものだけではなくて、当然パフォーマンスに応じた解雇の問題も、ここで扱われると理解してよろしいのでしょうか」という問いかけに対して、鶴座長は上記一節を引きながら「この議論についても、無限定正社員とジョブ型正社員においては、当然同じルールを適用しても、結果が変わってくるという確認については、ここで少し書かせていただいている」と答えており、あたかもジョブ型正社員に対してはパフォーマンスを理由とする解雇がやりやすいような誤解を与える表現になっている。この部分は最終的に報告からは消えているが、この考え方が消えたわけではなさそうである。
 
ではどうする?
 以上が、ジョブ型正社員と解雇規制をめぐる現段階の状況である。理論のレベルの問題、価値判断のレベルの問題、さらには表面上の理屈と若干乖離した本音のレベルの問題とが、さまざまなアクターのさまざまな思惑の中に入り交じって、まことに錯綜しきった状態にあると言えよう。
 これに対してどうするかは、本誌を読んでいる労働組合員自身が考えるべきことである。一労働問題研究者である筆者は、上記の通りその錯綜を整理した。その上で、何かを主張するとすればそれは理論のレベルではこうであるということに尽きる。
 理屈はその通りだが政治的にはそれは正しくないというのも一つの判断であるし、それに基づいてさまざまな行動を組織展開していくことも一つの判断である。
 ただ忘れてならないのは、政府諸会議の委員の本音がこうであるから、理屈は何であれジョブ型正社員構想はたたきつぶすという(それ自体は政治的に正しいかもしれない)判断は、とりわけ多くの若い労働者たちを出口のない隘路に追いやることになるかもしれないということである。そのリスクをきちんと認識した上での政治的判断には、筆者が口を挟むつもりはない。

 

2019年5月24日 (金)

澤路毅彦・千葉卓朗・贄川俊『ドキュメント 「働き方改革」』

454121 澤路毅彦・千葉卓朗・贄川俊『ドキュメント 「働き方改革」』(旬報社)をお送りいただきました。

http://www.junposha.com/book/b454121.html

正直、私もいろんな局面でいささかの関わりもあった人々が続々と出てくるので、読みながらなにがしか心揺れるところもあったりするわけですが、やはりなんといっても、冒頭近くの、キャピトルホテル東急で、水町勇一郎さんが加藤勝信一億総活躍担当相にレクチャーするところが、「ああ、ここが水町さんとの分かれ目だったんだなあ」という思いを沸き立たせます。賃金制度が全然違っても、日本でも同一労働同一賃金が可能だという水町理論は、はっきり言って労働法学的にはいかがなものかと思いますが、少なくとも政治的メッセージとしては、求められるものであったんだなあ、と思います。空気を読まず、何を期待されているかもわきまえず、そういうことを言わない人間はお呼びではないわけです。

まあでも、その結果として、それをなんと呼ぶかは別として、既存の断片的且つ不整合な雇用形態に係る均等・均衡待遇法制が、かなり一貫した且つ促進的な性格を強めた形に大きく改良されることになったのは確かなので、少なくとも立法学的には重要な役割を果たしたことは間違いありません。皮肉ではなく、正直にそう思っています。

そういう意味では、本書全体にわたって、「政治って何だろう」「学者って何だろう」「政治という土俵で意味のある行動とは何だろう」という問いが繰り返し湧き上がってくるのも確かです。いろいろとは思いはありますが、でも、それに的確に答えるためには、まだまだ硝煙立ちこめる今ではなく、10年後、20年後、30年後から振り返ってみることが必要なのかも知れません。

連合の話については、当時から報道ぶりに違和感を感じていたので、その少し後に書いた小文を再録しておきましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/2017825-9fbd.html (高度プロフェッショナル制度をめぐる連合の迷走@『労基旬報』2017年8月25日号)

 去る7月13日、連合の神津里季生会長は安倍晋三内閣総理大臣に対して、労働基準法等改正法案に関する要請を行いました。それは、きたる臨時国会に提出予定の時間外労働の上限規制を導入する労働基準法改正案と、2015年に提出したままとなっている高度プロフェッショナル制度の導入や裁量労働制の拡大を盛り込んだ労働基準法改正案が、一本化されて提出されるという見込みが明らかになり、せめて後者の修正を求めようとして行われたものです。その要請書においては、三者択一とされていた導入要件のうち、「年間104日以上かつ4週間を通じ4日以上の休日確保」を義務化するとともに、選択的措置として勤務間インターバルの確保及び深夜業の回数制限、1か月又は3か月についての健康管理時間の上限設定、2週間連続の休暇の確保、又は疲労の蓄積や心身の状況等をチェックする臨時の健康診断の実施を求めるものでした。

 これが報じられると、連合傘下の産別組織の一部や連合以外の労働団体、さらには労働弁護士などから激しい批判が巻き起こり、同月21日の中央執行委員会でも異論が相次ぎ、執行部は組織内での了解取り付けに失敗したと伝えられました。さらに26,27日に札幌で開いた臨時の中央執行委員会でも同意が得られず、政労使合意を見送る方針を決めたということです。同日付の事務局長談話では「連合は三者構成主義の観点から、本件修正のみの政労使合意を模索したが、この趣旨についての一致点は現時点で見いだせない。よって、政労使合意の締結は見送ることとする。法案の取り扱いについては、労働政策審議会の場で議論を行うこととし、その答申を経て、最終的には国会の審議に委ねられることになる」と述べています。

 政府はその後両法案の一本化を表明し、連合が懸念していた状況が現実のものであることが明らかになりました。今回の動きは、基本的には連合という組織の内部的意思決定プロセスの問題ではありますが、近年の極めて強い政治主導、官邸主導の政治プロセスの中で、じっとしていたのでは排除されてしまいかねない労働側がいかに官邸主導の政治プロセスに入り込んでいくかが試された事例とも言えるでしょう。そして、労働側を政策決定のインサイダーとして扱う三者構成原則がややもすると選択的恣意的に使われる政治状況下にあって、単なる「言うだけ」の抵抗勢力に陥ることなくその意思をできるだけ政治プロセスに反映させていくためにはどのような手段が執られるべきなのかを、まともに労働運動の将来を考える者の心には考えさせた事例でもありました。

 外部から一連のいきさつを見ていて気になったのは、この問題が妙に政治的な-政策という意味での「政治」ではなく、新聞の政治面で取り上げられるような政局という意味での「政治」として-枠組で論じられてしまったきらいがあることです。長く「安倍一強」と呼ばれて強い政治主導による政権運営を誇っていた安倍政権が、森友学園、加計学園といった諸問題によってここ1,2か月のうちに急速に支持率が低下してきたことは、恐らく数カ月前には誰にも予想が付かなかったことだと思われますが、ちょうどその政治局面の変わり目に今回の要請が行われたために、それを安倍政権にすり寄る行為だと決めつける政治的な評論がもっともらしく映ったということもあるのでしょう。ちょうど進められていた連合の次期会長人事の問題と絡められてしまったことも、この問題を労働者にとって何が望ましい政策かという観点から論ずることをやりにくくしてしまったように思われます。

 内容的には、本来三者択一の要件のうち一つ(休日確保)を義務化するのであれば、残りの二つ(休息時間と深夜業、健康管理時間)を二者択一とするのが素直な提案であったはずですが、連合提案では連続休暇や臨時健康診断までもが選択肢として入っていました。これは恐らくあらかじめ経営側とすり合わせをした時に、二者択一では受け入れられないと拒否されたため、やむを得ず緩やかな選択肢を盛り込んだものと推測されます。しかしそのために、原案の三者択一を厳格化したはずであるにもかかわらず、義務化された休日確保と健康診断を選択すればそれ以外に実質的に労働時間を規制する要件はなくなってしまうことになってしまいました。2013年の規制改革会議の意見でも、新適用除外制度とセットで導入すべきものとして休日・休暇の強制取得とともに労働時間の量的上限規制が含まれていたことを考えると、それよりも後退していることになります。

 今後事態がどのように推移しているかは不明ですが、一部マスコミが煽り立てた「残業代ゼロ」などという非本質的な議論ではなく、労働時間規制の本旨に沿った議論が行われることを期待したいと思います。

 

『DIO』347号

Dio3471 連合総研の『DIO』347号は、「労働審判法制定15年」が特集です。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/e279cef108bdf97542de07264f2f5e32756101b8.pdf

労働審判制度の課題と展望 浜村彰……………………4
労働者側代理人からみた労働審判制の意義と課題 徳住堅治…………………9
使用者側代理人から見た労働審判制度の意義と課題 木下潮音 ……………… 13
労働審判員の役割と課題 田村雅宣 ……………… 18

A1aee1592b14d7fde8e4c099a6b7d436_1 労働審判については、私自身が労働局のあっせん、裁判上の和解との比較分析のために実態を調べたことがあるだけに、大変興味深く読みました。

浜村彰さんのこの一節は、まさにそう思います。時間的コストは労働審判はあっせんとあまり変わらないくらい迅速なのに、専門家の利用コストという面では、圧倒的大部分が弁護士を利用せざるを得ないという大きな違いがあります。

 その2つとして、労働審判が簡易な手続を謳っている割に弁護士依頼のコストが高く、それが労働審判事件数の伸びを抑えているのではないか、と思われることである。手続的には代理人弁護士を立てることは義務付けられていないが(労働審判法4条1項)、3回の期日で迅速に処理するという迅速性の原則から代理人として弁護士を立てることが事実上必須となっている。
 しかし、紛争解決の迅速性が労働審判手続の大きなメリットであり、迅速な争点整理と短期集中的審理を行うためには法曹専門家たる代理人弁護士を立てることが必要だとしても、だからといって、それが資力のない労働者にとって法的救済を受けるうえでの大きな障害となってはもともこもない。弁護士依頼のコストが労働審判制度の利用の大きなハードルとなっているとするならば、補佐人の活用など本人申立てに対する支援制度を整えるとともに、弁護士以外の専門家の活用を広く認めるべきである。裁判所は、労働審判法4条1項但書の許可代理制度(これによれば、裁判所は当事者の権利利益の保護及び労働審判手続の円滑な進行のために必要かつ相当と認めるときは、弁護士以外の者を代理人とすることを許可することができる)の活用を広く認め、弁護士以外の社会保険労務士や労働組合の活動家などが代理人として資力のない労働者を支援することを柔軟に認めるべきであろう。

今回の特集では出てきませんが、これまではあっせんの対象であった「いじめ・嫌がらせ」が、現在国会にかかっている法改正案が成立したら、セクハラ等と一緒に調停に移行するということが、個別労働紛争システムにおける大きな変化になる可能性があります。周知の如く、既にいじめ・嫌がらせ件数は解雇件数を大きく上回っており。現在はあっせんということで、両方からささっと聞いてちゃちゃっっと決着(本当にいじめがあったのかどうかも詰めずに)ということでやっていますが、調停ということで、同僚たちも参考人として呼んで確認して、というような手続きをすることになると、そうとうに「重い」仕組みになるかも知れません。

2017年度の数字ですが、セクハラの調停申請が調停申請件数全46件中34件に過ぎないのに対して、いじめ・嫌がらせはあっせん申請件数5021件のうち、1529件に上ります。

 

 

 

 

2019年5月23日 (木)

協同組合つばさ他事件@『ジュリスト』2019年6月号

1369_o もうすぐ刊行される『ジュリスト』2019年6月号に、わたくしが協同組合つばさ他事件について判例評釈を書いております。

http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/detail/020258

[労働判例研究]

◇定年後同一会社で嘱託再雇用された労働者の均衡処遇――日本ビューホテル事件――東京地判平成30・11・21●峰 隆之……120

◇技能実習生の請負による残業等――協同組合つばさ他事件――水戸地判平成30・11・9●濱口桂一郎……124

ちなみに、労働判例速報は、橋本陽子さんが例のコンビニオーナーの労働者性に関する中労委命令を取り上げているようです。

[労働判例速報]

コンビニオーナーの労組法上の労働者性――セブン‐イレブン・ジャパン不当労働行為再審査事件――中労委命令平成31・3・15●橋本陽子……4

 

 

『毎日が日曜日』@朝日新聞5月22日夕刊

As20190522001782_comm 朝日新聞5月22日夕刊の3面の「時代の栞」というコーナーで、城山三郎の『毎日が日曜日』が取り上げられ、その記事の中でわたくしが定年制の歴史についてちょびっと語っています。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14025580.html

■定年バンザイ、さあどう生きる 

退社時刻の午後5時。勤続35年、57歳で定年を迎えた「ウーさん」は、椅子の上で叫んだ。「ついに、おれは退職だ。バンザーイ!」

「毎日が日曜日」で登場する笹上丑松(うしまつ)のあだ名は「ウーさん」。「ウー」と言うばかりで優柔不断だからだ。

出世レースから外れ、組織で生きるのに疲れ切っている。・・・・

 

2019年5月22日 (水)

労基法67条の「育児時間」は本来「哺乳時間」

のゆたのさんの「ぽんの日記」で、「男は「育児時間」を取ることができない」のはおかしいのじゃないかと言われているのですが、

http://kynari.hatenablog.com/entry/2019/05/22/150921

なぜだか知らないが、男性労働者は「育児時間」を取得することができない。男は育児をしない、というのは時代錯誤な考え方だと思うけれども、改正されないまま残っているということか。
ここでいう「育児時間」とは、労働基準法第67条のことだ。1歳未満の子どもを育てる女性は、1日に2回「育児時間」を請求することができる。

いや、それは若干誤解があるように思います。現在の労基法第6章の2は、(厳密にいうと坑内業務の一部と生理日の就業が著しく困難な女性の休暇は必ずしもそうではありませんが)基本的に妊産婦の保護にかかる規定であって、この現67条(旧66条)も、制定時から母性保護規定であって、女子保護規定ではありません。

この規定は、戦前の工場法の「哺育時間」が中身はそのまま「育児時間」と規定されたもので、「育児」といっても育児・介護休業法でいうところの子育てという意味での「育児」とは別物です。経緯からすればむしろ母乳による「哺乳時間」というべきであったように思われます。労基法制定責任者の寺本広作『労働基準法解説』には、本条の趣旨について次のように書かれています。

 

123

というわけで、この「育児時間」は母乳による「哺乳時間」のことなので、母性保護以外の女子保護規定がほとんど(すべてではないが)なくなっても、なお存続し続けてきているのであり、男性がとるわけにはいかないものなんですね。

 

労働施策総合推進法の数奇な半世紀@『労基旬報』2019年5月25日号

『労基旬報』2019年5月25日号に「労働施策総合推進法の数奇な半世紀」を寄稿しました。

 現在国会で審議中の女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律案の目玉はいうまでもなくパワーハラスメントに対する措置義務の導入ですが、それが盛り込まれている法律は何かご存じでしょうか。セクハラとマタハラは男女雇用機会均等法、育児・介護ハラスメントは育児・介護休業法であるのに対して、パワハラは労働施策総合推進法なのです。これは多くの人にとっていささか意外だったのではないでしょうか。
 そもそもこの法律、正式には「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」といい、法律番号は昭和41年法律第132号です。なんと半世紀以上も昔に作られた法律なのですが、そんな法律知らなかったよという人が多いでしょう。というのも、このやたら長ったらしい名前になったのは昨年の働き方改革推進法によってであって、それまでは雇用対策法というシンプルな名前だったのです。ただ、それにしても、雇用対策法とは一体どういう法律だったのか、きちんと説明できる人はそれほど多くないのではないでしょうか。今回は、パワハラ規制の受け皿になったこの法律がたどってきた数奇な半世紀をたどってみたいと思います。
 雇用対策法が制定されたのは1966年7月。時代の精神はジョブ型真っ盛りでした。私は1950年代後半から1970年代前半までのほぼ20年間を「近代主義の時代」と呼んでいます。たとえば1960年の国民所得倍増計画は、終身雇用制と年功賃金制を解消し、同一労働同一賃金原則に基づき労働力を流動化し、労働組合も産業別化することを展望していました。これを受けた1965年の雇用審議会答申も「近代的労働市場の形成」を掲げ、その中心課題は「職業能力、職種を中心とした労働市場」でした。
 こういう思想状況の中で、雇用に関する基本法を作ろうという意気込みで作られたのが雇用対策法なのです。個々の政策は個別法に規定されるのですが、それらを統括する基本法という位置づけでした。制定時の「国の施策」(第3条)には次のような項目が並んでいました。まさに外部労働市場型の雇用政策のカタログです。

一 各人がその有する能力に適合する職業につくことをあつせんするため、及び産業の必要とする労働力を充足するため、職業指導及び職業紹介の事業を充実すること。
二 各人がその有する能力に適し、かつ、技術の進歩、産業構造の変動等に即応した技能を習得し、これにふさわしい評価を受けることを促進するため、及び産業の必要とする技能労働者を養成確保するため、技能に関する訓練及び検定の事業を充実すること。
三 労働者の雇用の促進とその職業の安定とを図るため、住居を移転して就職する労働者等のための住宅その他労働者の福祉の増進に必要な施設を充実すること。
四 就職が困難な者の就職を容易にし、かつ、労働力の需給の不均衡を是正するため、労働者の職業の転換、地域間の移動、職場への適応等を援助するために必要な措置を充実すること。
五 不安定な雇用状態の是正を図るため、雇用形態の改善等を促進するために必要な施策を充実すること。
六 その他労働者がその有する能力を有効に発揮することができるようにするために必要な施策を充実すること。

 実際には、経済計画の向こうを張って閣議決定される雇用対策基本計画の根拠法であり、政策思想はその雇用対策基本計画に詳しく書かれます。1967年3月に策定された第1次雇用対策基本計画は、上記各項目ごとに詳しく施策内容を記述していました。この雇用対策基本計画はその後、1999年の第9次雇用対策基本計画まで数年おきに策定されました。
 制定時の雇用対策法で目に付くのは、「第五章 職業転換給付金」と、労働移動のための給付金制度にわざわざ1章を充てていることです。その後の日本の雇用政策を象徴する雇用調整助成金ですら、雇用保険法の中のある1条のある1項のある1号でしかないのに比べると、その扱いの破格さは驚くばかりです。この規定は、その後の政策方向の有為転変にもかかわらずほとんど手つかずのまま今日に至っています。
 制定時の実体規定として興味深いのは、雑則におかれた第21条(大量の雇用変動の場合の届出等)です。

(大量の雇用変動の場合の届出等)
第二十一条 事業主は、生産設備の新設又は増設、事業規模の縮小その他の理由による雇用量の変動であつて、労働省令で定める場合に該当するものについては、労働省令で定めるところにより、公共職業安定所長に届け出なければならない。
2 国又は地方公共団体の任命権者(委任を受けて任命権を行なう者を含む。)は、前項に規定する雇用量の変動については、政令で定めるところにより、公共職業安定所長に通知するものとする。
3 第一項の届出又は前項の通知があつたときは、職業安定機関は、相互に連絡を緊密にし、広範囲にわたり、求人又は求職を開拓し、及び職業紹介を行なうこと等の措置により、一定の地域における労働力の需給に著しい不均衡が生じないように離職者の就職の促進又は当該事業における労働力の確保に努めるものとする。

 見てわかるように、これは外部労働市場における円滑な労働力移動を進めるためのものであって、後の時代のような雇用維持を目的とするものではありませんでした。しかし、雇用維持を至上命題とする企業主義の時代(1970年代後半から1990年代前半)においても、この規定は慇懃なる無視状態のまま維持され続けました。
 企業主義の時代には雇用対策法はいかなる意味でも雇用政策の基本理念を謳う法律ではなくなり、雇用対策基本計画の根拠法という以上の意味は失われました。この時代の雇用対策基本計画は、1976年の第3次計画から1992年の第7次計画に至るまで、雇用維持が常に主旋律を奏で続けていたのです。雇用対策法には流動的労働市場を理想とする規定が化石のように残っていましたが、実質的な意味での雇用の基本法は雇用保険法であったと言えます。
 1990年代半ば以降、雇用対策基本計画や雇用助成金においては「失業なき労働移動の促進」という新たな政策理念が打ち出されてきましたが、これが事業主の再就職援助措置という形で雇用対策法上に書き込まれたのは、2001年4月の改正によってです。これにより「事業主は、事業規模若しくは事業活動の縮小又は事業の転換若しくは廃止・・・に伴い離職を余儀なくされる労働者について、当該労働者が行う求職活動に対する援助その他の再就職の援助を行うことにより、その職業の安定を図るように努めなければならない」(第6条)とともに、再就職援助計画の作成義務が規定されました。そして(化石化した職業転換給付金には手を触れず)そのための助成金は雇用保険法に基づく労働移動支援助成金とされました。なお、制定時以来の大量雇用変動届出義務も、この時離職者の発生に限定され、再就職援助措置の一環として位置付けられました。これは新設の基本的理念にも「労働者は、その職業生活の設計が適切に行われ、並びにその設計に即した能力の開発及び向上並びに転職に当たつての円滑な再就職の促進その他の措置が効果的に実施されることにより、職業生活の全期間を通じて、その職業の安定が図られるように配慮されるものとする」(第3条)と、明記されました。
 2001年改正はこのように内部市場政策から外部市場政策への転換点を刻していますが、そのもう一つの現れが年齢差別禁止の努力義務規定です。これが2007年改正では法的な義務規定に発展していきます。

第七条 事業主は、労働者がその有する能力を有効に発揮するために必要であると認められるときは、労働者の募集及び採用について、その年齢にかかわりなく均等な機会を与えるように努めなければならない。

 さて、雇用対策法の根幹を揺るがすような改正が2007年に行われました。長らく雇用対策基本計画の根拠法として存在し続けてきたこの法律の主軸が消えてしまったのです。これは向こうを張っていた経済計画が、1999年の「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」を最後に廃止されたことに対応したものです。細かく言うと、法律上では姿を消しましたが、省令で「雇用政策基本方針」を策定することとされています。ただ、格落ちであることは間違いありません。
 この2007年改正は雇用政策のカタログに、女性、若者、障害者、外国人、地域雇用等を追加するとともに、事業主の責務として青少年の雇用確保と外国人の雇用管理措置を規定しました。前者は2015年の青少年雇用促進法に展開していきます。一方外国人に関しては、さらに第6章として「外国人の雇用管理の改善、再就職の促進等の措置」が設けられ、外国人雇用状況の届出義務(第28条)が規定されるなど、これまで枠組みをすべて出入国管理法に牛耳られていた外国人雇用政策について、一定の進出を図っています。

(外国人雇用状況の届出等)
第二十八条 事業主は、新たに外国人を雇い入れた場合又はその雇用する外国人が離職した場合には、厚生労働省令で定めるところにより、その者の氏名、在留資格(出入国管理及び難民認定法第二条の二第一項に規定する在留資格をいう。次項において同じ。)、在留期間(同条第三項に規定する在留期間をいう。)その他厚生労働省令で定める事項について確認し、当該事項を厚生労働大臣に届け出なければならない。
2 前項の規定による届出があつたときは、国は、次に掲げる措置を講ずることにより、当該届出に係る外国人の雇用管理の改善の促進又は再就職の促進に努めるものとする。
一 職業安定機関において、事業主に対して、当該外国人の有する在留資格、知識経験等に応じた適正な雇用管理を行うことについて必要な指導及び助言を行うこと。
二 職業安定機関において、事業主に対して、その求めに応じて、当該外国人に対する再就職の援助を行うことについて必要な指導及び助言を行うこと。
三 職業安定機関において、当該外国人の有する能力、在留資格等に応じて、当該外国人に対する雇用情報の提供並びに求人の開拓及び職業紹介を行うこと。
四 公共職業能力開発施設において必 要な職業訓練を行うこと。

 また上述のように、この改正で募集・採用における年齢差別が原則的に禁止されましたが、現実の日本の労働社会は依然として年齢に基づく人事管理が続いています。

第十条 事業主は、労働者がその有する能力を有効に発揮するために必要であると認められるときとして厚生労働省令で定めるときは、労働者の募集及び採用について、厚生労働省令で定めるところにより、その年齢にかかわりなく均等な機会を与えなければならない。

 ここまではカタログの項目が増殖したとはいえ、労働市場政策の範囲内の法律でしたが、その性格を一変させたのが2018年の働き方改革推進法による改正です。これにより法律の名称が「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」となりました。この改正により、労働条件政策や労働人権政策に係る項目も大量にカタログに追加され、まさに労働施策総合推進法となりました。そう名乗れないのは、職業転換給付金を始め随時追加されてきた個別政策分野の具体的措置規定も含まれているからです。
 この改正によりまず第3条の基本的理念に第2項として「労働者は、職務の内容及び職務に必要な能力、経験その他の職務遂行上必要な事項・・・の内容が明らかにされ、並びにこれらに即した評価方法により能力等を公正に評価され、当該評価に基づく処遇を受けることその他の適切な処遇を確保するための措置が効果的に実施されることにより、その職業の安定が図られるように配慮されるものとする」と、同一労働同一賃金政策の理念を謳う規定が設けられました。また第4条の施策カタログに、労働時間・賃金処遇に係る第1号と治療と仕事の両立に係る第9条が追加されました。

一 各人が生活との調和を保ちつつその意欲及び能力に応じて就業することを促進するため、労働時間の短縮その他の労働条件の改善、多様な就業形態の普及及び雇用形態又は就業形態の異なる労働者の間の均衡のとれた待遇の確保に関する施策を充実すること。
九 疾病、負傷その他の理由により治療を受ける者の職業の安定を図るため、雇用の継続、離職を余儀なくされる労働者の円滑な再就職の促進その他の治療の状況に応じた就業を促進するために必要な施策を充実すること。

 さらに第6条の事業主の責務にも「事業主は、その雇用する労働者の労働時間の短縮その他の労働条件の改善その他の労働者が生活との調和を保ちつつその意欲及び能力に応じて就業することができる環境の整備に努めなければならない」という規定が加えられ、働き方改革のフラッグシップ法としての性格を誇っています。なお、こうした個別規定には顔を出していませんが、第1条の目的に、さりげなく「労働者の多様な事情に応じた雇用の安定及び職業生活の充実並びに労働生産性の向上」と、生産性向上という文言が入り込んでいる点も注目です。
 こうした改正点とともに、この2018年改正は2007年改正で法律上から消えた雇用対策基本計画を、「労働者がその有する能力を有効に発揮することができるようにするために必要な労働に関する施策の総合的な推進に関する基本的な方針」(基本方針)として法律上に復活させました。何しろ閣議決定される方針ですから、「厚生労働大臣は、必要があると認めるときは、関係行政機関の長に対し、基本方針において定められた施策で、関係行政機関の所管に係るものの実施について、必要な要請をすることができる」(第10条の2)のです。
 この基本方針は2019年1月に告示されましたが、そこには長時間労働の是正から過労死の防止、非正規労働者の待遇改善、治療と仕事の両立支援など労働政策のほぼ全分野にわたる施策が羅列されています。その中に、その段階ではまだ法律上に規定が存在しないにもかかわらず「職場のハラスメント対策及び多様性を受け入れる環境整備」という項目が含まれていることが注目されます。なぜなら、これこそが今回の法改正により初めて盛り込まれる規定を受けたものだからです。そこでは「職場におけるハラスメントは、労働者の尊厳や人格を傷つけ、職場環境を悪化させる、あってはならないものである」という宣言も盛り込まれています。
 これをいわば露払いとして、今回の法改正により労働施策総合推進法に第8章として「職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して事業主の講ずべき措置等」が、第30条の2から第30条の8までに盛り込まれました。第4条のカタログにも1号追加されています。

十四 職場における労働者の就業環境を害する言動に起因する問題の解決を促進するために必要な施策を充実すること。

 半世紀前に雇用対策法が制定されたときから考えると、「思えば遠くへ来たもんだ」という感慨がじわじわと湧いてきますが、この半世紀の歴史の中に、日本の労働政策が歩んできた有為転変が刻み込まれているといってもいいのかも知れません。 

 

 

2019年5月21日 (火)

松尾匡編『「反緊縮!」宣言』

898 松尾匡編『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房)をおおくりいただきました。ありがとうございます。

https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=898&st=4

世界の政治・経済を動かす新座標軸、「反緊縮」を知らなければ、これからの社会は語れない!

人びとにもっとカネをよこせ!
そう、これは新たなニューディールの宣言だ。


日本の経済・社会を破壊した「緊縮」財政主義を超えて、いまこそ未来への希望を語ろう。

松尾さんをはじめとする薔薇マークキャンペーンの方々によるマニフェストの書ですね。

反緊縮って何だ! ? 松尾匡
おすそ分けのすすめ 池田香代子
なぜ消費税を社会保障財源にしてはいけないのか 森永卓郎
他者を殴る棒 岸政彦
わたしにとっての反緊縮 生活から政治を語る 西郷南海子
政府の借金なくしてデフレ脱却なし 井上智洋
反緊縮経済学の基礎 朴勝俊
リベラル再装塡のために 宮崎哲弥
日本におけるポピュリズムの困難と可能性:「アジア」という視座 梶谷壊
ヨーロッパを救うひとつのニューディール ヤニス・バルファキス
世界中の革新派勢力への呼びかけ プログレッシブ・インターナショナル

この運動については、以前から本ブログでも述べているように、消費税に対する否定的姿勢があまりにも強すぎ、それがかえって財政拡大による再分配や生活向上の妨げになる危険性が高いと思ってきましたし、今でもそう考えています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-02b2.html (バカとアホが喧嘩するとワルが得する)

・・・結論から言うと、社会保障費に充てるために消費税を上げるという触れ込みで始まったはずの政策が、「増税しないと財政破綻」論のバカ軍団と「増税すると経済崩壊」論のアホ軍団の仁義なき戦いのさなかに放り込まれると、「社会保障なんか無駄遣いやからやめてまえ」論という一番あってはならないワル軍団お好みの結論に導かれてしまうからです。

あえて表にすればこういうことになります。

123

おそらく松尾さんたちはこの表の左下の欄、つまり増税反対だけど再分配賛成というところに属しているのでしょう。ところが、その主張がもっぱら増税反対というところに集約され、もっぱら右上の「増税しないと財政破綻」論を仮想敵国として戦っていくと、現在の政治的配置状況の下では、それは右下の社会保障なんか無駄やからやめてまえ論との共闘になり、本来の政策だったはずの「増税して社会保障に」というのは冥王星の彼方に吹き飛ばされてしまいます。
そんなに増税が嫌なら、これくらい面倒見てやろうかという軽減税率の財源にそもそもの目標であったはずの社会保障費があてられるというのが今の姿ですが、この先、米中対決その他の影響で経済情勢波高しということになって「めでたく」(皮肉です)増税が回避されたら、結局得をしたのは社会保障を目の敵にするワル軍団でしたということになりかねません。正直、その可能性は結構高いように思います。そうでなくても、今ではそもそも何のために消費税を上げるという話になったのか、だれも覚えていないという状況ですから、その目論見は達せられたというべきかもしれません。
バカとアホが喧嘩するとワルが得するという教訓噺でした。

いやもちろん、本書で言えば森永さんの章になりますが、薔薇マークの方々は増税自体には反対ではなく、むしろ、法人税率の引き上げとか、富裕層への課税とか、相続税の増税とか、分離課税の廃止とか、より「ソーシャル」な増税のメニューを提示しています。その議論そのものは私は大いに賛成です。しかしながら、政権の座にあってすら実現は極めて困難であろうそういった政策を、そこから極めて遠いところから今口先で転がすだけで、何か事態がいい方向に動くかのごとく論じるならば、それは正直言って自己欺瞞でしかないでしょう。

そういう、ソーシャルな価値基準からしてより望ましい増税策がほとんど実現の見通しがなく、その中で財源が無いからといって弱い立場の人々のための財政支出が削られていく中で、せめてものよりどころになりえたはずの消費税が、かくも「反緊縮」の旗印の下で叩き潰されてしまえば、それに代わる財源など追ってこれる政治力などあるはずもなく、これ幸いとますます緊縮財政に拍車がかかるだけになるでしょうね。この辺、現実の政治状況の中での政治的実現可能性を全く顧慮することなく、「できればいいな」のメニューだけを振り回すことが、かえってかろうじて細々と存在し得ていた改善の道を踏みにじることになるという、まあよくある話の一例なんですが。

という話ばかりではつまらないので、本書の中ではやや異質ですが大変興味深かった一章を。梶谷懐さんの「日本におけるポピュリズムの困難と可能性:「アジア」という視座」です。

ここで補助線として引かれているのは中国です。共産党一党独裁の資本主義経済という中国において、右派と左派が入違っているというのはよく言われることですが、それとポピュリズムとの関係がさらにねじれて、それが日本と欧米社会のねじれとある面で符合しているという、なかなかに複雑な話です。

 

 

2019年5月20日 (月)

関島康雄『改訂チームビルディングの技術』

Bk00000543 同じく讃井さんからお送りいただいたのが関島康雄『改訂チームビルディングの技術』(経団連出版)です。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=543&fl=

みんなを本気にさせるマネジメントの基本18
◆強いチームが仕事をおもしろくする
◆一人ではつくり出せない変化をつくる
◆多様な意見が、新しい切り口をもたらす

企業は製品をどうつくるか(how to make)から、何をつくるか(what to make)に変化してからだいぶたつ。今日では、さらに進んで「どう変えるか」(how to change)が最大の課題となっている。環境条件が激しく変化する時代には、強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものが生き残るからだ。

どうやって変化にすばやく適応していくのか、という問いに、リーダーが答えをもっているとは限らない。そもそも、問題が複雑になると、組織の責任者がいつもリーダーとしてふさわしいとは限らず、問題ごと、問題解決のステップごとに違う人をリーダーとしたほうが効率がよい場合も生じる。このような複雑な問題に取り組む際にとられる方法の一つが、チームによる解決である。

しかし、いろいろな専門家を問題解決に向けて努力させ、一定期間のうちに、ひとつの結論を出すのは簡単なことではない。そこでは、「仕事を通して成長する仕掛け」が絶対に必要であり、「勝っても負けても一試合ごとに強くなるチーム」の存在が不可欠である。ここに、チームをつくる力、チームビルディングの技術が求められる。

本書では、「仕事は大変だが、おもしろい」と感じる人がふえ、行動に変化が生まれること、協力して仕事をする組織文化を生み出すこと、失敗からも多くを学び、チームで問題解決に取り組むことをめざす方法を具体的、詳細に解説する。

読んでいて面白かったのは、182ページからの「自分を何の専門家と考えるかが重要」という一節です。技術系の特定分野を専門とする人を前提に、自己認識をより抽象的なレベルに持った方がいいという、ある意味脱ジョブ型な発想を展開しています。

・・・その仕事が自分にとって適職と感じられるほど専門性が高まったとしよう。この時大切になってくるのは、自分を何の専門家と考えるかである。これによって進むべき方向は大きく変わってくる。

例えば自分はパソコンが作りたい、自分はパソコンの設計者であると考えたとしよう。・・・ところがある日、会社ガパソコン事業から撤退すると決定し、設計者はTV事業部門に異動を命じられたとしよう。さて、どうするか、である。

「パソコンが作りたくてこれまで努力してきた。どうしてもパソコンを作る仕事がしたい」と考えるのであれば、パソコンを作っている他社に転職するしかない。その場合、これまでのキャリア、仕事の経歴が助けになるはずである。

しかし自分は、画像処理技術のエンジニアであると思っていたとしよう。画像処理技術を使ってパソコンを作っていると考えている。・・・

自分は、電子技術の専門家で、ハードとソフトの両方の知識が必要な製品の設計が得意だと考えていた人は、TV部門に移って、テレビとパソコンが融合した新製品の開発を夢見るかも知れないし、・・・

このように、自分は何の専門家と考えるか、自分のこれまでの経歴は何であったかというキャリアに対する見方により選択の方向は変わってくる。・・・M&Aが普通のことであるような変化が激しい時代には、パソコンの設計者というよりは画像処理の技術者、さらにはハードとソフト融合製品の開発者といった、より抽象度の高い自己認識を持つ人の方が選択の自由度が高くなり、生き延びやすくなる。・・・

これは確かにそうとも言えますが、その抽象度をさらに上げていって、その会社の進む方向なら何でもみたいになっていくと、そもそも何の専門家でもなくなっていくわけで、ものごとは程度問題という感じもします。そんな抽象的な非専門家になるほど「生き延びやすい」というわけにいかないでしょうし。

 

 

 

高仲幸雄『同一労働同一賃金Q&A』

Bk00000546 経団連出版の讃井さんより、高仲幸雄『同一労働同一賃金Q&A』をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=546&fl=

働き方改革関連法の成立により、同一労働同一賃金に係る法改正が行われました。
企業は、裁判例や「同一労働同一賃金ガイドライン」を踏まえて、非正規社員の待遇の見直しや待遇差に関して適切に説明できるよう対応が求められます。
本書では、改正法令をわかりやすく解説するとともに、各社の制度見直しに必要な情報や実務上の留意点をQ&A形式でまとめました。あわせて、均衡待遇・均等待遇をめぐる判例・裁判例を収集、整理し、問題となった待遇差のポイントを紹介します。

Q&A方式で細かく書かれていますが、そもそもガイドライン自体がいささか意味不明なところもあり、なかなかこうしたら間違いないと言いきれないところがつらいところかも知れません。

後ろ半分ほどが参考資料で、とりわけ有用なのが資料6の「均衡待遇・均等待遇をめぐる判例・裁判例の概要」です。

なにしろ、今年2月の大阪医科薬科大学事件やメトロコマースの高裁判決まで載っています。

 

 

 

 

サラリーマンは、どこから来てどこへ行くのか  変わりゆく”雇用”のかたち@『Lifist』Vol.02

Image もう一つ、読みやすいインタビュー記事として2017年10月にミニコミ誌『Lifist』Vol.02に掲載された「サラリーマンは、どこから来てどこへ行くのか  変わりゆく”雇用”のかたち」というのをお蔵出ししておきましょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/lifist02-6327.html

学校卒業と同時に企業や官公庁に就職し、そのまま定年まで勤め上げる。
日本の典型的な「サラリーマン」のライフスタイルだ。
しかし近年は、不安定な雇用の問題やサラリーマンの働きにくさが指摘されることも多くなってきた。
私たちが当たり前と考えてきた「サラリーマン的働き方」は、これからどうなっていくのだろうか。
独立行政法人 労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長 濱口桂一郎さんに聞いた。
 
 
世界でも珍しい、“日本型”の働き方
 
長時間労働やパワハラなどが問題化し、サラリーマンの「生きづらさ」が話題になっています。
 
 こういった問題は単純化されて議論されてしまいがちですが、例えば「長時間労働」という、労働の中の一部の現象を取り出して善悪を論じるとしたら、あまり意味のないことです。雇用制度全体の中で考えてみることが重要です。
 
全体の中で考える、とは。
 
 まず、若者がこれほど就職しやすい国はほかにありません。日本以外の国は、そもそも学校を卒業しても就職口がないのが当たり前。よほど優秀でない限り企業は、仕事の経験も能力もない人間を好んで採用なんてしてくれません。日本には「新卒一括採用」という世界でもほとんど例のない仕組みがあり、「私にはこういう能力があります」と言わなくても、むしろ言わないほうが企業は採用してくれ、入社してから学ぶことができる。そこだけを見ればすごいメリットです。
 でもその裏返しとして、会社にすべてをゆだね命令に従わなければならない。長時間労働もこの一部でしょう。昔から長時間労働はありましたが、新卒採用や定年までの実質的な雇用の保証というメリットとパッケージになっていたから問題にならなかったのです。今はそのパッケージ全体が崩れてきたから問題化してきている。企業は一応正社員として迎えるけれど、ずっと働いてもらうという前提はなく、仕事ができないと言っては次々に人を入れ替える。そうなってくると、これはブラック企業です。でも、長時間労働だけを取り上げて、それはブラック企業だ、いや自分の若いころは徹夜もやっていたぞと議論することはナンセンスなんです。
 
 
日本型の雇用は、メリットが少なくなってきた
 
濱口さんは研究の中で、雇用システムを「ジョブ型」「メンバーシップ型」に分類しています。
 
 職務に対応して労働者を採用するシステムのことを「ジョブ型」と言っています。つまり、あなたにはこの仕事をしてもらいます、それに対していくら払います、ということを契約や協定で決めて雇用する。諸外国の多くのシステムです。対して「メンバーシップ型」は、企業が「職務を遂行する能力がある」と判断した人を「メンバー」として雇用する。これが日本型の雇用システムです。給料は年功制で、職務内容や勤務地は入社後に会社の命令によって決められます。
 
まさに、日本の象徴的なサラリーマンの姿ですね。なぜ日本にこのような雇用システムが出来上がったのでしょうか。
 
 第一次大戦後から、主に日本を牽引する製造業でこういった雇用システムが始まり広がってきました。完全に確立したのは第二次大戦後ですが、労働組合の後押しも大きかった。長く続いてきたということは、労使の両方にとってメリットが多く合理的だったということですね。そのころの典型である、妻が専業主婦という家庭なら、残業をどれだけしてもどこに転勤になっても、会社に従っていれば家族がずっと守られていて幸せでした。
 
今は家族構成も多様になり、夫婦共働きも当たり前になってきました。「日本型雇用システム」の転換期にあるのでしょうか。
 
 さまざまな面からこのシステムの合理性が低くなってきていることは確かですね。ここ数年来の一つひとつ政策の方向性を見ると、政策同士には関連性がないように見えるかもしれませんが、大きく見て「ジョブ型」へ移行しています。長時間労働の規制もその一つですし、職業能力の見える化を進めて労働移動をしやすくしたり、教育分野の中に職業教育的なものをつくっているのもその一環でしょう。
 
緩やかに変革しているということでしょうか。
 
「日本型雇用システムは悪だから叩き潰せ」というような話にするわけにはいきませんから。このシステムで恩恵を受けている人もいればそうでない人もいる。なくなっていくメリットに関しては、それに代替するような仕組みをつくっていかなければ、激変して大変なことになってしまいます。受け皿をつくりながら緩やかに変えていかないといけないのです。
 
「メンバーシップ型」と「ジョブ型」、どちらがよいというわけでもないのですね。
 
 「このシステムは日本にとっていいのか悪いのか」と議論を一律でしてしまうことは危険です。十把一絡げで議論してしまうと必ず何かが見捨てられてしまう。もっと慎重に、丁寧に考えていかなければなりません。「日本型雇用システムは素晴らしい」と言われていた時代だって、恩恵を受けていた人ばかりではなく、それに当てはまらない人はいたのですから。
 
女性は今度こそ活躍するのか
 
女性活躍が叫ばれていますが、なかなかうまくいきません。世界から見ても、日本の男女平等は進んでいないようです。
 
 よく誤解されるのですが、もともと、日本が特別に男性優位的な考え方を持っているわけではないと思います。1960年代頃に雇用システムが出来上がったころから、女性差別的な考え方は世界に同じようにありました。その後、「やはり男女平等にしなければ」という掛け声も世界で同じようにかかってきました。ただ、欧米のジョブ型の働き方は、男女の格差是正がスムーズにいきやすかったのに対し、日本はそうではなかった。男性が無限定に働いて女性が家庭を支えるという日本型雇用システムがうまく社会に合致してしまっていただけに、性別役割分担を変えていきたくてもブレーキがかかってうまく進んでこなかったという面があると思います。
 
1985年には男女雇用機会均等法もできましたが…。
 
 最初の10年間は努力義務時代で、実質は男女が同じように仕事をしていける環境ではありませんでした。多くの企業は、制度上は男女の差をなくして、基幹的な業務にかかわる「総合職」と、補助的な業務をする「一般職」という2つのコースを用意しましたが、実質は総合職が男性、一般職が女性。そこに女性総合職という砂粒をポロポロと落としただけのようなものです。90年代後半から2000年代にかけてようやく、一般職という言葉もなくなってきました。女性も基幹的な仕事をするようになり、仕事の能力に男女差がないことが証明されて、昔のように「女性だから補助的な仕事」という制限もなくなってきました。
 
今の多くの女性は、仕事と家庭の両立に悩んでいますね。
 
 女性が基幹的な仕事をするようになると、それまで男性がやってきたような無限定な働き方では当然やりにくい。仕事の内容そのものよりも、やり方がいま問題化してきているのでしょう。
 
「同一労働同一賃金」のまやかし
 
非正規の仕事しかなく、生活が苦しいという問題もメディアを賑わせています。
 
 非正規は会社のメンバーシップから外れている存在。必要な職務に応じて採用され、それがなくなれば雇止めとなってしまいます。しかし、昔は主婦と学生のアルバイトが中心で家計を担う存在ではないため、問題視されませんでした。今は、家計を担わなければならない人も非正規の枠に押し出されてしまっています。
 
「同一労働同一賃金」が進められていますが、これが導入されれば是正されるのでしょうか。
 
 「同一労働同一賃金」という概念は、「この仕事にいくら出す」という、ヨーロッパのようなジョブ型の雇用社会だから成り立つものです。日本はそもそもそういう雇用システムではないため、根本が違います。それをイメージで議論してしまっていて、結局誰も本質的な議論をしていません。
「非正規だから生活できない」というのは、複合的な問題を抱えています。家計を担わなければならない人が、家計補助を前提とした賃金体系で働かざるを得ず、困窮してしまう。この一つの問題としては、労働に対する賃金の客観的な指標がないこと、もう一つの問題として、仕事をする人には生活をしていけるだけの賃金が払われなければいけないという正義が欠落しているということ。その両方を解決しなければなりません。雇用システムをメンバーシップ型からジョブ型に変えれば解決するという問題ではないのです。ジョブ型の欧米でも、“ジョブ型だから”生活がなりたっているというわけではありません。最低賃金が生活できるレベルになるよう組合で交渉しています。
 
 
中高年サラリーマンがつらい
 
中高年のリストラも話題になりました。
 
 働く人の全体の中ではやはり、中高年が厳しい環境に置かれていますね。90年代以降に成果主義がかなり導入されて、それまでのようなよい処遇が得られなくなってきました。全般的には雇用の安定は守られていますが、昔のように毎年必ず給料が上がっていくわけでもありません。
 日本型雇用システムの中では、社員が若いときは会社の持ち出しですが、その後仕事ができるようになって年功序列の低い立場にいる段階になれば会社にメリットが出てきます。でもある段階以上になると、また逆転して会社の持ち出しになってしまう。そこの部分を成果主義にして、減らそうとしているわけです。
 
子どもの教育費などもかかる時期で、家族を養っている人たちは大変です。
 
 企業行動の変化がいまの教育問題にも影響してしまっています。一世代前は、大学生のアルバイトといえば遊ぶお金を稼ぐためでしたが、今は学費を稼ぐためという理由が主流です。奨学金を前提にしなければ進学できないとか、大学生がブラックバイトで疲弊するといった社会問題は、親世代である中高年の処遇が下がってきたことのインパクトが現れていると言えます。雇用システムが社会に及ぼす影響は大きいのです。
 
いまの若い人も同じ道をたどってしまうのでは。
 
 社員の入り口も育て方もこれまでと一緒では、また同じことになってしまう可能性が高いですね。日本の企業は、明確な未来の青写真がないまま動いているように思います。若者の育て方、動かし方は何十年来の歴史と伝統がありますから、どうしてもそのやり方で動いて行ってしまう。システムを変えてそこを何とかするには、ものすごくコストがかかります。ただでさえ企業間の競争が激しい中でそこにコストをかけていけるかというと、難しいでしょう。
 
メンバーシップに入っていない人々はどこにいる?
 
ところで、メンバーシップ型雇用と関係ない会社や個人事業は、やはり少数派なのでしょうか。
 
 これも大切なことなんですが、日本型システムというように「型」がわざわざついているものは、実は首尾一貫して日本社会のなかでは少数派なんです。影響力の強い大企業分野、かつての製造業とか今はサービス業などが日本型だからそう言われるんですね。中小企業で日本型じゃないところはたくさんあるし、高度経済成長期だって、数からいえば、実は日本型じゃない働き方の方が多かったんじゃないかと思います。
 
日本型雇用のサラリーマンでないと、どうしてもマイノリティに感じてしまいます。
 
 言論の世界に住んでいる人、つまり、こういった問題の議論を担っている人が日本型雇用の世界に住んでいるので、過大代表的になっているのだと思います。マスコミ、役所、裁判官、そしてカウンター・エリート的な立場にいる労働組合もそういうシステムの中にいますから。おそらくどんな時代をとっても、日本的でない働き方の人の方が数的には常にマジョリティだったんだと思いますよ。

 

三種の神器を統べるもの@『Works』87号(2008年04月)

Works 今ごろになってまたも終身雇用がどうたらこうたらという議論が燃え上がっているようですが、特に目新しいネタもほとんどなく、改めて書くだけの意欲も湧かないので、今から11年前にリクルートの『Works』という雑誌のインタビューで喋った内容がほぼ今でもそのまま使えそうなので、お蔵出ししておきます。

ちなみに、この『Works』87号、荻野進介さんが主導して「三種の神器とは何だったのか」という大特集を組み、こういうそうそうたるメンツで日本型雇用システムについて論じています。このうち、私のインタビュー記事は32ページから34ページにかけて載っています。

はじめに 50年後の総括を
荻野進介(本誌)

第1章 鏡・曲玉・剣の本質と生成過程
終身雇用
日本は終身雇用の国ではない/野村正實氏(東北大学大学院経済学研究科教授)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
終身雇用とは「組織との一体化」である/加護野忠男氏(神戸大学大学院経営学研究科教授)

年功序列
選抜の時期が遅いから年功に見える/小池和男氏(法政大学名誉教授)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
実務家の眼(1) 日経連『能力主義管理』が目指したもの/山田雄一氏(明治大学名誉教授)
年功システムは敗戦とともに消滅した/楠田 丘氏(社会経済生産性本部 雇用システム研究センター所長)

企業別組合
GHQが企業別組合を促進した/竹前榮治氏(東京経済大学名誉教授)
実務家の眼(2) 企業別の強みを生かしつつ企業外へも目配りを/團野久茂氏(連合 副事務局長)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
戦後の労働組合は企業内組織である/二村一夫氏(法政大学名誉教授)

第2章 雇用システムとしての三種の神器
三種の神器を統べるもの/濱口桂一郎氏(政策研究大学院大学教授)
雇用システムの日米独比較/宮本光晴氏(専修大学経済学部教授)
メンバーシップを基本に人事を考える/(本誌編集部)
日本企業 持続的成長の条件/川田弓子氏(リクルートマネジメントソリューションズ 組織行動研究所 主任研究員)
コラム 企業とは内部共同体かつ社会の公器である/野中郁次郎氏(一橋大学名誉教授)

ちょうど去る5月1日に新天皇が即位し、三種の神器の継承が行われたところでもあるので、神器つながりで三種の神器の話から始まります。

日本的雇用の根幹に位置するものが三種の神器だ、とよく言われる。しかし考えてみれば、神器とはそれを管理する
天皇がいてこそ、成り立つものだ。鏡や剣だけがあっても、それを統べる人がいなければ神器にはならない。
では、日本的雇用における天皇とは何なのか。それはメンバーシップ契約だ、というのが濱口桂一郎氏の論である。 

 日本型雇用システムの中核にあるのが「三種の神器」であるとよく言われますが、終身雇用、年功制といった“神器”そのものを詳しく見ても、本質はわかりません。問題は、その背後にいる“天皇”は誰か、ということです。私は、労働者と企業との雇用契約が欧米のようなジョブ(職務)に基づく契約ではなくて、メンバーシップ(構成員)契約であるところに、日本の雇用の本質(=天皇)があると考えます。

雇用契約とは労務と報酬の交換契約です。民法にもそう書いてありますが、日本企業の、特に正社員の場合は違います。雇用契約そのものに具体的な職務は定められておらず、その都度、書き込まれる空白の石版(blank slate)なのであり、そこから、雇用=会社という組織の構成員になること、という日本独特のシステムが導かれます。それを象徴的に表わしているのが「内定」です。雇用契約はあるものの、労務の提供も報酬の支払いもない状態ですが、他のどの国にもない制度です。

労働とは労務と報酬の交換である、と決めたのは古代ローマ法です。そこでは賃貸借と請負と雇用は、同じラテン語で「locatio conductio」といいます。これは中国でも同様で、賃という字で表わします。広範な市場が存在した古代文明の世界で一般的な言葉といえるでしょう。

世界には労働契約のもうひとつの考え方がゲルマンにありました。忠勤契約といわれ、主君と家臣の間の契約ですね。実はこれが日本にもありました。奉公です。面白いのは、ゲルマンでも日本でも主君と家臣の間の契約が徐々に民間にも拡大したことです。主君に仕えるのが奉公だったのに、伊勢屋や越後屋といった商家で働く行為も奉公になっていった。日本のメンバーシップ契約の源泉はこの奉公契約にあるのです。

副産物としての三種の神器

「三種の神器」も、雇用がメンバー契約であることから生まれた副産物なのです。まず終身雇用ですが、これは長期雇用と言ったほうがより実態を表わしています。日本企業では雇用契約で職務が決まっていないのですから、ある職務がなくなっても、別の職務で人が足りなければ、その人は異動して雇用を維持することができます。異動の可能性がある限り、解雇が正当化される理由はありません。長期雇用とはメンバーシップの維持を最優先し、解雇をできるだけ避ける行動様式なのです。

 またメンバーシップ契約のもとでは、賃金が職務に応じて支払われるわけではありません。しかし何らかの客観的基準は必要だ、ということで選ばれたのが年功、つまり勤続年数や年齢だったのです。ここから年功賃金制度の存在意義が導き出されます。

もし職務に応じて労働条件が決まる日本以外の社会だったら、労働者と使用者の交渉も職務ごとに行うのが理屈にあっています。同じ職務につく限り、企業によって条件が同じであるのが望ましいので、団体交渉は企業の枠を超え産業別になるでしょう。ところが日本では職務が決まっていないのですから、職務ごとの交渉は不可能です。賃金の決め方も職務ではなく年功ですから、企業の枠を超えて交渉しても意味がありません。よって、組合は企業別であるのが合理的になるのです。

日本の労働組合の最大の特徴はホワイトカラーとブルーカラーが同じ組合に入っていることです。これもメンバーシップ制の所産でしょう。賃金制度の面でもそうで、どちらも月給制です。しかも、ホワイトカラーも残業代が時給換算で出ますから、正確に言えば時給制に基づく月給制です。アメリカの場合は、ブルーカラーは時給制で週単位の支払い、ホワイトカラーは残業代がなく、純粋な月給制。そういう意味で、日本においてアメリカのブルーカラーと同じ待遇なのが非正規の世界です。

 ここまでお話するとお分かりかと思いますが、日本の場合、正社員はメンバーシップ契約ですが、非正規社員は欧米型のジョブ契約です。三種の神器が通用する世界と通用しない世界があるんです。

戦時中に確立したメンバーシップ雇用

こういう日本独特の契約の世界はいつ生まれたのでしょうか。そもそも明治時代の日本は非常に流動性の高い社会で、メンバーシップ契約は、ごく一部を除いて存在しませんでした。当然、いくつかの段階を経て生じてきたわけですが、ひとつ目のステップは第一次大戦の直後でした。当時、激しい労働争議がいくつも起こり、それに対応するため、大企業が学校を卒業したばかりの優秀な若者を雇い入れ、手塩にかけて子飼いの職工として養成することにしたのです。賃金は年功的で、不満があれば社内に設けた工場委員会で解決するから、外の組合なんかに入るな、転職もするな、とやったわけです。これがメンバーシップの原型ですが、対象はごく限られた人たちでした。

 ふたつ目は戦時中です。厚生省の労働局主導で、従業員雇入制限令(1939年)、従業員移動防止令(1940年)、労務調整令(1942年)などを制定して労働者の移動を防止し、企業も勝手な採用や退職、あるいは解雇をさせないようにしました。

また賃金統制令(1939年および1940年)で、初任給や定期昇給の額を細かく決め、最終的には地域別、業種別、男女別、年齢階層別に細かいマトリックスを作って指導したのです。それは皇国の産業戦士の生活を保障するという名目の年功賃金でした。さらに産業報告会という労使懇談会も企業ごとに作らせた。このように、戦時中、メンバーシップ型の仕組みが国家主導で大きく拡大したのです。

 ところが敗戦となって、アメリカ軍がやってきました。どう考えても、別のシステムに置き換わるはずですが、そうはならなかったのです。GHQにできた労働諮問委員会の委員や世界労連の代表らが異口同音に「年功賃金はおかしいから、やめて職務給にしなさい」と言ったんですが、政府はともかく、当時の組合代表がうんと言わなかった。「賃金とは生活を支える原資だ。だから、労働者の年齢と、扶養家族の数に基づいて決めるのが正しい」と主張し、できたのが電産型賃金体系だったのです。

この電産の初代書記長が、後に民社党の委員長にもなった佐々木良作という人で、戦時中は電力会社の人事にいました。つまり、長期雇用や年功制、労使協議システムなど、戦時中に国家主導で作られたメンバーシップ体制を先導した人が、敗戦を境に、今度は組合という立場から同じ路線を推し進めたのです。

大勢が捏ねて作った日本型雇用システム

 終戦直後は、労働組合が経営者に代わって生産活動を行い、生産業務を自主的に管理する、いわゆる生産管理闘争が頻繁におこり、労働条件だけでなく、人事や経理、さらに経営全般にわたって労使協議の対象とする経営協議会といった組織も雨後の筍のように生まれた。組合の力が非常に強く、経営側が押されていた時期でした。

経営側が主導権を取り戻そうと巻き返しを図ったのが1950年代です。この時期、トヨタ、東芝、日産など、大企業を中心に大規模な解雇反対闘争が起きており、その多くは企業側が勝っています。その結果、それまでの組合のリーダーが軒並み追い出され、今度は会社と協調路線を取る組合が生まれた。いわゆる第二組合で、労働運動の主導権が穏健派に移行しました。

彼らと経営者の間で、過激な組合指導者は別として、一般の労働者に対しては手厚い手当てを支給したうえで退職してもらうという合意が成り立ち、争議は終息に向かいます。これ以後、労働力の削減が必要な時も、企業は一方的な解雇は行わない、希望退職を募るのが原則となりました。裁判所も判例の積み重ねによって、これを認め、法的なレベルでも長期雇用がシステムとして確立されたのです。

こうやって最終的に成立した日本型雇用システムは、戦前期の経営側の意図、戦時期の官僚の理想、終戦直後の労働側の要求、その後の経営側の軌道修正など、さまざまな要素が有機的に組み合わさった精妙なシステムであり、さながら「織田が搗き羽柴が捏ねし天下餅、座して食らふは家康か」というざれ歌を髣髴とさせ、簡単に捨て去ることはできないと見るべきです。

非正規社員と女性社員の問題

ではこのシステムのまま、これからもずっと行くのでしょうか。メンバーシップに入った人と入れない人がいることはお話しました。全員がメンバーだったら、あまりに非効率です。非メンバーの人たちは、経営のフレキシビリティを担保しているクッション人材なわけです。

1950年代当時、臨時工と呼ばれた人がいました。今でいう非正規労働者です。本工と同じ仕事をするけれど、いつ解雇されるかはわからず、組合にも入れてもらえない人たちでした。「これは差別だ、みんな本工にすべきだ」という議論もあったのですが、企業もクッションがなくなると困るので、なかなか実現しませんでした。

この問題を解決した要因が3つありました。ひとつは高度成長です。圧倒的な人手不足が起こり、臨時工募集では誰も来なくなって、本工がどんどん増えていったのです。もうひとつは主婦パートです。好景気も手伝って、主婦が働きに出たわけですね。さらに進学率が高まる中で、学生アルバイトという存在が出てきた。主婦は家庭、学生は学校というメンバーシップの一員ですから、彼らは企業におけるメンバーシップの埒外に置かれても何ら問題ない人たちでした。まさに需要と供給が一致したわけです。

 ところが90年代以降のデフレ不況の過程で、本来ならばメンバーシップの一員になるべき人が、なれなくなってきた。フリーターや就職氷河期世代ですね。高度成長期の臨時工と同じ存在ですから、この人たちを救うには正社員に組み込めばすむのがてっとり早い解決法です。ところが1950年代はそれでよかったのですが、もうひとつの問題が出てきたのです。従来のシステムは男女の間で社会的役割を分けることで成り立っていたのですが、社会が成熟し、男は会社、女は家庭を守ればいい、という風には行かなくなったのです。実は先ほど意識的に取り上げなかったのですが、かつても女性の正社員という人たちがいました。彼女たちは短期のメンバーシップ契約だったのです。20代半ばで結婚退職するのが普通で、そうでない人は男性に比べた昇進差別や賃金差別が容赦なく行われた。つまり、日本企業の雇用体系は、長期メンバーシップ型で三種の神器があてはまる男性正社員、短期型で部分的にあてはまる女性正社員、全然あてはまらない、ジョブ型の非正規社員という3要素で成り立っていたのですね。それが具合が悪くなってきたのが今です。

メンバーシップに濃淡をつけよ

これからどうすればいいのか、というと、華々しい解決策があるわけではありません。欧米型の職務給に移行というのはかなり難しい。メンバーシップ型雇用にはさまざまな利点があるからです。労働者側からすれば、長期的な雇用が保証されていれば生活設計が楽になって安心感が高まる。企業側も、メンバーシップ制をとっているがゆえに、突発的な事態が起こっても柔軟に対応してくれる労働者がいるから安心できる。

といっても、今までのように、メンバーシップの人とそれがまったくない人とを完全に分けてやっていくのは難しいと思います。それに対する解決法は、転勤なしの正社員とか、メンバーシップの度合いを変えた人をいくつか作るしかない。今までの正社員モデルは、社員は会社にだけ大きなメンバーシップがあって、それ以外にはなかった。家庭へのメンバーシップがゼロの人は「会社人間」と呼ばれました。さすがにそれでは無理です。男性も地域や自社以外の企業社会でも、いろいろなメンバーシップをもつべき時代です。ゼロか百かのメンバーシップではなく、その間で濃淡をつけていかざるを得ないでしょう。

 

2019年5月18日 (土)

教員の多忙化問題@『法学セミナー』6月号

08044 主として学生向けの法律雑誌である『法学セミナー』6月号が、何を思ってか「教員の多忙化問題ーー働き方改革のゆくえ」という特集を組んでいます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html

教職員の『多忙化』をめぐる法的問題 ーー給特法の法構造問題を中心に……高橋 哲

[座談会]教職員の多忙化問題ーー法学と教育学から考える……石井拓児、内田 良、高橋 哲、堀口悟郎

中教審『答申』をどう読むか……萬井隆令 ーー「労働」の意義の分析を欠く、“底の抜けた樽”

『ジュリスト』や『法律時報』でもやっていないのに、『法学セミナー』でこの問題を取り上げた決断にまずは敬意を表したいですね。

この問題、原則の労働基準法を地方公務員法がねじれさせているのを、さらに給特法がねじれさせているという複雑な構造をしているんですが、高橋さんの論考も、内田さんらの座談会も、そのわけわかめになりそうな構造を見事に解説しています。

この問題については、わたしも今年2月に『労基旬報』でちょびっと論じてみたのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019225-de99.html (「公立学校教師の労働時間規制」@『労基旬報』2019年2月25日号)

この中でも、労使対等原則に基づく規定は片っ端から否定しているくせになぜか労働基準法第36条は適用除外されていないということは指摘をしています。

そして、いわゆる超勤4項目に該当しない(「自発的」ということになっているけれども、実際にはやらざるを得ない)時間外業務については、読み替えの読み替えによる第33条第3項ではなくて、原則に戻って第36条による労使協定が必要になるはずというのは、法律を厳密に読めばそうなると思います。ただ、給特法によって読み替えられた地方公務員法によって第37条は丸ごと適用除外されてしまっているので、厳密には36協定を締結しなければならないけれども、それによる時間外勤務に残業代を払う必要はないということになるように思われます。

この点、萬井さんの論文では、

・・・給特法に関して言えば、37条の適用除外は、限定4項目に係る超勤を想定したもので、通常業務に係る36協定による超勤まで含むものではない。・・・

という(憲法27条から降りてくる)解釈をしているのですが、これはやはり読み替えられた明文の実定法規定に反していると思います。残念ながら、給特法の条文上、4項目以外に現実に労働基準法上の明らかな時間外労働があった場合については確かに法律の穴が開いていて(だから「自発的」というインチキを言い募らなければならなくなる)、法律上適用除外されていない第36条を使わないとその穴がふさがらないのですが、37条の適用除外は(たまたま同じ法改正で導入されたとはいえ)法文上その4項目に限定する形で規定されていないので、36協定による4項目以外の時間外労働でも、37条の適用はないとしか言いようがないでしょう。そこは「法律が欠けつしている場合」ですらないように思います。

 

労働時間毎日把握義務@EU司法裁判所

EU司法裁判所が去る5月14日に、労働時間指令と労働安全衛生指令の解釈として、使用者は実労働時間を毎日把握しなければならない義務があるという判決を下したようです。

判決文自体はこちら:

http://curia.europa.eu/juris/document/document.jsf;jsessionid=D6C917E0219967825FA962C56FAE7624?text=&docid=214043&pageIndex=0&doclang=en&mode=lst&dir=&occ=first&part=1&cid=4097884

新聞発表資料はこちらです。

https://curia.europa.eu/jcms/upload/docs/application/pdf/2019-05/cp190061en.pdf

これ、原告はスペインの労働組合のCCOO、被告はドイツ銀行。

スペインの労働法では、使用者は毎日の実労働時間を毎日把握する必要はなく、月単位で時間外労働時間を把握すればよいとされているのですが、それはEU指令に違反すると。

Articles 3, 5 and 6 of Directive 2003/88/EC of the European Parliament and of the Council of 4 November 2003 concerning certain aspects of the organisation of working time, read in the light of Article 31(2) of the Charter of Fundamental Rights of the European Union, and Article 4(1), Article 11(3) and Article 16(3) of Council Directive 89/391/EEC of 12 June 1989 on the introduction of measures to encourage improvements in the safety and health of workers at work, must be interpreted as precluding a law of a Member State that, according to the interpretation given to it in national case-law, does not require employers to set up a system enabling the duration of time worked each day by each worker to be measured.

EU労働時間指令第3,5,6条と労働安全衛生指令第4条第1項、第11条第3項、第16条第3項は、国内判例法による解釈に従い使用者に各労働者が毎日労働した時間の長さを測定することを可能にする仕組みを設けることを要求しない加盟国の法律を排除すると解釈されなければならない。

判決文に引用されたスペイン法の条文(の英訳)を見ると、正確には使用者は毎日の労働時間を把握しなければならないけれども、労働者にはい単位で時間外労働の時間数だけ伝えればよいということのようですが、とにかく毎日何時間労働したかが確定しないまま1か月が過ぎるという状況のようです。

で、それはEU指令違反だと。EU法は労働者の安全衛生を目的として、1日単位の休息時間、1週単位の休日と最長労働時間を定めているので、それが守られているかどうかを1か月単位ではだめだということですね。日本では労働時間と言えば残業代と見込む人が多いですが、残業代の話では全然ありませんので、その点は誤解なきよう。

 

 

 

2019年5月17日 (金)

日本労働法学会誌132号『労働法と知的財産法の交錯』

Isbn9784589040145 日本労働法学会誌132号『労働法と知的財産法の交錯』が届きました。昨年10月に早稲田大学で開かれた大会の記録が主です。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04014-5

改めて、ワークショップでも個別報告でもフランスの労働法改革が取り上げられていますね。

さて、巻末に今年の大会の案内が載っています。

10月19日,20日に立命館大学で、と書いてありますが、さて、この立命館大学というのはどこの立命館なのかさっぱりわかりませんね。滋賀県の草津なのか大阪の茨木なのか、京都の衣笠ではなさそうですが。

大シンポは「労働契約における規範形成の在り方と展望」ですが、昨年から始まったワークショップが7本並んでいます。

その中の「労働法学は労働法の歴史から何を学ぶか?」(提案者:石田眞)というワークショップでは、わたくしと石井保雄さんが報告をする予定です。

 

2019年5月15日 (水)

70歳までの就業機会確保@未来投資会議

本日の未来投資会議で、70歳までの就業機会確保の方向性が示されました。

この資料「高齢者雇用促進及び中途採用・経験者採用の促進」の重要なポイントを見ていくと、

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai27/siryou1.pdf

○ 人生100年時代を迎え、働く意欲がある高齢者がその能力を十分に発揮できるよう、高齢者の活躍の場を整備することが必要。
○ 高齢者の雇用・就業機会を確保していくには70歳までの就業機会の確保を図りつつ、65歳までと異なり、それぞれの高齢者の 特性に応じた活躍のため、とりうる選択肢を広げる必要がある。
○ このため、65歳から70歳までの就業機会確保については、多様な選択肢を法制度上許容し、当該企業としてはそのうちどのよ うな選択肢を用意するか労使で話し合う仕組み、また、当該個人にどの選択肢を適用するか、企業が当該個人と相談し、選択 ができるような仕組みを検討する必要がある。
○ 法制度上許容する選択肢のイメージは、
① 定年廃止 ② 70歳までの定年延長 ③ 継続雇用制度導入(現行65歳までの制度と同様、子会社・関連会社での継続雇用を含む) ④ 他の企業(子会社・関連会社以外の企業)への再就職の実現 ⑤ 個人とのフリーランス契約への資金提供 ⑥ 個人の起業支援 ⑦ 個人の社会貢献活動参加への資金提供
が想定しうる。
○ 企業は①から⑦の中から当該企業で採用するものを労使で話し合う。

70歳までの就業形態の選択肢はかなり広がります。65歳までの原則企業内継続雇用というのではとても回らないだろうという声は強く、実は、④の再就職援助や⑤の個人請負支援は想定していました。私も『生産性新聞』2019年3月15日号のインタビュー記事では、こう述べています。

・・・今後の高齢者雇用については、継続雇用や定年延長といった内部市場型による現政策の延長線上だけではなく、外部労働市場にも重点を置く必要がある。この一環として、再就職援助措置を雇用確保措置と一体化して義務化することも検討されてよい。外部労働市場という企業の枠を超えた雇用機会の提供は、高齢者と企業のマッチングを促進することもつながる。さらには今後、デジタル型非雇用就業(個人請負等)による就業機会拡大の可能性も視野に入ってくる。・・・

ただ、⑦の社会貢献活動というのはここでいう就業機会というのとはちょっと性格が違うような気がします。

さらに、法制度の進め方として二段階方式を提示しています。

○ また、70歳までの就業機会の確保を円滑に進めるためには、法制についても、二段階に分けて、まず、第一段階の法制の整 備を図ることが適切である。
○ 第一段階の法制については、
① 法制度上、上記の①~⑦といった選択肢を明示した上で、70歳までの雇用確保の努力規定とする。 ② 必要があると認める場合は、厚生労働大臣が、事業主に対して、個社労使で計画を策定するよう求め、計画策定につい ては履行確保を求める。
○ その上で、第一段階の雇用確保の実態の進捗を踏まえて、第二段階として、多様な選択肢のいずれかについて、現行法のよう な企業名公表による担保(いわゆる義務化)のための法改正を検討する。
この際は、かつての立法例のように、健康状態が良くない、出勤率が低いなどで労使が合意した場合について、適用除外規定 を設けることについて検討する必要がある。
○ 混乱が生じないよう、65歳(現在63歳。2025年に施行完了予定)までの現行法制度は、改正を検討しないこととする。
○ 70歳までの就業機会の確保に伴い、年金支給開始年齢の引上げは行わない。他方、年金受給開始年齢を自分で選択できる 範囲(現在は70歳まで選択可)は拡大する。
○ 手続き的には、今夏の工程表付きの実行計画に上記方針を盛り込む。さらに、労働政策審議会における審議を経て、2020年の 通常国会において、第一段階の法案提出を目指す。

第一段階は努力義務で第二段階は法的義務というのはこれまでの60歳定年や65歳継続雇用と同じなんですが、その中にちょっと意味がとりかねる部分がありました。「企業名公表による担保(いわゆる義務化)」というところです。いや、企業名公表は努力義務段階の間接強制手段であって義務化とは違うはずですが。義務化の際にまたぞろ労使協定による適用除外制度を持ち込もうというのも、そろそろ労使協定自体の見直しが必要でしょう。

 

 

 

 

 

 

岸健二編『業界と職種がわかる本 ’21年版』

10021_1557813543 岸健二編『業界と職種がわかる本 ’21年版』(成美堂出版)をお送りいただきました。毎年ありがとうございます。

これから就職活動をする学生のために、複雑な業界や職種を11業種・8職種にまとめて、業界の現状、仕事内容など詳しい情報を掲載し、具体的にどのような就職活動が効果的か紹介。
最新の採用動向をデータとともに掲載。
自分に合った業界・職種を見つけ就職活動に臨む準備ができる。

例によって、編者の岸健二さんの最近のエッセイを、労働調査会のコラムから:

https://www.chosakai.co.jp/information/alacarte/22563/ (海外人材のことで余り触れられていない視点)

・・・・次にもう一つ、今「人手不足」と言われていても、自動化などのIT技術の進歩によってあっというまに変化してしまう「仕事の需給」の検証という見方が必要ではないか、という視点です。
 コンビニエンスストア業界の人手不足による、24時間営業の見直しの報道もよく目にします。実際コンビニエンスストア利用しても、アジアの各国から来日していると思われる若い人材の方がレジを操作している場面をよく見るようになっています。こちらは今回の入管法改正の「特定技能」や従来からの「技能実習」ではなく、日本語学校への留学生の「資格外活動許可」による「原則週28時間」のアルバイト就労によるものだそうです。
 しかし筆者の近所でも「無人レジ」「セルフレジ」が登場し始めています。これが(たぶんあっという間に)普及した時、「いいアルバイトもできる留学」として、留学を勧めている国や機関は、どのようなアルバイト仕事を自国の若者に紹介しようということになるのでしょうか。
 今「人手不足業界」とされている、今回の「特定技能」在留資格による就労可能な「産業分野」の「業務」が、ロボット技術の進歩、AI導入の促進によって生産性が向上し、省人力化の波が押し寄せたとき、「じゃあ母国に帰ってください。」とは、そう簡単に言えないことが、過去の日本人移民の歴史からも汲み取れるのではないでしょうか。

外国人労働問題については、将来人手不足でなくなったときにどうするの?という話についてきちんとした議論がされていないままですが、岸さんは的確に指摘しておられます

 

 

 

 

 

2019年5月14日 (火)

被用者社会保険の適用拡大問題 @WEB労政時報

WEB労政時報に「被用者社会保険の適用拡大問題」を寄稿しました。先日、第3号被保険者問題に絡んで若干紹介した話ですが、最近の動向についても触れています。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/article.php?entry_no=76032

 昨年12月から、厚生労働省の年金局と保険局により「働き方の多様化を踏まえた社会保険の対応に関する懇談会」が開催されています。厚生年金と健康保険という被用者社会保険の適用の在り方が論点の中心であり、そこで問題になっているのは第一には短時間労働者ですが、兼業・副業や雇用類似の働き方も論点に含まれているとなると、労働政策の観点からも関心を向けざるを得ません。このため、懇談会の構成員には、海老原嗣生、平田未緒、山田久といった雇用問題の専門家も加わっています。
 ただ、現在まで5回開催されていますが、関係団体からのヒアリングが続けられている段階で、何か方向性が示されているわけではありません。そこで今回は、この懇談会開催に至る被用者社会保険の適用拡大問題の経緯をざっと概観しておきたいと思います。
 
 まず、すでに2012年改正と2016年改正で一部拡大が図られている短時間労働者についてです。実は、もともと・・・・

 

2019年5月13日 (月)

梅崎修・田澤実・佐藤一磨編著『学生と企業のマッチング』

9784588686092_0 梅崎修・田澤実・佐藤一磨編著『学生と企業のマッチング』(法政大学出版局)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-68609-2.html

労働市場や就活スケジュールが変転し、働き方や将来ビジョンも不透明化し続けたこの10年を扱う総合的実証研究。学生の地域移動や女性のキャリア展望、インターンシップなど個別のテーマの分析とともに、大学入学から就職活動をへて離職・転職にいたる学生側の意識の変化や、企業側の採用行動などをアンケートをもとに検証し、就活市場の実態を明らかにする。『大学生の内定獲得』の姉妹編。

全10章からなる本書のうち、私が大変興味深く読んだのは、この2章です。いずれも、小林徹さんの執筆になります。

第8章 早期離職者はどこに転職したのか?
 1 問題の所在
 2 先行研究
 3 データ・分析手法
 4 分析結果
 5 分析の整理と拡張
 6 結論

第9章 企業は学生にどのような能力を求めているのか?
 1 問題の所在
 2 なぜ能力要請が変化したのか
 3 先行研究
 4 集計による特徴把握
 5 データと分析手法
 6 分析結果
 7 結論

第8章では、業種と規模で、「伝統的な日本型雇用システム」「門戸開放・使い切り型」「ふるい落とし選抜型」の3類型を析出し、後2者の拡大がブラック企業と呼ばれる現象の背景にあると説明します。191頁から195頁あたりの小林さんの叙述はとても明晰で引きつけられます。

次の第9章のキーワードはポ近能、ポスト近代的能力ですが、やはり業種や規模によって求められる能力が異なる姿が明らかになっています。

 

 

 

2019年5月10日 (金)

日本型労働組合を考えるヒント(藤林敬三『労使関係と労使協議制』)

なんだか、ネット上で時ならぬ労働組合論ブームが巻き起こっているようです。と言ってもその主たる土俵ははてなダイアリー(いわゆる増田)で、それに対する反論を地下猫さんが書いているという状況です。

https://anond.hatelabo.jp/20190504184608 (労働組合はもっと他にやることがあるだろ )

https://anond.hatelabo.jp/20190507164856 (労組の件、左翼は案の定会話不能状態)

https://tikani-nemuru-m.hatenablog.com/entry/2019/05/09/021622 (なぜ労組は政治活動をしなくてはならないのか)

この議論そのものはややつまらない政治対立図式にはめ込まれやすい構図になってしまっているのであえて加わるつもりはありませんが、日本の労働組合というものがなぜ(1950年代まで、遅くとも1970年代まではは激しく)政治活動をやっていたのかという歴史的事態の解明のためには、もう少し日本の労働社会の実相に分け入った観察と分析が必要でしょう。

1 実は、ニッチモの『HRmics』32号に、原典回帰として藤林敬三『労使関係と労使協議制』を取り上げており、この本が上で議論になっている論点について、いささか、あるいはむしろかなりの洞察を与えてくれるように思われますので、ここでその全文を載せておこうと思います。

 「原典回帰」連載11回目にして、ようやく日本の古典の登場です。実を言うと、日本の労使関係に関する古典的な著作というのはかなりあるのですが、諸外国と比べた日本の労働社会の特徴を本当の意味で浮き彫りにするようなものはそれほどないのです。その中で、今ではほぼ完全に忘れられた本ですが、日本の労使関係の本質を深く省察した名著として挙げられるのが、半世紀以上前の1963年9月に出版された藤林敬三の『労使関係と労使協議制』です。
 藤林は戦前から活躍した労働経済学者ですが、戦後は神奈川地労委、そして長らく中労委の委員を務め、最後は中労委会長として1962年に亡くなり、その遺稿をまとめたのが本書です。同書の巻末には藤林が取り扱った膨大な数の争議事件が並んでいます。それだけのあっせん、調停、仲裁を通じて、日本の労使関係の本質というものを徹底して考え抜き、その精髄を本書に注ぎ込んだといってよいでしょう。
 本書の冒頭で、藤林は「労使関係は本来二元的関係である」といいます。そしてそのことが必ずしも明確に指摘されてきていない点に問題があるというのです。二元的関係とはどういうことなのでしょうか。藤林はILO第94号(労使協力)勧告を引いて、労使関係には団体交渉によって維持される関係と労使協議によって維持される関係があると説きます。ILOでは後に135号(労働者代表)条約が制定され、EU諸国では様々な従業員代表制が立法されていることを考えると、これは国際的な観点からは自然な考え方と言えます。
 藤林はこの二つの関係を第一次関係と第二次関係と呼びます。「私のいう第一次関係というのは、いいかえれば経営対従業員関係を意味し、第二次関係というのは経営対組合関係を意味している。そしてこの第一次関係と第二次関係をさらに別の見方からすれば、第一次関係すなわち経営対従業員関係は、元来が労使の親和、友好、協力の関係である。これに対して第二次関係すなわち経営対組合関係は、もともと賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象としている。これらの労働諸条件の維持・改善を中心にして考えれば、労使は明らかにここで利害が対立している。したがって労使の利害対立、時には労使が相争う関係がここで考えられなければならない。このように第一次関係、第二次関係を区別してみると、この二つの関係は性格上全く相異なるものであるといわなければならない。」(p8)
 「この第一次関係と第二次関係との性格上相異なる二元的な関係が、具体的には個々の企業の労使関係の中において、ときには明確に区別され分離された上で、労使関係が安定している場合もある。あるいは、この二つの関係が明確に区別され分離されることなく、からみ合って不分離の状態で存在している場合には、その労使関係は、ときに非常な曖昧模糊たる状態であり、また非常に矛盾した複雑微妙な関係を示すような状態である」(p9)というのが、藤林の洞察です。
 半世紀以上前の日本はまだまだ集団的労使紛争が多く起こっていた時代です。それに対して今日の日本は、いわゆる駆け込み訴えのようなものを除けば、純粋な意味での集団的労使紛争はほとんど跡を絶ってしまったような状態です。しかし、その両者を統一的に説明する原理として、この藤林の二元的関係論ほど有用なものはないように思われます。彼が曖昧模糊とか複雑微妙と評した当時の労使関係の姿を見てみましょう。
 当時も現在も、日本の労働組合の圧倒的大部分は企業内組合です。「わが国の場合は、その多くがいわば特定の会社ないし事業所の従業員だけで労働組合を形成している。したがってこのような労働組合は、名は労働組合であるが、明らかに形態上は従業員組合であり、あるいは1920年代にアメリカで多く存在したカンパニー・ユニオンと同じような会社組合であるというふうにみられるふしがある。・・・こういう形態上の相違は、これを労使関係上の問題としてみると、そこにいちじるしい特徴のある問題点が明らかにされることになる。」(p19)
 ここからが藤林理論の神髄です。「わが国の労働者が特定会社の従業員として形成している労働組合と経営との関係は、それが組合である以上は、私のいう経営対組合関係、すなわち労使関係の第二次関係であるようにもみえる。しかし、その組合が従業員の組織であるという点から見ると、それは経営対従業員関係を示すようにもみえる。すなわち第一次関係がそこに存在するようにもみえる。明らかに日本に普通みられる企業ないし事業所ごとに成立している労働組合と経営との関係は、このような第一次関係と第二次関係の両面を同時に含んでいるように思われる。また事実そう考えてよろしいと思う。したがって、このような労使関係は、私のいう労使関係の第一次関係と第二次関係とが混在し、いわば癒着し、不分離状態にある。」(p19-20)
 欧米社会では、横断的な産業別組合、職能別組合が団体交渉、すなわち労使の利害対立を前提とする第二次関係を担当し、労使協議制が労使の協力を前提とする第一次関係を担当するという形で両者が明確に分離されていますが、日本ではこの第一次関係と第二次関係が混在、癒着、不分離という状態にあることを指摘し、この点に日本の労使関係の(欧米社会との)最大の違いを見いだした点に藤林の洞察があります。「日本の労使関係、ことに経営と企業内組合との関係には、争う関係か争うべからざる関係か、そのいずれともつかないような事態の存在することは、極めて明瞭」なのです
 勘違いしてはならないのは、これは日本の企業内組合をアメリカのカンパニー・ユニオンと同一視するある種の左翼的議論とは全く違うということです。「しかしそれは必ずしも経営者が意図して御用組合的に暗に組合をつくらせた結果であるのではない。従業員自ら自主的につくった労働組合が、かくのごとき存在のしかたと、このような労使関係を維持しているのである。この点をわれわれは、かなり重要視して考えていかなければならないであろう。」(p37)
 藤林理論の真骨頂は、当時まで日本の労働運動を彩っていた激しい労働争議とそれにつきものの第二組合の発生を、この第一次関係と第二次関係の混在、癒着、不分離からみごとに説明していく点にあります。その手際を鑑賞していきましょう。
 さて、当時も今も、こうした企業内労組は産業別連合体の傘下組合であり、その上部団体として(当時でいえば総評等の、現在なら連合といった)ナショナルセンターがあります。こうした上部団体は「個々の企業にとってはまさに企業の外に厳然として存在する、いわば他人的存在としての労働組合」です。こうした「上部団体の意義はどこに存在するかといえば、そのまま放置すれば労使関係の第一次関係に傾こうとする経営対企業内労組関係を、その企業内労組を外部から指導支援することによって、経営対組合関係としての第二次関係の方向に事態を押しやろうとするところに、外部の上部団体としての労働組合の存在意義がある」(p41)のですが、「もちろんこのような上部団体としての産業別連合体組織の存在は、・・・この会社・工場の経営者を喜ばせはしない」し、むしろ「この上部団体の幹部が団体交渉の当事者として現れてくることを拒否している」(p42)のです。
 ここで、個々の企業内組合があえてストライキを行おうというような場合、上部団体の強い指導支援が行われますが、そこで企業内組合の自主性がどうなるかが問題です。
 欧米であれば、「個々の会社・工場の従業員は、特定の産業別労働組合の組合員であるかぎり、その従業員の組織は全国的な産業別労働組合の支部、あるいは単なる分会として存在するに過ぎない。すなわち全国的な大労働組合の組織の一部を形成しているにすぎない。組合運動ないしその活動の表れである団体交渉などは、原則として単一組織としての産業別労働組合がこれを行い、ストライキなどの場合にはこの組合の指示に従って支部ないし分会が行動を起こすだけのこと」(p44)です。しかし日本ではそうではありません。第一次関係にウェートが置かれた企業内労使関係が、上部団体の指導を通じて、第二次関係の方向に引っ張られるという事態になるのです。「したがってこの場合の労使関係は、第一次関係と第二次関係の緊張関係であるように思われる。」(p46)そうすると何が起こるのか?
 「いうまでもなく緊張の度は、上部団体が傘下組合をより強力に指導支援することによって、ますます強く盛り上がる。また反対に、経営者の方が上部団体の指導から企業内労組を引き離そうと陰に陽に努力を払う場合、この緊張が高まることも事実である。」「こういう緊迫の度合が非常に強くなった場合に何が生ずるか。企業内労組の分裂ということが起こる。これが第二組合の発生であることは、読者もよく知っておられると思う。」(p47)この「読者」とは、もちろん、1950年代の労働争議はなやかなりしころの読者です。
 当時の数多くの激烈な労働争議が、その多くにおいて第二組合の発生という形で収束していったことは、労働運動史を紐解けばほぼすべてのページに描かれています。しかし、それらの叙述の圧倒的大部分は、第二組合を立ち上げた反革命的右派への激しい呪詛に満ちた左派の歴史家によるものか、あるいは労働運動の原則を忘れた革命的左派を批判する右派の歴史家によるものであり、そこで彼らの価値判断の基軸とされている左右の対立軸は、その企業のその職場で現に起こっていた事態を性格に描き出すどころか、それとはかけ離れたイデオロギー闘争の素材として利用するものでしかないように思います。そう、そのとき現場で起こっていたのは、藤林にいわせるとこういうことだったのです。
 「この第二組合の発生を企業内労組自体の問題として考えてみると、その企業内労組は上部団体の指示指導を受けて、労使関係の第二次関係のほうにかなり強く働いていたことの反動であると考えられる。しかしその場合、いかなる根拠、いかなる歴史的な背景で企業内労組が誕生したのか、その企業内労組が産業別上部団体の傘下組合であったとしても、ある程度の独立性・自主性をもっているはずだからであるから、その独立性・自主性の側からの判断からすると、対経営関係はむしろ第一次関係の傾向を持っていたはずである。ところが、上部団体の指導にしたがってストライキ行動にはいった場合には、第二次関係のほうに強く傾くことになる。そして、労使関係の緊迫の度が非常に強くなるにしたがって、企業内労組の一部がこの緊迫状態の中から逃れ出て、第一次関係のほうにいわば里心を持つようになって、組合が分裂し、第二組合の発生をみるのである。」(p48)
 そう、第二組合とは「従業員」としての「里心」が生み出したものだったんですね。それゆえ、藤林は「企業内組合という組織が成立しているという事情と第二組合の発生とは、もともと不可分のものであって、企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性あり、といわなければならない」といい、「左翼の組合運動家たちは、第二組合を雇主の意に従った御用組合であるといい、その第二組合をつくり出した人々を分裂主義者といい、これを非難することにはなはだしく急である」けれども、「事態はむしろ、本質的には企業内労組の成立事情にもとづくもの」(p48)だと冷静に指摘するのです。
 ここから藤林は、当時の日本の労働運動がやたらに左翼イデオロギーを振りかざす傾向のよってきたるゆえんを、これまた犀利に分析していきます。しばしその切れ味を味わってください。
 「一般的にいって、わが国の労働組合運動はきわめて政治的である。政治闘争は、わが国の労働組合運動にかなり重要な結びつきを持っている。と同時に、わが国の組合運動を推進する労働組合のすべてではないが、とかく左翼社会主義理論に指導されていることが多い。組合内において論争、たとえば組合大会などで展開されている左翼社会主義理論の論争がそれである。」「これのよしあしを論ずることは、本章における目的ではない。しかし、客観的な事態としてこれをながめてみると、このような左翼イデオロギーあるいは政治闘争的傾向が、日本の労働組合にとってどのような意義をもっているかについて、いちおう吟味しておく必要があると思う。そして率直にいって、私の理解するところでは、わが国の組合運動にこのような事態がたえず強くまつわりついているゆえんのものは、組合運動の末端が企業内労組であるからであると考えられる。」(p49)
 「すでに繰り返し述べたように、経営対企業内労組の関係は、むしろ労使関係の第一次関係に帰着するように思われる。この場合、第二次関係はごく影が薄くならざるをえないような事態にある。」「このような関係にたつ企業内労組を、第一次関係から引き離し、第二次関係の方向に引き上げていくためには、それだけに、かなり強烈な左翼理論を必要とするとも考えられる。わが国の組合運動に、必要以上に左翼理論、イデオロギーが横行しているゆえんのものは、まさにこの点に関連しているのではないかと私には思われる。」「政治闘争の場合もやはり同様である。卑近な例では、革新政党の支持をめぐる問題がある。民社党を支持するか、社会党を支持するか、共産党を支持するかという論議が、組合員間にかなり熱心に行われる。これは直接間接に組合員をして、労使関係における第一次関係の中に眠ってしまわないようにさせるという点において十分な意義があるものと考えてよい。」(p50)
 一言で言うと、「わが国の労働組合が、もともと企業内労組であることが、イデオロギー論争を非常に強く巻き起こしている」(p51)というわけです。逆に、日本社会には他にほとんど存在しない個人加盟による純粋の産業別単一組合である海員組合は、労働運動界における最右派であり、そして1972年の職種別労働協約改定交渉では92日間の長期ストライキを成功させています。ひるがえって、左翼ぶりっこの企業内組合の労働争議ではどういう事態が展開されるのでしょうか。
 今ではほとんど記憶されていないでしょうが、かつては「わが国の労働争議が年々労働組合の季節闘争として、そしてこの季節闘争は共同闘争、統一闘争、さらにまたしばしばいわれるようにスケジュール闘争の形において」(p106)行われていました。藤林は「なにゆえにこのような争議が発生するか」と問い、「これは一種の雰囲気闘争である」「ムード闘争である」と答えます。ではなぜ、そのような雰囲気闘争、ムード闘争が必要になるのか?再び藤林節が炸裂します。
 従業員組合「には本来、基本的に労使の対立が芽生えがたい。むしろ労使の協力一致の傾向が、その中に含まれていると考えざるを得ない。それゆえにこのような企業内労組対経営関係のままで、個々の企業の中に労使関係をとじこめておき、そのまま放置しておくということは、労働者側の要求の貫徹がそこでは容易でない、ということを意味する以外のなにものでもない。労働組合運動は、そのままでは盛り上がるはずがない。・・・雰囲気闘争は、まさにこのような企業内労組対経営関係、いわば個々の企業ないし事業所内の労使関係の中にとじこもろうとする労働組合と組合員を、この企業のワクの中から引き出し、引き上げ、広く一般の労働争議・労働運動の方向に持っていくためのものであると考えられる。ここに一段と強力な指導・啓発が必要であるが、その指導・啓発をより有利にするためには、まさに雰囲気闘争こそが重要な意味をこの際もつことになる。」(p108)また、前述したように「企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性」がある以上、「雰囲気闘争、ムード闘争が、まさに第二組合的なものの考え方とその発生の可能性を抑圧しようとする機能をも」(p109)つことになるのも当然です。
 さらに、これは労働委員会で膨大な数の争議を取り扱ってきた藤林ならではの台詞でしょうが、「労働委員会がその一つの機能である争議調停の面において、年々わが国の労働争議のかなり多くのものをとりあげるということは、わが国の労使関係における労使双方の問題を自主的に解決する気構え、態度が比較的少ないことを意味している」と述べた上で、「しからば、なにゆえ日本の労使は、自らの問題として争議の解決のために自主的な努力を推し進めようとしないのか」(p112)と問います。もちろん、その答えも企業内労組にあります。
 「企業内労組を労働組合運動の中にくり入れていくためには、上部団体はかなり強い雰囲気闘争の中で、したがって強い要求、強い態度の中で問題をくり広げなければならない。日本人のよく口にする言葉でいえば、『死ぬまで戦う』などということがしばしば聞かれるところである。人々がこのような強硬な態度をゼスチュアとしても示す場合には、その反面をいえば、いささかの妥協の余地なしということを示している。いささかの妥協の余地なしという態度を示しながら、しかししょせん、なんといっても労働争議は、適当なところで適当な線で妥協をみざるをえないし、妥結に導かざるをえない。そしてそれはしょせん、私の考えでは妥協以外にはない。日本の労働組合の雰囲気闘争のゼスチュアは、妥協のない強い態度のようにみえる。しかし問題を終結するためには妥協以外にはない。自らは妥協できない。だれかがこれを妥協せしめる以外にはない。労働委員会がこの役割を演じていることはきわめて明瞭である。したがって日本の雰囲気闘争にとって、・・・その主張が強硬であればあるだけ、妥協を可能ならしめる機関としての労働委員会の存在は必要欠くべからざるものである」(p113)。
 さらに藤林は、目の前でくり広げられる企業内労組と経営側のやりとりの中から、企業内組合の労働争議にまつわるある種の匂いを敏感にかぎ取ります。「これは非常に妙な言い方であるが、われわれ日本人の人間的な関係からいうと、縁の近い者がもし互いに争うような場合には、他人同士が争う以上に激しい争いを起こす。これはよく日常生活の中にみられるところである。嫁と姑、あるいは親子兄弟等の関係において、もしひとたび争いが生ずれば、その結果はいわば血で血を洗うような争いが発生する。もしこれが他人同士の関係のなかならば、その争いはときに非常に激越なものがありえても、そう長続きし、本当に心から怨恨の情を示さなければならないようなことにはたちいらないだろうと思われる。この意味においては、ここに指摘するような過去の各種の争議は、ともにいかにも日本人的な労働争議であると考えられる。」(p115)
 さてしかし、ここまで読んでくると、なるほど当時の左右のイデオロギーばかりが表面を覆い尽くしていた労使関係の議論の中で、その隠された本質をみごとに摘出していることは分かったけれども、それはもう半世紀以上も昔の話であって、今日の日本の労働社会にとってはあまりレリバントな本じゃないね、という感想を持たれる方もいるかも知れません。なにしろ、そのいうところの雰囲気闘争、ムード闘争に充ち満ちていた頃とはうって変わって、現在の日本は争議行為を伴う争議件数が1年間で68件という世界的に見ても超争議レスな労働社会になってしまっているからです。ところがさにあらず。藤林が労働委員会で連日争議のあっせん・調停に汗をかいていた頃と、争議がほぼ完全に姿を消した今日とは、同じ企業内組合と経営の関係が違う現れ方をしているという意味で、実はコインの表と裏の関係にあるのです。
 残念ながら本書出版の前年に死去した藤林にはそれを目前の現実として語ることはできませんでした。しかし、本書の最終章にはなにやら予言者のごとき次のような一節が書き残されています。これは労働協議制の重要性を縷々説いた数章のあとに置かれた文章であるだけに、そのにじみ出るような苦渋が伝わってきます。
 「わが国の経営協議会をみると、その多くの場合に、そこは一面団体交渉の場であると同時に、他面労使協議の場でもあって、団体交渉と労使協議が必ずしも明確に区別されようとはしていない。しかし企業内労組と経営の関係としては、このような混合形態である経営協議会が多く存在することが、むしろ必然的であるともいえよう。」
 「すでにこのような一、二の点からみても、わが国の労使関係においては、経営者=従業員関係がいかに強く現れているかが明白であるのに、さらにそのうえに、経営者は経営参加を認めようとせず、産業平和と労使協力とを企図している。率直かつ端的にいってしまえば、今日の企業内組合をさらに会社組合にまで引き下ろそうというのが、明確にこれを意識すると否とを問わず、わが国の経営者の意図であるようにみえる。」
 「企業内組合が解消し、産業別単一組織が成立することが可能ならばもちろんこれを好ましいとしていいのであるが、すでに一言したように、このことは今のところ一般に望んでも容易には達せられない。そこで企業内労組とその上部団体である産業別連合体組織との関連において、経営者にははたして産業別連合体組織を中心に団体交渉を行い、また産業別労使協議制の確立を考慮するだけの積極的熱意があるだろうか。おそらくなんぴともこれを肯定するのには躊躇せざるをえないであろう。これが本当の真実であり、それがなにを意味するかは、すでに明白である。およそこのような労使関係へのクレッグ的な見解と論理を十分に味わうことも知らないままで、労使協議制をいちだんと大きく植えつけようとすることは、企業内労組をさらにhome unionismにいっそう転落せしめ、組合を去勢してしまうことにほかならないのではないだろうか。したがって、労使協議制の確立が労使関係の近代化あるいは民主主義化の方向を拒否するのではなく、むしろこれを前提とするか、あるいは少なくともこれと並行して推し進められるべきものであるとするならば、われわれの場合に今日まず考慮すべきことは、労使協議制の確立ではなく、労使関係の近代化であり、民主主義化である。言葉をかえていえば、企業内労組の存在を企業の内深く押しこめるのではなく、反対にそれを企業の外に向けしめることである。」(p210~211)
 藤林が死去してからの半世紀以上の期間に日本の労働社会で進行したのは、まさにこの懸念のどんぴしゃりともいうべき実現でした。政治闘争にばかりかまけて労働組合の本来の課題である労働条件の維持改善をないがしろにするのはけしからん、というこれ自体はまっとうな批判に基づいて労働組合主義が主張されると、そのことが労使関係における第二次関係を妙な妥協に追い込んでしまう懸念、ほっとくと第一次関係に埋没してしまう企業内労組を第二次関係の線に沿って引き上げようとする努力が弱まってしまうという懸念、労働組合主義が、その本来の目的である経営対組合関係をかえって弱め、経営対従業員関係を強化してしまうかも知れないというこの懸念は、本書出版の時点ではなおそれほど現実のものではなかったのでしょうが、その後半世紀以上経った現在の観点からすると、その予言の見通しは恐ろしいものがあります。
 藤林が皮肉たっぷりに描き出した「家族争議」がほぼ姿を消してしまった半世紀後の労使関係は、もはや一方的に従業員としての第一次関係に引っ張られるだけで、本来利害対立があるはずの第二次関係が限りなく希薄化してしまいました。今日保守政権主導でようやく十年ぶりに賃上げ闘争が行われるなどという事態を、安直な政治的説明でなくきちんと社会構造に踏み込んで説明できる理論は、半世紀以上前の藤林理論以外には見当たりません。

 

 

 

2019年5月 9日 (木)

斎藤幸平『大洪水の前に』、ナオミ・クライン『楽園をめぐる闘い』

昨日紹介した西口想さんの『なぜオフィスでラブなのか』と一緒に、同じ堀之内出版から刊行された斎藤幸平『大洪水の前に』とナオミ・クライン『楽園をめぐる闘い』もお送りいただいていました。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237408

9784909237408 2018年度ドイッチャー記念賞(Deutscher Memorial Prize)を日本人初、最年少受賞。期待の俊英による受賞作邦訳増補改訂版。資本主義批判と環境批判の融合から生まれる持続可能なポスト・キャピタリズムへの思考、21世紀に不可欠な理論的参照軸として復権するマルクス研究。
マルクスのエコロジー論が末節ではなく、経済学批判において体系的・包括的に論じられる重要なテーマであると明かし、またマルクス研究としてだけでなく、資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論として世界で大きな評価を獲得。
グローバルな活躍をみせる著者による日本初の単著、待望の刊行。

実を言うと、マルクスとエコロジーというテーマには現時点で余り食指が動かないのですが、このテーマに関心のある方々には貴重な業績なのだろうと思います。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237392

9784909237392 「これはプエルトリコで今まさに繰り広げられている典型的な「ショック・ドクトリン」をめぐる時宜を得た迫真の報道である。ナオミ・クラインは、プエルトリコの金融のメルトダウン、ハリケーンによる荒廃、そしてワシントンによってアメリカ合衆国の最も重要な植民地に押しつけられた、部外者で構成される管理委員会が引き起こした新自由主義的な民営化とウォール街の欲望に対する、プエルトリコの人びとの目覚しい草の根の抵抗を記録する」。

ナオミ・クラインといえば『ショック・ドクトリン』ですが、この小著はプエルト・リコを舞台にその姿を描き出しています。新書版で本文100ページ強なので、あっという間に読めます。

 

 

 

2019年5月 8日 (水)

西口想『なぜオフィスでラブなのか』

9784906708994 西口想『なぜオフィスでラブなのか』(堀之内出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784906708994

「なぜオフィスでラブなのか」。
「職場で出会った人とつきあっています/結婚しました」という話は一般的で、珍しいことではありません。
でも、冷静に考えてみると、仕事を目的とする場で、なぜそんなに恋愛が発生するのでしょうか。
小説を題材に日本の「オフィスラブ」について、労働にも造詣が深い新進気鋭の著者が論じます。

この本をお送りいただいたのは、本書の第2章の田辺聖子『甘い関係』を取り上げた「祖父母たちのオフィスラブ伝説」のところで、拙著『働く女子の運命』がちらりと引用されたりしているからでしょう。そう、この拙著で引っ張り出した60年代の女子たちというのは、西口さんたちからするとまさに「祖父母たち」の世代になるんですね。

実は、この本の元になったマネたまの連載のときに、本ブログで取り上げたことがありました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/by-a993.html (祖父母たちのオフィスラブ伝説 by 西口想)

まえがきによると、

・・・本書の元になったウェブ連載のために、私は約1年半にわたって各時代の小説を漁りながらオフィスラブについて考え、調べ、経験談を蒐集して回った。連載を続けるうち、自然と周囲からオフィスラブの報告や相談が寄せられるようになり、気づけば「オフィスラブの専門家」になりかけている。

とのことですが、一方で西口さんは現在労働団体の職員でもあり、戦後日本の労働社会を背景にした日本的オフィスラブの諸相を見事に描き出しているなと思います。

112483 ここからは西口さんの本から若干離れて、オフィスラブの帰結の一つとしての社内結婚について、かつて『日本の雇用と労働法』(日経文庫)のコラムに書いた小文を。これ、西口さんの本と響き合っているんですよ。

社内結婚の盛衰
 OL型女性労働モデルには、女性正社員を男性正社員の花嫁候補者的存在とみなすという側面もあります。つまり、会社は長期的メンバーシップを保障する男性正社員に、「後顧の憂いなく」働いてもらえるように、安心して家庭を任せられる女性を結びつけるという機能も果たしていたわけです。女性正社員の採用基準に、「自宅通勤できること」といった職務とも人格とも直接関係なさそうな項目が含まれていたのも、花嫁候補という観点からすれば合理的であったのでしょう。
 社内結婚した女性は、結婚退職までは短期的メンバーシップで、その後は夫の長期的メンバーシップによって、会社とつながりを持ち続けます。これも一種の終身雇用かも知れません。逆に、社内結婚したのに妻が同じ会社で働き続けるなどということは、許されない雰囲気も強かったようです。
 日本人の結婚形態は、かつては親や親族などの介在する見合い結婚が中心で、その後本人同士の恋愛結婚が主流になったとされています。それに間違いはありませんが、ある時期までその中心は社内結婚でした。自分と釣り合いのとれた相手が多く存在し、しかも企業の採用基準によって選抜されているため、配偶者選択の効率性が極めて高かったのです。男性にとっては長時間労働に追われて相手に十分な時間が割けないことが結婚への阻害要因にはなりませんし、女性にとっては同じ社内にいることで相手の出世の見込みも大体分かります。
 やがて、男女平等と女性の非正規化が進む中で、こうしたOL型社内結婚モデルが次第に衰退していきました。しかし、それは他の形態による結婚が増えるのではなく、結婚しない男女が増えるということだったようです。この事態に、「就活」ならぬ「婚活」を唱道する向きもありますが、社内結婚のように低コストで高水準の配偶者を得られる場は、とりわけ会社以外のメンバーシップが極めて希薄な日本では数少ないため、なかなか難しいようです。

 

 

 

 

ある日突然訪れる「雇い止め」の仰天理由 by 荻野進介@プレジデント・オンライン

112050118_1 先週に引き続き、プレジデント・オンラインで荻野進介さんが拙著『日本の雇用終了』『日本の雇用紛争』から様々な紛争事例を取り上げて紹介しつつ、日本の中小企業の実態をあからさまに示しています。

https://president.jp/articles/-/28563

 日本では7割の人が中小企業で働いている。だが中小企業は大企業に比べて「雇用トラブル」が起こりがちだ。一体どんな理由で解雇されるのか、その不当性を訴えたい場合はどうすればいいのか。不当解雇の実態とその対処方法を紹介しよう――。(後編、全2回)

Koyoufunsou ということで、縷々いろんな事例を紹介していくのですが、最後のところで荻野さんなりの感想を交えてこう提言しています。

・・・さて、主に中小企業における日本の非円満退職の事例を多数見てきました。働く人たちはここから何を学ぶべきなのでしょうか。
ポイントは大きく2つあります。一つは、厚生労働省の地方組織である労働局によるあっせんの存在と仕組みをしっかり理解することです。あっせんとは、紛争当事者たる企業と労働者の間に弁護士、大学教授などの専門家が入り、双方の主張を確かめた上で話し合いを促進することによって紛争の解決を図ることをいいます。民事訴訟に比べ手続きは簡単な上、無料でできます。こうした制度はいざという場合、使わない手はありません。
先の2冊には、あっせん事例が金銭で解決した場合(多くは解雇した会社が労働者に支払う)、その具体的金額が記されています。低い場合は3万円などという例もありますが、高いものでは100万円というケースがあります。
100万円の事例では、当人が「あっせんでの和解が望めないとなれば、裁判に持ち込みます」と会社に言ったことが奏功し、そこまでの金額になったそうです。濱口氏いわく、「解決金額は当事者の態度(気迫)によって左右される」そうですから、理不尽な解雇をされた場合、泣き寝入りせず、戦うべきです。
もう一つは、労働者はある程度、労働法を理解しておくべきだということです。労働法とは、経営側に比べて弱い立場にある労働者を守るため、前者に課されたルールなのですから、法律に無知なのは実にもったいないことです。
政府は来る人工知能(AI)社会に向け、文系理系問わず、全大学生にAIの初級教育を受けさせる方針を固めたそうですが、初歩的労働法の学習も必須にしたらどうでしょう。

 

 

 

2019年5月 7日 (火)

『月刊連合』5月号

Covernew 『月刊連合』5月号は「日本を救うキーは“最低賃金”」が特集です。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

〈巻頭対談〉日本を救う鍵キーは“最低賃金”
デービッド・アトキンソン 小西美術工藝社社長、金融アナリスト X 神津里季生 連合会長

「人口減少・少子高齢化」が、世界に類をみないスピードと規模で進展する日本。今年1月、『日本人の勝算—人口減少×高齢化×資本主義』を刊行したデービッド・アトキンソン氏は、「その影響は想像以上に深刻だ。人口増加を前提とした経済社会の常識は根底から覆される」と警告する。この歴史的ターニングポイントで、私たちは、どこに向かってどう舵を切ればいいのか。アトキンソン氏と神津会長が語り合った。

201905_p23

アトキンソン氏、なかなか鋭い言葉を吐いています。

・・・人口減少社会では、最低賃金を引き上げても労働者は失業しません。対応を誤って会社を失うのは経営者、だから激しく抵抗するんです。

 

 

 

萬井隆令さんの反批判@『労働法律旬報』4月下旬号について

452152 『労働法律旬報』4月下旬号はパワハラが特集であり、また道幸哲也さんの巻頭言も重要な論点を提起していますが、ここでは萬井隆令さんの反批判を取り上げます。というのは、恐らく今までに例のないことだと思うのですが、お送りいただいた萬井さんの『労働者派遣法論』(旬報社)に対する若干の批判的コメントを本ブログで一昨年7月に書いたのですが、このブログ上の批判に対する反批判を、今回の『労旬』誌上でされておられるのです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-7875.html (萬井隆令『労働者派遣法論』)

http://www.junposha.com/book/b452152.html

[研究]『労働者派遣法論』の書評に応える=萬井隆令……31

15068 ネット上での批判と反批判であれば、レベルはともあれ山のようにありますが、ブログにおける(本の寄贈御礼を兼ねた)批判的コメントに対して、労働法専門誌として確立した定評のある雑誌上で(分量的にも元の批判を上回る)反批判をいただくというような機会は、めったにないものと感謝申し上げなくてはなりません。わたくし自身、雑事に取り紛れて、2年近く前のブログエントリのことはほとんど忘れておりましたが、今回萬井さんの反批判を読ませていただき、改めて自分の過去エントリを読み直して、その議論が間違っていなかったという確信を深めております。ここ数年は働き方改革関連の論点について論ずることが多く、労働者派遣始めとする労働力需給システムに関する議論からは若干遠ざかっていたところですが、この分野はやはり議論の種がいっぱい詰まった分野であることを確認しました。

まず一点目。これはかなり前から私が繰り返し論じていることですが、「業」でない「労働者供給」「労働者派遣」と「労働者供給事業」「労働者派遣事業」は別概念であり、前者は価値中立的な行為概念であるが、後者は価値判断を含んだ事業概念であるという点について。その前段として、職安法63条に、事業ではない行為としての「暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者」を刑事罰の対象としている点の指摘に感謝しているのですが、実はその職安法63条こそが、私の主張を補強するものになっているという議論に対して(詳しくはリンク先拙エントリを参照)、それに対して萬井さんは、よくわかりかねる議論を展開します。

・・・しかし、同規定は「手段」や「目的」だけを反価値とするわけではない。暴行等は二年以下、教養には三年以下の懲役に対し(・・)、その手段を用いた労働者供給に対しては一年以上一〇年以下の懲役が科される(・・)。その刑罰の軽重の差は、労働者供給は反価値的であり、しかも強要の反価値性より大きいという認識を示している。同じ手段であっても刑罰に軽重の差があることについての認識を示さないまま「価値中立」論を唱えても説得力はない。

いやいや、刑法の暴行や強要を持ち出す前に、職安法63条に忠実になる必要があります。

第六十三条    次の各号のいずれかに該当する者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。
一   暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者
二   公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者

1号も2号も、「職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給」という3つの行為類型の間に、いかなる価値判断上の軽重も付けていません。それこそが私の言っている最大の論点なのですが、なぜか萬井さんはそこをスルーされます。この63条の規定ぶりからすれば、全く同じ水準において、

・・・しかし、同規定は「手段」や「目的」だけを反価値とするわけではない。暴行等は二年以下、教養には三年以下の懲役に対し(・・)、その手段を用いた職業紹介に対しては一年以上一〇年以下の懲役が科される(・・)。その刑罰の軽重の差は、職業紹介は反価値的であり、しかも強要の反価値性より大きいという認識を示している。同じ手段であっても刑罰に軽重の差があることについての認識を示さないまま「価値中立」論を唱えても説得力はない。 

と言わなければなりますまい。いや確かに職業安定法はそうなっていると私は思います。ただの暴行や強要よりも、それらを用いた職業紹介等の方が悪質だと考えているのです。そしてその点において、職業紹介行為と労働者供給行為には、何の差も設けていないというのが職安法の法意といえましょう。

ところがこの(私が思うに最も重要な)論点になると、萬井さんの議論の筋道が見えにくくなります。

・・・職安法63条に職業紹介と並んで規定されているというだけで、両者は同質であり、労働者供給も同じく「価値中立」であることをしめしているということにはならない。行為の性格に着目する必要がある。

いやいや、そういう言い方はおかしいでしょう。そういうことを言うなら、そもそも職安法63条を持ち出して、ただの暴行や強要よりも悪質だなんていったことがすべて無に帰してしまいますよ。職安法は明確に、ただの暴行、強要よりも、それらを伴う職業紹介や労働者供給を、両者全く同じレベルにおいて反価値的だと非難しているんです。法律のどこにも出てこない(脳内の)職業紹介行為はそれ自体別に悪いものではないけれども労働者供給行為はそれ自体悪いものだという自説をいきなり展開しても、その法的根拠はどこにも示されていません。いや、「相当の経済的負担」云々といった「独自の論証」は書かれているのですが、その議論の法条文上の根拠はどこにも示されていないのです。そして例によって、

・・・派遣や労働者供給は直接雇用の原則に反し基本的に反・価値だから・・・

と言われるのですが、残念ながらこれも職業安定法上に根拠規定を見いだすことはできません。やや歴史的にいえば、そもそも72年前に職業安定法が制定されたときには、むしろ労働基準法6条の中間搾取の禁止に対応する形でまず肝心の有料職業紹介事業を原則禁止し、ついでにそのコロラリー的存在としての労働者供給事業も原則禁止しているのですね。その後、有料職業紹介事業は原則自由になっていますが、終戦直後は極めて厳格な原則禁止であったということを思い出す必要があります。少なくとも、職安法上、職業紹介はいいことだが、労働者供給は極悪非道であるというような発想になったことはないのです。その意味で、

「価値中立」論は直接雇用の原則の否定を前提として初めて成り立つ。したがって、前提(直接雇用の原則を認めない)の論証が不可欠であろうが、その論証はない。

というのは話がひっくり返っているというか、挙証責任が逆になっている感があります。私の見る限り、職業安定法はその制定時から一貫して、職業紹介事業、労働者供給事業といった労働市場ビジネスに対しては極めて否定的なスタンスを取っており(近年緩んできましたが)、その法的根拠は労基法6条であると考えられますが、直接雇用の職業紹介を善としつつ、間接雇用の労働者供給を悪とするような意味での直接雇用原則の根拠とみなしうるような規定は見当たらないのです。もし本当に、職安法が72年前から直接雇用の職業紹介はいいことだけれども、間接雇用の労働者供給は極悪非道であるというスタンスを取っていたというのであれば、なぜ事業ではない行為についても同法63条で全く同じような加重刑罰を科し、事業に対してもほぼ同じような原則禁止でごく一部の例外のみ認めるという法政策をとっていたのかを、その双方にわたって説得力のあるやり方で説明しなければならないはずだと思われます。

いずれにしても、この辺りの萬井さんの議論はやや曖昧でかつ鋭さが欠けており、私が繰り返し問いかけている点をなにげにスルーされている感が否めません。2年前の拙エントリでこう申し上げた点については、残念ながら今回の反批判においても明確な回答がいただけていないように思われます。

・・・上記63条を見ればわかるように、同条は一定の手段、一定の目的による「職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給」の行為を処罰しているものです。
その反・価値性は一定の手段(暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段)や一定の目的(公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的)にあることは明らかであって、全く同様の罰則の下にあるからと言って、たとえば全ての職業紹介行為がことごとく反・価値であり、違法と評価されている、などというわけではないことからも明らかでしょう。「価値中立的」な行為概念とはそのことを指します。
職業紹介についても同様に行為概念と事業概念が区別され、後者が30条以下で許可制という事業規制の下にあるのに対して、前者すなわち事業ならざる単なる職業紹介行為は一般的には特段規制の対象ではないけれども、暴行脅迫などの手段だったり、アダルトビデオに出演させる目的だったりしたら違法になる、というまことに単純明快なことであって、その構造自体は労働者供給[行為]と労働者供給[事業]と全く同じだと思われます。

もう一つの論点である安全衛生法上の「指示」については、ごく簡単に済ませましょう。萬井さんは同法の「指示」は「指揮命令」ではないといいます。そう、文言上は。これはあえてそうしているのです。労働安全衛生法が制定される直前の、同法の基本構造を描き出した労働基準法研究会報告では、職安行政のことなど知ったことではないと、平然と「指揮監督」という言葉を使っていたのですが、さすがに労働行政として法案を作成する段になると、職安法違反を堂々と打ち出すわけにはいかないということで、内容的には全く同じ意味のことを「指示」と言い換えただけなのです(拙著『日本の労働法政策』481ページ)。これが立法プロセスから窺われることです。

Isbn9784589031891 ちなみに、労働基準行政は、労働条件面における労働者保護を第一義的重要目標としているのであって、職安法との整合性には余り関心がなさそうであるという絶好の証明が、厚生労働省労働基準局編『コンメンタール労働基準法』(下)にあります。これも日本労働法学会における(開かれざる)ミニシンポにおける報告を始め、結構何回も引用してきたつもりですが、都合が悪いことにはあまり言及されたくないのか、ほとんど取り上げていただいた記憶がありません。

・・・ もっとも、建設業の下請労働者の労災補償責任を元請業者に負わせた第87条だけは、戦前の労働者災害扶助法を受け継いで規定されている。興味深いことに、厚生労働省によれば、現在でも「建設業における重層請負においては、実際には元請負業者が下請負業者の労働者に指揮監督を行うのが普通」であり、「いたずらに民法上の請負契約の考え方に拘束されて資力が乏しく補償能力の十分でない下請負人を使用者とせず、元請負人をもって使用者と考えることが労働者保護の見地からも妥当」なのである*11。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月 6日 (月)

第3号被保険者問題の経緯

なんだか『週刊ポスト』の記事がやたらにバズっているようですが、コメントを見ていると、この問題の長い経緯がほとんど理解されていないように見えるので、本来の私の守備範囲ではないのですが、ごく簡単にまとめておきたいと思います。

https://www.moneypost.jp/531848 (働く女性の声を受け「無職の専業主婦」の年金半額案も検討される)

令和を迎え年金改悪の議論が始まっている。現在、夫の厚生年金に加入し、年金保険料を支払わずに基礎年金をもらうことができる「第3号被保険者」の妻は約870万人いる。
 第3号については共稼ぎの妻や働く独身女性などから「保険料を負担せずに年金受給は不公平」という不満が根強くあり、政府は男女共同参画基本計画で〈第3号被保険者を縮小していく〉と閣議決定し、国策として妻たちからなんとかして保険料を徴収する作戦を進めている。
 厚生年金の加入要件を広げることで仕事を持つパート妻をどんどん加入させているのはその一環だ。3年前の年金法改正で厚生年金の適用要件が大幅に緩和され、わずか1年で約37万人が新たに加入している。
 そうして篩(ふるい)に掛けていけば、最後は純粋に無職の専業主婦が残る。厚労省や社会保険審議会では、無職の主婦から保険料を取る方法も検討してきた。
「第3号を廃止して妻に国民年金保険料を払ってもらう案、妻には基礎年金を半額だけ支給する案、夫の厚生年金保険料に妻の保険料を加算して徴収する案などがあがっている」(厚労省関係者)
 令和の改革でいよいよ「3号廃止」へと議論が進む可能性が高い。

この問題の起源は、1959年の国民年金法制定時にさかのぼります。「国民皆年金」という掛け声で作られた国民年金は、厚生年金などの被用者年金加入者以外をみんな入れるはずでしたが、その例外として被用者年金加入者の妻と学生・生徒は任意加入としました。この後者の学生・生徒は、その後20歳で強制加入に変わったことは周知のとおりです。

被用者年金加入者の妻についてはいろいろの議論の末、1985年年金改正で、国民年金の強制被保険者としつつ、その保険料は夫の加入する被用者年金全体で賄うこととしました。これが今日に至る第3号被保険者です。それまでの任意加入では自ら保険料を払わなければならなかったのが、払わなくても受給資格を得られるのですから、これこそが「婦人の年金権の確立」の切り札とされたわけです。しかし逆に言うと、これは被用者の妻を被用者の妻であるというだけで優遇する差別的取扱いでもありました。この改正が、労働法政策においては男女雇用機会均等法が立法された1985年という年に行われたという事実に、皮肉なものを感じざるを得ません。

1985年改正で導入された第3号被保険者に対してはその後、片働き世帯を優遇する制度であり、女性の就労の妨げとなっているなどと、次第に批判が高まってきました。そこで2000年から女性のライフスタイルの変化等に対応した年金の在り方に関する検討会を設置して、この問題について本格的な議論を開始しました。翌2001年12月、17回に及ぶ熱心な議論の末に「女性自身の貢献がみのる年金制度」という副題の報告書が取りまとめられました。これは今でもここで全文が読めます。

https://www.mhlw.go.jp/shingi/0112/s1214-3.html

第3号被保険者制度については、次の6つの見直し案を提示し、「問題の大きさを踏まえつつ、国民各界各層の間で、さらに踏み込んだ議論が行われ、国民的合意が形成されていく中で、適切な結論が見いだされ、改革が行われていくことを強く望む」と述べました。

現行:第3号被保険者にかかる保険料負担を負担能力に応じて負担-夫-定率負担
第Ⅰ案:第3号被保険者にかかる保険料負担を負担能力に応じて負担-妻-定率負担(潜在的な持分権の具体化による賃金分割を行った上で、妻自身にも分割された賃金に対して定率の保険料負担を求める)
第Ⅱ案:第3号被保険者に係る保険料負担を受益に着目して負担-妻-定額負担(第2号被保険者の定率保険料は第3号被保険者の基礎年金に係る拠出金負担分を除いて設定し、それとは別に第3号被保険者たる妻自身に、第1号被保険者と同額の保険料負担を求める)
第Ⅲ案:第3号被保険者に係る保険料負担を受益に着目して負担-夫-定額負担(第2号被保険者の定率保険料は第3号被保険者の基礎年金に係る拠出金負担分を除いて設定し、第3号被保険者のいる世帯の夫には、それに第1号被保険者の保険料と同額を加算した保険料負担を求める)
第Ⅳ案:第3号被保険者に係る保険料負担を受益に着目して負担-夫-定率負担(まず第2号被保険者の定率保険料を第3号被保険者の基礎年金に係る拠出金負担分を除いて設定し、第3号被保険者のいる世帯の夫には、それに第3号被保険者に係る拠出金負担に要する費用を第3号被保険者のいる世帯の夫の賃金総額で割った率を加算した保険料負担を求める)
第Ⅴ案:第3号被保険者に係る保険料負担をより徹底した形で負担能力に応じて負担-夫-定率負担(夫の賃金が高くなると専業主婦世帯の割合が高まることに着目し、高賃金者について、標準報酬上限を引き上げて、保険料の追加負担を求める)
第Ⅵ案:第3号被保険者を、育児・介護期間中の被扶養配偶者に限る(その余の期間については、他案のいずれかの方法で保険料負担を求める)

その後これを受けた改正は行われないまま20年近くが過ぎましたが、その間民主党政権時代に、「運用3号問題」という問題が生じたことがあります。第3号被保険者の夫の第2号被保険者が退職し第1号被保険者になった場合、妻は第3号から第1号に変更しなければなりませんが、それがなされずに第3号のままになっている記録が多数見つかったのです。これに対し、本来は記録を訂正し、過去の期間の保険料を納付させ、受給者には年金の裁定をやり直すべきなのに、民主党政権は過去2年間分を納付すればそれ以前の期間についても未納のまま納付済期間として認めるという救済策(運用3号)を打ち出し、2010年12月の課長通知(平成22年12月15日年管企発1215第2号、年管管発1215第1号「第3号被保険者期間として記録管理されていた期間が実際には第1号被保険者期間であったことが事後的に判明した場合の取扱いについて」)で指示しました。

 その背景には、2007年からいわゆる年金記録問題が「消えた年金記録」として当時の自公政権を揺るがす大きな政治問題となり、同年の参議院選挙、2009年の衆議院選挙で自民党が大敗し、民主党への政権交代が起こる要因ともなったことがあります。この年金記録問題が専ら社会保険庁側の事務処理の不備によるものであったため、第3号被保険者の記録不整合についても、本来届出すべきものをしていなかった被保険者側の責任を問う方向に向かわず、その部分の不当利得を国が負担するというポピュリズム的な解決策に走ったのでしょう。

 しかしそれまでに第3号から第1号に変わった人々の多くが届出をして国民年金の保険料を納めてきていたので、この扱いは法に違反し、一部の者を優遇する著しく不公平なものだとの批判がわき起こりました。総務省に設置された年金業務監視委員会も運用3号を国民年金法違反であり、年金受給者間に著しい不公平をもたらすとしてその廃止を求めるとともに、早急に公平・公正な立法措置を講ずべきとの意見を提出し、厚生労働省も2011年3月上記通達を廃止し、法改正によって対応することを決めました。

 その後、主婦年金追納法案を国会に提出しましたが、審議未了を続け、2012年11月衆議院解散で廃案となりました。自公政権に復帰後、2013年4月に厚生年金基金の廃止とともに公的年金制度の健全性及び信頼性の確保のための厚生年金保険法等の一部を改正する法律案に盛り込まれて国会に提出され、同年6月に成立しました。これにより、不整合期間をカラ期間として受給資格期間に算入し、過去10年間について特例的な保険料追納を可能にしました。

第3号被保険者本体についてはなかなか対応できない状況が続く中で、政策として近年進められてきたのが非正規労働者に対する適用拡大です。ここに来ると、わたくしの本来守備範囲に入ってくるので、いくつか解説した文章もあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/web-e008.html (短時間労働者の社会保険からの排除と復帰@WEB労政時報)

 去る2018年9月から社会保障審議会年金部会で被用者保険のさらなる適用拡大についての審議が始まりました。これは、同年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~」において、「働き方の多様化を踏まえ、勤労者が広く被用者保険でカバーされる勤労者皆保険制度の実現を目指して検討を行う。その際、これまでの被用者保険の適用拡大及びそれが労働者の就業行動に与えた影響についての効果検証を行う」と書かれていることを受けて始まったものです。この「勤労者皆保険制度」という言葉は、自民党の小泉進次郎氏らが近年打ち出しているもので、いかなる雇用形態であっても、企業に働く人が全員加入できる制度を意味します。
 本来、被用者保険と住民保険の二本立ての世界で国民皆保険というのであれば、被用者はすべて被用者保険に、被用者でない者はすべて住民保険に、という制度設計であるべきだったはずです。しかし、1958年の国民健康保険法は被用者でありながら被用者保険の未適用者であった者を住民保険の適用者にする形で問題を「解決」してしまい、しかもその後の行政運用は被用者保険の適用対象であった短時間労働者までも「内々のお手紙」でその外側に排除してしまうという経緯をたどってきました。小泉氏らの「勤労者皆保険」は、その半世紀以上にわたるボタンの掛け違いを根っこに戻って掛け直そうという意欲が示されているようです。
 今回はその短時間労働者をめぐる経緯を振り返ってみます。
 厚生省はかつては、日々契約の2ヶ月契約で勤務時間は4時間のパートタイム制の電話交換手について、「実際的には2ヶ月間の雇用契約を更新して行くものと考えられるので、当初の2ヶ月間は日雇労働者健康保険法を適用し、その2ヶ月を超え引き続き使用されるときは被保険者とする。」(昭和31年7月10日保文発第5114号)という通達を出していました。ところが、1980年6月6日厚生省保険局保険課長・社会保険庁医療保険部健康保険課長・社会保険庁年金保険部厚生年金課長名の「内翰」により、「1日又は1週の所定労働時間及び1月の所定労働日数が当該事業所において同種の業務に従事する通常の就労者の所定労働時間及び所定労働日数のおおむね4分の3以上である就労者については、原則として健康保険及び厚生年金保険の被保険者として取り扱うべき」であるとし、所定労働時間4分の3未満の短時間労働者を適用除外としたのです。
 これは、1970年代から80年代にかけての時代の「社会常識」を反映したものでした。すなわち、家計補助的な主婦パートと学生アルバイトが非正規労働の中核をなし,成人男性が主であった社外工に代わって結婚退職後のOL からなる派遣労働者が間接雇用の中心となり,さらに男性正社員が定年退職後に嘱託として非正規労働力化するという形で,雇用形態と労働者の属性がかなりの程度一致するようになった時代です。いわば,性別と年齢により社会的役割を当てはめる一種のマクロ社会的分業体制といえます。
 しかし1990年代以降、このモデルが現実と乖離していきます。すなわち、主婦パートが量的にも質的にも基幹化していき,必ずしも専門職でもない契約社員や,もはや学生ではなくなったフリー・アルバイターと混じり合いながら,膨大な非正規労働力を構成するようになっていったのです。そして21世紀に入り、年長フリーターが社会問題として取り上げられるようになると、非正規労働者の低処遇問題と並んで、社会保険の適用除外にも疑問の目が向けられるようになってきました。裏返して言えば,問題が主婦パートや学生アルバイトに限られていると認識されている間は,問題視されなかったということです。こうして、21世紀に入ってからは、短時間労働者への社会保険の適用問題が社会保障法政策と労働法政策にまたがる大きな政策課題として紆余曲折の歩みをたどることになります。
 まず、2003年9月の社会保障審議会年金部会の「年金制度改正に関する意見」において、働き方の多様化への対応、短時間労働者自身の年金保障の充実、就業調整問題の解決、事業主間の保険料負担の不均衡是正、雇用労働者としての均衡処遇等の観点から、基本的に短時間労働者への厚生年金の適用拡大を行うべきとし、具体的な基準としては週所定労働時間20時間以上のほか、収入要件として年間賃金65万円以上を併用すべきといった意見が示されています。しかし反対が強く、与党内調整の結果最終的に法案に盛り込まれず、2004年の国民年金法改正法の附則に「企業及び被用者の雇用形態の選択にできる限り中立的な仕組みとなるよう、この法律の施行後五年を目途として、総合的に検討が加えられ、その結果に基づき、必要な措置が講ぜられるものとする」という検討規定が置かれました。
 その後、2007年には第1次安倍内閣の再チャレンジ政策の一環として再度検討課題となり、厚生労働省は社会保障審議会年金部会にパート労働者の厚生年金適用に関するワーキンググループを設け、同年3月の報告書が詳細に適用拡大の必要性とその在り方を論じています。健康保険については最後のところで「医療保険・介護保険は従前より厚生年金と同一の基準で一体的に適用されており、適用を分離した場合には、事務手続が煩雑になるという実務的な問題があり、できる限り同一の基準で適用拡大することが基本」と、ついでのように論じられているだけですが、被保険者の被扶養者として無拠出の給付を受けられる者の範囲が、厚生年金保険では第3号被保険者という主婦パート層だけであるのに対し、健康保険では学生アルバイト層にも広がっています。そのため、同報告書では「「学生」「主婦」「年齢」など労働者の属性や「業種」など事業主の属性によって適用拡大の対象から除外するという考え方は、市場にゆがみをもたらすおそれが強く、基本的に採るべきではない」としていたのですが、同年4月に国会に提出された被用者年金一元化法案では妥協の結果として、①週所定労働時間が20時間以上、②賃金が月額98,000円以上、③勤務期間1年以上、④学生は適用除外、⑤従業員300人以下の中小零細事業主は「別に法律で定める日」まで適用猶予、となっていました。しかし、この法案は同年7月、衆議院解散のため廃案になってしまいました。
 次の動きは民主党政権下の社会保障改革の中から始まりました。2011年2月に発足した社会保障改革に関する集中検討会議では労働組合などから適用拡大が求められ、同年5月に厚生労働省が提示した「社会保障制度改革の方向性と具体策」において、非正規労働者への適用拡大が盛り込まれました。同年6月には菅直人総理から「安心3本柱」の一つとして「正規と変わらないのに、非正規で社会保険適用から排除されている人が増加。これは格差問題にも関係。中小企業の雇用等への影響にも配慮しつつ、適用拡大を図る」ことが指示されました。
 同月に集中検討会議がとりまとめた「社会保障改革案」を受けて、同月に政府・与党社会保障改革検討本部が「社会保障・税一体改革成案」を決定しました。そこでは、「セーフティネットから抜け落ちていた人を含め、すべての人が社会保障の受益者であることを実感できるようにしていく」という理念から、医療・介護等の項で「短時間労働者に対する被用者保険の適用拡大」が、年金の項で「短時間労働者に対する厚生年金の適用拡大」が謳われています。
 同年9月には社会保障審議会に短時間労働者への社会保険適用等に関する特別部会が設置され、審議が進められましたが、特に外食産業や流通業など非正規労働者が労働力の中心を占める業界団体から猛烈な反対があり、意見のとりまとめは難航を極めました。一方、与党民主党内でも調整が難航しましたが、最終的に2012年3月、前原誠司政調会長が裁定を下し、①週所定労働時間20時間以上、②賃金月額78,000円以上、③雇用期間1年以上、④学生は適用除外、⑤従業員501人以上企業から適用という方針を発表しました。
 これらは同年3月に国会に提出された年金機能強化法案に盛り込まれ、審議が行われました。そして民主・自民・公明3党の協議の結果、賃金下限を88,000円とするなどの修正がされ、同年8月に成立に至りました。
 法改正後、社会保障審議会年金部会は引き続きこの問題についても議論を深め、2015年1月の「議論の整理」では、さらに適用拡大を進めていくべきという大きな方向性については異論はないが、特に短時間労働者の比率の高い業種や中小企業の負担を考慮すべきとか、年金財政だけでなく医療保険財政に対する影響についても考慮すべきという意見も示されています。そして、2016年10月施行の適用拡大から外れる者、特に企業規模要件を満たさない事業所について、労使の合意を前提として、加入できる条件の整ったところから任意で適用拡大できるようにすることが考えられるという意見を提起しています。これに対しては、筋としてはやはり一律に適用すべきという意見も付記されています。
 この「議論の整理」を受けて、2016年3月に国会に提出された年金持続可能性向上法案に、500人以下企業に対し労使合意に基づき適用拡大を可能にする改正が盛り込まれ、同年12月に成立に至りました。こちらは2017年4月から施行されています。
 こうした状況下で、今回さらなる適用拡大に向けた審議が始まったわけです。まだ議論が始まったばかりですが、1回目に出された資料には、現在の適用要件についていくつかの意見が示されています。今後の改正の方向を占う上で重要な項目が並んでいます。
 ①週所定労働時間20時間以上については、雇用保険の下限であることからも妥当という意見のほか、最終的には時間要件を撤廃し賃金要件に一本化することもあり得るのではないかとか、20時間未満の複数の仕事を掛け持ちする人の問題も指摘されています。
 ②賃金月額8.8万円以上については、最低賃金水準で週20時間働くと月額5.8万程度となるのでそのような労働者も適用される水準とすべきという意見が示されています。
 ③勤務期間1年以上見込みについては、労働時間4分の3要件を満たす者は2か月以上で適用されるのに、短時間労働者についてことさらに1年にする必要はなく、将来的には最低2か月で適用すべきという意見が示されています。
 ④学生の適用除外については、そもそも家庭を持っている学生や社会人経験を経て大学院で学ぶ学生、親の都合で休学して働く学生なども増えており、学生像が多様化している実態を踏まえれば一律に適用除外とする必要はないという意見が示されています。
 ⑤従業員規模501人以上については、中小企業への激変緩和措置として附則に規定されたものですが、いずれは引き下げるべきという意見とともに、適用拡大を極端に進めると必ず滞納事業所を生んでしまうので、実態をきちんと見て進めていくべきという慎重論も示されています。

そもそもれっきとした雇用労働者であるにもかかわらず、法律上は加入すべき被用者保険から排除されているということがおかしいわけですが、その人が第3号被保険者として別途年金が保障されているという状況が広く存在すればするほど、その排除が社会的に正当化されてしまいやすくなります。一方、過去十数年間進んできた(必ずしも家庭の主婦に限らない)非正規労働化の進展の中で、本来加入すべき社会保険からの排除に対する問題意識が高まってきたのも当然のことであったわけです。

こうして、2007年に再チャレンジ政策の一環として非正規への適用拡大法案が国会に提出されたにもかかわらず、廃案となり、民主党政権下で2012年にようやく成立しましたが、流通・サービス業界の猛烈なロビイングで、500人以下企業は拡大対象から外され、今回再び議論が始まっているわけです。この問題については、もう一回来週にもWEB労政時報に解説を書く予定です。

 

 

2019年5月 5日 (日)

自民党の政策集に全国一律最低賃金?

入管法改正による特定技能在留資格の外国人労働者の導入がすでに始まっていますが、そこから湧いてきたトピックとして、(以前から水面下では議論されていたとはいえ)全国一律最低賃金の導入が急に政策課題の土俵に上ってきたわけですが、厚労省課長発言とその直後の官邸の否定でいったん収まったように見えていましたが、依然として火口は繋がっていたようで、昨日の産経に「自民、最低賃金を一律化 参院選 政策集に明記へ」という記事が載っています。

https://www.sankei.com/economy/news/190504/ecn1905040003-n1.html

 地域間で異なる最低賃金(最賃)について、自民党が夏の参院選で公約とともに取りまとめる政策集に一律化の検討方針を明記する方向で調整していることが3日、分かった。相対的に低い地方の最賃を底上げすることで、人件費が増えても一定の利益を上げられるよう企業に努力を促し、日本全体の生産性向上などにつなげる狙いだ。
 経営への影響が大きい中小企業が、参院選で激戦の予想される地方に多い点にも配慮し、扱いは中長期的な課題にとどめる方針。
 安倍晋三首相は平成27年11月、最賃について、毎年度3%程度引き上げて、将来的に全国平均で千円を目指すと表明し、現在は874円まで達した。ただ、最高の東京都(985円)と最低の鹿児島県(761円)で224円の格差があり、外国人を含めた地方から都市への人材流出の一因となっている。一方で、労働力確保のコストが都市よりも抑えられることから、生産性の低い地方企業を温存することにつながっているとの指摘も出ている。
 自民党は今年2月、最賃の格差解消に向け、有志議員が「最低賃金一元化推進議員連盟」(会長・衛藤征士郎元衆院副議長)を設立。最賃一律化が持論で政権幹部とも親交のあるデービッド・アトキンソン小西美術工芸社社長らと意見交換し、必要な法整備を訴えている。議連では厚生労働省の担当課長が業種別の一律化を主張し菅義偉官房長官が全否定する騒動も起きた。
 ただ、党幹部も一律化の必要性自体は認めており、議連側の要望を受け入れ、選挙公約としての拘束力は弱い政策集「Jファイル」に地方の反発を招かない表現で一律化を盛り込む方向で調整することになった。実現に向けては、最賃の底上げを後押しするよう実効性のある補助金などの仕組みづくりも課題となりそうだ。

よく読むと、あくまでも「一律化の検討方針を明記する方向で調整」であって、直ちに全国一律最賃を導入するというような話ではなさそうですが、今の時点でこういう記事をリークするということに、何らかの意図が垣間見られるのかもしれません。

 

2019年5月 4日 (土)

2019年東京大学ジェロントロジー概論

例によって今年も東京大学高齢社会総合研究機構のジェロントロジー講義に参加します。

今年のポスターは以下の通り。

Kourei

イエスマンを作り出したのはあなた方ではないのか?

例によって、内田樹氏の壮大なブーメラン的言説をからかうエントリです。中身に新しいことは一つもなく、すべて過去のエントリに尽くされていますが、内田氏が性懲りもなくこういうことを口走るので、

https://dot.asahi.com/dot/2019042500087.html (「イエスマン」をつくり出した就活の罪は大きい 思想家・内田樹の助言)

就職活動で「即戦力」という言葉を耳にするようになったのは、1990年代以降のことだ。この頃に企業の人材育成のあり方が変わったのだと思う。

 それまでの経営者は大学にあまり専門的な知識や技能の教育を求めなかった。

「専門的なことは入社してから教えますから、大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」。経営者たちからはそういう言葉をよく聞いた。

 それが変わった。研修をスキップしてすぐに仕事ができる「即戦力」を求めるということは、「人材育成コスト」を外部化して大学に押し付けるということである。「即戦力」を求める企業は端的に「人を育てる手間と金が惜しい」と言っているに等しい。

 そもそも採用側は大学に「即戦力」としてどんな能力や知識を習得させてほしいのか。卒業後の進路が全く違う学生たちに、企業それぞれの特殊性に合った知識や技能を大学が教えられるはずがない。にもかかわらず大学にあえて「即戦力」を求めるのだとすれば、ここで求められているものは具体的な知識や技能ではなく、むしろある種の「心性」だということを意味している。

 それは「イエスマンシップ」である。どのような理不尽で無意味な業務命令であっても、上司の指示には抗命しない、質問もしない。どんな命令にも「イエス」と即答する、そういう従属的なマインドセットを企業は求めている。

 それならどんな教育機関でも教えられる。学生に理不尽で無意味なタスクを強制して、「これになんの意味があるのか?」と教師を問い詰める学生を低く評価し、何も聞かずに黙って教師の指示に従う学生を高く評価する。それならどんな教育機関でもできる。

 だから、いま大学で「キャリア教育」という名の下で行われているのは「エントリーシートの書き方」「面接の作法」というような実務レベルをとうに超え、「お辞儀の角度」とか「ノックの回数」とか「業種別化粧の仕方」というまったくナンセンスなものになっている。そういうことが「ナンセンスだ」と思う学生を排除するスクリーニングとしてはよくできた仕組みである。・・・

拙著『若者と労働』で詳しく解説したように、このジョブのこのスキルがあるという「売り」を何一つ持てないままで労働市場で自分を売り込まなければならないという状況こそが、そう、言葉の正しい意味での「即戦力」が交渉のための素材でありえない状況こそが、内田樹氏の言うところの「イエスマンシップ」をその代替物として提示しなければならない状況のもとになっているということが、どうしてこの(「思想家」とやら自称しているらしい)人にはわからないのだろうか。

そして、そういう言葉の正確な意味での「即戦力」、「専門的な知識や技能の教育を求め」ることなく、「大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」とだけ求めてきたメンバーシップ型雇用システムこそが、そういう真の即戦力なき「イエスマンシップ」を測定不可能な職業能力の代替指標として提示せざるを得ない状況を作り出して来たというあまりにもわかりやすい因果関係を、この(信じられないことに「知性」を売り物にしているらしい)元大学教師はかけらも理解することができないらしいのだ。

いや、正確に言えば、理解する回路が初めから閉ざされているのだ。なぜなら、内田樹氏のような人々こそが、学生にいかなる「専門的な知識や技能の教育を求め」ることなく、「大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」とだけ求めてきた企業の最大の共犯者たちなのだから。企業が学生に「イエスマンシップ」を求めるような状況のおかげで飯を食ってきた者たちこそ、内田樹氏自身ではないのかという最も初歩的な反省のかけらもないこの独善ぶり。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html (「就活に喝」という内田樹に喝)

・・・もちろん、なぜそうなるかという理由もはっきりしていて、日本の企業が少なくとも文科系学部については「大学で勉強したことなんて全部忘れろ、これから全部仕込んでやる」という人材養成システムであったことが、大学で学ぶことに職業的レリバンスをほとんど不要とし、結果的に内田氏のように、卒業したら企業に就職するしかない学生たちをつかまえて、あたかも哲学者の師匠が哲学者たらんとする弟子たちを鍛える場所であると心得るような事態を放置してきたからであるわけです。
「大学に何にも期待しない企業行動の社会的帰結としての企業に役立たない大学教育」が、自己完結的な価値観に基づいて行動することによる矛盾は、企業でも大学教師でもなく、その狭間で苦悩する学生たちに押しつけられることになるわけですが。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8f84.html (就職活動ではなく入社活動だから)

・・・就「職」活動が、言葉通り、ある「職」に就くための活動であるならば、学生は自分が当該職務を遂行するために求められるこれこれの能力を有しているということを適切に提示することがその活動内容となるはずです。そして、それを示すために一生懸命になることは、「人格を組織的に壊す」ようなものというべきではないでしょう。職務能力の劣る人間を優れた人間よりも優遇しなければならない理由はありません。
しかし、日本の正社員の雇用契約とは、「職」を定めない「空白の石版」ですから、能力を示すべき対象の職務も無限定です。従って、正社員になることは就「職」ではなく、入「社」(会社のメンバーになること)であり、その際における「査定」とは、会社の中に存在するあらゆる職務を、命じられれば的確にこなせる「能力」を査定されることになります。いわば、「空白の石版」自体の性能を査定されるわけで、そこに何を一生懸命書き込んでも、それは参考資料にしかなりません。・・・

・・・しかし、この最も重要なポイントを、内田氏が指摘できないのは当然です。なぜなら・・・企業が「空白の石版」自体の性能、言い換えれば「人間力」によって採用してくれていたからこそ、会社に入ってからの職務になんら関係のない内田氏の教育が単なる趣味活動ではなく、「人間力」養成のための活動として(それなりに)評価してもらっていたわけでしょう。それを批判するのは、まさに天に唾するたぐいといえます。・・・

・・・大学さんの職業的レリバンスなき教育と企業側の「空白の石版」的雇用システムが隠微な共生関係にあったのじゃないの?と皮肉っているだけです。・・・職務能力に基づく採用・就職活動を嫌っているという点で、大学と企業はまったく同じ立場でしょう。ケンカですらない。本質を外した責任のなすりあいをしているだけ。・・・

(追記)

なぜかホッテントリとなり、コメントがいくつかつていますが、例によってどっちが正しい間違っているとか、どっちの味方だ敵だというたぐいのコメントばかりで、一番肝心のこと、つまり内田樹という「知性」を売り物にしているらしい「思想家」と自称している人物の議論が、まるで矛盾撞着しており、壮大なブーメランになっているという点には皆さん関心がとんとなさそうなのが、はてぶの世界を象徴しているのでしょうね。

どっちの立場に立とうがそんなことは二の次三の次で、どっちでもありうる。断固として内田氏のような大学教授を大量に扶養しうるような「専門的なことは入社してから教えますから、大学では語学と一般教養をしっかり教えてください」というメンバーシップ型雇用システムを擁護する立場があってもいいし、それを断固として糾弾する立場があってもいい。

しかしながら、およそ知性を売り物にするのであれば、およそ思想家を自称するのであれば、議論の半分ではこっち側、残りの半分ではあっち側というような都合のいい議論をしてはいけない。自分がとった立場の理論的帰結を知らぬそぶりで平然と非難糾弾するのは、少なくとも知識人と自称するのであれば、最も許されない所業でしょう。

本エントリにしろ、過去のエントリにしろ、要するにそういう話に尽きるのです。毎度毎度、性懲りもなくブーメラン言説を繰り返しながら、それを平然と「知性」の表れと演じてしまえるその厚顔無恥さにあきれてるのです。それだけ。

 

 

« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »