倉重・濱口対談全6回の焦点
先週金曜日から始まり、一昨日まで6回連載された倉重公太郎さんとわたくしの対談シリーズ、改めてまとめてリンクを張るとともに、その一番ホットな部分を少しづつ紹介しておきます。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190118-00111491/ (「日本型」同一労働同一賃金の欺瞞(前編))
濱口:この「注」が、2つのパラグラフからなっています。第2パラグラフは例の長澤運輸で問題になった、高齢者の定年後の再雇用の話が書いてあります。いちばん肝心の、一般の正規と一般の非正規の賃金制度が違う場合にはどうなのか、ということについては、第1パラグラフにほんの8行ぐらい書いてあるだけです。
倉重:はい、そうなっていますね。
濱口:正規と非正規が、「将来の役割期待が異なるため、賃金の決定期限、ルールが異なるという、主観的、抽象的説明では足りず、賃金の決定期限、ルールの違いについて、これこれ職務内容や、この変更範囲、その他の客観的具体的な実態に照らして不合理なものであってはならない。」というだけですね。99.99%の会社はこれで対応しろというわけです。
倉重:ほとんどの企業に適用される超重要な記載が、「注」にあっさり書かれているんですよね。
濱口:「将来の役割期待が異なるため」だけでは駄目だとすると、それをどれくらい詳しくパラフレーズしたら合理的で、不合理でなくなるのか、ということが、何も分かりません。0.01%しか適用されない同一制度適用ケースについては、数ページぐらいかけて、「これは○、これは×」という空疎なものを延々と書き連ねた揚げ句、99.99%が対象になるであろう異なる制度適用ケースについては、こんな訳の分からない抽象的なもので済ませているのです。しかもこれは、実は2年前のものなのです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190121-00111494/ (「日本型」同一労働同一賃金の欺瞞(後編))
濱口:私は一連の話だと思っているのです。私が同一労働同一賃金について、労使団体などいろいろなところでお話をさせていただく時に、必ず言っていることがあります。それは、何が合理的で、何が合理的でないかという判断基準は、やはり集団的な労使関係の枠組みで決めるべきだということです。まずはそこで働いている人たちの多数が合理的だと認めることが重要です。
もちろん、それが最終的というわけにはいきません。司法が最終判断を下すわけですが、司法が判断するときに、労働者の多数が納得しているのだから、それは合理的だと認定することが望ましいのです。個人的には、十数年前に挫折したこの問題を、今回やる機会だったのではないかと思っていました。
倉重:まさに前回荻野さんも対談で仰っていたのですが、新時代の労使関係、特別多数労組であるとか労使委員会の考え方が今後重要になりますからしっかり法制化したかったですね。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190122-00111497/ (新時代の集団的労使関係のあり方)
濱口:昨日もまた、労働組合基礎調査が発表されました。数は1,000万人を超えました。ですけれども、組織率は17.0%で、どんどん下がる一方です。一部の組合は一生懸命、非正規などを入れて、気を吐いていますが、全体としてはどんどん下がる一方です。その意味で、私はこれはいい機会だと思うのです。企業側が何が合理的か不合理か分からないという状況下で、「いや、ちゃんと組合が話をつけたから大丈夫だぞ」と、「その大丈夫な組合というのは非正規を入れた組合だぞ」というふうにすれば、これは企業側にとっても、法的安定性が得られるし、組合にとっても、それを利用して、組合を拡大できるのです。いい話ではないですか。
倉重:いいですよね。企業にとっても、労働組合にとっても、Win-Winですよね。
濱口:Win-Winなのです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190123-00111500/ (これからの高年齢者雇用)
濱口:本当に、40代や50代の人の能力はそんなに高くなっていると、本気で思っているのだったら、能力が上がり続けて60歳に達したと本気で思っているのだったら、なぜその人が定年で辞めた後に……。
倉重:なぜ急にがくっと下がるのかということですね。
濱口:そうです。半分や、3分の1に下がるのだということです。要は、本当はその人間の能力は、それぐらいだったと思っているのでしょうということです。
倉重:60を過ぎて、ようやく本性が出てくるみたいです。
濱口:本性といいますか、つまり、能力という名の下に上に積み上げられてきたものが、定年に達したとたんにひゅっと消えます。では、その上に乗っていたものは一体何だったのかということが、先ほどの話に戻るわけです。もし生活給だったというのであれば、それは分かります。子どももだんだん成長して、「近頃はみんな子供を大学に行かせるし、田舎から東京の大学に行かせたら、下宿代も大変で」というわけで、実によく分かります。実のところ、本当はそういう話だと、みんな分かっているわけです。分かっている話なのに、建前上はそうじゃないことにしているわけです。能力が上がったから賃金が上がっていたと。それが、突如として60歳の誕生日を迎えた途端に、能力が激減するということです。
倉重:おかしな話ですね。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190124-00111503/ (若者の雇用と「能力」)
濱口:鋭いといいますか、実は戦後日本の雇用問題の鍵になる言葉は「能力」なのです。先ほども同一労働同一賃金のところでお話しましたし、高齢者のところでも出てきました。つまり、全ては、「能力」という融通無碍(むげ)でいわく不可解な概念の中にあるのです。いろいろな人が「能力」という言葉の中に、いろいろな、自分が読み込みたいものを読み込むことができます。それはもちろんメリットもあって、何でも全部「能力」ということにできるから、物事がうまく回る面が間違いなくあったのは確かでしょう。ですけれども、逆に言うと、その「能力」という言葉に振り回されて、何をどうしたら「能力」があると認めてくれるのか分からないというのが、若者が置かれている状況です。もっと言うと、能力を見て採用を判断しているはずの企業側が、「あなた一体何を見て判断しているのですか」と言われても、思わず絶句してしまうわけです。
倉重:人によっても違ったりします。これは一体、どういうふうに変わっていくのでしょうか。あるいは明確にすべきという問題でもないのかなとも思います。とはいえ、まさに得体の知れない「能力」というものに、人事側もいろいろな思いを込めています。学生側は学生側で振り回され、なかなかにかわいそうだなというふうに思うのです。
濱口:かわいそうなのは確かですが、ここは、やや皮肉な、かつ冷たい言い方をすると、日本の学生のかわいそうさは、「贅沢なかわいそうさ」なのです。
倉重:就職自体はできますからね。
濱口:つまり、欧米の若者のかわいそうさは、「おまえは仕事ができない」と言われてしまうことです。
倉重:そうですね。「おまえ、能力はないだろう」ではなく、「スキルはないだろう」というリアルなかわいそう、ですね。
濱口:そうです。スキルがないということです。言い換えれば、「能力」で判断してくれないのです。スキルで判断されるわけです。だけど、仕事をした経験がなく、ずっと勉強してきたばかりの若者に、スキルがあるはずがないのです。そうすると何が起こるかというと、卒業即無業、失業です。それでどうするかというと、インターンシップと称する……
倉重:買いたたきですね。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190125-00111506/ (労働法は何を守るのか?)
倉重:年間100件ぐらいですかね。判決まで行く解雇事件は。
濱口:それが、労働判例や、労経速などに載って、やがて判例集に収録されることになります。それだけでもって、みんな「解雇法制はこうだ、ああだ」と論じるわけです。その下に99.何%の。
倉重:それほどの量がありますか?
濱口:労働局の相談件数でいえば、解雇、雇止め、退職勧奨などの雇用終了事案で、年間約7万件あり、斡旋まで行くのが2千件くらいでしょうか。もちろん、そういうことが、理解されていないわけではありません。こういうことを言うと、「いや、それは分かってるよ」と言われます。あることは分かっているけれども、でも結局、解雇法制をどうするかという議論になると、一番上に突き出た、小指の爪の先みたいなところだけを取り上げて「ああだ、こうだ」という議論になります。今の、法的・技術的問題点の検討なるものも、そういうことです。一番上にちょこんと突き出た所について、客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当でないものはすべて無効であるという法理論を大前提にして、あたかも全ての年間数万件、労働局の窓口にすら来ないようなものまで含めたら、もしかしたら数十万件もの解雇にも適用される議論をしようとしている。
倉重:もちろんそうです。
濱口:しかし、そのような圧倒的大部分は、無効だの何だのという話とは関係ない世界で動いているわけです。倉重:労働者と言うかどうかは別として、働く人を保護するという役割ですね。デジタル時代の労働法といいますか。
濱口:「AIで仕事がなくなるからBIだ」というのは、私はあまり信用していません。やはり、仕方は大きく激変するけれども、人々が仕事をして生きていくというあり方自体は、そんなに変わらないでしょう。ただ、今までの労働法のあり方とは、相当変わることは間違いない。いつでもどこでも請負的に働く人たちを守るといっても、何をどう守るのでしょうか。労働時間規制をやたら厳格に適用し、裁量労働制や高プロをたたきつぶしたところで、いつでもどこでも仕事ができてしまうという実態は変わりません。笑い事ではなく、本気で労働時間規制を適用しようとしたら、家でも、喫茶店でも、電車の中でも、すべて「おまえは今ちゃんと仕事をしているのか。仕事をしていないのか」というのを、モニタリングしてチェックしなければいけないということになってしまいます。これは、逆に言うと恐ろしいディストピアです。そこまで人は、見張られたいのですか。いつでもどこでもできる仕事に対して、労働時間か労働時間でないかを厳格にチェックしろという話になると、そういう結論にならざるを得ません。それはおかしいでしょう。ということは、やはり、労働法規制、労働者を守るために労働法で規制するということの、ありようを変えていかなくてはいけません。労働者の何を守らなくてはいけないのかということを、これは世界共通の問題として、今みんなが一生懸命考えつつあるところです。
« クリス・ヒューズ『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』 | トップページ | 『日本労働研究雑誌』2019年特別号 »
« クリス・ヒューズ『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』 | トップページ | 『日本労働研究雑誌』2019年特別号 »
コメント