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2019年1月 5日 (土)

高校普通科を抜本改革

昨日の読売新聞の一面トップに、

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190104-OYT1T50006.html (高校普通科を抜本改革…新学科や専門コース)

政府・自民党は、高校普通科の抜本改革に乗り出す。画一的なカリキュラムを柔軟に見直し、専門性の高い学科とすることが柱だ。各校の独自色を高め、生徒が明確な目的を持って学べるようにする狙いがある。文部科学省令などを改正し、2021年度からの導入を目指す。
 教育改革は小・中学校と大学が先行し、高校は事実上、手つかずになっていた。「高校は『大学への通過点』の位置付けが強まっている」(文科省幹部)のが現状で、政府・自民党は進学者数の7割超を占める普通科を見直し、高校の魅力を高める必要があると判断した。
 普通科は、卒業に必要な74単位のうち国語や数学、理科などの普通教科10科目と総合的な学習で38単位を取れば、専門教科を学べる。しかし、実際には残り36単位も大学入試に絡む科目に偏っている。・・・

これ、実は戦後職業教育史を知っている人からすると、ものすごいデジャビュな話なんですね。

11021851_5bdc1e379a12a_2 これまた『日本の労働法政策』から引きますが、

第5章 職業教育訓練法政策
第2節 職業教育法政策*59
2 戦後の職業教育*61

(4) 近代主義時代の職業教育

 1963年1月の人的能力政策に関する経済審議会答申は、「能力に基づかないで、学歴によって人の評価を行おうとする社会的風潮」による「アカデミックな普通教育を尊重し、職業教育に対するいわれのない偏見」を指摘し、「職業課程だけでなく、普通課程そのもののあり方が根本的に検討されなければならない」と主張していた。具体的には、アカデミックな性格のB類型に対し、プラクチカルな性格のA類型の普通課程では、技術革新時代にふさわしい実践的教科をその中核とすること、適性に応じて普通課程から職業課程相互の転換を可能にすること、中学校の技術・家庭科を高校まで一貫した教科とすることなどを提言している。また、職業教育については、学校と企業が連携して、定時制だけでなく、全日制職業高校でも生産現場で実習を行うことや、定時制や通信制高校の課程を認定職業訓練として履修できるようにすることなどが提示されている。
 また1965年12月に文部省と労働省の間で交わされた「社会・経済的需要に応ずる学校教育及び技能訓練について」でも、後期中等教育の内容形態を再検討し、職業教育を主とする学科の拡充を図るとともに、高等学校教育全般について、職業及び実際生活に必要な教育をより拡充するとしていた。
 こうした中で、1966年10月の中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」は、普通科、職業科を通じて、生徒の適性・能力・進路に対応して、職種の専門的分化と新しい分野の人材需要に即応するよう改善し、教育内容の多角化を図ることを求めた。これを受けて設置された理科教育及び産業教育審議会は、1967年8月と1968年11月に「高等学校における職業教育の多様化について」答申し、これに基づいて金属加工科、電気工作科、事務科、経理科、営業科、貿易科、秘書科等々の多様な学科が設置された。

(5) 職業教育の地位低下と復活

 こういう政策方向は、職業能力と職種に基づく近代的労働市場の形成を目指す労働政策と対応していたが、現実の企業行動が終身雇用慣行や年功制を捨てることなく、逆にそれを強化する方向に動いていく中では、決して主流化することはなかった。高校卒業者を採用する企業側が、「工業科卒でも農業科卒でも、ともかく一定の基礎学力と体力があればよいというわけで、とりたてて工業の専門的知識・技術の習得を必要としな」くなったのである。職務意識が希薄化する日本社会においては、過度に細分化された職業学科はかえって無意味なものとなってしまったのである。
 そういう時代状況の中で、1973年3月、文部省の理科教育及び産業教育審議会の産業教育分科会は、「高等学校における職業教育の改善について」をまとめ、基礎教育の重視、教育課程の弾力化などを提言し、これが学習指導要領に取り入れられた。ちなみに、同じ頃日教組が提起した案では、普通高校、職業高校を廃止して全て総合高校とし、普通教育を行うこととするなど、この方向性が極端に現れているが、マクロに見れば日本社会全体の流れを反映したものであったといえよう。
 石油ショック後、労働政策も日本的雇用慣行を評価し、維持強化する方向に大きく舵を切るが、これは職業教育であれ、職業訓練であれ、企業内能力開発以前の公的な職業教育訓練システムの社会的地位を引き下げるものでもあった。企業内のOJTを称揚する労働経済学の知的熟練理論からすれば、職業高校や職業訓練校の存在意義は極小化される。こうして、職業訓練校ほどではないにしても、職業高校は普通科にいけない「落ちこぼれ」の集団という社会的スティグマがより強く押されることになる。江戸時代の士農工商をもじった「普商工農」なる言葉が人口に膾炙した。みんなが普通科にいけるようにしようという「進歩的」な考え方ほど、職業教育をおとしめるものはなかったというべきであろう。企業主義の時代は、職業教育にとって冬の時代であった。

これどこまで本気の話なのかよくわかりませんが、記事の最後に

・・・月内に自民党の教育再生実行本部が、普通科見直しを求める中間報告を政府に示す。政府の教育再生実行会議を経て、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が今夏をめどに文科省令などの制度改正に向けた議論を始める。

ただ、特色ある教育を実現するには、高い専門性を持った教員の確保が今後の課題となりそうだ。

とあるので、結構喫緊の話なんでしょうね。

ちなみに、底辺普通科の話については本ブログでも過去何回か取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html (専門高校のレリバンス)

・・・これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/6-3e75.html (「日本型雇用システムと職業教育の逆説」@『産業と教育』6月号)

・・・今日の状況を鮮やかにえぐり出しているものに、『教育社会学研究』第92号(2013年8月)に掲載された児美川孝一郎「教育困難校におけるキャリア支援の現状と課題」という論文がある。これは、なにかと問題の多い大阪の偏差値の低い高校「教育困難校」3校を取り上げて、その状況や取り組みを述べているのであるが、職業的レリバンスがない高校ほどほどひどい状態になっているという結果が示されている。
 最初の普通科X校は、偏差値36である。尼崎に近いところのようで、ずっと定員割れが続き、入学者の半分しか卒業に至らず、卒業者の半分がなんとか就職にこぎ着ける。先生方は丁寧な寄り添うような進路指導をするのだが、いわゆる「荒れた学校」で、授業が成立しないような生徒たちに履歴書を書かせるので精一杯であり、その困難はきわまる。
 次の工業科Y校は、偏差値37である。中小企業集積地とあるので東大阪であろう。偏差値はX校と大して変わらないが、入試倍率は1倍を下回ることはなく、就職実績は遙かに高い。約3割は工学系の大学や専門学校に進学し、7割が就職するがすべて正規雇用で、大手・中堅も多い。
 非常に面白いのがY校と同じ地域にある普通科Z校であり、偏差値37である。X校同様の「荒れた学校」として「Z校に行っているなんて、とても言えない」ような状況だったが、地元密着の学校づくりを目指し、普通科高校でありながら2年次から専門コースを設け、週1回インターンシップに行かせるなどしたところ、その評判は「見違えるくらい変わった」という。
 というとZ校の成功物語のようであるが、実はよくなったのは専門コースだけである。そして、2013年度からこの専門コースを総合学科として独立させることになっていて、取り残された普通コースは依然として「困難校」のままである。同じ偏差値なら普通科に行くより専門高校に行く方がはるかに人生の未来が開かれるというこの現実を、しかし普通科進学が議論の余地なき「善」であった時代に青年期を過ごした世代の親たちは、必ずしもよく知らないまま子供たちの進路を左右しているのではなかろうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html (「職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる」はずがない)

それにしても、職業教育訓練重視派が主張していることになっている、

>命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる

なんてのは、一体、どこのどなたがそんな馬鹿げたことを申し上げておるんでごぜえましょうか、という感じではあります。
もちろん、金子さんの言うとおり、

>職業教育ならびに職業訓練はある特定のスキルを習得することを前提としています。つまり、ある職業教育を受けるということはその時点でもう既に選択を行っているのです。すなわち、選択が前倒しされるだけなのです。この世の中に無数にある職業の大半に接するなどということは実務的に絶対不可能です。ということは、職業教育はその内容を必ずどこかで限定せざるを得ない。

職業教育訓練とは、それを受ける前には「どんな職業でも(仮想的には)なれたはず」の幼児的全能感から、特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定以外の何者でもありません。
職業教育訓練は、

>この意見が人々を惹きつけるのは「選択の自由」という言葉に酔っているからです。

などという「ボクちゃんは何でも出来るはずだったのに」という幼児的全能感に充ち満ちた「選択の自由」マンセー派の感覚とは全く対極にあります。
職業教育訓練とは、今更確認するまでもなく、

>選択を強制されるのはそれはそれなりに暴力的、すなわち、権力的だということは確認しておきましょう。

幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為です。
だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。
まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。
もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

おかしな議論に振り回されないように、はっきり確認しておくべきでしょう。上記記事に示されている自民党の高校普通科改革政策とは、「特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定」の強制であり「幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為」であり、それゆえにこそ「何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷」さを回避するために必要な残酷さであるということです。

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コメント

この文章に少し手を加えて、是非読売なり朝日なりに掲載して頂きたい。
先生の醒めた提言?こそ、本質的に必要とされていると思いますから。

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