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スウェーデンは「ナチ」か?(再掲その他)

51dquhkp9rl_sx306_bo1204203200_ なんだか、富山が日本のスウェーデンだという本が出て、それを批判する人が出てきたとかいう話があるようですが、なんだかスウェーデンていう国そのもののイメージがすこしずれている感も無きにしも非ずな感があり、本ブログの過去エントリをいくつかお蔵出ししてもいいかもしれないという気がしてきました。

これはもう10年も前のものですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html (スウェーデンは「ナチ」か?)

雑誌『オルタ』の7-8月号が「北欧神話?―グローバリゼーションと福祉国家」という特集を組んでいます。
http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_07-08.html
この最初の市野川容孝さんと小川有美さんの対談がなかなか面白い。

>小川 ところで市野川さんは『社会』という本をお書きになられていますが、北欧にとって「社会」はもっともベーシックなキーワードで、社会(ソーシャル)を抜きにして国家(ステート)は語れません。ただ北欧の場合、国家に対して社会があるとの考えが希薄で、スウェーデン語の「社会」という言葉の中には「国家」の概念が入っているといわれています。社会が解決しなくてはいけないというときは、市民社会だけでなく国家も含め解決しなくてはいけない。この社会と国家の近い関係は、ラディカルな市民社会論の立場からは、「北欧の社会運動や環境運動は飼いならされたものだ」といった批判が向けられます。逆に北欧の組合や運動の側は、自分たちが組織率が高く、国家の意思決定にも参画できている、高度で活発な市民社会だと自負していたりする。こうした「社会に近い国家」を私たちがどう見ていくのかは、「モデル」ということ以上に、討議する価値があると思います。

もちろん、問題は、「ソーシャル」のかけらもないくせに、スウェーデンは解雇自由だという間違った思いこみだけでスウェーデンモデルを振り回す無知蒙昧さんなどではなく、国家はキライだけど「社会」はスキという「ラディカルな市民社会論」な方々にあります。北欧のことをよく知らないまま、そういう「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)でなんとなく憧れている人にとっては、次の会話は大変ためになるでしょう。

>市野川 ・・・それで、少し乱暴に言ってしまうと、今までソーシャルなものはナショナルなものと不可分で、ナショナル・ソーシャリズム、極論すれば「ナチ」しかなかった。つまり、ソーシャルなものがナショナルな境界、ナショナルな規制の中でしか担保されないというところがあったと思うんです。・・・・・・そこで、小川さんにお聞きしたいのは、北欧についてもソーシャルは結局「ナチ」でしかなかったのかどうかなんですが、その辺りいかがでしょうか。
小川 ナチス・ドイツのような自国民中心主義は、北欧のような小国ではそもそも成立しようがない。ただ、北欧福祉国家がナショナルなソーシャリズムから発展したかといえば、確かにそういう面があります。様々な歴史的背景がありますが、まず大きな転機として両大戦間の危機があった。世界大恐慌など戦間期に経済危機が深刻化する中で、共同体的な結合を志向するコミュニタリアン的な渇望が生まれていく。この時、議会制民主主義、社会民主主義が多くの国で挫折してしまいました。スウェーデンでは、社会民主党のハンソンがマルクス主義にはない「国民の家」というスローガンを唱えました。ソーシャルな救済とある種のコミュニタリアン的な価値が統合された形で、北欧の社会民主主義は生き残ったわけです。

つまり、一言で言えば、スウェーデンの社会民主主義とは「ナチ」である、と。
それが今もっとも先鋭的に現れている分野が移民問題になるわけです。

>現代ヨーロッパは、移民をめぐる問題で大きく揺れています。北欧も例外ではなく、福祉国家の価値観を共有せず、負担を十分に行わない移民、また男女平等とイスラム的な文化の衝突などに直面して、福祉国家の権利を国民に閉じようとする福祉国粋主義(ショービニズム)が問題になっています。つまり、国民的(ナショナル)に平等を確保することが、他者の排除を意味するようになってきている。それはまさにナショナル・ソーシャルゆえの境界化だと思うんですが、ではそこから、現実にここまできたナショナルな平等を否定すべきなのか、それは「赤子を風呂の水とともに捨てる」ことにならないかと。

こういう問題を真剣に考えないで、ふわふわと北欧ステキとかいってるのが「北欧神話」なんじゃないかとも思いますが、それはともかく、

>市野川 ソーシャルなものと多文化主義って、本来そりが合わないんですよね。・・・ソーシャルなものって、平等の創出に向けて介入や支援を呼び込んでいく一方、平等を求めるがゆえに、どうしても画一性の方に傾いてしまうんですね。

このナショナルな画一性、平等性ががっちりとあるがゆえに、解雇法制自体の規制度とは別に、北欧社会が雇用の流動性と社会の安定性を両立させているという面もあるわけです。わたしがよく引用する、「デンマーク社会って、国全体が一つのグループ企業みたいなもの」という某労組関係者の話ともつながってきます。
逆に日本はそういう画一性、平等性が欠けているというところから話が出発するのです。

>小川 北欧を持ち上げる論調では、最近ではしきりに「フレクシキュリティ」という言葉が濫用されていますが、大きな政府という部分はあえてあまり言われないんですね。公共部門により地方で雇用を創出し、男女の公私の共同参画を促進し、職業教育を行う。そうした公的な基礎的インフラがあっての労働市場の柔軟化であることが忘れられている。日本には市民的な反公務員・反増税感情があり、アナキズムの伝統もあり、北欧とはまったく異なる国家観を形成していると思います。

こういうところに、「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)が効いているんでしょうね。
ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。
(追記)
なんだか、相当な数のはてぶがついたようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html
多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。
むしろ、これは必ずしも市野川さんの意見とは同じではないかも知れませんが、わたしの歴史観からすれば、アメリカのニューディールも、フランスの人民戦線も、日本の国家総動員も、スウェーデンの社会民主主義も、「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムへ、という同時代的な大きな変革のそれぞれの諸国における現れなのであって、その共通性にこそ着目すべきではないか、という話につながりますし、日本の話で言えば、戦時下の国家総動員体制と終戦直後の戦後改革とが一連の「ナショナル」&「ソーシャル」なシステム形成の一環としてとらえられるという話にもつながるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-8023.html (スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性)

『大原社会問題研究所雑誌』の最新号が、「パターナリズムの国際比較」という特集を組んでいます。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/index.html

>【特集】パターナリズムの国際比較 
       
「スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性」 クリステル・エリクソン&ジョン・ボリビィ/石原俊時訳 
「フランス・パターナリズムの史的考察:19~20世紀」 アラン・シャトリオ/廣田明訳 
「近代日本の経営パターナリズム」 榎 一江

このうち、とりわけ一見パターナリズムとは正反対の国のように見えるスウェーデンにおいて、パターナリズムこそが市民的公共性の形成に重要な役割を果たしたことを説明するエリクソンさんとボリビィさんの論考が大変興味深いものです。お二人はエーレブロー大学の歴史学教授で、東大経済学部で講演されたものだそうです。
まだPDFファイルの形でアップされていないので、是非図書館かどこかで探して読んでいただきたいところですが、内容の要約を訳者解題でされているのでそれを引用しますと、

>本稿は、およそ一世紀半にわたるスウェーデン近現代史をパターナリズムという概念で捉え直すことを試みた意欲的な論考である。たとえば、従来、19世紀前半に形成されたスウェーデンにおける市民的公共性については、身分制的秩序からの解放や自由という側面が強調されてきたのであるが、著者は、市民的公共性と私的親密圏双方を貫く同時期の家父長制的な社会構造を明らかにしている。
>また、本稿は、19世紀末葉から企業におけるパターナリズムが台頭する社会民主主義労働運動を次第に受容していったのだが、その後、単に受容するだけでなく、社会民主主義政権のもとでの福祉国家建設あるいはその繁栄のために不可欠な役割を果たすようになっていったことに注目している。スウェーデン福祉国家は社会民主主義のみでは語れないのであり、そのよって立つ社会構造や歴史的展開を理解する上で、パターナリズムや保守主義といった要素を無視できないと主張している。

パターナリズム+社会民主主義=福祉国家、と。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-586c.html (パターナリズムについて)

先月(9月30日)のエントリで紹介した、『大原社会問題研究所雑誌』9/10月号の特集「パターナリズムの国際比較」が、PDFファイルとしてアップされました。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/index.html
この時間差がねえ。
前回も書いたように、「一見パターナリズムとは正反対の国のように見えるスウェーデンにおいて、パターナリズムこそが市民的公共性の形成に重要な役割を果たしたこと」を歴史分析から示しているクリステル・エリクソン&ジョン・ボリビィの「スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性」が、やはり読まれるべきでしょう。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-01.pdf
前回は訳者解題を書き写すので精一杯でしたが、今回はコピペできるので、この論文の最後の「総括」というところを丸写しにします。それだけの値打ちのある文章だと思うので、じっくり読んでくださいね。

>スウェーデンの市民的公共性の形成は,1830年代に始まった。19世紀末葉まで,この公共性においては,男性かつ上層の中間層の家父長が中心的な役割を果たした。家父長とそれに従う者との関係は,殆どの場合,対面的な関係であり,従属者がその関係を受け入れ,きちんと仕事をする限りその安泰を当てにできる,父親に対するような社会的・経済的信頼性に基づいていた。19世紀末,市民的公共性は変化し始めた。今や上層中間層の女性も,象徴的な消費者やフィランスロピーの担い手,ネットワーク的関係を強固にする存在としてますます中心的な役割を演じるようになった。
労働運動の台頭は,市民的公共性の変化を促した。権威主義的な家父長は,勃興する労働運動の公共性からの挑戦を容認しなかった。同時に,大企業の勃興は,工業企業家個人が従業員と対面的な関係を取り結ぶことを困難にした。資本主義的な市場関係が,部分的には家父長的な関係に代替することとなる。状況はまた,世紀転換期の民主化の進展や1918年から21年の民主主義の勃興[スウェーデンでは1909年に下院にあたる第二院について男子普通選挙権が導入された。第一次世界大戦末期よりの社会不安の中で,1919年にはすべての選挙での男女平等普通選挙権・被選挙権が議決された。最終的に21年には選挙権規定をめぐり憲法も改正され,女性も参加した初の総選挙が行われた。──訳者注]によっても変わった。このような経済的,社会的そして政治的な過程が,市民的公共性と労働者公共性の間の新たな交渉を強制し,先見の明のある中間層の家父長が従業員との間にパターナルな契約を書き改めることにつながった。子を従属させ,善良であるが罰を与える父親は,労働者を教育し,企業及び企業がある地域との連帯や協働の下に階級対立を克服しようとする,新しい中間層の家父長によって取って代わられた。労働と資本の関係は,製鉄所間の一つの競争条件となった。権威主義的な家父長は労働運動を認めることを拒否した。それにより,一連の破壊的な対立を引き起こした。〔このような〕教育する家父長のやり方は,首尾よくいけば,こうした類の対立を回避した。対立の代わりに,彼らは,階級を超えた交渉と協力の概念を作り出した。これが「ブルク精神」と呼ばれているのだが,ブルジョワジーのヘゲモニー的地位という脈絡において理解されるべきである。
市民的公共性の第三の転換は,労働運動の公共性が選挙勝利によって国家装置を動かす権力を獲得し,福祉国家を建設し始めた1930年代に起こった。当時,教育する家父長の政策は,上層中間層の保守主義的な部分を覆っていた。市民的公共性と労働運動の公共性は,合理化や経済成長の概念をめぐって協力し始め,それが,社会的・政治的福祉諸改革の前提となった。クリスティアン・フォン・シュードウは,1950年代に,さらに労使協力政策を発展させ,その他の家父長は,ブルジョワジーのヘゲモニーの観点に従って解釈した産業民主主義を提唱することにより,ブルクの労使協力の概念に再び息を吹き込んだのである。

日本におけるパターナリズムを考える上でも、大変参考になる枠組みだと思います。
同じ号に、榎一江さんの「近代日本の経営パターナリズム」も載っていて、これもいままでの研究史を手際よくまとめるとともに、国際比較の中でいろいろと考察されており、脳みそを刺激します。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-03.pdf
これまた最後の「おわりに」をコピペ。

>日本の経営史研究では,温情主義と経営家族主義とを重ね合わせて,それを日本的経営の特質としてきた。日本的経営の源流を探るという観点は,近代日本の特殊性に注目し,それを固有の文化や伝統の問題に帰し,国際比較の視野を閉ざしてきたように思われる。しかしながら,温情主義が特殊日本的現象ではなく欧米にも見られることは指摘されており,第二次大戦前の日本で温情主義の名のもとに設けられた慈恵的・福利増進施設の内容は,例えばアメリカのウェルフェアの内容と特に異なるものものではないという(58)。「日本的なるもの」を追求してきた研究史は,家イデオロギーを前面に出す言説レベルの分析に傾倒しすぎたきらいがある。それらは,経営の実態に迫る実証的な歴史研究によって,再考を迫られている。
本稿は,「温情主義」という言葉が普及した大正期に,パターナリズムが再編される過程に焦点をあてた。もちろん,それ以前に同様の施策がなかったわけではない。製糸業,とりわけ郡是製糸の例がそうであったように,労働者に対して法的な義務以外に何らかの施策をとることは広汎に見られた現象であった。しかし,それらは,「主義」としてではなく,個別経営による試行錯誤の中で様々な形態をとって実施されていた。その形態は,産業,企業によっても,あるいは,地域によっても異なっていたのであり,それぞれに合理性を有していた。そうした多様なあり方が「主義」として再編されていく過程において重要な役割を演じたのは,紡績業を中心とする繊維産業の経営者たちであり,そのことが日本の経営パターナリズムを特徴づけることになったのである。
近代日本のパターナリズムは第一次大戦期を経て大企業を中心とする経営者の言説において強化されていった。もちろん,言説と実際の経営における施策の間にはなおかい離があったし,こうした理念が労働者にどう受け取られたかはまた別の問題である。しかしながら,労働問題が経営問題となった以上,パターナリズムのあり方は経営の内実に即して分析される必要がある。その意味での実証研究は,始まったばかりである。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1692.html (だから、「サヨクやリベラル」じゃなく、「ソーシャル」の理想なの)

一知半解よりももっとずっとよく分かっている、九知八解くらいのレベルの認識なんですが、それを全体の認識枠組みにどう位置づけるかというところで、「イカニモ日本」的な「サヨクやリベラル」認識がデフォルトになってしまっているために、いささか残念な結論めいたものになってしまっているというところでしょうか。
http://ameblo.jp/englandyy/entry-11125681070.html(スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?)

>・・・そして、高負担だが高福祉のスウェーデンを見習えと言う声が強くなっている。まあ、いつの時代もスウェーデンというのはサヨクにとっては憧れの国らしい。では、本当にスウェーデンは安心・安全、人に優しい国なのだろうか?
>・・・スウェーデンでは「働かざるもの食うべからず」の考え方が徹底されている。そして、企業の倒産も解雇も当然のように起こる社会である。ただし、働く意欲のある人(おそらく北欧の人は勤勉であるからそういう人が多いはずだろう)を助けるためには救いの手を惜しまない。そのために、失業したとしても職業訓練などの制度は非常に充実している。また、女性が働くための支援も充実している。

「貧困の罠」に陥ってしまうことや労働市場から阻害されて働くことができなくなることがないように政府は各種の制度を充実させているのである。

まったくその通り。それこそが今日の西欧の左派の考え方であり、「ソーシャル」であり、そういう意味のものとして「スウェーデンは本当に弱者に優しい国」なんです。
そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような人が「スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?」などと反語めいた疑問形で問いを発するのでしょう。
この「wasting time?」さんは、一体どちらなのか、よく分からないところがあります。

>・・・サヨクやリベラルが理想として語るスウェーデンという国はどこにも存在しないのかもしれない。

そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような「サヨクやリベラル」をデフォルトに考えれば、この最後の捨て台詞めいた言葉は、まさしく「痛いところを突いた」痛烈な皮肉であり、いかにも気の利いた締め言葉ということになるのでしょうね。
「ソーシャル」を知らない「サヨクやリベラル」の小宇宙では、確かに通用する皮肉ではあります。
しかし、「サヨクやリベラル」への皮肉などという井の中の蛙を超えて、どこまで本気で上で自ら書かれた「ソーシャル」の理想を実現すべきと考えているのか、気の利いた皮肉の一つも言えればそれでいいというのでは、いささか残念なところではあります。
(つか、少なくとも近年出た本はどれも、スウェーデンを「サヨクやリベラル」的に褒め讃えているようなものはないように思いますが)

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コメント

お正月らしい?長文で今回は一粒で2度美味しいですね。200mじゃなくて2ヶ月は勉強に暇しなさそうです。(笑)
北欧においても戦前は優性思想が強く、戦後まで不妊治療が障害者に行われていたことは知っていましたが、パターナリズムについてここまで研究されていたとは知りませんでした。まぁ、個人的には日本の社会政策とパターナリズムについての海外の研究も気になりますが。。
今年は税の話題が多くなりそうですね。個人的には税や福祉、再分配に各々の社会なり共同体なりのΓ主観」が色濃く反映するように思うので、多分様々な極論や曲解が蔓延るんだろうなと思います。埋蔵金に惑わされた前科のある世論ですからね。。

投稿: 高橋良平 | 2019年1月 3日 (木) 23時12分

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