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2019年1月

倉重公太朗さんとの対談その3

というわけで、倉重公太郎さんとの対談「労働法の未来」は3回目に入ります。テーマは「新時代の集団的労使関係の在り方」です。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190122-00111497/

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ヴィクトリア・ヴァントック『ジェット・セックス』

377381 今年に入って、いくつかの地方新聞に、共同通信からの配信記事として、ヴィクトリア・ヴァントック『ジェット・セックス』(明石書店)の書評がぼちぼちと掲載され始めているようです。

http://www.akashi.co.jp/book/b377381.html

 スチュワーデスの歴史を描いた本という言葉に、若い人々はいささか時代遅れの感を抱くだろう。中高年の人々は、かつて見た「アテンション・プリーズ」や「スチュワーデス物語」といったテレビドラマを思い出すかもしれない。・・・・・・

地方在住の方の目にはすでにいくつか入っているのではないかと思います。

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水島治郎『反転する福祉国家』(岩波現代文庫版)

431806水島治郎さんの『反転する福祉国家』(岩波現代文庫版)をお送りいただきました。単行本をお送りいただいたのが6年前ですが、この間の世界の動きはますます水島さんの議論の素材を膨れあがらせてきたように見えます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b431806.html

見てのとおり、表紙の絵はレンブラントの夜警で、変わっていません。

6年前の本ブログで述べたように、

ここで述べられているのは、世界が賞賛するオランダの「光」こそが「影」を産み出している最大の要因なのだ、というまことに皮肉な話であり、そしてそれは程度の差はあれ、どの先進国でも共通の現象、云うまでもなくこの日本も含めて・・・、という冷徹な認識なのです。

オランダという材料を使いながら、日本も含めた世界共通のメカニズムを浮き彫りにしていく手際は、改めて読み直してみてもさすがです。

今回書き加えられた「現代文庫版あとがき」では、その後の各国における動きなどにも触れつつ、とりわけ近年の外国人材の受入れ政策についてから口のコメントをしています。

・・・「人の開国」は、どこかの段階で必要なことだろう。しかし現下の日本では、問題も大きい。受入れ対象となる外国人材は、一部を除き定住・永住が前提とされておらず、いつかは帰国する存在として想定されている。「移民」ではない、というのである。

しかし、「いつかは帰るだろう」という目論見通りに事が進まないことは、オランダを初め欧米諸国の先例を見れば明らかである。働きに来る外国人の多くは、これから長きにわたってホスト国で生活していく人間なのだ。だがその現実から目を背け、「本来帰国するはずの外国人」が「帰国せずにとどまっている」ことへの社会的な違和感が次第に募り、それが日本人の側の経済的な困難と結びつけて解釈されるならば、それが排外的な政治運動の温床に転化するのは、なんら不自然なことではない。まさにオランダやヨーロッパが歩んできた同じ道であり、またしてもデジャブ(既視感)の出番である。しかしそうだとすれば、いったい私たちはなにを学んできたのだろうか。・・・

ワークシェアリングだ、フレクシキュリティだと、かっこよさげな「様々な意匠」の輸入販売に余念のない出羽の守諸氏が、しかしその輸入元の「影」の部分をどれだけしっかりとつたえてきたのだろうか、というこれは私自身も含めた反省材料のはずです。

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『情報労連REPORT』1-2月号

190102_cover『情報労連REPORT』1-2月号をお送りいただきました。特集は「政治とのつながりを見つめ直すいくつかのメッセージ」ですが、

http://ictj-report.joho.or.jp/special/

ここでは最近富山県褒め殺しで話題の井手英策さんの本来の議論から、

http://ictj-report.joho.or.jp/1901-02/sp06.html(「弱者救済」に怒り出す人々 新しい利害関係こそが必要)

190102_sp06_face財政とは本来、誰かのために存在するのではなく、自分も含めたみんなのために存在するものです。専門的には共同需要の共同充足と呼びますが、みんなが必要とするものだから、みんなが受益して、みんなで汗をかいて税を払う。これが元々の仕組みです。

ところが日本では、この20年間、財政危機と無駄を省けの大合唱が繰り返された結果、財政が私たちの暮らしのために何かをしてくれるという発想が弱まりました。税は誰かに取られるもので、自分には返ってこない。人々がそう感じれば、財政への関心が薄れるのも当然です。

関心が薄れるというか、先日の本ブログのこのエントリの言い方を使えば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-02b2.html(バカとアホが喧嘩するとワルが得する)

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増税したら経済が破綻するというアホ軍団的な関心か、増税して財政再建すべしというバカ軍団的な関心しかなく、いやそういうねじれた関心だけは異様に高いのに、肝心要の増税して社会保障に、という本来の関心の筋道だけは異様に薄れてしまっているのが、いま現在の日本の特徴なんでしょう。

では、どうすべきでしょうか。僕は財政の原点に帰ろうと訴えています。財政の原点とは「必要主義」です。人間が生きていくために必要なものがある。それは人間であるからにはみんなに配られなければならない。そのためにみんなを受益者にしながら、みんなで汗をかこうということです。これが財政の原点です。

こういう当たり前のことを一から懇々と説いて回らなければならないわけですね。

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中曽根平和研究所設立30周年記念政策論集

Npi30thpp_2一昨年10月に、中曽根康弘世界平和研究所という、いかにも国際政治とか安全保障とかいったハードな領域を研究してそうなところに呼ばれていろいろとお話をしたことがあり、その影響とおぼしき文章がいくつか同研究所の刊行物に垣間見られたりしていましたが、昨年末に出された『設立30周年記念政策論集』には、かなりのページ数を割いて、「従来のメンバーシップ型雇用の良い点を取り込む形でのジョブ型雇用」という一節が書かれています。

http://www.iips.org/research/npi30thpp.pdf

もちろん、なんといっても中曽根康弘世界平和研究所なので、第1部は外交安全保障で、第2部がジョブ型論も含まれる経済社会、そして第3部が教育・科学技術と、まことに全方位をにらんだ作りになっています。

①外交安全保障(価値観を共有する諸国とのパートナーシップ、近隣諸国との関係の維持、より安定した国際環境の構築、我が国を取り巻く安全保障環境の変化への対応)

②経済社会(失われた20年とデフレとの闘い、投資・雇用・社会保障などの中期的諸課題、自由貿易・移民政策などの国際的側面への貢献と対応、人口構造の変化への対応)

③教育・科学技術(高等教育改革、教育機会の均等化、日本型エリートの育成、真の「科学技術創造立国」の実現のために、防災対策先進国、ICTの社会実装向上)

第2部のテーマ1が「テーマ1:失われた20 年とデフレとの闘い」で、テーマ2が「各分野における中期的諸課題」。その3つめに「従来のメンバーシップ型雇用の良い点を取り込む形でのジョブ型雇用」というのが出てきます。

要約するとこうなりますが、

提言4:「従来のメンバーシップ型雇用の良い点を取り込む形でのジョブ型雇用」を日本の転換期における雇用体系として取り入れよ
(趣旨)
これまでの日本の雇用である「メンバーシップ型雇用」は、現在の日本の経済環境およびこれからの労働環境を考えると変化が不可避である。しかしながら一足飛びに欧米で主流の「ジョブ型雇用」に転換するのではなく、これまでの日本企業の強さの源泉であった日本的雇用システムの良さを意識し、転換期の混乱を極力抑えた形での「日本の現状を踏まえたジョブ型雇用」というものをステップの一段階として取り入れよ。

これをもう少しパラフレーズすると、こういう話になるようです。

3. これからの働き方に関する提言

3.1 新たな雇用体系として「ジョブ型雇用」に転換せよ

 戦後構築された日本的雇用システムは、経済のグローバル化に伴い変質しつつある。この状況下において、労働政策研究所の濱口桂一郎所長は、「メンバーシップ型雇用」と「ジョブ型雇用」という概念を提示した。
 メンバーシップ型雇用では、労働者が従事すべき職務は「雇用契約で特定されているわけで」なく「あるときにどの職務に従事するかは、基本的には使用者の命令によって決ま」る(濱口, 2009, p3)。この職務の範囲や場所が限定されていない「無限定正社員」(≒所謂「総合職」社員)については、採用は新卒一括採用、教育は主にOJT や社内研修、評価は職務遂行能力の高低による。職務範囲や場所に限定はなく使用者の任意で配置転換も行われるが、これは使用者にとって権利である一方義務でもあり、不景気になっても雇用維持のためあらゆる努力をすることが課せられている。ただし定年による一括解雇は認められている。また、従業員が同一企業内・別業務間を異動していき、賃金その他処遇も企業単位で決まるため、賃金も年功・職能給が中心になり、労働組合も企業ごとに結成される。このように、日本型雇用システムの特徴たる「三種の神器」(年功序列、終身雇用、企業別労組)はメンバーシップ型雇用の「コロラリー(論理的帰結)として導き出され」る(濱口, 2009, p4)。
 メンバーシップ型雇用が日本企業に特有の雇用形態なのに対して、ジョブ型雇用は、欧米等の諸外国が主に採用している雇用形態である。「雇用契約でその内容を明確に定めて、その範囲内の労働についてのみ労働者は義務を負」い、「使用者は権利を持つ」のであって、「特定された労働の種類のことを職務(ジョブ)とい」う(濱口, 2009, p2)。企業はジョブの範囲で必要な人材を求め、労働者は自分の専門スキルを活かして適切なジョブを選択する。そのため企業は、社内教育するまでもなく、ジョブの範囲で必要かつ優秀な労働者を確保することができる。年齢・勤続年数や能力向上を理由とした昇給も必要がない。また企業は、合意なく配置転換できないが、ジョブ自体がなくなった労働者は雇用維持の努力をするまでもなく解雇できる。労働者から見ると、ジョブを遂行するスキルがあるかどうかが問題であって、努力してスキルを上げれば、より高賃金のジョブに代わることが可能になる。ジョブの範囲を逸脱した業務を行う義務はないから、同意なく別の業務・場所に異動させられることはないので、ワークライフバランスを図りやすい。
 これまでの日本的雇用システムとはメンバーシップ型雇用であったが、既述のとおりこのシステムを継続することは困難になっている。その上、生産年齢男性を中心としたメンバーシップ型雇用が維持され、処遇も業務内容も周縁に置かれたままで、女性や高齢者の力を活かすことが可能だろうか。現在の労働環境を鑑みると、メンバーシップ型雇用から欧米で主流のジョブ型雇用への転換を進めていくことが必要なのは明らかである。
 私たちは「ジョブ型正社員」という制度の導入に基本的に賛同する。
 ただ、現在のメンバーシップ型雇用は定着するまでに長い年月をかけ、日本社会に適合したシステムであり、その良さを残した雇用形態として、「日本式ジョブ型雇用」といった中間形態を有効なステップとして構築していく必要があろう。
 「日本式ジョブ型雇用」とは、現状のメンバーシップ型雇用をベースに、新規採用ではジョブ型雇用を増やし、既存の正社員に対しては希望者からジョブ型雇用への転換を進めていって、段階的にジョブ型雇用の正社員を増やしていく、という方式である。この場合、例えば既存制度と合わないジョブ型雇用対象の正社員は、いったん別会社に移籍して逆出向という形を採るということも選択肢としてあろう。
 残るメンバーシップ型雇用に対しても、メンバーシップ的要素を順次減らしていき、最終的にはジョブ型雇用に転換していく。最終的に全社がジョブ型雇用になるのか、一定規模のメンバーシップ型雇用を残すかどうかは、企業によって異なることになろう。企業によっては人事・総務部門や経営企画部門に関しては、これまでのようなジェネラリスト養成のキャリアが有効で、こういった部門にはメンバーシップ型雇用の社員を残していきたいという考えもあるだろう。
 ジョブ型雇用を主とする雇用制度に至るには、段階的にでもジョブ型雇用の社員を増やしていく過程から、職業教育の制度を整える必要があること、従来の新卒一括採用から欠員補充型採用に転換すること、賃金体系を年功給・職能給から職務給に変えていくこと等、企業内にとどまらない教育制度、社会制度の根本的な改革が必要になる。それでも現在の労働環境から、ジョブ型雇用への転換が不可避であるなら、できるだけ早くに、国レベルでこのような変革にも取り組んでいく必要がある。
 前述の濱口氏は、「職務範囲や労働時間および就業場所の一つ以上を限定した、期間の定めのない雇用契約を締結する正社員」という「ジョブ型正社員」というものを創出し、現在の日本の労働社会が、無限定の義務を負う「メンバーシップ型正社員」と、家計補助的低労働条件の「非正規労働者」という形で二極分解しつつあることに対し、その間に第三の類型を構築することで、対処しようとする戦略を提唱した。
 これも非常に有効な考え方ではあるが、当研究所では現状のメンバーシップ型雇用をベースに、段階的にジョブ型雇用の社員を増やすと同時に、非正規労働者はジョブ型雇用の社員に転換していくという「日本式ジョブ型雇用」を転換期の雇用形態として提唱する。なお、ジョブ型雇用での不可欠な作業は、ジョブ別の業務内容をできるだけ詳細かつ明確に記述したジョブ・ディスクリプション(職務基準書)を作成することと、個別のジョブに賃金的評価を行うことである。特に管理部門のような定量評価しにくい部門においては作成が難しい。しかしながら、ジョブ・ディスクリプションの徹底をひたすら追求していくことにより、ジョブ型雇用への転換が可能になり、ジョブ型雇用が支配的な雇用形態になっていく。
 更に、労働力の流動性を高めるためには、ジョブ・ディスクリプションを極力標準化し、企業横断的なものにしていくことが重要である。企業の独自性を担保しながらジョブ・ディスクリプションの標準化を進めていくためには、行政のリードも必要不可欠だと考える。

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経済学は政治の僕、政治は経済学者の陣取りゲーム

Kenjo東洋経済オンラインに、今はアゼルバイジャン大使になっている香取照幸さんが「経済学を学ぶ人が絶対に知っておくべきこと 無意識にあなたの価値観を支配する怖さ」というエッセイを書かれています。冒頭に本ブログでもおなじみの権丈善一さんの『ちょっと気になる政策思想―社会保障と関わる経済学の系譜』(勁草書房)が出てくることからも分かるように、社会保障の観点から世にはびこるケーザイ学のもろもろの論をぶった切っているんですが、そのなかに、言っている中身は結構おなじみとはいえ、なかなか表現が斬新で使えるじゃん!的なフレーズがいくつかあったので、紹介しておきたいと思います。

https://toyokeizai.net/articles/-/260784

・・・経済学における「理論」とは、要するところ「価値判断が1つの理論的体系にまとめられているもの」です。そしてその価値判断の出発点は個々の研究者の問題意識(=彼が追い求める「答」)であり、ゆえにその数だけ「経済理論」が同時に存在しうるし、現に存在しているのです。
言い換えれば、すべての経済学派は皆それぞれに「思想性」を持っていて、私たちはその「思想性」も一緒に経済学を学んでいるのです。そしていつしか、知らず知らずのうちにその経済学が私たちの物の見方・思想を支配するようになります。
このことをよくよく自覚すべき、と著者はいいます。「右側にせよ左側にせよ、経済学者の政策論は余裕を持って眺めるべし。一段高いところから俯瞰するような目線で見なさい」と。
経済学の根底には思想がある、ということは、経済学は「政策思想」を内包しているということです。なので、経済学の系譜はそのまま「政策思想―経済政策―の系譜」でもあります。
すなわち、経済学とは、実際の経済政策を支える理論的・思想的根拠として機能する「使える学問」なのです。このことが経済学を「社会科学の王者――現代における万能の政策ツール」たらしめた大きな理由です。・・・

これは権丈節そのものですね。

これに続くパラグラフが、このエントリの標題になります。

・・・政策をつかさどる人たちは、自分が目指す社会の実現のために政策を考えます。そのためには、自分の政策を基礎づけてくれる政策思想、価値観を共有し、方法論を提供してくれる理論的枠組み――ロジックが必要です。
彼らは、自分の考えを支えてくれる経済理論を「学派」の中から選び取り、それを学び、身にまとい、武器にして政策を立案し、遂行します。
他方、そういう「政治の行動様式」を知る世のエコノミストたちは、自分の経済理論(とそれに基づいて構築した自分の「政策提言」)を世に問い、広め、それぞれ一生懸命に政治家に働きかけます。
その姿を評して、クルーグマンは「政策を売り歩く人々」と言いました。
こうして、政治と経済、政治家と経済学者の共生関係が生まれます。
経済学は政治の僕(しもべ)となり、政治は経済学派(学者)の「陣取りゲーム」の場となる。言ってみればそういうことです。
・・・

まことに、経済学は政治の僕となり、政治は経済学者の陣取りゲームの場となっていますね。

その次は権丈さんの「右側の経済学」「左側の経済学」の解説ですが、

・・・右側の経済学は、供給サイドが経済規模を決める、と考えています。ここからは、投資が足りず、供給サイドが弱いがゆえに経済が停滞している、という判断になります。労働市場はその柔軟性を高めるべきだし、所得分配については社会全体で貯蓄=投資が効率的に行われるように分配されるべきで、その限りでは所得分配の不平等はある程度甘受されるべき、(要するに「効率を公平に優先させる」)と考えます。
そして低所得者の生活向上は、経済全体が成長してその結果として恩恵が低所得者にも及ぶ(=トリクルダウン理論)で対応する、という流れになります。
他方で左側の経済学は、需要(有効需要)の側面から物事を考えますから、不況は「過少消費」の状態ととらえます。なので、需要創出という観点からの付加価値の分配の側面を重視して、高所得者から低所得者へ、中央から地方への所得再分配などを通じて、「社会全体の消費性向を高め、需要(有効需要)を創出すること」が大事だと考えるわけです。
この考え方からは、富の増加をもたらす政策は、所得再分配、安定的な需要を生み出す自立した中間層を創出する政策、という流れが生まれますし、社会保障はそのための政策ツールとして積極的に位置付けられることになります。・・・

これはあくまでも欧米の経済学派の見取り図なので、最近の日本のような訳の分からない世界では、需要重視だ、ケインズだと自称する「りふれは」が、社会保障による所得再分配を目の敵にするという天下の奇観が観察されるわけですが。

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倉重公太朗さんとの対談その2

先週金曜日から始まった倉重公太朗さんの「労働法の未来」の私との対談シリーズの2回目は、引続き「『日本型』同一労働同一賃金の欺瞞」です。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190121-00111494/

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話はいつしか集団的労使関係につながっていきます・・・。

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倉重公太朗さんとの対談始まる

昨年末、荻野勝彦さんとの対談が載った倉重公太朗さんの「労働法の正義を考えよう」のシリーズ、満を持してか持さないでか分かりませんが、本日からわたくしとの対談シリーズが始まりました。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20190118-00111491/

話は先ず同一労働同一賃金から始まります。

その後、高齢者やら若年者やら、解雇法制やら、最後は労働の未来といった話題にまで跳んで行きますので、最後までお楽しみ下さい。

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暴力団員であることを隠して就労して得た賃金は「詐取」なのか?

こういう記事が話題になっていますが、

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190116-00020480-tokaiv-soci

暴力団組員であることを隠して郵便局からアルバイト代を騙し取ったとして、60歳の男が逮捕されました。
 逮捕されたのは六代目山口組傘下組織の組員の男(60)です。男は、2017年11月29日、実際には暴力団組員であるのにもかかわらず、愛知県春日井市の郵便局で反社会勢力ではないと誓約書に署名したうえでアルバイトし、給料として現金7850円を騙し取った疑いが持たれています。
 警察によりますと、男はこの日だけ「ゆうパック」の集配アルバイトとして働きましたが、その後暴力団関係者であることを明かし、わずか4日後に自主退職したということです。
 警察が別の事件で男の組事務所を捜索したところ、男の口座に郵便局から給料が支払われていたことがわかり、犯行が発覚しました。
 調べに対し男は容疑を認めていて、警察は、男がアルバイトを始めた経緯などを調べています。

記事はこれだけで、これ以外に何か書かれていない事情があるのかどうかはわかりません。しかし、この記事の情報だけからすれば、当該暴力団員は虚偽の誓約書を書いて、さもなければ雇用されなかったであろうアルバイト雇用で就労したことは確かですが、雇用契約に定める労務を提供し、それに相当する賃金を稼得しただけであって、その賃金が「騙し取った」という表現がされるべきものであるかには、かなりの疑問を感じます。

採用時に正直に申告すべき事情を申告せず、虚偽の情報を提供することによって採用されるという事態は世の中には結構存在します。それが問題になるのは、そのことがばれて解雇されるという事態になって、その解雇が正当な理由のあるものかそうでないかという民事上の紛争として現れることが多いのですが、虚偽の申告に基づいて誤って採用してしまったからと言って、現に契約上の労務を提供したことに対して既に支払った賃金を詐取されたから返せ、というような訴訟は見たことがありません。

というか、いかに採用判断の根拠に錯誤があったからと言って、提供された労務とそれに支払われた賃金は少なくとも民事上は決済済みの話で、根っこに戻ってすべて無効になるわけではなかろうともいますし、もし万一元に戻って無効になるというのなら、無効な雇用契約に基づいて4日分の労務を受領しているのだから、その分の不当利得を返還しなければならないようにも思えます。

法律上の根拠をざっと見ても、少なくとも国家法である暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律には、暴力的要求行為の禁止として多くの行為が列挙されていますが、当然ながらその中に雇用契約を締結して労務を提供し報酬を得ることなどというのはありませんし、おそらく逮捕の根拠となっているであろう愛知県暴力団排除条例には、他の都道府県の条例と同様、事業者に「当該契約の相手方に対して、当該契約の履行が暴力団の活動を助長し、又は暴力団の運営に資することとなるものでない旨を書面その他の方法により誓約させること」の努力義務を課しているにとどまり、その誓約書に違反して締結された雇用契約を無効にしたり、いわんやその(それ自体は契約に従った)労務に対する報酬の支払いを無効にしたりする効果はないように思われます。

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副業・兼業に関わる諸制度の見直し@WEB労政時報

WEB労政時報に「副業・兼業に関わる諸制度の見直し」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=824

 本連載の第83回「副業・兼業と労働法上の問題」(2016年7月25日)でこの問題を取り上げてから、事態は急展開しました。2017年3月の働き方改革実行計画は、「柔軟な働き方がしやすい環境整備」の中で、雇用型テレワーク、非雇用型(自営型)テレワークと並んで、副業・兼業の推進を挙げ、「労働者の健康確保に留意しつつ、原則副業・兼業を認める方向で、副業・兼業の普及促進を図る」と明記したのです。
 厚生労働省はこれを受けて、まず2017年10月に「柔軟な働き方に関する検討会」*1を設置し、同年12月に報告を取りまとめるとともに、「副業・兼業の促進に関するガイドライン(案)」と、その趣旨に添った「モデル就業規則改定(案)(副業・兼業部分)」を示しました。そして2018年1月には、副業・兼業促進ガイドラインと改定モデル就業規則を公表しました。
 同ガイドラインは、「原則、副業・兼業を認める方向とすることが適当」とし、・・・・

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医師の時間外労働の上限は2000時間

本日、第16回医師の働き方改革に関する検討会に注目の医師の時間外労働の上限などが提案されました。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_03209.html

ただ、「とりまとめ骨子(案)」はこちらですが、

https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000467707.pdf

こちらでは、

○ 医師についても、こうした一般則が求めている水準と同様の労働時間を達成する ことを目指しつつ、1. (2)に掲げた医療の特性・医師の特殊性を踏まえ、時間 外労働の上限規制の適用が開始される 2024 年4月時点から医療機関で患者に対 する診療に従事する勤務医に適用される上限水準として、休日労働込みで年間の 時間、月当たりの時間(例外あり。以下同じ)を設定する。・・・(A) ※ 医療は 24 時間 365 日ニーズがあってそのニーズへの対応が必要不可欠であ り、休日であっても当該医師の診療を指示せざるをえないことがあるため休 日労働込みの時間数として設定。

○ また、同様に 2024 年4月から適用する上限水準として、必要な地域医療が適切に 確保されるかの観点から、(A)より高い別の水準(休日労働込みの年間の時間、 月当たりの時間を設定)を経過措置として設けて適用する。・・・(B)

○ さらに、同様に 2024 年4月から適用する上限水準として、医療の質を維持・向上 するための診療経験が担保されるかの観点から、一定の期間集中的に技能の向上 のための診療を必要とする医師については、医師養成のための政策的必要性があ るため、 (A)より高い別の水準(休日労働込みの年間の時間、月当たりの時間を 設定)を設けて適用する。・・・(C)

と、具体的な数値は書き込まれていません。

新聞に報道されているあの数字はどこにあるんだと探すと、もう一つ別の資料に書かれていました。

https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000467709.pdf

(診療従事勤務医に2024年4月に適用される上限時間案) 医療機関で患者に対する診療に従事する勤務医の時間外労働規制における上限水準(以下「診療従事勤務医に2024 年度以降適用される水準」という。)は、休日労働込みの時間外労働について年960時間以内・月100時間未満(月 について追加的健康確保措置②が実施される場合の例外あり)としてはどうか。【P2一般則の③に当たるもの】 ※その上で、一般則と同様に、36協定に規定する時間数の上限水準についての整理も必要。【P2一般則の ①・②に当たるもの】
(考え方) 年間時間数については、脳・心臓疾患の労災認定基準における時間外労働の水準(複数月平均月80時間以内、 休日労働込み)を考慮して12月分とし、月当たり時間数については、同基準における単月の時間外労働の水準 (単月100時間未満)を考慮したものである。 ※これは、毎月平均的に働くとした場合には月80時間以内の労働となり、一般労働者の休日労働込み時間外労働 についての上限である「複数月平均80時間以内」と同様の水準となる。
月当たり時間数については、休日労働込みで100時間未満を原則とする。しかしながら、医療の不確実性、公共性 にかんがみ、時間外労働時間が960時間以内である場合であっても、患者数が多い、緊急手術が重なった等により 月の時間外労働が100時間以上となることも想定されるため、過労により健康状態が悪い医師が長時間労働を続け ることのないような措置(追加的健康確保措置②)を講ずる場合に、例外的に超過を認める

一般労働者については例外のそのまた例外になる年960時間、月100時間未満が原則になるというわけです。

これが原則ということは、例外はもっと長いわけで、

2024年4月においてすべての診療に従事する勤務医が(A)の適用となることを目指し、労働時間の短縮に取 り組むが、地域医療提供体制の確保の観点からやむを得ず(A)の水準を超えざるを得ない場合が想定される。 そのため、対象となる医療機関を限定し、 ・ 最低限必要な睡眠時間の確保のために強制的に労働時間を制限する、連続勤務時間制限及び勤務間イン ターバル確保の義務づけ、 ・ 個別の状況に応じた健康確保措置としての面接指導、結果を踏まえた就業上の措置、 を実施することによって過労により医師が健康を害することを防止した上で、地域での医療提供体制を確保する ための経過措置として暫定的な特例水準(以下「地域医療確保暫定特例水準」という。)を設けることとしては どうか。

(暫定特例水準の上限時間案) 地域医療確保暫定特例水準は、休日労働込みの時間外労働について年1,900~2,000時間程度以内で検討、月 100時間未満(月について追加的健康確保措置②が実施される場合の例外あり)としてはどうか。【P2一般 則の③に当たるもの】 ※その上で、一般則と同様に、36協定に規定する時間数の上限水準についての整理も必要。【P2一般 則の①・②に当たるもの】
現状では、病院常勤勤務医の勤務時間を見ると、年間1,920時間を超える医師が約1割、年間2,880時間を超 える医師も約2%存在している。勤務時間が年間1,920時間を超える医師が一人でもいる病院は、全体の約3 割、大学病院の約9割、救急機能を有する病院の約3割(救命救急センター機能を有する病院に限っては約 8割)である。
こうした現状の中、上限水準は「罰則付き」かつ「一人ひとりの医師について絶対に超えてはならない」も のであり、医療機関が上記「1,900~2,000時間程度以内」という水準を遵守するためには、医療にかかる国 民の理解も得て、医師の労働時間の短縮策を強力に進める必要がある。

この「年1,900~2,000時間程度」が新聞で過労死水準の2倍と報じられている数字ですね。

それでも、

なお、仮に年間1,900~2,000時間程度の時間外労働の上限いっぱいまで労働した場合には、月平均すると約160 時間程度の時間外労働(週約40時間に相当)となるが、これは、例えば、概ね週1回の当直(宿日直許可な し)を含む週6日勤務(当直日とその翌日を除く4日間は14時間程度の勤務、当直明けは昼まで)で、月に6、 7日程度(年間80日程度)の休日を確保するというような働き方の水準。前ページの「2,300時間程度」 「2,100時間程度」よりもさらに時間が短縮された働き方となっている。

まだ現在の状況に比べればましなんだよ、と言い訳しています。

まあ、この検討会は労働基準局ではなく医政局が開催しており、医療政策全般をにらみながら、とりわけ地域医療を何とかだましだまし動かしていかなくてはいけないというダブルバインド状況の中で何とかひねり出した案というわけなのでしょう。

まあ、労働市場論的に言えば、なんでこんなひどい状況になるまで医学部を断固として新設せず、医師不足を放置プレイし続けたのか、ということになりますが。

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日本現代話(笑)

日本昔話(むかしばなし)ではなく、現代話(げんだいばなし)だそうです。

 IT企業に勤める若きプロジェクトマネージャー勘助が、数々のトラブルに見舞われながらも、長時間労働是正に向かって奮闘する「働き方改革」の物語です。
勘助が頼りにするのはパソコンの中のヒミツの観音様。
果たして勘助は、観音様が授けてくれる「勘所」なるアドバイスを会得し、大規模プロジェクトを成功に導けるのでしょうか?

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教員身分法案要綱案

427925昨年末にお送りいただいた島田陽一他編『戦後労働立法史』(旬報社)は、その大部分の記述はわたくしの『日本の労働法政策』と重なっており、それほど目新しい話というのはなかったのですが、最後の章になかなかすごいのがありました。

第15章「労働基本権制約理論の歴史的検討」(清水敏執筆)は、大筋は公務員の基本権問題で、大体は知っている話なんですが、その中に、1946年から47年に文部省高官によって作成された「教員身分法案要綱案」なるものが紹介されていて、これがすごい。

どうすごいかというと、

1,本法の目的

教員の身分が特殊なることに鑑み、官公私立学校を通じて、教員の種類、任用、資格、文言、服務、懲戒、給与その他の待遇、団結権、団体交渉権等について一般公務員に対する特則を設けること。

いやちょっと待て、「官公私立学校を通じて」って、れっきとした民間労働者である私立学校の教員をつかまえて「一般公務員に対する特則を設ける」とはそういう了見だ?と思ったら、その次にもっとすごいのが待っている。

2,教員の定義及び身分

右の教員は学校教育法の定める学校の教員いうのであって、官公私立の学校を通じて教員はすべて特殊の公務員としての身分を有する者とすること。

ええ?私立学校の教員が「公務員」だって?「私立」って言葉の意味分かってんのか?と言いたくなりますが、その調子ですから、

18,労働基準法の適用排除

教員については労働基準法の規定は適用されないものとすること。

こうなりますな。

この衝撃たるやなかなかすさまじく、その次に、

20,労働組合法の適用排除

教員は、労働組合法による労働組合を結成し又はこれに加入することができないもとすること。。

というのがかすんで見えてくるくらいです。

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“平成”の労務管理@『労務事情』2019年1/1・15日号

Romujijo_2019_01_01_15『労務事情』2019年1/1・15日号が新年恒例で、「“平成”の労務管理 労働法制、労働行政等のトピックと実務課題への対応」という座談会を載せています。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20190101.html

出席者は、弁護士の伊藤昌毅さん、荻野勝彦さん(中央大学ビジネススクール客員講師という肩書きです)、元労働基準監督官で現在特定社労士の森井博子さんで、なぜかわたくしがファシリテーターと称して要は司会役を務めております。

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建設労働の法政策@『建設政策』183号

J_183b建設政策研究所の『建設政策』183号に、「建設労働の法政策」が載りました。これは、昨年11月22日に、同研究所にお呼びいただき、講演したものです。

http://kenseiken.d.dooo.jp/journal/

 日本の産業に建設業が占める割合は結構大きいのですが、労働研究では建設業分野がまとまった形で論じられることはありませんでした。ここでは、建設労働をめぐる様々な法政策を一望しながら歴史的変遷を中心に概観した私の一昨年の論文をベースに、いくつかのテーマ・論点を加えて述べていきたいと思います。

1 労災補償から始まった建設労働政策
2 その他の戦前・戦中の建設労働政策
3 労働者供給事業の全面禁止
4 労務下請の復活
5 失業対策事業と職業訓練法
6 労働基準法と労災保険法
7 失業保険法・雇用保険法
8 健康保険法
9 災害防止と労働安全衛生法
10 建設業退職金共済組合(建退共)
11 改正建設業法
12 雇用関係近代化への構想
13 建設雇用改善法
14 労働者派遣と建設業務
15 労働時間規制
16 公契約における労働条項
17 外国人労働者の導入

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同一事業所内「兼業」はそもそも兼業なのか?

毎日新聞になかなか面白い事件が載っていました。

https://mainichi.jp/articles/20190109/k00/00m/040/196000c(ダブルワークでうつ病 「労災1社分だけ算定は違法」と男性が国を提訴)

契約社員として2社で働き、長時間労働でうつ病を発症した大阪府の男性(49)が、労災保険の休業補償金を1社分だけの賃金に基づいて算定したのは違法として、国に給付決定の取り消しを求める訴えを大阪地裁に起こした。政府は会社員の副業や兼業を推進しており、男性側は「ダブルワークでは両方の賃金に対して補償すべきだ」と訴えている。

と、これだけ読むと、今まさに政策課題になっている兼業・副業における労災補償の在り方の問題かと思うでしょうが、実は本件もう少し複雑です。

訴状などによると、男性は2014年2月、ガソリンスタンドの運営会社に契約社員として入社し、府内のスタンド2店で週6日勤務。さらに、関連会社の契約社員として同じ店舗で週2日、勤務するようになった。休日はなく、夜から翌朝まで働いた。2社分の仕事は150日以上の連続勤務や、1カ月134時間に及ぶ時間外労働があった。

同じ事業所で、別々の会社との二つの雇用契約に基づき働いていた、と。

男性は同年6月にうつ病を発症。運営会社での長時間労働やパワハラが原因だとして、15年に労災認定を受けた。しかし、労働基準監督署で休業補償金の算定基準となったのは、運営会社の賃金だけで関連会社分は認められなかった。

通常、兼業・副業で問題となるのは、昼間ある会社で働き、その後夜間別の会社で働いているといったようなケースで、そもそも会社は別の会社で働いていることを知らない場合も多く、だからいろいろ問題になるわけですが、これはそもそも別々の会社にしていること自体が限りなく脱法行為に近い感じです。

労災制度では賃金の原則8割分が休業補償金として支給される。しかし、基準となるのは病気やけがの原因となった1社分の賃金だけで、副業分は除外される。男性は法廷で「ダブルワークは会社に言われて断れなかった。その賃金が補償されないと安心して働けない」と訴えた。

少なくとも、「会社に言われて断れなかった」同一事業所内の「兼業」を、世の普通の兼業・副業と同じに考えていいのかは、大いに議論の余地がありましょう。

この記事が目にとまったのは、実はもう3年以上前に、東大の労働判例研究会で評釈したあるケースが、ちょっとこれに似ていたからです。これは、『ジュリスト』には載せなかったのですが、結構重要なポイントを突いていたのではないかと思っていて、せっかくなのでお蔵出ししておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan151113.html

労働判例研究会                             2015/11/13                                    濱口桂一郎

 

国・淀川労基署長(大代興業ほか1社)事件(大阪地判平成26年9月24日)

(労働判例1112号81頁)(ダイジェスト)

 

Ⅰ 事実

1 当事者

原告:X、亡Kの妻。

被告:国

K:A興業及びB社で勤務し、死亡した労働者。

 

2 事案の経過

・大阪市立C複合施設を運営するD事業団は、機械警備及び設備管理をA興業に、清掃業務をB社に請け負わせていた。

・Kは平成12年4月16日A興業に雇用され、プール施設管理業務に従事していた。死亡当時の体制は、早番(午前8時~午後4時)と遅番(午後2時45分~午後10時)からなり、Kは遅番として勤務していた。

・早番のFが休業から復帰した平成20年4月1日以後も体調が回復しなかったため、Kは週2回程度Fの代わりに早番をし、引き続き遅番もしていた。

・Kは平成20年7月からB社のアルバイトとして週1回の休館日(月曜日)にプールサイドの清掃業務に従事し、同年10月からはさらにA興業の業務終了後浴室と男性更衣室の清掃業務に従事するようになった。

・平成20年11月3日午前6時頃、本件施設トイレ付近でKが死亡。

・Xは平成21年7月17日遺族補償給付等を請求。

・監督署長は、A興業の賃金を基礎に給付基礎日額を算定して給付処分。

・Xは、A興業とB社の賃金を合算して労働時間と給付基礎日額を算定すべきとして審査請求、再審査請求をしたがいずれも棄却され、平成24年4月13日本件訴えを提起。

 

Ⅱ 判旨

1 Kの労働時間:事実認定であり、省略。

2 給付基礎日額の算定方式

(1) 原則

 (労災保険制度)「が設けられたのは、業務災害を被った労働者及びその遺族に対しては、労基法8章において、使用者に必要な災害補償を行うべき責任が課されているが、これは個別使用者の責任にとどまっているため十分な補償を受けられない場合があることから、一定の例外を除いて強制適用・強制徴収を内容とするいわゆる強制保険の制度を採用し、政府が管掌することとして(労災保険法2条、3条)、もって、災害補償責任の履行を担保するものとして設けられたものであると解される。

 そして、労災保険法は「労働者を使用する事業」を適用単位としており(同法3条)、事業を単位として労災保険に加入することとしているところ、労災保険の適用単位としての「事業」とは、一つの経営体をいうものと解される。

 また、・・・労働者の業務災害に対する補償制度間に均衡を保とうとしており、・・・労災保険によって使用者の災害補償責任を免責するとしていることからすれば、労災保険法に基づく補償は、労基法に基づく個々の使用者の労働者に対する災害補償責任を前提としていると解することができる。

 さらに、労災保険の保険率(ママ)については、一定規模以上の事業場についていわゆるメリット制が採用されており、・・・複数事業場における業務が相まって初めて危険が発生したとして双方の事業者の共同の責任を負わせることは想定していない。

 そして、労基法に基づく事業者の補償責任が危険責任の法理に基づく無過失責任であることからすれば、過失責任である不法行為責任においても共同不法行為の規定が設けられていることに照らしても、前述のような複数の事業者の共同の災害補償責任を認めるためには明文の規定を設けることが必要となると解されるが、現行の労基法において、前述のような複数の事業者の共同の災害補償責任が生ずることとした規定は見当たらず、また、労災保険法においても、それを前提とした規定は見当たらない。

 以上からすれば、労災保険法に基づく労災保険制度は、労基法による災害補償制度から直接に派生した制度ではないものの、両者は、労働者の業務上の災害に対する使用者の補償責任の法理を共通の基盤としている以上(最高裁昭和49年3月28日判決・最判集民事111号475頁参照)、労災保険法は、個別事業場ごとの業務に着目し、同業務に内在する危険性が現実化して労働災害が発生した場合に、各種保険給付を行うこととしているということができる。そして、・・・労働災害の発生について責任を負わない事業主の責任の履行を担保するということを観念することはできないのであるから、被災労働者が複数の事業場で就労していた場合であっても、労災保険法に基づく給付額を算定する場合の平均賃金は、労働災害を発生させた事業場における賃金のみを基礎として算定するのが相当である。」

(2) 労災民訴との関係

 「Xは、債務不履行や不法行為による損害は、必ずしも労働災害が生じた事業場から支給される賃金に限定されないことを指摘するが、それは、民法415条や709条が、使用者に安全配慮義務違反(過失)と相当因果関係を有する損害を賠償すべきことを規定しているからであって、そうであるからといって、労基法の定める平均賃金を基準として給付内容が法定されている労災補償給付について、複数の事業場における各平均賃金を合算すべきとする根拠になるものではないことが明らかである。」

(3) 労働時間の通算との関係

 「労基法38条は・・・労働者の保護を図るために1週と1日の労働時間の総量規制を設けた趣旨に照らして、当然設けられるべき規定であると解されるところ、その趣旨や労基法38条があくまでも労働時間等の規制を定めた第4章に置かれており、平均賃金のように労基法全体に通じる第1章の総則に置かれているのではないことに照らせば、同条は、複数の事業場で就労した場合における労働時間規制の基準となる労働時間の算定に関して定めたものに過ぎず、その場合の平均賃金の算定に当たって、各事業場での賃金を合算して算定することを定めたものではないことが明らかであるから、同条の規定をもって、平均賃金の算定に際し、複数の事業場の賃金を合算することの根拠とできるものではない。」

(4) 相乗効果

 「ある事業場での勤務時間以外の時間について、労働者がどのように過ごすのかについては、当該労働者が自由に決定すべきものであって、当該事業場は関与し得ない事柄であり、当該事業場が労働災害の発生の予防に向けた取組みをすることができるのも自らにおける労働時間・労働内容等のみである。そうすると、当該事業場と別の事業場が実質的には同一の事業体であると評価できるような特段の事情がある場合でもない限り、別の事業場での勤務内容を労災の業務起因性の判断において考慮した上で、使用者に危険責任の法理に基づく災害補償責任を認めることはできない。したがって、先に挙げた場合には、いずれの事業場の使用者にも災害補償責任を認めることはできないにもかかわらず、両事業場での就労を併せて評価して業務起因性を認めて労災保険給付を行うことは、労基法に規定する災害補償の事由が生じた場合に保険給付を行うと定めた労災保険法12条の8の明文の規定に反するというほかない。この点、Xは、そのうち少なくとも災害補償責任を肯定できる事業場が認められる場合には、災害補償責任が認められない他の事業場における平均賃金をも合算することができると主張するが、個別の事業場においていずれも災害補償責任が認められない場合との理論上の統一性を欠き、採用できない。そして、本件において、A興業とB社が実質的には同一の事業体であると評価できるといった特段の事情を認めるに足りる証拠はない。

 なお、確かに、Xが主張するとおり、処分行政庁は本件各処分の際に、A興業における労働時間とB社における労働時間を合算しているところ、これは、処分行政庁が判断を誤ったものというほかないが、訴訟において、Yが処分行政庁の判断と異なる主張をすること自体が許されなくなるものではない。」

(5) 出向関係の場合との違い

 「本件のように、何ら関係のない複数の事業場において業務に従事し、何ら関係のない複数の事業主からそれぞれ賃金の支払いを受ける場合は、同通達が想定している状況と全く状況が異なることからすれば、同通達をもって、平均賃金の算定において複数の事業場の賃金を合算する根拠と解することができないことは明らかである。」

(6) ILO第121号条約との関係

 「労災保険法に基づき各種給付を行う場合に、平均賃金の算定方法をどのようにするかは専ら国内法の問題にとどまるのであって、同条約をもって、平均賃金の算定において複数の事業場の賃金を合算する根拠と解することができないことは明らかである。」

3 業務起因性の判断

(1) 「Kの死亡という労働災害がA興業の業務に起因することについては当事者間に争いがない。」

(2) 「このようなB社における労働時間(発症前1か月43時間28分、発症前2ないし6か月0ないし16時間52分)に照らせば、B社におけるKの業務が過重なものであったということができないことは明らかであり、また、業務内容も・・・プールサイド、浴室と男性更衣室の清掃業務であったことからすればやはり過重な業務であったということはできない。そうすると、B社の業務に、労働災害を発生させる危険が内在しているということはできず、ひいては、Kの死亡という労働災害がB社の業務に起因するものということもできない。

 したがって、本件におけるKの死亡という労働災害については、A興業の業務に起因するものと認めるのが相当である。」

(3) 「以上の次第で、本件における給付基礎日額については、A興業における平均賃金のみを基礎として算定することとなる。」

 

Ⅲ 評釈 

1 純粋他事業所の場合

 本判決は、本件を「何ら関係のない複数の事業場において業務に従事し、何ら関係のない複数の事業主からそれぞれ賃金の支払いを受ける場合」であるとみなしている(判旨2(5))が、本件が真にそう言えるかどうかには疑問がある。しかしまずは、仮に本判決のこの立場に立って、A興業とB社が空間的にも全く離れた事業場であったと仮定して考えてみる。

 労災保険法が労基法の労災補償責任に立脚するものであり、全く別の事業場における複数の事業主の労災補償責任を包括すべきものでないことは、一般論としては正しい。この点について、反対の論拠となり得るのは労基法38条の通算規定であり、制定直後よりこれは同一事業主の複数事業場のみならず複数事業主の場合にも適用すると解されてきている(昭23.5.14基発第769号)。しかし、空間的にも離れた場所で就労する真に全く別の事業主の場合、本規定の実効性には疑問があり、学説も否定に解すべきとする者が多く(菅野第十版p329等)、立法論としても多重就労の観点から削除論が有力である。労災補償責任の性格からして、もし「何ら関係のない複数の事業場において業務に従事し、何ら関係のない複数の事業主からそれぞれ賃金の支払いを受ける場合」であるならば、A興業とB社の労災補償責任は別々に発生し、包括されることはないと考えられる。

2 同一場所に複数企業が混在する場合の労災補償責任、安全衛生責任

 しかし、現行労働法は形式的に別の事業主であっても同一場所で混在して就労する場合については、労災補償責任や安全衛生責任を包括的に元請事業主に課する仕組みを有している。労基法の労災補償規定には、戦前の労働者災害扶助法以来の建設業における元請包括責任規定が存在し、労災保険ではこれを前提に元請による保険料支払制度がある。また、労働安全衛生法には従来から建設業及び造船業について元方事業主の安全管理責任が規定され、2005年改正ではこれが製造業一般に広げられた。

 もとより、本件は業種が異なるのでこれら現行法上の労災補償責任、安全衛生責任は適用されない。しかし、労災補償法制やそれと裏腹の関係にある安全衛生法制においては、法人格が異なる別事業主であるから「何ら関係のない複数の事業主」であるという単純な発想に立っていないことは確かである。むしろ、一般論としては同一場所で複数企業が混在する場合には労災補償責任や安全衛生責任が包括的に発生する可能性があり、それを法的に明確に規定したのが現行法の諸規定であると考えるべきではなかろうか。とすれば、本件の如き建設業や製造業ではないサービス業の事案においても、立法政策によっては包括的な労災補償責任や安全衛生責任を考え得る余地があるように思われる。

3 本件におけるA興業とB社の関係

 本件におけるA興業とB社はいずれもD事業団からC複合施設の中のプール設備という同一場所において設備管理業務と清掃業務という切り分けられてはいるが密接に関連した業務を請け負っている企業である。判決文からは両者に資本的人的関係があるとは言えないが、労災補償責任や安全衛生責任においてはそれらは関係がない。

 業務としてどの程度包括的に捉えることができるかで見ると、A興業のプール設備管理業務は、地下の機械室でプールと浴室の水温を確認して必要があれば追い炊きをする、玄関まわりで自転車を外に出す、カラーコーンを並べる、煙草の吸い殻入れを定位置に置く、女子浴室の塩素濃度を確認する、地下駐車場のシャッターを開ける、ブロワー、ジャグジーのスイッチを入れる、プールや浴室の塩素濃度等を確認記録する、照明を消し、機械警備を設定し、シャッターを閉め、玄関の自動ドアのスイッチを締め、施錠する、日によっては水を追加したり、電灯の交換、1月に1度程度採温室修理やプール消火栓さび取り等であり、B社の業務はプールサイドの掃除に加え、浴室と男性更衣室の清掃である。広い意味でのプール設備管理業務を切り分けて別の会社に委託することはもちろん可能であり問題はないが、それによって使用者責任が恣意的に切り分けられてしまう危険性も考慮する必要があるのではないか。

 上記1で一般論としては否定的に論じた労働時間の通算についても、空間的に同一場所において行われる類似した業務を別々の企業に請け負わせることによって通算を回避することがあり得るとすれば、むしろ通算を肯定的に解すべきではないかとも考えられる。

 本件ではA興業の業務だけで業務起因性が肯定されるほどの過重労働となっていたので、争点は主として給付基礎日額の算定にとどまったが、仮に上記さまざまな業務を細かく切り分け、別々の企業に行わせていたら、単体としては業務起因性が肯定され得ないような短時間の労働が同一場所で連続的に行われるような状況もありうるのであり、かかる状況に対しても「何ら関係のない複数の事業場において業務に従事し、何ら関係のない複数の事業主からそれぞれ賃金の支払いを受ける場合」とみなすような解釈でいいのかも考えるべきであろう。

4 現行法規を前提とする限り、本件において本判決の結論を否定することは困難であるが、従来から重層請負が通常であった建設業に限らず、近年広い業種においてアウトソーシングが盛んに行われている現在、少なくとも上記労災補償法制や安全衛生法制と類似した状況下にある者については、何らかの対応が必要であると思われる。会社をばらばらにして別々に委託すれば、まとめて行わせていれば発生したであろう使用者責任を回避しうるというようなモラルハザードは望ましいものとは言えない。

 

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『過半数労働組合および過半数代表者に関する調査』

MajorityJILPTから、調査シリーズNo.186『過半数労働組合および過半数代表者に関する調査』が公表されました。

https://www.jil.go.jp/institute/research/2018/186.html

近年、労働組合組織率の低下傾向が続く一方、労働関係法令上の「過半数代表」(事業場における過半数労働組合または過半数代表者)の役割が拡大してきている。本調査は、事業場における「過半数代表」の選出状況や過半数代表者の選出方法等の実態を把握するため実施するものである。

https://www.jil.go.jp/institute/research/2018/documents/186.pdf

これ、以前JILPTの呉学殊さんが調べたやつの最新調査です。

主な事実発見は以下の通りですが、組合員数が1000万人を超えつつも組織率は17.0%という状況の下で、集団的労使関係システムをどのように再構築していくかという問題意識にとって、色々と参考になる数字があると思います。

労働組合の状況
事業所における労働組合の状況は、「労働組合がある」が12.6%(「労働組合が1つある」11.9%+「労働組合が2つ以上ある」0.8%)、「労働組合はない」が82.8%、「わからない」が2.3%、「無回答」が2.3%だった。
労働組合がある事業所のうち、1つあるのが9割以上(93.8%)を占め、2つ以上あるのは6.1%である。
労働組合がある事業所のうち、「過半数労働組合がある」割合は65.5%であり、全体の8.3%を占める。(図表1)

図表1 労働組合の有無、過半数労働組合の有無(%)

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「過半数代表」の状況
過去3年間に、「過半数代表者を選出したことがある」事業所は43.1%、「過半数代表者を選出したことがない」事業所は36.0%、「不明(選出したことがあるか分からない)」が10.1%、「無回答」が2.5%だった。
「過半数代表(事業場における過半数労働組合または過半数代表者)」が「いる」のは全体の51.4%、 「いない」が36.0%などとなった(図表2)。

事業所規模別にみると、「過半数代表」がいる割合は、「9人以下」35.7%、「10~29人」69.5%、 「30~99人」85.5%、「100~299人」92.7%、「300~999人」94.3%など、事業所や企業規模が大きくなるほど高くなる。

図表2 「過半数代表」の選出状況(n=6,458,%)

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過半数代表者の選出方法・選出頻度・職位
過半数代表者を選出したことがある事業所に選出方法を尋ねたところ、「投票や挙手」30.9%、「信任」22.0%、「話し合い」17.9%、「親睦会の代表者等、特定の者が自動的になる」6.2%、「使用者(事業主や会社)が指名」21.4%、「その他」0.3%、「無回答」1.3%となった。
過半数代表者を選出したことがある事業所に選出の頻度を尋ねたところ、「過半数代表者が必要な都度」が76.2%、「任期を決めて選出」が18.9%、「その他」3.5%、「無回答」1.4%であり、4分の3以上が「必要な都度」、過半数代表者を選出している。
過半数代表者を選出したことがある事業所に過半数代表者の職位を尋ねたところ、「一般の従業員」が49.4%、「係長・主任・職長・班長クラス」が33.5%、「課長クラス」が5.9%、「部長クラス」が2.9%、「工場長、支店長クラス」が4.6%、「非正社員」が1.5%などとなった。

「過半数代表」を利用した制度
図表3に記載されている様々な制度の手続きにおいて、過去3年間に「過半数代表」と労使協定を締結したり、「過半数代表」から意見聴取等をしたことがあるか否かを尋ねたところ、54.1%が「手続きを行ったことがある」と回答。「手続きを行ったことがない」は36.3%、「無回答」は9.7%だった。
「手続きを行ったことがある」と回答した具体的な手続き(複数回答)は、「時間外および休日労働(いわゆる36協定)」(44.1%)が最も高く、「就業規則の作成または変更(意見聴取)」(33.2%)、「変形労働時間の導入(労使協定)」(16.6%)、「育児・介護休業をすることができない労働者に関する定め等、育児・介護休業法に基づくもの(労使協定)」(12.6%)、「年次有給休暇の時間単位・計画的付与(労使協定)」(9.2%)などの順だった。

図表3 「過半数代表」を利用した制度・事業所規模別(n=6,458,%)

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ホワイトカラーの労働法政策@『労基旬報』2019年1月5日号

『労基旬報』2019年1月5日号に、「ホワイトカラーの労働法政策」を寄稿しました。

 昨年6月の働き方改革推進法により、高度プロフェッショナル制度が成立に至りました。かつてホワイトカラー・エグゼンプションという名で導入が図られながら失敗に帰していた労働時間の適用除外が、かなりのお色直しでなんとか成立にこぎ着けたわけですが、この間の議論ではそもそもホワイトカラーへの労働法適用の在り方についての基本にかかわるような問題提起はほとんどなく、表層的な議論に終始していたように思われます。そこで本稿では、今年の初めに当たり、日本の労働法政策においてホワイトカラー職員がどう位置付けられてきたのかを振り返ってみたいと思います。
 まず、民法という社会の基本法のレベルにおいては、ホワイトカラー職員もブルーカラー職工も「雇傭」契約の下で就労していることに変わりはありません。「使用人、番頭、手代、職工其他雇傭人ハ年、月又ハ日ヲ以テ定メタル給料又ハ賃銀ヲ受ケテ労務ニ服スルコトヲ得」(旧民法第260条)。しかし、「賃銀」を受けるブルーカラー職工と「給料」を受けるホワイトカラー職員は社会的に全く異なる階層に属しており、後者は商法上に「番頭、手代其ノ他ノ使用人」として特別の規定が置かれていました。
 狭義の労働法の出発点は1911年の工場法ですが、同法は単に物的適用対象が「工場」であるだけでなく、人的適用対象も「職工」に限られていました。岡實『工場法論』によると、「職工」とは「主トシテ身体的ノ労働ニ従事スルモノ」で「平職工、伍長、組長」は含まれますが「技師、技手、事務員、製図師」は含まれません。つまりホワイトカラー職員は対象外だったのです。
 1936年の退職積立金及退職手当法は適用対象に「労働者」という用語を用いていますが、その中身は工場の職工、徒弟、鉱山の鉱夫に限られ、ホワイトカラー職員は対象外でした。戦前の「労働者」という概念にホワイトカラー職員は含まれていなかったのです。
 戦時体制下で雇用統制、賃金統制が進んでいくと、ホワイトカラー職員も統制対象に含まれるようになっていきます。ただ、1938年の学校卒業者使用制限令、1939年の国民職業能力申告令、従業者雇入制限令、国民徴用令、1940年の従業者移動防止令など、雇用統制が両方を対象とする法令であったのに対し、労働条件規制の分野はブルーカラー労働者とホワイトカラー職員で別立ての規制となりました。
 ブルーカラー労働者を対象とする1940年賃金統制令は、工業、製造業、土木建築業、運輸業等の事業に雇傭され労働に従事する「労務者」の「賃金」を対象とするのに対して、同年の会社経理統制令は資本金20万円以上等の会社の「社員」の「給与」が対象です。この「社員」とは、賃金統制令の「労務者」を除く「会社ニ雇傭セラルル者」と定義されていますので、ホワイトカラー職員のことです。ちなみに、雇用労働者のことを「社員」と呼ぶのは世間では一般化しましたが、法令用語として用いた例はこれくらいでしょう。
 この会社経理統制令は戦後労働時間法制に大きな影響を及ぼしています。というのは、その1943年改正において、会社経理統制令施行規則第20条の2に「居残手当又ハ早出手当ニシテ一日九時間ヲ超エ勤務シタル者ニ対シ九時間ヲ超エ勤務シタル時間一時間ニ付キ五十銭ノ割合ニ依リ計算シタル金額」「休日出勤手当ニシテ休日出勤一回ニ付キ三円ノ割合ニ依リ計算シタル金額」と規定されたのです。つまり、ホワイトカラー職員にも残業手当や休日出勤手当を払えという法政策が打ち出されたのです。ちなみに、賃金統制令の所管官庁は厚生省労働局ですが、会社経理統制令は大蔵省の所管でした。
 一方厚生省サイドは「勤労者(工員)給与制度ノ指導ニ関スル件」により工員月給制を慫慂していました。こちらは「基本給ハ月ヲ単位トシテ支給スルコト、但シ正当ナ理由ナキ欠勤ニ対シテハ欠勤日数ニ対シ日割計算ヲ以テ減額支給スルヲ得ルコト」と、ノーワーク・ノーペイの要素を持ち込んだ純粋でない月給制を工員に適用しようとするものであり、しかも「就業十時間ヲ超ユル早出残業」には早出残業手当、「所定休日ニ於ケル出勤」には休日出勤手当を「支給スルモノトスルコト」と、ノーペイ・ノーワークの原則は月給制にもかかわらず全面的に適用するというものでした。両者相まって、ホワイトカラーにもブルーカラーにも残業手当のつく月給制を適用するという法政策が採られたわけです。
 このように所管官庁は別ながらも接近傾向を示していたホワイトカラーとブルーカラーの労働法政策がブルーカラーサイドに一本化されたのは終戦直後です。1946年1月8日の閣議で、「会社経理統制令中社員給与ニ関スル主務大臣ヲ厚生大臣ニ移管スルノ件」が了解され、「終戦後ノ新状勢ニ応ジ会社社員ノ給与ニ関シテハ労務者ノ給与ヲ所管スル官庁ニ於テ取扱フヲ適当トスルヲ以テ会社経理統制令中社員給与ニ関スル主務大臣ヲ大蔵、商工、運輸、農林等ノ各大臣ヨリ厚生大臣ニ移スモノトシ其ノ実施期日ハ昭和二十一年一月十五日トスルコト」とされました。これにより、戦前来の別建て法政策は解消され、ホワイトカラー職員もフルに労働法政策の対象となったわけです。
 ただ、だからといって、両者に全く同じ法制度を適用しなければならないわけではないはずです。1947年に制定された労働基準法の制定過程においても、1946年7~8月頃の第5次案修正案では「事業の種類に拘わらず事務並びに間欠的な労働に従事する者」を適用除外としていましたが、10月の第7次案覚書で「事務」の部分が「監督若は管理の地位にあるもの又は機密の事務を取扱ふ者」と現行規定に修正されています。これにより適用除外を著しく狭めてしまった感があります。
 さらにこれに輪をかけたのが、法と同時に施行された労働基準法施行規則です。同規則第19条は、法第37条の時間外労働の割増について、「月によって定められた賃金については、その金額を月における所定労働時間数で除した金額」を通常の労働時間又は労働日の賃金額と定義することで、管理監督者等でない限り割増のつく月給制を強制することとなりました。戦前のホワイトカラー職員にとって一般的であった渡し切りの純粋月給制は不可能となってしまいました。
 この点について、1948年9月に出された『労働基準法逐条解説全書』(産業厚生時報社)の質疑応答の中に、次のようなものがあります(40頁~41頁)。
問:月によって定められた賃金の場合、割増賃金の算定では所定労働時間で除するのであるから、この面から考へれば、現今迄の月給制といふものは基準法が出来た為に、その純粋性を失って、日給月給制に移行した。但しこの場合でも平均賃金算定の場合は、総日数で除するのであるから、この面からは本来の月給制の純粋性をとどめてゐるが、ともかく基準法が出来た為に一面からは月給制であり、一面からは日給月給制となり、かくして本来の月給制と云ふものは基準法が制定された為に失くなったと考へられる。即ち、純粋の意での月給制は実施できなくなったと考へられるが如何?
答:労働基準法の賃金の考へ方は、アメリカ式の所定労働時間給的な考へ方である。であるから、超過労働に対しては割増賃金を支払う。然し、無届欠勤、遅参の場合、賃金の減額(労働のないところに賃金はないとの考へ方であるから、減額と云ふよりも始めから欠勤、遅参に相当する所定労働時間の賃金は与えないことになる)することも出来る訳であるから、ご意見の通りであると云ふことができる。
 しかしその後、この問題に対する問題意識は消え去ったように見えます。ホワイトカラーもブルーカラーも等しく「従業員」として組織された企業別組合が、両者に共通の年功的生活給を要求して勝ち取っていった時代に、ホワイトカラー職員の給与とブルーカラー労働者の賃金とは性質が違うというような議論が入り込む余地はなかったのでしょう。
 ホワイトカラーの労働時間制度、賃金制度が法政策課題として議論されるようになるのは、1990年代になってからのことになります。企画業務型裁量労働制、ホワイトカラー・エグゼンプション、そして高度プロフェッショナル制度と、この30年近くの法政策の動きを振り返ってみると、そこで本来議論されるべくして議論されてこなかったものがなんであったのかが、くっきり浮かび上がってくるように思われます。

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大量移民と格差拡大

Jameswickham例によってソーシャル・ヨーロッパから新年1月8日付の記事を紹介。アイルランドのウィッカム氏による「Mass immigration and the growth of inequality」(大量移民と格差拡大)という文章です。時あたかも欧州に遅れること半世紀、日本も大量移民時代に足を踏み入れつつある中で、それが何をもたらしうるのかを冷静に考えておく必要があるでしょう。

The claim that immigration is economically beneficial appears to be an article of faith amongst those who consider themselves progressive. However, mere changes in total GDP often mean little in terms of the lived reality of society. Much more important is whether or not mass immigration changes the social structure and the pattern of economic inequality.

移民が経済的に有益だという主張は自分を進歩的だとみなす人々の間で教条と化しているかのようである。しかし、GDP総額の僅かな変化など社会の生きられた現実にとってはほとんど意味はない。より重要なのは、大量移民が社会構造と経済的格差のパターンをどのように変えるのか変えないのかだ。

Economic inequality (in the distribution of income and wealth) has been growing in virtually every developed society. It is clear that there is no single cause, but one important driver is changes in the occupational structure. In some countries, but especially in the UK and the USA, occupational growth has polarised: there are more well-paid high-skilled jobs, there are more low-paid jobs, but there are fewer moderately well-paid secure jobs in the middle.

経済的格差(所得と富の分布における)はほとんど全ての先進国で増大してきた。単一の原因がないことは確かだが、一つの重要な動因は職業構造の変化だ。いくつかの国、とりわけ英国と米国では職業構造が二極化しており、一方に高賃金の高技能職、他方に低賃金職があるが、中間のそれなりの賃金の安定した職が少なくなっている。

A growing social science research suggests that the reason for the existence of low-paid jobs has been precisely the availability of a large pool of immigrant labour. Low-paid jobs have expanded simply because there are people prepared to do them. If this labour supply did not exist and, crucially, if there was no alternative labour supply, then the jobs would not exist. The argument that immigrants are ‘needed’ to fill existing jobs takes the existing jobs and hence the occupational structure for granted; furthermore, it accepts that immigrants are the only possible source of additional labour.

社会科学研究によれば、低賃金職が存在しえているのは、正確に膨大な移民労働プールが入手可能だからである。低賃金職はそれをやろうとする人々がいるが故に拡大してきた。もしこの労働供給が存在しなかったなら、決定的に、もし代替的労働供給がなければ、その職は存在しなかったであろう。移民は既存の職を埋めるために「必要」だという主張は、その既存の職を、それゆえ職業構造を当然と考え、しかも、移民が唯一可能な追加的労働供給だと認めている。

In some sectors enterprises’ business model depends upon paying low wages. The transformation of agriculture in the USA and more recently in the UK has involved a shift to forms of production and even to crops that are only viable because of low wages. Employers, sometimes supported by immigration advocates, now argue that food production can only occur if there is cheap immigrant labour.

いくつかの業種では、企業のビジネスモデルは低賃金に依存している。米国や近年の英国における農業の構造転換は、もっぱら低賃金ゆえに可能な生産様式と収穫様式へのシフトに関わっている。使用者は、時に移民唱道派に助けられて、今や食料生産は安価な移民労働があるが故に成り立つのだと主張する。

Until the 1980s domestic servants were declining in numbers. Today professionals and managers expect to employ domestic labour to clean their houses, mind their children, etc. These jobs are overwhelmingly taken by immigrants who are often illegals. Intriguingly, the particular beneficiaries are women earners at the upper end of the income distribution – purchasing labour in the home enables them to devote more time to their remunerative career. Thus, one US study shows that, in areas with a high immigrant population, high income women spend more time at work than in areas where there are fewer immigrants. Such privatised domestic employment ensures that there is less pressure on men to contribute to domestic labour – and certainly reduces the demand for effective publicly funded childcare.

1980年代まで、家事使用人の数は減少していた。今日、専門職や管理職は家を掃除したり子供の面倒を見るために家事使用人を雇うようになった。これらの職は圧倒的に移民、それも不法移民だ。興味深いことに、最大の受益者は所得分布の最上層の女性稼得者で、家内の労働を購入することで彼女らの稼げるキャリアにもっと時間をつぎ込むことができる。それゆえ、ある米国の研究が示すように、移民の少ない地域よりも、移民人口の多い地域ほど、高所得女性が労働に多くの時間を費やす。このような私有化された家事労働によって、男性は家事労働に貢献する圧力が少なくなり、確実に公的費用による保育サービスへの需要を減らしてしまう。

The new availability of low wage labour has contributed to the survival and even expansion of low technology manufacturing. One US study shows that engineering firms are likely to use less capital in production in areas with high immigrant populations. Indeed, in some areas the availability of low wage labour is facilitating technological regression – the replacement of capital by labour. Instead of driving the car to a self-service car-wash, you get the car ‘valeted’ by workers who use nothing more advanced than a bucket and mop. Away from such public view, in many European cities there is a revival of the clothing industry, based on micro-workshops using only the very simplest technologies and immigrant workers with very long hours and low pay.

低賃金労働が入手可能になることでローテク製造業が生き残り、拡大すらしてしまう。ある米国の研究によれば、移民人口の多い地域では製造企業は生産において資本を少なく使う傾向にある。実際、低賃金労働が入手可能な地域では、技術の退歩-労働による資本の代替、が起こっている。セルフサービスの洗車を促進する代わりに、バケツとモップ以外の進んだ道具を持たない労働者によって「近侍」されるのだ。多くの欧州の都市では、極めて単純な技術と長時間労働低賃金の移民労働者のみを用いた零細事業所に立脚した繊維産業が復活している。

This relationship between mass immigration and occupational change cannot be generalised to all periods and places. The mass European migration in the second half of the 19th century to the USA and other areas of new settlement did not have this result, nor in fact did the mass immigration to Western Europe in the post-world war period. It is, however, clear that today those who call for ‘open borders’ – the unrestricted entry of unskilled workers into the EU – are facilitating a more polarised occupational structure, more low paid workers and greater social and economic inequality.

大量移民と職業構造の間のこの関係は全ての時期と場所に一般化できない。19世紀後半の欧州から米国や他の地域への大量移民はこのような結果をもたらさなかった。しかし、今日、「国境の開放」-EUへの未熟練労働者の制限なき導入-を呼びかける人々は、より二極化した職業構造、より低賃金の労働者、そしてより大きな社会的経済的格差を促進しているのだ。

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今様人権争議・・・ですらないけど

私立学校で教員ストという見出しを見て、ついうっかり、長時間労働に疲弊しながらも地方公務員という身分のために抗議の声を上げられない公立学校教師に代わって、私立学校教師が民間企業労働者としての権利をフルに行使したのか!と思ったら、全然さにあらず。

https://mainichi.jp/articles/20190108/k00/00m/040/058000c (理事長への早朝あいさつで教員スト 東京の私立校)

Seisoku 東京都千代田区の正則学園高校の教員ら約20人が8日、毎朝行われている理事長へのあいさつを拒否した。同校では数十年来、教員による理事長への早朝あいさつが続けられているという。教員らは「労働時間に含まれない無益なサービス労働だ。長時間労働につながっているので、撤廃を求めてストライキした」と主張している。8日は始業式だったが、影響はなかった。

これはなんというか、労働者の権利というはるか以前の、そうですね、今から64年前に起こった近江絹糸の人権争議を思いだすような話ですな。

私立学校の教員が個人で加入する労働組合「私学教員ユニオン」(東京都世田谷区)などによると、同校では全教員約40人が毎朝午前6時半ごろから廊下に並び、1人ずつ理事長にあいさつするのが日課という。1日の労働時間は約14時間半に及び、ユニオンは7日、学校側に長時間労働の改善などを求める団体交渉を申し入れた。  教員らは8日、正門前で「早朝の理事長挨拶(あいさつ)儀式をストライキ中」と書いた横断幕を掲げ、理事長にあいさつの撤廃を求めた。

いやそもそも教師としての労働義務のない時間に、理事長にあいさつする代わりに正門前で横断幕を掲げているだけで、ストライキですらないんだけど・・・。

(全くの雑件)

ちなみに、Wikipedeiaで「正則学園高校」を見たら、なかなか由緒あるすごい学校ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%89%87%E5%AD%A6%E5%9C%92%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

「著名な学校関係者」に並んでいる人々の名前が半端ない。

本ブログとしてはやはり、日本労働法の父、末弘厳太郎が本校の前身の正則英語学校に通っていたというのが重要でしょう。

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石井知章編著『日中の非正規労働をめぐる現在』

Nicchu昨年末に刊行されたと伝えられた石井知章編著『日中の非正規労働をめぐる現在』(御茶の水書房)が、ようやく本日届きました。

第Ⅰ部 日本における非正規労働の過去と現在

1 非正規労働の歴史的展開 濱口桂一郎

2 日本における非正規雇用問題と労働組合--1998~2009を中心に--龍井葉二

3 非正規労働者の増加、組合組織率の低下に対して、日本の労働組合はいかに対応してきたのか--コミュニティ・ユニオンの登場とその歴史的インパクト--高須裕彦

4 過労死問題の法と文化 花見忠

5 日本における過労死問題と法規制 小玉潤

6 非正規労働者と団結権保障 戸谷義治

7 能力不足を理由とする解雇の裁判例をめぐるに忠比較 山下昇

第Ⅱ部 中国における非正規労働の新たな展開

8 雇用関係か、協力関係か--インターネット経済における労使関係の性質--常 凱・鄭 小静

9 独立事業者か労働者か--中国ネット予約タクシー運転手の法的身分設定--范 囲

10 グローバル規模での経済衰退と労働法 劉 誠

11 中国経済の転換期における集団労働紛争の特徴と結末--個別案件の分析と探求を中心に--王 晶

12 中国新雇用形態と社会保険制度改革 呂 学静

13 非正規労働者の心理的志向性に関するモデルケース 曹 霞・崔 勲・瞿 皎皎

14 「法治」(rule by law) が引き起こす中国の労働問題--「城中村」の再開発と「低端人口」強制排除の事例から--阿古智子

15 中国の非正規労働問題と「包工制」 梶谷懐

16 中国における新たな労働運動、労使関係の展開とそのゆくえ 石井知章

わたくしは第1章を担当しておりますが、もとになったシンポジウムでの報告とは全く様相の異なる文章になっております。その経緯は第1章の「はじめに」に書いたとおりですが、「おわりに」で自分なりの考えを示しました。その問題意識と最後の方の梶谷懐さんの問題意識がみごとにコレスポンドしているのはうれしい限りです。

 冒頭述べたように、本稿は日中シンポジウムにおける中国側参加者の報告に大きく影響されて全面的に改稿したものである。それは一つには、デジタル技術を活用した新たな就業形態の進展度合において中国が日本に遥かに先んじているからである。日本ではごく一部の区域を除けばUberが未だに解禁されていないのに対して、中国では先駆者たるUberに加えて、むしろ中国で生まれた滴滴出行など新規参入企業が既に経済の相当部分を占めるに至っている。この意味では、シンポジウムにおける日中間のずれは、先進的な中国と後進的な日本の姿を表していると言えるかも知れない。
 しかし日本側出席者が指摘するように、農民工や包工頭といった伝統的な非正規問題は現代中国でなお大きな問題であり続けており、何ら解決しているわけではない。むしろ、日本を始め欧米先進諸国がこれまで取り組んできた権利擁護的な労働法制を整備することによる対応や集団的労使関係を通じた解決も乏しく、労働政策としては極めて後進的な姿を示しているとも言える。
 日本より遥かに先進的にして、同時に極めて後進的でもある中国の非正規就業の姿は、一見矛盾しているように見えるが、じつは本質において通底しているのではなかろうか。すなわち、法制や労使関係が未確立であることが伝統的非正規就業を濃厚に残存させているとともに、新規な非正規就業を制約なしに急速に発展させている原因でもあるように思われるのだ。
 今日、デジタル化による新たな就業形態をめぐる議論は、日本ではまだ極めて低調である一方で、欧米諸国と中国では盛んに行われている。しかし、同じように盛んに見える欧米と中国の議論には実は大きな落差があるように思われる。とりわけ、欧州におけるこの問題に関する議論においては、近代的雇用形態で確立してきた社会保障制度や集団的労使関係の枠組を、いかにこの新たな就業形態に広げていくか、が大きな柱となっている。その議論の土台である社会保障制度や集団的労使関係がなお相当程度に未確立で、むしろこれから構築されなければならない点に、中国社会の真の課題があるように思われる。

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大阪でもやります

11021851_5bdc1e379a12a 例の、もれなく分厚い『日本の労働法政策』がついてくる講演会を、今度は大阪でもやります。

https://www.jil.go.jp/kouza/tokubetsu/20190218/index.html

労働講座(2019年2月18日(月曜)大阪開催)
日本の労働法政策100年の変転
―働き方改革と未来の展望―

働き方改革関連法案が成立し、労働時間の見直しなど働き方改革の実現に向けて、企業の取り組みが進められています。今回の法改正により、わが国の労働法政策の姿は大きく変容することになります。労働法制全般にわたって大幅な改正が行われたことを機に、当機構では労働政策研究所長・濱口桂一郎著による『日本の労働法政策』を刊行しました。
本講座では、わが国の労働法政策の形成過程を踏まえて、著者から今回改正された労働時間法制および同一労働同一賃金にかかわる法政策を解説するとともに、今後の課題を考えます。講義後には講師との質疑応答の時間も設けております。

場所はエル・おおさかです。

会場
エル・おおさか 本館5階視聴覚室
〒540-0031 大阪市中央区北浜東3-14

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中国左翼青年の台頭と官憲の弾圧

_104959937_gettyimages517262340 梶谷懐さんのツイートでリンクされていたBBC中国語版の記事が面白いです。

https://twitter.com/kaikaji/status/1081583027640139783

https://www.bbc.com/zhongwen/simp/chinese-news-46616052 (中国左翼青年的崛起和官方的打压)

今まで何回か本ブログでも取り上げてきた(下記参照)話題ですが、ここまでまとまったものはあまり見当たらないので、中国語の理解力が乏しいのを顧みず少し紹介したいと思います。

北京大学毕业生岳昕是今年中国网络上最著名的左翼青年之一,但她已从公共视野中消失了四个月。作为一名坚定的马克思主义者,今年夏天她放弃了去美国读研的机会,投入到深圳佳士工人维权活动。2018年8月24日,中国警方在广东惠州带走包括她在内的数十名左翼维权者后,公众再也没有她的消息。

过去几十年,国家主导的市场经济令一部分中国人先富起来。而曾经被中国共产党宣称为社会主义国家领导阶级的工人,在国企转制、下岗、出口型经济转型和城市化建设中,日益被边缘化,权利无保障,有的工人群体甚至被列入“低端人口”。

在中国社会空间不断紧缩之下,一批关注社会底层、信仰马克思主义的左翼年轻人在网络和街头集结,对他们所不满的劳工权利无保障、贫富差距加大等社会现实问题发起挑战,形成一股不可小觑的政治行动力量。他们家庭背景各不相同,但大多就读于中国一流大学、喜欢读马克思著作、拥护社会主义,在学校就积极参加社团、为校内工人的权益奔走。在深圳佳士工人维权行动中,他们身穿写有“团结就是力量”的白色T恤、举手握拳冲在最前线,成为最引人注目的抗议者,也因此遭到中国当局的严厉打压。

北京大学卒業生の岳昕は今年(=2018年)の有名な左翼青年の一人だが、彼女が公衆の面前から姿を消して4か月になる。堅固なマルクス主義者として、彼女は今年の夏アメリカの研究会に行くのをやめて深圳の佳士の労働者権利擁護活動に没入した。2018年8月24日、中国の警察が広東省の恵州で彼女を含む左翼の権利擁護者を何十人も連れ去った後、公衆はもはや彼女の消息を聞いていない。

過去数十年間、国家主導の市場経済により、一部の中国人が最初に金持ちになった。かつて中国共産党によって社会主義国家を指導する階級と宣言された労働者は、国有企業の制度転換、解雇、輸出志向型経済および都市化の中で、日々ますます縁辺化され、権利は保障されることなく、ある種の労働者集団に至っては「底辺人口」にカウントされている。

中国社会空間が不断の緊縮下にある中で、社会の底辺に関心を持ち、マルクス主義を信仰する左翼青年たちがネット上と街角に集結し、労働者の無権利状態と貧富の格差の拡大といった現実社会の問題に挑戦し始め、軽視しえない政治的行動能力を形成した。彼らの家庭背景はさまざまであるが、その多くは中国の一流大学に学び、マルクスの著作を喜んで読み、社会主義を擁護し、学内で積極的に団体に参加し、学内の労働者の権利のために奔走した。深圳の佳士の労働者権利擁護活動では、彼らは「団結は力なり」と書かれたTシャツをまとい、こぶしを最前線に突き上げ、最も注目を浴びる抗議者となり、ついに中国当局の過酷な弾圧に遭遇することとなった。

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悲惨な労働者のために立ち上がる左翼青年たち・・・とくると、当然思い出される歴史があります。

中国近代史上最有名的学生运动是1919年的五四运动,当时中国在一战后的巴黎和会遭受不公平对待,引发了学生们的怒火。而1989年“六四”中国政府对学生开枪后,学生几乎绝迹于政治运动和社会群体事件。许多中国名牌大学的学生更是被广泛批评为“精致的利己主义者”,“冷漠自私”,他们审时度势,不惹事,不问政治,不多说话,只关心自己的前途。此次佳士工人维权事件,一帮左翼青年却成为最有力的推动者。

从初中高中的思想政治课,到大学的马克思主义哲学课,在1949年之后的社会主义中国成长并受过教育的年轻人,或多或少都学习过马克思主义理论。在这样的教育下,出现左翼青年顺理成章。只是如今,他们习得的知识理念与现实起了冲突。

“这些孩子在受教育的过程中,就是这样被教育的,要相信马克思主义,但是共产党的执政背离马克思主义理论,共产党当年共同富裕的承诺也没有实现,”历史学者章立凡分析,“他们在现实中感到,原来教他们的东西跟现实是相反的,所以他们认为这个社会不公正,他们要求按照他们所受的马克思主义教育来重新建立一个公正的社会秩序。”

左翼青年近年来已经多次引发舆论的关注。去年,数名左翼青年因为参与了一场广州读书会被警方拘捕。据香港《明报》报道,北京大学毕业生张云帆2017年11月15日在广州工业大学举办读书会时因谈及六四,遭警方拘捕,被以“聚众扰乱社会秩序”罪名刑事拘留和监视居住,12月29日取保候审。张云帆自称是“马克思主义者”和“毛左”。同起事件中,至少还有3人被捕后获保释,4人被通缉。

近代中国史上最も有名な学生運動は1919年5月4日の運動であり、、第一次世界大戦後のパリ講和会議で中国が不当な扱いを受けたことが学生の怒りを引き起こした。 1989年に「6月4日」の中国政府が学生を弾圧した後、学生は政治運動や社会集団活動からほとんど姿を消した。中国の有名大学の学生の多くは、「精妙な利己主義者」とか「冷然たる自己中心」と評され、時勢を判断し、問題を起こさず、政治に関わらず、物事を論じないで、自分の将来にしか関心がない。しかし今回の佳士の労働者の権利擁護事件では、左翼青年グループが最も有力な推進者となっている。

中学高校のイデオロギー・政治学課から大学のマルクス主義哲学課に至るまで、1949年以降に社会主義中国で成長し教育を受けた青年たちは、多かれ少なかれマルクス主義理論を学習している。そのような教育の下で、左翼青年の出現は理にかなっている。ただし今日においては、彼らが学んだ知識と理念は現実と矛盾するのだ。

「この子らは教育課程でこのような教育を受けた。彼らはマルクス主義を信じなければならないが、共産党の執政はマルクス主義理論から逸脱している。ともに豊かになるというかつての共産党の約束は実現されていない」と歴史学者の章立凡は分析する。「彼らが現実の中で感じ取ったことは、もともと彼らに教えられてきたこととは全く逆である。それゆえ彼らはこの社会は不公平であると考え、彼らは彼らが受けてきたマルクス主義教育に従って公正な社会秩序を再確立することを要求するのだ」。

左翼青年は近年何度も世間の注目を集めている。昨年、左翼青年が広州の読書会に参加したために警察に逮捕された。香港の「明報」の報道によると、北京大学卒業生の張雲帆は、2017年11月15日に広州工業大学で開かれた読書会で「6月4日」に言及したため警察に逮捕され、「衆を集めて社会秩序を擾乱した」という罪名で刑事拘留され、監視下にあり、12月29日、なお保釈は保留中だ。張雲帆は自らを「マルクス主義者」であり「毛沢東左派」であると主張している。同じ事件で、少なくとも3人が保釈され、4人が指名手配された。

https://twitter.com/2b0bKXcWuXpoNbb/status/1032133860446724096

进入11月,更多的左翼青年和活动人士在各地失踪。9日晚,张圣业在北大校园内被不明身份的男子直接掳走。根据声援团12月16日公布的消息,目前,仍然有29位声援团成员、学生和社会人士因涉及此次工人维权事件失去自由。
寒冬来到,左翼青年的抗争仍在继续。他们给公安部部长赵克志写信、发起寻找失联成员的行动,不断在推特、佳士声援团网站上发布文章、纪念视频,讲述事件的来龙去脉。他们的抗争也引发了国际关注和声援。11月底,包括美国著名左翼学者诺姆•乔姆斯基(Noam Chomsky)在内的30多名国外学者呼吁抵制在中国举行的世界马克思主义大会,以抗议中国政府打压维权学生。
这些左翼青年似乎并不畏怯官方可能对他们采取行动。BBC中文记者采访张圣业时,曾问他有没有担心过自己的安全。
张圣业在通讯软件上回复:“我不知道您有没有听过这一句话,真正的马克思主义者是无所畏惧的。”

11月には、さらに多くの左翼青年や活動家が各地で失踪した。 9日の晩、張聖業は北京大学のキャンパスで正体不明の男に直接連行された。 支援グループが12月16日に発表したニュースによると、現在、なお29人の支援グループのメンバー、学生および社会人が、労働者の権利擁護事件のために自由を奪われている。

寒い冬が来ても、左翼青年の闘争は続いている。彼らは公安部長の趙克志に手紙を書き、行方不明のメンバーの捜索を始め、絶えずツイッターと佳士支援グループのホームページ上に記事とビデオを掲載し、事件の経緯を語り続けている。彼らの闘争は国際的な注目と支援を引き起こした。 11月末、アメリカの有名な左翼学者であるノーム・チョムスキーを含む30人以上の外国人学者が、中国政府が開催する世界マルクス主義大会のボイコットを呼びかけ、もって中国政府による権利擁護学生の弾圧に抗議した。

これら左翼青年は官憲が彼らに対して取りうる行動を恐れていないかの如くである。BBCの中国語記者が張聖業を取材した時、自らの安全について心配していたかどうか尋ねた。

張聖業は通信ソフトウェア上で回答した。「あなたがこの言葉を聞いたことがあるかどうか知らないが、真のマルクス主義者に恐れるものは何もない。」

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(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-855b.html (中国共産党はマルクス主義がお嫌い?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-0e60.html (中国共産党はマルクス主義がご禁制?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-ba65.html (中国にとってのマルクス主義-必修だけど禁制)

(追記)

そういう中国共産党が、わざわざ日本語から翻訳して読ませたがるのが内田樹氏の本だという笑劇。

https://twitter.com/levinassien/status/1082458518177763328

「若者よマルクスを読もう」の第3巻に翻訳オファーが来ました。またまた中国からです。たしかに「マルクスとアメリカ」というテーマで書かれた本、中国にはなさそうですものね。中国におけるマルクス研究のレフェランスに日本人の書いた本が加わるって、面白い話ですよね。

https://twitter.com/levinassien/status/1082461472708423680

僕の本、韓国語と中国語訳は20冊くらい出ているんですけれど、欧米語の翻訳書はゼロです(論文はいくつか訳されますけれど)。この非対称性は何を意味するのでしょう。東アジア限定的に共感度が高いテクストがありうるのでしょうか。あるとしたら、どういう条件を満たしたら、そうなるのか。うむむ。

そりゃ、いうまでもないでしょ。

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「共産党員および領導幹部への推薦図書」の帯をつけて平積みにされているのですから、よっぽど中国共産党のお気に入りなんですね。読んでも上に出てくるまじめな左翼青年のような社会への疑問を持つことはないと、太鼓判を押してもらっているわけです。よかったね。

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バカとアホが喧嘩するとワルが得する

昨年末、松尾匡さんからメールで、反緊縮マニフェストに名を連ねてほしいというご依頼があったのですが、そのマニフェストの冒頭に「1 消費税を上げて不況が戻ってもいいのですか? 消費税を5%に戻して、景気を確かなものに。」という項目があり、それがこのマニフェストの主張の筆頭代表的存在である限り、それは無理ですという旨をお伝えしました。

https://economicpolicy.jp/wp-content/uploads/2018/10/manifesto2017new.pdf

このマニフェスト、そのあとを読んでいくと、「2  働きたい人が誰でもまっとうな職で働ける世の中に! 雇用創出・最低賃金引き上げ・労働基準強化」といった賛成できる項目もあるのですが(もっとも、ベーシック・インカムは賛成できない)、世間的にはまず何よりも反消費税という主張に集約されるであろうことは間違いありません。

ただ、それだけではやや説明が不足かなという気もしてきたので、反緊縮を増税反対という旗印に集約させると何が起こるのかという観点からもう少しコメントしておきたいと思います。

結論から言うと、社会保障費に充てるために消費税を上げるという触れ込みで始まったはずの政策が、「増税しないと財政破綻」論のバカ軍団と「増税すると経済崩壊」論のアホ軍団の仁義なき戦いのさなかに放り込まれると、「社会保障なんか無駄遣いやからやめてまえ」論という一番あってはならないワル軍団お好みの結論に導かれてしまうからです。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38744460Q8A211C1EE8000/ (軽減税率、財源にメド 社会保障から1000億円 )

あえて表にすればこういうことになります。

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おそらく松尾さんたちはこの表の左下の欄、つまり増税反対だけど再分配賛成というところに属しているのでしょう。ところが、その主張がもっぱら増税反対というところに集約され、もっぱら右上の「増税しないと財政破綻」論を仮想敵国として戦っていくと、現在の政治的配置状況の下では、それは右下の社会保障なんか無駄やからやめてまえ論との共闘になり、本来の政策だったはずの「増税して社会保障に」というのは冥王星の彼方に吹き飛ばされてしまいます。

そんなに増税が嫌なら、これくらい面倒見てやろうかという軽減税率の財源にそもそもの目標であったはずの社会保障費があてられるというのが今の姿ですが、この先、米中対決その他の影響で経済情勢波高しということになって「めでたく」(皮肉です)増税が回避されたら、結局得をしたのは社会保障を目の敵にするワル軍団でしたということになりかねません。正直、その可能性は結構高いように思います。そうでなくても、今ではそもそも何のために消費税を上げるという話になったのか、だれも覚えていないという状況ですから、その目論見は達せられたというべきかもしれません。

バカとアホが喧嘩するとワルが得するという教訓噺でした。

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高校普通科を抜本改革

昨日の読売新聞の一面トップに、

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190104-OYT1T50006.html (高校普通科を抜本改革…新学科や専門コース)

政府・自民党は、高校普通科の抜本改革に乗り出す。画一的なカリキュラムを柔軟に見直し、専門性の高い学科とすることが柱だ。各校の独自色を高め、生徒が明確な目的を持って学べるようにする狙いがある。文部科学省令などを改正し、2021年度からの導入を目指す。
 教育改革は小・中学校と大学が先行し、高校は事実上、手つかずになっていた。「高校は『大学への通過点』の位置付けが強まっている」(文科省幹部)のが現状で、政府・自民党は進学者数の7割超を占める普通科を見直し、高校の魅力を高める必要があると判断した。
 普通科は、卒業に必要な74単位のうち国語や数学、理科などの普通教科10科目と総合的な学習で38単位を取れば、専門教科を学べる。しかし、実際には残り36単位も大学入試に絡む科目に偏っている。・・・

これ、実は戦後職業教育史を知っている人からすると、ものすごいデジャビュな話なんですね。

11021851_5bdc1e379a12a_2 これまた『日本の労働法政策』から引きますが、

第5章 職業教育訓練法政策
第2節 職業教育法政策*59
2 戦後の職業教育*61

(4) 近代主義時代の職業教育

 1963年1月の人的能力政策に関する経済審議会答申は、「能力に基づかないで、学歴によって人の評価を行おうとする社会的風潮」による「アカデミックな普通教育を尊重し、職業教育に対するいわれのない偏見」を指摘し、「職業課程だけでなく、普通課程そのもののあり方が根本的に検討されなければならない」と主張していた。具体的には、アカデミックな性格のB類型に対し、プラクチカルな性格のA類型の普通課程では、技術革新時代にふさわしい実践的教科をその中核とすること、適性に応じて普通課程から職業課程相互の転換を可能にすること、中学校の技術・家庭科を高校まで一貫した教科とすることなどを提言している。また、職業教育については、学校と企業が連携して、定時制だけでなく、全日制職業高校でも生産現場で実習を行うことや、定時制や通信制高校の課程を認定職業訓練として履修できるようにすることなどが提示されている。
 また1965年12月に文部省と労働省の間で交わされた「社会・経済的需要に応ずる学校教育及び技能訓練について」でも、後期中等教育の内容形態を再検討し、職業教育を主とする学科の拡充を図るとともに、高等学校教育全般について、職業及び実際生活に必要な教育をより拡充するとしていた。
 こうした中で、1966年10月の中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」は、普通科、職業科を通じて、生徒の適性・能力・進路に対応して、職種の専門的分化と新しい分野の人材需要に即応するよう改善し、教育内容の多角化を図ることを求めた。これを受けて設置された理科教育及び産業教育審議会は、1967年8月と1968年11月に「高等学校における職業教育の多様化について」答申し、これに基づいて金属加工科、電気工作科、事務科、経理科、営業科、貿易科、秘書科等々の多様な学科が設置された。

(5) 職業教育の地位低下と復活

 こういう政策方向は、職業能力と職種に基づく近代的労働市場の形成を目指す労働政策と対応していたが、現実の企業行動が終身雇用慣行や年功制を捨てることなく、逆にそれを強化する方向に動いていく中では、決して主流化することはなかった。高校卒業者を採用する企業側が、「工業科卒でも農業科卒でも、ともかく一定の基礎学力と体力があればよいというわけで、とりたてて工業の専門的知識・技術の習得を必要としな」くなったのである。職務意識が希薄化する日本社会においては、過度に細分化された職業学科はかえって無意味なものとなってしまったのである。
 そういう時代状況の中で、1973年3月、文部省の理科教育及び産業教育審議会の産業教育分科会は、「高等学校における職業教育の改善について」をまとめ、基礎教育の重視、教育課程の弾力化などを提言し、これが学習指導要領に取り入れられた。ちなみに、同じ頃日教組が提起した案では、普通高校、職業高校を廃止して全て総合高校とし、普通教育を行うこととするなど、この方向性が極端に現れているが、マクロに見れば日本社会全体の流れを反映したものであったといえよう。
 石油ショック後、労働政策も日本的雇用慣行を評価し、維持強化する方向に大きく舵を切るが、これは職業教育であれ、職業訓練であれ、企業内能力開発以前の公的な職業教育訓練システムの社会的地位を引き下げるものでもあった。企業内のOJTを称揚する労働経済学の知的熟練理論からすれば、職業高校や職業訓練校の存在意義は極小化される。こうして、職業訓練校ほどではないにしても、職業高校は普通科にいけない「落ちこぼれ」の集団という社会的スティグマがより強く押されることになる。江戸時代の士農工商をもじった「普商工農」なる言葉が人口に膾炙した。みんなが普通科にいけるようにしようという「進歩的」な考え方ほど、職業教育をおとしめるものはなかったというべきであろう。企業主義の時代は、職業教育にとって冬の時代であった。

これどこまで本気の話なのかよくわかりませんが、記事の最後に

・・・月内に自民党の教育再生実行本部が、普通科見直しを求める中間報告を政府に示す。政府の教育再生実行会議を経て、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が今夏をめどに文科省令などの制度改正に向けた議論を始める。

ただ、特色ある教育を実現するには、高い専門性を持った教員の確保が今後の課題となりそうだ。

とあるので、結構喫緊の話なんでしょうね。

ちなみに、底辺普通科の話については本ブログでも過去何回か取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html (専門高校のレリバンス)

・・・これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/6-3e75.html (「日本型雇用システムと職業教育の逆説」@『産業と教育』6月号)

・・・今日の状況を鮮やかにえぐり出しているものに、『教育社会学研究』第92号(2013年8月)に掲載された児美川孝一郎「教育困難校におけるキャリア支援の現状と課題」という論文がある。これは、なにかと問題の多い大阪の偏差値の低い高校「教育困難校」3校を取り上げて、その状況や取り組みを述べているのであるが、職業的レリバンスがない高校ほどほどひどい状態になっているという結果が示されている。
 最初の普通科X校は、偏差値36である。尼崎に近いところのようで、ずっと定員割れが続き、入学者の半分しか卒業に至らず、卒業者の半分がなんとか就職にこぎ着ける。先生方は丁寧な寄り添うような進路指導をするのだが、いわゆる「荒れた学校」で、授業が成立しないような生徒たちに履歴書を書かせるので精一杯であり、その困難はきわまる。
 次の工業科Y校は、偏差値37である。中小企業集積地とあるので東大阪であろう。偏差値はX校と大して変わらないが、入試倍率は1倍を下回ることはなく、就職実績は遙かに高い。約3割は工学系の大学や専門学校に進学し、7割が就職するがすべて正規雇用で、大手・中堅も多い。
 非常に面白いのがY校と同じ地域にある普通科Z校であり、偏差値37である。X校同様の「荒れた学校」として「Z校に行っているなんて、とても言えない」ような状況だったが、地元密着の学校づくりを目指し、普通科高校でありながら2年次から専門コースを設け、週1回インターンシップに行かせるなどしたところ、その評判は「見違えるくらい変わった」という。
 というとZ校の成功物語のようであるが、実はよくなったのは専門コースだけである。そして、2013年度からこの専門コースを総合学科として独立させることになっていて、取り残された普通コースは依然として「困難校」のままである。同じ偏差値なら普通科に行くより専門高校に行く方がはるかに人生の未来が開かれるというこの現実を、しかし普通科進学が議論の余地なき「善」であった時代に青年期を過ごした世代の親たちは、必ずしもよく知らないまま子供たちの進路を左右しているのではなかろうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html (「職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる」はずがない)

それにしても、職業教育訓練重視派が主張していることになっている、

>命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる

なんてのは、一体、どこのどなたがそんな馬鹿げたことを申し上げておるんでごぜえましょうか、という感じではあります。
もちろん、金子さんの言うとおり、

>職業教育ならびに職業訓練はある特定のスキルを習得することを前提としています。つまり、ある職業教育を受けるということはその時点でもう既に選択を行っているのです。すなわち、選択が前倒しされるだけなのです。この世の中に無数にある職業の大半に接するなどということは実務的に絶対不可能です。ということは、職業教育はその内容を必ずどこかで限定せざるを得ない。

職業教育訓練とは、それを受ける前には「どんな職業でも(仮想的には)なれたはず」の幼児的全能感から、特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定以外の何者でもありません。
職業教育訓練は、

>この意見が人々を惹きつけるのは「選択の自由」という言葉に酔っているからです。

などという「ボクちゃんは何でも出来るはずだったのに」という幼児的全能感に充ち満ちた「選択の自由」マンセー派の感覚とは全く対極にあります。
職業教育訓練とは、今更確認するまでもなく、

>選択を強制されるのはそれはそれなりに暴力的、すなわち、権力的だということは確認しておきましょう。

幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為です。
だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。
まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。
もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

おかしな議論に振り回されないように、はっきり確認しておくべきでしょう。上記記事に示されている自民党の高校普通科改革政策とは、「特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定」の強制であり「幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為」であり、それゆえにこそ「何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷」さを回避するために必要な残酷さであるということです。

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ギルド!?

こういう記事を見て、

https://note.mu/sato_nezi/n/n7ffe7a4346c1 (【ご報告】ブルーパドルの社員を全員フリーランスにして、ギルド化します!)

https://note.mu/sato_nezi/n/n905cedfd535b ( 【補足記事】ギルドと労基法〜ギルドは毒にも薬にもなる〜)

この会社が何をしようとしているのかが、この二つの記事を読めば読むほど実はよくわからなくなります。

ギルドにすることで、メンバーのフィーは給与でなく、稼働分に応じて支払われるので今までの仕事量で考えると、メンバーのフィーはけっこう増えます。そして、頂く仕事への感謝の気持ちがめちゃくちゃ上がるので、社員のときよりモチベーションも断然変わります。仕事がなければ、一緒に探せます。「退職」という概念もなくなるので、どこかに移住したいと思えば、すぐできます。1年全く仕事をしなくたって、仲間でありたいと思えるなら仲間でいられます。このようにギルドにして、よりwinwinの関係になる方が、長く付き合えるなと思いました

いや別に労働者であっても固定給ではなく稼働分に応じて支払うのは普通ですし、むしろ成果に応じて支払うことも結構多いでしょう。第2の文章では、

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という表にしていますが、それは雇用契約でも十分可能のはず。

小さな制作会社の場合、メンバーにマルチタスクが求められます。結果、そんなに得意ではない仕事も、その人をアサインしてやらねばなりません。でもギルドにすれば、合わない仕事は、別の外部メンバーを堂々とアサインできます。結果的に、プロジェクトに合わせて適材適所なメンバーでやれることで、winwinになれます。。

いやそもそも本来ジョブを前提とする雇用契約の本旨からしてマルチタスクが義務というわけはないので(そもそも雇用労働者は法律上「メンバー」じゃないし)、むしろギルド制のほうが本来的メンバーシップじゃないかと思われるのですが、実際のギルドとは関係なく、日本型メンバーシップ雇用の反対物をギルドと呼んでいるだけなんでしょうか。

ちなみに、第2の文章にはこんな表があるのですが、

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さすがに、雇用労働者でも副業OKだとちゃんと書いていますが、そうするとギルド化によって何がどう変わるのかさっぱりわかりませんね。「もちろん」という副詞は、「いうまでもなく」「明らかに」という意味であって、その度合いをびた一文高めない言葉であるわけですから。逆に、ジョブのみによってつながる雇用労働者と違い、(言葉の正確な意味での)ギルドなんかになった日には、よその仕事を勝手にやるのはそもそも裏切り行為になる可能性が高くなると思いますが。

ついでにこんな表もあるんですが、

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わはは、何も変わらんと。

つうか、ここもそうですが、何か雇用労働者であれば時間・空間が拘束されていなければならないという強い思い込みが強固にあって、何かというと裁量労働制や高度プロフェッショナルを原理的に批判する人々もそうですし、事実上指揮命令下で働いている人を捕まえて時間空間的拘束が少ないから労働者ではないなんて言う判決を下してしまう裁判官もいたりするわけです。

さすがにそういうおかしな議論をしていないのはいいのですが、そうすると、雇用労働とギルド化で何も変わりませんねん、と。

これ、結局働き方自体は今までの柔軟な雇用労働とほとんど変わらないわけで、そのいうところの「ギルド」にすることで何がどう変わるのかというと、おそらく給与のところに小さい字で書いてある、

+社保の支払い

ここに集約されるような気がしますね。社会保険料なんて払うのはもったいないから、労働者ではなくてギルドってことにしよう、と。

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新産別とは何だったのか?

Image1 新運転の太田武二さんより『非正規大変!』(非正規労供研究会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

さてしかし、この本はなかなか複雑な由来を持った本です。太田さんによる「はじめに」と、一緒に入っていた送り状に詳しい経緯が書かれていますが、かつて労働4団体の(最も小さいけれども)一角を占めていた「新産別」というナショナルセンターがあり、その創設リーダーが細谷松太さんという方だったんですね。

残念ながら、あれほどどうでもいいトリビア情報満載のWikipedeiaにも細谷松太という項目はなく、ネット上で得られる情報としては、世界大百科事典の

https://kotobank.jp/word/細谷松太-1108105

ほそやまつた【細谷松太】

1900‐90(明治33‐平成2)
労働運動家。山形県生れ。15歳で上京して職を転々とするが,1921年日本海員組合に加入,初めて労働組合にふれ合う。24年総同盟(日本労働総同盟)に参加,以来労働運動一筋に歩む。28年共産党に入党,29‐36年,41‐44年の2回にわたる逮捕・投獄で約10年間獄中生活。戦後46年産別会議を組織し事務局次長として主導的役割を担うが,47年二・一スト後,党の組合介入に反対し共産党を脱党した。48年産別民主化同盟を組織し組合民主化の運動を主導(民同運動),戦後労働運動に一大転機をつくる。

というくらいですが、戦後労働運動史に出てくる「民同」のリーダーでありながら、それをベースに作られた総評とは距離を置き、いわゆる政治的な左右の対立とは違う意味で最も極北の路線を歩み続けた労働運動家といえます。

その細谷さんが1990年に亡くなった後、その預金通帳と細谷さんの著作200セットを受け継いだのが、当時新産別運転者労働組合執行委員長であった篠崎庄平氏で、その篠崎さんが亡くなった後、連合の逢見事務局長の呼びかけでこの著作集を産別や地方連合会に送るとともに、残った預金をもとに出版にこぎつけたのが本書というわけです。

はじめに 太田武二

私は細谷松太をどう見るか 伊藤晃

戦後労働運動の「敗北」と「未来への展望」 木下武男

日本の財政を考える 峰崎直樹

AI革命と仕事の未来 小林良暢

労働組合による労働者供給事業の意義と展望 太田武二

非正規の皆さん、労働史を学べ 高橋昭夫 

労働組合の労働者供給事業と厚生労働省 太田武二

あとがきに変えての雑感  高橋昭夫

正直いささか種々雑多で、小林さんの議論にはそれとして応戦したいところもありますが、ここではそれはカッコに入れ、本書のなる基になった細谷松太という人、新産別という労働組合について、若干別の角度からのコメントをしておきたいと思います。

戦後労働史の諸潮流というと、どうしても政治的な右とか左とかが中心になりがちです。この細谷さんももちろん海員組合、総同盟という右派から共産党に入り、終戦直後は産別会議の事務局次長として活躍しながら、その産別が共産党の下部組織のように引き回されていることに我慢が出来ず、共産党を脱党しただけではなく、産別会議を共産党支配から脱却させる民主化同盟、いわゆる「民同」のリーダーとして活躍し、しかしその後GHQの肝いりで総評が結成されるのにはあえて参加せず、極小の「新産別」というナショナルセンターを掲げて戦後史を生き抜いてきたという大変興味深いその人生からしても、そういう枠組みで語られるのは不思議ではないのですが、新産別という組合はその枠組みには収まりにくいのです。

それは一言でいうと、産業報国会の流れをくむ、細谷さん自身の言葉を借りれば、「興奮した大衆の面前で、誰かが産報の看板をひっくり返しただけで、労働組合が生まれたのだ」という出自の戦後企業別労働組合に対してきわめて批判的で、欧米型の産業別労働運動、労働協約による横断賃率を最もまじめに追求しようとした極めて珍しい労働運動の潮流であったということです。

その辺を本書の中で詳しく解説しているのは木下武男さんですが、ここでは昨今話題の同一労働同一賃金に対するスタンスという面からみておきましょう。

11021851_5bdc1e379a12a この問題については、昨年末の『日本の労働法政策』の中でもちらりと触れていますが、

第4節 均等・均衡処遇(同一労働同一賃金)の法政策*38

1 賃金制度の推移*39

(5) 労使の姿勢

 経営権の確立を掲げて1948年に結成された日経連は、賃金制度の在り方について続々と見解を明らかにしていった。1950年の「新労務管理に関する見解」では、生活給偏重の傾向を完全に揚棄し、職階制を導入することによる同一労働同一賃金の徹底が掲げられている。1955年に出版した『職務給の研究』*42の中では、「賃金の本質は労働の対価たるところにあり、同一職務労働であれば、担当者の学歴、年齢等の如何に拘わらず同一の給与額が支払われるべきであり、同一労働、同一賃金の原則によって貫かるべきものである」と宣言している。
 1960年代には目前緊急の課題として職務給に移行することを打ち出し、とりわけ1962年の「賃金管理近代化の基本方向」は、「職務評価は同一労働同一賃金の原則と・・・報酬に差をつけるとの原則の実現を図りうるもの」と位置づけている。その実現の道筋として、まず大企業の職務給化を行い、次にそれらの企業間でいわゆるキイ・ジョッブを設定し、これについて協定を結んで標準的職務の賃率を横に揃える努力を行い、さらにこれを異業種異規模間に及ぼして全国的な標準化を実現していくとしていた。
 これに対して労働側は、口先では「同一労働同一賃金」を唱えながら、実際には生活給をできるだけ維持したいという姿勢で推移していた。産別会議が崩壊し、総評が結成された後も、賃金闘争はもっぱら誰もが同意する「大幅賃上げ」要求一本槍で、労働者内部に対立をもたらすおそれのある賃金制度の問題は慎重に避けられていた。1962年度運動方針では、「職務給は同一労働同一賃金を実現するものだという宣伝によって労働者を巻き込もうとする。しかし、それは格差をちじめるだけで労働者の要求とはまったく違う」「われわれが要求しているのは、たんに、年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金を一層大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、たんなる配分の原則ではない」と、苦肉の表現をしている。

では、総評以外の労働運動はどうだったのかというと、

http://hamachan.on.coocan.jp/equalpay.html (『季刊労働法』第230号「労働法の立法学」シリーズ第23回 「同一(価値)労働同一賃金の法政策」)

この頃の各労働組合の見解を対比するには、日本労働協会編『労働組合と賃金-その改革の方向』(1961年)が便利です。金子美雄(当時経済企画庁調査局長)の問題提起を受ける形で、総評の小島健司調査部長は「横断的賃率を作っていくという点については、私も、将来の大まかな方向としてはその通りだと思う」と言いつつ、「労働組合が労働市場をコントロールする力を持っていること」と「まず社会保障、特に失業保険の拡充」が条件だと述べ、「賃金体系についての長期的展望」など持たない方がいいとまで語っています。これに対し全労(後の同盟)の和田春生書記長は「職務給制度への移行」が「年功序列型の賃金を是正し、同一労働同一賃金へ近づく」上で「かなり効果のある方法」だと評価しつつ、「現在のように、賃金決定機構が企業内に限られてい」る場合には「その基礎となる職務評価の点において、どうしても会社内的、あるいは企業内的になる」と疑問も呈しています。一方、新産別の大谷徹太郎調査部長は「賃金の体系の近代化という点については、労働側もまた使用者側もいずれも主体的に立ち遅れている」とし、むしろ労働側が「この際、そういう条件に乗って、積極的に賃金制度を近代化し、日本の賃金を改革しようという積極的な方向を持つ必要がある」と、きわめて積極的な姿勢を示しています。さらに全繊同盟の井上甫調査部長は「現在の属人的な賃金の決め方を廃止していって、同一職種については同一の賃金が支払われるような、いわゆる職種別賃金を確立していく方向が望ましい」と述べつつ、「同一労働同一賃金と、生活を十分に保障する賃金水準の確立が、その前提になければならないから、今の時点ですぐそれができるかどうか」と疑問を呈し、「家族手当のようなものについても、当然国家が社会保障制度の中で措置する」ことを求めています。

と、新産別は経営側の職務給の主張を「立ち遅れている」と批判するくらいの徹底ぶりだったのです。

ただ、4団体時代を通じて新産別は量的にはほとんどネグルジブルなまでの小さな団体に過ぎず、その主張が大勢に影響を及ぼすことはほとんどなかったようです。

細谷さんの預金と著作集が労働者供給事業を営む組合である新運転に残されたという話も、労働運動の主流からはいかに軽視される存在であったかを物語っているようにも思われます。

しかし逆に言えば、労働者供給事業という徹底的に外部労働市場に立脚し、言葉の正確な意味での労働力の「集合取引」のみをその業務とする新運転という組合にその遺産が残されたというのは、大変暗示的でもあります。

ちなみに、細谷松太著作集はJILPT図書館にも所蔵されていますので、今時労使関係史などというはやらない分野に関心を持つような奇特な方は、一遍覗いてみてはいかがでしょうか。

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年齢に基づく雇用システムと高齢者雇用@『週刊経団連タイムス』2019年1月1日

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『週刊経団連タイムス』2019年1月1日号に、昨年11月29日に東京・大手町の経団連会館で行った講演の概要が掲載されています。

http://www.keidanren.or.jp/journal/times/2019/0101_08.html

経団連は11月29日、東京・大手町の経団連会館で雇用政策委員会(岡本毅委員長、進藤清貴委員長)を開催し、労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎労働政策研究所長から、「年齢に基づく雇用システムと高齢者雇用」について講演を聞いた。概要は次のとおり。

■ 年齢に基づく雇用システム

定期採用や定年退職など年齢に基づく雇用システムが形成されたのは、大正から昭和初期であり、終戦後も大きく変わらずに残った。1950年から60年代にかけては、ILO100号条約(男女同一価値労働同一賃金)の批准など近代的労働市場の形成を目指した。しかし、その後の公的年金の動向に影響を受けるかたちで、定年年齢の見直しが行われてきた。そして、94年改正、2000年改正によって支給開始年齢が65歳まで引き上げられたが、すでに60歳定年制が企業で構築されていたため、定年後の再雇用で継続雇用することが主流となった。

最近の動向として、18年10月の未来投資会議で安倍首相から、70歳までの就業機会の確保を図ることを目指すとの発言があった。しかし、高齢期の身体精神能力は多様であり、70歳までの引き上げについては、定年延長や継続雇用といった内部市場型による現政策の延長線上で考えるのではなく、慎重な検討が必要である。

■ 高齢者雇用法政策

高齢者雇用にかかる法政策は、高度成長期に中高年齢者の雇用率制度を導入したことから始まる。その後、定年延長を求める要望が強まり、1986年に60歳定年の努力義務化、94年改正では60歳定年制が義務化され、65歳継続雇用が努力義務化された。2004年改正では、労使協定による例外が認められたうえで65歳定年または継続雇用の義務化、12年改正では、関連企業への転籍を容認し、希望者全員に対して65歳定年または継続雇用の義務化が行われた。今後の見直しでは、例外の許容範囲について、もう一度議論が必要になる。

■ 年齢差別禁止政策

年齢に基づく雇用システムは、新たに年齢差別禁止に合わせるかたちでの政策転換が求められた。募集採用における年齢制限の禁止について、01年改正では努力義務化、04年改正では理由の明示義務化、07年改正では義務化されている。これは、若者の再チャレンジ促進策で導入された。法律の趣旨は年齢差別禁止であるが、実態とかけ離れた法律をつくってしまったといわざるを得ない。OECD加盟国で、一般的な年齢差別禁止法がない国は日本と韓国である。

■ 雇用のあり方と社会システム

雇用システムは社会システムと連動している。

1つは、教育訓練であり、職業技能をどこで習得するか。教育課程で習得すると、年齢は問題にならないが、欧米では高い若年失業率など必ずしもうまくいっていない。労働過程で習得するのが日本型であり、年齢に基づく雇用システムと密接に結びついている。安倍政権では、専門実践教育訓練給付の拡充など、教育訓練を強調する政策が目立つ。

もう1つは、社会保障との関係である。子どもの教育費や住宅費については、これまで企業の年功賃金が支えてきたので、年功制を見直した場合、社会保障の支え手や持ち家促進型住宅政策も一緒に考えていく必要がある。

年齢に基づく雇用システムは、若年期に無限定で働いて技能を身につけるので、結婚・出産・育児の負担がある女性は活躍しにくい。日本社会の持続可能性にも影響を与えることになるため、問題は複雑だが、しっかり考えていく必要がある。私自身もジョブ型正社員を提唱しているが、すべてを解決することは難しい。

100年前に始まった年齢に基づく雇用システムがさまざまな展開を経て現在に至っている。ミクロでは70歳までの雇用就業の場をどのように確保していくのか、マクロでは日本社会全体の雇用システムとしてどうあるべきか、われわれは向き合っていかなければならない。

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外国人労働者受け入れ拡大に伴う海外人材派遣業の機能@上林千恵子

Top_newbook 新年早々届いた『學士會会報』1月号に、法政大学の上林千恵子さんの「外国人労働者受け入れ拡大に伴う海外人材派遣業の機能」という大変ポイントをついた文章が載っています。

http://www.gakushikai.or.jp/magazine/bulletin/index.html

今回の入管法改正に対しては、いろいろな観点から批判がされていますが、これまでの30年間にわたる技能実習制度の矛盾を見続けてきた上林さんは、とりわけ外国人労働者の仲介・あっせん機能がきちんと規制されていない点に問題を見出します。

・・・しかし受け入れ国側の日本では、労働者受け入れは個人の自発性に基づいたもの、仲介企業の善意に基づいたものといった暗黙の前提がある。とりわけこれまで単純労働者の受け入れ窓口の代替的役割を果たしてた技能実習制度においては、制度の目的が発展途上国への技能移転であったために、受け入れ管理団体は営利機関であることを否定されており、利益追求を設立目的としない中小企業団体や事業主組合が監理団体となっていた。しかし団体監理型受け入れ組合における技能実習生受け入れ問題が頻発したことにより、先の技能実習法ではこの組合が許可制の組織へと変更されたのである。

こうした日本の過去の経験を考えると、現在審議中の新入管法では労働者斡旋機関を「登録支援機関」という曖昧な形容で表現している国境をまたぐ人材派遣業には、それなりの人材を見極める能力、送り出し各国のそれぞれの事情、送り出し家庭の事情、日本の受け入れ先の事情などの個別案件に関する知識のほかに、送り出し国の法律、受け入れ側の日本の法律といった専門知識、送り出し予定の労働者の教育、受け入れ後の労働者の通訳や24時間の生活管理などの業務を遂行してきた。・・・

新入管法では、技能実習制度のような「技能移転」という建前は背景に退き、より労働力受け入れの側面が前面に出てくる。そうなると、それに伴って人材派遣業のビジネスとしての側面もより前面に出てくることになるだろう。その時に、日本で営業する人材派遣業に対して、適切に国家が管理し、その信頼性を保障する仕組みが必要とされるのではないか。・・・

・・・日本を外国人労働者にとって安全で魅力的な出稼ぎ先とするには、外国人労働者を仲介する海外人材派遣業が外国人労働者から信頼を得なければならない。外国人労働者が最初にコンタクトをとる人材派遣業者が信頼性を獲得し、労働者の安全を保障することほど、実は賃金以上に海外害から出稼ぎに来る人々にとって不安を除いてくれるものはない。

そしてそのためには、国際ビジネスとしての海外人材派遣業が適正なビジネスとして運営されるような仕組みを考案し、それを国家が後押ししていくことが重要である。・・・来日する低熟練外国人労働者は、法律といういわゆる人権を保障する道具があまりに抽象度が高いために、自国の法律も、ましてや日本の法律も理解できぬまま母国の農村地域から直接に日本の職場に派遣されている。したがって、その安全と人権を確保するには、まず彼らが最初に接する海外人材派遣業に安全網の提供を保障してもらわねばならないのである。

ありがちな、オール・オア・ナッシング的な批判論では見落とされがちな重要な側面を的確に指摘しているように思われます。

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スウェーデンは「ナチ」か?(再掲その他)

51dquhkp9rl_sx306_bo1204203200_ なんだか、富山が日本のスウェーデンだという本が出て、それを批判する人が出てきたとかいう話があるようですが、なんだかスウェーデンていう国そのもののイメージがすこしずれている感も無きにしも非ずな感があり、本ブログの過去エントリをいくつかお蔵出ししてもいいかもしれないという気がしてきました。

これはもう10年も前のものですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html (スウェーデンは「ナチ」か?)

雑誌『オルタ』の7-8月号が「北欧神話?―グローバリゼーションと福祉国家」という特集を組んでいます。
http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_07-08.html
この最初の市野川容孝さんと小川有美さんの対談がなかなか面白い。

>小川 ところで市野川さんは『社会』という本をお書きになられていますが、北欧にとって「社会」はもっともベーシックなキーワードで、社会(ソーシャル)を抜きにして国家(ステート)は語れません。ただ北欧の場合、国家に対して社会があるとの考えが希薄で、スウェーデン語の「社会」という言葉の中には「国家」の概念が入っているといわれています。社会が解決しなくてはいけないというときは、市民社会だけでなく国家も含め解決しなくてはいけない。この社会と国家の近い関係は、ラディカルな市民社会論の立場からは、「北欧の社会運動や環境運動は飼いならされたものだ」といった批判が向けられます。逆に北欧の組合や運動の側は、自分たちが組織率が高く、国家の意思決定にも参画できている、高度で活発な市民社会だと自負していたりする。こうした「社会に近い国家」を私たちがどう見ていくのかは、「モデル」ということ以上に、討議する価値があると思います。

もちろん、問題は、「ソーシャル」のかけらもないくせに、スウェーデンは解雇自由だという間違った思いこみだけでスウェーデンモデルを振り回す無知蒙昧さんなどではなく、国家はキライだけど「社会」はスキという「ラディカルな市民社会論」な方々にあります。北欧のことをよく知らないまま、そういう「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)でなんとなく憧れている人にとっては、次の会話は大変ためになるでしょう。

>市野川 ・・・それで、少し乱暴に言ってしまうと、今までソーシャルなものはナショナルなものと不可分で、ナショナル・ソーシャリズム、極論すれば「ナチ」しかなかった。つまり、ソーシャルなものがナショナルな境界、ナショナルな規制の中でしか担保されないというところがあったと思うんです。・・・・・・そこで、小川さんにお聞きしたいのは、北欧についてもソーシャルは結局「ナチ」でしかなかったのかどうかなんですが、その辺りいかがでしょうか。
小川 ナチス・ドイツのような自国民中心主義は、北欧のような小国ではそもそも成立しようがない。ただ、北欧福祉国家がナショナルなソーシャリズムから発展したかといえば、確かにそういう面があります。様々な歴史的背景がありますが、まず大きな転機として両大戦間の危機があった。世界大恐慌など戦間期に経済危機が深刻化する中で、共同体的な結合を志向するコミュニタリアン的な渇望が生まれていく。この時、議会制民主主義、社会民主主義が多くの国で挫折してしまいました。スウェーデンでは、社会民主党のハンソンがマルクス主義にはない「国民の家」というスローガンを唱えました。ソーシャルな救済とある種のコミュニタリアン的な価値が統合された形で、北欧の社会民主主義は生き残ったわけです。

つまり、一言で言えば、スウェーデンの社会民主主義とは「ナチ」である、と。
それが今もっとも先鋭的に現れている分野が移民問題になるわけです。

>現代ヨーロッパは、移民をめぐる問題で大きく揺れています。北欧も例外ではなく、福祉国家の価値観を共有せず、負担を十分に行わない移民、また男女平等とイスラム的な文化の衝突などに直面して、福祉国家の権利を国民に閉じようとする福祉国粋主義(ショービニズム)が問題になっています。つまり、国民的(ナショナル)に平等を確保することが、他者の排除を意味するようになってきている。それはまさにナショナル・ソーシャルゆえの境界化だと思うんですが、ではそこから、現実にここまできたナショナルな平等を否定すべきなのか、それは「赤子を風呂の水とともに捨てる」ことにならないかと。

こういう問題を真剣に考えないで、ふわふわと北欧ステキとかいってるのが「北欧神話」なんじゃないかとも思いますが、それはともかく、

>市野川 ソーシャルなものと多文化主義って、本来そりが合わないんですよね。・・・ソーシャルなものって、平等の創出に向けて介入や支援を呼び込んでいく一方、平等を求めるがゆえに、どうしても画一性の方に傾いてしまうんですね。

このナショナルな画一性、平等性ががっちりとあるがゆえに、解雇法制自体の規制度とは別に、北欧社会が雇用の流動性と社会の安定性を両立させているという面もあるわけです。わたしがよく引用する、「デンマーク社会って、国全体が一つのグループ企業みたいなもの」という某労組関係者の話ともつながってきます。
逆に日本はそういう画一性、平等性が欠けているというところから話が出発するのです。

>小川 北欧を持ち上げる論調では、最近ではしきりに「フレクシキュリティ」という言葉が濫用されていますが、大きな政府という部分はあえてあまり言われないんですね。公共部門により地方で雇用を創出し、男女の公私の共同参画を促進し、職業教育を行う。そうした公的な基礎的インフラがあっての労働市場の柔軟化であることが忘れられている。日本には市民的な反公務員・反増税感情があり、アナキズムの伝統もあり、北欧とはまったく異なる国家観を形成していると思います。

こういうところに、「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)が効いているんでしょうね。
ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。
(追記)
なんだか、相当な数のはてぶがついたようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html
多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。
むしろ、これは必ずしも市野川さんの意見とは同じではないかも知れませんが、わたしの歴史観からすれば、アメリカのニューディールも、フランスの人民戦線も、日本の国家総動員も、スウェーデンの社会民主主義も、「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムへ、という同時代的な大きな変革のそれぞれの諸国における現れなのであって、その共通性にこそ着目すべきではないか、という話につながりますし、日本の話で言えば、戦時下の国家総動員体制と終戦直後の戦後改革とが一連の「ナショナル」&「ソーシャル」なシステム形成の一環としてとらえられるという話にもつながるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-8023.html (スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性)

『大原社会問題研究所雑誌』の最新号が、「パターナリズムの国際比較」という特集を組んでいます。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/index.html

>【特集】パターナリズムの国際比較 
       
「スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性」 クリステル・エリクソン&ジョン・ボリビィ/石原俊時訳 
「フランス・パターナリズムの史的考察:19~20世紀」 アラン・シャトリオ/廣田明訳 
「近代日本の経営パターナリズム」 榎 一江

このうち、とりわけ一見パターナリズムとは正反対の国のように見えるスウェーデンにおいて、パターナリズムこそが市民的公共性の形成に重要な役割を果たしたことを説明するエリクソンさんとボリビィさんの論考が大変興味深いものです。お二人はエーレブロー大学の歴史学教授で、東大経済学部で講演されたものだそうです。
まだPDFファイルの形でアップされていないので、是非図書館かどこかで探して読んでいただきたいところですが、内容の要約を訳者解題でされているのでそれを引用しますと、

>本稿は、およそ一世紀半にわたるスウェーデン近現代史をパターナリズムという概念で捉え直すことを試みた意欲的な論考である。たとえば、従来、19世紀前半に形成されたスウェーデンにおける市民的公共性については、身分制的秩序からの解放や自由という側面が強調されてきたのであるが、著者は、市民的公共性と私的親密圏双方を貫く同時期の家父長制的な社会構造を明らかにしている。
>また、本稿は、19世紀末葉から企業におけるパターナリズムが台頭する社会民主主義労働運動を次第に受容していったのだが、その後、単に受容するだけでなく、社会民主主義政権のもとでの福祉国家建設あるいはその繁栄のために不可欠な役割を果たすようになっていったことに注目している。スウェーデン福祉国家は社会民主主義のみでは語れないのであり、そのよって立つ社会構造や歴史的展開を理解する上で、パターナリズムや保守主義といった要素を無視できないと主張している。

パターナリズム+社会民主主義=福祉国家、と。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-586c.html (パターナリズムについて)

先月(9月30日)のエントリで紹介した、『大原社会問題研究所雑誌』9/10月号の特集「パターナリズムの国際比較」が、PDFファイルとしてアップされました。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/index.html
この時間差がねえ。
前回も書いたように、「一見パターナリズムとは正反対の国のように見えるスウェーデンにおいて、パターナリズムこそが市民的公共性の形成に重要な役割を果たしたこと」を歴史分析から示しているクリステル・エリクソン&ジョン・ボリビィの「スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性」が、やはり読まれるべきでしょう。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-01.pdf
前回は訳者解題を書き写すので精一杯でしたが、今回はコピペできるので、この論文の最後の「総括」というところを丸写しにします。それだけの値打ちのある文章だと思うので、じっくり読んでくださいね。

>スウェーデンの市民的公共性の形成は,1830年代に始まった。19世紀末葉まで,この公共性においては,男性かつ上層の中間層の家父長が中心的な役割を果たした。家父長とそれに従う者との関係は,殆どの場合,対面的な関係であり,従属者がその関係を受け入れ,きちんと仕事をする限りその安泰を当てにできる,父親に対するような社会的・経済的信頼性に基づいていた。19世紀末,市民的公共性は変化し始めた。今や上層中間層の女性も,象徴的な消費者やフィランスロピーの担い手,ネットワーク的関係を強固にする存在としてますます中心的な役割を演じるようになった。
労働運動の台頭は,市民的公共性の変化を促した。権威主義的な家父長は,勃興する労働運動の公共性からの挑戦を容認しなかった。同時に,大企業の勃興は,工業企業家個人が従業員と対面的な関係を取り結ぶことを困難にした。資本主義的な市場関係が,部分的には家父長的な関係に代替することとなる。状況はまた,世紀転換期の民主化の進展や1918年から21年の民主主義の勃興[スウェーデンでは1909年に下院にあたる第二院について男子普通選挙権が導入された。第一次世界大戦末期よりの社会不安の中で,1919年にはすべての選挙での男女平等普通選挙権・被選挙権が議決された。最終的に21年には選挙権規定をめぐり憲法も改正され,女性も参加した初の総選挙が行われた。──訳者注]によっても変わった。このような経済的,社会的そして政治的な過程が,市民的公共性と労働者公共性の間の新たな交渉を強制し,先見の明のある中間層の家父長が従業員との間にパターナルな契約を書き改めることにつながった。子を従属させ,善良であるが罰を与える父親は,労働者を教育し,企業及び企業がある地域との連帯や協働の下に階級対立を克服しようとする,新しい中間層の家父長によって取って代わられた。労働と資本の関係は,製鉄所間の一つの競争条件となった。権威主義的な家父長は労働運動を認めることを拒否した。それにより,一連の破壊的な対立を引き起こした。〔このような〕教育する家父長のやり方は,首尾よくいけば,こうした類の対立を回避した。対立の代わりに,彼らは,階級を超えた交渉と協力の概念を作り出した。これが「ブルク精神」と呼ばれているのだが,ブルジョワジーのヘゲモニー的地位という脈絡において理解されるべきである。
市民的公共性の第三の転換は,労働運動の公共性が選挙勝利によって国家装置を動かす権力を獲得し,福祉国家を建設し始めた1930年代に起こった。当時,教育する家父長の政策は,上層中間層の保守主義的な部分を覆っていた。市民的公共性と労働運動の公共性は,合理化や経済成長の概念をめぐって協力し始め,それが,社会的・政治的福祉諸改革の前提となった。クリスティアン・フォン・シュードウは,1950年代に,さらに労使協力政策を発展させ,その他の家父長は,ブルジョワジーのヘゲモニーの観点に従って解釈した産業民主主義を提唱することにより,ブルクの労使協力の概念に再び息を吹き込んだのである。

日本におけるパターナリズムを考える上でも、大変参考になる枠組みだと思います。
同じ号に、榎一江さんの「近代日本の経営パターナリズム」も載っていて、これもいままでの研究史を手際よくまとめるとともに、国際比較の中でいろいろと考察されており、脳みそを刺激します。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-03.pdf
これまた最後の「おわりに」をコピペ。

>日本の経営史研究では,温情主義と経営家族主義とを重ね合わせて,それを日本的経営の特質としてきた。日本的経営の源流を探るという観点は,近代日本の特殊性に注目し,それを固有の文化や伝統の問題に帰し,国際比較の視野を閉ざしてきたように思われる。しかしながら,温情主義が特殊日本的現象ではなく欧米にも見られることは指摘されており,第二次大戦前の日本で温情主義の名のもとに設けられた慈恵的・福利増進施設の内容は,例えばアメリカのウェルフェアの内容と特に異なるものものではないという(58)。「日本的なるもの」を追求してきた研究史は,家イデオロギーを前面に出す言説レベルの分析に傾倒しすぎたきらいがある。それらは,経営の実態に迫る実証的な歴史研究によって,再考を迫られている。
本稿は,「温情主義」という言葉が普及した大正期に,パターナリズムが再編される過程に焦点をあてた。もちろん,それ以前に同様の施策がなかったわけではない。製糸業,とりわけ郡是製糸の例がそうであったように,労働者に対して法的な義務以外に何らかの施策をとることは広汎に見られた現象であった。しかし,それらは,「主義」としてではなく,個別経営による試行錯誤の中で様々な形態をとって実施されていた。その形態は,産業,企業によっても,あるいは,地域によっても異なっていたのであり,それぞれに合理性を有していた。そうした多様なあり方が「主義」として再編されていく過程において重要な役割を演じたのは,紡績業を中心とする繊維産業の経営者たちであり,そのことが日本の経営パターナリズムを特徴づけることになったのである。
近代日本のパターナリズムは第一次大戦期を経て大企業を中心とする経営者の言説において強化されていった。もちろん,言説と実際の経営における施策の間にはなおかい離があったし,こうした理念が労働者にどう受け取られたかはまた別の問題である。しかしながら,労働問題が経営問題となった以上,パターナリズムのあり方は経営の内実に即して分析される必要がある。その意味での実証研究は,始まったばかりである。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1692.html (だから、「サヨクやリベラル」じゃなく、「ソーシャル」の理想なの)

一知半解よりももっとずっとよく分かっている、九知八解くらいのレベルの認識なんですが、それを全体の認識枠組みにどう位置づけるかというところで、「イカニモ日本」的な「サヨクやリベラル」認識がデフォルトになってしまっているために、いささか残念な結論めいたものになってしまっているというところでしょうか。
http://ameblo.jp/englandyy/entry-11125681070.html(スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?)

>・・・そして、高負担だが高福祉のスウェーデンを見習えと言う声が強くなっている。まあ、いつの時代もスウェーデンというのはサヨクにとっては憧れの国らしい。では、本当にスウェーデンは安心・安全、人に優しい国なのだろうか?
>・・・スウェーデンでは「働かざるもの食うべからず」の考え方が徹底されている。そして、企業の倒産も解雇も当然のように起こる社会である。ただし、働く意欲のある人(おそらく北欧の人は勤勉であるからそういう人が多いはずだろう)を助けるためには救いの手を惜しまない。そのために、失業したとしても職業訓練などの制度は非常に充実している。また、女性が働くための支援も充実している。

「貧困の罠」に陥ってしまうことや労働市場から阻害されて働くことができなくなることがないように政府は各種の制度を充実させているのである。

まったくその通り。それこそが今日の西欧の左派の考え方であり、「ソーシャル」であり、そういう意味のものとして「スウェーデンは本当に弱者に優しい国」なんです。
そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような人が「スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?」などと反語めいた疑問形で問いを発するのでしょう。
この「wasting time?」さんは、一体どちらなのか、よく分からないところがあります。

>・・・サヨクやリベラルが理想として語るスウェーデンという国はどこにも存在しないのかもしれない。

そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような「サヨクやリベラル」をデフォルトに考えれば、この最後の捨て台詞めいた言葉は、まさしく「痛いところを突いた」痛烈な皮肉であり、いかにも気の利いた締め言葉ということになるのでしょうね。
「ソーシャル」を知らない「サヨクやリベラル」の小宇宙では、確かに通用する皮肉ではあります。
しかし、「サヨクやリベラル」への皮肉などという井の中の蛙を超えて、どこまで本気で上で自ら書かれた「ソーシャル」の理想を実現すべきと考えているのか、気の利いた皮肉の一つも言えればそれでいいというのでは、いささか残念なところではあります。
(つか、少なくとも近年出た本はどれも、スウェーデンを「サヨクやリベラル」的に褒め讃えているようなものはないように思いますが)

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