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2018年12月

2018年12月31日 (月)

労働の文明史(2004年版)

11021851_5bdc1e379a12a 『日本の労働法政策』について、マシナリさんがこういうコメントをされていて、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-767.html (政策過程論の基本書)

・・・というマクラからで大変恐縮なのですが、hamachan先生の『日本の労働政策』第二版(?)を拝読…というより入手しました。いやまあこの厚さはまさに枕…などと失礼極まりないこといっている場合ではありませんで、2004年に発行された第一版(?)の倍以上のページ数となっておりまして、ハードカバーのためイメージ的には3倍近くの厚さではないかと感じます。それでいて第一版の4,800円(税別)に対して3,889円(税別)という大変お買い得なお値段でして、早速近所の書店で取り寄せして入手した次第です。

個人的には、第一版の冒頭で「労働法政策の序章という位置づけではなく,内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである」と宣言して異彩を放っていた「労働の文明史」がどのように改訂されているのかに注目していたのですが、残念ながら第二版では丸々カットされてしまっていました。まあ、「文明史」ですから10年程度の間隔でその都度改訂する必要はないとも思うのですが、その最後の部分でのこの見通しについては、引き続き意識していくべきではないかと思うところです。

4623040720 というわけで、「異彩を放っていたとか「場外ホームラン」とか評されていたその噂の「労働の文明史」ですが、今回の本からはバッサリ削除してしまったこともあり、今年最後のエントリのおまけということで、やや長いですが、全文ここにアップしておこうともいます。正直言って、第4次産業革命とか言われだした昨今からするといささか古い記述もありますが、14年前(2004年)段階の私の認識がこうだったということで、ご関心があれば目通しいただければと。

第1部 労働法政策序説

第1章 労働の文明史

 本書は主として20世紀における日本の労働法政策の展開を対象とするが、その前提としてそもそも労働法政策などというものがどうして人類社会の政策課題として登場してきたのかといういわば文明史的概観を述べておきたい。
 本来ならば、こういう労働法政策の前提知識として提供されるべきマクロ社会動学を扱う学問分野は社会政策学と呼ばれる分野である。日本でも、マルクス主義の強い影響を受けながら、大河内一男らを始めとする社会政策学が形成され、展開していったが、ある時期以降労働経済学という名の学問分野に取って代わられてしまった。これはミクロ的かつ非歴史的な分析であって、その限りでは有用ではあるが、マクロ的かつ歴史的観点から労働法政策の座標付けをなしうるような枠組みではない。
 とはいえ、いまさら古めかしい社会政策学の枠組みを持ってきても、本書の主たる対象である20世紀の労働法政策の展開を説明するには観点のずれが大きすぎて、はなはだ据わりが悪い。そこで、やむを得ず、隣接分野の政治学、経済学、社会学等を読み齧ってこしらえた我流の枠組みを代用品として本書の冒頭に置くこととした。したがって、これは労働法政策の序章という位置づけではなく、内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである*1。

1 人類史の三段階

 「労働」は通常、「土地」と「資本」と並ぶ三大本源的生産要素の1つとして取り扱われているが、これは市場社会特有の考え方であって、人類史全体から見れば「労働」とは人間活動そのものであり、「土地」とは自然そのものである。別のいい方をすれば、人間の自然との関係の主体的側面が「労働」であり、客体的側面が「土地」であるということもできよう。その意味で、サルと人間の最大の違いは「労働」にあるといってよいし、「労働」のあり方が人類の歴史の発展段階を示すものともなる。
 人間と自然との関係における「労働」のあり方で人類の歴史を通観すれば、大きく三段階に分けられる。人類誕生から農耕牧畜の開始までの数百万年は、野生動物を狩猟し、野生植物を採集して食料その他の生活資料を調達する時代であった。数千年前にようやく野生動物を飼いならし、野生植物を栽培して、人為的に食料その他の生活資料を増殖するという技術革新が行われ、社会のあり方が激変した。そしてようやく200年前ごろから、機械という無機的自然を制御することによってさまざまな生活資料の増殖を飛躍的に拡大する技術革新が進展し、今日の産業社会が成立した。

(1) 狩猟・採集社会

 野生動物の狩猟と野生植物の採集で成り立っていた社会は、その生産性の低さから、調達すべき生活資料のほとんどは食料で、しかも社会構成員の生物学的必要を余り超えることがなかった。そのため、社会構造もせいぜい狩猟のリーダーがいるくらいで、基本的にはきわめてフラットなものであった。

(2) 農耕・牧畜社会

 栽培植物と家畜を有する社会は、それ以前に比べ生産性が格段に向上し、社会構成員の生物学的必要を大幅に超える食料を生産することができるようになるとともに、衣服や住居など食料以外の生活資料を大量に生産することができるようになった。これらは食料と異なりその消費に生物学的限界がない。また、食料についても、料理という形で質的差異化を図る余裕が生じた。他方、牧畜や特に農耕においては規模の利益が働いたことからその大規模化が進展し、「労働」の中の指令的契機と実行的契機が分化する傾向が生じてきた。これが社会構造の成層化現象をもたらした。指令的労働に従事する者はより多くの、かつ上等の食料を食べ、衣服を着、住居に住むこととなり、実行的労働に従事する者との間に階層分化が進んだ。これが生物学的再生産によって相続されることにより、階層の固定化が進んだ。
 前期農耕・牧畜社会の基本構造は氏族社会である。氏族は階層化された共同体であり、氏族長やその一族と一般の氏族員は現実には血縁関係は薄かったであろうが、全体として大きな家族に擬制され、この擬制が神話の形で社会の双方を規制することによって秩序を保ち、社会を維持することができるようになっていた。これは氏族長が王と呼ばれ、氏族共同体が国と呼ばれるようになっても本質的には変わらない。しかしながら社会の階層分化がさらに進む中で、やがて血縁幻想で全体社会を統合することは不可能になってくる。そこで、血縁原理に代わって抽象的な普遍的原理に基づく帝国社会、小規模な地域における地縁に基づく封建社会が形成された。前者はユーラシア大陸の主要部分に、後者はヨーロッパ半島の一部と日本列島に形成された。
 帝国社会と封建社会の意義は、血縁幻想では覆い隠せぬほど階層分化が進んだ社会で、指令的階層と実行的階層の間の矛盾を一定の「労使妥協」によって解消しようとする試みであったといえる。前者は指令的階層の正統性を儒教、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教等の普遍的原理で正統化するとともに、実行的階層の自治を大幅に認めたものであった。一方、後者は「土地」という生産要素に着目し、一定の土地の上にさまざまな契機の労働を行うという点に一定の共同性を見出し、この意識的な共同性が社会の双方を規制することによって秩序を保ち、社会を維持しようとするものであった。そして、この封建社会的な共同性が崩壊する中から次の社会が誕生してくることになる。

(3) 産業社会

 200年前から始まった人類史の新段階は、人間と自然の関係の観点からは産業社会と呼ばれ、人間と人間の関係の観点からは市場社会と呼ばれる。ここでは前者の観点で見ていこう。産業社会を農耕・牧畜社会から区別する最大のポイントは、後者が生物的自然の能力的制約の範囲内でしか拡大できなかったのに対して、前者は機械という無機的自然を増殖装置として用いることによって、生物の生長速度をはるかに超えるスピードで大量の生活資料を生産することができるようになったことである。これを可能にした技術革新は「産業革命」と呼ばれ、18世紀末のイギリスに始まり、19世紀には大陸ヨーロッパ、アメリカ、日本にまで広がっていった。
 人類史の中では大変短い産業社会であるが、現在までのところさらに2つないし3つの亜段階を見出しうる。第1は繊維などを中心とした軽工業社会であり、第2は自動車や電気器具などを中心とした重化学工業社会である。おおむねそれぞれ19世紀と20世紀に対応する。現在情報通信産業が急激な発展を遂げつつあり、21世紀は情報産業社会であるというのが有力な説である。
 産業社会は人類の歴史上初めて、「労働問題」という大きな問題分野を登場させた。それだけではなく、労働問題が「社会問題」と呼ばれるようにさえなった。およそ社会の中には無限に様々な問題がありうることを考えると、この「社会問題」という表現は産業社会における「労働問題」の重みをよく示している。そして、この「労働問題」自体、人類誕生以来の人間の自然に対する活動としての労働という意味ではなく、産業社会特有の意味内容を持って用いられているものである。この「労働」の析出の1つの原因に機械の使用による生産過程の複雑多様化があることは否定できないが、何よりも労働力が商品として市場で売買されるようになったということが重要である。産業社会を貫く最大の問題は労働力商品化をどう考えるのかという点にあったと言っても過言ではない。
 産業革命の原因の1つがルネサンス以来の自然科学の発展とその応用にあることは確かであるが、それまでの社会システムを一変させるような大転換をもたらした原因は、それまでは社会の中で周辺的な存在でしかなかった「市場」が社会全体を呑み込むような勢いで膨張し、「市場社会」を作り上げたことに求められる。すなわち、産業社会はまず市場社会として登場したのである。そして、産業社会をめぐるさまざまな思想も、特に労働力の商品化という事態を前にして、産業社会が市場社会であることに対する疑問、市場社会でない産業社会は可能なのかという点に集中することになった。
 ここで産業社会の発展をあらかじめ先取りしておけば、当初労働力を限りなく商品化していこうとする市場社会として始まった産業社会は、これに対する様々な抵抗、対抗運動の中で、労働力の商品化を何らかの形で制限していこうとする社会に転換していく。これが前述の産業社会の亜段階と結びついて、軽工業中心で労働力の商品化が進んだ19世紀システムと重化学工業中心で労働力商品化の制限が進んだ20世紀システムが段階論として析出されてくる。それでは、21世紀の情報産業社会は労働力の商品化という点においていかなる性格を持つものとなるのだろうか。

2 社会システムの三類型

 人間は個体で生きる動物ではなく、群れをなして生きる動物である。したがって、人間と自然の関係、人間の自然に対する活動は常に人間と人間の関係、人間の人間に対する活動と結びついている。狩猟・採集社会においては、しかしながら、自然との関係から自立した人間関係それ自体の発達はあまり高度なものではない。農耕・牧畜社会が到来し、社会構成員の生物学的必要を超える食料その他の生活資料を生産することができるようになって、人間同士のコミュニケーション活動は独自の発展を遂げて行くことになる。
 人間と人間の関係を大きく類型化するならば、同じ仲間なのだからいっしょに協力しようという「協働」の関係、こういういやな目に遭いたくなければこれをしろという「脅迫」の関係、こういういいことをして欲しければ代わりにこれをしてくれという「交換」の関係になろう。これらはいずれも人類史のいつどこでも見出せる要素であるが、このいずれもその関係を原理とする人間の組織を構築することができる。協働の原理で組織されたものは「共同体」、脅迫の原理で組織されたものは「権力体」、交換の原理で組織されたものは「市場」と呼べるだろう。

(1) 共同体

 農耕・牧畜社会における主要な人間組織は共同体である。書かれた歴史はその主たる関心を王権、帝国、武士団等の権力体に集中してきたため、あたかもそれらが社会の主役であるかのように見えるが、生産活動に従事する社会の圧倒的多数者は共同体の中で一生を過ごしてきた。しかし、共同体のあり方は時代により、また地域によりいくつかの類型に分けられる。
 前期農耕・牧畜社会における共同体は「氏族」であった。氏族は血縁を根拠として成員の協働を要求する。協働の結果食料を始め生活資料が豊富化し、人間の生物学的必要を超える部分、「余剰」が蓄積される。これが氏族の内部に成層化をもたらし、協働といいながらも、成員がみな同じ労働に従事するのではなく、指令的労働を担当する者と実行的労働を担当する者が分化してくる。前者の子どもは親同様、指令的労働を担当し、後者の子どもも親同様、実行的労働を担当するといったことを繰り返していくうちに、階層が明確に生じてくる。巨大化した氏族においては、氏族長やその一族と一般の氏族員とには事実上ほとんど血縁関係はなく、神話の形で同じ先祖から受け継いでいるという観念を共有しているに過ぎない場合が多かったであろう。
 現実には、氏族間の戦争、征服によって、ある氏族と他の氏族とが脅迫の関係で結合することがよくあり、この場合、この新たな結合氏族は単なる共同体とはもはや呼べず、権力体としての性格をも有することになる。王権の成立はこの段階を示している。征服された氏族の成員は、その氏族員としての地位を保ったままで征服氏族の実行的労働に従事させられる場合もあるが、氏族自体が破壊され、氏族員が個体にまで分解されて実行的労働に従事させられる場合もあった。後者の場合を「奴隷」と呼ぶことができるだろう。奴隷は個体レベルの労働が析出されるという点で労働力商品化の先駆的な面もある。
 後期農耕・牧畜社会における共同体は家族と村落である。家族は血縁原理に基づく点で氏族と同じであるが、共通の祖先に発するとされる者をすべて含みこむのではなく、現実に極めて近親な関係にある者のみで構成され、多くの場合同一の住居に居住する。一方、村落はもはや血縁原理とは切り離されている。同じ地域において協働する必要性が、血縁の代わりに地縁による共同体を形成した。他人同士が形成する共同体という意味で、村落は新たな社会的発明といえる。もはや現実と遊離した氏族的血縁幻想では共同体の凝集力を維持できなくなったことが、一方では家族という現実的血縁共同体を形成させ、他方では村落という地縁的共同体を形成させたといえよう。この村落の上に、強く権力体的性質を帯びた家族共同体たる武士団が乗っかり、小規模な地域に根ざした社会システムを形成したのが封建社会であった。こういう共同体の二重化は、共同性に対する個別性の契機を強調する素地を作り出す。村落の中で生産労働に従事する家族の長であれ、権力体たる武士団の家族の長であれ、家長は多くの同等者の中の1人として自らの家族共同体の権利を断固として貫く必要がある。この家長の権利主張が中世的民主主義の根幹であり、近代的民主主義の源流ともなった。近代的個人主義は家長の個人主義だったのである。
 実際、産業社会を作り出した原動力の一つは、この封建社会の中で育まれた家族共同体である。小規模であることから、事態の変化に応じて機敏に活動することができるという利点を生かして、家族共同体は、農耕・牧畜においてもさまざまな工夫を凝らして生産性を高めるとともに、それを越えてさまざまな生産物の製造活動に乗り出していく。自己労働による家族的生産によって規模拡大を図る独立生産販売者の登場である。
 もっとも、以上はヨーロッパ半島の一部と日本列島に典型的に起こったことであって、ユーラシア大陸の大部分では氏族原理は退化をきたしつつ、なお社会の大半を支配しつづけた。ここでは権力体は帝国の形をとって全体社会の上層部を広く覆い、その下に権力体の契機を失った氏族社会が血縁幻想をいつまでも維持しつづけたのである。

(2) 権力体

 脅迫の原理は必ずしも組織を作るわけではない。むしろ、純粋な脅迫は敵対心を培養するから長期的な関係を作ることができない。脅迫原理で組織を作る場合でも何らかの協働原理が含まれなければ、維持可能なものとはならない。実際、人類史上に権力体が登場してくるのは、氏族社会の中の階層分化と氏族間の征服が結びついて、共同体としての性格を持ちつつ権力体として機能するようになってからである。この氏族的権力体が「王権」である。
 権力体的共同体においては脅迫原理はいざというときに取り出す武器であって、通常はむしろ再配分が主導原理として働く。王権は暴力を担保としつつ表面的にはその「権威」によって余剰を自らのもとに集積し、これを恩恵として成員に配分する。王権は被征服奴隷まで含めた巨大な擬制氏族として、相互に戦争、征服を繰り返し、ますますその血縁共同体の幻想性を強めていく。だが、そうなればなるほど、王権の権威をいつまでも古き神話には頼ることはできなくなる。
 こうして、それ以上大きな王権を形成できないところまでくると、権力体は新たな進化の段階として、帝国を形成するにいたる。帝国はもはや血縁幻想には頼らない。神話を必要とはしない。代わりに、合理的思考に基づく世界観宗教、すなわち儒教、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教といった観念体系によって自らを権威付け、大規模な再配分システムを構築する。帝国はもはや共同体ではなく、純粋な権力体となる。皇帝を中心にして周囲を取り巻く貴族や官吏たちは、もっぱら権力闘争に励む。彼らの生活は多くの場合きわめて贅沢なものであり、それを培養土として、かなり大規模な交易が行われ、奢侈品の市場が形成される。しかし、それはあくまで社会全体から見れば周辺的な存在に過ぎない。この贅沢を支える生産活動従事者たちは、権力体の契機を失い退化した氏族の中で、なお血縁幻想に浸りながら暮らすことになる。もっとも時々この退化した氏族が突然変異的に脅迫原理をよみがえらせ、権力体化して帝国内にミニ王権を作り出すこともある。多くの場合それは匪賊として鎮圧されるが、稀に帝国を打倒して取って代わることもある。これが帝国における革命であり、その前後で社会は何も変わらない。
 ユーラシア大陸の大部分では二千年間帝国システムが持続したが、ヨーロッパ半島の一部と日本列島では異なった進化の過程が展開した。ローマ帝国に倣ったフランク帝国、中華帝国に倣った古代天皇国家は、大規模な再配分システムの確立に失敗し、帝国は急速に溶解して再びいくつもの氏族が相争う時代を迎える。しかし、いったん帝国原理を学んだ者はもはや神話には戻れない。復活した氏族もその血縁幻想が急速に空洞化していく。そこで、氏族の中から現実的な血縁共同体としての家族が、特定の地域に密着する形で登場してくる。そして、帝国の崩壊で権力体が空位となるのと比例して、かつて氏族の中で上層部をなしていたこれら家族の中から権力体的性格を強く持つものが続々と現れてくる。武士団である。これが氏族の下層部から生まれた生産活動に従事する家族を特定の地域を単位として支配するようになる。封建社会の成立である。
 封建社会には2つの運動モメントがある。1つは武士団が相互に戦争、征服を繰り返し、次第に広大な地域を支配する領邦国家となり、やがて近代主権国家にいたる流れであり、もう1つは家族共同体をバックにした家長の間の民主主義が、やがて近代的民主主義にいたる流れである。いずれの面においても、近代国家は封建社会の直系である。この2つのベクトルが近代国家に流れ込んだとき、それは維持可能であるためには権力体であると同時に再び共同体でなければならない。朕が国家なのではなく、共同体の近代的形態として発明された「ネーション」が国家でなければならない。しかし、近代国家の最大の特徴は、それが社会の全面的市場化を推進する主体となった点にある。

(3) 市場

 交換の原理は長らく社会にとって周辺的なものであった。生物学的必要を超える生活資料がまだ乏しい時代は、交易は偶然的ないし散発的なものであった。余剰がかなり大量に蓄積されるようになって、定期的ないし恒常的な交易活動が行われるようになるが、なおそれは協働原理で営まれる共同体の内部に浸入することはなく、「共同体の終わるところに交易が始まる」ことに変わりはなかった。この時期の交易は珍しい産品を遠隔地から運ぶ遠隔地交易が主であった。交易の拡大に大きく貢献したのは権力体の発展であった。脅迫と権威によって再配分を行う王権のもとには莫大な余剰が蓄積される。戦争に敗れ征服される恐れのある王権は、より強大な王権のもとに朝貢することによって安全保障を図ろうとする。王権の間を奢侈品が行き来する。こういう王権同士の脅迫に裏打ちされた交易は、それに実際に携わる商人という新たな労働形態を生み出すことになる。王権が巨大化すればするほど、それに寄生する商人も増えて行く。交換の原理は目立つ存在となる。
 王権はその権力体性と擬制氏族としての共同体性の矛盾から帝国を形成するのだが、これは次第に拡大する交換原理と共同体性の矛盾を解決するものでもあった。帝国は純粋の権力体であると同時に、商人の交易活動をその内部の不可欠の一部として組み込んだからである。帝国システムは、大規模な再配分というメインシステムとともに、市場というサブシステムからなるシステムであった。都市はもはや単なる皇帝や官吏の所在地というだけではなく、商人たちの活動の場ともなる。膨大な生活資料が交換される場としての都市が誕生したのである。
 ヨーロッパ半島の一部や日本列島では、帝国形成の失敗の後、封建社会の形成と並行して、自発的な商人都市の形成が進んだ。中世の武士団や農民村落は、古代の氏族と異なり、地縁的共同体として自らを地域的に限定することから、外部の共同体との交易を前提としている。この交易システムを担保する帝国がない以上、商人都市も武士団と並ぶ自主独立の存在である。実際には寺社教会などの宗教的権威が商人都市の独立を担保したと考えられる。
 都市商人はもはや単なる保管・運送というサービスを提供してその対価を受け取る者ではない。彼の売りと買いはその差額を得るために自らの発意で行うものである。ここで事態の大きな転換が起こる。生活資料の保管・運送のために商人が商売するのではない。商人が儲けるために生活資料の保管・運送を行うのである。売って差額を儲けるために買うという商人資本の成立であり、商人の目的が客観的な使用価値から主観的な交換価値へと移行する歴史的転換点である。彼の行為は突き詰めれば貨幣の増殖であり、マネーゲームなのである。
 とはいえ、すべての都市商人が商人資本家と化したわけではない。むしろ、農耕・牧畜社会の大部分を埋めつくす共同体の谷間にあって、都市商人たちも共同体を形成する方向を選んだ。この共同体は交換原理を前提とし、個人の独立性を強調する性質を持つ一方で、共同体の共同性を破壊する危険のある貨幣の増殖には抑制的である。貨幣が貨幣であるというだけで価値を増殖する高利貸資本は、反共同体的なものとして禁止され、あるいは制限される。
 この都市商人共同体は、いまだ市場社会ではない。なぜならそれは全体社会のごく一部を占めるものに過ぎず、その外部に農耕・牧畜により生活資料を生産する氏族共同体や家族・村落共同体があることを前提とし、それに寄生して存在するものだからである。市場が全体社会を覆いつくし、労働力までが商品化される市場社会は、産業社会という形で人類史に登場することになる。

3 市場社会と労働力の商品化

 市場が社会の周辺的な存在ではなく全体社会を覆いつくす市場社会がいかにして形成されたのかは、多くの人々の関心を惹いてきた問題である。議論を大きく分ければ、都市商人たちの貨幣の増殖過程としての商業すなわち商人資本に源流を求める考え方と、封建社会の地縁共同体の中で農耕・牧畜から毛織物などの原初的製造業を発展させつつ独立性を強めてきた家族共同体に源流を求める考え方がある。
 現実には両者は絡まりあいながら、権力体の契機も絡みつつ市場社会を形成していったものと考えられる。

(1) 産業資本の2源泉

 近代資本主義の源泉を都市の商人資本に求める考え方は、ルヨ・ブレンターノやゾンバルトらに見られる。しかし、都市商人たちが自らの貨幣増殖過程に都市の手工業を取り込んで産業資本化するという経路は不可能である。なぜなら、都市はそれ自体共同体として、ギルドの形をとる共同性を破壊することには抵抗を示すからである。都市商人が「搾取」しうるのは都市の外側にいる者だけである。だが、都市の外側は村落共同体である。これを一体どのようにして自らの価値増殖過程に取り込めるのだろうか。
 現実に可能なのは、共同体内の生産過程をそのままアンブロックに自らの価値増殖過程に接合することである。だが、農耕・牧畜は村落共同体が原材料の取得から生産物の消費まで自己完結的に行っているものだし、その剰余の一部は帝国社会の上層部や封建社会の武士団が取得する仕組みとなっていて、都市商人の割り込む余地などない。可能性があるのは、共同体内の生産過程ではあるが農耕・牧畜というメインストリームではなく副次的に行われるもの、具体的には繊維・衣服生産である。村落共同体の中で次第に自立性を強める家族共同体が自らの労働力を投入して行う製造過程、いわゆる家内制手工業に対し、原材料を売り、製品を買うという形で自らの価値増殖過程と接合するいわゆる問屋制手工業が、都市商人に可能な形態であった。しかしながら、いうまでもなくこの都市商人は製造業者と交易する商人資本に過ぎず、いかなる意味でも産業資本ではない。
 一方、家族共同体から産業資本へという流れは、プロテスタンティズムを媒介とするウェーバーの有名な議論に定式化されている。村落共同体の中で相対的に従属的地位にあった家族共同体が独立性を強め、原材料に自己(家族を含む)の労働を投入して生産した生活資料を自ら販売し、得た代金で購入した原材料にまた自己労働を投入して生産し、また販売する、という循環を主体的に実行し、その生産規模を次第に拡大していくという独立生産販売者が登場してくるプロセスである。実際には、プロテスタンティズムとは縁のない日本列島においても同様の現象が発生したことから考えれば、封建社会における家族共同体の相対的独立性の強さが、主たる要因であるように思われる。
 自己労働による家族的生産が一般化してくると、これを正統化し、村落共同体や封建領主による剰余の取得を制限し、できれば排除しようという動きが生じてくる。労働こそが所得の正当な源泉である、労働こそが価値の源泉であるという主張がなされる。古典的労働価値説とは、こういう経営主体としての自己労働を価値の源泉とするものであって、他人に従属する労働を念頭においているものではなかった。

(2) 産業資本の2つの魂

 こうして、自己労働による家族的生産とこれと問屋制で接合した商人資本という2つの主体が産業革命の入り口に準備を整えている。このいずれが主体性を維持して産業資本に進化したのだろうか。商人資本が独立生産者を抑え込み、これを主体性なき他人労働として自らの価値増殖過程に組み込むのに成功したのか、それとも勝ち残った独立生産者が敗れた者を他人労働として吸収しつつ自らを拡大していったのか。実際にはどちらも正しいのであろう。つまり、商人資本に由来するものと家族的生産に由来するものとが絡み合いながら新たな経済主体を形成していったと考えられる。
 したがって、産業資本には2つの魂が潜んでいる。1つは、自己資本として、ひたすら交換価値の増殖を目指す魂である。この立場では生産活動は貨幣を増殖するための手段の一つに過ぎない。判断基準はもっぱら利潤である。ところがもう1つ、自己労働として、生産規模の拡大を目指す魂も無視することはできない。この立場では生産活動は自己労働の拡大という目的そのものである。利潤は規模拡大の源泉としてのみ計量的意味をもつに過ぎない。この2つの考え方は、後に資本主義のあり方を大きく決定する要因ともなる。
 法制的な枠組は、商人資本が長年かけて作り出した商法や会計制度がそのまま適用された。したがって、商法学者や会計学者にとっては、産業資本は商人にほかならず、貨幣の増殖がたまたま生産活動を行っている商人にとっての唯一の正義であり、自己労働としての生産活動それ自体の拡大などは、利潤追及に反するならば悪徳となる。この問題は20世紀末にコーポレートガバナンスの問題として表面化することになる。
 産業革命の先頭を切った19世紀のイギリスに成立したのは、自己労働による家族的生産を主たる出自とする産業資本が、しかしながら行動様式としては商人資本的な貨幣増殖に傾斜してゆく社会、市場社会としての産業社会、すなわち資本主義社会であった。だが、主体性ある経営体としての自己労働の存在は自己資本の限りない利潤追求を妨げる。そのためには自己労働ではなく、他人労働が社会的に作り出されなければならない。この主体性なき従属労働の創出、すなわち労働力の商品化こそが市場社会の中核となる。

(3) 労働力の商品化

 労働力とは人間そのものである。人間の売買自体は交易の歴史とともに古い。売られる人間、すなわち奴隷は、多くの場合、戦争、征服によって共同体からもぎ取られた人間であった。古代王権や帝国社会のもと、大規模な奴隷制が発達したこともある。しかしながら、それは脅迫原理と交換原理の結合が生み出したあくまでも周辺的なものであって、社会の大部分はあくまでも共同体の中に包み込まれていた。
 近代的な労働力商品は奴隷ではない。後者は別の人間によって売られる物品だが、前者は自分自身によって労務というサービスが売られる。その対価は自分自身に支払われる。形式的にはこれは自己労働である。自己労働による労務サービス業を経営しているのであって、自己労働による生産物を販売しているのと何ら異なるものではない。
 しかしながら、その自己労働性を制度的に担保していたのは、職人条例や救貧法などのいわゆる初期社会政策立法であり、この規制が緩和、廃止されていくとともに、その擬制性が露わになっていった。この自己労働者は自己の労働力以外に売るものを持たず、労働力を売ることに失敗すれば直ちに生きることができなくなる--「食うに困る」--状況にあるため、事実上買い手の言うがままに従わなければならない状況に追い込まれた。失業と飢えの恐怖が彼ないし彼女を自発的に奴隷と変わらぬ他人労働に追いやった。労働過程それ自体についても、同時に進行していった工場制労働の普及及びこれによって可能となった労働の分割、すなわち分業の進展により、時間をかけてあるものを作りあげるというひとまとまりの「仕事」は、細かく分割された単純な「労働」に転化し、労働過程から裁量性が失われ、従属性が増大した。機械の利用、そして機械の発展は、これをさらに昂進させた。
 こうして、建前としては自己労働としての労務サービス業であるものが、実態としては主体性を剥奪された他人労働に転化してしまう。これと平仄を合わせて、経営体は貨幣増殖をめざす自己資本としての性格を強めていく。「労働」の語は誇り高い自己労働ではなく従属的な他人労働を指す言葉となっていく。こうして自己資本と他人労働の組み合わせからなる資本主義社会が成立していく中で、これに対する原理的反発としての社会主義及び権力体の関与たる社会政策が誕生してくる。

4 社会主義と社会政策

 社会問題、社会主義、社会政策。われわれが当然のように使うこれらの言葉ほど、労働力の商品化という問題の存在感を示すものはない。市場社会という「悪魔の碾き臼」の中でばらばらの他人労働にされてしまったかつての自己労働者たちの怨念が、やがて労働運動や社会主義運動という形をとって噴出してくる。そして、再び共同体性を帯び始めた近代国家という権力体が、社会政策という名の介入を始めるのである。

(1) 労働運動

 人は喜んで他人労働になるわけではない。人類の長い歴史の中で、奴隷は常に例外的存在であった。人々は共同体の中で協働することを当然としてきた。ところが、家族共同体の自己労働による生産活動は個人の自己労働による労務サービスに道を譲り、それは現実には法的構成においてのみ主体性が確保された従属的な他人労働となってしまった。
 この現実を変えようという運動が起こってくるのは当然である。方向は2つありうる。1つは失われた懐かしき共同体を再建し、協働に基づく社会を作り上げようという方向である。もう1つは労働に主体性を取り戻し、虚構と化した自己労働を再構築しようという方向である。後者はさらに、労務サービス業としての自己労働の主体性を、かつての都市商人たちの共同体の原理を導入しつつ、集団的取引統制によって確保しようとする方向、すなわち労働組合の道と、分業と機械化による単純労働化に歯止めをかけ、より裁量的な労働組織をめざす方向がありうる。しかしながら、最後の選択肢は、産業革命期に機械の打ち壊しという粗野な形で行われ惨めな失敗を経験して以来、20世紀の後半にいたるまで真剣に取り上げられることはなかった。
 まず労働組合の道を歩んだのは、労務サービス業としての主体性を確保する拠点として「熟練」を保有する熟練労働者たちである。一方で分業と機械化による単純労働化が進むといっても、なお熟練労働者が欠ければ動きが取れない工場も多かった。労働組合に結集し、要求が容れられなければ集団的に労務サービスの提供を中断するという脅迫を用いることによって、つまり典型的な生産者カルテル行動をとることによって、労務サービスの販売条件を向上させようというのがその手法であった。当初は労働者の団結そのものを禁圧した権力体が、やがてこれを認め、放任的態度から積極的に促進するにいたる過程は、後に見る近代国家の共同体性の浮上と揆を一にしている。
 やがて、必ずしも熟練を有さない労働者たちも労働組合に組織され、一定の労務サービス販売条件を享受するようになる。だが、熟練労働者の誇りなき単純労務サービス販売者の主体性とは空疎なものである。ここから20世紀システムにおいてはいくつかの戦略の分岐が発生する。ひたすら労務サービス販売者としての高条件獲得競争に向かう(アングロ・サクソン型)か、次に見る社会主義運動と結合してイデオロギー結社としての道を歩む(ラテン型)か、自己資本として利潤追求に走る企業の意思決定に関与してその制御を図る(ゲルマン型)か、である。最後の場合、労働者組織は販売カルテルとしての労働組合と参加システムとしての企業議会(労使協議会)に分化する。後者はすでに共同体としての企業という観念を内に孕んでいる。が、これは先走り過ぎである。

(2) 社会主義

 社会主義という言葉は実にさまざまな意味内容で用いられてきたが、あえて集約すれば失われた懐かしき共同体を再建し、協働に基づく社会を作り上げようという運動といえよう。その際、当初は労働力の商品化が始まる直前の誇り高き自己労働社会の復活がイメージされていた。自己労働者が横に連結した協同組合であれ、自己労働者が集合して形成する企業体であれ、社会主義の理想は自己労働の共同体であった。しかしながら、工場制労働の拡大、分業の進展、機械の発展の中で、この理想は次第に空想的なものと考えられるようになる。滔々として進む他人労働化の流れに抵抗しようとするのは非科学的であり、むしろこの歴史の方向性を進歩ととらえ、その流れ着く先にこそ社会主義の理想があると考える「科学的」と称する社会主義が登場し、大勢を占めるにいたる。
 だが、他人労働化の極地に展望される社会主義とはいかなるものであり得るのだろうか。誇りある自己労働者をプチ・ブルと蔑視し、疎外態の極たる他人労働者をプロレタリアとして歴史の主体に祭り上げた「科学的」社会主義が作り上げたのは、自己労働による労務サービス業という法的擬制さえ剥奪された純粋な奴隷労働力に立脚し、もっぱら脅迫の原理によって組織された権力体である社会主義国家という名の王権ないし帝国社会の類似物であった。そこには協働に基づく共同体の復活という本来の理想は影も形もない。
 「空想」的社会主義、「科学」的社会主義のあとに登場したのは、「民主」的社会主義であるが、これはあえていえば折衷主義の所産であり、自己労働化をめざすわけでもなく、他人労働化を所与の前提と受け入れながらその商品化の弊害を主として政府の政策を通じて解消していこうとするものであった。労働者保護法制や社会保障制度、完全雇用政策といった「社会政策」によって、他人労働の商品性をできる限り縮小していくことがその実現目標となる。労働者はもはや失業と飢えの恐怖にさいなまれることはなく、不本意な労働を経済的に強制されることはなくなる。重化学工業中心の20世紀産業社会は、この民主的社会主義と結合することで、労働力商品化制限型の市場社会たる20世紀システムを形成した。

(3) 社会政策

 社会政策はいうまでもなく近代国家の行うものである。近代国家とは何だろうか。発生論的には、それは中世封建社会の武士団が成長して形成された権力体的共同体である。戦争と征服を繰り返して巨大化した近世王権は、かつての古代王権が巨大化して血縁幻想に頼り切れなくなったように、中世的な地域に密着した共同体意識から乖離してくる。王権が共同体意識から乖離するとともに、都市商人と結び、その貨幣増殖の保護者として立ち現れてくる。自らの暴力装置をもって商人資本の循環を容易にするとともにその分け前を取得しようとする近世国家の登場である。
 しかし、共同体意識から乖離したとはいえ、近世国家は未だ村落共同体とその中で自己労働による生産活動に従事する家族共同体に立脚している。これを破壊するようなことは許されない。初期社会政策と呼ばれる一連の政策は、労働組織を規制する職人条例にせよ、余剰労働力を国家が吸収しようとする救貧法にせよ、労働力の商品化を防止することに主眼がおかれていた。
 自己労働による家族的生産とこれと問屋制で接合した商人資本が、産業革命の怒濤の中で自己増殖を目指す産業資本と主体性を奪われた他人労働に転化していくのと並行して、封建社会の地域共同体に立脚しながらそれから乖離していた近世国家も大きな変動を被る。立脚基盤としての新たな共同体として「ネーション」が発明され、この想像の共同体と近世国家から受け継いだ権力体が結合して近代国家が誕生するのである。この背景には、村落共同体から自立して独立独歩の存在となりつつあった家族共同体が、より強力な上位の共同体を求めようとしたことがあろう。都市商人と結んだ近世国家ではなく、独立生産販売者のための近代国家が求められた。
 ここで、歴史の最大の皮肉は、自己労働による家族的生産が産業資本に進化するとともに、近代国家の任務はそのためにそれまで抑制されてきた労働力の商品化を全面的に推進する役回りを演じることになったことである。上で述べた初期社会政策立法の廃止が、労働力の全面的商品化を、そして社会の全面的市場化をもたらすことになった。この意味において、近代国家は市場社会の形成者である。しかしながら、近代国家はネーション共同体として、商品化され他人労働化した労働者をもその成員とする。ネーション共同体としての成員保護の要請が、失業と飢えの恐怖から奴隷と変わらぬ労働に従事する「同胞」にも寄せられる。こうして、近代国家は労働力の商品化を実行すると同時に、労働力の商品化を制約する措置を執らねばならなくなる。初期社会立法の廃止と同時に近代的社会立法、すなわち労働者保護立法が開始される。近代国家は市場社会の形成者であると同時にその修正者として立ち現れる。
 近代国家のこの二面性からすれば、市場社会はその登場の時から純粋な市場社会として登場したわけではないことがわかる。いや、純粋な市場社会などというものが存在したことはなかったというべきであろう。社会政策は近代国家とともにあったのであり、やや極端な言い方をすれば、近代国家の本質は社会政策という形で現れる共同体性にあった。

5 19世紀システムとその機能不全

 市場社会と近代国家の組み合わせからなる社会システムは19世紀前半にイギリスから始まってその後フランス、アメリカ、ドイツ、日本等に広まっていった。1930年代の「大転換」まで続いたこのシステムを19世紀システムと呼ぶ。
 産業社会の亜段階としては、繊維などを中心とした軽工業社会であり、機械の利用も分業も比較的単純で、企業規模もそれほど大きくない。自己調整的市場の概念が現実的なものと考えられるような非寡占的市場が一般的であった。

(1) 自己調整的市場と自由主義国家

 19世紀システムの中核に位置するのは、自己調整的市場の概念である。これは、労働、土地、貨幣というそれ自体生産することのできない本源的生産要素をも商品と見なし、価格によって取り引きされる市場を作り出し、これと既存の商品市場とを接合することによって自己完結的な市場システムが形成されるという考え方である。
 労働市場には売り手としての労務サービス業者と買い手としての商品製造業者がいて需給の均衡するところで価格が成立する。商品市場には売り手としての商品製造業者と買い手としての労務サービス業者その他がいて需給の均衡するところで価格が成立する。以下同様というわけで、社会はすべて売り手と買い手からなり、労務サービスであれ商品であれその生産はすべて市場における価格メカニズムによって、市場内部で調整されるのである。
 自己調整的市場は市場の内部ですべてを調整するのであるから、国家という権力体による再配分は基本的に認めない。ただ、市場の売り手と買い手の行動が市場のルールに従って行われることを確保するための権力的関与は認めざるを得ない。これがいわゆる夜警国家、自由主義国家の概念である。自己調整的市場とそれを補完する自由主義国家の組み合わせが、19世紀システムの理念型であった。一言で言えば、19世紀は自由主義の時代であった。

(2) ネーション国家と家族共同体

 ところが、19世紀は自由主義の時代であるだけではなく、ネーションの時代でもあった。もはやかなり希薄化していたとはいえ、それまで所属していた封建社会の村落共同体から投げ出された家族共同体は、ネーションという巨大な想像の共同体に自らを投げ入れることでその安定を図ろうとしたのである。
 そこで、ネーション国家による権力的介入は狭い意味での市場のルール確保を超えて、ネーション国家の細胞としての家族共同体の維持にも向けられる。具体的には、家族共同体を破壊する恐れのある労働力商品の個人化の抑止が、労働保護立法という名の下に開始されるのである。擬制的労務サービス業の主体はあくまでも家族共同体(「家計」)なのであって、その首長たる成人男子労働者については自己調整的労働市場にゆだねてあえて介入は行わないが、その妻や子どもについては就業制限や労働時間規制によって労働力供給を制約するという政策が試みられた。生産活動を行う家族共同体における家族労働は何ら規制されないのであるから、これはバラバラの個人としての他人労働化を抑止することが目的であったといえる。
 労働保護立法に続いてネーション国家が家族共同体維持のために採った政策は、社会保険制度である。これは成人男子労働者が一時的(疾病、失業)または恒常的(障害、老衰)に労働不能に陥った場合に、その家族共同体成員の生活を維持するための給付を成人男子労働者の強制拠出によって行おうとするものであって、自由主義国家の考え方とはかなりの程度矛盾するものであり、19世紀システムにおいては部分的、周辺的にしか取り入れられなかった。この制度が全面化するのは20世紀システムのもとにおいてである。

(3) ネーション国家とバランス・オブ・パワー

 ネーション国家は帝国ほど普遍的、世界的ではなく、封建武士団ほど特殊的、地域的でもない。複数のネーション国家が作る国際社会は、古代の氏族社会後期の王権国家と類比的な武力のバランスによって成り立つ社会であった。ネーション国家は領土や特に植民地をめぐって互いに戦争を繰り返し、ネーション共同体はその成員に名誉ある義務として兵士として戦うことを要求する。近代は徴兵制の時代でもある。
 だが、成員に死をすら要求する共同体は、成員からその死に値する待遇を要求されざるをえない。失業と飢えの恐怖から奴隷と変わらぬ労働を強制される「戦友」の姿は怒りを呼び起こし、労働力の商品化は糾弾される。
 しかし、このメカニズムが大きく動き出すのは20世紀に入ってからである。19世紀にはまだそこまではいかない。総じて、ネーション国家同士のパワーゲームは近世国家同士のそれの延長線上に貴族風外交術をもって行われ、十分に「ネーション外交」化していない。国際経済は自己調整的市場の延長線上に自由貿易と金本位制を機軸に動かされ、ネーション経済同士の利害対立はこの原理を否定するにはいたらない。
 19世紀末から20世紀初頭にかけてのいわゆる帝国主義時代は、以上のシステムが機能不全に陥った時代である。繊維を中心とした軽工業から鉄鋼造船等の重工業へと産業構造がシフトし、それとともに自己調整的市場に対する疑問の声は社会の中でいよいよ高まった。社会主義運動は激しさを増し、これに対応するために各国とも帝国主義的対外膨張政策に訴えた。その帰結が第1次世界大戦であり、大戦下の戦時体制において、自由主義国家に代わるべき新たな国家原理が模索された。それまでなお2等国民であった労働者階級を正規のネーション成員として組み入れる20世紀システムの出発点である。

6 20世紀システムの形成と動揺

 20世紀システムは第1次世界大戦と第2次世界大戦という2つの戦争の狭間で生み出された。労働力商品化に対する反発としての社会主義運動とネーション共同体原理とが、戦争という溶媒によって結合して作り出されたシステムである。
 産業社会の亜段階としては、重化学工業社会であり、特に自動車や電気器具のような耐久消費財が商品の中心を占める時代である。これは、商品市場における買い手の大部分を占める労働者家庭がこれら耐久消費財を購入できることがシステム存続の基礎をなすような社会ということであって、これが労働者富裕化へのエネルギー源としてシステムの下部構造をなす。

(1) さまざまな社会主義の模索

 19世紀システムの機能不全が進行するにつれ、さまざまな社会主義の運動が勢力を強めた。労働力の商品化を制限し、最終的には解消することを目指すこの運動は、ネーション共同体とそれに立脚する権力体との関係をどう考えるかでいくつかの分派に分かれる。右翼にはネーション共同体と一体化し、ネーション国家そのものを協働に基づく共同体に転化してしまおうとする考え方、いわばネーション的社会主義があり、左翼にはネーション共同体を否定し、資本主義が作り出した世界市場を社会主義に基づく世界共同体に転化しようとする考え方、いわば世界社会主義がある。中道に位置するのは、ネーション国家の社会政策によって労働力商品化の弊害を解消しようとする考え方であった。
 歴史の皮肉は、世界社会主義に基づいて社会主義革命を実行したはずの勢力が、ネーション共同体なき国家権力と一体化した国家社会主義を作り出してしまったことであろう。そこはもっぱら脅迫原理が支配する場となった。
 他方、国家そのもののネーション共同体化を目指した勢力は、急激な帝国主義的膨張政策に打って出ることで社会の矛盾の解消を目指したが、やはり脅迫原理が社会の全面を覆う事態をもたらし、結果的に言えば自滅の道をたどった。
 1930年代はこれらいくつもの社会主義が19世紀システムへの代替性を競い合った時代であった。ソビエト社会主義国家は急速な工業化の実績で世界中の注目を集め、ナチス政権はフォルクスワーゲンとアウトバーンによる国家主導フォーディズムとでもいうべき実験で世界を驚かせた。西欧諸国の民主的社会主義の成果はあまり輝かしいものではなかった。よく知られているように、アメリカの景気回復は戦争が始まったことによる軍事ケインズ主義によるものであった。
 しかし、激動の中を生き残ったのは、ネーション国家に部分的な要求を行う民主的社会主義勢力である。成人男子労働者も含めた労働者保護法制、ゆりかごから墓場までの社会保障制度、そして財政政策による完全雇用政策という社会政策が、戦後の世界に一般化した。

(2) フォーディズムの成立

 20世紀システムの物質的基礎は自動車や電気器具のような耐久消費財である。特に自動車は19世紀的な貧しい労働者階級イメージから20世紀の豊かな労働者のイメージへの転換を象徴する。この転換点に位置するのがフォードのT型である。それまでの金持ち階級の奢侈品ではなく、労働者階級の高価な実用品となった自動車は、それを購入できるだけの賃金水準を社会的要請とする。
 このために活用されるメカニズムは、労働力商品化に対する抵抗運動であった労働運動である。労働運動は労務サービス業としての自己労働の主体性を拠点としつつ、実質的な裁量性を奪還し他人労働性を縮小していこうという志向性と、もっぱら労務サービスの販売条件を向上していこうという志向性が混在していたが、アメリカにおいて実現した典型的なフォーディズムにおいては、テーラー主義という形に凝縮した生産活動における他人労働性の全面化については甘受し、その代わりに労務サービスの価格たる賃金の恒常的かつ大幅な上昇を確保するという後者の考え方に立脚した労使妥協が基本的枠組みとなった。
 この労使妥協がアメリカのように企業レベルではなく、産業レベル、国家レベルで明示的に行われたのがヨーロッパ型のフォーディズムであった。そして、テーラー主義受け入れの代償は賃金上昇にとどまらず、国家レベルの労働者保護法制や社会保障制度の充実などに及び、いわゆる福祉国家が成立することになる。

(3) ケインジアン福祉国家と完全雇用政策

 程度の差はあれ、20世紀システムを19世紀システムから区別する最大の外面的特徴は国家のあり方であろう。19世紀に誕生したネーション国家が大きく成長し、自己調整的市場にほとんどをゆだねる自由主義国家から、民間経済に介入しつつ自ら経済主体として活動する新たな国家のあり方が登場してきた。国家の活動をその不可分の一部として組み込んだ経済システムとして、混合経済という呼び名が用いられる。
 国家の介入を大きく分類すれば次の3つになろう。第1は、ミクロの経済活動に介入する産業政策である。これは個別企業ではやりにくい産業の近代化を促進するためのものと、衰退産業を下支えする社会政策的色彩の強いものがあった。第2は、マクロの経済運営を、人的資源が有効活用され、非自発的失業が発生しないようにコントロールしていこうとする完全雇用政策である。第3は、労働者保護とともに社会保障を充実し、失業や疾病という一時的労働不能にも、障害や老衰という恒常的労働不能にも、労働者とその家族が生活を維持することができるようにしようとする本来的意味の社会政策である。
 これに応じて、国際経済においても金本位制は放棄され、アメリカのドルを基軸通貨とする固定相場制がとられた。これは国際収支の圧力によって国内における財政政策が制約されることなく、上の完全雇用政策を十分に実施できるための枠組みとなった。これはネーション的労働本位制と呼ばれる。
 こういった20世紀的な国家のあり方をケインジアン福祉国家と呼ぶことができる。それは一言でいえば、19世紀には未だ社会の全面を覆うにいたらなかったネーション共同体の原理が、さまざまな社会主義の模索の中を勝ち残った民主的社会主義の原理と結合し、フォーディズムが要請する労使妥協システムをその中に組み込みながら作り上げられたものであり、失業と飢えの恐怖におびえる労働者像を豊かさを享受する労働者像に転換させた。労働力商品化の害悪は遂に解消されたかのように見えた。
 しかし、その豊かな労働者は労働の現場においては決して実質的な自己労働性を取り戻していたわけではない。労務サービス業たる自己労働者は決して生産者たる自己労働者ではなかった。この矛盾がやがて20世紀システムの基盤を揺るがしていくことになる。

7 経営者の時代

 20世紀は経営者の時代でもあった。資本家が労働者を使って利潤を得るという資本主義の古典的イメージが衰退し、専門的管理労働者としての経営者が企業の実権を握るようになった。これは経営者革命と呼ばれる。経営者革命の本質はどこにあるのだろうか。そもそも経営者とは何者なのだろうか。

(1) 株式会社の登場

 資本家と区別された経営者という存在は株式会社とともに登場する。株式会社とは何だろうか。商法の歴史をたどれば、商人が結合して一緒に商売をする枠組みが会社である。当初は各商人の独立性が強く、全社員が無限の責任を負う合名会社という形態であったが、中核的な無限責任社員と周辺的な有限責任社員からなる合資会社が現れ、ついには全社員が有限の責任しか負わない株式会社が登場する。そして、株券はいつでも公開の市場で売り買いすることができるので、株主という名の社員は自ら企業の経営にあたる本来の意味の資本家、自己資本家ではなく、自己の貨幣を他人の生産活動に投資して利子の獲得をめざす投資家、他人資本家に近い存在となる。
 逆の言い方をすれば、実質的には利子獲得にしか関心のない他人資本を法制度上自己資本に擬制するのが株式会社制度であるということもできる。これは19世紀後半になり、重化学工業の発展とともに企業の大規模化が要請されてきたことに対する制度的な対応であったが、自己労働と自己資本の結合としての産業資本家が他人労働と他人資本を活用しながら事業を経営するという古典的形態が次第に崩れてゆく出発点となった。
 株式会社という形式がとられても、ただちにすべての株主が実質的な他人資本になるわけではない。同じ株主といいながら、創業者やその一族であって自ら経営に携わる中核的株主と、配当という名の利子を受け取ることにしか関心のない周辺的株主ではその有り様は全く異なる。そして、この段階では法制度と若干の齟齬があるとはいえ、中核的株主こそが産業資本家そのものであって、資本家と区別された意味での経営者は未だ登場してこない。

(2) 経営者革命

 自ら経営に携わる中核的株主がその支配力を次第に失っていくと、すべての株主が本来の企業主から見れば他人資本になってしまう。この状態が資本と経営の分離といわれる事態であるが、正確に言えばかつての産業資本家の属性のうち自己資本としての性質を擬制的にのみ持つ株主と、自己労働としての性質を受け継ぐ経営者が分離してくるということである。
 すでに見たように、産業資本家は一方では遠隔商業に由来する都市商人の商業資本と、他方では封建社会の中で独立性を強めてきた独立生産販売者たる家族共同体との2つの源泉を持っている。この2つが結合するところに自己労働と自己資本の結合体としての産業資本が誕生し、近代市場社会が生まれたのであったが、株式会社という形式は今度はこの結合体を分解する方向に働きだしたのである。
 この動きは、19世紀末重化学工業化とともに進展し、20世紀に入り自動車や電気器具のように生産規模が巨大化するにつれてさらに加速した。そして重要なのはこれが既述のフォーディズムと結合し、20世紀システムの1つの構成要素となった点である。19世紀の「労資」関係は20世紀の「労使」関係に変わった。「労」は労務サービス業としての擬制的自己労働を、「使」は経営主体としての実質的自己労働を意味しつつ、分業体制が成立したのである。

(3) 労働者の経営参加

 アメリカのフォーディズムにおいては、労働運動はもっぱら労務サービスの販売条件の向上に目標を絞り、実質的な自己労働の主体性を回復しようという志向性は見られなかったが、ヨーロッパ特にゲルマン諸国と日本においては、労務サービス業としての擬制的自己労働性を超えて、経営主体としての実質的自己労働性を回復しようという方向が出現してきた。
 これは労働力の商品化に対する反発として登場した社会主義の当初の理想である自己労働者の結合体としての企業というイメージに通じるものでもある。商法や会計制度は商人資本に由来するものであるが、ゲルマン諸国ではこれに法制的に修正を加えていこうとする道をとった。しかしながら、ゲルマン諸国においては経営者革命の進行がそれほど進んでおらず、決して単なる配当受給者ではない中核的株主が自己資本と自己労働の結合体として相当程度存在している。この状況下ではいかに法制度上労働者の経営参加を規定しても、それはあくまでも副次的なものにすぎず、労働者は経営主体ではない。
 それに対して、日本においては商法や会計制度は商人資本由来のまま維持されたが、第2次大戦後の財閥解体などを通じて経営者革命が進展し、これに終戦直後の生産管理闘争などに示された労働者の参加志向が結合して、自己労働者の結合体としての企業というイメージが形成されるに至った。

8 20世紀システムの動揺と市場原理の逆襲

 空前の繁栄を誇った20世紀システムにも衰退の時期がやってきた。まずはシステムの基本をなすフォーディズム的労使妥協がほころび始めた。次に、ケインジアン福祉国家が国家に頼る惰民を作るものと非難されるようになった。さらに、金融のグローバル化の中で、経営者支配に対しても批判の矢が投げかけられるようになってきた。社会の主導的イデオロギーはもっぱら市場原理を振りかざすものとなり、ついには市場原理に反すること自体が悪であるかのような雰囲気が形成されていった。

(1) フォーディズムの行き詰まり

 フォーディズムとはテーラー主義と恒常的賃金上昇の取引による労使妥協システムであるが、ここには2つの問題が潜在している。1つはテーラー主義によって労働者は企業の生産活動においては単なる道具であることを認めてしまい、企業経営に積極的に関わっていこうという志向をあらかじめ切断してしまったために、もっぱら取引相手である企業からどれだけの譲歩を勝ち取るかという点に関心が集中してしまったことである。これはケインジアン政策が高度経済成長を実現していた間は矛盾を露呈せずにすんだが、いったん低成長時代にはいると、労働組合は企業経営に対する考慮なしに賃上げばかりを要求する困った存在という意識が社会全体にいだかれるようになり、労働運動の社会的正当性を自ら掘り崩す結果となった。このことが、労働組合を市場原理に対する夾雑物と見、その無力化を志向するネオ・リベラリズムが力を得る1つの原因となった。
 もう1つはより根深い問題である。人類の長い労働の歴史の中では、労務サービス業としての自己労働性というのはいかにも擬制的であって、現実の企業の中で自分と同じ共同体に属する者ではないものの指揮命令下の従属労働に従事するという他人労働性は覆い隠すことはできない。それでも労働者が従属労働に従事してきたのは、失業と飢えの恐怖に追われてやむを得ずという面が大きかったと思われる。しかしながら、20世紀システムはこの失業と飢えの恐怖を取り除いてしまった。そうすると、他人のいうがままに働かなければならないのはそもそも何故なのか、という哲学的な問いかけが頭をもたげてくる。この問いが先進世界同時に問われたのが1960年代後半であったのは、それがまさに失業と飢えの恐怖を知らない世代が社会に出てきた時代であったことを示している。
 その後、先進世界共通の病として、労働者のアブセンティーイズムが注目されるようになる。そして、労働生活の人間化という課題が取り上げられるようになっていく。フォーディズムの1つの柱であるテーラー主義からの脱却が模索されていく。一方、労働者がずる休みしたり、いい加減な仕事をしたりするのは失業と飢えの恐怖という規律を失ったからだという立場からの批判も力を得ていく。労働者が得たさまざまな既得権を剥ぎ取り、いうことを聞かなければ失業して飢えることになるぞと威嚇し戦慄させることによって生産の場の規律を回復しようというこの立場は、いわば20世紀システムを否定して19世紀システムへの逆戻りを唱道するものであった。

(2) ケインジアン福祉国家の動揺

 ネーション共同体原理と民主的社会主義が結合して生み出されたケインジアン福祉国家は、ある時期まではフォーディズムと結びついて戦後先進世界の高度経済成長の原動力となった。しかしながら、ケインジアン政策は不況期に財政赤字を出してでも経済規模を拡大しようとするものであったが、その結果としてインフレ傾向が恒常化し、不況とインフレが併存するスタグフレーションという現象が発生するようになった。これは健全な市場原理からの逸脱の故であるとする批判が登場してきた。
 また、福祉の拡充は、一時的、恒常的な労働不能から労働者と家族の生活を守るという趣旨を超えて、いわば弱者のふりをして福祉に頼って生きる人々を増やし、社会全体としての負担を重くする傾向を発生させた。1970年代にはいると、各国で福祉の見直しの議論がわき起こってきた。
 さらに、ドル本位制は1970年代はじめに破綻し、国際通貨は変動相場制に移行した。これは完全雇用政策の基盤であったネーション的労働本位制が崩れ始めたことを意味する。
 こういった流れを集約して、1980年代にはイギリスとアメリカという2大アングロ・サクソン諸国で、市場原理万能のネオ・リベラリズムに基づく政策が実施され始めることになった。ネオ・リベラリズムは、企業経営に対する妨害物と見なした労働運動に対して対決姿勢をとり、法制や政策を駆使して労働運動の抑圧につとめた。また、手厚い労働者保護や福祉がかえって労働者や国民をだめにしているとして、これらの既得権をできるだけ縮小しようと試みた。
 1980年代はこれに対し、大陸ヨーロッパ諸国を中心として、それまでのケインジアン福祉国家の原理を維持しようとするソーシャル・ヨーロッパ路線が一定の力をふるった。また、ネーション共同体原理を拡大してヨーロッパという単位での共同体形成を目指すECがすでに形成されていたが、これが統一通貨を採用していわばヨーロッパレベルの労働本位制を再建しようとする通貨統合が目指された。
 しかし、1990年代の特に後半に入って、世界はアングロ・サクソン諸国の掲げるネオ・リベラリズムの波の中に呑み込まれていった。

(3) コーポレートガバナンス

 1990年代の特に後半に入って、世界的ににわかにコーポレートガバナンスの議論が盛んになった。その出発点は、資本と経営の分離が進んだアメリカなどのアングロ・サクソン諸国で、経営者が本来資本家の代理人(エージェンシー)として資本家の利益を最大にするように行動すべきであるにもかかわらず、自らの利益を図って資本家の利益を害しているという問題意識である。
 資本と経営の分離とは、すでに述べたように産業資本の自己資本の側面と自己労働の側面が分離するということであった。そして、経営者支配とは、自己資本という擬制のもと実質的には利子獲得にしか関心のない他人資本である株主に対し、自己労働たる経営者が企業の支配権を握るということであった。商法の上では、株主が資本家であり、経営(を委託されている)者は株主の利益のために奉仕する存在であっても、それは建前であって現実の姿ではなかった。
 それが20世紀末になって再び株主主権などということが言われるようになったことの背景には、退職者年金基金などの巨大な資金を有する機関投資家が株式市場に出現し、これがその収益を最大化するよう経営者に圧力をかける力を持ち始めたことがある。退職年金基金が巨大な資金を有するようになったのは、20世紀システムの中で社会保障制度が発達し、豊かになった労働者たちの強制貯蓄が膨大な規模に膨れ上がったからである。ドラッカーが「忍び寄る社会主義」と呼んだこの退職年金基金が、経営者に対して資本の論理を突きつける存在として株式市場に登場したということほど、皮肉なことはないであろう。
 この新たな「資本家」は、しかしながらかつての企業主たる巨大株主とは異なり、実質的には外部の債権者と同様の他人資本にすぎないので、中長期的な事業運営などによりも、短期的なリターンの最大化に関心がある。かくして、経営者は「株主価値創造革命」なる名のもと、生産活動などよりも財務成績に狂奔する仕儀となる。
 金融市場のグローバル化の中で、このコーポレートガバナンスの議論がヨーロッパ諸国や日本にも押し寄せてきた。そして、自分たちにとってもっと投資しがいのある企業になるようにと圧力をかけてきている。20世紀末にいたって、利子生み資本の論理が世界を席巻するかの勢いである。

9 21世紀システムの模索

 今日、20世紀システムは大きく揺らいでいる。労務サービス業という擬制的自己労働の上に立脚した労使妥協システムたるフォーディズムはすでに解体過程に入り、ケインジアン福祉国家ももはや維持できない事態に立ちいたっている。実質的自己労働者として企業を引っ張ってきた経営者たちは、擬制的自己資本家の足許に屈するよう求められている。そして、世界中で鳴り響くのは、市場原理を至上のものとしてひたすら讃え、それに反するものの存在を認めようとしないネオ・リベラリズムの声である。
 しかし、19世紀システムへの単なる逆戻りの道に21世紀システムを展望することはできない。未来はどの方向にあるのか、考えてみたい。

(1) 情報産業社会の到来

 20世紀システムの物質的基礎は自動車や電気器具のような耐久消費財であった。その上にテーラー主義を受容し、生産の場では主体性を放棄しつつ、労務サービス業としての自己労働に立脚した労使妥協たるフォーディズムが成立し、富裕な労働者が出現したのであった。しかしながら、産業社会は現在大きな勢いで新たな段階に移行しつつある。それは、情報処理・通信技術の格段の進歩によって、産業の情報化と情報の産業化が進展しているからである。前者は既存の産業活動における情報処理、通信過程が高度化することによって生産性の著しい向上が図られるという側面であり、後者は情報処理、情報通信という産業分野が急速に拡大するという側面であるが、20世紀末には両者相まって莫大な産業拡大効果が見られている。21世紀は産業社会の第3段階としての情報産業社会であるというのが、衆目の一致するところであろう。
 労働の観点からは、情報産業社会は知識労働社会である。19世紀システムにおいてエネルギー源としての労働力が商品化されたのに対して、21世紀システムにおいては情報源としての労働力が商品化されるということもできよう。これは、労働の存在形態に2つの相反する契機を与える。一つには、労働者が一個の情報サービス業としての主体性を追求していく方向である。これはかつての自営労務サービス業としての自己労働の知識労働化形態といえる。現在盛んに喧伝されている情報化イコール市場化といった考え方は、この方向を強調するものだと言えよう。ここからは、労働者についても特許権や著作権といった知的財産権を重視する考え方が打ち出されることになる。
 しかしながら、情報や知識は物質やエネルギーと異なり、存在の量的限界がなく、ほとんどコストなしに無限に複製することができるという性格を有することから、本質的に商品化になじまない面がある。情報の商品化は、情報を商品たらしめるための知的財産権という観念とそれを支える制度を必要とし、かつそれがあらゆる端末で遵守されるようなSF的監視メカニズムを要求する。これはまさしく古い生産関係が新たな生産力の桎梏と化す姿ではなかろうか。長期的に見れば、知的創造を一定程度保護しうる情報社会における取引形態は、かつて梅棹忠夫が予言し、現にシェアウェアという形で発展しつつある「お布施の原理」に落ち着いていかざるを得ないのではなかろうか。
 もう一つ、とりわけ知的労働という観点から重要なのは、情報や知識のネットワーク効果である。情報や知識はより多くの人々に共有され、共用されることによってますます生産性が高まっていく。労働者個人個人が自営情報サービス業として情報商品の取引主体化していくことは、このネットワーク効果を分断する危険性をはらんでいる。上記知的財産権の過度の強調は、この知識ネットワークの中でたまたま商品化に成功した個人のみに報償を与えることで「一将功成って万骨枯」らせることとなりかねず、結果的に全体の生産性を阻害することになる危険性がある。死せる知的労働が生ける知的労働を搾取する姿と言えるかも知れない。
 その意味で、情報産業社会は情報の商品化のモメントとその脱商品化のモメントの双方のせめぎ合いの中で進んでいくと考えるべきであろう。後者の観点からは、知的労働はなによりもまず知識ネットワークの中の存在である。労働者は自営情報サービス業者としての主体性を追求するだけでなく、むしろネットワークにおける協働の契機を強調し、そこへの参加に主体性を見出していくことになろう。情報資本主義に対して「ドット・コミュニズム」とでも言えようか。
 以上の議論はやや先駆けし過ぎの感もあるが、21世紀システムの下部構造として踏まえておくべきものであると思われる。

(2) 福祉国家から参加社会へ

 ケインジアン福祉国家は揺らいでいる。ネオ・リベラリズムに基づき労働者保護や福祉の大幅見直しを断行したアングロ・サクソン諸国だけでなく、長らく福祉国家の牙城であった大陸ヨーロッパ諸国でも抜本的な見直しが進められている。しかし、その方向性は必ずしも市場原理一本槍ではない。EUの社会政策白書などで打ち出されている方向は、連帯のあり方を、今までの消極的な資源の移転という方式から、積極的な機会のよりよい配分という方式に代替していこうというものである。その際、仕事を単なる所得稼得手段と見るのではなく、人々に社会における地位と尊厳を与えるものと見、仕事を通じて万人の社会的統合を図っていこうという姿勢が示されている。
 これを協働原理に基づく共同体のあり方という面から考えると、ネーション共同体と家族共同体の二重構造をなしていた近代社会が大きく組み替えられようとしていると見ることができる。擬制的労務サービス業者の家族共同体を保護するためにネーション共同体が実施する福祉は、その両脚が崩れつつある。一方では家族単位の福祉の個人単位化が進められている。これは市場原理の主体としての個人主義ではない。そのような実体は実は今までも存在しなかった。家族共同体を家長たる成人男子で代表させて個人主義と称していただけである。これが家族共同体の成員レベルにまで降りてくることによって、血縁原理に基づく共同体は再度抜本的な組み替えを要求されることになりつつある。
 他方、協働を要求するネーション共同体も、その共同体性が一方でEUのように国家を超えたレベルに、もう一方で地域社会のレベルに拡散しつつある。人間性そのものが変わらない限りおよそ人間社会に脅迫原理がなくなることはなく、権力体の契機が失われるということはないであろうが、ネーション共同体という特定のレベルに権力が集中するという特殊近代的状況はそろそろ終わりつつあるのかも知れない。
 そして、その中間に、これまでは共同体性が希薄であった職場が、協働原理の1つの核として姿を現しつつあるように思われる。しかしながら、かつてドイツで試みられ、戦後日本が作り上げた企業共同体という労働社会のあり方が21世紀の指導原理となるわけではないであろう。もちろん、生産活動自体における労働者の裁量性の拡大、企業経営への労働者の参加という方向性を通じた自己労働者の結合体としての企業共同体というイメージは、21世紀の参加社会の基盤となるだけの価値がある。
 しかし、20世紀システムにおけるゲルマン・日本型の企業共同体が、重化学工業の大規模組織を前提とするものであったのに対して、21世紀システムにおける職場の協同原理は、情報生産に向けた知識労働者のネットワークという形をとる可能性が高いと思われる。

(3) 自己労働ネットワーク社会へ

 改めて振り返ってみれば、近代産業資本は商人資本に由来する自己資本と独立生産販売者に由来する自己労働の結合が生み出した存在であった。そして、自己資本の実質的他人資本化とともに、自己労働者としての経営者が20世紀の指導階層となった。今一見それを揺るがしているかに見える「株主主権」は、実は富裕化した労働者の貯蓄が生み出したものである。この皮肉な構造の中に、21世紀システムの方向もまた透けて見えるのではないだろうか。
 第1の方向は、自己労働者の範囲の拡大である。実質的自己労働者としての経営者と擬制的自己労働者かつ実質的他人労働者としての労働者の対立と妥協の構造図式(「労使」構造)は、19世紀の「労資」構造に代わるものとして20世紀システムの基礎構造をなしたが、いまや一方では従属的な他人労働性への反発がその基礎を掘り崩しつつあり、他方では経営者は擬制的な「株主主権」の代理人として行動するよう強制されつつある。これまで他人労働として実質的な企業の意思決定から疎外されてきた労働者層を、経営者と同様の自己労働者として企業経営に関与させていくことこそが、自己労働者の結合体としての企業という新たな歴史的主体を作り出し、20世紀システムが直面する隘路を突破することを可能にするように思われる。
 第2の方向は、企業組織のネットワーク化である。もともと自己労働者とは家族経営による独立生産販売者が原型であった。20世紀システムのもとでも伝統的セクターを中心に相当の自営業者が存在してきたが、彼らの作る組織は協同組合のように成員の独立性を前提としたゆるやかなものであった。ヒエラルキー的な規律に従う鉄の組織というイメージは重化学工業の発達にともない普及したものであるが、情報産業社会の到来とともにますます時代遅れになりつつある。20世紀システムが要請する巨大組織と成員の自己労働性を両立させるための工夫がさまざまな労働者参加制度であったが、21世紀の企業組織はネットワーク型の緩やかな組織として、いわば自営業者化した労働者が組織する協同組合のような形になっていくのではなかろうか。
 第3の方向は、富裕化した労働者の貯蓄が金融市場の中で資本の論理の体現者となってしまっている事態の転換である。戦後日本の会社主義においては、株式の持ち合いによって株主の行使可能な権利を可能な限り縮小するとともに、法制的には会社の主権者であるはずの株主を総会屋という非合法な私的暴力装置を用いることで圧伏するというやり方で資本の論理を抑制していたが、このやり方がもはや持続可能でないことは明らかとなっている。それに代わる手段は、金融市場で資本の論理を振り回している者は代理人にすぎず、依頼主である労働者層の利益に反することは許されないということに立脚すべきであろう。「企業の社会的責任」という概念も、まずはそこから出発する必要があろう。

2019年のキーワード 雇用類似の働き方@『先見労務管理』2019年1月10日号

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『先見労務管理』2019年1月10日号に、「2019年のキーワード 雇用類似の働き方」を寄稿しました。

 現在世界的に、最もホットな労働問題となっているのが、第4次産業革命とともに登場してきた新たな就業形態であり、シェアリング経済、プラットフォーム労働、クラウド労働等々のバズワードが世界を飛び交っている。今回の特徴はそれが日米欧といったこれまでの先進諸国だけでなく、中国や韓国など他のアジア諸国においても同時進行的に進んでいるという点である。筆者の属するJILPTは毎年日中韓の枠組みで労働フォーラムを開催しているが、昨年末2018年11月に中国青島(チンタオ)で開催した会議では、中国側の主導で「新たな就業形態」がテーマとされ、三か国の実態と対応が討議されたが、とりわけ従来型産業規制が希薄な中国においてこの種の新たなビジネスモデルが急速に展開していることが窺われた。これは2017年6月に純民間ベースで明治大学で開かれた日中雇用・労使関係シンポジウムでも痛感したことである。一方、2018年6月には日本の厚生労働省とEUの欧州委員会による日・EU労働シンポジウムでも「新たな就業形態」がテーマに取り上げられており、EUのこの問題への高い関心を示している。 ・・・

ちなみに、今年のほかのキーワードと執筆者は以下の通りです。

2 外国人雇用 北浦正行

3 パワーハラスメント 稲尾和泉

4 就職協定 豊田義博

5 人生100年時代 崎山みゆき

2018年12月30日 (日)

著作でウィキペディアを使うと・・・・

最近、某ベストセラー作家の本がウィキペディアからの無断引用が多いとかなんとか話題になっているようですが、まあ、他の資料で書けることをウィキに頼るのはひどい話ですが、ではウィキペディア以外にソースが見当たらない話をどう扱うべきかというのは、なかなか難しいところがあるように思います。

Chuko というのは、実は私自身『若者と労働』の中でほかにソースが見つからず、やむを得ずウィキペディアの記述を引用した箇所があるのです。

同書はもちろん、田中博秀さんの名著『現代雇用論』が議論の骨組みで、事実のディテールは私が監訳したOECDの若者雇用報告書などをいっぱい使っているんですが、話の流れでフリーターの語源をちょこっと書いておきたいと思って、ウィキペディアの「フリーター」の項目を覗いてみると、他にソースの見つからない独自の情報が載っていたので、ウィキ情報だと断って引用したんですね。

「フリーター」の語源
 「フリーター」という言葉の語源については、ネット上の百科事典であるウィキペディアに詳しい説明があります。そのはじめの方は私も知らなかったことですが、興味深いので引用しておきたいと思います。
 それによると、一九八五年五月に、都内でライブ活動をしていたシンガーソングライターの長久保徹氏が、夢に向かって自由な発想で我が道を走り続けた幕末の坂本龍馬が好んで発したという英語の「フリー」に、ドイツ語のアルバイターを連結して「フリーアルバイター」を造語したのだそうです。
 翌一九八六年三月に、朝日新聞にフリーアルバイターという造語が紹介されたのを機に、各新聞社が取り上げ、全国的に流行語になっていきます。そして、一九八七年にリクルート社のアルバイト情報誌『フロムエー』の編集長だった道下裕史氏が、このフリーアルバイターをフリーターと略し、映画『フリーター』を制作し公開したことで、フリーターという言葉が定着したということです。

この、リクルートの道下氏は本も出しているし、映画まで作っているので(同書のこの後のパラグラフに出てきます)いいのですが、問題はこの長久保徹氏が造語云々というところです。いろいろと調べてみたのですが、この情報はウィキペディア以外には見つからず、話の本筋にはあまり関係しないので削除するかとも思ったのですが、別に政治的に編集合戦されているようなトピックでもないし、ウィキ情報だと断って書けばいいかなと思ったわけです。

この記述については、その後当の長久保氏とネット上での対話もありました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-00b2.html (フリーアルバイターの元祖)

いずれにしても今回
労働学の第一人者濱口桂一郎氏の著書『若者と労働』(中公新書ラクレ)に掲載していただき
素直にうれしい
「フリーアルバイター」は
ボクの二十代の歴史そのものだから
なお、この掲載を知ったのは、仙台の書店でだった
偶然入った書店で、開いた本の中にボクの名前があった
それは、SERENDIPITY
また、先週の水曜日、NHKのテレビ番組で濱口桂一郎氏を初めてお見かけした

なんですが、じつはそのウィキペディア上の記述が最近になってあっさり削除されていたんですね。

現在の記述はこうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/フリーター

1985年(昭和60年)頃から音楽分野で散見されていた「フリーアルバイター」という言葉は、翌1986年(昭和61年)3月31日、朝日新聞に「フリーアルバイター」という造語が紹介されたのを機に各新聞社が取り上げ全国的に流行語となっていく。

編集記録をたどってみると、本書が出た後の2016年に、

都内でライブ活動していたシンガーソングライターの長久保徹が初めて使ったとされていたが、実際には[[1983年]]にCMディレクターの佐藤典之が現在の職に就く以前、京都市内のパブ・ロンドン亭でアルバイト時代に客から仕事を聞かれた際、「フリーのアルバイターです」と自己紹介していたことが語源である。

という新たな語源説が書かれ、その後今年(2018年)10月になってそういう固有名詞も全部削除されて、今のあっさりした記述になっているようです。

なので、拙著の当該部分を読んで、「ほぉ、そうかいな、ではウィキペディアを見てみよう」と思ってみてみると、その記述は見当たらないという事態になってしまっているのです。

本書全体のあらすじにとってはほとんど影響のない細かなディテールの話とはいえ、いささか気分のすっきりしないところではあります。

うーん、こういうことがあるから、やはりウィキペディアをそのまま引用するのはリスクがあるんですね。

倉重×荻野対談

Ogino ヤフー・ニュースに26日から毎日短期連載されていた【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」の対談が、本日の5回目をもって終了しました。さすが、この二人の対談らしく、随所でそれそれと掛け声をかけたくなる箇所が頻出しますが、

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181226-00109021/ (第1回(同一労働同一賃金のゆくえ)

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181227-00109120/ (第2回(「転勤」とキャリアの現代的再考))

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181228-00109123/ (第3回(解雇法制はどうあるべきか))

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181229-00109126/ (第4回(デジタル化する労働と労組の役割))

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181230-00109129/ (最終回(若者と高齢者と日本型雇用))

全体を改めて通読して、やはり4回目の議論が一番射程が長く、かつ我が意を(一番)得たりというところが多かったと感じます。

最終回の最後のところで、荻野さんがちょっと個人的な経験に基づいて若者へのメッセージ的なことをしゃべっているところが、いかにも荻野さんらしくて面白いです。

倉重:・・・じゃあ最後に、大学でも教えてらっしゃるということですんで、これから世に出ていく、あるいは社会人キャリアが浅くてこれから日本型雇用を進んでいく若者に向けて、キャリア的な観点で、ぜひ思ってらっしゃることがあったらお願いしたいんですけれども。
荻野:ビジネススクールなので、大学では若い人にアドバイスをするという立場ではないんです。ただ時々、大学のキャリア教育の一環ということで、頼まれて学生さんとお話しさせていただくようなチャンスはあります。
 就職活動の前に、仕事とか会社とか、働くことのイメージをつかみたいということだと思いますので、日本的雇用もいろいろ課題はあるわけですが、今から就活しますという学生さんにどうなるかもわからない10年後、20年後の話をしても仕方ないですから、足元の、正味の現実ベースで、多少は体験も交えて、とりあえず今はこうなっているんだから、それならこうしたほうがいいよという話をしています。そのほうが多分親切だし、向こうもそれを求めていると思いますし。
倉重:具体的に、どういうことを言っているんですか?
荻野:相手にもよりますが、今の日本の、雇用の安定した職に就いたら仕事は選べない。もちろん希望を聞いてくれる会社はたくさんありますが、希望どおりになるということはたぶん多くないし、ある程度近ければ満足しておいたほうがいいことも多い。長い間には思いどおりの仕事にならないこともきっとある。ぜひ伝えたいのは、そういうときこそ勉強しようということです。思いどおりでない、あまりやりたくない仕事をやらなければいけないときこそ、その仕事の勉強を。
倉重:その仕事をということですね。
荻野:そうです。最初は興味ない、面白くないかもしれませんが、それでも勉強していると、この仕事にどういう意味があるのかとか、なにが面白いところなのかというが、だんだんわかってくるんです。
倉重:確かに。その仕事なりの、やっぱり意味があるから、そういう仕事があるわけだし。
荻野:そこは強調しますね。個人的な経験からも、それは言えますから。
倉重:そうなんですか。それは最初に人事に就いたときですか。
荻野:どれとは言いにくいですが、長い間にはちょっと気が進まないな、という仕事も何度かありました。まあでもせっかくやるんなら楽しくやらないとつまんないよねと思って、現場に足を運んだりして勉強をしている間に、だんだん面白くなってきて。それがキャリア的に有利だったかというと、まあそうでもなかったわけですが、でもそのほうが幸せに過ごせますよね。これは学生さんとかにはよくお話しします。
倉重:でも、それは結構、キャリアの本質的な話だと思うんですよね。やっぱりキャリアって、私のように結果的にできているものなので、例えば配属になった時点で、俺はこういうキャリアを歩んでいくんだ!なんて分からないじゃないですか。
荻野:分かんないですね。
倉重:そこでちゃんと、やっぱりとことん勉強をして真正面から仕事をやった人と、なおかつ嫌な仕事だなというふうにだらだらやっていた人では、当然、キャリアのでき方に違いというものが出てくると思うんです。
荻野:特に日本企業は、仕事は会社が決めるし、転職をすると賃金が下がることが多いし。これもどうしようもないことなんです。それだけ賃金が高いんだと考えなくちゃいけない。
倉重:その仕事を選べない代わりの対価として。
荻野:仕事を選べない代わりに。仕事を選べないし、会社の外に出ていたらそのままでは通用しないような能力をたくさん蓄えているわけですから。
倉重:社内スキルが。
荻野:社内スキルが。でも、それに対しても給料を払われているから、転職をすると給料が下がるんだと思えばいいんです。そういった中で、自分で選択をするわけではない形で担当業務が変わることも多いですね。それにいかに柔軟に適合していくかというアダプタビリティーというものはすごく大事なんでしょう。
倉重:かなり偶然に左右されますからね。
荻野:いい偶然に左右された人というのはいいキャリアになるというのが、これがさっきも出たクランボルツのいうプランドハプンスタンス、計画的偶発性ですよね。変化を嫌うな。むしろ求めていけと。変化があったら、それに対応するように頑張れと。そうしていると、ある日突然、いい出会いがあって。
倉重:いいですね。
荻野:いいことが起こるかもしれない。
倉重:いいですね。
荻野:そういう話。さっきもAIの話が出ましたが、新しい仕事、新しく求められる技能というものもいろいろ出てくるでしょう。いつ、なにが起こるかはわかりませんが、必ず変化は起きる。それに対応するノウハウが、小池和男先生が提唱された知的熟練ですね。これはもう古い概念ですが、今でも通用すると思います。つい先日も、佐藤博樹先生が、電機連合の調査をもとに変化対応能力の大切さを指摘しておられるのを拝見しました。
倉重:ちょうどこの対談の第2回は森本千賀子で、リクルートの営業のナンバーワン女子だった方なんですけれども、やっぱり学生に向けたアドバイスは変化対応力である最後におっしゃっていたことを思い出しました。ちょっと表現は違いますけれども全く同じ趣旨のことをおっしゃって、やはり分野は違っても根本の部分ではつながるなと思って聞いていました。
荻野:長期雇用の日本企業ではそういった変化対応能力が身に付きにくい、みたいな言い方をする人というのがいると思いますが、決してそんなことはないと思います。たとえば今50代なかばくらいの人が大卒で就職した頃だと、まだ職場のパソコンが珍しい時代で、日本語ワードプロセッサーが100人くらいの職場に3台ぐらいあって、それを、使用時間帯を予約して使うという状況だったわけですね。現在のように、いつでもどこでも、タブレット端末でネットワークにつないで仕事ができるようになるなんて、たぶん夢にも思わなかったような変化だと思うのですが、でもそれなりに対応しているじゃないですか。
倉重:変化を楽しんで対応せよと。
荻野:もちろん、早く対応できる人は有利でしょう。逆に、しょうがねえなと思って諦めたっていいんですよ。いまの日本の正社員なら、それで失うのは将来のキャリアだけ。それにどれだけ価値があると思うかですね。それは案外、あまり意識されていない、日本の人事管理のいい面かもしれないんですよ。
倉重:ということですよ。結局、その会社での出世争いが全てじゃなくて、自分が納得する人生を送れるかですから。
荻野:まあそうなんでしょうね。日本の正社員は全員社長候補かもしれないけれど、実際に全員が社長になるわけじゃない。海老原嗣生さんの本によれば、ある企業に入社すれば、まあ2割か3割は部長クラスになれるそうですが、まあ、どこかでは天井を打つんです。そのときにどうするかですよね。そこから、仕事も大事だけれど、もっと家庭を大事にしようとか、地域とつながってみようとか、仕事以外のことに目を向け始めても、たぶん遅くはないと思うんです。
倉重:だから、そういうやっぱり仕事の外のつながりとか関係性というものは。
荻野:それはとても大事だと思います。

2018年12月29日 (土)

『日本の労働法政策』は絶対にAmazonで買わないで!

Japanjpg_3 『日本の労働法政策』が刊行からほぼ2か月になり、買われた方々はほぼ例外なくそのやたらな分厚さにあきれておられるようです。

それはともかく、Amazonを覗いてみたら、とんでもない値段がついていました。

https://www.amazon.co.jp/日本の労働法政策-労働政策研究研修機構/dp/4538411647/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1546070268&sr=1-2

単行本
¥ 6,705 より

¥ 6,705 より 3 中古品の出品
¥ 6,790 より 1 新品

をい、ちょっと待て。中古品の¥6,705もひどいが、なんで新品が¥6,790もするんだよ。

いうまでもなく、この目次を含めれば1100ページを超えるやたら分厚い本は、しかしながら定価: 3,889円+税であり、税込みで4,200円なんですから、こんな中間搾取は信じられませんね。

新品未読品です。希少品等の理由につき、定価以上での販売価格とさせて頂いております。

などと言っていますが、嘘です。希少品でも何でもありません。他のインターネット書店では(e-honでも、Honyaでも、 楽天でも、セブンネットでも)みんな当たり前に定価販売していますし、JILPTには在庫が積まれています。足りなくなれば増刷します(したい)。

どういう仕掛けでこういう得体のしれない事態になっているのかよくわかりませんが、なんにせよこの本は、絶対にAmazonでは買わないようにしてください。

2018年12月28日 (金)

石井知章編著『日中の非正規労働をめぐる現在』

石井知章編著『日中の非正規労働をめぐる現在』 (御茶の水書房)が、ようやく刊行されたようです。まだ手元には届いていませんが、書影は届いたので、一足先に公開。

Nicchu

第Ⅰ部 日本における非正規労働の過去と現在

1 非正規労働の歴史的展開 濱口桂一郎

2 日本における非正規雇用問題と労働組合--1998~2009を中心に--龍井葉二

3 非正規労働者の増加、組合組織率の低下に対して、日本の労働組合はいかに対応してきたのか--コミュニティ・ユニオンの登場とその歴史的インパクト--高須裕彦

4 過労死問題の法と文化 花見忠

5 日本における過労死問題と法規制 小玉潤

6 非正規労働者と団結権保障 戸谷義治

7 能力不足を理由とする解雇の裁判例をめぐるに忠比較 山下昇

第Ⅱ部 中国における非正規労働の新たな展開

8 雇用関係か、協力関係か--インターネット経済における労使関係の性質--常 凱・鄭 小静

9 独立事業者か労働者か--中国ネット予約タクシー運転手の法的身分設定--范 囲

10 グローバル規模での経済衰退と労働法 劉 誠

11 中国経済の転換期における集団労働紛争の特徴と結末--個別案件の分析と探求を中心に--王 晶

12 中国新雇用形態と社会保険制度改革 呂 学静

13 非正規労働者の心理的志向性に関するモデルケース 曹 霞・崔 勲・瞿 皎皎

14 「法治」(rule by law) が引き起こす中国の労働問題--「城中村」の再開発と「低端人口」強制排除の事例から--阿古智子

15 中国の非正規労働問題と「包工制」 梶谷懐

16 中国における新たな労働運動、労使関係の展開とそのゆくえ 石井知章

2018年12月27日 (木)

島田陽一・菊池馨実・竹内(奥野)寿編著『戦後労働立法史』

427925島田陽一・菊池馨実・竹内(奥野)寿編著『戦後労働立法史』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.junposha.com/book/b427925.html

我が国の労働法制はどう形成されてきたのか。戦後の労働立法それぞれの成立と展開を描く「労働立法史」

なんだかここに来て、労働法の歴史の分厚い本が立て続けに出てますね。

この本は、早稲田大学を退職された石田眞先生の古稀記念論集ということで企画されたようで、目次は下にコピペしておきますが、労働法の各個別分野ごとにその立法史を叙述するというスタイルは、まさに拙著『日本の労働法政策』と正面からかち合っています。

本書は、第Ⅰ部「戦前における労働立法形成の歴史的前提」と第Ⅱ部「戦後労働立法史」の2部構成となっています。

 第Ⅰ部は、第1章「戦前における労働立法の歴史的前提」、第2章「戦前の労働市場立法」、第3章「戦前の雇用関係法」および第4章「戦前における労使関係立法」と4章構成となっており、石田先生自らがその全体を執筆されています。
第Ⅰ部は、労働市場法、雇用関係法および労使関係法という現在の労働法体系における法領域に即して戦前の労働立法が分析されています。このことによって、戦後のそれぞれの労働立法の分析との接続が図られていると言えます。そして、戦前の労働立法を踏まえて、労働立法史を分析する視点として、①戦前戦後の断絶と連続、②ILOを中心とする国際的影響および③雇用システムと労働立法の相互構築という興味深い視点が提起されています。

 第Ⅱ部は、15章構成となっており、労働基準法、労働契約法、最低賃金法、賃金の支払の確保等に関する法律、男女雇用機会均等法、パートタイム・有期雇用労働法、労働安全衛生法、労災保険法、職業安定法、職業能力開発促進法、雇用保険法、労働組合法、労働紛争処理法、公務労働法が取り上げられています。

本書が労働法学における労働立法史研究の活性化の契機となることを願ってやみません。

では、濱口の『日本の労働法政策』と、この早稲田勢+αの総力を挙げた本書との違いはどこにあるか?

敢えて言えば、それは戦時体制期の見方にあるように思います。

本書は第Ⅰ部が戦前で、第Ⅱ部が戦後と、綺麗に分けており、分野ごとの通史と雖も、戦前、戦時、戦後を一気通貫した叙述にはなっていません。

正確に言えば、第Ⅱ部の各章の中にも、第4章の最低賃金が戦時下の賃金統制令を扱ったり、労災や職安法など戦前に言及しているのもありますが、大枠は戦前と戦後で大分割しており、これは日本の労働法制史が(戦前を前史として持ちながらもそれは戦時体制で断ち切られ)戦後改革で一から形成されたという歴史観が基本にあるからだと思います。

おそらくそこが、拙著との大きな違いでしょう。私はむしろ、個々の分野ごとの立法史をたどればたどるほど、戦時体制下の統制立法が戦後改革期の労働立法と直接間接に繋がっていると考えており、むしろ戦時期と終戦直後期を一括して「社会主義の時代」と呼んで、現代労働法体制が形成された時期だと認識しているのです。これは、孫田良平さんの「戦時労働論への疑問」に淵源する歴史観で、2004年に『労働法政策』を刊行したときにも、JIL雑誌の書評で和田肇さんからこのような批判をいただいていたところです。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2005/01/pdf/063-068.pdf

・・・とりわけ1930 年代半ばから50 年代半ばまでを「社会主義の時代」と一括りにし, 戦中を「労働法政策の立場からすれば決して悪い時代ではなかった」と評価し,戦後を「1930 年代半ば以降の路線の延長線上に, そこから国家社会主義的なゆがみを取り除いて純化発展することのできた時代」と位置付けることには, なお抵抗がある。たとえばドイツでも国家社会主義の時代に中小企業や労働者の保護政策が積極的に採られたことは有名であるが, それでも戦後をこの時代とつなげることには, 賛成が得られないでいる。と同時に, 本書の中では労基法を中心とした労働条件法政策の一部(204 頁以下等) を除いて戦後改革の叙述が少ないが(著者はむしろ戦前, 戦中期に戦後労働法の胚胎があると考えている), これを過小評価することにも(たとえば団結弾圧立法から憲法28 条へ), 異論があるのではないだろうか。・・・

ここは歴史観の根幹にかかわるところだと思いますので、是非もっと突っ込んで議論をしてみたいですね。

第Ⅰ部 戦後労働立法史の歴史的前提―戦前の労働立法史…………石田 眞
はじめに
第1章 戦前における労働立法形成の歴史的前提
    ――労働関係における市民法秩序の形成
はじめに
一 「株仲間」の解体と「営業の自由」
二 労働関係における「人身の自由」と「契約の自由」
三 職工・徒弟条例案
四 民法典の編纂と労務供給契約規定の成立

第2章 戦前の労働市場立法
 はじめに
一 職業紹介・労働者供給など就業の仲介に関する立法
二 失業に直接対処するための立法

第3章 戦前の雇用関係立法
一 雇用関係立法の源流
二 鉱業条例と鉱業法
三 工場法

第4章 戦前の労使関係立法
 はじめに――戦前における労使関係立法史の起点と問題
一 治安警察法17条
二 労働組合法の制定問題
三 労働争議調停法
むすびにかえて

第Ⅱ部 戦後労働立法史

第1章 労働基準法――全体的な概観…………中窪裕也
はじめに
一 法制定の背景と準備
二 法案の起草過程
三 議会における審議
四 労基法の施行
五 その後の法改正
おわりに

第2章 労働基準法の労働時間規制の変遷過程…………和田 肇
はじめに
一 労基法第4章の変遷
二 労働時間規制の変遷過程の分析
三 労働時間規制の効果・影響
まとめ

第3章 労働契約法…………大木正俊
はじめに
一 労働契約法理形成期
二 労働契約法成立期
結語

第4章 最低賃金法――「最低賃金」立法の史的展開…………唐津 博
はじめに――本稿の課題
一 「最低賃金」立法のあり方―制度設計上の論点(選択肢)
二 国家総動員法(1938年)と賃金統制令
三 労働基準法と「最低賃金」条項
四 最低賃金法の制定と改正
五 「最低賃金」立法小史―-戦前・戦後の労働立法の「断絶」と「継承」
おわりに―「最低賃金」立法と「賃金の法原則」

第5章 賃金の支払の確保等に関する法律…………藤本 茂
はじめに
一 法制定前史
二 賃金支払確保法案
三 労働側の賃金支払確保の方策
おわりに――制定後の賃金支払確保法

第6章 雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律…………浅倉むつ子
はじめに
一 前史
二 均等法の制定過程
三 「福祉法」としての1985年均等法
四 均等法の展開過程(その1)――1997年第1回目の法改正
五 均等法の展開過程(その2)――2006年第2回目の法改正
六 均等法の現在
おわりに

第7章 短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律…………水町勇一郎
一 前史
二 1993(平成5)年パートタイム労働法制定
三 2007(平成19)年改正
四 2014(平成26)年改正
五 働き方改革関連法――2018(平成30)年改正
六 結び―要約と課題

第8章 労働安全衛生法…………鈴木俊晴
はじめに
一 立法の背景事情と経緯
二 労働安全衛生法の概要と単独立法化の理由
三 その後のおもな法改正
おわりに

第9章 労働者災害補償保険法…………有田謙司
はじめに
一 労災保険法の形成
二 労災保険法の展開
三 労災保険法の立法史の今日的意義――その将来の発展の方向

第10章 職業安定法―その制定と労働力需給システムの転換…………島田陽一
 はじめに
一 第二次世界大戦前の労働力需給システムの概要
二 占領政策の展開のなかでの職業安定法の成立
三 職安法による有料職業紹介の厳格な規制と労働者供給事業の禁止
 四 GHQの雇用政策の変化と労働者供給事業の取締緩和
 おわりに

第11章 職業能力開発促進法…………矢野昌浩
一 課題設定と時期区分
二 第1期――基軸としての公共職業訓練
三 第2期――企業内職業訓練への基軸の移行
四 第3期――個人主導の強調
五 展望

第12章 雇用保険法…………菊池馨実
 はじめに
一 雇用保険の歴史的沿革
二 現行の仕組みと適用状況
三 歴史的展開からみた雇用保険の特徴と限界

第13章 第2次世界大戦後における労働組合法立法史――総則、労働組合、団体交渉および労働協約にかかわる事項に焦点をあてて…………竹内(奥野)寿
 はじめに
一  労働組合法の制定と改正の経過
二  目的、刑事民事免責
三  労働組合の定義、労働者の定義、労働組合の設立や運営にかかる規定
四  団体交渉、労働協約
むすび

第14章 労働紛争処理法――個別労働紛争を対象とした労働紛争処理法の生成と課題…………浜村 彰
 はじめに
一 なぜ個別的労働紛争処理システムが立法課題となったのか
二 90年代からどのような議論がなされてきたのか
三 個別労働関係紛争解決促進法の制定
四 司法制度改革と労働審判制度の登場
五 労働紛争処理システムの実情と課題
むすびにかえて――行政型紛争処理システムと司法型紛争処理システムの関係

第15章 労働基本権制約理論の歴史的検討――「全体の奉仕者論」を中心に…………清水 敏
はじめに
一 旧労働組合法制定過程における公務員の労働基本権
二 旧労働関係調整法と公務員の労働基本権
三 官吏法案要綱
四 教育基本法および教員身分法案要綱案
五 マッカーサー書簡と国家公務員法の制定
まとめにかえて

労働立法史年表…………岡田俊宏

2018年12月26日 (水)

脇田成『日本経済論15講』

20199784883842865 脇田成さんより『日本経済論15講』(新世社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.saiensu.co.jp/?page=book_details&ISBN=ISBN978-4-88384-286-5&YEAR=2019

日本経済を学習するにあたって,知っておかねばならない事実と必要となる経済学的知識を15講にまとめたテキスト.バブル崩壊以降,経済政策をめぐってどのような論争があり,問題解決のために何がボトルネックになっているのかを解説し,これからの日本経済において「できること」を提案する.データをもとにして直面する実態をつかむセンスを伝授しつつ,読者が自分の頭で政策を判断するための考え方をガイドした.読みやすい2色刷.

脇田さんからは5年近く前に、『賃上げはなぜ必要か─日本経済の誤謬 』(筑摩選書)をお送りいただいたことがあり、大変興味深く読ませていただいたのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-7476.html

今回の本は「ライブラリ経済学15講」の一冊で、大学生向けの経済学入門書であり、私なんかにお送りいただいていいのかな、と感じるところもあります。

もしかしたら、私がその昔一部の「りふれは」から非道な罵詈讒謗を被っていたことが関係しているのでしょうか。というのは、本書冒頭の第1講の「暴走する応援団」に、こんな記述があったからです。

・・・「振れ」を激しくするのは論争の内実もある。バブル崩壊後の停滞をめぐって、激しい経済論争が行われた。一方は金融緩和が足らないとするリフレ派であり、もう一方は企業内の組織を引き締め生産性上昇を目指す構造改革派である。これらの議論はビジネス誌やインターネット上では激しかったが、必ずしもその主張に日本経済の丁寧な分析が結びついていたわけではない。誤解を恐れずに言えば、むしろ両派の応援団にとって、事実と解決策はどうでもよかったといえる。・・・

・・・こういった論争のかなりの部分は、真実を追求するというよりも、いつのまにか「娯楽」となってしまっており、論者も立場を決めて与えられた「役割」を果たすことが多い。純文学と大衆文学の区別を借りれば、経済論争にもヒーローが活躍するエンタテインメントの部分が多いのである。しかし「娯楽」だけでは真実に近づけないし、有効な対策も打てない。・・・

なかなか皮肉がピリリときいている文章ですが、ある種の人々にとっては不愉快極まりない文章なのかもしれません。

第1講 日本経済はどう変動してきたか
  1.1 停滞の経緯
  1.2 短期・中期・長期の変動区分
  1.3 曲がり損なう日本経済
  1.4 まず頭に入れておいてほしいこと

第2講 準備:最小限のモデルとデータ
  2.1 マクロ経済理論の基礎:価格調整か数量調整か
  2.2 目の子で把握するマクロ変数
  2.3 経済変数の変化率:脱経済成長は可能か

第3講 景気循環パターンの実務家的把握
  3.1 二段ロケットでとらえる景気循環パターン
  3.2 景気の山谷と在庫循環図
  3.3 労働保蔵と規模の経済
  3.4 実務家思考の4つの問題点

第4講 停滞の真因:貯蓄主体化した日本企業
  4.1 増大する企業貯蓄と3つの吸収手段
  4.2 先行できない設備投資
  4.3 企業ガバナンスの「本音」と「建前」
  4.4 まず「できること」は賃上げ

第5講 好循環をもたらすマクロのリンク:家計への波及
  5.1 マクロ経験法則
  5.2 労働市場への数量的リンク:オークンの法則
  5.3 名目体系と物価へのリンク:フィリップス曲線
  5.4 持続的な好循環をもたらすために「できること」

第6講 金融(1):デフレーションと貨幣数量説
  6.1 貨幣は万能引換券
  6.2 貨幣数量説はどのくらい当てはまるのか
  6.3 信用創造の教科書的説明
  6.4 ゼロ金利政策と量的緩和の具体的意味
  6.5 ニューケインジアンモデルは何をとらえているか
  補論 貨幣数量説の成り立ちと日本経済

第7講 国際貿易構造の中の日本経済
  7.1 国際的側面の2つの論争点
  7.2 国際収支の直観的理解
  7.3 日本の貿易構造:ものづくり国家とは何か
  7.4 連動する世界景気と日本の選択

第8講 国際金融市場が課すグローバルな制約
  8.1 実質利子率均等化と金融政策の限界
  8.2 誤算:なぜ予想インフレ率が高まらないのか
  8.3 資産価格変動の海外からの波及
  8.4 国内で「できること」と「できないこと」

第9講 金融(2):アベノミクスの誤算と異次元緩和―なぜ物価は上がらなかったか―
  9.1 リフレ派の日銀乗っ取り劇
  9.2 日銀理論からの反論
  9.3 異次元緩和の出口戦略
  9.4 金融政策で「できること」と「できないこと」

第10講 労働市場(1):格差社会と非正規雇用
  10.1 非正規雇用と格差社会
  10.2 失業率と非正規雇用の推移
  10.3 兼業農家化する非正規雇用
  10.4 女性労働とM字型カーブ
  10.5 個別紛争はリストラからハラスメントへ

第11講 労働市場(2):賃上げはなぜ必要か
  11.1 大企業の内部労働市場
  11.2 マクロ的労働慣行と春闘
  11.3 労働市場改革:マクロで「できること」ミクロで「できること」

第12講 政府の役割と財政危機
  12.1 財政の現状
  12.2 急性危機と慢性衰退の区別
  12.3 慢性衰退とフローとストックの誤差
  12.4 財政健全化のために「できること」

第13講 人口減少と年金維持
  13.1 社会保障の手段:勤労かベーシックインカムか
  13.2 公的年金の三階建ての構造
  13.3 少子化と家庭の変容
  13.4 やれば「できる」少子化克服

第14講 地方経済の「壊死」と医療介護の疲弊
  14.1 地方経済の壊死
  14.2 情報の非対称性から見た医療と介護
  14.3 地方の福祉で「できること」

第15講 日本経済に何をなすべきか
  15.1 経済政策の誤算
  15.2 経済学的分析の問題点
  15.3 政策的に「できること」と「できないこと」
  15.4 長期的な政策:イノベーションと分配

首藤若菜『物流危機は終わらない』

427327首藤若菜さんより『物流危機は終わらない 暮らしを支える労働のゆくえ』(岩波新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b427327.html

ネット通販時代のインフラと化した宅配が止まる? ヤマトショックは物流危機を顕在化させた.その真の原因は,物流現場の労働問題にあった! トラックドライバーの過酷な現実と様々な統計調査から,現代日本が直面した危機の実態を明らかにする.社会を維持するコストを負担するのは誰なのかを真剣に議論するときが来た.

首藤さんの嗅覚はすごい。昨年『グローバル化の中の労使関係』で労働関係図書優秀賞を受賞したと思ったら、今度はトラック運転手の労働問題です。

今日の日本社会で、総体としていちばん長時間労働を強いられ、いちばん過労死している職種でありながら、自分の同類の裁量制やら高度プロフェッショナルのことしかあんまり関心のないインテリ連中からは、どちらかというと軽視されてきた分野ですからね。

首藤さんの叙述は決して何か悪者を作り上げて叩けばいいというようなものではなく、物流業界の構造的な問題を淡々と、しかしねちっこく追及していきます。

・・・そして私たちも、宅配便の利用者という意味で、荷主の一人である。私たちが、不在連絡票を受け取ることに罪悪感を覚え、極力それを減らそうと行動すれば、それは「荷主の理解」や「荷主の協力」が進んだことを意味する。だが私たちの大半は、そのために具体的な行動をとっていない。

私たちの社会には、顧客や取引先の都合に合わせて、自らの労働時間を柔軟に調整し、その期待に応えようと融通を利かせながら働いている労働者が、数多く存在する。これは、トラックドライバーだけの話ではない。「お客様のために」「顧客の言うことは絶対」といった考えのもと、労働者が、自信の働き方を調整する姿は至るところで見られる。そして消費者としての私たちは、そのようにして生み出された商品やサービスを、ごく当たり前のこととして受け取り、日々の生活を送っている。

本書の最後の第5章では、本ブログで何回も取り上げてきた生産性の話がでてきます。

・・・日本の宅配業界の労働生産性の低さの一因は、価格に対して過剰に品質の高いサービスが提供されていること、もしくはサービス品質に見合わない安い価格が設定されていることにある。

ところが、適正な運賃をといっても、それは独禁法違反になりかねない。首藤さんはそこで最低賃金の出番だと言います。

・・・事業者は他社と共同して一斉に運賃を引き上げることはできないが、一斉に賃金を引き上げることはできる。すなわち、運賃はカルテルを結べないが、賃金は合法的にカルテルを行いうる。

運賃の適正化を実現するために、そして事業の公正な競争を確保するために、この仕組みを利用することは有効であろう。つまり、人手不足を解消するためにも、運賃を引き上げていくためにも、業界全体で賃金を上昇させ、それを通じて運賃の値上げを求めていく。・・・・

本ブログでこれまた百万回繰り返しているように、労働組合とは何よりも労働市場におけるカルテルであり、それによって社会の安定を実現する存在なのです。

はじめに

第1章 宅配が止まる?  ――ヤマト・ショックから考える
 1 ヤマト運輸の「サービス残業」問題
 2 「即日配達」と「送料無料」――ネット通販以後
 3 「お客様のために」――形骸化していったルール
 4 社会を維持するコスト

第2章 休めない,支払われない,守られない――トラックドライバーの現実
 1 物流の九割を占める日本経済の黒衣
 2 ドライバーを取り囲む法制度の「抜け穴」

第3章 悩む物流――なぜこんなに安く荷物が届くのか
 1 激化する業界競争
 2 賃金の低下と成果主義の強化
 3 物流二法は何をもたらしたか

第4章 経済のインフラを維持できるか――持続可能性の危機
 1 危機の解決策はあるのか
 2 深刻化した人手不足
 3 「適正な料金」に向けて
 4 運賃が先か,賃金が先か
 5 荷主を巻き込む

第5章 物流危機が問いかけるもの
 1 「適正」な企業が淘汰され,「不適正」な企業がはびこる
 2 「高い質を安い価格で」の限界
 3 ルールづくりの重要性

あとがき

【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」

というわけで、安西事務所から独立してますます八面六臂の倉重さんが、今度は労務屋こと荻野勝彦さんと対談しています。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kurashigekotaro/20181226-00109021/

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これ、この先には私も登場しますのでよろしく。なお、荻野さんも含めた別の座談会というのもあって、そちらも乞うご期待だったりします。

しかし、この八面六臂神出鬼没の合間をぬって、本業の経営法曹としての仕事を山のようにこなしつつ、例の不当懲戒請求事件の代理人までやっているんですから、どういう神経をしているのやら、皆目見当も付きません。

2018年12月25日 (火)

不当懲戒請求事件の代理人に倉重さんが

先日、都内某所で独立したばかりの倉重公太朗さんらと痛飲する機会がありましたが、そのとき倉重さんが、例の余命三年何某の煽った不当懲戒請求事件の代理人をやっているんだという話をされて、いやぁ法廷では労働弁護士対経営法曹として常に対決しあっている方々が、ことこういう問題では熱い連帯精神でやるんだなあ、と感じ入ったものです。

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確かに佐々木亮さんは、たまたま右翼ご用達出版社になってしまった青林堂の従業員の労働問題に労働弁護士としてかかわったことでその出版社の出版物の傾向に多大な共感を有する人に狙い撃ちされてしまったわけですから、ベクトルの向きを逆にして同じようなことは経営法曹にもありうるわけで、そういうのは許されないと示しをつけておくことは、どの立場の弁護士であれ必要なことに違いはないでしょう。

ちなみに、倉重さんとの対談は大変面白い代物に仕上がっておりますので、乞うご期待ということで。

残業1時間とはどういう生活?

201901_02 JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』1・2月号は、「働き方改革の課題と展望」が特集で、11月29日の労働政策フォーラムの講演やパネル・ディスカッションが載っています。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2019/01_02/index.html

【基調講演】樋口美雄・労働政策研究・研修機構理事長

【事例報告①】働き方改革の推進―意識改革、風土醸成をめざして
全日本空輸
【事例報告②】どうすれば生産性が上がるか?―カルビーの「働き方改革」
カルビー
【事例報告③】SCSKの働き方改革―職場の変化
SCSKユニオン
【事例報告④】労使で取り組む働き方改革―生きがい・働きがいの向上を目指して
味の素労組

【パネルディスカッション】コーデイネーター:佐藤博樹・中央大学大学院教授

このパネルディスカッションの冒頭で、佐藤博樹さんがコーディネーターとは思えないくらい長い演説をしていまして、それが実は大変鋭い議論になっています。

働き方改革とはどういうことかということを、具体的な時間を示して大変わかりやすく説明しています。こういうのを見ると、やはり佐藤先生はすごいですね。

・・・例えば月平均45時間の残業があった会社が、1日平均1時間の残業まで削減して、月平均25時間になった。では毎日1時間の残業とはどういう生活なのか。

所定労働時間が1日8時間で昼休みが1時間、さらに通勤時間が片道1時間という生活を考えると、朝6時半ごろに起き、8時前に家を出て、会社に9時少し前に着く。1時間残業して19時過ぎに会社を出て、家に帰ってくると20時過ぎになる生活になります。単身者であれば、それから食事の準備をすると、夕食は21時前ごろになります。そして、食事の後片付けが終わると22時で、テレビを見て23時半に寝ても睡眠時間は7時間です。1時間の残業でも、こういう生活になり、平日にゆとりがなくなる。そうすると土曜日は昼頃まで寝て、洗濯、買い物、掃除をするだけで、日曜日も面倒くさくなって家でゴロゴロしてしまう。

また、夫婦ともにフルタイムで働いているカップルで、子供が小学校1年生の場合、妻は短時間勤務か残業免除で18時ごろに帰宅し、子供には19時ごろ夕食を食べさせる。食事の片づけが終わったころに1時間残業した夫は帰ってくることになります。また食事の準備になります。これは困りますね。

ここから言えるのは、例えば小学生の子供がいる共働き夫婦の場合、平日に子供と一緒に夕食を食べようと思うと、残業1時間でも難しいのです。・・・

まったくシンプルな算数なんですが、残業を論じるとき、こういう具体的な時刻の感覚があるかどうかが結構重要なはずです。

今月号ではもう一つ、この特別企画も注目記事です。

地方自治体におけるメンタルヘルス不調者への取り組み
―業務遂行レベルに着目した対応の効果と今後の展開
【事例1】職員に「守られている」イメージを持たせたい
玉野市
【事例2】メンタルヘルス対応を誰でもできる仕事に
瀬戸内市
【事例3】人事主導の対応で職場との関わりも
津山市
【事例4】様式が客観的な状況把握の資料に
岡山県
【事例5】関係者が同じ方向を向いて対応する安心感が
岡山市
【コメント】公務員への対応に適する「復帰基準の明確化」と「復帰手順の透明化」
岡山大学・高尾総司医師

この最後の高尾総司さんの名前でピンときた方もいるでしょうが、これ例の高尾メソッドの実践例なんですね。

『JIL雑誌』2019年1月号

702_01『JIL雑誌』2019年1月号は前号に引続き「働き方改革シリーズ」の第2弾で、「労働時間」が特集です。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2019/01/index.html

提言 裁量労働制の見直しに必要なこと 山口浩一郎(上智大学名誉教授)

解題 働き方改革シリーズ2「労働時間」編集委員会

論文 労働時間規制改革の法的分析 和田肇(名古屋大学教授)

EU労働時間指令2003/88/ECの適用範囲と柔軟性─沿革と目的、そして基本権を踏まえて 井川志郎(山口大学講師)

働き方改革関連法による長時間労働是正の効果 山本勲(慶應義塾大学教授)

労働時間の規制改革と企業の対応 小倉一哉(早稲田大学教授)

紹介 トラック運輸の長時間労働改善の取り組み 浅井邦茂(全日本運輸産業労働組合連合会副部長)

論文 働き方改革関連法の審議と労使関係─労働時間法制について 戎野淑子(立正大学教授)

ここでは、先日『EU経済統合における労働法の課題』をお送りいただいたばかりの井川志郎さんがEU労働時間指令について書かれています。

本稿は、EU労働時間指令2003/88/ECの適用範囲と柔軟性(あるいは硬直性)を探るために関連規定を整理検討し、また、特に適用除外をめぐっては労働時間にかかる労働者の基本権を無視することはできないとの認識から、EU労働時間法の基盤となっている基本権についても論ずるものである。かかる検討の前提として、上記指令の沿革や目的の確認も行う。結果として、①指令の目的はその発展史の特殊性ゆえ限定的であること(あくまで労働者の安全と健康)、②それにも拘わらず(あるいはそれゆえに)その適用除外・柔軟化規定の解釈は厳格に解されるべきとされていること、③特に適用除外制度については、労働時間にかかる労働者の基本権への適合性が問題となること、④当該基本権がEUでは明文化されているところに特徴があること(EU基本権憲章31条2項)、⑤しかし、当該基本権の淵源はEU法上法的拘束力を有するわけではない条約や政治的宣言そして第二次法たる指令立法であることに鑑みると、明文化を待たずともEU法上はかかる基本権が認められたはずであること、といった諸点を指摘する。わが国の労働時間をめぐる政策議論においても、規制目的および人権・基本権を踏まえた考察が望まれる。

本ブログでも折に触れ論じてきたこととの関係では、戎野さんの論文がなかなか面白いです。

歴史的改革ともいわれる働き方改革関連法が2018年6月に成立した。安倍総理大臣を議長とし、労働界、産業界のトップならびに有識者等からなる「働き方改革実現会議」が設立され、「働き方改革実行計画」が示されて進められたものである。政府が主導的役割を果たし、労働政策を決定する状況は、既におよそ20年に及ぶが、「働き方改革関連法」もまさに同様な傾向にあるものであった。しかし、本法案は、審議過程で様々な混乱が生じ、成立に至るまでには紆余曲折を経ることとなった。これまでの労働政策審議会で審議が紛糾し進展しなかった内容も含まれた一括法であったことが、その一因である。本稿では、まず、働き方改革関連法の中から「労働時間法制」、具体的には「時間外労働の上限規制」と「企画業務型裁量労働制の見直し(対象業務の拡大等)」、「高度プロフェッショナル制度の創設」を取り上げ、その審議過程を整理し、特徴を明らかにした。それぞれの審議の経緯には相違があり、労使の合意レベルにも違いがあった。そして、次に、なぜ、このような政府主導の政策決定の審議となっているのか、その原因について、労使関係論の視点から、労使関係の変容と労働政策審議会の審議の在り方に焦点を当て検討を行い、そこにおける課題について論じている。

ここでいう「労使関係」とは政策決定プロセスにおける三者構成原則との関係の問題です。そう、『日本の労働法政策』では制度的な視点から考察した問題を、日本的労使関係の変容という視点から解きほぐそうという論考で、労働時間の特集号を超えた射程を持った論文だと思います。

あと、本号の巻頭には、稲上毅さんによるドーア先生への追悼文が載っています。これは今でもネット上で全文読めますので、是非下のリンク先に飛んで下さい。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2019/01/pdf/001-002.pdf

昔のものから最近のものまで、その諸著書の意義を語っていく追悼文の最後あたりに、たぶんあまり読まれていないであろう小エッセイを取り上げた一節があります。

・・・ドーアの青々とした森は大きく深い。そのあまり知られていない仕事のなかに国際政治にかんする時宜を得たシャープな評論がある。戦争を含むすべての暴力の13 世紀以降の超長期的衰退傾向を主張するスティーヴン・ピンカーの『暴力の人類史』を取り上げて批判的に論評した『不平譚』の最終章「人間の進歩か?」の末尾でドーアはこう記している─,ウィーン会議(1815 年),ヴェルサイユ会議(1919 年),サンフランシスコ会議(1945 年)という3 つの貴重な経験を積み重ねることで,人類は戦争の勝者と敗者を対等に取り扱う国際秩序システム構築への歩みを続けてきた。しかし,いま21 世紀のはじめ,新冷戦構造の生成が懸念されるなかで,「第4 の決定的な一歩は,世界のヘゲモニーをめぐるもうひとつの破壊的戦争のあとにしか訪れないのだろうか」と。・・・

あぁ、ドーア先生、そんなことも言ってたんだ・・・。

労働の文明史をざっくり削除したわけ

11021851_5bdc1e379a12a『日本の労働法政策』について、マシナリさんに感想を書いていただいているのですが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-767.html(政策過程論の基本書)

・・・というマクラからで大変恐縮なのですが、hamachan先生の『日本の労働政策』第二版(?)を拝読…というより入手しました。いやまあこの厚さはまさに枕…などと失礼極まりないこといっている場合ではありませんで、2004年に発行された第一版(?)の倍以上のページ数となっておりまして、ハードカバーのためイメージ的には3倍近くの厚さではないかと感じます。それでいて第一版の4,800円(税別)に対して3,889円(税別)という大変お買い得なお値段でして、早速近所の書店で取り寄せして入手した次第です。

個人的には、第一版の冒頭で「労働法政策の序章という位置づけではなく,内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである」と宣言して異彩を放っていた「労働の文明史」がどのように改訂されているのかに注目していたのですが、残念ながら第二版では丸々カットされてしまっていました。まあ、「文明史」ですから10年程度の間隔でその都度改訂する必要はないとも思うのですが、その最後の部分でのこの見通しについては、引き続き意識していくべきではないかと思うところです。・・・

4623040720と、前著『労働法政策』の冒頭25ページほどを占めていた「第1章 労働の文明史」が綺麗さっぱり削除されていることにコメントされていました。

ここはまあ、正直、「日本の」労働法政策の本の序説と云うにはあまりにも「場外ホームラン」(@金子良事)な内容でもあり、それこそ世界の労働法政策という本でも書くことがあればその時に入れるべきだろうということで、それでなくてもページ数が膨大になりすぎていたこともありざっくり削除したのです。

ただ、あらためて第1章に昇格した「近代日本労働法政策の諸段階」を読み返すと、いくつか旧第1章を前提にして説明なしにやや特別なタームを使っていることろがありました。

19世紀システムとか、20世紀システムという言葉自体、やや唐突感がありますし、フォーディズムとかケインジアン福祉国家とかも、分かる人には分かるけど、も少し説明を入れた方が良かったかも知れません。

2018年12月24日 (月)

石井保雄『わが国労働法学の史的展開』

415835 石井保雄『わが国労働法学の史的展開』(信山社)をお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b415835.html

本書は他にほとんど類のない労働法学史、あるいは労働法思想史というべきジャンルの畢生の大著です。

末弘厳太郎、孫田秀春、菊池勇夫……主たる学者の主張や背景事情を考察、労働法学が辿った過程を追跡し、学問的意義を明らかにする。

本書に出てくる戦前から戦時中、そして戦争直後の労働法学者の名前を知っている人自体、日本労働法学会の人の中ですらあんまりいないのではないでしょうか。多くの人にとって、おそらく聞いたことがあるというのは末広厳太郎くらいではないか。

詳しい目次は下にコピペしますが、本書に出てくる労働法学者を列挙して、知っている人が何人いるか数えてみてください。

末弘厳太郎、孫田秀春、森山武市郎、木義男、中村武、永井亨、菊池勇夫、津曲蔵之丞、後藤清、吾妻光俊、浅井清信

これって、あれだな、『独協法学』に連載していた論文をまとめたものだな、と思った人もいるでしょう。労働問題リサーチセンターの2016年度の沖永賞を、大木正俊さんのイタリア均等待遇の本と一緒に受賞したのが、 石井さんの末弘,後藤を扱った論文でした。私は正直この時、ほかの労働法学者も続々と取り上げているのになぜその2論文だけなんだろうと思ったのですが、その理由は、

ちなみに、著者(石井)には、末弘、後藤のほか、吾妻光俊、有泉亨、浅井清信、 津曲蔵之丞、菊池勇夫、孫田秀春についての詳細な研究があります。  そのなかで、今回、末弘厳太郎、後藤清にかんする考察のみを審査対象といたし ましたのは、ふたつの論文のみが平成 28 年度の審査対象期間に入っているためで あることを申し添えておきたいと思います。

ということでした。受賞ということで言えば、こうして一冊の大著にまとめられてからのほうがよりふさわしかったかもしれません。

ところが、実は本書は各労働法学者を扱った各論文をそのまままとめたものではありません。下の目次を見ればわかるように、それらをいったん解きほぐし、戦前から戦時中、戦争直後という日本社会の時代の流れの中にそれぞれの人々をはめ込みなおして論じるという、大作業をやっています。

法学には実用法学としての法解釈学のほかに、基礎法学として法制史学、法学史学、法社会学などがありますが、労働法という分野の中ではそれらに相当するものはあんまりありません。たまたま石井さんの本と相前後して出たわたくしの『日本の労働法政策』は、いわば労働法制史のテキストブックですが、同じ歴史といっても労働法学の歴史を探る本書のような試みは、なおさら他に類のない業績といえるでしょう。

石井さんの本が扱っている時期は、わたくしの本の時代区分で言うと、戦前の「自由主義の時代」から戦中戦後の「社会主義の時代」に相当しますが、その時代の激変の中で生まれたばかりの労働法学がどのような苦悩を潜り抜けていったのかが、本書を読むことで改めて印象付けられました。

はしがき 

◆序 章◆ 本書の課題と時期区分

1 本書の課題―わが国労働法学の黎明
2 検討の時期区分について
⑴ 具体的な検討対象の年齢範囲について―労働法学における「世代論」に関連させて
⑵ 戦前・戦時期労働法学の時期区分とそこでの課題
⑶ 本書の構成と概要

◆第1章◆ わが国労働法学の生誕―大正デモクラシー期の末弘厳太郎と孫田秀春

◆第1節 末弘の米欧における在外研究と孫田秀春との邂逅
1 末弘の米欧留学の経
2 スイス・ベルンにおける末弘と孫田との邂逅
◆第2節 忘れられた労働法学徒―ワイマール・ドイツにおける日本人研究者
⑴ 森山武市郎―明治大学出身の検察官
⑵ 鈴木義男―東北帝大の初代社会法講義担当者
⑶ 中村武―中央大学出身の裁判官
◆第3節 末弘『労働法研究』の刊行とその意義―労働組合法の立法論をめぐって   
1 帰国後の労働法関連論考の公刊と『労働法研究』への収斂
2 末弘の労働組合法に関する立法批判
⑴ 労働組合法制定時期の到来
⑵ 末弘の「立法学」とは何か
⑶ 「労働組合法論」における議論―労働組合に対する法的対応の歴史展開
⑷ 大正14年8月18日の内務省社会局法案に対するコメント
⑸ 行政調査会の労組法要綱と組合法案に対する批判
3 末弘の組合法案への接近態度―山中篤太郎『日本労働組合法案研究』(1926)と永井亨『労働組合法論』(同年)との比較
◆第4節 孫田の東京商大における「労働法」開講と労働法学の体系実現の志向
1 孫田の東京商大における「労働法」開講
2 労働法学の体系実現の志向―末弘との方法論的対立
◆第5節 末弘による労働問題に関する社会評論家としての言動―大正デモクラシーの残照のなかで   
1 末弘に係わる昭和年代初期の社会動向   
2 末弘の労働問題に関する社会評論家としての言動の変化

◆第2章◆ 昭和年代初期「非常時」における労働法学―1931年9月~1937年7月 

◆第1節 新たな労働法学徒の出現―菊池勇夫と津曲蔵之丞そして後藤清
1 菊池勇夫の九州帝大赴任までの「旅路」
⑴ 芹沢光治良との出会いとILO勤務
⑵ 九州帝国大学における「法文学部」の設置
⑶ 欧州への「社会法研究」の旅路
2 後藤清の洋行経験―労働法学徒としての出発
⑴ 和歌山高商への赴任
⑵ ドイツおよびフランスでの海外留学経験
3 津曲蔵之丞の青春遍歴―京城帝国大学助教授着任まで
◆第2節 内務省社会局の労働組合法案をめぐる講演会と孫田「労働法」講義への圧力   
◆第3節 九州帝大赴任当初の菊池勇夫における四つの法的課題
1 社会法とは何か,その法学体系の中の地位の把握への試行―第1の課題
2 『日本労働立法の発展』と『労働法の主要問題』における,その他の課題への応答
⑴ 『日本労働立法の発展』と『労働法の主要問題』の刊行
⑵ 労働法の主要問題,特に労働契約の本質と労働保護法の本質理解―第2の課題
⑶ 九州帝大の立地条件と結びついた石炭鉱業関係の研究―第3の課題
⑷ 国際労働問題,特にILOの研究―第4の課題
◆第4節 津曲蔵之丞『労働法原理』(改造社)の刊行―1932年
1 日本国外に設けられた第6番目の帝国大学としての京城帝国大学
2 津曲の『労働法原理』の刊行
⑴ 『労働法原理』の構成と概要
⑵ 津曲『労働法原理』の方法的特徴
⑶ 労働法の理解の中核―労働の従属性―の把握
3 津曲の従属労働理解に関する評価
4 津曲の欧州への渡航
◆第5節 後藤清における初期の研究課題―労働協約論と解約告知論
1 ドイツを中心とした労働協約理論の研究―『労働協約理論史』への結実
⑴ 『労働協約理論史』の概要
⑵ 『労働協約理論史』にいたる道程および立命館大学への学位請求とその挫折
2 『解雇・退職の法律学的研究』―雇用契約の終了をめぐって
⑴ 『解雇・退職の法律学的研究』の構成と成り立ちの経緯
⑵ 『解雇・退職の法律学的研究』の内容
3 昭和10年前後における社会立法の動向と後藤の問題関心の所在
⑴ 退職手当積立制度を中心とした社会立法への関心
⑵ 退職積立金法の成立と『退職積立金及退職手当法論』の刊行
⑶ 二つの社会立法に関する概説書の執筆
◆第6節 末弘と孫田のナチス・ドイツ体験とこれに対する応接
1 末弘の学部長職の辞職と半年間の欧州視察旅行
2 孫田の在ベルリン「日本学会」代表主事赴任と「白票事件」―東京商大退官の経緯
3 帰国後の孫田の親ナチス・ドイツの言動

◆第3章◆ 準戦時から国家総動員体制への展開のなかでの社会・労働法学―1937年7月~1941年12月

◆第1節 末弘厳太郎と孫田秀春の国家総動員法体制下における労働法学からの離脱   
1 末弘における戦争遂行体制の推進への姿勢転換と労働法学からの離脱
⑴ 「安定原理の労働政策と労働法」稿と末弘の国家総動員体制への積極的姿勢転換
⑵ 「転換のステップの完成」か,それとも急速な右旋回か
⑶ 日中戦争の勃発と末弘労働法学の終焉へ
⑷ 占領地華北慣行調査の提唱と「日本法学」構築への応用
2 孫田の東京商大退官以後の言動―研究活動の終息
◆第2節 菊池勇夫の『社会保険法と社会事業法』に表(現)われた社会立法理解
1 社会事業法と社会保険法への関心と戦後の論文集刊行
2 社会事業法の形成への寄与
◆第3節 津曲蔵之丞の労働法から経済法への関心転移
1 津曲の京城帝大から東北帝大への転任
⑴ 東北帝国大学法文学部と「社会法論」講座 )
⑵ 津曲の東北帝大法文学部着任
⑶ 東北帝大「社会法論」担当・石崎政一郎
2 津曲の『労働法原理』から『日本統制経済法』への転進の途次
⑴ 津曲「経済法規違反行為の効力」を読む
⑵ 「朝鮮産業法規解説」を読む
◆第4節 菊池勇夫における経済法理解―経済統制法から統制経済法への転回
1 『経済法の理論と対象』への収録を予定した論稿群
2 菊池の「経済法」理解の変遷
⑴ 経済統制法か統制経済法か―経済法の概念把握のあり方
⑵ 非常時の経済法とは何か
⑶ 経済統制法から統制経済法への転移
◆第5節 後藤清の転換期への法理対応
1 後藤におけるドイツ労働法学研究の転回―『労働法と時代精神』と『転換期の法思想』   
⑴ 『労働法の時代精神』第二部の構成論稿
⑵ 後藤における「転換期の法律思想」とは何か
2 後藤の「転換期」における労働法学―「厚生法」の提唱
⑴ 台北帝国大学文政学部政学科の概要
⑵ 「転換期」における後藤の労働法学
⑶ 「厚生法」の提唱
3 後藤における統制経済法と「厚生法」理解の進展
⑴ 『統制経済法と厚生法』の刊行
⑵ 後藤における「統制経済法と厚生法」の関係理解の概要 )
◆第6節 菊池勇夫における社会法理解の変遷―「非常時」「高度国防国家」体制そして「臨戦体制」への展開のなかで
1 菊池における「社会法」理解の提言―『労働法の主要問題』序言
2 戦時期における菊池の「社会法」理解の変遷
◆第7節 吾妻光俊と『ナチス民法学の精神』
1 吾妻のナチス時代のドイツ民法研究
⑴ 吾妻のドイツ留学
⑵ 吾妻のドイツ法に関する公刊文献リスト
⑶ 我妻栄によるナチス民法学研究
2 吾妻光俊と『ナチス民法学の精神』
⑴ 『ナチス民法学の精神』の構成
⑵ 吾妻光俊『ナチス民法学の精神』の内容
3 吾妻のナチス民法学に対する評価態度と我妻栄による批判

◆第4章◆ 太平洋戦争下の社会・労働法学―総力戦遂行の実現をめざして(1941年12月~1945年8月) 

◆第1節 津曲における統制経済法の体系提示―『日本統制経済法』の刊行
1 『日本統制経済法』の構成と内容
2 経営共同体としての企業把握と「公益優先」
3 『日本統制経済法』への評価―統制経済法について,法分野としての独自性を肯定すべきか否か
4 石崎政一郎の統制経済法への眼差し
◆第2節 後藤における戦時労働力総動員体制の積極的推進の唱導
1 「厚生法」から労務統制法へ―『厚生法』の改訂と『労務統制法』
⑴ 厚生法理解の進展―新版『厚生法』について
⑵ 労務統制法の体系的構成の実現―『労務統制法』について
⑶ 労務統制法における労務「保護」「管理」法への接近
2 総力戦への最終的提言―『労務統制法』改訂増補版の刊行
3 浅井清信の国民徴用に関する発言―「労務統制立法の課題―とくに雇用契約と国民徴用とを中心として」
◆第3節 吾妻光俊における「経済統制法の法理論」―『統制経済の法理論』(河出書房・1944)の検討
1 統制経済法体制の進展
2 統制経済法体制のもとでのわが国私法学
⑴ 民法学説の統制法のもとでの対応―末川博,石田文次郎そして我妻栄の場合
⑵ 統制経済法体制のもとでの民法の存在意義をいかに捉えるべきか
3 吾妻光俊『統制経済の法理論』を読む
⑴ 『統制経済の法理論』第二篇の概要
⑵ 『統制経済の法理論』第一篇の概要
◆第4節 社会保障法に関する理解の展開―菊池勇夫と後藤清の議論
1 菊池勇夫の厚生事業法と社会保険法理解
⑴ 厚生事業法
⑵ 社会保険法に関する法的理解
2 後藤の「厚生法」から厚生事業法についての言及と理解
◆第5節 決戦体制下での「日本的勤労観」と勤労根本法
1 「勤労新体制確立要綱」に対する反応―浅井清信,孫田秀春および菊池勇夫の場合   
⑴ 浅井清信の「皇国勤労観」理解
⑵ 「皇国勤労観」と孫田秀春,菊池勇夫
⑶ 「皇国勤労観」と「皇国史観」そして浅井清信・再び
2 後藤『勤労体制の法的構造』の概要
3 浅井清信「皇国勤労観と国民協力制度」を読む―戦争末期時の「国民勤労協力」のあり方
4 津曲『勤労法における指導理念』の刊行と提唱
5 昭和18年政府による勤労根本法制定の企図と挫折
⑴ 勤労根本法制定の動き
⑵ 末弘厳太郎の勤労根本法制定への賛意
⑶ 吾妻光俊の勤労根本法に対する懐疑と制定の挫折
◆第6節 昭和19年夏以降の吾妻光俊―『統制経済の法理論』以降
◆補 節 末弘の労働法学から法社会学への関心転移と「日本法理」樹立の熱望
⑴ 法社会学への関心転移―占領地華北慣行調査の提唱と「日本法学」構築への応用
⑵ 統制経済の実効性確保の可能性
⑶ 「日本法理研究会」への積極的な関与

◆補 章◆ わが国労働法学の体系化の試行

◆第1節 孫田秀春における労働法の体系構築
1 労働法の体系化の試み―『労働法総論』(1924)の刊行
2 『労働法論 各論上』(1929)の刊行と同書改訂合本化(1931)
⑴ 『労働法論 各論上』(1929)の刊行
⑵ 『改訂労働法総論・各論上』(1931)の刊行
⑶ 『各論上』に関する旧版と改訂版―労働契約部分に着目して
3 孫田における早期の労働法学体系実現の背景と経緯
◆第2節 末弘厳太郎における労働法学の体系的理解
1 大正デモクラシー体制のもとでの労働法体系理解
⑴ 昭和年代初期の労働法体系理解
⑵ 昭和初期の労働法体系理解の完成
2 昭和10年代初頭,戦時体制の影響が少ない時期の体系理解
⑴ 経済往来=日本評論連載の「労働法講話」の意義
⑵ 昭和11年度『労働法』第1分冊・第2分冊(1935〔昭和10〕年)と昭和13年度『労働法』(1937〔昭和12〕年)
3 末弘の戦時体制下での体系理解
4 孫田のそれと比べた末弘の労働法体系の特徴ともう一つの講義録
◆第3節 菊池勇夫における平時労働法と戦時労働法
1 菊池勇夫の平時の労働法制   
2 菊池勇夫の戦時の労働法制   
⑴ 「転換期における社会・経済法」のあり方
⑵ 「現代労働法の基礎理論」(1942〔昭和17〕年5月)の公刊―「転換期の労働法」の体系化
◆第4節 津曲蔵之丞の決戦態勢のもとでの勤労法体系の素描
◆第5節 小 括   

◆第5章◆ 労働法学の再出発―敗戦とそれぞれの対応(1946年~1951年)

◆第1節 戦後・末弘厳太郎における陽と陰―労働三法制定への関与と労働法の啓蒙・普及活動そして教職追放   
1 労働三法制定への関与と労働法の啓蒙・普及活動   
⑴ 労働三法制定への関与と「立法学」の提唱
⑵ 『労働法のはなし』と『労働運動と労働組合法』そして『労組問答』―労働法の啓蒙活動
⑶ 各種労働委員会会長としての労働紛争解決に関する貢献
2 末弘に対する教職追放とその評価
⑴ GHQ,そして日本政府による教職追放
⑵ 「日本法理研究会」への関与と反論そしてその後の展開
⑶ 末弘教職追放に関する理解と評価
3 戦後・末弘労働法学における未完の可能性
⑴ アメリカ労働省の招きによる60日間の訪米旅行
⑵ 『日本労働組合運動史』の執筆と刊行
4 末弘の闘病と逝去   
⑴ 中労委会長辞任と直腸がんによる入院
⑵ がん手術後の業績―戦後労働法学への遺言
⑶ 逝 去
〈戦時期末期における末弘の言動についての補遺〉
◆第2節 労働法学徒における敗戦と戦後のあいだ   
1 孫田秀春の公職および教職追放
⑴ 孫田に対する公職・教職追放
⑵ 戦後に続く労働法の理念としての「労働人格完成」の唱導
⑶ 沼田稲次郎による孫田「労働人格の完成」理解
2 菊池勇夫―戦後に続く「社会法」把握への志向継続とその意味
⑴ 戦時期末期から戦後直後における大学行政への関与
⑵ 戦後に続く「社会法」の追究
3 敗戦直後の津曲蔵之丞の言動と石崎政一郎の対応
⑴ 敗戦直後の津曲と石崎の対応
⑵ 津曲の戦時期の言動についての弁明―戦後への再出発
4 敗戦直後における後藤清の言動と「加山宗二」による労働法学者批判
⑴ 敗戦直後の後藤の言動
⑵ 相次ぐ啓蒙書と概説書の刊行
⑶ 後藤による戦時期の言動への言及と弁解
⑷ 「加山宗二」による労働法学者批判
◆第3節 浅井清信の「戦後労働法学」の前衛への転生
⑴ 浅井は敗戦をどのように迎え,また受け止めたのか
⑵ 浅井の労働法学方法論―「戦後労働法学」の前衛として
◆第4節 吾妻光俊の場合―労働法学の再構築   
1 戦時中の日本法理の方法的反省   
2 「法社会史的研究方法」の提示―アメリカ労働法学研究を通じて

◆終 章◆ 結 語

・引用参考文献一覧(597)

・事項索引(623)
・人名索引(629)

2018年12月23日 (日)

hamachanブログ2018年ランキング発表

今年も年末が近づいてきたので、恒例のhamachanブログ今年のエントリPVランキングの発表を行います。

今年の1位は、お送りいただいた『週刊東洋経済』4月14日号の紹介記事でした。そんなものがなぜ1位になったのかというと:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/414-52d4.html (連鎖する貧困@週刊東洋経済4月14日号 )(10,930PV)

04051444_5ac5b7d90b332 その中にこういう対談があったからなんですね。

前川喜平(前文科次官) × 湯浅誠  (社会運動家) 「子どもの貧困は看過できない」

そしてその対談を引用しつつ、わたくしがこう苦言を呈したのですが。

一点だけやややぶにらみ気味の文句を言うと、前川喜平さんと湯浅誠さんの対談で、前川さんが

高校中退を防ぐのも貧困対策の大事なテーマだ。私が行っていた出会い系バーでも女の子はほとんど中退で・・・

と、言い出したその後に、

中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい。・・・
その一番の要因は数学にあると思っている。・・・論理的思考力を養うために必要というが、それは国語の授業でやったらいい。

などと、ヘタレ文系丸出しの議論を展開してしまっていること。
いやいや、それって、中教審で数学が役に立ったためしがないとかのたまわった某作家女史といっしょじゃない。

世の中には様々な人が、子供が居るという基本を忘れていけません。むしろ、国語で作者の気持ちとか無理矢理やらされて意味わかんないと思っている生徒もいっぱいいるわけで。

アカデミックコースだけしか目に入らない教育論が、かえって事態をこじらせているようにも思います。文部科学事務次官までやった人の言葉の中に、職業高校というコースの積極的意義を語る一言もないのは、現在の教育論の貧困を象徴しているのではないでしょうか。

Ueno 第2位は、上野千鶴子氏が、弟子筋の北田暁大氏による厳しい批判に対して率直に反省したと話題だった「ちづこのブログ」に、それはいささか話の筋を取り違えているんじゃないのかと疑問を呈したエントリでした。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-c283.html (上野千鶴子氏は反省のしどころを間違えているのでは?)(9,731PV)

正直言って、上野さんはより倫理主義的な方向に、つまりあえて言えば無責任に反省しやすい方向にのみ反省してしまった感があります。

私の理解するところ、北田氏による批判は、近年の松尾匡さんやブレイディみかこさんとの鼎談などとも共通の観点から、外国人労働者問題を素材にしつつ、上野氏のいわゆる日本的リベラル特有の「一見やさしさを装った「脱成長」の仮面の下には、根拠なき大衆蔑視と、世界社会における日本の退潮を直視できない団塊インテリの日本信仰、多文化主義への不見識と意志の欠如」をこそ厳しく糾弾するものであったと思われるのですが、上野氏はむしろ、自説が過度に現実主義的であったという批判と受け止め、もっと理想主義的であるべきであったと「反省」してしまっているのです。

外国人問題は、とりわけ労働者の側からするととても難しい問題です。単純に性差別とパラレルに議論できるものではありません。外国人にも日本人と同じ権利を確保すべきという正論は、しかしそれだけでは野放図に安価な外国人労働者を導入したいという経営側の議論に対する歯止めにはならず、結果として欧州諸国に見られるように国内労働者の憤懣を反移民右翼に追いやる結果になりかねません。一方で、ただ外国人を入れるなと言っているだけでも、そうは言っても背に腹は代えられない企業は様々な形で外国人労働力を引き入れていき、結果として日本で過去30年にわたって進んだように、より権利の守られない形での事実上の移民が拡大することになります。

こういうつらいパラドックスの中で、過度に現実主義的になることも過度に理想主義的になることも、同じように無責任なのであり、現実に進んでいく移民拡大をできるだけ労働条件や人権が守られるような形で進んでいくことを確保するためにも、そもそもの入り口論では野放図な導入論を抑える努力が必要となります。「入れるな」ということによって、それにもかかわらず入れるのならこういう条件でなければならないという制約に現実的な力が加わり、入るにしてもその入り方が少しはまともになりうるという政治的な現実感覚を失ってしまうと、「このとき左派やリベラルがやるべきだったのは、もちろん外国人、とりわけ旧植民地出身者に対する差別をやめさせ、彼らの人権を守るように自分たちの社会に働きかけることだった」という安易な倫理的言説に身をゆだねて安心してしまうことになりかねません。

それは、少なくともリアルな政治的判断としては間違っていると私は思います。そして、その間違い方は、まさに北田氏が「経済というのは、社会のすべてではない。権利は大切である。善さも正しさも大切である。しかし正しさが善さによって支えられていることもまた、自然権論者ならぬ社会学者であれば考えなくてはならない。制度の公正性と経済的合理性を分けて考えること自体、社会学者の不遜というものではないか」と、悲痛なまでに上野氏に訴えていたその間違い方を全く同じ方向性を持っているように思われます。

上野氏は、北田氏の批判のもっとも本質的な批判であり傾聴すべき点をあえて耳に入れず、自らの過去の立論からして一番受け入れやすい点、あえていえば本来理想主義的だった私が現実主義にぶれかかったのを正道に戻してくれたという、一番もっともらしく語りやすい点でのみ受け入れて見せたのではないかと思われます。

なので、拙著の帯を書いていただいた恩人ではありますが、「よっ、千両役者!」という掛け声は出てきませんでした。

このエントリはこの通り、上野千鶴子批判でありそれ以上ではありませんが、その中で論じていた外国人問題へのスタンスの取り方の難しさの問題は、今年になって、まさにナショナリズムの傾向を「も」有する安倍政権が、その主たる経済的支持基盤である中小企業経営者たちの強い要求に押されるように外国人技能労働者のかなり大規模な受け入れ政策に舵を切ったときに、いわゆるリベラル派がそれによって労働市場で影響を受けるかもしれない労働者たちの懸念によりも、外国人労働者たちの人権問題に関心を集中していったという一幕においても、まったく同様に示されらのではないかと思います。

いや、もっと悩めよ!と言いたいわけなんですが。

第3位は、OECDの報告書を淡々と紹介しただけのエントリなのですが、やはり世間の関心事とぴたりあったこともあり、多く読まれたようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/oecd-ef9c.html (OECDの『日本の教育政策』)(4,858PV)

Djf51hcwsaauvh8 日本の教育制度の成功を語る上でひとつ極めて重要な特徴が、子どもたちに非常に包括的(全人的)な教育 を効果的に行っているということです。即ち、教員が熟練した能力を持ち、総体的に生徒のケアをよくして いること、生徒が身を入れて協力的な姿勢で学習していること、保護者が教育を重視し、学校外の付加的学 習(学習塾)に支出していること、そして、地域社会が教育を支援しているということです。この独特なモ デルが、日本の教育制度の全側面を基盤として一体となって機能しているのです。

というと、すごくいいことのようですが、その裏面にあるのが、

しかし、このシステムの代償として、教員に極度の長時間労働と高度な責任があり、それによって教員は研 修を受け、新学習指導要領に適応することを困難にしています。現行の学校組織(「チーム学校」)は、教 員の負担を減らし、学校で生徒向けの付加的サービスを提供することを目指しています。一方、学校と地域 社会間の連携・協働関係を強化するという政府の意気込みは、社会人口学的および経済的な変化が日本の教 育モデルのあり方の課題となる一方で、教育への全人的アプローチを維持しようという試みを意味していま す。

このトレードオフは、そう簡単に答えが出せるものではないということのようです。

第4位は、本ブログで時々抄訳しつつ紹介している「ソーシャル・ヨーロッパ」の記事です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-88aa.html (ビットコインは未来の通貨に非ず)(4,707PV)

Pauldegrauwe まず、ビットコインの供給は漸近的に固定されているので、支払い手段としての一般的な利用は恒常的なデフレ(ネガティブなインフレ)をもたらす。その理由は、世界経済は成長し、増加する取引を可能にするために通貨の供給増加が必要であることである。ビットコイン経済でこれを可能にする唯一の方法は、財やサービスのビットコイン価格を引き下げることによってしかない。通貨の数量理論は我々に、ビットコインが使われる流通速度を引き上げることによっても可能であることを示すが、その可能性には限界がある。かくしてビットコイン経済は恒常的なデフレに直面し、決して魅力的な状況ではない。

毎年価格が下落するビットコイン経済では、この楽観主義はネガティブな影響を受ける。価格下落は消費者に購入を延期させ、投資家にプロジェクトを延期させる。これは楽観主義の乏しいおそらく成長の乏しい世界である。

ビットコインが通貨として不適当である第二のもっと深刻な理由がある。実際、それは危険な通貨なのだ。もし世界がビットコインに転換したら、銀行は貸付の必要な家計や企業にビットコインを貸し付け始めるだろう。しかし銀行業はリスクのある事業だ。問題は、ビットコインの供給が固定されており、銀行破綻の時に支援する最後の貸し手がないということだ。そしてこれは起こりうる。たとえビットコインないし他の仮想通貨の供給が恒常的なフリードマンルールに従ったとしてもこの問題を解決しない。

通貨の総量が固定(ないし一定率での増加)されている金融制度では、最後の貸し手のようなものは不可能だ。これは銀行破綻とさらなる経済へのネガティブなドミノ現象をもたらす定期的な銀行危機をもたらす。これは確かに我々が金本位制の黄金期に見たものであり、金本位制は頻繁な銀行危機とそれによる深刻な不況と多大な悲惨で特徴づけられる。再び、ビットコインは金本位制と同様に、過去の代物であって未来のものではない。

より一般的には、ビットコイン経済の問題は必ずや再来するであろう金融危機の際に流動性への逃避が一般化することである。これは中央銀行があらゆる必要な流動性を供給することが必要な時である。それがなければ、われがちに流動性を求めて争う人々は資産を売り、資産デフレをもたらし、多くのものが破産する。ビットコイン経済はこの柔軟性を持たず、それゆえ金融危機に抗することができない。ビットコイン経済は定期的に金融危機を生み出す資本主義制度では持続できない。

日本でも最近ビットコインがだいぶ流行していて、特に野口悠紀雄氏などは理論的な面からビットコイン経済を大変強く推していたりするので、こういうヨーロッパ知識人の意見を紹介するのも意味があるかなと思います。

デ・グラウウェさんも、ビットコインなど仮想通貨の技術的基盤であるブロックチェーンについてはその重要性を認めます。異議を唱えるのは、ビットコインにはそれ自体に本質的な価値があるという信仰なのです。金本位制と同じだという批判は、まさにその点を指摘しているのでしょう。

デ・グラウウェさんはそこに、中央銀行のコントロールが効かない金通貨やビットコインを愛好し、法定不換通貨を邪悪なものとみなす新自由主義のイデオロギーを見出します。

第5位は、ある最高裁の判決を素材にしつつ、顧客によるセクハラについてコメントしたものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-a869.html (お客さまへの笑顔は同意にあらず)(4,001PV)

まず、この原告男性がなにをやったかというと、

被上告人は,勤務時間中である平成26年9月30日午後2時30分頃,上記制服を着用して本件店舗を訪れ,顔見知りであった女性従業員(以下「本件従業員」という。)に飲物を買い与えようとして,自らの左手を本件従業員の右手首に絡めるようにしてショーケースの前まで連れて行き,そこで商品を選ばせた上で,自らの右腕を本件従業員の左腕に絡めて歩き始め,その後間もなく,自らの右手で本件従業員の左手首をつかんで引き寄せ,その指先を制服の上から自らの股間に軽く触れさせた。本件従業員は,被上告人の手を振りほどき,本件店舗の奥に逃げ込んだ。

で、これに対して原審はこう判断して、請求を認容したわけですが、

被上告人による行為1は,以前からの顔見知りに対する行為であり,本件従業員は手や腕を絡められるという身体的接触をされながら終始笑顔で行動しており,これについて渋々ながらも同意していたと認められる。・・・
行為1は,・・・犯罪行為であるが,本件従業員及び本件店舗のオーナーは被上告人の処罰を望んでおらず,そのためもあって被上告人は行為1について警察の捜査の対象にもされていない。・・・
・・・行為1が悪質であり,被上告人の反省の態度が不十分であるなどの事情を踏まえても,停職6月とした本件処分は重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠く。したがって,本件処分は,裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用したものであり,違法である。

最高裁はそれを否定しました。

しかし,上記①については,被上告人と本件従業員はコンビニエンスストアの客と店員の関係にすぎないから,本件従業員が終始笑顔で行動し,被上告人による身体的接触に抵抗を示さなかったとしても,それは,客との間のトラブルを避けるためのものであったとみる余地があり,身体的接触についての同意があったとして,これを被上告人に有利に評価することは相当でない。上記②については,本件従業員及び本件店舗のオーナーが被上告人の処罰を望まないとしても,それは,事情聴取の負担や本件店舗の営業への悪影響等を懸念したことによるものとも解される。

「お客様は神様です」という言葉が、どんな無理無体でも笑顔で受入れなければならないかのように言われる日本社会では、こういう行為に対してやられた女性従業員が終始笑顔で対応し、経営者側も事を荒立てないようにしようという傾向が強いわけですが、それを理由にやった行為がたいしたことでないかのように主張するわけにはいかないよ、というまことにまっとうな判断でしょう。
そして近年、顧客によるセクハラや嫌がらせが頻発している状況を考えると、この最高裁の判断は拳々服膺すべき内容があるように思われます。

「お客様絶対主義」は、日本の生産性の低さの関係で本ブログでも繰り返し取り上げているところですが、こういうおかしな方面にも悪影響が及んでいるのですね。

第6位は、お送りいただいた『POSSE』40号の鼎談に対して、やや辛めのコメントをしたエントリです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-b989.html (これはまたなんとも古典的なマルクス主義)(3,956PV)

Hyoshi40_2 その宮田さんの論ずるところは、正直言うと、ある種の傲慢なリフレ派の議論に対する痛烈な批判が聞けるのかなとそこは内心期待していたのですが、それどころかケインズ以前の誠に古典的なマルクス主義を聞かせられている感がありました。古典的なマルクス主義というか、19世紀的、古典派的な発想が濃厚で、いや今時それでいくの?と。

今野 なるほど、ちなみに、賃金の上昇による消費需要の増加を通じて有効需要を拡大させ、経済成長を実現していこうという議論も根強くあると思いますが、いかがでしょうか。

宮田 賃金の上昇と経済成長を両立できるのかという問題ですね。ポストケインズ派やマルクス派の一部も含めて、賃金上昇による消費需要の増大によって有効需要を拡大させれば、力強い経済成長を取り戻せるという考え方が広く影響力を持っています。確かに社会的に見ると賃金上昇によって一定の消費需要の拡大条件が与えられ、売上高も増大する可能性が生まれ、その限りでは経済成長に寄与します。しかし忘れてはならないのは、賃金上昇は社会全体の利潤を食いつぶし、利潤率の低下に、したがって投資需要の低下傾向にもなるということです。確かに資本蓄積が進み労働力需要が高まると、一時的に賃金が上昇しますが、その蓄積の進行に伴う賃金上昇は利潤量を減少させ、いずれは経済成長率の減退に結びつかざるを得ません。要するに資本主義社会において賃金上昇と経済成長というのは両立するのではなくて、本質的には相対立するということが大事なのです。・・・

なるほど、古典的マルクス主義者というのは、古典的自由主義者と見まごう程資本主義の本来あるべき姿なるものに誠に忠実で、それから逸脱するような思想に対しては同じくらい強烈に批判的なんですね。資本家の利潤追求という資本主義の本旨に反して賃金上昇で経済成長なんていうのは、短期的には有用でも長期的な資本主義にとって許しがたいわけです。

ややきつい言い方をすると、POSSEさん、いまどきこんなケインズを罵る19世紀資本家みたいな寝言を繰り広げているようではあんまり未来はないですよ。

そして、松尾マルクス経済学に理論闘争を挑むとか考える前に、ブレイディみかこさんの伝えてくれるイギリス労働者階級のリアルな姿を、藤田さんや今野さんがリアルに体験している日本の労働者や下層階級の現実といかにすり合わせるべきかを考えた方が、こんな古典的経済学の眠くなるような講義を拝聴しているよりも百万倍役に立つような気がします。

ここで宮田氏の古典マルクス主義理論を拝聴している今野氏と藤田氏が、最近ZOZOの田端信太郎氏との間で繰り広げている「論争」にしても、今日的な労働運動や福祉運動それ自体の主張としてはもっと傾聴されてしかるべき内容を持ちながらも、ややもすると古臭い時代遅れの主張であるかのごとき宣伝にうまく乗っけられてしまいかねない危うさがここかしこに垣間見えてしまうのも、ここで論じたことと繋がっているようにも思われます。

第7位はあのピケティの「バラモン左翼」という決め台詞が受けました。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html (バラモン左翼@トマ・ピケティ)(3,383PV)

Images 「左翼」はインテリのエリート(バラモン左翼)の党になってしまったが、「右翼」はビジネスエリート(商人右翼)の党とみなされている。

なるほど、高学歴高所得のインテリ左翼を皮肉って「バラモン左翼」と呼んでいるわけですね。

ふむ。思いついた言葉がすべてで、それがそのままタイトルになったという感じですが、確かに「インテリ左翼」とかいうだけでは伝わらないある種の身分感覚まで醸し出しているあたりが、見事な言葉だなあ、と感じました。

第8位は、例の低賃金カルテルのメカニズムを説明した話です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-e42b.html (「見えざる」低賃金カルテルの源泉)(3,278PV)

いうまでもなく、労働組合とは市場に任せていたら低くなりすぎてしまう賃金を団結の力で人為的に高くするための高賃金カルテルであり、そうはさせじとそれを抑える使用者団体がこれまた団結の力で人為的に賃金を低くするための低賃金カルテルであることは、(純粋経済学の教科書の世界ではなく)現実の産業社会の歴史から浮かび上がってくる厳然たる事実ですから、そもそも低賃金カルテルが経済学理論上どうとかこうとかというのは筋がずれている。経済学の教科書からすればアノマリーかもしれないが、現実の産業社会ではそれがノーマルな姿であったのですから。
問題は、今現在どこにも「こいつらにこれ以上高い賃金を支払わないようにしようぜ」と主張したり運動したり組織したりする連中が見当たらないのに、結果的にみんなあたかも低賃金カルテルを結んでいるかの如く賃金が上がらないのはなぜかという話であって、それを直接的に労働者に賃金を支払っている企業の経営者の心理構造に求めるのか、彼らが財サービス市場で直面する消費者という名の人々の行動様式によってもたらされているものなのか、もしそうならその原因はどこにあるのか、というようなことこそが実は重要なポイントであろうと思われます。
現在の日本では労働組合の力が弱体化してほとんど高賃金カルテルの役割が消え失せているため、わかりにくいのでしょうが、その現代日本でいまなお高賃金カルテルと低賃金カルテルが正面から目に見える形でぶつかり合っている世界があります。数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々の報酬を最大化しようとする医師会と、その報酬の原資を支払っており、それゆえその報酬をできる限り引き下げようとする健保連が、中医協という場で三者構成の団体交渉する世界です。個々の診療行為ごとにその価格付けをするという意味において、個々のジョブの価格付けをする欧米の団体交渉とよく似ており、逆にこみこみの「べあ」をめぐる特殊日本的労使交渉とは全く違います。
私の子供時代には、診療報酬の引き上げを求めて医師会が全国一斉にストライキ(保険医総辞退)なんてことすらありました。それくらい医師会という高賃金カルテルが強かったわけです。
面白いのは、他の分野では高賃金カルテルとして使用者側と対立しているはずの労働組合が、こと医療分野に関してはお金を出す側、医療という労務の供給を受ける側として、使用者団体と一緒に低賃金カルテルの一翼になっていることです。連合と経団連は足並みをそろえて「こいつら(医師)にこれ以上高い報酬を払わないようにしようぜ」と何十年も言い続けてきました。
私が思うに、この労働者側が(自分の属さない他の産業分野に対しては)低賃金カルテル的感覚で行動するという現象が、医療分野だけではなく他の公共サービス分野にも、さらには非公共的サービス分野にもじわじわと拡大していったことが、この「見えざる」低賃金カルテル現象の一番源泉にある事態だったのではないか。
もちろんその背後には、労働組合という高賃金カルテルが組織しやすかった製造業が縮小し、サービス経済化が進んだということがあるわけですが、普通の労働者が金を受け取ってサービスを提供する側、つまり高賃金カルテルになじみやすい感覚よりも、金を払ってサービスを受ける側、つまり低賃金カルテルになじみやすい感覚にどんどん近づいて行ったことは間違いないのではないかと思います。

Images_2 第9位は、今年の働き方改革関連法案で、一部労働クラスタによる高度プロフェッショナル制度批判への固執に対して、言い知れぬほどの違和感を感じたので、それを別エントリのコメント欄に書いたものを、新エントリに起こしたものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-18b1.html (高度でもプロフェッショナルでもないごく普通の新入社員が無制限の時間外・休日労働にさらされる国だった今までの日本を、ひたすら美化する人々の群れ・・・)(2,883PV)

そもそも、過労死した人の圧倒的大部分は、現に異次元の労働時間(無)規制の下にある一般労働者なのであって、高プロばかりをフレームアップすること自体が、きわめて意図的な歪んだ議論であるという認識が私の基本にあります。そのことは今まで10年以上私が書いたりしゃべってきたことを読めばよくお分かりのはずですが、なかなか通じていないように見えるのは私の不徳の致すところなのでしょうね。
しょせん、「いわゆる生活残業」も含む、経営者側から見て合理的でない残業代の是正が目的のエグゼンプションを、あたかも労働者のためであるかのようなウソの議論でくるんで繰り返し提出してきた政府に対しても、私は全然同情するところはありませんが、それにしても、上限規制さえ入れればそれなりに合理的な制度である高プロをあたかもそれのみが長時間労働を許してしまう唯一の極悪非道であるかのようなインチキ極まるフレームアップをするような人々の道徳性を、私はあまり信用していないということは、これも繰り返し述べてきたところです。
それだけです。

>つまり今回の法律以降は     高プロのみが長時間労働を許してしまう唯一の規定 であるとはいえると思います。
その「今回の法律」がまだ成立もしていない段階で、
すなわち、過労死する「異次元の危険」という点では、一般労働者もまったく同じである状態において、
あたかもすでに一般労働者には立派な労働時間規制があって、過労死する危険性などまったくないのに、新たに設けられる高プロとやら「だけ」が過労死する危険なものであるかのようなプロパガンダをまき散らし、
その、過労死する危険のもとであるからといって高プロをつぶすために、実はそれと全く同じ危険にさらされている一般労働者のための時間外規制を含む働き方改革推進法案を全部廃案にせよという政治的主張を発し続けた人々の、
そういう人々の非道徳性を、私は言っています。
現実に過労死の現実的危険性にさらされている一般労働者への時間外労働の上限規制(それはなお不十分なものであるとはいえ)を弊履のごとく吐き捨ててでも、
その今現在一般労働者の危険性と同様の(いや、正確に言えば、上限規制がない点では同じですが、一般労働者にはない休日規制がある点だけはやや危険性が少ないとすらいえる)高プロだけを、残業代がなくなるから潰したいという本音をひそかに隠して、それだけが危険であるかのようなプロパガンダを平然とやってのけられる人々の、
そういう人々の非倫理性に我慢がならないのです。
少なくとも、今回の一連の動きの中で、一般労働者への時間外の上限規制があるから法案は成立させなければいけないという、極めてまっとうな意見を言う人に対して、何とかの手先みたいに悪罵を投げ続けた人々は、今現在の労働時間(無)規制」の悲惨な実態を、あたかも今現在素晴らしい労働時間規制があって一般労働者はみなそれに守られておるかのごときプロパガンダを繰り返していました。
そういう連中は全部インチキ野郎だと思っています。
毎年何百人も出る過労死労働者の圧倒的大部分は、そのご立派な労働時間規制とやらに守られているはずの、一般労働者です。
だから私は、わざわざ北海道まで行って、過労死防止学会の席上で
「ボーッと生きてんじゃねえよ!!!」
と咆哮してきたのですが、鈍感な人々にはまったく通じていなかったようですね。

最後に書いてあるように、過労死防止学会の席上で、「ボーッと生きてんじゃねえよ!!!」とチコちゃんよろしく咆哮したのは私くらいでしょうね。

第10位は船員の労働時間規制という超トリビアネタですが、なぜかよく読まれたようです。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/11472-bfad.html (1日14時間、週72時間の「上限」@船員法)(2,738PV)

いろいろな意見があると思いますが、何にせよ海上ではこういう法律に現に存在しているということは、陸上の労働法を論じる人々も頭の片隅には置いておいた方が良いようにも思われます。

というわけで、今年も本ブログをお読みいただきありがとうございました。労働関係ブログとしてこれからも皆様のお役に立つとともに、そのご関心にマッチしたエントリをアップしていきたいと思います。

2018年12月22日 (土)

『ビジネス・ロー・ジャーナル』2月号で本を紹介

201902_no131 『ビジネス・ロー・ジャーナル』2月号の恒例の「法務のためのブックガイド」特集ですが、今年(というかまだ来年ですが)の推薦者には私も参加しております。

http://www.businesslaw.jp/contents/201902.html

[特集]法務のためのブックガイド2019
毎年恒例のブックガイド特集。
数多く刊行された本の中から、弁護士・法務担当者・研究者は、どのような本を選び、どのように読んだのでしょうか。そして、書店ではどのような本が売れたのでしょうか。
読むべき本、部署で買うべき本を探すうえで参考となる情報をお届けします。

[2018総括]法務担当者5人による 購入書籍分野別批評会
弁護士・法務担当者・研究者が薦める理由
01 ガバナンス改革実践のキーポイント 柴田堅太郎 弁護士
02 現在・未来の法務部長に贈る4冊
   乾山啓明 日本エア・リキード 常務執行役員・ジェネラルカウンセル・法務本部長
03 AI技術の社会実装に向けて法的課題を考える出発点 齊藤友紀 メルカリ 社長室 弁護士
04 テクノロジーに関するリテラシーを高める 長谷川雅典 電通 法務マネジメント局 法務部長
05 国際案件への対応力向上を目指して 笠羽英彦 アルプス電気 法務部 法務2グループ グループマネジャー
06 販売・マーケティング・中国ビジネスの各場面で役立つ書籍
   趙 詣 花王 法務・コンプライアンス部門 法務部
07 忙しい人のための「頁数の少ない本」「読みやすい本」 人事労務関連の本を中心に
   荻野聡之 弁護士
08 変わりゆく雇用と仕事の未来図 濱口桂一郎 独立行政法人労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長
09 “正統”のみならず“異端”も含めた幅広い考え方を知る 松尾直彦 東京大学客員教授・弁護士
10 人間と選択と幸福 大屋雄裕 慶應義塾大学法学部教授
11 企業法務系ブロガーによる辛口法律書レビュー 企業法務系ブロガー
管理職が読んだ本 [part 1][part 2]
書店における 直近1年間の売れ筋
読者が薦める 定番書20冊
紹介書籍 INDEX

わたくしが選んだ本はこんなラインナップです。

1 倉重公太朗編集代表『HRテクノロジーで人事が変わる』労務行政
2 海老原嗣生『「AIで仕事がなくなる」論のウソ』イースト・プレス
3 海老原嗣生・荻野進介『人事の成り立ち』白桃書房
4 大内伸哉・川口大司編著『解雇規制を問い直す』有斐閣

4冊中、海老原さんの本が2冊もはいっているのに疑問を持たれる向きもあるかもしれませんが、いやどちらも捨てがたいので。

2018年12月21日 (金)

ディスカッションペーパー「日米における自営業主数の計測」

JILPTの高橋陽子さんのディスカッションペーパー「日米における自営業主数の計測」がアップされました。

https://www.jil.go.jp/institute/discussion/2018/18-07.html

いわゆる雇用類似の働き方はここ数年労働研究界隈のホットトピックになっていますが、このDPもその一環で、アメリカの先行研究を詳しく紹介した上で、日本の実態を推計しています。

•総務省統計局の労働力調査によれば、1950年代から日本の自営業主は一貫して減少し続けている。2017年の自営業主は528万人である。
•日本の労働力調査に相当するCurrent Population Survey(CPS)によれば、アメリカにおいても自営業主は減少傾向にある。一方で、納税データによれば自営業主として納税する者は増えており、CPSが自営業主を正確に把握できていないのではないかと指摘されている。
•2017年5月、アメリカ労働統計局(BLS: Bureau of Labor Statistics)はCPSの追加調査を実施し、典型的な自営業主であるインディペンデント・コントラクターがこの10年間で増えていないことを確認し、一方で、新しい働き方であるオンライン・プラットフォーマーが160.9万人存在するという推計結果を公表した。ただし、これは調査週1週間の人数であり、オンライン・プラットフォーマーはある週に働き、その翌週は働かないというように、散発的に働く特徴があるため、実態を過少に評価している可能性があるとBLS自ら指摘している。
•JILPTは、労働力調査が把握していないオンライン・プラットフォーマーなどの自営業主の数を推計するために2017年4月に「雇われない働き方調査」を行った。その結果、労働力調査が把握していない自営業主、あるいは自営業主に類する雇用でない働き方をする者が467.0万人程度存在する可能性が示された。
•この調査によれば、2017年4月時点のオンライン・プラットフォーマーの数は311.8万人である。また、オフラインの仲介会社を通じて仕事を得るオフライン・プラットフォーマーは351.6万人である。このうち、労働力調査で把握されていないオンライン・プラットフォーマーは280.5万人、オフライン・プラットフォーマーは303.4万人である。
•オンライン・プラットフォーマーのうち174.6万人(全体の55.1%)は、本業で正規の従業員の仕事を持っており、本業の傍ら、プラットフォームを介して仕事を得ている。

1807_1_2

•その他、オンライン・プラットフォームの仕事は、オフライン・プラットフォームの仕事に比べて若年層で普及しているなどの特徴も明らかとなった。

1807_2

OECD『日本の高齢者雇用報告書』

Oecdage 昨日、OECDが『Working Better with Age: Japan』(『日本の高齢者雇用報告書』)を公表しました。

http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/japan-should-reform-retirement-policies-to-meet-challenge-of-ageing-workforce-japanese-version.htm

本文は英語で130ページに及ぶものなので、

http://www.oecd.org/employment/working-better-with-age-japan-9789264201996-en.htm

ここでは、OECD東京センターの日本語版プレスリリースを。

OECD-東京、2018年12月20日

OECDの新報告書「生涯を通じたより良い働き方に向けて:日本(Working Better with Age: Japan)」によると、日本は、急速な高齢化と労働力人口の減少という課題に対処するために、仕事の質を改善し、さらなる定年退職制度の見直しを図らねばなりません。

本報告書では、日本の従属人口指数はOECD加盟国中最も高く、2017年で20~64歳の人口に対する65歳以上の人口は2人に1人となっています。この値は2050年までに10人当り約8人にまで上昇すると予測されています。日本の働き方が変わらなければ、労働力人口は2030年には800万人も減少することになります。しかし、高齢者がそのスキルで経済に貢献し続けられるような条件が整い、またもっと多くの女性が労働市場にとどまれるよう奨励すれば、この減少数を240万人にまで抑えられることが見込まれます。

ガブリエラ・ラモスOECD首席補佐官兼G20シェルパは、東京で行われた本報告書の発表会見で、次のように述べています。「日本はOECD諸国の中で高齢者の就業率が最も高い国の1つである。しかし、日本は、女性や非正規雇用者、さらに60歳の定年退職後に仕事の変化に直面する多くの労働者のために、包摂的な労働市場を形成する取組みを強化する必要がある。」

男女の労働参加率の差を2025年までに25%縮小するというG20の公約の公約達成に向けてさらに進むことが、労働力人口の減少を埋め合わせる一方で、高齢者の所得と年金の増加につながり、不平等を減らすことにもなります。

本報告書では、事業主が定年を過ぎた労働者を65歳まで雇用する政策の進展の重要性を指摘します。しかし、日本的雇用慣行によって、質が低く、不安定で、さらに賃金の低い非正規雇用者として再雇用されるケースが多くみられています。

より多くの日本の女性を比較的若い時期から労働市場に取り込むことも、労働力人口のさらなる増加に重要、と本報告書は述べています。働き盛りの女性(25~54歳)の労働力率は、2017年では78%弱となっており、多くのOECD諸国の水準を下回っています。育児後に職場復帰する日本人女性にとっては、仕事の質の低さが問題になっています。それらの仕事の多くが非正規、補助的で、パートタイムの地位で終わってしまうからです。女性が自分の仕事と育児や高齢者介護の責任とをよりよく管理できるように、柔軟な働き方をする機会を拡大する必要があります。これにより、女性が働き続けられるようになるでしょう。

不安定な雇用の活用を事業主に促している解雇規制と年功序列型賃金の見直しは、労働市場の二重性の解消に資するでしょう。同時に、非正規雇用者に対し、より多くの訓練の機会と、長時間労働の削減といったより良い労働条件を提供することも、彼らの雇用可能性を高め、高齢期でも働き続ける機会を増やすことにつながります。

賃金設定に職務給や業績・能力給を取り入れるとともに、長時間労働を是正するという最近の政府のイニシアチブは、生産性を高め、高齢者の労働条件を改善する一助となる可能性があります。 仕事と生活のバランスをよりよく取れるようにするには、根本的な文化的変化が必要だということです。それは、すべての人々、とりわけ高齢者、女性、子供たちの暮らしをより良くすることができます。

「職業人生の終わりに近づいて、まだ働きたいと思っている高齢労働者は非正規契約よりも良い待遇を受けるに値する。また、高齢者が労働市場だけでなく経済全体にもたらす知恵、スキル、経験の恩恵を社会全体が受けられるようにすべきである。したがって日本は、このリスクを減らすために、定年退職年齢の引上げに着手する必要があり、将来的には他のOECD諸国ですでに行われているように定年制を撤廃しなければならない。」とラモス氏は述べています。労働者がその職業人生を通じて自分のスキルを高め、新しいことを学ぶ機会をより提供することも、良質な労働条件でより長く働けるようにするための、必要条件の1つとなります。

OECDは日本に対して、以下の分野でさらなる対策を実行するよう提言します。

  • 高齢者を新たに雇用し、雇用を継続することを事業主に促すため、定年制と年功賃金のさらなる見直しを実施すること。
  • 労働者をより不安定な形で雇用することを促進するインセンティブを減らすことによって、労働市場の二重性に対処すること。
  • 全ての労働者の基盤となる能力の向上を支えるため、生涯を通じた学習に投資し、年齢・獲得したスキル・雇用形態による訓練参加率の格差を縮小すること。
  • 高齢期においても働き続けられる機会を増やすため、長時間労働対策を行い、働き方改革を適切に実施し、さらに様々な働き方の心理社会的リスク評価を義務化し、より体系的に実施すること。
  • 女性が労働市場に(再)参入し、長く留まることができるようにするため、子育てや親の介護と仕事を両立させる機会を強化すること。

なおこの報告書の主たる執筆者であるマーク・キースさんをお招きして、来年1月23日に「第101回労働政策フォーラム 高齢者の多様な就労のあり方─OECD高齢者就労レビューの報告を踏まえ」というのが開かれますので、ご関心のある向きは是非。

https://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20190123/index.html

Oecd

2018年12月20日 (木)

荻野登『平成「春闘」史』

29440386_1_2JILPTの副所長の荻野登さんより『平成「春闘」史~未来の職場のため、歴史に学ぶ~』(経営書院)を(直接お手渡しで)いただきました。

荻野さんは昔の日本労働協会時代から労働運動、労使関係の現場を見続けてきた生粋の「旧協会派」(このジョークが分かる人も少なくなりましたが)で、かつての『週刊労働ニュース』の、今の『ビジネス・レーバー・トレンド』の編集長として、この労働業界のどこに行っても通じる「顔」ですが、この本は平成時代の春闘の歴史を現場で記録し続けた荻野さんの総まとめになっています。

バブルの絶頂期に始まった「平成」は30年の時を重ねて終わろうとしています。平成の始まりである1989年は、東西冷戦構造の崩壊という世界史的出来事があっただけでなく、わが国労働運動史上、労働界が再編され日本労働組合総連合会(連合)の発足した年でもありました。こうしたなか、わが国労働運動の金看板ともいえる「春闘」も、この30年の間に大きな波に洗われました。バブル経済の崩壊後、多くの金融機関が経営危機に直面しました。その後、世紀の変わり目にはグローバル化の風圧が強まり、「春闘」はこの後、超円高,ITバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災など、さまざまな社会経済の激変によって揺さぶられ続けてきました。「春闘」は二度の「終焉」に直面し、メディアからは「賞味期限切れ」と揶揄されながらも、アベノミクス以降は、賃金の引上げがデフレ脱却の切り札との期待から、久しぶりに世間の注目を集めることとなりました。そして、拡大した中小企業と大手との規模間格差、正規・非正規間の雇用形態間格差の是正に向けた取組みの比重を高めてきました。本書は平成30年間の「春闘」を振り返ることによって、あらたな「春闘」の方向性を考えるための参考になるよう編纂しました。

目次はこんな感じです。

第1章 春闘の始まり~1990年代春闘
第2章 21世紀春闘の推移(2000~2018)
 2000年春闘 逆風下に光明、電機大手で65歳までの雇用延長
 2001年春闘 強まるグローバル化の風圧
 2002年春闘 右肩上がり春闘の終焉
 2003年春闘 2回目の終焉を迎えた「春闘」
 2004年春闘 中小の相場形成と賃金制度の見直し
 2005年春闘 積極賃上げで「格差是正」求める労働側
 2006年春闘 「ベア」から「賃金改善」へ
 2007年春闘 経営側の先行き懸念を打破できず
 2008年春闘 賃上げムードも終盤の逆風で冷え込む
 2009年春闘 交渉揺さぶる金融危機
 2010年春闘 政治・経済とも大きく様変わり
 2011年春闘 東日本大震災で集中回答日が消滅
 2012年春闘 震災の影響で五里霧中の展開
 2013年春闘 アベノミクスの始動
 2014年春闘 政労使合意を踏まえた展開に
 2015年春闘 2000年以降で最も高い賃上げに
 2016年春闘 「人手不足」「格差是正」で春闘メカニズムに変化
 2017年春闘 賃上げ相場形成に構造変化
 2018年春闘 顕在化した波及の構造変化
第3章 春闘の性格を大きく変えたアベノミクス
資料編
 〔政労使合意文書等〕
  〈資料1〉2000年から動き出したワークシェリング議論
  〈資料2〉雇用問題に関する政労使合意
  〈資料3〉ワークライフバランス「憲章」と「行動指針」の策定
  〈資料4〉雇用安定・創出の実現に向けた政労使合意
  〈資料5〉経済の好循環実現に向けた政労使の取組みについて
  〈資料6〉経済の好循環の継続に向けた政労使の取組みについて
 〔参考論考〕
  1990年代以降、正社員の賃金体系・賃金制度はどう変わったか
関連資料
 平成年表(春闘関連)/主な団体の概要/ミニ用語解説/グラフに見る雇用・失業、賃金、
労働時間の変化/「経営労働政策特別委員会報告」タイトル一覧/凡例

2018年12月19日 (水)

井川志郎『EU経済統合における労働法の課題 』

427888_2 井川志郎さんより『EU経済統合における労働法の課題』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.junposha.com/book/b427888.html

本書は、日本で初めてのEU労働法の焦点を絞った専門書です。そのテーマは、副題の「国際的経済活動の自由との相克とその調整」に示されているように、いわゆるラヴァル・カルテット以来EUで議論の焦点となってきた問題です。

こういう本が出るようになったことが、日本におけるEU労働法研究が第一世代の紹介段階からより突っ込んだ議論を展開する第二世代に移りつつあることを物語っているといえましょう。

その第一世代の右代表の私としては、序論と結論以外ではもっぱら20年前の『EU労働法の形成』が参照されていることに、若干複雑な感じもあります。何しろ20年前のことで、「EUの労働法はこんなに充実してきたぞ」という出羽守丸出しだった時期の本なので、ヨーロッパ社会対話を「EU労働協約法の誕生と呼びうる」なんて能天気なセリフを古証文よろしく持ち出されると、思わず汗が出ますがな。

その後のあれやこれやを潜り抜けて昨年の『EUの労働法政策』では、本書の視点とも共通する醒めた叙述になっていて、むしろEU労働協約法がいかに困難かを書いていますので。

さて、本書はラヴァル・カルテットを素材に、そもそもEU労働法に内在していた矛盾を抉り出し、ややもすればジャーナリスティックな叙述に流れがちなこのテーマをしっかりと理論的に腑分けして論じて見せたもので、その深みはこの目次にも表れています。

序 論
第1章 前提的考察
 第1節 EU労働法の形成と域内市場
 第2節 EU集団的労働法の特徴
 第3節 域内市場法と労働法の交錯
第2章 労働基本権と自由移動原則との相克
 第1節 労働争議権と開業・サービス提供の自由
 第2節 リスボン条約改正と労働者の社会的基本権保障
 第3節 団体交渉権と開業・サービス提供の自由
第3章 労働抵触法と自由移動原則
 第1節 低廉労働力流入と準拠法
 第2節 〔改正前〕越境的配置労働者指令(PWD)
 第3節 介入規範とサービス提供の自由
結 論

労働組合員1000万人突破も組織率は低下

本日、今年の労働組合基礎調査結果が公表されましたが、

https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/kiso/18/dl/houdou.pdf

https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/kiso/18/dl/gaikyou.pdf

労働組合員数は 1,007 万人で、前年の 998 万 1 千人より 8 万 8 千人(0.9%)増加。 推定組織率注)は 17.0%で、前年の 17.1%より 0.1 ポイント低下し、過去最低

労働組合員数が久しぶりに1000万人を超えたのを寿ぐべきなのか、組織率の長期低下傾向に依然歯止めがかからず17.0%と過去最低を記録したことを嘆くべきなのか、なかなか複雑な感情を掻き立てる数字ではあります。

女性やパートの組織率は少しずつ上昇しているとはいえ、元がとても低いので依然として水準は高くありません。

産別の状況を見ると、これまた今までと同様、UAゼンセンだけがほとんど一人勝ち的に増やしていますが、大部分が減らし続けています。中で目を引くのはJR総連の激減ぶりですが、JR連合がほとんど増えていないのが悲しいところで、結局労働組合の領域が減っているだけのようです。

2018年12月18日 (火)

公務員と雇用保険

yamachan呟きて曰く:

https://twitter.com/yamachan_run/status/1074872123338833922

「退職金があるから公務員は雇用保険被保険者にならない」という、今ひとつしっくりこない理屈。 退職金と雇用保険の歴史についてはhamachan先生のクソ分厚い本に関連づけて書いてあった気がする。

すみません、そのクソ分厚い本には両者の関連についてはほとんど触れていません。

Qll_221その経緯は、もう10年前になりますが、『季刊労働法』2008年夏号(221号)に書いた「失業と生活保障の法政策」で、若干触れてあります。

・・・起草委員会では、立案の基本方針として、失業保険と並んで失業手当を設けることが決定されました。これは、失業保険の給付の開始はどうしても翌年4月頃となるので、それまでに経済緊急対策によって生ずる失業者に対しては、政府の一方的給付になる手当制度が必要となったためです。その他、起草委員会で議論となった論点としては、女子を強制適用とするか、官公吏を適用除外とするかといった点がありました*17。

 女子については、「女子は退職の理由が主として結婚などの場合が多く、失業とは認めがたい」という理由から任意加入としていました。起草委員会の原案では、強制被保険者は「左に掲げる事業の事業所に使用される男子労働者」とし、「前項事業所の女子労働者・・・は2分の1以上が同意し、労働大臣の認可を受けたときは包括して被保険者となれる」としていたのです。しかし、提出法案では強制加入となりました。これは、「総司令部では、むしろ新憲法の男女同権の大原則といった立場から、男女同一の取扱にすべきだとの意向であり、強制適用ということに改まった」*18といういきさつだったようです。

 官公吏については、「官公吏は現業をも含めて恩給制度、官業共済組合、退職金等があるのでこれを除外すべきである」としていました。おそらくこれにもGHQが介入したためと思われますが、最終的な政府案では官公署に雇用される者も当然被保険者になるとしつつ、「国、都道府県、市町村その他これに準ずるものに雇用される者が離職した場合に、他の法令条例規則などに基づいて支給を受けるべき恩給、退隠料その他これらに準じる諸給与の内容が、この法律に規定する保険給付の内容を超えると認められる場合には、前条の規定にかかわらず、政令の定めるところによって、これを失業保険の被保険者としない」と、事実上ほとんどの官公吏が適用除外となるような仕組みとなりました。

11021851_5bdc1e379a12a_2「クソ分厚い」本とはいいながら、その元になった各分野ごとの諸論文に比べると、いろんな所を削除して骨と皮だけにして一冊にしたんです。

それで1100ページかよ、と言われそうですが。

2018年12月17日 (月)

『Works』151号は「いい賃金」

Worksリクルートワークス研究所より、『Works』151号をお送りいただきました。特集は「いい賃金」です。

http://www.works-i.com/pdf/w_151.pdf

はじめに 賃金についてそろそろ議論すべきではないか

●賃金に課題はあるのか? 大手企業人事による座談会

●日本企業の賃金を取り巻く現状
・先進諸国のなかでも日本企業の賃金水準は低い
・日本企業の賃金はずっと上がっていない
・個人の賃金が上昇していかない
・従業員の給与に対する満足度が低い
・Column:何が日本企業と違うのか 外資系企業の賃金のリアル
・「賃上げ圧力」という変化の兆し

●どう上げる?どう分配する?“いい賃金”のケーススタディ
・CASE1:ベア5%、評価や昇格による昇給も含めて平均6.4%の賃上げを実現/ペッパーフードサービス
・CASE2:完全雇用保証のもと徹底した実力主義で意欲を引き出す/日本レーザー
・CASE3:全員の給与をオープンにし、社員自身が給与決定プロセスに参加する/ダイヤモンドメディア
・CASE4:評価者5人を被評価者が選ぶ 透明性を重視し、納得感を高める/アトラエ
・CASE5:個人のスキルにフォーカスし新卒の初任給から明確な差をつける/メルカリ、LINE

●あらためて“ いい賃金”とは何かを考える

まとめ:“いい賃金”によって社員のオーナーシップを引き出せ/石原直子(本誌編集長)

このうち、CASE3のダイヤモンドメディアの賃金制度は、妙に古くて新しくて面白いですね。

同社の正社員の給与は、5つの要素で構成されている(右ページ図)。いわゆる生活給としての“ベーシックインカム”が全員一律18万円。そこに勤続年数手当、年齢手当、子ども手当などの手当と、実力給が加算される。生活給やさまざまな手当などは、旧来の日本企業にもあった温情的な制度に見える。「評価が低くても暮らしていける給与設定という意味ではそうかもしれません。ただし、勤続年数や年齢による手当を付加しているのは、温情ではありません。社歴や年齢は『あの人は何年も働いているから』といったノイズ、その人の実力とは関係のない私情になります。そのノイズを排除し、実力給の部分をあくまで実力だけの評価にするために設定しています」と、武井氏はその意図を説明する。

全員一律の生活給を「ベーシックインカム」と呼んでみせるあたりもなかなかですが、実力評価にノイズを入れないためにわざわざ勤続年数手当や年齢手当を入れているというあたりが、戦後日本の賃金制度の最大の問題点をよく分かっているな、という感じです。

そう、もともと戦時賃金統制や終戦直後の電産型賃金体系で、家族も含めた生活給のために年功賃金にしたのを、職能制の広がりの中で、もともと生活のための右肩上がりの賃金を、「能力」が高まり続けているからそれに応じて賃金が上がり続けていると、自他共にごまかしてきたことのツケを、きちんと払おうとすればこういう形になるわけですね。

Waorks

岩下広文『人事コンサルタントが教える生産性アップにつながる「50」の具体策』

9784502289514_240岩下広文さんの『人事コンサルタントが教える生産性アップにつながる「50」の具体策』(中央経済社)をお送りいただきました。

https://www.biz-book.jp/%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E7%94%A3%E6%80%A7%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%8B%E3%80%8C50%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%B7%E4%BD%93%E7%AD%96/isbn/978-4-502-28951-4

生産性向上に向けた企業のアプローチを「業務の改善/改革」と「人材マネジメントの改革」に切り分け、「人材マネジメント改革」を行うための具体的な施策を50提案する。

内容で興味深いのは、第3章の「日本企業の生産性が低い理由」という部分で、次の4つの理由が解説されています。

1.無駄なアウトプットが多い。

2.低付加価値なアウトプットが多い。

3.社員数が多い。

4.労働時間数が長い。

このそれぞれに、3つずつの説明がついてきます。

まず、無駄なアウトプットが多いのは、

・曖昧な職務範囲によりアウトプットが重複して発生

・曖昧な職務定義により不要なアウトプットが発生

・完璧主義の志向による不要なアウトプットが発生

この3つめは次の一つ目と同じことの裏表ですね。

低付加価値なアウトプットが多いのは、

・「付加価値」よりも「質」を重視してきた日本的経済

・「結果」よりも「プロセス」を重視してきた日本的経済

・低価格競争によりアウトプットの付加価値性が低下

いかにこだわったモノやサービスでも、買う側がそこに価値を見いださなければ、そこに「値が付かず」、アウトプットは下がるという簡単な話ですが。

2018年12月15日 (土)

パワハラ立法の射程

昨日の労政審雇環分科会で、「女性の職業生活における活躍の推進及び職場のハラスメント防止対策等の在り方について(報告書案)」が了承されたようです。

https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000456686.pdf

中身はすでにちらちらと出てきていたものの総まとめです。いわゆるパワハラについては、

最初の基本理念や関係者の責務みたいなところに、

しかしながら、職場のパワーハラスメントやセクシュアルハラスメントは 許されないものであり、国はその周知・啓発を行い、事業主は労働者が他の 労働者(取引先等の労働者を含む。)に対する言動に注意するよう配慮し、ま た、事業主と労働者はその問題への理解を深めるとともに自らの言動に注意 するよう努めるべきという趣旨を、法律上で明確にすることが適当である。

国は、就業環境を害するような職場におけるハラスメント全般について、 総合的に取組を進めることが必要であり、その趣旨を法律上で明確にするこ とが適当である。

という抽象的な規定が入り、具体的な規定としては、まずパワハラの定義:

職場のパワーハラスメントの定義については、 「職場のパワーハラスメン ト防止対策についての検討会」報告書(平成 30 年3月)の概念を踏まえて、 以下の3つの要素を満たすものとすることが適当である。

ⅰ) 優越的な関係に基づく

ⅱ) 業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動により

ⅲ) 労働者の就業環境を害すること(身体的若しくは精神的な苦痛を与え ること)

事業主の措置義務として、

職場のパワーハラスメントを防止するため、事業主に対して、その雇 用する労働者の相談に応じ、適切に対応するために必要な体制を整備す る等、当該労働者が自社の労働者等からパワーハラスメントを受けるこ とを防止するための雇用管理上の措置を講じることを法律で義務付ける ことが適当である

その措置義務の中身を指針で定め、

事業主に対して措置を義務付けるに当たっては、男女雇用機会均等法 に基づく職場のセクシュアルハラスメント防止のための指針の内容や裁 判例を参考としつつ、職場のパワーハラスメントの定義や事業主が講ず べき措置の具体的内容等を示す指針を策定することが適当である。

その指針の中にカスタマーハラスメントも盛り込むと。

取引先等の労働者等からのパワーハラスメントや顧客等からの著しい 迷惑行為については、指針等で相談対応等の望ましい取組を明確にする ことが適当である。また、取引先との関係が元請・下請関係である場合が あることや、消費者への周知・啓発が必要であることを踏まえ、関係省庁 等と連携した取組も重要である

さらに調停制度等についても規定するようですが、

男女雇用機会均等法に基づく職場のセクシュアルハラスメント防止対 策と同様に、職場のパワーハラスメントに関する紛争解決のための調停 制度等や、助言や指導等の履行確保のための措置について、併せて法律で規定することが適当である。

あまり目立たず、世間の注目を集めない点ですが、個人的にはこのパワハラを現在のあっせん制度から調停制度に移す点は、かなりのインパクトがあるのではないかと思っています。

調停制度について、紛争調停委員会が必要を認めた場合には、関係当 事者の同意の有無に関わらず、職場の同僚等も参考人として出頭の求め や意見聴取が行えるよう、対象者を拡大することが適当である。

「関係当 事者の同意の有無に関わらず」という一句が、結構インパクトがありそうです。現在の労働局のあっせん制度では、すでにいじめ・嫌がらせ事案が解雇の件数を抜いて1位になっていますが、基本的に任意の制度であり、相手方が同意しなければそもそも初めから打ち切りになってしまいますし、労働者側はこういっているけど、会社側は全面否定で、それ以上踏み込めないというのが実態ですが、それがかなり変わる可能性があります。

さらに、これは使い方次第ですが、たとえば解雇事案や労働条件引き下げ事案などでもあっせんでは相手側が同意しなければ始まらないけれども、解雇にパワハラを組み合わせた複合事案(というのが実際は極めて多い)なんかがパワハラとしてこっちの調停に持ち出されれば、必ずしも任意とばかりは言えないような制度運用になっていく可能性もあるように思われます。まあ、この辺は、個別労働紛争処理制度という方面からの関心によるものなので、世間の関心とは離れているかもしれませんが。

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「ワシの年金バカ」がここにも

東洋経済オンラインにこういう記事を見つけて、

https://toyokeizai.net/articles/-/253400 (「お金持ちは年金をもらえない」という逆差別 数千万円も払って「捨てろ」はおかしくないか)

現役時代から高い保険料を負担し続けた揚げ句、一銭も年金を受給できないとしたら、皆さんはどう思われますか。実は、そういう人たちが存在するのです。・・・・

以前、上野千鶴子さんに向けた批判を一字一句そのまま、何も足さずなにも引かずそのままここにアップすることですべてが言いつくされる感でいっぱいになりました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0196.html (上野千鶴子氏の年金認識)

いやもちろん、拙著『働く女子の運命』の腰巻で「絶賛」していただいた方ですから、悪口を言いたいわけではないのですが、やはり問題の筋道は筋道として明らかにしておく必要があろうかと思います。

上野千鶴子さんがツイートでこう語っておられます。話の発端は例の森元首相の発言に対する反発なのですが、

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369525627473920

AERA34号「子のない人生」特集。上野も登場。香山リカさん、酒井順子さんの対談も。取材されたのに記事に書かれていないことが。森元首相が「子どもを一人もつくらない女性が年をとって税金で面倒を見なさいというのはおかしな話だ」とふられたが、この認識は完全なまちがい。(続き)

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369676756549632

そもそも年金保険は払った人が受け取るしくみ。もとは積み立て方式だったのを原資に手をつけて拠出方式(世代間仕送り制度)に変えたのは制度設計ミス。政治の責任だ。自分で積み立てた年金を自分が受け取って何が悪い、と言うべき。そもそもそのために働いて年金を納め続けてきたのだから。

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369839466184704

「私たちが育てた子どもが子どものないひとの老後を支えるのか」という認識も間違い。年金保険は保険、すなわち加入者のみが受け取れるしくみ。自分の積み立てた年金を自分が受け取るだけ。それどころか、保険料の支払いなしに基礎年金を受け取る特権を無業の主婦に与えたのは保守党政治だ、

そして最後の第3号被保険者に対するフェミニストとしての批判もよく理解できるものですが、しかしながらその間に挟まれた年金認識は、まったく間違っている、というよりもむしろ、そういう考え方はありうるけれどもそれが全く金融市場原理主義的なものであり、公的年金を私保険的に考えるものであることをどこまで理解しておられるのか、そこのところがたいへん疑問です。

この問題については、本ブログでも何回も取り上げてきていますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

・・・公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。

社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。

労働教育より先に年金教育が必要というのが、本日のオチでしたか

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9649.html (財・サービスは積み立てられない)

・・・財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html (積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?)

・・・「積み立て方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想がにょきにょきと頭の中に生え茂ってしまうのでしょうね。

非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なんですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-545a.html (年金証書は積み立てられても財やサービスは積み立てられない)

・・・従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

・・・この問題をめぐるミスコミュニケーションのひとつの大きな理由は、一方は社会保障という言葉で、税金を原資にまかなわなければならない様々な現場の福祉を考えているのに対し、他方は年金のような国民が拠出している社会保険を想定しているということもあるように思います。

いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。

・・・その感覚が回り回って、現場の福祉を殺す逆機能を果たしているというアイロニーにも、もう少し多くの人が意識を持って欲しいところです。

年金というものを「ワシが積み立てたものじゃ」と認識する私保険的感覚(それ自体は一つの経済イデオロギーとしてありうることは否定しませんが)の社会政策的帰結に対して、もう少し敏感であってほしいという思いは否めません。

2018年12月13日 (木)

「あらゆる差別の禁止」!?

日経新聞がこういうとんでもない見出しで記事を書いているので、

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38869780T11C18A2CC0000/「あらゆる差別を禁止」条例成立へ、東京・国立市

東京都国立市で、あらゆる差別を網羅的に禁止する条例が制定される見通しとなった。ヘイトスピーチ対策法、部落差別解消推進法、障害者差別解消法の「人権3法」が求めた自治体の取り組みを受けた。12日の市議会総務文教委員会が全会一致で可決。21日の本会議で成立すれば2019年4月に施行される。・・・

まさかほんとうに「あらゆる差別を網羅的に禁止する条例」なんて代物が成立するはずがないが、と思いながら見に行くと、案の定、

http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/69/gian30_3_0068.pdf(国立市人権を尊重し多様性認め合う平和なまちづくり基本条例案)

「人種、皮膚の色、民族、国籍、信条、性別、性的指向、性自認、障害、疾病、職業、年齢、被差別部落出身その他経歴等を理由とした差別を行ってはならない」と言っているだけです。

これらは、(「その他経歴等」の「等」の中身が不明確な点に一抹の不安がありますが)人権的差別禁止の国際的にほぼ標準的な相場であって、これを「あらゆる差別の禁止」などという神経が信じがたいものがありますが、日経新聞の記者が勝手にそういう言葉を使ったとも思えないので、たぶん国立市の人がそういう言い方をしたんでしょうな。

これって、要するに、自分がなにをしようとしているかが本当のところよく分かっていないということを露呈しているような。

本当に言葉の正確な意味で「あらゆる差別を網羅的に禁止」したら、いかなる社会も存立不可能なはずです。今話題になっている医学部の不正入試も、入試とは成績で差別することなんだからそもそも正当な入試はあり得ない。

『季刊労働法』263号

263_hp『季刊労働法』263号の案内が労働開発研究会のHPにアップされています。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/6529/

特集は「労働契約法20条・最高裁判決の検討」で、

労働法学,労働者側,使用者側の弁護士,労働組合などの立場から「日本型・同一労働同一賃金」ルールが当面どのようになっていくか,中長期的な経済社会の変化を踏まえたその先の「日本型・同一労働同一賃金」のあるべき方向性,日本企業の人事・評価制度の見直しの方向性はいかにあるべきか,検討します。

下記の通り、学者、労使双方の弁護士に加えて、全国一般の須田さんと日本総研の山田さん。

有期契約労働者の公正処遇をめぐる法解釈の現状と課題―2つの最高裁判決を受けて 南山大学教授 緒方桂子

長澤運輸事件・ハマキョウレックス事件・最高裁判決の検討(労働側弁護士の立場から) 弁護士・早稲田大学大学院法務研究科教授 小林譲二

使用者側弁護士から見た20条最高裁判決 弁護士 丸尾拓養

労働組合は非正規労働者への差別撤廃をめざす ―労契法20条最高裁判決を受けて― 全国一般東京東部労働組合書記長 須田光照

労契法20条最高裁判決を踏まえた同一労働同一賃金の今後 ―人事・賃金管理への影響 株式会社日本総合研究所理事/主席研究員 山田 久

第2特集は「「報告書」から立法政策を問う」と、やや無理矢理くっつけたような感じですが、

「今後の障害者雇用促進制度の在り方に関する研究会」報告書を読む ―報告書の意義と今後の課題― 上智大学教授 永野仁美

「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」報告書の意義と課題 法政大学現代法研究所客員研究員/中央大学兼任講師 滝原啓允

「人材と競争政策に関する検討会」報告書の読み方の一考察 弁護士 矢吹公敏

それ以外は以下の通りですが、

■論説■フランスにおける社会経済委員会の設置 ―二元代表システムの新展開 九州大学名誉教授 野田 進

■アジアの労働法と労働問題 第35回■ (公財)国際労働財団(JILAF)の取り組み (公財)国際労働財団 鈴木宏二

■イギリス労働法研究会 第31回■ イギリス労働法のWorker概念(2・完) 北九州市立大学准教授 石田信平

■労働法の立法学 第52回■ 健康保険の労働法政策 労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎

■判例研究■ 家庭生活上の不利益を伴う転勤と配転命令権の濫用 一般財団法人あんしん財団事件・東京地判平成30年2月26日労判1177号29頁 弁護士 千野博之

医師の労働時間該当性と連続勤務における割増賃金規制の範囲 医療法人社団E会(産科医・時間外労働)事件・東京地判平成29年6月30日労判1166号23頁 北海学園大学大学院 池田佑介

■キャリア法学への誘い 第15回■ 労働施策推進法の意味 法政大学名誉教授 諏訪康雄

■重要労働判例解説■ 指定管理者制度導入に伴う病院職員に対する分限免職処分 西条市(市立周桑病院)事件(高松高判平成28年8月26日労判1163号53頁) 全国市長会 戸谷雅治

全社員販売・WEB学習時間の労働時間性 西日本電信電話ほか事件(大阪高判平成22年11月19日労経速2327号13頁) 社会保険労務士 北岡大介

このうち、わたくしの「健康保険の労働法政策」は、次のような内容です。一見トリビアな話ばかりに見えるかも知れませんが、結構一つ一つが重要な論点です。

はじめに
1 被用者健康保険制度の成立
(1) 健康保険法制定の背景
(2) 健康保険法の内容
(3) 健康保険組合
2 健康保険法の改正とその他の被用者健康保険制度の制定改廃
(1) 制定当時の強制被保険者
(2) 制定当時の任意包括被保険者と強制被保険者の拡大
(3) 職員健康保険法
(4) 船員保険
(5) 1939年健康保険法改正(家族給付の導入)
(6) 1942年健康保険法改正
3 国民健康保険法
(1) 国民健康保険法の制定
(2) 新国民健康保険法
4 被用者健康保険制度の戦後の展開
(1) 労災保険の分離
(2) 健康保険の適用対象
5 日雇労働者健康保険と一人親方
(1) 日雇労働者健康保険制度の創設
(2) 一人親方への日雇健保擬制適用
(3) 擬制適用の廃止と建設国保
6 短時間労働者への非適用問題
(1) 1956年通達
(2) 1980年内翰
(3) 1980年内翰の背景
(4) 被扶養者の範囲
(5) 非正規労働者への適用拡大
(6) 非正規労働者への適用拡大第2弾
(7) 非正規労働者への適用拡大第3弾?
7 法人代表者の扱いと健康保険法と労災保険法の間隙
(1) 「間隙」の誕生
(2) 労災保険の特別加入
(3) 2003年通達
(4) 2013年改正
(5) 健康保険法上の労働者概念

2018年12月12日 (水)

経済同友会の「Japan 2.0」

いやまあ、インダストリー4.0とか、ソサエティ5.0とかいうのをいつも目にしていると、ジャパン2.0って、えらく控えめな感じがしますが、さにあらず。総論部分は大変飛ばしてます。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2018/181211a.html

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/uploads/docs/fa762c713fc890b38fcf18c427566f9aa9922165.pdf

Japan 2.0 最適化社会の設計-モノからコト、そしてココロへ-

どれだけ飛ばしているかは是非リンク先をご自分でお読みいただければ、と。

その問題意識のいくつかは共有する面もありますが、議論が滑っているところが気になるとなかなか素直に頭に入ってきません。

「モノ」から「コト」へ、という話をするのに、こういうフランス現代思想がやらかしそうな議論をわざわざ展開する必要があったんだろうか、とか。

・・・今後、リアルとバーチャルの融合、相互作用により、既存の産業構造の変革が進むと共に新たな産業の創出が期待される。このリアルとバーチャルの関係性は、量子力学の重要な特性である光の粒子と波動の二重性になぞらえて考えることができる。

リアルとバーチャルの関係性は数学的に複素空間で表現するとz=a+bⅰとなる。「重さのある経済」は、モノや物質のa(atom)、重さのない経済はコト・情報のb(bit)、複素数ⅰはinternet のⅰとすれば、経済のリアルとバーチャルの関係性を簡潔に表現できる。これは、一般的に言われるサイバー・フィジカル・システム(CPS)20と同意である。・・・

Doyukai

正直、アラン・ソーカルあたりに批評してもらいたい感がありますね。

一方、具体的な政策論を労働問題についてみていくと、

①労働法制改革の継続

・裁量労働制の対象を拡大する。

・解雇無効時における金銭解決制度を導入し、補償金の算定方法や水準を具体的に法定する。

・自立型プロ、高度フリーランサー等の雇用を前提としない就労形態と働き方を支える権利保護を整備する。

②多様な働き方の選択肢の増加

・多様な正社員制度の導入・活用、働く場所や時間のフレキシビリティの向上(テレワークの推進、一律的管理からの脱却)を推進する。

・個人の専門性を多様な場で活かし、組織の枠を越えて技能や人脈を培うために、企業などにおける兼業・副業の禁止規定の緩和とガイドライン策定を推進する。

③雇用流動化の仕掛けづくり

(a)メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への段階的移行

・企業は、時代に合わなくなった雇用慣行の打破に向けて、「新卒・既卒ワンプール/通年採用」の定着、一律的な定年退職制度の見直し、市場価値ベースの人事制度の構築などに取り組む。

・退職金税制について、廃止も含めた今後の方向性を検討する。

(b)デジタル化(AI 化)に対応した労働移動の支援

・労使による支援や、企業単位ではなく特定の職業・スキルを軸に就労を可能にする仕組みを検討する。

・キャリア変更(再就職支援)にかかる費用を、労働者、国、企業等が共同でファイナンスする仕組みを検討する。

④外国人材受け入れのための戦略的で開かれた制度の創設・運営

・中長期視点に立った外国人労働者受け入れに関する方針、包括的政策の策定、および政策実行の司令塔的役割を果たす組織の強化を行う。

・受け入れ対象の業種・職種、および受け入れる人材の質と規模について、客観的な分析・判定を行う仕組みを構築する。

・外国人材の受け入れについて実効性のある監理を行うために、送り出し国における選考、受け入れから帰国支援までのプロセスに国(政府)が直接関与する仕組みや、外国人材を雇用する企業を管理する仕組みを検討する。

・家族帯同への対応も含めた、外国人材受け入れの環境整備の拡充を図る。

・外国人が多く集住する地域の地方自治体に、日本語教育支援等、社会統合政策の強化に必要な予算を配分する。

まず最初に、④の外国人労働者の話は、少なくとも改正入管法が成立した現時点ではもっともまともな提言なので、是非考慮されるべきだと思います。

しかしその前は、あれだけ壮大な話をぶち上げる必要があったのかよく分からないような毎度おなじみの話ですね。

ソーシャル・ヨーロッパにピケティ登場

Piketty_bio本ブログで時々紹介がてら抄訳している「ソーシャル・ヨーロッパ」に、日本でも有名になったピケティが登場しています。曰く:「欧州民主化宣言」(Manifesto For The Democratization Of Europe)。おぅおぅ、マニフェストだってさ。

https://www.socialeurope.eu/manifesto-for-the-democratization-of-europe

さすがにピケティなので、いちいち訳さなくてもリンク先の英語を一生懸命読もうとしてくれるでしょう、ということで、今回は抄訳はなし。

Manifesto for the democratization of Europe

We, European citizens, from different backgrounds and countries, are today launching this appeal for the in-depth transformation of the European institutions and policies. This Manifesto contains concrete proposals, in particular a project for a Democratization Treaty and a Budget Project which can be adopted and applied as it stands by the countries who so wish, with no single country being able to block those who want to advance. It can be signed on-line (www.tdem.eu) by all European citizens who identify with it. It can be amended and improved by any political movement.・・・

国際自動車労供事件

水谷研次さんの「シジフォス」で、国際自動車労供事件の東京都労委命令が取り上げられていて、

https://53317837.at.webry.info/201812/article_8.html(国際タクシー労協事業での不当労働行為が断罪)

その都労委命令がこちらですが、

http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/12/10/03.html

話の中身は、私が一昨年に東大の労働判例研究会で評釈したものとほぼ同じですね。

これは『ジュリスト』には載せなかったのですが、理路自体はこの通りだといまでも思っているので、関係者の参考までにお蔵出ししておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan161007.html

労働判例研究会                             2016/10/07                                    濱口桂一郎

 

国際自動車事件(東京地判平成27年1月29日)

(労働経済判例速報2241号9頁)

 

Ⅰ 事実

1 当事者

・原告X:Yに雇用されてタクシー運転手として勤務し、平成25年1月17日に64歳の定年を迎えた労働者。

・被告Y:タクシーによる一般旅客自動車運送事業を業とする株式会社。なお、Xを採用時は国際自動車という同一商号の別会社で、平成21年4月に会社分割により旧ケイエムタクシーにタクシー事業が承継されるとともに国際自動車に商号変更され、これが現在の国際自動車である。紛らわしい上に判旨に関係ないので、本評釈では法人格にかかわらず全てYで通す。

 

2 事案の経過

・平成17年、XはYに雇用され、タクシー乗務員の業務に従事。

・YにはU1という多数組合、U2という少数組合、U3という新設組合(平成22年11月結成)がある。Xは入社時はU1に加入したが、その後U2に加入し、そこでU3の結成に関与し、その委員長を務めた。なおU3の上部団体がU3’である。

・Yは従前、就業規則25条2項の定めに基づき、嘱託という形式で定年後再雇用を行っていたが、平成10年下記U1との合意で凍結され、以後同項に基づく嘱託職員としてタクシー乗務員を雇用する運用はしていない。

・Yは平成10年、定年に達したタクシー乗務員について労働者供給事業を利用する形を採用することとし、同年9月U1と労働者供給に関する基本契約を締結した。平成18年2月にはU2とも同様の基本契約を締結した。いずれも労働協約ではない。

・定年の近づいた乗務員は所属組合で登録され、Yによる選定の上、定年後は組合からの供給労働者として業務に従事する。

・平成24年11月頃、XはYから、U3は労働者供給事業の許可を有する労働組合に所属していないので定年後雇用できないとの回答を受け、U3’は平成25年3月1日付けで労働者供給事業の許可を得た。

・平成25年1月7日、U3’とU3はYに対してU1、U2と同様の労働者供給に関する労働協約の締結とそれに基づくXの再雇用を求めたが、1月11日Yは拒否した。1月13日再度要求したが、1月17日再度拒否した。

・Xは平成25年1月17日に定年に達してまもなくU3の組合員資格を喪失した。

・U3は平成26年6月1日付けで労働者供給事業の許可を得たが、YとU3の間に労働者供給に関する基本契約は締結されていない。

・Xは「定年後もYによる雇用が継続するとの労使慣行、又は黙示の合意の成立、若しくは合理的な雇用継続に対する期待があるにもかかわらず合理的な理由なく再雇用を拒否されたこと、のいずれかの事情の下、Yに再雇用されていると主張し」、主位的に労働契約上の地位確認、予備的に再雇用拒否を不法行為として損害賠償を請求して提訴した。

 

Ⅱ 判旨

1 定年後乗務員を再雇用する労使慣行の有無

(上記労働者供給事業を利用する枠組みを採用していたことから)「Yが、定年後の雇用継続を希望する乗務員を原則として再度雇用するという取扱いを行っていたとの事実を認めることはできない。したがってXのこの点に関する主張は、慣行と評価すべき事実自体が存在せず、前提を欠くものとして理由がない。」

2 Xを再雇用するとの黙示の合意の有無

「Yにおいて、定年後乗務員のうち、希望した者は特別な事情のない限り、再雇用されることが長期間にわたり反復継続して行われていたとの事実が認められないことは、前記2(本評釈Ⅱ1)で判示したとおりであり、Xの前記主張は前提を欠くものである。」

3 解雇権濫用法理の類推適用の可否

「定年退職後の再雇用は、それまでの雇用契約とは別個の新たな契約の締結に外ならない。すなわち、使用者は労働者を再度雇用するか否かを任意に決めることができ、新たな雇用契約の内容については、労働者及び使用者双方の合意(申込み及び承諾)が必要であり、労働者において、新たな雇用契約が締結されるはずであるとの期待を有して契約の締結を申し込んだとしても、使用者において、当該期待に応ずるべき義務が生ずる基礎がなく、それゆえ、申込みに対する承諾なくして労働者と使用者間に新たな雇用契約が締結したというべき法的な根拠はない。」

「Yにおいては、事実上、定年後の乗務員の再雇用は労働者供給事業によるとの運用が確立しており、就業規則25条2項に基づく再度の雇用など、労働者供給事業以外の枠組みによる再雇用は、XがYに入社した時点では既に行われていなかった・・・ところ、Xも、遅くとも平成24年11月上旬の時点では、Yからの回答により、このことを認識していた・・・上、Xが定年に達した時点では、Xの所属組合であるU3及びU3’のいずれも、Yとの間で労働者供給に関する基本契約の締結に至らず、かつ、労働者供給事業の許可も取得していなかった・・・ことを踏まえると、Xの期待が、Yにおける具体的な状況に照らして合理的なものであったとはいえない。」

4 YのXに対する不法行為の成否及び損害額

「本件は、定年退職後の新たな雇用契約の締結(雇入れ)の問題であるところ、雇入れの拒否は、それが従前の雇用契約関係における不利益な取扱いにほかならないとして不当労働行為の成立を肯定することができる場合に当たるなどの特段の事情がない限り、労働組合法7条1号本文にいう不利益な取扱いには当たらないと解するのが相当である(=JR北海道・JR貨物採用差別事件最高裁判決)。」

「Yの運用・・・に照らせば、YがU3及びその上部団体であるU3’のいずれとも労働者供給に関する基本契約を締結しない場合、U3に所属するYの乗務員は、就業規則25条2項の規定にかかわらず、事実上、Yに再度雇用される可能性がないことは、Xの指摘するとおりである。しかし、U3’がYとの間で労働者供給に関する基本契約を締結し、これに基づき所属組合員であるXの再雇用を実現するには、前提として、労働者供給事業の許可を取得していることが必要であるところ、U3’が当該許可を取得したのは、Xが定年に達し、Yを退職した後の平成25年3月1日・・・である。したがって、Xの定年退職時における再雇用の問題に限っていえば、Yが両労働組合と労働者供給に関する基本契約を締結しなかった結果、Xの再雇用がなされなかったという関係にはない。」

「Yが、U3’との間で労働者供給に関する基本契約を締結しなかったことについては、U3’はいわゆる一般労組であるため、仮にU3’と労働者供給に関する基本契約を締結した場合、いかなる組合員が労働者供給を申し込むことになるのか、Yにおいて把握できなかったことから、上部団体又は外部組合とは契約の締結ができない旨回答しており・・・、Yの対応として無理からぬ面があるともいいうるところ、X本人の供述によれば、U3’は、この点に関してYに格別説明を行っていないことがうかがわれる。以上の経過に照らせば、Yが、U3’からの労働者供給に応じなかったことには、相応の理由があったものといえ、Xに対する不利益取扱い・・・に当たるとまではいえない。」

「また、Xは、定年退職後まもなくU3の組合員資格を喪失している・・・ので、その後の出来事である、YがU3からの基本契約の締結の申込みに応じていないことを、Xに対する不当労働行為として問題にする余地はない。」

 

Ⅲ 評釈 

1 本件労供事業による再雇用制度の高年齢者雇用確保措置該当性

 本件においてX側は、「定年後もYによる雇用が継続するとの労使慣行、又は黙示の合意の成立、若しくは合理的な雇用継続に対する期待があるにもかかわらず合理的な理由なく再雇用を拒否されたこと、のいずれかの事情の下、Yに再雇用されていると主張したため、判旨はそのそれぞれに対して否定的な結論を導いている。しかしながら、本件は64歳定年後の再雇用が問題となっており、高齢法9条の高年齢者雇用確保措置の義務づけの対象に含まれる以上、その点を全く論じないで結論を導いている本件判決には問題がある。なお高齢法平成24年改正は平成25年4月1日に施行されているので、本件定年退職はその直前の平成25年1月17日であり、同改正前の規定、すなわち労使協定により対象者選定基準を定めることができるという規定が適用される。

 その意味で、X側が主張しなかったからとはいえ、判決が漫然と「定年退職後の再雇用は、それまでの雇用契約とは別個の新たな契約の締結に外ならない。すなわち、使用者は労働者を再度雇用するか否かを任意に決めることができ」るなどと論じているのは、既に定年後再雇用に係る判決が多数蓄積されている状況下ではいささか問題がある。

 同規定それ自体は直接私法的効力を有さない公法上の規定であるとしても、同規定に基づく継続雇用制度を導入していれば当該制度の効果として再雇用の可否が論じうる。本件においては、労働組合による労働者供給事業を通じた再雇用という特殊な形態をとっているが、それが高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に該当するのであれば、当然当該労供制度の合理的解釈によって問題を決すべきである。もし、当該労供制度が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に該当しないというのであれば、就業規則25条2項による再雇用が「XがYに入社した時点では既に行われていなかった」と認定している以上、高齢法9条違反ということになる。そのことが直ちにXの地位を左右するものではないとしても、もしその旨が公式に認定されれば、同法10条の勧告、公表等の対象となりうる状態であることが明らかになるはずであるから、X側がこの論点を全く主張しなかったことは不思議である。仮に当該労供制度ではなく就業規則25条2項の存在だけで高齢法9条の公法上の義務は果たしているという解釈をとるのであれば、今度は当該就業規則の私法上の効力として「XがYに入社した時点では既に行われていなかった」との認定でその適用を排除することは困難であろう。本判決でも、労供事業による再雇用が制度として確立しているから当該就業規則の適用を否定しているのであり、そうすると結局、労供事業による再雇用が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に当たるからということに帰着する。

 実際、本件労供事業による再雇用は、①Yから定年が近づいた乗務員に定年到達日を通知、②当該乗務員が雇用継続を求めた場合は所属組合で労供登録、③登録の通知を受けてYは乗務員に健康診断を受けさせ、定年後雇用するか否かを決定し、所属組合に供給申込、④Yと当該所属組合は当該乗務員の供給契約を締結、⑤Yは当該乗務員と労働契約を締結、という手続になっており、形式上は高齢法9条の雇用確保措置を満たしている。しかしながら、所属組合による労供事業という迂回路を挟むことで、再雇用を求める労働者の希望が制度的に排除されるようになっているとすれば、それが法の趣旨に沿ったものであるかどうかを論ずる必要がある。その際、継続雇用制度の導入を義務づける高齢法の趣旨と、労供事業を労働組合のみに認めた職業安定法の趣旨と、当該事業の主体である労働組合に関する労働組合法の趣旨を総合的に考える必要があろう。

2 平成24年改正前継続雇用制度としての法適合性

 上述のように、本件定年退職は平成25年1月17日であり、平成24年改正前の継続雇用制度の規定、すなわち労使協定により対象者選定基準を定めることができるという規定が適用される。本件労供事業による再雇用制度はこの規定に適合していると言えるであろうか。両者の間にはいくつものずれがある。そもそも高齢法上の労使協定は過半数組合又は過半数代表者が締結するものであり、これに該当する組合はU1のみである。また、高齢法が認めているのは対象者選定基準を定めることのみであって、上記①~⑤の手続がこれに適合しているかどうかは微妙である。

 しかしながら一方で、定年後再雇用の可否を労働者の集団的意思にかからしめる仕組みという意味ではその趣旨に反するものとは言えないし、そもそも労働者の集団的意思の代表性という点で、法が認める過半数代表者との労使協定よりも多数少数にかかわらず労働組合との合意の方が高く評価されるべきともいいうる。仮に本件労供事業による再雇用制度が平成24年改正前高齢法に適合しないことを理由に高年齢者雇用確保措置に該当しないとすると、Yは高齢法違反の状態にあるか、又は就業規則25条2項による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置に該当すると解さざるを得ず、現実に大多数の定年退職者が労供事業による再雇用制度で再雇用されている実態と乖離することになり、適当とは思われない。従って、法の想定する制度とはずれがあることを認めつつ、高齢法の高年齢者雇用確保措置として認めた上で、それが労働組合による労働者供給事業という職業安定法上特に認められた制度として適切であるかどうかを検討し、仮に不適切な部分があれば、当該部分に限って修正する形で解釈することが適当であろうと思われる。

3 労働組合による労供事業としての法適合性

 本件定年退職時点でU1及びU2の両組合は労働者供給事業の許可を得、Yと基本契約を締結して労働者供給事業を行っていたのであるし、その後U3’及びU3も労働者供給事業の許可を得ていることからすると、少なくとも取締法規としての観点からはこれら労働組合による労働者供給事業は職業安定法に適合するものと認められていると言ってよい。

 ただし、少なくともU1及びU2の現に行っている労働者供給事業は、もっぱらYの定年退職者のみを登録し、Yにのみ供給するというビジネスモデルであり、同法が本来想定する労働者供給事業とはかなりずれがあると思われる。労働者供給事業業務取扱要領では、「過去に労働者供給事業が果たしていた労働力需給調整機能を民主的な方法によって発揮できる」と述べており、労働力需給調整機能があることが前提であるが、Yの内部労働市場に閉ざされた労供事業において労働力需給調整機能がどれだけあるか疑問である。

 なお、同様に労働力需給調整機能を期待されて認められている労働者派遣事業においては、法制定以来企業グループ内に派遣会社を設立して特定企業の退職者を登録し、当該企業に派遣するというビジネスモデルがかなり広がっていたため、平成24年改正によっていわゆるグループ企業内派遣の8割規制(23条の2)及び離職後1年以内の派遣禁止(35条の5)が設けられている。

 職業安定法上にはかかる規制は存在しないので、U1及びU2の労働者供給事業は職業安定法に適合するものといってよいが、そのビジネスモデルのみが適正なものであるということはできない。本件においては、Xの定年退職時点でU3’及びU3は労働者供給事業の許可を得ていなかったので仮想的な議論になるが、仮にこれら組合がその時点で許可を得ていた場合に、Yが「U3’はいわゆる一般労組であるため、仮にU3’と労働者供給に関する基本契約を締結した場合、いかなる組合員が労働者供給を申し込むことになるのか、Yにおいて把握できなかったことから、上部団体又は外部組合とは契約の締結ができない旨」を主張したとすれば、それは職業安定法、労働者派遣法を通じる労働力需給調整機能のための法制度全体の趣旨に反するものといわざるを得ず、少なくとも本件判決が漫然と「Yの対応として無理からぬ面がある」などと述べるのは、労働市場法制に対する理解の欠如を示している。労働者派遣法であれば規制されるビジネスモデルが労働者供給事業では特に規制なく認められているというだけであって、それ以外のビジネスモデルを排除する論拠となるものではなく、むしろそれ以外のビジネスモデルこそが職業安定法の本来想定するモデルであるというべきである。

 もっとも、本件においてはU3’及びU3の労働者供給事業許可の取得もXその他のU3所属のY定年退職者のYへの供給を目指したものであるので、この趣旨論はそれとも内在的には反するものがあるといえるが、少なくとも上記理由によってYが基本契約締結を拒否したことについては問題があることを指摘する根拠とはなり得るであろう。そして、そうだとすると、このYによる基本契約締結拒否はU3に所属する労働者を再雇用しないことを目的とした行為であり、労働組合への所属を理由とした不利益取扱いあるいは支配介入として不当労働行為に該当するのではないかという論点が提起されうる。

 以下U3’又はU3がXの定年退職時に労供事業の許可を得ていたにもかかわらずYが基本契約の締結を拒否したと反実仮想した上で検討する。

4 労働者供給事業と不当労働行為該当性

 U3’ないしU3もU1及びU2と同様に労働者供給事業の許可を得ていたとするならば、YがU3’ないしU3との間で労働者供給事業の基本契約の締結を拒否することは、U3に所属する労働者に対する不利益取扱いあるいは支配介入として不当労働行為に該当するのではないか、というのがここでの論点である。

 国・中央労働委員会(近畿生コン)事件(東京地判平成21年9月14日*1)では、原告企業が「労働組合の労働者供給事業は、純然たる事業活動で取引行為であるから、企業や他の労働組合と対等、平等に経済的原理に従って行うことが予定されており、労働組合法で保護される組合活動には当たら」ず、「純然たる取引行為に関して、原告がどの労働組合と労働者供給に関する契約を締結しようが、特定の労働組合との労働者供給活動を停止しようが、労働組合法7条3号の「支配介入」が問題となる余地はな」く、「労働者供給事業は、労働組合法の対象外であり、使用者がどの労働組合に供給を依頼するかは経営判断だから併存組合平等扱いの範疇外であり、組合間での異なった取扱いから不当労働行為意思を推認することはできない」との主張を退け、「原告は、補助参加人弱体化の意思をもって、補助参加人と連帯労組との間で、労働者供給事業における差別的な取扱いを行ったことが強く推認される」として「労働組合法7条3号の支配介入に該当する」と認定している。

 本件とは若干状況が異なるとはいえ、まさに労働組合の労働者供給事業に係る不当労働行為事件についての先行裁判例があるにも関わらず、それを一切顧みることなく、国会の制定した国鉄改革法によってJR各社への採用方式が定められていた特殊な事案であるJR関係事案の最高裁判決のみを引用して、漫然と「雇入れの拒否は・・・特段の事情がない限り、労働組合法7条1号本文にいう不利益な取扱いには当たらない」と論ずるのは、いささか突っ込み不足のそしりを免れないと思われる。

5 本件への当てはめ(反実仮想)

 まず、引き続きU3’又はU3がXの定年退職時に労供事業の許可を得ていたにもかかわらずYが基本契約の締結を拒否したと反実仮想した上で、あるべき議論の組立を考える。4で論じたように、かかる契約締結拒否行為はU3に対する不当労働行為を構成すると考えられるが、しかしながらだからといってYとU3’ないしU3との間で労供事業の基本契約が締結されていない以上、U3’ないしU3からXがYに供給されたものとみなすことはできない。この場合、2で高齢法の高年齢者雇用確保措置として認めつつも、不適切な部分があれば、当該部分に限って修正する形で解釈すべきとした考え方に立脚して、次のように考えることが適当と思われる。

 すなわち、Yの高年齢者雇用確保措置としては、U1及びU2についてはその労供事業による再雇用制度をそれに該当するものと認めつつ、U3’ないしU3についてはYの不当労働行為によって労供事業による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置としては認められず、その結果、労供事業による再雇用制度が十全に機能していれば活用する必要のない就業規則25条2項による再雇用制度が現存する高年齢者雇用確保措置として起動されることとなり、同規定に基づき再雇用されたものとして地位確認を求めることができると考えられる。

 この段階に立ち至って初めて、本件でYが繰り返し主張しているXの勤務状況の問題点(本評釈では省略)が論点になり、YがXを再雇用しなかったことの合理性が争われることになる。なお、本判決は直接論点ではないにもかかわらず、黙示の合意の有無のところでXの勤務態度に言及しているが、判決で認定されているXの勤務態度は必ずしも良好と言えるものではなく、それに基づいて再雇用を拒否することもありうるようなものであったとはいえよう。

6 非労供組合組合員の再雇用可能性

 ここまではU3’ないしU3もU1及びU2と同様にXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていたとする反実仮想に基づく議論であるが、実際にはU3’ないしU3はXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていなかったのであり、そうである以上その時点でYがU3’から求められた労供事業に関する労働協約を締結することはできないといわざるを得ず、その後U3’やU3が許可を得たときにはXはU3の組合員資格を失っていたのであるから、Xに関する限り上述のような理路で地位確認を求めることはできないし、損害賠償を求めることもできないといわざるを得ないであろうか。

 これは、Xがいずれの組合にも属さない非組合員であり、そのため労供事業を通じた再雇用の道が閉ざされているとした場合において、再雇用される権利が認められるかという問題とほぼ同次元に位置する。X側はこれを労使慣行、黙示の合意、雇用継続への期待といった茫漠たる一般論でのみ主張したため一蹴されてしまったが、上記1で述べたように本件再雇用が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置の義務づけの対象に含まれる以上、その観点からの緻密な議論が必要である。

 1で論じたように、本件労供事業による再雇用制度は高齢法の想定する高年齢者雇用確保措置とはずれがある。制度設計として最も重大な問題は、労供事業を行う労働組合に加入している労働者でなければ、そもそも再雇用を求めることができないという仕組みになっている点である。このような特定範疇の労働者の再雇用対象からの一括排除は、平成24年改正後の継続雇用制度に反することは言うまでもない。その場合、Yの有する再雇用に関する諸制度全体として高齢法の趣旨に沿うように解釈されるべきこととなり、U1との労供事業による再雇用の合意とともに「凍結」された状態にある就業規則25条2項の規定により直接再雇用されたものとして地位確認を請求することができるものと解すべきであろう。この状況は、ちょうどユニオンショップ協定に基づく非組合員又は当該ユシ協定組合以外の組合の組合員の解雇の是非の議論とパラレルな面がある。

 本件定年退職は平成25年1月17日であり、平成24年改正以前の継続雇用制度が適用されるが、本件におけるような非組合員又は労供事業組合以外の組合の組合員の包括的な再雇用制度対象からの排除は、当時の労使協定による対象者限定基準を満たすであろうか。当時の施行通達(平成16年11月4日職高発第1104001号)は、「ただし、労使で十分に協議の上、定められたものであっても、事業主が恣意的に継続雇用を排除しようとするなど本改正の趣旨や、他の労働関連法規に反する又は公序良俗に反するものは認められない」と述べ、「適切ではないと考えられる例」として「組合活動に従事していない者(不当労働行為に該当)」が挙げられている。本件は正確にはこれとは状況が異なるが、特定の組合への所属如何が継続雇用の対象となりうるか否かに直結しているという点で見れば、当時の労使協定による対象者限定基準としても許容範囲を超えていると言わざるを得ないであろう。

 かように考えると、実際にはU3’ないしU3がXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていなかったため本件再雇用がされなかったという状況下においても、Xについては労供事業による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置としては認められず、その結果、労供事業による再雇用制度が十全に機能していれば活用する必要のない就業規則25条2項による再雇用制度が現存する高年齢者雇用確保措置として起動されることとなり、同規定に基づき再雇用されたものとして地位確認を求めることができると考えられる。

*1http://web.churoi.go.jp/han/pdf/h10255.pdf

2018年12月11日 (火)

旧商法の辞職規定

退職代行業などというおかしなビジネスが横行する今日、いまから120年近く前に作られた旧商法のこの規定が復活したらいいんじゃないかという気もしてきます。

商法(明治23年法律第32号)

第1編 商ノ通則

第5章 代務人及ヒ商業使用人

第64条 商業主人カ商業使用人ニ相当ノ給料ヲ与ヘス又ハ之ニ違法若クハ不善ノ業務ヲ命シ又ハ其身体ノ安全、健康若クハ名誉ヲ害シ若クハ害セントスル取扱ヲ為ストキハ使用人ハ何時ニテモ辞任スルコトヲ得

国立国会図書館『EUにおける外国人労働者をめぐる現状と課題』

Ndl国立国会図書館の調査及び立法考査局より『EUにおける外国人労働者をめぐる現状と課題―ドイツを中心に― 平成29年度国際政策セミナー報告書』をお送りいただきました。

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11192835_po_201811.pdf?contentNo=1

国会図書館が今年2月、ちょうど安倍総理が経済財政諮問会議で外国人材の受入を宣言した直後に開いた国際政策セミナーの基調講演とコメント、パネルディスカッションを収録したものです。

基調講演者はオスナブリュック大学のアルブレヒト・ウェーバー博士で、コメンテーターは広渡清吾、中坂恵美子の両氏です。

中村民雄氏の司会でパネルディスカッションがされていて、そこでウェーバー氏の議論を広渡さんがかみ砕いて日本人の聴衆向けにこう説明しているのが重要です。

「移民政策ではない」という建前で外国人材を導入することの帰結がわかりやすく語られています。

<広渡教授>
 私もドイツの外国人法の制度と政策をかなりフォローしてこれまでやってきたのですけれども、元々ドイツの外国人受入政策の基本は、先ほどヴェーバー先生がおっしゃいましたように、「ドイツは移民国ではない」ということ、つまりアメリカやオーストラリア、ニュージーランドといった古典的な「移民を受け入れて成り立っている国」ではないのである、というのが大前提だったのですね。ですから、ゲストとして受け入れるけれども、それ以上のものではない、お客さんはいつか帰るものである、そういう前提でやってきた。
 ところが先ほどヴェーバー先生がおっしゃったように、これは理論とか制度とかの問題ではなく、人間がやってきたら、その人たちが生活の本拠としてその国に住み着くわけですから、これはドイツがどんな法原理を持っていたとしても、彼らがここを生活の本拠にして、もう出身国には帰れないという現実を受け止めるしかない。そこから、ドイツの外国人労働者問題、こういうテーマについての議論を始めなければいけないということになったのが2010 年前後で、「転換があった」とヴェーバー先生は先ほどおっしゃいました。
 ですから、移民は法的定義の問題ではないと盛んにずっとおっしゃっているわけですね。これは現実だと。ドイツの歴史的な現実を受け止めた「考え」なんですね。入国の時にはもちろん、ドイツの場合は制度として滞在許可をもらって入国するわけです。滞在許可を与えるところではきちんと要件が厳格に定められているので、もちろん誰でも入ってくるというわけではない。ひとたび滞在許可を得てドイツで滞在するようになれば、合法的に滞在許可を得て一定期間生活をしていると、永住許可をもらう権利ができるというシステムになっているので、先ほど先生がおっしゃった「入った時から移民だ」というのはそういうことなんですね。ですから途中で帰らせることができるという形で受け入れるということは、これはドイツが遭遇した歴史的リアリティから外れてしまう。このリアリティから外れないということになるまで、実に様々な議論があった。ドイツは1950 年代の半ばからずっと積極的に外国人労働者を受け入れて、そしてドイツの戦後の高度経済成長は、この外国人労働者の貢献なしには成り立たなかったということをドイツ人自身が認めた。つまりドイツの経済成長は、外国の人たちがやってきて助けてくれたおかげなんだ、ということも含めて、これが歴史認識になった。

同一労働同一賃金を掲げて均等・均衡処遇を売る@WEB労政時報

WEB労政時報に「同一労働同一賃金を掲げて均等・均衡処遇を売る」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=816

今年6月に働き方改革推進法が成立し、その大きな柱である「同一労働同一賃金」に係る具体的な省令や指針が、去る11月27日の労働政策審議会で了承されました。国会提出直前の修正により、施行は大企業が2020年4月、中小企業は2021年4月と後ろ倒しになっていますが、今後施行までの間に賃金制度の見直しを迫られる企業の人事担当者にとっては、長い苦闘の日々となりそうです。
 さて、今回の働き方改革は徹頭徹尾官邸主導で行われました。そのことの評価は立場によってさまざまであり得ますし、また事項によっても評価は分かれる可能性があります。中でも、やや不完全な形とは言え、これまで実現できなかった時間外労働に法律上の絶対上限を設定することが実現に至ったことは、官邸主導で強い政治的圧力がかかる中で立法政策が進行したことがその大きな要因であることは間違いないでしょう。それに対して「同一労働同一賃金」の方は、官邸主導でなければ「同一労働同一賃金」などという政策スローガンが国の最優先課題に祭り上げられなかったであろうことは間違いないですが、・・・・・

 

2018年12月10日 (月)

『生活経済政策』263号

Img_month『生活経済政策』263号をお送りいただきました。特集は「職場における性的マイノリティの権利保障」なのですが、私にとって大変興味深かったのは住沢博樹さんの「立憲主義と社会的保護のグローバル秩序のために — 西欧社会民主主義の21世紀の存在意義」でした。

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/

明日への視角

  • シビックテックと政治家の役割/辻由希

特集 職場における性的マイノリティの権利保障

  • はじめに—身近な職場の問題として考えるために/杉浦浩美
  • 職場におけるLGBT/SOGIと人権 ― 国際社会が求めていること —/谷口洋幸
  • 連合の性的指向・性自認(SOGI)に関する取り組みと職場の実態/佐藤太郎

論文

  • 立憲主義と社会的保護のグローバル秩序のために — 西欧社会民主主義の21世紀の存在意義/住沢博紀

連載 地域づくりと社会保障[6]

  • 学生と地域づくりと社会保障/森周子

書評

  • 中野晃一著『私物化される国家―支配と服従の日本政治』/石澤香哉子

本ブログでもときどき「ソーシャル・ヨーロッパ」の記事を紹介していますが、住沢さんはヨーロッパの社会民主主義がなぜこれほどまでに落ちぶれてしまったのかを幾つもの論考を引きながら論じています。

「進歩主義の21世紀との不幸な遭遇」という見出しが意味深ですが、こういう話が展開されていきます。

・・・社民政党からの本来の支持者であるブルーカラー労働者の離反を、以下のように説明する。ギデンスの提言の根底には、それまでの「不平等の克服」という社会民主主義の基本的目標を、「すべての人を包摂する、包摂としての平等」という概念に転換したことにあるという。その現実的な帰結として、労働市場と教育への公平な機会均等が最大の政策課題となり、結果として市民社会民主主義に陥ったとする。つまり平等とは、もはや分配の平等ではなく、労働市場に参入できる機会の平等となり、労働市場がグローバル化や情報化により、高度な資格や専門性を要求される現在、自律した高学歴な労働者と、より未熟練で起業規律に従う、あるいは失業にさらされる労働者への二極化を招いたとされる。・・・

・・・それまでの分配をめぐる闘争は、女性イシュー、環境、マイノリティなど、現在の「リベラル」といわれる政策ユニットとなり、それまで穏健なリベラルと穏健な権威主義(労働者階級)の両者を代表していたアメリカ民主党は、「金融資本主義と反権威主義的な個人の解放の聖ならざる同盟」という、進歩的ネオリベラルに到達したという。・・・

・・・彼の結論は驚くべきもので、ブレアの労働党がブルーカラー労働者を政治社会から排除したというものである。・・・

住沢さんはこうした議論を紹介した上で、「これからの社民政党の独自性とは、・・・Democracy with Right and Social Protectionということになるだろう」というのですが、その中身こそが問題なのです。

2018年12月 9日 (日)

「見えざる」低賃金カルテルの源泉

なんだかまたも低賃金カルテルの話題が一部で盛り上がっているそうです。

いうまでもなく、労働組合とは市場に任せていたら低くなりすぎてしまう賃金を団結の力で人為的に高くするための高賃金カルテルであり、そうはさせじとそれを抑える使用者団体がこれまた団結の力で人為的に賃金を低くするための低賃金カルテルであることは、(純粋経済学の教科書の世界ではなく)現実の産業社会の歴史から浮かび上がってくる厳然たる事実ですから、そもそも低賃金カルテルが経済学理論上どうとかこうとかというのは筋がずれている。経済学の教科書からすればアノマリーかもしれないが、現実の産業社会ではそれがノーマルな姿であったのですから。

問題は、今現在どこにも「こいつらにこれ以上高い賃金を支払わないようにしようぜ」と主張したり運動したり組織したりする連中が見当たらないのに、結果的にみんなあたかも低賃金カルテルを結んでいるかの如く賃金が上がらないのはなぜかという話であって、それを直接的に労働者に賃金を支払っている企業の経営者の心理構造に求めるのか、彼らが財サービス市場で直面する消費者という名の人々の行動様式によってもたらされているものなのか、もしそうならその原因はどこにあるのか、というようなことこそが実は重要なポイントであろうと思われます。

現在の日本では労働組合の力が弱体化してほとんど高賃金カルテルの役割が消え失せているため、わかりにくいのでしょうが、その現代日本でいまなお高賃金カルテルと低賃金カルテルが正面から目に見える形でぶつかり合っている世界があります。数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々の報酬を最大化しようとする医師会と、その報酬の原資を支払っており、それゆえその報酬をできる限り引き下げようとする健保連が、中医協という場で三者構成の団体交渉する世界です。個々の診療行為ごとにその価格付けをするという意味において、個々のジョブの価格付けをする欧米の団体交渉とよく似ており、逆にこみこみの「べあ」をめぐる特殊日本的労使交渉とは全く違います。

私の子供時代には、診療報酬の引き上げを求めて医師会が全国一斉にストライキ(保険医総辞退)なんてことすらありました。それくらい医師会という高賃金カルテルが強かったわけです。

面白いのは、他の分野では高賃金カルテルとして使用者側と対立しているはずの労働組合が、こと医療分野に関してはお金を出す側、医療という労務の供給を受ける側として、使用者団体と一緒に低賃金カルテルの一翼になっていることです。連合と経団連は足並みをそろえて「こいつら(医師)にこれ以上高い報酬を払わないようにしようぜ」と何十年も言い続けてきました。

私が思うに、この労働者側が(自分の属さない他の産業分野に対しては)低賃金カルテル的感覚で行動するという現象が、医療分野だけではなく他の公共サービス分野にも、さらには非公共的サービス分野にもじわじわと拡大していったことが、この「見えざる」低賃金カルテル現象の一番源泉にある事態だったのではないか。

もちろんその背後には、労働組合という高賃金カルテルが組織しやすかった製造業が縮小し、サービス経済化が進んだということがあるわけですが、普通の労働者が金を受け取ってサービスを提供する側、つまり高賃金カルテルになじみやすい感覚よりも、金を払ってサービスを受ける側、つまり低賃金カルテルになじみやすい感覚にどんどん近づいて行ったことは間違いないのではないかと思います。

(追記)

若干言葉が足りないところを補っておきます。

上記で、医師を「数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々」と呼んだことに、少なからぬ人が違和感を感じたかも知れません。社会階級論的に言えば、医師は弁護士と並んで最上級知識権力を享受する人々であり、実際所得階層的に見ても金持ちがいっぱいいるじゃないか、と。まさにその通りですが、しかしその高所得の源泉がその提供する「医療という労務」であり、金のあるなしを一切捨象した労務提供側か金銭提供側かという二分法で言えば労務提供者側として市場に立ち現れる人々であるという一点において、労働組合に団結して高賃金カルテルを遂行する労働者たちと何の違いもありません。

その最上級労働貴族層の高賃金カルテルを、普通の労働組合に組織される中間層的労働者たちが、より親近感を感じているのであろう使用者側と一緒になって、低賃金カルテル的に叩くという行動様式は、上か下かという階層論的にはよく理解できるとはいえ、労務提供側の高賃金カルテル叩きを当の労務提供側がやるという皮肉であったことも確かです。

この労務提供側の高賃金カルテルを、自分も別の市場では労務提供側であるはずの人々がそこではサービスを受ける側として叩きに走るというパターンが、限りなく低賃金層まで対象を下げてきたのが、いまの姿ではないのかというのが、上記だらだらした議論の言いたいことでした。

「許されない!」と宣言する法律

共同通信によると、

https://this.kiji.is/443697016644600929 (パワハラ「許されない」と法律に明記へ)

厚生労働省は7日、職場のハラスメント対策を巡り、パワハラやセクハラは「許されないものである」と法律に明記する方針を固めた。労働組合などが求めていた「行為自体の禁止」は見送るが、抑止効果につなげる狙い。

え?「許されない」と法律に書くって?

少なくとも労働法制でそんなの見たことないな、と思って調べてみたら、こういう法律に例があったんですね。

部落差別の解消の推進に関する法律 (平成二十八年法律第百九号)

(目的) 第一条 この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。

ちなみに、部落差別解消法では本則第1条で「許されない!」と宣言していますが、前文でそう宣言しているのがこちらの法律です。

本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律 (平成二十八年法律第六十八号)

我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽せん動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。 もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。 ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。

2018年12月 7日 (金)

『DIO』342号

Dio3421_2 『DIO』342号は、「少子化・人口減少の中で縮む「地域社会と教育」」が特集ですが、ここでは「働き方の多様化と公正な分配 −第31回連合総研フォーラム−」を紹介しておきたいと思います。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio342.pdf

このフォーラムの基調講演をした吉川洋さんの「日本経済の現状と 課題」の最後の部分から:

デフレの鍵は賃金デフレ

 日本経済の問題として、デフレがよくあげられます。 今の日本の物価の変化率はプラス0.7%くらいですが、 私は、少し前に(日本経済が)経験したマイナス0.8% くらいのデフレが日本経済の一丁目一番地の問題だと は思っていません。ですから、この5年半余りの黒田 緩和について、私は当初から批判的ですが、二重の意 味で間違っていると思います。デフレこそが一丁目一 番地の問題であると安倍政権が位置づけましたが、そ れが正しくない。2つ目は、仮にそうだとして、デフレ を止めるのは、マネーさえ増やせばすぐ止まると考えた こと。これも間違えています。これは5年半の経験を 見てみれば、マネーは増やしたけれども、物価は動か なかったということでしょうから、実証済みだと思いま す。ですから二重の意味で問題です。  日本がなぜデフレに陥ったのか。戦後、先進国の 中でデフレに陥った国はほとんどないのに、なぜ日本 だけが陥ったのか。その答えは賃金の動向にあると思 います。名目賃金が下がりにくいのは、戦後、先進国 に共通したことでした。この名目賃金が下がりにくいこ とこそが、デフレストッパーだったのです。ところが、 先進国の中で日本だけがこのデフレストッパーが止まっ た、壊れてしまったということです。1997〜98年、ち ょうど金融危機の頃です。労働組合もかなり守勢に回 って、そういう中で賃金が下がり始めるという傾向が 見られた。名目賃金が上がらない、ややもすると下が るということこそが、日本のデフレの最大の問題だと 思います。  この20年を通観しますと、賃金というのが一つの大 きな日本経済の問題ではないでしょうか。冒頭、消費 が6年経って、2%しか累積で増えない先進国は他に ないと言いました。なぜ、消費が増えないのか。要す るに可処分所得が上がらないということも一つの重要 な問題でしょう。もう一つの原因は、社会保障の将来 像がはっきりしない、将来不安もあると思います。賃 金が正当に報酬として払われる社会にならなければい けないと思います。

2018年12月 6日 (木)

経団連の「今後の採用と大学教育に関する提案」

経団連が「今後の採用と大学教育に関する提案」をアップするだけではなく、その最後のところで、大学側に対して「採用と大学教育の未来に関する産学協議会」の設置を呼び掛けています。これがなかなか面白い。

http://www.keidanren.or.jp/policy/2018/113_honbun.html

経団連はまず自分たち企業側の新卒採用のありようについて、率直にこのように述べます。

文系の総合職採用(オープン採用)では、入社後に複数の職務を経験するジョブローテーションを前提としたジェネラリストとしての採用が一般的である。個々人の将来性を総合評価する「ポテンシャル採用」であるため、採用時の学修成果に応じた入社後の職務内容やキャリアパスを具体的に示すことは難しいとする企業がほとんどである。学生に対しては、先輩社員の入社後のキャリアパスなどの事例(ロールモデル)を紹介することを通じて、大まかなイメージを持ってもらおうとしている企業が多い。

いわゆる典型的なメンバーシップ型の採用ですね。

しかし今後の方向性は大きく変えなければならないという意向を示します。

Society 5.0時代に適する人材育成を担う大学が教育改革を進めることはもちろん、企業もまた、時代に適合した人材活用、評価・処遇のあり方を考える中で、様々な採用・選考機会を提供し、様々な知識や経験を持つ多様な人材の獲得を図ることが求められる。そのために企業は、4月の一斉入社による集合研修を前提とした新卒一括採用のほか、卒業時期の異なる学生や未就職卒業者、留学経験者、外国人留学生などを対象に、夏季・秋季の採用・入社なども柔軟に行うべきである。
さらに今後、専門的な知識・技能や職務経験を有する高度な人材を採用するには、長期雇用を前提とした年功序列・横並びの賃金体系にうまく当てはめることができない事態も生じうる。このような人材に関して、職務の内容や成果に応じた人材活用、評価・処遇を行うジョブ型雇用の仕組みを構築する中で、採用においても、新卒・既卒や文系・理系の垣根を設けない、通年採用・通年入社等の多様な選択肢を設けていく必要がある。

そこで、大学に大きく変わってもらわなくてはいけない、という話の流れになります。

いくつもあるのですが、ポイントだけ引いておくと、

多様な価値観が融合するSociety 5.0時代の人材には、リベラルアーツといわれる、倫理・哲学や文学、歴史などの幅広い教養や、文系・理系を問わず、文章や情報を正確に読み解く力、外部に対し自らの考えや意思を的確に表現し、論理的に説明する力が求められる。さらに、ビッグデータやAIなどを使いこなすために情報科学や数学・統計の基礎知識も必要不可欠となる。
そのため大学は、例えば、情報科学や数学、歴史、哲学などの基礎科目を全学生の必修科目とするなど、文系・理系の枠を越えて、すべての学生がこれらをリテラシーとして身につけられる教育を行うべきである。理系とされる学部でも語学教育を高度化する必要があるし、文系とされる学部でも基礎的なプログラミングや統計学の学修が求められる。さらに、近い将来には、文理融合をさらに進め、法学部、経済学部、理学部、工学部といったこれまでの学部のあり方や学位のあり方、カリキュラムのあり方などを根本から見直すことが必要になると思われる。

デコレーションを抜いて率直に言えば、ベースラインとして数学、統計学はみんなできるようになれよという話、

大学教育改革の前提として、高大接続の円滑化に向けた取り組み#8をさらに推進し、高校卒業時に、大学で学ぶ最低限の基礎的学力が備わっているようにすることが重要である。また大学入試では、原則として、文系でも数学を、また理系でも国語を課すことを検討すべきである。

入試に数学のない私立文系の学生は採らないよ、ということでしょうか。

ほかにもいくつかの提起をしており、それらを踏まえて、

大学と経済界が直接、継続的に対話する枠組み(仮称:採用と大学教育の未来に関する産学協議会)を設置し、本提言で掲げた大学教育改革や新卒採用に関して企業側に求められる取り組みについて、双方の要望や考え方を率直に意見交換し、共通の理解を深めるとともに、具体的な行動に結びつけることを提案する。あわせて、当面、大学と経済界が共同で取り組むべき事項についても提案する。

と、大学側への呼びかけをしています。

これが面白いのは、この手の話は今までいつも、「そうは言っても現実の企業の採用行動がこうこうじゃないか」「大学側はそれに合わせているだけだ、文句があるなら、自分たちの採用行動を変えてからにしろ」という反発でごじゃごじゃになってきたわけですが、そこをきちんとすり合わせるような議論ができるのかどうかですね。

2018年12月 4日 (火)

リベラルの欺瞞@マルク・ザクサー

Marcsaxer 例によって、ソーシャル・ヨーロッパに昨日アップされた記事の紹介です。フリードリヒ・エーベルト財団のマルク・ザクサー氏による「リベラルの欺瞞」。

https://www.socialeurope.eu/the-liberal-delusion

There’s this prevalent idea that we have to take a firm stand against right-wing populism. Yet all the anti-populist hashtags, public un-invites, and goodwill gigs of recent years have done nothing to halt its rise. Clearly, we need a more effective strategy, and the path to finding it begins by asking a simple question: whose values are actually being defended here?

我々は右翼ポピュリズムに対して論陣を張っているという考えが広がっている。しかし、近年の反ポピュリストハッシュタグ、公衆機関からの締め出し、そして善意のギグは、ポピュリズムの興隆を全く止められなかった。明らかに、我々はより効果的な戦略が必要であり、それを見出す道は単純な問いを問うことから始まる:誰の価値がここで実際に守られているのか、と。

For as long as it is part of cultural class warfare, the fight against the far right will never be won. The frontline runs between middle-class groupings, which is why – even in these times of extreme inequality – the debate focusses on questions of morals and identity, not wealth distribution.

それが文化的階級闘争の一部である限りにおいて、極右に対する戦いは決して勝つことはできない。前線は中間階級のグルーピングの間を走っており、それゆえ極端な不平等の時代にあってさえ、論争はモラルとアイデンティティの問題に集中し、富の分配には及ばない。

For much of recorded human history, questions about who we are and where we are going have been the domain of priests and philosophers. Today, however, it is academics and creatives who are providing answers.

記録に残る人類の歴史のほとんどにおいて、我々は何者であり、どこに向かうのかといった問題は、僧侶や哲学者の領域であった。ところが今日、その答えを提供するのはアカデミックな学者やクリエイティブな人々だ。

According to sociologist Andreas Reckwitz, these winners in today’s post-industrial knowledge economy share values of cosmopolitanism, openness, and diversity, with a strong focus on the self and its needs. These values have become society’s yardstick and holy grail. In other words, people with academic degrees decide which lifestyles are considered valuable and which are not.

社会学者のアンドレアス・レクヴィッツによれば、今日の脱工業知識経済の勝ち組たちはコスモポリタニズム、公開性、ダイバーシティといった価値観を共有しており、とりわけ自己とそのニーズに強い関心をもっている。これら価値観は社会の価値基準や聖杯となった。言い換えれば、アカデミックな学位を持つ人々がいかなるライフスタイルが価値あるものであり、どれがそうではないかを決定するのである。

Many people, however, are unable to keep up in this permanent struggle for visibility, respect, and success, yearning instead for more protection, recognition, and belonging. It is primarily small-business owners, white-collar staff, and skilled workers – i.e. the backbone of the traditional middle class – who feel drawn towards communitarianism, toward a more homogenous society in which the values of duty and solidarity are reinstated.

しかしながら多くの人々は、この可視性、尊敬、成功への絶え間ない戦いに追いついていくことはできず、むしろもっと多くの保護を、承認を、そして帰属を渇望するのである。それは主として小企業主、ホワイトカラー職員、技能労働者であり、伝統的な中間階級の中核であり、彼らがコミュニタリアニズムに、義務と連帯の価値が復活したより同質的な社会に引き付けられるのである。

In order to create such communities, however, there needs to be a clear idea of who’s part of it and who isn’t. In political terms, this means responding to the liberal agenda of opening up societies, of removing borders and deregulating the economy with demands to close the frontiers and re-establish the primacy of national identity.

しかしながら、そのような共同体を作り出すためには、誰がその一部であり、誰はそうではないかについての明確な考えが必要だ。政治的用語でいえば、これは社会を開放し、国境を撤廃し、経済を規制緩和するリベラルなアジェンダに対抗して、国境を閉ざし、ナショナルなアイデンティティの優越性を再確立することを意味する。

Right-wing populists have taken on the leading role in this rebellion against liberalism. They were the first to find a way to express the feelings of insult and insecurity plaguing the old middle classes. And it is the members of these old middle classes who vote in higher numbers than the precariat, who are disenchanted with politics and more unlikely to cast a ballot. This solves the riddle of why voters of hard-right parties are not statistically poorer or less educated than the average.

右翼ポピュリストはこのリベラリズムに対する反逆において指導的役割を果たしてきた。彼らは真っ先に旧中間階級を悩ませる屈辱と不安定の感覚を表現する道を見つけた。そして政治に関心をなくし投票する気のないプレカリアートよりも、多くの投票をするのが彼ら旧中間階級である。これで、極右政党荷投票するものが統計的に必ずしも平均よりも貧しく教育水準が低いわけではないという謎が解ける。

The new middle classes, meanwhile, are in no mood to simply surrender the sway they hold over societal values and objectives. They respond to this attack on their cultural hegemony with cultural means and drawing a firewall between ‘decent people’ on one side and misogynist, xenophobic, racist authoritarians on the other. Using ‘virtue signalling’, they assign their cosmopolitan lifestyle a higher value than that of their opponents. The latter experience #noplatform, #refugeeswelcome or #metoo as cavalry charges pressed by culture class-warriors on their high horses.

一方、新中間階級は彼らが社会的価値観や目的に対して有している影響力を放棄する気など全くない。かれらは彼らの文化的ヘゲモニーに対する攻撃に対し文化的手段をもって対応し、一方の「上品な人々」と、他方における女性差別的で排外主義的で人種差別主義の権威主義者との間に防火壁を築こうとする。「美徳のシグナリング」を用いて、彼らは彼らのコスモポリタン的なライフスタイルを相手方のそれよりも高く価値づける。後者の人々は、#noplatform, #refugeeswelcome  #metoo といったハッシュタグを文化的階級戦士による高い馬上からの騎士の突貫として経験している。

Why is this class civil war between factions of the middle classes being fought over culture, though? In today’s post-industrial economy, it’s education and creativity which are decisive factors in living a successful life – more so than ever. Thanks to its cultural capital, the creative class is upwardly mobile while the former middle classes tumble down the social hierarchy.

しかし、この中間階級の党派間の階級的内戦はなぜ文化を巡って戦われるのだろうか。今日の脱工業経済においてはかつて以上に、成功した生活を送る決定的要素は教育と創造性である。その文化的資本のおかげでクリエイティブ階級が上方に移動する一方、旧中間階級は社会のヒエラルキーを転がり落ちる。

The fallen are now rebelling against this feeling of cultural downgrading. But because the new middle class owes its success to its cosmopolitan lifestyle, it is not prepared to accept any limitations to its moral authority. The culture war which has erupted between the cosmopolitans and the communitarians will decide who sets the tone in tomorrow’s politics, media, arts, and academia. The fact that the battles are being fought over cultural hegemony explains why political rifts are currently opening up along questions such as sexuality, identity, and language rather than wealth distribution.

墜ちたものは今やこの文化的格下げの感覚に対して反逆する。しかし新中間階級はその成功をコスモポリタン的なライフスタイルに負っているため、その道徳的権威にいかなる制限も受け入れる気はない。コスモポリタンとコミュニタリアンの間で勃発した文化戦争は、誰が明日の政治、メディア、芸術、そしてアカデミズムの基調を設定するかを決めるであろう。この闘争が文化的ヘゲモニーを巡って戦われるという事実は、なぜ現在政治的分断が富の分配よりもセクシュアリティ、アイデンティティ、言語のような問題に沿って開いているかを説明する。

Fights about moral issues and identity are a typical feature of the neoliberal age: many citizens have lost confidence in the state’s ability and, indeed, will to shape society. Change is now only possible on a grand scale if enough individuals see a need to change their behaviour.

道徳的問題やアイデンティティを巡る戦いは、多くの市民が国家の社会を形成する能力と意思に信頼を失ったネオリベラル時代の典型的な特徴である。変化はただ十分な個人が彼らの行動を変える必要を認めてのみ可能である。

Viewed from this perspective, resistance to rational movements such as the struggle to halt climate change or normative demands such as equality between the sexes can only be irrational (or just plain evil). As such, political disagreements between citizens become moral rear-guard actions against advancing barbarians who are therefore excluded from public debate: the battle cries are ‘No right to speak for old white men!’ or ‘By giving them airtime, the media is making the far-right socially acceptable!’

この視角から見ると、気候変動を止める戦いのような合理的な運動や両性間の平等のような規範的な要求への抵抗は不合理(ないし邪悪)なだけである。そのようなものとして、市民間の政治的不同意は、公共の議論から排除された野蛮人の進出に対抗する道徳的後衛行動となり、戦いの叫びは「高齢白人男性のための論する権利はない!」とか「彼らに放送時間を与えるのは極右を社会的に認めることだ!」となる。

The brutality – and the tragedy – of this cultural confrontation is that both sides are scared that society will crumble. This fear makes them all the more aggressive against those who they consider to be the enemies of all that is good and true. People who discern a threat to their way of living retreat ever more into tribalism.

この文化的衝突の野蛮性-と悲劇-は両方ともが社会が崩壊することを恐れていることだ。この恐怖は彼らすべてを、彼らが善と真実の敵とみなすものに対してより攻撃的にする。自分たちの生き方への脅威を感じる者は部族主義にこもっていく。

・・・There’s a second reason why ‘taking a stand against the far right’ isn’t effective. In this era of Trump, society has been reordered. While, previously, identity served primarily for minority groups as a rallying call, the identitarian movement has been successful in convincing the societal majority that it too is a minority under threat: White Americans, ‘Biological Germans’ (Biodeutsche), ‘True Finns’. This works in a way not so different to Hindu nationalists, Salafists, or fundamentalist Buddhists.・・・

「極右に対して論陣を張る」のが有効でない二番目の理由がある。このトランプの時代には、社会は再編された。かつては、アイデンティティは主としてマイノリティ集団の結集の呼びかけとして使われたが、アイデンティタリアン運動が社会の多数派を彼らも脅威の下にあるマイノリティだと納得させるのに成功した。白人アメリカ人、「生物学的ドイツ人」、「真のフィンランド人」と。これはヒンドゥナショナリストやサラフィストや仏教原理主義者も同様である。

For anyone attempting to save social democracy from this existential threat, the lesson is urgent: trying to draw a moral and linguistic cordon sanitaire around right-wing populists does not work – and indeed only serves to make them stronger.

社会民主主義をこの実存的脅威から守ろうとする者はだれでも教訓は喫緊である。右翼ポピュリストの周りに道徳的言語的防疫線を張ろうとしてもうまくいかず、実際にはむしろ彼らをより強大にするだけだ。

It is high time that progressive forces snap out of their moral panic and initiate a real political shift. Instead of staying catatonically fixed on the authoritarian extremists, democratic politics must shore up the centre; doing so means taking ordinary people’s concerns seriously rather than insulting them.

今や進歩的勢力が道徳的パニックから目覚め、真の政治的シフトを遂行すべき絶好の時期である。権威主義的極端主義に緊張病的に固着するのではなく、民主政治はセンターを支えなければならない。そうすることは、普通の人々の関心を侮辱するのではなく、真剣に取り上げることを意味する。

Those who, in view of the epoch-making shifts of globalisation, automation, climate change, and mass migration, are left feeling insecure are by no means automatically neo-Nazis. Far-sighted policy would address this feeling of insecurity and return to citizens some degree of control over their lives and their communities.

時代を画するようなグローバリゼーション、オートメーション、気候変動、大量移民の中で、不安定の感覚に放擲されている人々は決して自動的にネオナチになるわけではない。先見的な政策はこの不安定感覚をとりあげ、市民に自分たちの生活と共同体へのコントロールを取り戻すことが出来る。

Concretely, this means offering more job security and an improved social safety net, means a return to the state’s provision of public utilities, and means limiting and managing migration. It also means a consistent implementation of the rule of law and a spirited fight against criminality.

具体的には、これはより多くの雇用安定と社会的セーフティネットを提供し、国家が公共施設を提供する能力を取り戻し、移民を制限管理することを意味する。それはまた、法の支配と犯罪に対する精力的な戦いを実施することを意味する。

・・・Now, however, a new political force is feeding of this hubris, and converting popular anger over the ‘globalist elites’ into political capital. The neoliberal idea that societal problems can only be solved by individuals making changes to their behaviour has reached the end of the road. As a matter of fact, moralising categories (right/wrong, good/bad) make the search for workable compromises more difficult, so rather than arguing about language and values, we must go back to discussing strategies and politics.

いまや、新たな政治勢力がこの傲慢をえさとして成長しており、「グローバリストのエリート」に対する怒りを政治資本に転換している。社会問題は個人がその行動を変えることによってのみ解決されるというネオリベラルな思想は行き止まりに逢着した。実際、正/邪、善/悪といった道徳化されたカテゴリーはうまく働く妥協を求めることを困難にするのだから、われわれは言語や価値について論ずるのではなく、戦略と政治を論ずることに戻らねばならない。

Against the moralistic fury of the middle classes, we must erect a model of political thinking which sees change as the productive result of societal struggles. Yet these arguments cannot be won if societies dissipate into tribes. The genuine strength of big-tent parties is to build alliances between groups of citizens with varying identities which produce consensus, and struggles for recognition and redistribution can be combined as long as their agendas are aware of their impact on different classes. This means going beyond symbolic token politics and modifying structural conditions so that everyone can enjoy equal opportunities. Historically, it has been the role of social democracy to bring together these struggles: its political future, too, lies in renewing this alliance.

中間階級の道徳的怒りに対して、我々は変化を社会闘争の生産的結果とみなす政治的思考モデルを構築しなければならない。しかしこれらの議論は社会が部族に分断されれば勝てない。包括政党の純粋な長所は、様々なアイデンティティを持つ市民グループの間にコンセンサスを生み出す同盟を建設することであり、承認と再分配への闘争はそのアジェンダが様々な階級に及ぼす影響を認識する限りにおいて結合されうる。これは象徴的なトークン政治を超えて、構造的状況をだれもが平等な機会を享受できるように修正することを意味する。歴史的には、これら闘争を結びつけるのは社会民主主義の役割であった。その政治的未来もまたこの同盟を刷新することの中にある。

2018年12月 3日 (月)

前田正子『無子高齢化』

378359前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』(岩波書店)をおおくりいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b378359.html

現在約1.3億人の日本の人口は,2040年代に1億人を割るとされる.そしてその時日本は65歳以上の高齢者が4割の超高齢国となる──.「少子化対策」が叫ばれながら,なぜ日本の出生率は下がり続けるのか? そのカギは景気後退と雇用の劣化に翻弄された団塊ジュニアの未婚化にあった.一貫して少子化,子育てを研究してきた著者による「少子化対策失敗の歴史」と渾身の対抗策.

実は、目新しいことは何も書いてありません。前田さんをはじめとして、多くの心ある人々が口が酸っぱくなるほど繰り返し語り続けながら、きちんと対応されることなくいままでずるずると来てしまったこの国の姿を、改めてこれでもかと見せつけてくるような本です。

はじめに
 どんどん減っていく現役人口/“溶けない氷河”世代を社会に組み戻す

第1章 少産多死ニッポン 人口が減ると何が起こる?
 日本は少産多死の国/毎年五〇〇の学校が閉校している/合計特殊出生率一・四四で何が起こるか/問題は生産年齢人口 一・四人の現役で一人の高齢者を支える日/サービスもセーフティネットも成立しなくなる/もうミカンは食べられない?/水道事業は維持できるか/九〇歳はめでたくない? いまや約二一九万人/高齢者四割社会は未体験ゾーン/すでに地方では急速な人口減少が始まっている/生産年齢人口は激減していく/二〇四〇年,三人に一人が七五歳以上になる秋田県/出生数ゼロ地域の出現/無子高齢化は「今ここにある危機」

第2章 なぜこんなにも少子化が進むのか
 なぜ少子化が進んでいるのか──直接的な三つの要因/分水嶺は団塊ジュニアの未婚化/一生結婚しない人たち 生涯未婚率の上昇/晩婚化・晩産化はどんどん進む/ワンオペ育児とダブルケア/夫婦の平均子ども数の低下/いずれは結婚したいけれど……/コミュニケーション能力と経済力が必要/結婚・出産はぜいたく品?/若者の非正規化が未婚化を招く/非正規雇用の結婚へのハンディは女性にも/結婚の形が自由になればいいのか?

第3章 少子化対策失敗の歴史――混迷の霧の中を進む日本
 人口が増えては困る時代があった/一九七三年まで続いた移民送り出し事業/一九六〇年代からすでに若年人口は減少していた/一九六九年には生産年齢人口減が予測されていた/第二次ベビーブームの到来と「成長の限界」/一九七〇~九〇年代は人口ボーナスの時代/日本型福祉社会と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 成功体験の足かせ/「一・五七」はなぜショックだったのか/「産めよ殖やせよ」の呪縛で及び腰/少子化という「女子どもの問題」は後回し/広がらなかった危機感/なぜ効果を上げられなかったのか 小出しの施策/変わらない政治家の姿勢/担当職員ですら子育て支援には無理解/結婚・出産は「自己責任」か/次世代育成こそが高齢者福祉を支えるはずなのに/「子育てなんか他人事」のツケ/政治の混乱,リーマンショック/司令塔がいない少子化対策・子育て支援/世代再生産の最後のチャンスを逃す/霧の中を人口減少へと進み続ける日本

第4章 第三次ベビーブームは来なかった 「捨てられた世代」の不幸と日本の不運
 保育園だけが子どもの問題ではない/そして,第三次ベビーブームは来なかった/破綻した「学校と職業の接続」/企業は生き残り,国は滅びる──少子化を招いた「合成の誤謬」/「パラサイト」「ひきこもり」が覆い隠した雇用の劣化/非正規にしかなれない現実/見えない「もう一つの社会」/間に合わなかった支援/日本の不運 失われた二〇年と団塊ジュニア,そしてポスト団塊ジュニア/学校卒業時の景気で人生が決まる/溶けない氷河 残り続ける世代効果/親と子の世代が仕事を奪い合う皮肉な構造/次世代と仕事を分かち合ったオランダ/片働き社会から脱却できなかった日本/高卒者の場合 世帯の経済力によるハンディ/進路ルートから漏れていく若者たち

第5章 若者への就労支援と貧困対策こそ少子化対策である――包括的な支援が日本の未来をつくる
 人口減少は止められるのか/婚活支援より先にやるべきこと/結婚したいけれど…… ずれる理想と予定/男性の収入 女性の期待とその現実/男性の賃金は低下し続けてきた/子育て世代の家計も厳しい/奨学金が少子化を招く?/いま必要なのは人生前半への支援/就労支援と貧困対策こそ少子化対策/緩少子化と超少子化の国は何が違う?/家事・育児を一緒に担う共働きの方が総労働時間が増える/人材をムダにするな 放置される未婚無業女性/深刻化する八〇五〇問題/必死で働いて貧乏になった「安くておいしい日本」の限界/「日本は何もかもが安い」/競争原理と地方創生のどちらを取るのか?/もう新しいタワマンもダムも道路もいらない/社会のOSを変えよう 総合的な社会保障の再設計を/外国人労働者はモノではなく人間である/受け入れ体制をつくっていく覚悟と努力/体制整備のコストは行政に転嫁される/移民は人口問題を解決するか?

〈対談〉それでも未来をつくっていくために 常見陽平×前田正子
 「処置」しかなかった日本/構造的な変化であることを理解できなかった/「就職氷河期」という言葉の初出は一九九二年/ほんとうに凍り付いたのは二〇〇〇年代前半,ポスト団塊ジュニアを直撃/フリーターはほんとうに「究極の仕事人」か/みんなでこの国を貧しくした/日本は世界の中堅中小企業/国民に目を向けていない政治/誰もが付加価値を生み出せる産業で働けるわけではない/「若者を耐えろ」/「日本人再生プラン」を/希望格差,文化格差が広がる若年層/少子化対策・若年支援庁をつくれ/行政は仕事の再配分を/「労働とは何か」が問い直されなければならない/子どもにどのような未来を手渡すのか

おわりに

それにしても、こうしてまとめて通読すると、あそこでああしていれば、とか、ここでこうしていればという歴史のターニングポイントになり得た時代がそれなりにあったことが分かります。日本人は自分たちの意識的無意識的政治選択によって、それらをすべて潰してここに至ったわけです。

たぶん、わたくしにお送りいただいた趣旨は、最後の常見陽平さんとの対談を紹介しろよ、ということなのだろうと勝手に理解して、いくつか重要な発言をピックアップ。

常見 こうして俯瞰して明らかになるのは、そもそも構造が変わっていることに気づかず、政治家も経営者も、学者でさえも短期的な景気の循環の一側面であると認識していたことですね。日本社会全体が、構造変化についてあまりにも無頓着だった。・・・

本書の文脈からすると誤解のしようのない発言なのですが、ある種の人々(あえて「りふれは」とは言わない)にとって、構造的という言葉はもっぱら経済学という狭隘な世界の中における循環的と対に理解される以外のいかなる含意もないため、その狭隘な経済学的意味の『構造的』の外側には生身の人間たちが形作っている膨大な社会学的な『構造的』があるということを全く理解しないまま、「なにぃ?構造的?ふざけるな、循環こそがすべてだ、構造なんて叩きつぶせ」とばかりやってきたことの一つの社会的帰結がここにあると、常見さんは示しているわけです。まあ、ある種の『社会学者』の『構造』もひどいものではあったにせよ、それと一緒くたに捨ててはいけないものがあるということが分からなかった。

そして、本ブログで定期的に取り上げている生産性の話に繋がる話。

前田 私も学生と話しながらも本当に迷うのは、賃金の低さが未婚化に繋がり、少子化、無子高齢化をもたらしているんだと教えたら、学生はみんな最低賃金を上げるべきだと言います。でも、「そうするとユニクロのフリースが3990円とか4990円になるけど、みんな買うよね?」と聞くと、「それは困る」となってしまう。・・・結局安くても高い品質やサービスを追い求めることが、回り回って自分の首を絞めていると思うのです。・・・

消費者として「安くていい物」を追い求めていくと、自分たち労働力もどんどん「安くていい物」へのラットレースに追い込まれていくという逆説も、もう何回繰り返された話でしょうか。

繰り返します。本書には目新しいことは何も書いてありません。でも、だからこそ読まれるべき本です。

『月刊連合』12月号

Covernew『月刊連合』12月号は「若者の「働く」を考える」が特集です。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

今年10月、『30代の働く地図』と題する本が出版された。全労済協会が2017 年6月から1 年をかけて開催した「これからの働き方研究会」の成果をまとめたものだ。研究会の主査であり、本の編者である玄田有史東京大学教授は「若者の働くことへのイメージが急速に変わりつつある。希望を持って働いていくためには何が必要なのか。その道標を求めて議論を重ねた」と振り返る。
さて、どんな道標が示されたのか。玄田教授と神津会長が語り合った。

というわけで、玄田さん、神津会長に村上陽子さんも揃って親指立てている見開きページがこちらになります。

201812_p23

この冒頭のところで、玄田さん曰く、

私は、研究が中心の社会科学研究所の所属なので、学部生とはふだんあまり接点がないんですが、3年前から去年まで法学部と経済学部で労働経済を教えることになりました。授業の感想や質問には必ずメールで答えるようにしていたのですが、多くの内容に驚かされた。「いつから働くことがこんなに怖いことになったのか」と…。ちょうど東大を卒業して電通に入社した高橋まつりさんの過労自殺が明らかになったりして、学生たちは他人事とは思えなかったのでしょう。寄せられるメールからは、「働くことが怖い」という思いが強烈に伝わってきた。

東大法、経の学生でも働くのが怖いのでは、ほかの大学の学生は恐ろしくてガクブルではないか、というところから、この話は始まります。

「連合2019春季生活闘争中央討論集会を開催」の記事では、総合労働局長の富田珠代さんが「賃金の『上げ幅』のみならず『賃金水準』を追及する闘争を強化」を論じています。一部マスコミが表層的に揶揄的な報道をしたあれです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-adca.html(「べあ」から賃金水準へ)

2018年12月 2日 (日)

サンフォード・ジャコービィ『会社荘園制』@『HRmics』31号

1 『HRmics』31号。特集は「M&Aがあるじゃないか」ですが、私の連載「原典回帰」の第10回目は、サンフォード・ジャコービィの『会社荘園制』(北海道大学図書刊行会)です。

http://www.nitchmo.biz/hrmics_31/_SWF_Window.html

51w7pkhg2l_sx340_bo1204203200_  「原典回帰」連載開始以来、初めて現在なお活躍中の方の本を取り上げます。アメリカのサンフォード・ジャコービィ氏です。氏の『雇用官僚制』(Employing Bureaucracy)は、「アメリカの内部労働市場と“良い仕事”の生成史」という副題にあるように、アメリカ型の「ジョブ」に立脚した内部労働市場システムの歴史を描いた大著です。「アメリカに内部労働市場?」と思うかもしれませんが、内部労働市場という言葉はそもそもアメリカで生み出されたもので、それまでの「トレード」(職種)に立脚した外部労働市場型の社会のあり方から、20世紀前半に新たに登場しました。企業の事業を細かく分けていった管理単位としての「ジョブ」(職務)に立脚した仕組みは、20世紀アメリカ産業社会が生み出したものなのです。有名なドリンジャー&ピオリの『内部労働市場とマンパワー分析』がそのメカニズムを分析したものだとすれば、『雇用官僚制』はその生成の歴史を細かく跡づけた本と言えます。

 しかし、今回取り上げるのは誰もがジャコービィ氏の代表作と認める同書ではありません。『会社荘園制』(Modern Manors)というやや奇妙なタイトルのもう一冊の本です。『雇用官僚制』が20世紀アメリカのメインストリームとなった労働組合を組み込んだジョブ型内部労働市場を描いているのに対し、『会社荘園制』はその裏側でひっそりと生き延び、やがて組合の弱体化とともに勢力を拡大してきたノンユニオン型あるいはむしろ会社組合型の内部労働市場の歴史を描いているのです。なぜそっちを取り上げるのか?それは、それがいくつかの点で、日本的なメンバーシップ型の内部労働市場と似通った性格を示しているからです。 ・・・

2018年12月 1日 (土)

中国にとってのマルクス主義-必修だけど禁制

本ブログでも何回か紹介した川端望さんが昔のエントリを新ブログにお蔵出ししていて、最近も約5年前の「中国の必修科目としての「政治経済学=マルクス経済学」に隠された深遠な陰謀」を再アップされています。

https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/20131012.html

中国ではマルクス主義は国定思想なので、大学でも関係するいくつかの科目が必修科目になっている。そこにはマルクス経済学の基礎に相当する「政治経済学」も含まれる。

 この授業について、私の知る限り、中国の大学生から「つまらない。忘れました」という以外の感想を聞いたことがない。「ほんっとーに、つまらないです!!」「I hate it!」という表現さえ聞かれる。私自身が学生・院生時代に、当時すでに少数派となっていたマルクス経済学ベースの勉強をしていて、その問題点も多少はわかっているつもりなのだが、そういう学問的な問題ではないようだし、思想を押し付けられるのが嫌いというだけでもないらしい。

 ヒアリングと、北京や上海の書店で「政治経済学」の教科書らしきものもめくってみた限りでの情報をまとめると、以下のような事情らしい。

 政治経済学の授業のスタイルは、マルクス経済学の超要約版の教科書を使い、図式化して、丸暗記を強要するものである。内容のどこが現実の社会とどう関わっているのかといったことは一切やらない丸暗記らしい。つまり、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」を暗記するのとほぼ同じ要領で「社会的存在が社会的意識を規定する」と覚えるのだ。学生は試験のために暗記して試験終了とともに忘却し、ただ「つまらなかった」という感覚だけを心に残す。日本でも科目を問わずこういう授業は存在するが、教科書も教え方もそのもっとも悪いバージョンになっているようだ。

 もう少し詳しく言うと、資本主義経済については『資本論』の超要約版教科書を叩き込むのだが、社会主義計画経済の原理とそれが行き詰まった理由、中国の「改革・開放」を含む市場経済化の経済学的根拠については、ほとんど教えない。中国の経済学の授業なのに「改革・開放とはどういう原理でなされているのか」は語られないという不思議なことになる。よってますます現実と関係なくなり、学生が関心を持つべくもない。

なぜこんな、わざとつまらなく、わざと興味を待たせないような代物にしているのか?

共産党という名の政権党が支配する国の時代を担う若者たちに、その根本哲学を教えるという最も大事なはずの授業が、それをできるだけ教えたくないという気持ちがにじみ出るようなものであるのはなぜなのか?

川端さんはこう絵解きをしていきます。

いま、マルクス経済学が正しいか、まちがっているかはは脇に置こう。とにかく中国の各大学が、丁寧に、現実の社会とのかかわりを解きほぐしながら国定思想たるマルクス経済学の授業をして、ある割合の学生がそれも一理あるなと思ったとしよう。マルクス経済学が一理あると思うというのは、つまり

「資本主義って、一見対等平等に取引しているようで、必然的に格差を生むしくみになっているんだな」とか、

「技術進歩の果実はほとんど資本家のものになってしまうんだな」とか、

「資本主義発展とともに農村から都市に移動した人口が過剰扱いされて、失業者と都市問題を生むんだな」とか、

「貧困って自己責任じゃなくても社会の問題なんだ」とか、

「信用機構や株式会社ってひとつまちがえると詐欺の温床になるんだな」とかいう風に思うことである。

 さらにすすむと、

「これはみんなわが国で起こっている問題だよね」とか、

「考えてみると中国の社会主義市場経済って、ほぼ資本主義だよね」とか思うだろう。

場合によっては、

「なるほど、労働者が立ち上がって資本主義に反抗するのは歴史の必然なのか」と思いかねない。

 そう、国定思想を丁寧に教えると、現在の体制に対する疑問を惹起してしまうのである。中国政府はこの矛盾に気づいているがために、わざと極端につまらない「政治経済学」を必修化し、学生をマルクス経済学嫌いにしているのではないだろうか。

本気で興味を持たせてしまうと、現在の他の資本主義国のどれよりも市場原理に制約が希薄な「社会主義市場経済」に対する批判的精神を醸成してしまうかもしれないから、わざとつまらなくつまらなく、だれもまじめにマルクス主義なんかに取り組もうと思わないようにしているんだろう、と。

5年前のこの川端さんの推測はおそらく正しいと思いますが、それだけの配慮をしていてもなお、そのこの上なくつまらないマルクス主義の授業にもかかわらず、本気でマルクス主義を勉強しようなどという不届きなことを考える不逞の輩が出てきて、共産党という名の資本家階級に搾取されているかわいそうな労働者を助けようなどという反革命的なことを考えるとんでもない若者が出てきてしまったりするから、世の中は権力者が思うように動くだけではないということなんでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-855b.html (中国共産党はマルクス主義がお嫌い?)

副題に「学生たちは労働組合権を巡る争議を支援し続ける」(Students continue to back workers in dispute over trade union rights)とあるように、これは、マルクス主義をまじめに研究する学生たちが、元祖のマルクス先生の思想に忠実に、弾圧される労働者たちの労働組合運動を支援するのが、そのマルクス主義を掲げていることになっている中国共産党の幹部諸氏の逆鱗に触れてしまったということのようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-0e60.html (中国共産党はマルクス主義がご禁制?)

1541230011_2564 いやいや、もはや現在の中国共産党にとっては、マルクス主義などという不逞の思想はご禁制あつかいなのかもしれません。

ご禁制にしたいほどの嫌な思想なのに、それを体制のもっとも根本的なイデオロギーとして奉っているふりをしなければならないのですから、中国共産党の思想担当者ほど心労の多い仕事はないように思われます。いまでもマルクス経済学は学生たちに必修科目として毎日教えられ続けているはずです。できるだけつまらなく、興味をこれっぽっちも惹かないように細心の注意を払いながら、一見まじめに伝えるべきことを伝えようとしているかのように教えなければならない。少なくとも私にはとても務まらないですね。

(追記)

ちなみに、中国ではおそらく存在を許されない本当のマルクス主義者が香港にはまだ何とか存在し得ていて、中国資本主義を批判するこういう本を書いているということも、かつて本ブログで紹介しましたね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-16fd.html (區龍宇『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』)

20140806g636_2 ・・・著者は香港のマルクス主義者です。中国に何千万人といる共産党員の中に誰一人いないと思われるマルクス主義者が、イギリスの植民地だったおかげで未だに何とか(よろよろしながらも)一国二制で守られている思想信条の自由の砦の中で生き延びていられるマルクス主義者ですね。

だからこそ、中国共産党という建前上マルクス主義を奉じているはずの組織のメンバーが誰一人語ることができない「王様は裸だ」を、マルクス主義の理論通りにちゃんと分析して本にできているのですから、ありがたいことではあります。

それにしても、資本家が労働者を抑圧するのに一番良い方法は、資本家自身が労働者の代表になってしまうことだというのは、マルクス様でも思いつかないあっと驚く見事な解法でありました。・・・

日本にはいまだにマルクス経済学者という看板を掲げている人々が結構な数いるはずですけど、だれも文句をつけてきそうにないマルクスの原典の研究とかじゃなくて、區龍宇さんのように現代中国資本主義のこういう問題に切り込もうという勇気のある方がどれくらいいるのか、不勉強なためよく知りません。

森川正之『生産性 誤解と真実』

9784532358037 森川正之『生産性 誤解と真実』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。森川さんは経産官僚から経済産業研究所に移り、サービス産業や生産性について多くの著書を出しています。

https://www.nikkeibook.com/item-detail/35803

■安倍政権の政策の目玉になった「生産性革命」。生産性は「働き方改革」の焦点でもある。それだけに生産性については、世の中の関心は高まる一方だ。だが、実は生産性についての巷間の論議には多くの誤解があり、俗説もまかり通っている。
たとえば、「企業収益が高まれば生産性が上がる」「生産性向上には価格引き上げが必要」「高いサービスに見合った価格付けがされていないのが低生産性の原因」「設備投資を促進すれば生産性は上がる」「日本の生産性は欧米と比べて低い」等々。
しかも企業経営者や政策担当者も俗説を受け入れているのが実態だ。安倍政権の教育費用無償化も「生産性革命」論の一環だが、その費用対効果は明確でない。これでは、本当に効果のある政策が実行されるのか怪しい。

■本書は、日本経済、サービス産業の生産性分析で定評のある著者が、生産性に関する正しい理解を解説するともに、生産性を上昇させるために真に有効な処方箋を考察する経済書。
生産性についての正しい理解を解説するとともに、「イノベーション」「教育・人的投資」「働き方改革」「企業経営」「規制改革」「グローバル化」「都市・地域経済」「財政・社会保障政策」「エビデンスにもとづく政策」といった政策と生産性がかかわる論点を整理し、有効な処方箋の考え方を提示する。全体として、1)経済・社会全体の仕組みの見直し、2)生産性向上策と同時に、生産性を抑制する政策の改善、3)相反する効果や副作用をもつ政策の組み合わせの工夫、4)政策の予測可能性を高めること――の重要性を明らかにする。

目次は次の通りで、

第1章 生産性をめぐる誤解
第2章 イノベーションと生産性―第四次産業革命の光と影
第3章 重要性を増す人的資本投資―教育訓練と生産性
第4章 働き方と生産性
第5章 変化する日本的経営と生産性
第6章 競争・規制改革と生産性―新陳代謝の円滑化
第7章 グローバル化と生産性―不確実性が高まる世界貿易体制
第8章 生産性の地域間格差と人口移動
第9章 生産性とマクロ経済政策―深刻化する財政リスク
第10章 生産性の重要性と限界―エビデンスに基づく政策選択

大変広範な領域を論じている本で、特に第2章や第3章、第4章、第5章といったところは最近の私の関心事項とも重なるところが大きいのですが、ここではやはり、森川さんが「誤解」だと一刀両断している議論が本当に「誤解」なのかが今一つ納得できない面があるので、第1章の議論を取り上げます。

森川さんが「誤解」「俗説」と呼ぶものもいろいろあるのですが、とりわけ重要なのはやはり、

・・・この議論の延長として、特にサービス産業の生産性に関して、「日本のサービスは質が高いのだが、消費者にはサービスがタダだという意識があるため、質の高さに見合った価格をつけることが出来ず、生産性が低く抑えらている」という議論も頻繁に耳にする。

・・・総じていえば、質の高いサービスにはそれに見合った高い価格が、質の低いサービスにはそれに相応した価格付けが行われている考えるのが自然である。

いや、それが理屈として「自然」であるのはそう思いますが、現実がそうなっているかどうかが問題です。

というわけで、森川さんはいくつもの実証データを繰り出すのですが・・・、

一つ目は、同種サービスについてこれだけ業態別の価格差があるというデータ。いやこれは、日本の中でこれだけ差があるという話で、それが全体として諸外国と比べてどうかという話ではないですよね。

次は、付加的サービスに対してこれだけ消費者が支払う気持ちがあるという意識調査。いやそれは、基本サービスにわざわざ付加することに対する意見であって、基本サービスをどう評価しているかとは別ですよね。

さらに質の低いサービスを受け入れる可能性が人によってさまざまだから、少数の顧客に質の高いサービスを高価格で提供する経営戦略もありうるというのも、まさに一部高級店はそういう戦略をやっているわけで、問題はそこじゃなくて、その質の低いサービスの質の低さが、他の諸国の消費者と比べてどのくらいの閾値なのかが問題なのでしょう。

そして、何よりもその後に出てくる生産性の国際比較のところで、本ブログでも何回も取り上げたこの話を持ち出してくるのを読むと、いやそのデータは、むしろ逆の論証になっているんじゃないかと言いたくなります。

・・・この点に関し、筆者も参加して日本生産性本部が20種類のサービスを対象に実施した「同一サービス分野における品質水準の違いに関する日米比較調査」によれば、個々のサービスによって違いはあるが、全サービスの平均で、米国よりも日本のサービスの方が5~10%程度質が高いという結果だった。・・・

これらは、日本のサービス産業の生産性水準が米国に比べて低いという関係を逆転させるほどのマグニチュードではないが、単純な生産性比較は日本の生産性水準を過小評価することを示している。

いやいや、全くその通りなんですよ。サービスの質の高さをサービスの物的生産性と呼ぶのなら、日本のそれは欧米のそれよりも結構高い。それは、まさに欧米社会であるベルギーに3年間住んで暮らした私の実感でもあります。

にもかかわらず、サービスの価格は、言い換えればサービスの付加価値生産性は、森川さんの言う通り「過小評価」されているのです。これまた、ベルギーに3年間住んで暮らした私が毎日実感していたことです。

そして、まさにその点をとらえて、それこそ私も含めて欧米社会に住んで暮らした人々の実感的言説として、森川さんが「誤解」「俗説」と批判する「日本のサービスは質が高いのだが、消費者にはサービスがタダだという意識があるため、質の高さに見合った価格をつけることが出来ず、生産性が低く抑えらている」という議論が出てくるんだと思うのですね。

正直言って、ここでの森川さんの議論は、自分が「誤解」「俗説」と批判した当の議論をむしろ立証しようとしているようにすら見えます。

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