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« 『ビジネス・ロー・ジャーナル』2月号で本を紹介 | トップページ | 石井保雄『わが国労働法学の史的展開』 »

2018年12月23日 (日)

hamachanブログ2018年ランキング発表

今年も年末が近づいてきたので、恒例のhamachanブログ今年のエントリPVランキングの発表を行います。

今年の1位は、お送りいただいた『週刊東洋経済』4月14日号の紹介記事でした。そんなものがなぜ1位になったのかというと:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/414-52d4.html (連鎖する貧困@週刊東洋経済4月14日号 )(10,930PV)

04051444_5ac5b7d90b332 その中にこういう対談があったからなんですね。

前川喜平(前文科次官) × 湯浅誠  (社会運動家) 「子どもの貧困は看過できない」

そしてその対談を引用しつつ、わたくしがこう苦言を呈したのですが。

一点だけやややぶにらみ気味の文句を言うと、前川喜平さんと湯浅誠さんの対談で、前川さんが

高校中退を防ぐのも貧困対策の大事なテーマだ。私が行っていた出会い系バーでも女の子はほとんど中退で・・・

と、言い出したその後に、

中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい。・・・
その一番の要因は数学にあると思っている。・・・論理的思考力を養うために必要というが、それは国語の授業でやったらいい。

などと、ヘタレ文系丸出しの議論を展開してしまっていること。
いやいや、それって、中教審で数学が役に立ったためしがないとかのたまわった某作家女史といっしょじゃない。

世の中には様々な人が、子供が居るという基本を忘れていけません。むしろ、国語で作者の気持ちとか無理矢理やらされて意味わかんないと思っている生徒もいっぱいいるわけで。

アカデミックコースだけしか目に入らない教育論が、かえって事態をこじらせているようにも思います。文部科学事務次官までやった人の言葉の中に、職業高校というコースの積極的意義を語る一言もないのは、現在の教育論の貧困を象徴しているのではないでしょうか。

Ueno 第2位は、上野千鶴子氏が、弟子筋の北田暁大氏による厳しい批判に対して率直に反省したと話題だった「ちづこのブログ」に、それはいささか話の筋を取り違えているんじゃないのかと疑問を呈したエントリでした。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-c283.html (上野千鶴子氏は反省のしどころを間違えているのでは?)(9,731PV)

正直言って、上野さんはより倫理主義的な方向に、つまりあえて言えば無責任に反省しやすい方向にのみ反省してしまった感があります。

私の理解するところ、北田氏による批判は、近年の松尾匡さんやブレイディみかこさんとの鼎談などとも共通の観点から、外国人労働者問題を素材にしつつ、上野氏のいわゆる日本的リベラル特有の「一見やさしさを装った「脱成長」の仮面の下には、根拠なき大衆蔑視と、世界社会における日本の退潮を直視できない団塊インテリの日本信仰、多文化主義への不見識と意志の欠如」をこそ厳しく糾弾するものであったと思われるのですが、上野氏はむしろ、自説が過度に現実主義的であったという批判と受け止め、もっと理想主義的であるべきであったと「反省」してしまっているのです。

外国人問題は、とりわけ労働者の側からするととても難しい問題です。単純に性差別とパラレルに議論できるものではありません。外国人にも日本人と同じ権利を確保すべきという正論は、しかしそれだけでは野放図に安価な外国人労働者を導入したいという経営側の議論に対する歯止めにはならず、結果として欧州諸国に見られるように国内労働者の憤懣を反移民右翼に追いやる結果になりかねません。一方で、ただ外国人を入れるなと言っているだけでも、そうは言っても背に腹は代えられない企業は様々な形で外国人労働力を引き入れていき、結果として日本で過去30年にわたって進んだように、より権利の守られない形での事実上の移民が拡大することになります。

こういうつらいパラドックスの中で、過度に現実主義的になることも過度に理想主義的になることも、同じように無責任なのであり、現実に進んでいく移民拡大をできるだけ労働条件や人権が守られるような形で進んでいくことを確保するためにも、そもそもの入り口論では野放図な導入論を抑える努力が必要となります。「入れるな」ということによって、それにもかかわらず入れるのならこういう条件でなければならないという制約に現実的な力が加わり、入るにしてもその入り方が少しはまともになりうるという政治的な現実感覚を失ってしまうと、「このとき左派やリベラルがやるべきだったのは、もちろん外国人、とりわけ旧植民地出身者に対する差別をやめさせ、彼らの人権を守るように自分たちの社会に働きかけることだった」という安易な倫理的言説に身をゆだねて安心してしまうことになりかねません。

それは、少なくともリアルな政治的判断としては間違っていると私は思います。そして、その間違い方は、まさに北田氏が「経済というのは、社会のすべてではない。権利は大切である。善さも正しさも大切である。しかし正しさが善さによって支えられていることもまた、自然権論者ならぬ社会学者であれば考えなくてはならない。制度の公正性と経済的合理性を分けて考えること自体、社会学者の不遜というものではないか」と、悲痛なまでに上野氏に訴えていたその間違い方を全く同じ方向性を持っているように思われます。

上野氏は、北田氏の批判のもっとも本質的な批判であり傾聴すべき点をあえて耳に入れず、自らの過去の立論からして一番受け入れやすい点、あえていえば本来理想主義的だった私が現実主義にぶれかかったのを正道に戻してくれたという、一番もっともらしく語りやすい点でのみ受け入れて見せたのではないかと思われます。

なので、拙著の帯を書いていただいた恩人ではありますが、「よっ、千両役者!」という掛け声は出てきませんでした。

このエントリはこの通り、上野千鶴子批判でありそれ以上ではありませんが、その中で論じていた外国人問題へのスタンスの取り方の難しさの問題は、今年になって、まさにナショナリズムの傾向を「も」有する安倍政権が、その主たる経済的支持基盤である中小企業経営者たちの強い要求に押されるように外国人技能労働者のかなり大規模な受け入れ政策に舵を切ったときに、いわゆるリベラル派がそれによって労働市場で影響を受けるかもしれない労働者たちの懸念によりも、外国人労働者たちの人権問題に関心を集中していったという一幕においても、まったく同様に示されらのではないかと思います。

いや、もっと悩めよ!と言いたいわけなんですが。

第3位は、OECDの報告書を淡々と紹介しただけのエントリなのですが、やはり世間の関心事とぴたりあったこともあり、多く読まれたようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/oecd-ef9c.html (OECDの『日本の教育政策』)(4,858PV)

Djf51hcwsaauvh8 日本の教育制度の成功を語る上でひとつ極めて重要な特徴が、子どもたちに非常に包括的(全人的)な教育 を効果的に行っているということです。即ち、教員が熟練した能力を持ち、総体的に生徒のケアをよくして いること、生徒が身を入れて協力的な姿勢で学習していること、保護者が教育を重視し、学校外の付加的学 習(学習塾)に支出していること、そして、地域社会が教育を支援しているということです。この独特なモ デルが、日本の教育制度の全側面を基盤として一体となって機能しているのです。

というと、すごくいいことのようですが、その裏面にあるのが、

しかし、このシステムの代償として、教員に極度の長時間労働と高度な責任があり、それによって教員は研 修を受け、新学習指導要領に適応することを困難にしています。現行の学校組織(「チーム学校」)は、教 員の負担を減らし、学校で生徒向けの付加的サービスを提供することを目指しています。一方、学校と地域 社会間の連携・協働関係を強化するという政府の意気込みは、社会人口学的および経済的な変化が日本の教 育モデルのあり方の課題となる一方で、教育への全人的アプローチを維持しようという試みを意味していま す。

このトレードオフは、そう簡単に答えが出せるものではないということのようです。

第4位は、本ブログで時々抄訳しつつ紹介している「ソーシャル・ヨーロッパ」の記事です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-88aa.html (ビットコインは未来の通貨に非ず)(4,707PV)

Pauldegrauwe まず、ビットコインの供給は漸近的に固定されているので、支払い手段としての一般的な利用は恒常的なデフレ(ネガティブなインフレ)をもたらす。その理由は、世界経済は成長し、増加する取引を可能にするために通貨の供給増加が必要であることである。ビットコイン経済でこれを可能にする唯一の方法は、財やサービスのビットコイン価格を引き下げることによってしかない。通貨の数量理論は我々に、ビットコインが使われる流通速度を引き上げることによっても可能であることを示すが、その可能性には限界がある。かくしてビットコイン経済は恒常的なデフレに直面し、決して魅力的な状況ではない。

毎年価格が下落するビットコイン経済では、この楽観主義はネガティブな影響を受ける。価格下落は消費者に購入を延期させ、投資家にプロジェクトを延期させる。これは楽観主義の乏しいおそらく成長の乏しい世界である。

ビットコインが通貨として不適当である第二のもっと深刻な理由がある。実際、それは危険な通貨なのだ。もし世界がビットコインに転換したら、銀行は貸付の必要な家計や企業にビットコインを貸し付け始めるだろう。しかし銀行業はリスクのある事業だ。問題は、ビットコインの供給が固定されており、銀行破綻の時に支援する最後の貸し手がないということだ。そしてこれは起こりうる。たとえビットコインないし他の仮想通貨の供給が恒常的なフリードマンルールに従ったとしてもこの問題を解決しない。

通貨の総量が固定(ないし一定率での増加)されている金融制度では、最後の貸し手のようなものは不可能だ。これは銀行破綻とさらなる経済へのネガティブなドミノ現象をもたらす定期的な銀行危機をもたらす。これは確かに我々が金本位制の黄金期に見たものであり、金本位制は頻繁な銀行危機とそれによる深刻な不況と多大な悲惨で特徴づけられる。再び、ビットコインは金本位制と同様に、過去の代物であって未来のものではない。

より一般的には、ビットコイン経済の問題は必ずや再来するであろう金融危機の際に流動性への逃避が一般化することである。これは中央銀行があらゆる必要な流動性を供給することが必要な時である。それがなければ、われがちに流動性を求めて争う人々は資産を売り、資産デフレをもたらし、多くのものが破産する。ビットコイン経済はこの柔軟性を持たず、それゆえ金融危機に抗することができない。ビットコイン経済は定期的に金融危機を生み出す資本主義制度では持続できない。

日本でも最近ビットコインがだいぶ流行していて、特に野口悠紀雄氏などは理論的な面からビットコイン経済を大変強く推していたりするので、こういうヨーロッパ知識人の意見を紹介するのも意味があるかなと思います。

デ・グラウウェさんも、ビットコインなど仮想通貨の技術的基盤であるブロックチェーンについてはその重要性を認めます。異議を唱えるのは、ビットコインにはそれ自体に本質的な価値があるという信仰なのです。金本位制と同じだという批判は、まさにその点を指摘しているのでしょう。

デ・グラウウェさんはそこに、中央銀行のコントロールが効かない金通貨やビットコインを愛好し、法定不換通貨を邪悪なものとみなす新自由主義のイデオロギーを見出します。

第5位は、ある最高裁の判決を素材にしつつ、顧客によるセクハラについてコメントしたものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-a869.html (お客さまへの笑顔は同意にあらず)(4,001PV)

まず、この原告男性がなにをやったかというと、

被上告人は,勤務時間中である平成26年9月30日午後2時30分頃,上記制服を着用して本件店舗を訪れ,顔見知りであった女性従業員(以下「本件従業員」という。)に飲物を買い与えようとして,自らの左手を本件従業員の右手首に絡めるようにしてショーケースの前まで連れて行き,そこで商品を選ばせた上で,自らの右腕を本件従業員の左腕に絡めて歩き始め,その後間もなく,自らの右手で本件従業員の左手首をつかんで引き寄せ,その指先を制服の上から自らの股間に軽く触れさせた。本件従業員は,被上告人の手を振りほどき,本件店舗の奥に逃げ込んだ。

で、これに対して原審はこう判断して、請求を認容したわけですが、

被上告人による行為1は,以前からの顔見知りに対する行為であり,本件従業員は手や腕を絡められるという身体的接触をされながら終始笑顔で行動しており,これについて渋々ながらも同意していたと認められる。・・・
行為1は,・・・犯罪行為であるが,本件従業員及び本件店舗のオーナーは被上告人の処罰を望んでおらず,そのためもあって被上告人は行為1について警察の捜査の対象にもされていない。・・・
・・・行為1が悪質であり,被上告人の反省の態度が不十分であるなどの事情を踏まえても,停職6月とした本件処分は重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠く。したがって,本件処分は,裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用したものであり,違法である。

最高裁はそれを否定しました。

しかし,上記①については,被上告人と本件従業員はコンビニエンスストアの客と店員の関係にすぎないから,本件従業員が終始笑顔で行動し,被上告人による身体的接触に抵抗を示さなかったとしても,それは,客との間のトラブルを避けるためのものであったとみる余地があり,身体的接触についての同意があったとして,これを被上告人に有利に評価することは相当でない。上記②については,本件従業員及び本件店舗のオーナーが被上告人の処罰を望まないとしても,それは,事情聴取の負担や本件店舗の営業への悪影響等を懸念したことによるものとも解される。

「お客様は神様です」という言葉が、どんな無理無体でも笑顔で受入れなければならないかのように言われる日本社会では、こういう行為に対してやられた女性従業員が終始笑顔で対応し、経営者側も事を荒立てないようにしようという傾向が強いわけですが、それを理由にやった行為がたいしたことでないかのように主張するわけにはいかないよ、というまことにまっとうな判断でしょう。
そして近年、顧客によるセクハラや嫌がらせが頻発している状況を考えると、この最高裁の判断は拳々服膺すべき内容があるように思われます。

「お客様絶対主義」は、日本の生産性の低さの関係で本ブログでも繰り返し取り上げているところですが、こういうおかしな方面にも悪影響が及んでいるのですね。

第6位は、お送りいただいた『POSSE』40号の鼎談に対して、やや辛めのコメントをしたエントリです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-b989.html (これはまたなんとも古典的なマルクス主義)(3,956PV)

Hyoshi40_2 その宮田さんの論ずるところは、正直言うと、ある種の傲慢なリフレ派の議論に対する痛烈な批判が聞けるのかなとそこは内心期待していたのですが、それどころかケインズ以前の誠に古典的なマルクス主義を聞かせられている感がありました。古典的なマルクス主義というか、19世紀的、古典派的な発想が濃厚で、いや今時それでいくの?と。

今野 なるほど、ちなみに、賃金の上昇による消費需要の増加を通じて有効需要を拡大させ、経済成長を実現していこうという議論も根強くあると思いますが、いかがでしょうか。

宮田 賃金の上昇と経済成長を両立できるのかという問題ですね。ポストケインズ派やマルクス派の一部も含めて、賃金上昇による消費需要の増大によって有効需要を拡大させれば、力強い経済成長を取り戻せるという考え方が広く影響力を持っています。確かに社会的に見ると賃金上昇によって一定の消費需要の拡大条件が与えられ、売上高も増大する可能性が生まれ、その限りでは経済成長に寄与します。しかし忘れてはならないのは、賃金上昇は社会全体の利潤を食いつぶし、利潤率の低下に、したがって投資需要の低下傾向にもなるということです。確かに資本蓄積が進み労働力需要が高まると、一時的に賃金が上昇しますが、その蓄積の進行に伴う賃金上昇は利潤量を減少させ、いずれは経済成長率の減退に結びつかざるを得ません。要するに資本主義社会において賃金上昇と経済成長というのは両立するのではなくて、本質的には相対立するということが大事なのです。・・・

なるほど、古典的マルクス主義者というのは、古典的自由主義者と見まごう程資本主義の本来あるべき姿なるものに誠に忠実で、それから逸脱するような思想に対しては同じくらい強烈に批判的なんですね。資本家の利潤追求という資本主義の本旨に反して賃金上昇で経済成長なんていうのは、短期的には有用でも長期的な資本主義にとって許しがたいわけです。

ややきつい言い方をすると、POSSEさん、いまどきこんなケインズを罵る19世紀資本家みたいな寝言を繰り広げているようではあんまり未来はないですよ。

そして、松尾マルクス経済学に理論闘争を挑むとか考える前に、ブレイディみかこさんの伝えてくれるイギリス労働者階級のリアルな姿を、藤田さんや今野さんがリアルに体験している日本の労働者や下層階級の現実といかにすり合わせるべきかを考えた方が、こんな古典的経済学の眠くなるような講義を拝聴しているよりも百万倍役に立つような気がします。

ここで宮田氏の古典マルクス主義理論を拝聴している今野氏と藤田氏が、最近ZOZOの田端信太郎氏との間で繰り広げている「論争」にしても、今日的な労働運動や福祉運動それ自体の主張としてはもっと傾聴されてしかるべき内容を持ちながらも、ややもすると古臭い時代遅れの主張であるかのごとき宣伝にうまく乗っけられてしまいかねない危うさがここかしこに垣間見えてしまうのも、ここで論じたことと繋がっているようにも思われます。

第7位はあのピケティの「バラモン左翼」という決め台詞が受けました。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html (バラモン左翼@トマ・ピケティ)(3,383PV)

Images 「左翼」はインテリのエリート(バラモン左翼)の党になってしまったが、「右翼」はビジネスエリート(商人右翼)の党とみなされている。

なるほど、高学歴高所得のインテリ左翼を皮肉って「バラモン左翼」と呼んでいるわけですね。

ふむ。思いついた言葉がすべてで、それがそのままタイトルになったという感じですが、確かに「インテリ左翼」とかいうだけでは伝わらないある種の身分感覚まで醸し出しているあたりが、見事な言葉だなあ、と感じました。

第8位は、例の低賃金カルテルのメカニズムを説明した話です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-e42b.html (「見えざる」低賃金カルテルの源泉)(3,278PV)

いうまでもなく、労働組合とは市場に任せていたら低くなりすぎてしまう賃金を団結の力で人為的に高くするための高賃金カルテルであり、そうはさせじとそれを抑える使用者団体がこれまた団結の力で人為的に賃金を低くするための低賃金カルテルであることは、(純粋経済学の教科書の世界ではなく)現実の産業社会の歴史から浮かび上がってくる厳然たる事実ですから、そもそも低賃金カルテルが経済学理論上どうとかこうとかというのは筋がずれている。経済学の教科書からすればアノマリーかもしれないが、現実の産業社会ではそれがノーマルな姿であったのですから。
問題は、今現在どこにも「こいつらにこれ以上高い賃金を支払わないようにしようぜ」と主張したり運動したり組織したりする連中が見当たらないのに、結果的にみんなあたかも低賃金カルテルを結んでいるかの如く賃金が上がらないのはなぜかという話であって、それを直接的に労働者に賃金を支払っている企業の経営者の心理構造に求めるのか、彼らが財サービス市場で直面する消費者という名の人々の行動様式によってもたらされているものなのか、もしそうならその原因はどこにあるのか、というようなことこそが実は重要なポイントであろうと思われます。
現在の日本では労働組合の力が弱体化してほとんど高賃金カルテルの役割が消え失せているため、わかりにくいのでしょうが、その現代日本でいまなお高賃金カルテルと低賃金カルテルが正面から目に見える形でぶつかり合っている世界があります。数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々の報酬を最大化しようとする医師会と、その報酬の原資を支払っており、それゆえその報酬をできる限り引き下げようとする健保連が、中医協という場で三者構成の団体交渉する世界です。個々の診療行為ごとにその価格付けをするという意味において、個々のジョブの価格付けをする欧米の団体交渉とよく似ており、逆にこみこみの「べあ」をめぐる特殊日本的労使交渉とは全く違います。
私の子供時代には、診療報酬の引き上げを求めて医師会が全国一斉にストライキ(保険医総辞退)なんてことすらありました。それくらい医師会という高賃金カルテルが強かったわけです。
面白いのは、他の分野では高賃金カルテルとして使用者側と対立しているはずの労働組合が、こと医療分野に関してはお金を出す側、医療という労務の供給を受ける側として、使用者団体と一緒に低賃金カルテルの一翼になっていることです。連合と経団連は足並みをそろえて「こいつら(医師)にこれ以上高い報酬を払わないようにしようぜ」と何十年も言い続けてきました。
私が思うに、この労働者側が(自分の属さない他の産業分野に対しては)低賃金カルテル的感覚で行動するという現象が、医療分野だけではなく他の公共サービス分野にも、さらには非公共的サービス分野にもじわじわと拡大していったことが、この「見えざる」低賃金カルテル現象の一番源泉にある事態だったのではないか。
もちろんその背後には、労働組合という高賃金カルテルが組織しやすかった製造業が縮小し、サービス経済化が進んだということがあるわけですが、普通の労働者が金を受け取ってサービスを提供する側、つまり高賃金カルテルになじみやすい感覚よりも、金を払ってサービスを受ける側、つまり低賃金カルテルになじみやすい感覚にどんどん近づいて行ったことは間違いないのではないかと思います。

Images_2 第9位は、今年の働き方改革関連法案で、一部労働クラスタによる高度プロフェッショナル制度批判への固執に対して、言い知れぬほどの違和感を感じたので、それを別エントリのコメント欄に書いたものを、新エントリに起こしたものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-18b1.html (高度でもプロフェッショナルでもないごく普通の新入社員が無制限の時間外・休日労働にさらされる国だった今までの日本を、ひたすら美化する人々の群れ・・・)(2,883PV)

そもそも、過労死した人の圧倒的大部分は、現に異次元の労働時間(無)規制の下にある一般労働者なのであって、高プロばかりをフレームアップすること自体が、きわめて意図的な歪んだ議論であるという認識が私の基本にあります。そのことは今まで10年以上私が書いたりしゃべってきたことを読めばよくお分かりのはずですが、なかなか通じていないように見えるのは私の不徳の致すところなのでしょうね。
しょせん、「いわゆる生活残業」も含む、経営者側から見て合理的でない残業代の是正が目的のエグゼンプションを、あたかも労働者のためであるかのようなウソの議論でくるんで繰り返し提出してきた政府に対しても、私は全然同情するところはありませんが、それにしても、上限規制さえ入れればそれなりに合理的な制度である高プロをあたかもそれのみが長時間労働を許してしまう唯一の極悪非道であるかのようなインチキ極まるフレームアップをするような人々の道徳性を、私はあまり信用していないということは、これも繰り返し述べてきたところです。
それだけです。

>つまり今回の法律以降は     高プロのみが長時間労働を許してしまう唯一の規定 であるとはいえると思います。
その「今回の法律」がまだ成立もしていない段階で、
すなわち、過労死する「異次元の危険」という点では、一般労働者もまったく同じである状態において、
あたかもすでに一般労働者には立派な労働時間規制があって、過労死する危険性などまったくないのに、新たに設けられる高プロとやら「だけ」が過労死する危険なものであるかのようなプロパガンダをまき散らし、
その、過労死する危険のもとであるからといって高プロをつぶすために、実はそれと全く同じ危険にさらされている一般労働者のための時間外規制を含む働き方改革推進法案を全部廃案にせよという政治的主張を発し続けた人々の、
そういう人々の非道徳性を、私は言っています。
現実に過労死の現実的危険性にさらされている一般労働者への時間外労働の上限規制(それはなお不十分なものであるとはいえ)を弊履のごとく吐き捨ててでも、
その今現在一般労働者の危険性と同様の(いや、正確に言えば、上限規制がない点では同じですが、一般労働者にはない休日規制がある点だけはやや危険性が少ないとすらいえる)高プロだけを、残業代がなくなるから潰したいという本音をひそかに隠して、それだけが危険であるかのようなプロパガンダを平然とやってのけられる人々の、
そういう人々の非倫理性に我慢がならないのです。
少なくとも、今回の一連の動きの中で、一般労働者への時間外の上限規制があるから法案は成立させなければいけないという、極めてまっとうな意見を言う人に対して、何とかの手先みたいに悪罵を投げ続けた人々は、今現在の労働時間(無)規制」の悲惨な実態を、あたかも今現在素晴らしい労働時間規制があって一般労働者はみなそれに守られておるかのごときプロパガンダを繰り返していました。
そういう連中は全部インチキ野郎だと思っています。
毎年何百人も出る過労死労働者の圧倒的大部分は、そのご立派な労働時間規制とやらに守られているはずの、一般労働者です。
だから私は、わざわざ北海道まで行って、過労死防止学会の席上で
「ボーッと生きてんじゃねえよ!!!」
と咆哮してきたのですが、鈍感な人々にはまったく通じていなかったようですね。

最後に書いてあるように、過労死防止学会の席上で、「ボーッと生きてんじゃねえよ!!!」とチコちゃんよろしく咆哮したのは私くらいでしょうね。

第10位は船員の労働時間規制という超トリビアネタですが、なぜかよく読まれたようです。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/11472-bfad.html (1日14時間、週72時間の「上限」@船員法)(2,738PV)

いろいろな意見があると思いますが、何にせよ海上ではこういう法律に現に存在しているということは、陸上の労働法を論じる人々も頭の片隅には置いておいた方が良いようにも思われます。

というわけで、今年も本ブログをお読みいただきありがとうございました。労働関係ブログとしてこれからも皆様のお役に立つとともに、そのご関心にマッチしたエントリをアップしていきたいと思います。

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