日本のエリート学生が「中国の論理」に染まる?
昨年の「第三回日中雇用、労使関係シンポジウム」でご一緒した阿古智子さんが、現代ビジネスに「日本のエリート学生が「中国の論理」に染まっていたことへの危機感」を書かれています。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57941
先日、コメンテーターとして学生団体の討論会に招かれた。参加していたのは、日本、中国ともに国を代表するようなエリート学生ばかりで、日中学生の混合チームが、流暢に英語でプレゼンテーションした。・・・
・・・ここまでは、筆者の頭にもスムーズに話が入ってきたのだが、この後、首をかしげる展開になった。
学生たちは、事例として沖縄と中国の少数民族を取り上げたのだが、「高い同質性を求める日本社会は、沖縄の人たちを独立した民族として認めず、彼らの独自の言葉も文化も尊重せず、日本の国民として同化する政策を行ってきた。それに対して、中国の少数民族は集団的権利を認められており、その独自の言葉、宗教、文化は尊重され、教育や福祉において優遇政策がうまくいっている」と説明したのだ。
そして最後に「日本は民族間の境界を曖昧にするが、中国ははっきりさせる。民族の分類が明確になれば、民族アイデンティティを喪失することはない」と結論付けた。・・・
・・・中国の少数民族の文化は尊重され、優遇政策がうまくいっているというのは、いったい誰にどのように話を聞いて、そう判断したのか。
おそらく、学生のほとんどが沖縄に、中国の民族自治区に出向いて調査してはおらず、間接的にでさえ、現地の状況を詳しく調べたり、関係する人々に話を聞いたりはしていないだろう。
学生たちが打ち出した極端に単純化されたロジックは、複雑な現実を反映しておらず、そこからつくられた問題解決のためのモデルは、実際に使えるような代物ではなかった。
特に、民族の分類や民族が重視する基本的関心事項を、「誰が、どのように決めているのか」という問いを、学生たちは分析の中に入れていなかった。
民族の定義や領域については多くの論争がある。中国では、党・政府が中心となって民族を規定し、民族政策を実施している。
基本的に、共産党政権が認める限られた少数民族のリーダー、専門家、社会団体しか、政策の決定・実施のプロセスに関わることができない。・・・
一方に思考力が欠如したような毒々しいだけの中国憎悪的な書物や文章が氾濫する一方で、素直に物事を考えれば(少なくとも「エリート学生」ならば)頭に浮かぶはずの疑問もなく、中国政府や共産党の宣伝言説をそのまま持ってきて事たれりとしてしまうような、日本人の中国認識の奇妙な薄っぺらさがここに露呈しているというべきでしょうか。
標題に「「中国の論理」に染まる」云々とあるのは、実はいささかミスリーディングで(おそらくもう一つの薄っぺら思考の読者に媚びる意図もあって編集部が付けたのでしょうが)、日本のエリート学生(と称されている若者たち)の与えられた情報を素直に処理するだけで物事をしっかりとじぶんの脳みそで考える能力の奇妙なまでの弱さが、阿古さんのいらだちの根っこにあるように思います。
・・・討論会の最後に私が、「僻地のコミュニティに入って、抑圧されている人たちの声を聞いたことがあるの?あなたたちの視点は、あまりにもエリート主義的ではないか」と問うと、学生たちは黙り込んでしまった。・・・
これは中国の少数民族問題だけの話ではないように思います。
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