中途半端な新自由主義の末路@児美川孝一郎
法政の児美川孝一郎さんの「中途半端な新自由主義の末路、一蓮托生の大学と文科省」という文章が、それ自体大変面白いだけではなく、それって日本社会のすべてに言えることじゃないかと思わせるという意味で、大変興味深いものになっています。
https://news.biglobe.ne.jp/economy/1001/jbp_181001_2020808856.html(中途半端な新自由主義の末路、一蓮托生の大学と文科省)
もちろん、児美川さんが論じているのは、副題にあるとおり、文部科学省の「中途半端な新自由主義」とそれに翻弄される大学なんですが、
・・・・ここで、あらためて指摘しておきたいのは、「将来像の提示」と「誘導」という高等教育政策の基本路線は、確かに新自由主義を基調とはしているが、しかし、純粋な理念型としての新自由主義的な政策スキームからは外れる、極めて日本的なものだったのではないかという点である。
純粋な新自由主義に基づけば、結果が出るまでのプロセスにおいては、参加者には自由と裁量が与えられる。そして、結果については、厳密に評価が行われ(あるいは、市場が「評価」を下し)、パフォーマンスの悪い参加者は、遠慮なく「退却」を余儀なくされる。
しかし、2000年代以降の文科省の高等教育政策の場合には、明らかにこれとは異なる施策が展開されていた。
つまり、「高等教育計画の策定」や「各種規制」はしないと明言しつつも、実際に大幅な規制緩和を行ったのは、新規の大学や学部の設置認可のみであり、大学が自らの“足腰”を強化すべく行う組織改革や教育改革に関しては、各大学に自由と裁量を与えるというよりは、さまざまな「法的規制」や、国立大学の運営交付金、私立大学の助成金、さらには競争的資金による「誘導」を巧みに張り巡らすことで、強力なコントロールが敷かれてきたのである。
だからこそ、ある意味での「結果」が見えだした2018年の段階を迎えても、文科省の側は、その「結果」は当事者である大学の自己責任であると、自信をもって“見限る”ことができない。それは、これまで各大学に対しては、政策サイドが望む「大学改革」を散々強いてきたという事情がある以上、そう簡単に手のひらを返すわけにはいかないということであり、であればこそ、今後はさらなる連携だ、統合だと、高等教育政策としての次なる“手出し”を試みようとしているわけである。
これはもちろん、文部科学省と大学の間の話ではありますが、これを読んで、うちの会社と社員の話じゃねえか、と思わず感じてしまった人も多いのではないでしょうか。
本当に「自由」と「裁量」を与えてやらせる代わりに、その結果に応じて厳格に、非情に「処分」するという新自由主義モデルを口では掲げながら、その「処分」する覚悟がないために、「自由」も「裁量」もない状況で、ただやみくもに「頑張」らせるというのは、決して文部科学省と大学との間だけで発生したことではないように思われます。
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「中途半端な新自由主義」というのは、言い得て妙ですね。
規制緩和で大学の設置が自由化された以上、新自由主義の立場からすれば経営困難な大学は潰れていかざるを得ないのが当然ですが、大学倒産の混乱を考えれば、安易に潰れるにまかせるわけにはいかない。文科省は改革のバカ騒ぎの嵐から大学を守るために統制をおこない、実際大学の破綻を最小限におさえてきましたが、むしろ事態をこじらせた観はありますね。
いい加減アメリカ以外の国はアメリカになれないという現実を直視して、アメリカの猿真似から脱却すべきですが、まだまだ猿真似したい人間は後を絶たないようですね。
たしかに戦後の新制大学の制度には問題がありましたが、それはヨーロッパ型のシステムへの回帰という形で解決すべきでしょう。しかし、そのような正道にもどれるのはいつになるやら。。。
投稿: 通りすがり2号 | 2018年10月 3日 (水) 21時22分