大学の労働社会におけるレリバンスの違い
なんだか、ネット上では大学に行くべきか行かざるべきかとかいうような話が盛り下がっているそうですが、本来教育と労働社会の鍵に関わるような話がかくも空疎なくだらないレベルに盛り下がるのは、やはり日本社会のありようが濃厚に反映しているように思われます。
まずある時期までの先進社会の一般的な構造をごく単純化していえば、労働社会は専門職や管理職として指揮するもの(ディレクター)、その下で能力を認められて働くもの(スキルドワーカー)、その下で能力必要なく下働きをするもの(ノンスキルドワーカー)の三層からなり、それぞれに教育制度のどのレベルを卒業したかによって、高等教育卒、中等教育卒、初等教育卒のものが割り振られるという仕組みでした。日本も戦前はこうでした。
日本以外の諸国は現在に至るまでこの三層構造自体は本質的に変わっていません。ただし、教育制度が全体として高等教育が拡大する方向に大きくシフトしました。その結果、かつてはディレクター階層の要員であった大学卒は普通にスキルドワーカー要員となり、ディレクター階層はその上の大学院卒によって占められるようになっていきました。一方、かつてはスキルドワーカー要員であった高卒は、その階層になだれ込んできた大卒に押し出されるようにしてノンスキルドワーカー要員になっていきます。あまりにもおおざっぱな描写ですが、すごくざっくりいうとこういうことです。
日本以外の社会は教育制度によって身に着けた(と社会的に認められた)スキルによって労働社会のポジションが付与されるジョブベースのシステムですから、公式的に言えば、現代労働社会におけるスキルドワーカー層に求められるスキルレベルは、かつての高卒レベルよりもはるかに高まって大卒レベルになったということになるはずです。これが欧米社会の揺るがすことのできない絶対的なタテマエです。
ところが、もちろんそういう面もないこともないでしょうが、本当にそのジョブに求められるスキルレベルということでいえば、そんなに上がっているわけではなく、実は教育内容だけでいえば高卒レベルで十分なんだけど、社会全体の学歴インフレのために、今の高卒者の(学んだ教育内容のレベルが、ではなく)社会全体におけるどのレベルの人材が来ているかという意味でのレベルが、つまりその人間の脳みその出来という意味でのレベルが、かつての中卒者レベルに下がってしまっているために、本当にそのジョブを遂行するスキルという意味では何ら必要ではない大卒者というディプロマによる能力証明が必要になってしまっている、というのが、上のタテマエの下から透けて見えるホンネの姿なのだろうと思われます。
ここから、そういう本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしまい、もっと現実に即したスキルドワーカー養成のための仕組みにシフトしていくべきではないかという議論が提起されてくるわけです。繰り返しますが、これはあくまでも教育制度で身に着けたスキルによって労働社会の地位が配分されるというジョブ型社会のタテマエを大前提にするからこそ、その建前と現実との乖離を突きつけて打ち出される議論であるということを忘れないでください。
ところが、戦後の日本社会は、この(戦前の日本社会は欧米と共有していたところの)ジョブ型社会の大前提が崩れ去ってしまっています。そもそも、会社内の構造が、その果たすべき役割によって三層に分けられるのではなく、ディレクター階層とスキルドワーカー階層が(正確にはそのうちの男性ですが)フルメンバーシップを付与されたメンバー層となり、ノンスキルドレベルからスキルドレベルヘ、さらにディレクターレベルへと「社内出世」するのがデフォルトモデルとなり、その外側にノンメンバー層が存在するというありようになってしまいました。
そこでは、管理職というのも管理という機能を果たす一職務ではなく、メンバー層のシニアに付与される処遇の一環となり、もともと想定されていたはずの高等教育を受けた者とのダイレクトなつながりは失われてしまいます。専門職すら(すべてとは言いませんが)専門的なジョブというよりも一処遇形態になるようなこの社会では、専門職の主要な供給源が大学レベルから大学院レベルに移行するというようなことも、なかなか起こりにくいわけでしょう。一方で、欧米であれば大学院卒が就くのがデフォルトであるような専門職が、それが専門的スキルを必要とするがゆえにメンバーシップを持たないノンメンバー層にあてがわれ、高学歴者ほど低処遇になるという、欧米であればこれ以上ないようなパラドックスが、特段不思議そうな意識もなくごく普通に受容されるという事態も現出するわけです。
そういう社会では、企業が大卒者を採用するのは、彼が企業内で遂行するべき管理的専門的職業のスキルを大学でみにつけてきたからではなく、人間の脳みその出来という意味で社会全体の中でこのレベルの人材だからという以上のものではないわけです。だからあ の「シューカツ」なる社会現象があるわけで、その詳細は拙著『若者と労働』等にゆだねますが、まあ要するに、欧米社会のようなジョブ型社会のタテマエゆえの悩みは初めから感じなくて済むようになっています。教育制度で学んだことは初めからあまり関係ないのですから、「本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしま」えという議論が本気で提起されることもない。
それゆえ、高卒から大卒への教育レベルの一大シフトも、企業内階層構造との対応関係の大激変という事態を引き起こすわけでもなく、いわば欧米社会がいまだ掲げているジョブ型社会のタテマエの下でホンネとしてひそかに行っている人間力採用が、はじめから堂々たる正義として存在している以上、大学教育はその付与するスキルに対応するジョブがあるのかという本質的な意味での過剰論などはそもそも存在の余地はなく、人間力がどれだけ磨かれるか否かなどという次元でしか』論じられないのも当然かもしれません。
そういう社会では、大学に行くべきか行かざるべきかという議論も、労働社会の構造の本質如何という話とは無関係の、まともに相手にするだけの値打ちが全然感じられないような、なんだかふわふわとした能天気な話にならざるを得ないのも、またむべなるものがあるといえましょう。
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またもや列島に大型台風近づく秋雨の本日… 。
ニッポンの教育と職業の密接な無関係さもなからしもがなのHamachan先生のつぶやきに触発されたのではありませぬが、週末の郊外散策がてら雨傘片手に国内最大と思しき都内公立総合大学府の広大なる南大沢キャンパスの端から端まで、時には学生のコーラスが聞ゆる大学構内まで半刻ほど練り歩いたところ、ふっと「大学とは何ぞや」なる身の程知らずの問いが去来したのです。するとその直後、この雄大な自然と建築のキャンパス空間で幾千人もの雑多な若者が4ー6年間を一緒に過ごして交流し合うという正にそのこと自体が壮大なセレンディピティ、何とも言い難い不可侵の出来事に感じられたのです…。
思い起こせば、確かひと昔前まで大学時代は一種の「モラトリアム」(職業人になる前の猶予期間)という牧歌的で心理学的な捉え方が許容されてましたね。欧米では今もギャップイヤー(主に中等と高等教育の間隙にトラベルやインターンを組み入れること)なるアソビ心もあるやと聞きます。個人的にはあまりここのところで整合性を追い求めずともよいのではないかと感じたのです(〜先日の労働政策フォーラム座談会で某教授がご指摘された点、すなわち過去20年間で日本企業最大の失敗は業績主義や論理的なるものへの過度な傾注という言説に共感します)〜Hamachan先生、このイシューにそこまで目くじら立てることもないのでは?、と…。ここよりもむしろ社会にいったん出てからのキャリア形成、今風に言えば中高年のための「リカレント教育」の方が優先度が高いはずかと。
投稿: ある外資系人事マン | 2018年9月29日 (土) 13時40分
>本質的な意味での過剰論などはそもそも存在の余地はなく
>労働社会の構造の本質如何という話とは無関係の、まともに相手にするだけの値打ちが全然感じられないような、なんだかふわふわとした能天気な話にならざるを得ない
文芸世界になぞらえて言えば、芥川賞や直木賞が新人小説の最高作品に贈られる賞であるとして、受賞作と落選作ないし落選者について云々する論がいまだあったりするが(芥川賞は村上春樹へ授与しそこなった、というような)、
このような論がどれだけ的外れで能天気であるかは、川口則弘『芥川賞物語』(2013年1月刊・文庫2017年1月刊)『直木賞物語』(2014年1月刊・文庫2017年2月刊)が出た後の今においては歴然とした話であるにもかかわらず、結局それでも止まないのは、その物事について声高にしゃべりたがる人々というのは、「本質的な意味」「本質如何」ということに関心が向いてしゃべる訳ではなく、結局何か自己の正義感を充溢させるためにしゃべるに過ぎない、とでも言わざるを得ないのだろう。
今回のエントリ記事も、改めて詳しくhamachan先生が解説してくれたが、もちろん以前から先生が指摘していることでもあり、しかしもちろんその本質的指摘が正義感を充溢させるかどうかとは無関係なのであるから、結局は、関心がもたれず、踏まえられることがない、ということなのだろう。
投稿: 原口 | 2018年9月29日 (土) 23時48分