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教育と職業の密接な無関係を象徴するシューカツ・ルール

経団連の中西会長が就活ルールの廃止を口にしたと大騒ぎになっています。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34913280T00C18A9EA1000/

・・・「経団連が採用の日程に関して采配すること自体に極めて違和感がある」。中西氏は会見で、経団連が主体となってルールを定める現状に疑問を呈した。経団連がルールをなくせば自由な採用活動が一段と広がり、新卒一括採用を前提とする雇用慣行の転機となる。・・・

・・・中西氏は会見で、学生を新卒で同時期に一括で採用し、ひとつの企業のなかでキャリアを積んでいくことを前提とした日本型の雇用慣行を見直す必要性にも触れた。「問題意識は共有する経営者も多い」とも話し、企業の人材確保について議論を詰める考えを示した。・・・

しかし、そもそも教育と職業のインターフェイスがこういう形で問題になってしまうこと自体に、日本型雇用システムの特性が浮き彫りになっているというべきでしょう。

昨日紹介した本田由紀編『文系大学教育は仕事の役に立つのか 職業的レリバンスの検討』(ナカニシヤ出版)の懸命の主張にもかかわらず、世の中の多くの人々が、メンバーシップ型社会の「人間力」就活を大前提に考えている限りは、シューカツ・ルールは偽善と本音の絡み合う領域になってしまわざるを得ないのでしょう。

Chuko本ブログの読者にとっては今さらな耳たこ話ですが、拙著『若者と労働』から:

ジョブ型社会の「職業能力」就活
 日本であれ、欧米であれ、学生が企業に対して、自分が企業にとって役に立つ人材であることを売り込まなければならない立場にあるという点では何の違いもありません。違うのは、その「役に立つ」ということを判断する基準です。
 欧米のようなジョブ型社会においては、第一章でみたように採用とは基本的に欠員補充ですから、自分はその求人されている仕事がちゃんとできるということをいかにアピールするかがもっとも重要になります。学生の場合、売りになる職業経験はないのですから、その仕事に必要な資格や能力を持っているということをアピールするしかありません。そのもっとも重要な武器は、卒業証書、英語で言うディプロマです。
 欧米では、一部の有名大学を除けば入学するのはそんなに難しくはありませんから、ある大学に入学したことだけでは何の説得力もありません。むしろ、日本と違ってカリキュラムはハードで、ついてこれない学生はどんどん脱落し、卒業の頃には同期の学生がだいぶ減っているというのが普通ですから、卒業証書こそがその人の能力を証明するものだと一般的に考えられています。
 そして、ここが重要なのですが、その能力というのは、日本でいう「能力」、つまり一般的抽象的な潜在的能力のことではなく、具体的な職業と密接に関連した職業能力を指すのです。卒業証書を学歴と言い換えれば、欧米社会とは言葉の正確な意味での学歴社会ということもできます。日本でいわれる学歴社会というのが、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかとはあまり関係のない、入学段階の偏差値のみに偏したものであるのに対して、欧米の学歴社会というのは、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定されるものなのです。こういう社会では、言葉の正確な意味でのもっとも重要な就「職」活動は、必死で勉強して卒業証書を獲得することになります。
 ちなみに、こういうジョブ型社会ではあまりにも当たり前の行動を、日本社会で下手にやるととんでもない大騒ぎになることがあります。かつて、ある大学の法学部で、既に企業に内定している四年生の学生に対し、必修科目の民法で不可をつけた教授の行動が、マスコミで取り上げられ、世論を賑わしました。入学時の偏差値と面接時の人間力判定で十分採用できると企業が考えているのに、本来何の職業的意義もない大学の授業における教授の成績評価によってできるはずの卒業ができなくなり、「入社」の予定が狂わされるのは、本末転倒である、と、少なくとも当時の日本社会の大多数の人々は考えていたということでしょう。

メンバーシップ型社会の「人間力」就活
 それに対し、日本では実のところ「職」に就くという意味での「就職」活動ではない「入社」のための活動に、学生が振り回される・・・というのが、定番の議論になるわけですが、実を言うと、就職活動(「就活」)をめぐる議論は、第四章で述べる一九九〇年代における「入社」システムの縮小の前と後では、その位相がかなり変わっています。
 第一章で述べたような日本型雇用システムが確立していた時期には、「自分の希望するところへ就職することは困難であるとしても、ほぼ間違いなく全員が自分の就職先を見つけ出すことができるようになってい」た時代ですから、もっぱら在学中からの就職活動が大学教育に悪影響を及ぼすという建前論からの批判が主でした。それゆえ、それに対する対策も、大学、業界団体及び官庁の間の就職協定という、強制力のない紳士協定によって、会社訪問の開始日と選考の開始日を定めてその遵守を申し合わせるというものでした。
 そもそも職業的意義の乏しい教育を受けてきている学生たちにとって、そのような教育をどれだけきちんと身につけたかなどという基準ではなく、あいまいな潜在能力やら人格やらでもって判断されることは、決して悪い話ではなかったのです。ある会社では「相性が合わない」として撥ねられたとしても、別の会社では「うちの会社にぴったりだ」と歓迎されることもあり得ますし、新卒労働市場全体としては一般労働市場に比べて遙かに売り手市場である以上、どこかには入り込めるという安心感がありましたから、基準のあいまいさそれ自体の問題性は、当時はほとんど議論されていませんでした。日本社会全体が、メンバーシップ感覚の中にどっぷりつかって、疑問を呈することすらなくなっていたというべきかもしれません。
 ところが、九〇年代以降かなり急速に進んだ大学進学率の上昇と、日経連の『新時代の「日本的経営」』(一九九五年)を大きな画期とする「入社」システムの縮小の中で、「ほぼ間違いなく全員が自分の就職先を見つけ出すことができるようにな」るという前提までが崩れてくると、そういうあいまいな基準でどこにも「入社」先を見つけられないという事態があちらでもこちらでも発生してくるようになり、そういった「人間力」による採用選考のあり方自体が問題意識に上ってくるようになったのです。
 この「人間力」という言葉は、二〇〇〇年代に入ってから文部科学省や内閣府の政策文書に登場するようになった言葉ですが、前述した本田由紀氏は、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)の中で、「生きる力」とか「コミュニケーション能力」などそれらを取り巻くさまざまな言葉とあわせて、「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいます。それは、欧米社会における近代的能力からポスト近代的能力へという変化に対応する言葉ですが、日本の文脈ではむしろ、一九六九年の『能力主義管理』で掲げられた「いかなる職務をも遂行しうる潜在能力」に極めて近いものであることが重要です。
 ここは大変入り組んでいて、理路を解きほぐすのがなかなか難しいのですが、もともと日本の企業では、そういう「人間力」というのは、「入社」してから上司や先輩の指導の下でOJTを繰り返していくことでじわじわと身につけていくものであって、それゆえ「社員」の人事評価においては極めて重要な基準ではあったとしても、「入社」を決定する時点でそれほど高い「人間力」を求められるような厳格な基準ではなかった、というのが重要なポイントでしょう。
 労働社会全体としては日本型雇用システムが変容していき、「社員」の範囲が縮小するようになっていってはじめて、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界には入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってきた、というのが、九〇年代以降の実相なのではないかと思われます。

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コメント

戦後日本で60年以上続いてきた新卒シューカツなる壮大なイベント、その企業と学校の密接な無関係性…。このアンビバレントな表現の「密接」な面に注目すれば「関係者が学生に十分に考えながら議論していくことが肝要だ」(菅官房長官)というコメントとなる一方、「無関係」な面に着目すれば今回の「就活ルール廃止」経団連会長発言になるのでしょう。前者が予定調和で計画経済的な世界、後者が確率論的で自由競争主義的な世界とでも形容できましょうか…。ただ、Hamachanブログ読者であれば重々承知の通り、この新卒シューカツなる制度は日本式組織人事システムの根幹たるOSあるいは基幹アルゴリズムであって、決して単なる「入り口」でない。それに徒らに手を加えることは(良くも悪くも)現行メンバーシップ型人事システムへの介入(意図せざる副作用)となりうる点は、少なくともこの時点で誰かから指摘されるべきであると思いここに付記しておきたいのです。言い換えれば、ジョブ型雇用社会への確たる自覚や覚悟もなしに、単なる思いつきや運動競技大会への都合ゆえに中途半端な制度変更を試みることにはきっと高い代償を伴うだろうということです。

投稿: ある外資系人事マン | 2018年9月 4日 (火) 20時04分

>この新卒シューカツなる制度は日本式組織人事システムの根幹たるOSあるいは基幹アルゴリズムであって、決して単なる「入り口」でない。それに徒らに手を加えることは(良くも悪くも)現行メンバーシップ型人事システムへの介入(意図せざる副作用)となりうる点は、少なくともこの時点で誰かから指摘されるべきであると思いここに付記しておきたいのです。

経団連に加盟しているのは日本式組織人事の権化の様な企業だと思うのですが、そのような副作用の可能性をどう考えているのでしょうか(会長はそこまで考えなかったのかもしれませんが周囲に指摘する人はいなかったのでしょうか)
それとも、
  就活ルールの廃止で困るのは下々の企業と大学の学生で
  我々のようなちゃんとした企業は就活ルールをなくしても
  ちゃんとした大学の学生を採用できるから問題ない
と思っているのでしょうか?

投稿: Alberich | 2018年9月 9日 (日) 23時16分

あくまでも小職の想像ですが…。

経団連中西会長はさしあたっては2020年夏の東京五輪の成功を念頭におきつつ、企業の経済活動とその大会運営を妨げる要因となりうる日本特有の規制ルールや商慣行をこの機会に見直してみてはどうかと思い(発言の影響等はあまり深くは考えになさらずに)率直に意見開陳されたのでしょう。これは「単一文化の社会であること自体がそろそろ弱点になってきたと思っているので、もっと多様性のある社会に作り変えていった方がいいのだろうな、と。」という記者会見での理由コメントからも分かりますね。そして、事の問題は、この新しいようでいて相当古いテーマであるところのいわゆる日本型雇用慣行の見直しというアジェンダに対する包括的な理解(いま日本企業がかくある所の正確な現状認識とそれに至る真剣な考察)が、やはり「不十分(不適切)」と言わざるを得ない点でしょう。むしろ、彼の立場の人間から聞きたかったのは、新たなデジタル経済時代への日本企業の変革に伴う適応過程を自分たち「中高年」世代から積極的に引き受けていこうという気概であり覚悟だったかと…。

やはり「入り口」の若年層の採用時期や頻度をいくらいじってみたところで、彼ら若者の負担や大学(そして親の)苦労が増すことはあっても日本企業の行動様式やカルチャーが「単一文化から多様性ある社会」へそう簡単に変化できるとは思えませんから。もちろん何らかのきっかけにはなるでしょうが、その社会的影響やコストも踏まえた上で、それこそもっと「多様な」関係者の間で丁寧に検討されるべきアジェンダかと考えます…。

投稿: ある外資系人事マン | 2018年9月10日 (月) 21時03分

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