「文系大学教育は仕事の役に立つのか」という問いに意味があるのか?
二宮祐さんのブログで、二宮さんも寄稿しているという本田由紀編『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(ナカニシヤ出版)が紹介されています。
http://sakuranomori.hatenablog.com/
中身も読まずにコメントするのも大胆不敵と言うべきですが、このタイトルを見て思わず、「いや、そういう問いの立て方に意味があるのだろうか?」とつぶやいてしまいました。
いやもちろん、世の中の圧倒的に多くの人々がそういう問いの立て方で論じている方こそ、こういうタイトルにならざるを得ないのでしょうけど、それではなんだか、「文系大学教育」という実体そのものがあたかも役に立ったり役に立たなかったりするものであるかのように見えます。
でも、各国間で文系大学教育それ自体に若干の違いはあってもほぼ似たような内容であるのに、それがある国で役に立っていて別の国で役に立たないのは、つまるところ、前者の国では社会全体にそれが役に立つものであり、それゆえにそれを学んで資格を得た者を当該専門分野における一定の能力を有するものとして処遇すべきというコンセンサスが成り立っているのであり、後者の国では社会全体にそんなものはそれ自体は役に立たないものであり、それゆえにそれを学んだものはそれを学ぶ資格を得たという点においてその能力が認定されるにとどまり、それ以上の専門的能力を証明する資格とはみなされるべきではないというコンセンサスが成り立っているという違いに過ぎないのではないか、と思われるからです。
という話は、今から7年前の広田さんの科研研究会で喋って、それがこういう本になったりもしていますけど、なんだかあんまり進歩していませんね。同じことを繰り返している気がします。
私は実は、どういうジョブについてどういうスキルを持ってやるかで仕事に人々を割り当て、世の中を成り立たせていくジョブ型社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に割り当て、その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をしていくメンバーシップ型社会の在り方の、どちらかが先験的に正しいとか、間違っているとは考えていません。
ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団の中で人と仕事をうまく割り当てることはできません。
そのよりどころとなるものとして何があるかというと、ある人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間を処遇していくというのは、お互いに納得性があるという意味で、非常にいいよりどころです。
もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろその点です。そこから見ると、日本のように妙な硬直的なよりどころがなく、メンバーとしてお互いによく理解しあっている同じ職場の人たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見て、その中でおのずから、「この人はこういうことができる」というかたちで処遇していくというやり方は、ある意味では実にすばらしいということもできます。
ただし、これは一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがないよその人間との間にそうことができるかというと、できるはずがありません。いきなり見も知らぬ人間がふらりとやってきて、「私はできるから使ってくれ」と言っても、誰も信用できるはずがありません。そんなのを信用した日には、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うに決まっています。だからこそ、何らかのよりどころが必要なのです。
よりどころとして、公的なクオリフィケーションと組織へのメンバーシップのどちらが先験的に正しいというようなことはありません。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、公的なクオリフィケーションでは行き届かない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力を把握し、それに基づく人間の処遇ができていたという面があります。
おそらくここ十数年来の日本で起こった現象は、そういう公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりもより最適な状況を作り得るメンバーシップ型の仕組みの範囲が縮小し、そこからこぼれ落ちる人々が増加してきているということだろうと思います。
ですから、メンバーとして中にいる人にとっては依然としていい仕組みですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、公的なクオリフィケーションでも評価してもらえず、仲間としてじっくり評価してもらうこともできず、と踏んだり蹴ったりになってしまいます。「自分は、メンバーとして中に入れてもらって、ちゃんと見てくれたら、どんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思って、門前で一生懸命わーわーわめいていても、誰も認めてくれません。そういうことが起こったのだと思います。
根本的には、人間はお互いにすべて理解し合うことなどできない生き物です。お互いに理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。
ジョブ型システムというのは、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、まことに硬直的な仕組みですが、そうしたもので身を固めなければ生きていくのが大変な人のためには、そうした仕組みを確立したほうがいいという話を申し上げました。
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> 当該専門分野における一定の能力を有するものとして処遇すべきというコンセンサス
日本社会における「文系大学生」に対するコンセンサスというのは、「ろくに勉強などしておらず、およそ学など期待できない」というものではないかと思います。科目教科以前の問題なのですよね。そしてそれはおおよそ事実であろうとも思います。
例えば、「文系」の科目で一番つぶしがきくのは「語学」であり、外国語が数ヶ国語できれば職業選択の幅は大きく広がります。が、外国語が数ヶ国語できる「文系大学生」など一握りしか存在しないでしょう。以前先生が例として出した「法学部を出て法曹になる」、「経済学部を出て経済アナリストになる」等も同様ですが、事実として大半の「文系学生」は実用になる水準の知識を有してはいないわけでして、それが「ろくに勉強などしていない」という社会的コンセンサスになるのですよね。
結局、これは鶏と卵であって、学校の卒業証書が「知識技能を有することの資格」とみなされていないからこそ、学校は知識技能を有していない学生でも卒業させるし、学校がそうしているという事実によって、社会的コンセンサスは強化されていくわけですね。
他方、ドイツやフランスでは小学校でも留年があり、所定の知識技能を有していない者は初等教育であっても卒業させない。これは学校の卒業証書が「所定の知識技能を有すること」の公的で権威ある資格であるという社会的コンセンサスがあるためでしょう。これが「欧米の学校は入学は簡単で卒業は難しい」という俗論のもとなのでしょうね。
こうした面からすると、日本の大学が TOEIC 等の民間資格をカリキュラムに取り入れる動きはなんとも捻れた話ですね。欧米では大学の卒業証書が立派な「資格」になるわけですが、日本ではおよそ意味のないものと考えられており、そのゆえに別途大学外の資格を以てなにかしらのクオリフィケーションを学生に付与しようとしているという。
投稿: IG | 2018年8月 4日 (土) 17時36分