アラン・シュピオ『法的人間』から
昨日のエントリの続きです。この本、さすがにフランス知識人風のエスプリのきいた表現がここかしこに頻出するので、ついついこうして引用したくなります。
第6章の「人間を結ぶ-人権の正しい使用法」にも、やや物議をかもしそうなところも含め、面白い一節がぞろぞろと並んでいますが、ここではいわゆる社会的権利に対するネオリベ系の批判に対する、皮肉に満ちた反批判の一節を。
・・・いわゆる第二世代の人権の正当性が、経済学の名のもとに30年ほど前から厳しい批判にさらされているのはこのためである。・・・フリードリッヒ・ハイエクのような影響力の強い経済悪者たちは、1948年の世界人権宣言が経済的・社会的権利を承認したのは全体主義的な思想(彼らはそれをプラトンからスターリンにまで結びつける!)であると断じ、「これらの権利を、強制力を持つ法律の中に書き加えれば、伝統的市民権が目標とする自由秩序を必ず破壊することになる」と主張した。このようにもろもろの社会的権利を悪者扱いするダーウィニズム的な社会観が、国際通貨基金や世界銀行のような機関でドグマとしての価値を得ていることは周知のとおりである。・・・こうしてもろもろの社会的権利を法的領域から締め出すための言い分が二つ用意される。社会的権利は富の分配を目的とするが、法の領域はその性質上「正しい振舞いについての規則」に限定される、というのが一つ目である。社会的権利は個人への保証ではなく集団に対する債権という構造を持つ、というのが二つ目である。真の権利はあらゆる債務者から独立して存在するような「・・・の権利」であり、「・・・・を享受する権利」は論点先取に過ぎず、支払いをしてくれそうな組織の存在に依存しているというのである。
と、ネオリベ系の典型的な批判を示したうえで、そのはらむ矛盾をこう暴いて見せます。
・・・実施のために集団の組織を必要とする権利(たとえば健康保護を享受する権利)も、<法権利>の手前への退行を意味するどころか、進化を先取りしており、その進化は今では所有権のような「第一世代」の個人の権利の一部にも及んでいる。グローバル化に最も深く関係する面での所有とは、すでに物質的ではない「知的」なもの、つまり法学者たちが無体財産と呼ぶもの(商標、特許、著作権)を対象としている。音楽の録音や高級バッグやソフトウェアの完璧なコピーとオロジナルの間に物質的な違いは何もなく、誰かからディスクやバッグやパソコンの所有権を奪わなくてもそうしてコピーは製作できるので、超国家企業にとっての死活問題は、その種のコピーが自由に流通しないこと、つまり企業に上納金をもたらしてくれる製品の製造と流通においての自由流通が、知的所有権の尊重によってコントロールされていることである。言い換えれば、知的所有権の尊重とは、対象となる製品の製造・複製・販売への強制的な課金の整備が前提なのである。つまりここでは所有権がもろもろの社会的権利と同じ構造をしているということである。ある財を物理的に所有することとは一致せずに、債権という姿をとるこの所有権は、国家がその行使のために積極的に介入することを要請しているのだ。この権利の尊重を確実にするためには、製品のトレーサビリティを組織しなければならない。世界全体に張り巡らされなければ有効でない集団的組織が必要であるということである。
社会的権利を批判して称揚される知的財産権の構造が当のその社会的権利と相似形であるというこの皮肉。
そこからシュピオはさらに、その知的財産権と社会的権利の相克をこう皮肉に描き出します。
・・・知的所有権ともろもろの社会的権利が同じ構造をしているということは、両者を和解させたり、上下関係を定めたりする必要が生じるのは当然である。つまり1948年の世界人権宣言から、製薬会社の自らの特許に対する私有権よりも、人々が適切な治療を受ける権利を優先させるべきであるという会社を引き出すことも可能なのだ。政治はここでこそ調停能力を取り戻すのであるが、市場原理の博士たちはそれを認めようとしない。このようにもろもろの社会的権利に近づけてみることで示唆されるのは、(受益者が収入に応じて集団的な連帯の組織に貢献することが必要な)社会的権利を同じように、知的所有にも、その行使を保証する国々に益するような拠出金を課するべきだということである。ハイエクのような原理主義的経済学者たちが禁じることを願っているのは、まさにこの種の解釈である。彼らは人権を「市場の力」に奉仕させようとしているのであって、その逆ではないからだ。・・・・
全編にわたって、この手の類の警句じみた皮肉のきいたセリフが繰り返し繰り出されてきて、夏休みの読書の友には最適です。
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コメント
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>社会的権利を批判して称揚される知的財産権の構造が当のその社会的権利と相似形であるというこの皮肉
そもそも一般的な所有権自体、その保障のためには「正当な暴力行使の独占」主体である国家の登場を究極的にはまつわけですからねえ。近代社会におけるあらゆる権利は貨幣的なものであれ、実物的なものであれ、「支払いをしてくれそうな組織の存在に依存」しているんですよね。それを批判するなら自力救済の中世社会に戻るのが筋ですが、市場原理主義者でそのような主張をしているのは稀ですからね。ご都合主義のそしりは免れません。
投稿: 通りすがり2号 | 2018年8月15日 (水) 19時08分