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2018年7月 1日 (日)

濱口桂一郎×渡辺輝人「労働時間改革をめぐる実務家と政策論者の視点」@『POSSE』第24号(2014年)

Posse 濱口桂一郎×渡辺輝人「労働時間改革をめぐる実務家と政策論者の視点」@『POSSE』第24号(2014年)

濱口:先ほど学者対実務者の枠組みとおっしゃっていましたが、私は自分を純粋な学者とは思っていません。実際に労働法学者と呼ばれる方々のほとんどが行っているのは労働法解釈学であって、その方々の感覚の基本的な土俵は渡辺さんと同じだと思います。私自身は、いま渡辺さんがおっしゃったようなもの(本号では省略)が労働時間規制であるという発想自体に対して批判的な立場です。特に「1日8時間1週間40時間を超えたら残業代を払わなければならない」というのが日本の労働時間規制だとする見解でくくれば、労働弁護士も経営法曹も労働法学者も同じ労働法サークルに属していて、そこに対して私が孤立的な立場に立っているという認識です。
 日本の労働時間規制は条文を素直に読めば物理的な時間を規制しているので、制度的にみれば実はヨーロッパ型であると言えます。1日8時間、週40時間を超えて働かせてはならず、超過して働かせた場合には刑事罰まであります。これに対してアメリカの公正労働基準法は、週40時間を超えた場合には50%割増しの規定があるのみで、それさえ守ればいくらでも長く働かせることができる。そのような違いがあるにもかかわらず、労働法サークル内外のほとんどの人は日本の労働時間規制はアメリカ型の残業代規制だと思っている。皮肉な言い方をすれば、一方にサルを神様だと思い込んで拝んでいる人がいて、その傍らにはサルを悪魔だといって叩こうとしている人々がいるというような状況です。たとえば変形労働時間制といっても、1日10時間に達したときに、そこで強制的に労働を終わらせる義務はなく、それ以降は割増しを払う必要があるというだけです。時間外労働や休日出勤といった際、日本人には時間外手当や休日手当を払うべき時間という以上の意識がない。そのため、法定休日か否かという議論も、単に割増率が25%か35%かという議論に還元されてしまいます。そんなものが休日規制の名に値するのかが問題ですが、実務家からも学者からも提起されることはありません。ここに最大の問題があるというのが私の問題意識です。
 労働時間規制でないものを労働時間規制だとするこのような発想は、マスコミや政治家など労働法サークルの外部にまで浸透しています。ここでも残業代ゼロが是か非かという議論に現れているように、サルを拝んだり叩いたりしているだけで、本質的な部分がすっぽりと抜け落ちているわけです。第一次安倍内閣のWEの議論の際からその流れがずっと続いていて、ようやく最近になって残業代とは切り離して労働時間の物理的な上限規制を設けるべきだという議論が出てきました。規制改革会議が明確にそれを提起し始めていますし、骨抜きになっているとはいえ産業競争力会議もリップサービスとしては言及しています。
 
濱口:そのように議論すること自体が、サルの話になってしまっています。35%が良いか悪いかではなく、そもそも法定休日とは仕事をさせてはいけない日なんです。EU指令の法定休日とはまさにそういう意味です。それがいつの間にか加算するかしないかの話になってしまうのが今の日本の状態で、労働時間の問題がお金の問題に還元されてしまっている。法定休日に働かせているだけで刑罰の対象になるという感覚が全くないんですね。もっとも、法学者や実務家は実際に出てきた判例を評釈しなければならず、サルしかいないところでサルばかり相手にしているので、いつの間にか本来の神がみえなくなってしまっているわけです。
 
濱口:そのような議論も、法定休日をお金の問題としかとらえていません。日本の法律の仕組みは本来はあくまでもヨーロッパ型です。お金ではなく物理的な時間規制です。つまり、物理的労働時間を規定する32条こそ重要なはずですが、現実には32条は空洞化していて、割増賃金を規定する37条こそが労働時間規制の本質だと思われているのです。
 第一次安倍内閣の時にも、労働時間規制を抜本的に変えようという議論がありましたが、エコノミスト、経済評論家、マスコミ、経営者、政治家などほとんどが、労働時間規制とはすなわち残業代規制であるという、労働法の世界から発信されている主張をそのまま受け取って議論していました。たしかに現在の残業代規制は不合理な面をもっていますが、それよりも議論の土俵自体が間違っているところにより大きな問題があります。
 
濱口:しかし、そのような主張は結局のところ、過労死するほど働かせても残業代さえきちんと支払っていれば問題ないという発想に吸収されてしまうと思います。EUの労働時間指令は残業代の話を一切抜きにして時間だけを規制しており、また日本も昔は女性に対して1日2時間、年150時間以という物理的な時間外労働の上限がかけられていました。一方でアメリカはお金で間接的に規制しようという立場です。
 いまの立法論の議論は、工場法・労働基準法以来の物理的な労働時間規制の建前が運用のなかで実質的に空洞化されてきたところを、さらに建前の部分も空洞化しようとしています。実務家として残業代請求が主戦場だと思うのはよく理解できますが、立法論の基本からいえば、残業代だけに集中した議論は、100年前から続く天守閣をやすやす明け渡して、二の次に作っていた小さな櫓にしがみついている、と言わざるを得ません。主たる天守閣が空洞化している中では櫓しか闘う拠点がないので、現実にそれが役に立っているのは確かですが、その櫓が攻撃されている理由は天守閣との関係ではなく、櫓そのものにあります。城を守る方の立場からすると天守閣をそっちのけにして櫓だけ守ってみても意味をなさないわけですが、攻める方からみると、櫓だけが邪魔者に見えるのです。具体的には、櫓に対する攻撃にあたっては、天守閣との関連でではなく、櫓そのもの、つまり賃金制度としての合理性に対して批判がなされるわけです。もっとも典型的なのは、時間と比例した賃金制度はおかしいという主張ですね。そのため、櫓だけしか目に入らない議論をしていると、賃金制度の基準を時間に置くべきか成果に置くべきかという狭い議論に陥ってしまうので、まさに櫓だけが攻防の場となってしまいます。労働法の実務家も解釈学者も含めたすべての人に対して、そのような議論をしていていいのかと問いかけたい最大の理由がここにあります。

濱口:マスコミも労働法のプロではないので、残業代による間接的な規制ではなく、過労死させないという観点から労働時間そのものを規制することが重要なんだと、櫓と天守閣を峻別した議論を理解してもらうことが必要です。ところが前回も今回も、批判派の議論はもっぱら、残業代を払わせることが長時間労働・過労死を防止している、すなわち櫓が天守閣の代わりに闘っているからいいんだという言説です。でもから見ると、なぜ天守閣ではなく櫓だけを大事にするのかという印象を受けます。実務家の立場としてはよくわかりますが、一国のルールをゼロベースで作るとなった際に、その議論では天守閣の姿がまったく見えてきません。残業代ゼロは過労死の促進だと強調したところで、結局それは労働法サークルの中でしか通用しない話です。一歩その外に出て、天守閣と櫓についての事情を知らない人に対してそのように打ち出したところで、妙な櫓を守れという話しかしていないように思われてしまう
今の情勢はゼロベースで労働時間規制をどうするべきかという議論ができるまたとない絶好の機会で、しかも規制改革会議は部分的に私の主張を取り込んでいます。36協定も終戦直後はそれなりに抑制力のあるものでしたが、50年代に数回にわたって行われた省令改正によって空洞化されてしまった歴史があります。細かいところは後々詰めていけばいい話ですが、天守閣がなくなった跡地に再度小さなものでもいいので天守閣を作ろうという議論がまず第一になされるべきであり、もともと殿様がいるわけでもない櫓を守ることばかりに全力を注がないほうがいいのではないかと思っています。
 
濱口:バーター論と言っても、こちら側の合理性である長時間労働規制を何としてでも手に入れるためにしぶしぶ経営側の合理性である残業代規制の緩和を認めざるをえない、という捉え方は少し誤解があります。先ほども申したように、経営側は、天守閣がないなかで成果に基づいて報酬を支払いたいというロジックなので、一定の合理性があるわけです。そこに、現在長時間労働を間接的に防いでいる櫓を壊すのであれば、その代わりに新しい天守閣を作らなければいけないというこれまた合理性のあるロジックを持ち出すことになるので、このバーター論ではそれらの合理性を前提にした、話し合いの余地が十分にあります。
 
濱口:経営側のいう残業代規制の矛盾が顕著に現れている例としては、モルガンスタンレーサービスリミテッド事件があります。
 
濱口:まともな労働法学者が評釈したら疑う余地もなく判旨反対となりますが、一般の意見としてはそんなの当たり前だろうと捉えられてしまう。世の中の大半の人がこれ以外の結論はないと思うことが違法になってしまうような仕組みはおかしいわけです。この例の場合は年収3000万円ですが、これが1000万や800万に引き下げられた場合はどうなのか。そのあたりになると世間の常識がせめぎ合うようになるわけです。高給取りであれば残業代規制に守られていなくても仕方がないという常識による攻撃に櫓がさらされたとき、単に判旨反対では守れません。そこで生きてくるのがバーター論です。物理的な労働時間以外の領域における線引きをどのように釣り合わせていくかという政治的な判断の領域においてはそのような議論が必要になってくると思います。

 

 

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