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『新しい労働社会』岩波新書(2009年)

Shinsho 『新しい労働社会』岩波新書(2009年)

2 ホワイトカラーエグゼンプションの虚構と真実

ホワイトカラーエグゼンプションの提起
 ところがやがて、スタッフ管理職だけでは間に合わない、もっと多くの労働者を残業代から外したい、という声が企業側から上がってくるようになりました。2005年6月の日本経団連の提言では、「労働時間の長さを賃金支払の基準とする現行法制下では、非効率的に長時間働いた者は時間外割増賃金が支給されるので、効率的に短時間で同じ成果を上げた者よりも、結果としてその報酬が多くなるという矛盾が生じる」と述べ、こうした労働時間と賃金の直接的な結びつきを分離するホワイトカラーエグゼンプションの導入を求めていました。
 こういう制度を「ホワイトカラーエグゼンプション」と呼ぶことは適切です。なぜなら、この言葉の出所であるアメリカには、労働時間規制は存在せず、残業代規制しか存在しないからです。その残業代規制を一定のホワイトカラーに適用除外する制度を「ホワイトカラーエグゼンプション」というのですから、それをそのまま(残業代のみの適用除外として)日本に持ち込もうとしたのであれば、その基準をめぐって議論はあり得ても、絶対におかしいということにはならなかったでしょう。
 そもそも、残業代は基本給に比例します。いのちと健康に関わる労働時間規制や、生活が成り立つかどうかに響く最低賃金規制が絶対水準であるのと異なります。時給800円の非正規労働者が1時間残業しても、割増付きで1時間1000円になるだけですが、たとえば年収800万円の高給社員を時給換算して1時間4000円とすると、1時間残業すると割増付きで1時間5000円になります。これを支払わせることが、刑事罰をもって強制しなければならないほどの正義であるかどうかは、労働法というものの考え方によるでしょう。

政府の奇妙な理屈付けと経営側の追随
 ところが政府の規制改革・民間開放推進会議は、2005年12月の答申で、ホワイトカラーエグゼンプションを(残業代だけでなく)あらゆる労働時間規制からの適用除外として要求し、ご丁寧にもそれを「仕事と育児の両立を可能にする多様な働き方」だと位置づけたのです。
 しかし、労働時間規制とは「これ以上長く働かせてはいけない」という規制であって、「短く働いてはいけない」という規制ではありません。育児との両立のために短く働くことを労働基準法はなんら規制していません。労働時間規制を無くせば、仕事と育児が両立するなどというのは、端的に「ウソ」です。
 とはいえ、この虚構が閣議決定された以上、2006年2月から開始された労働政策審議会の審議において、厚生労働省も「自律的な働き方」とか「自由度の高い働き方」という言い方で、ホワイトカラーエグゼンプションを正当化せざるを得ませんでした。そして、この虚構が経営側をも巻き込んでいきます。日本経団連の紀陸孝氏は、労働政策審議会でも初期には「ある仕事を短時間でやった人はどうなりますか。賃金が低くなってしまう。時間にリンクしているだけで考えればね」と本音を語っていましたが、後には「時間外労働の手当をできるだけ抑制する、払いたくないがためにこういうものを入れるのではないかという指摘をよくされます。経営側としては、全然そんなことは考えておりません」などと、妙な建前論を弄するようになります。厚生労働省当局が振り回していた「自律的な働き方」という空疎な概念を、(企業経営の立場からすればそんなものが虚構に過ぎないことは重々承知の上で)いかにもそれを信奉しているかの如き態度をとることで、「どれくらい高給であれば残業代を払わなくてもいいのか」というまさに労使が決めるべき課題に正面から向かい合うことなく、逃げの議論に終始してしまったと批判されても仕方がないでしょう

労働側のまともな反論
 これに対して、労働政策審議会における労働側の反論は筋が通っていました。JAM(機械金属産業労組)の小山正樹氏は「本当に自律的に、仕事量も自分がすべて調整しながら働いているなどという人はいないのではないか」「本当にそういう人がいるというのでしたら、具体的な職場なり働き方の方においでいただいて、ヒアリングでもしてみたらどうかと思うのです」と皮肉をかませながら、「実態としては、そこに自由な働き方、自律的な働き方などというのはないのだと。むしろ長時間働きすぎて、それによって過労死や過労自殺が生じているのだという実態を踏まえていただきたいと思います」と突っ込んでいます。
 この頃、過労死遺族会が厚生労働省に「自律的な労働制度」を導入しないよう求めました。「労働時間規制がなければ過労死・過労自殺に拍車がかかるのは明らか。犠牲をこれ以上出さないでほしい」と、規制の厳格化や企業への罰則強化を求めたということです。
 しかし、実は経営側にはこれに対する再反論の余地は十分あったのです。そもそも上記日本経団連の提言では「労働時間の概念を、賃金計算の基礎となる時間と健康確保のための在社時間や拘束時間とで分けて考えることが、ホワイトカラーに真に適した労働時間制度を構築するための第一歩」と述べ、「労働者の健康確保の面からは、睡眠不足に由来する疲労の蓄積を防止するなどの観点から、在社時間や拘束時間を基準として適切な措置を講ずる」ことを主張していました。経営側の立場から弁護士活動をしている経営法曹の西修一郎氏は、「結局、賃金対象労働時間ではないが、安全配慮義務という観点から、拘束時間は結局は管理せざるを得ないですね。だからそういう意味で拘束時間という言い方を私はしますが、それを考えればエグゼンプションをどうやっても、どういう制度をやっても、拘束時間を管理するという制度は、結局は残るのです」と述べています。
 もし経営側がこういう論理を提示して、「そうだ、在社時間や拘束時間の上限という形で労働時間を管理するんだ。それなら時間外手当は適用除外でいいんだな」と反撃すれば、労働側に二の矢があったかどうかはたいへん疑わしいと思います。しかし、そういう議論は一度も行われませんでした。

「残業代ゼロ法案」というフレームアップ
 こうして、労使が本音で議論できるはずの残業代の適用除外ではなく、「自由度の高い働き方」という虚構の論理に乗った労働時間規制の適用除外が、2006年12月の労働政策審議会答申という形で世間に発表されたとたん、事態はさらに奇怪な方向にねじ曲がっていきます。
 労働側も過労死遺族会も長時間労働や過労死の恐れゆえに批判していたこの制度を、ほとんどのマスコミは「残業代ゼロ法案」と呼び、どんなに残業しても残業代が支払われないがゆえにけしからん制度だと(のみ)批判を繰り広げました。世論に敏感な政治家たちも一斉に否定的な発言を始めましたが、その中に「長時間労働」とか「過労死」という言葉は見あたらず、「残業代ピンハネ」といった扇情的な発言に終始しました。
 実は、この答申は、自由な働き方だから労働時間規制を撤廃するといいながら、木に竹を接ぐように、在社時間を管理して長時間労働には医師による面接指導を行えと求めていました。本来ならば、「それで十分なのか、時間そのものを規制すべきではないのか」といったまともな議論の出発点になり得たでしょう。
 しかし、「残業代ゼロ法案」批判の嵐の中では、そのような議論の余地はありませんでした。そして、結局政府は国会提出法案にホワイトカラーエグゼンプションを盛り込むことを断念し、月80時間を超える残業について割増率を5割に上げるという、まるで長時間残業を奨励しているかのような改正案を提出したのです(2008年12月に、月60時間を超える残業について割増5割と修正して成立)。

(コラム)月給制と時給制
 後述するように、2007年に成立した改正パート労働法は、短時間労働者と「通常の労働者」の均等待遇や均衡処遇を求めています。また同法の審議で指摘された短時間勤務ではない非正規労働者(いわゆるフルタイム・パート)の問題に対応するため、労働契約法にも「均衡」という言葉が盛り込まれました。均等待遇や均衡処遇といったときにもっとも重要なのはもちろん賃金ですが、現実の労務管理の世界では正社員と非正規労働者を分かつ賃金制度上の最大の違いは、前者が月給制であり、後者が時給制であるという点にあります。長期雇用を前提とする正社員に適用される月給制においては、学卒初任給に始まり、毎年の定期昇給によって賃金額が年功的に上昇していくことが普通です。一方、非正規労働者に適用される時給制においては、そのつどの外部労働市場の状況によって賃金額が決まり、年功的上昇や査定は原則として存在しません。
 本来、月給制の賃金額と時給制の賃金額は比較可能ではありません。なぜならば、本来の月給制とは、その月に何時間労働しようがしまいが、月当たりの固定給として一定額を渡し切りで支給するもので、時間当たりの賃金額を一義的に算出することはそもそもできないものだからです。実際、戦前の日本でホワイトカラー職員に適用されていた月給制とは、そのような純粋月給制でした。彼らに残業手当という概念はなかったのです。これに対し、ブルーカラー層に適用されていた日給制とは、残業すれば割増がつく時給制でした。
 この両者が入り混じってきたのは、戦時下にブルーカラーの工員にも月給制が適用され、その際月給制であるにもかかわらず残業手当が支払われることとされたことが原因です。一方でホワイトカラー職員の給与にも残業手当を支給するよう指導が行われました。職員も工員も陛下の赤子たる産業戦士であるというこの戦時体制の産物が、敗戦後の活発な労働運動によって工職身分差別撤廃闘争として展開され、多くのホワイトカラー労働者とブルーカラー労働者が残業代のつく月給制という仕組みの下に置かれることとなったのです。
 労働基準法第37条もこの土俵の上に立って、労働時間規制の適用が除外される管理監督者でない限りは、すべての労働者に対して残業代の支給を義務づけています。同法施行規則第19条は、月給制であってもその額を1月の所定労働時間で割った時間当たり賃金を算出し、それをもとに割増額を算定することを求めています。これは、管理監督者でない限り、月給制といえども月単位にまとめて支払われる時給制であると見なしているのと同じです。つまり、正社員と非正規労働者を分かつ最大の違いであるはずの賃金制度は実は共通であり、両者は時間当たり賃金において比較可能であるという意外な結論に導かれます。
 ここからどういう結論を展開するかは、読者の関心によって様々でしょう。正社員も実は時給制であるのなら、時給ベースで均等待遇を論ずることができるはずだという議論もあり得ます。本来の月給制は残業代無しの渡し切りなのだから、そういうエグゼンプトは均等待遇の議論には乗らないはずだという議論もあり得ましょう。ホワイトカラーエグゼンプションの議論は「残業代ゼロ法案」というマスコミの批判で潰えてしまいましたが、賃金制度を補助線として引いてみることによって、非正規労働者の均等待遇・均衡処遇の議論とつながってくる可能性があるのです。

3 いのちと健康を守る労働時間規制へ

消えた「健康」の発想
 労働経済白書によると、25~44歳の男性で週60時間以上働く人の割合は2割以上に達しています。週60時間とは5日で割れば1日12時間です。これは、1911年に日本で初めて工場法により労働時間規制が設けられたときの1日の上限時間に当たります。
 工場法はいうまでもなく、『女工哀史』に見られるような凄惨な労働実態を改善するために制定されたものです。当時、長時間労働で健康を害し結核に罹患する女工が多く、労働時間規制は何よりも彼女らの健康を守るための安全衛生規制として設けられました。
 ところが、終戦直後に労働基準法が制定されるとき、1日8時間という規制は健康確保ではなく「余暇を確保しその文化生活を保障するため」のものとされ、それゆえ36協定(時間外・休日労働を行わせるために必要な労使協定)で無制限に労働時間を延長できることになってしまいました。労働側が余暇よりも割賃による収入を選好するのであれば、それをとどめる仕組みはありません。実際、戦後労働運動の歴史の中で、36協定を締結せず残業をさせないのは組合差別であるという訴えが労働委員会や裁判所で認められてきたという事実は、労働側が労働時間規制をどのように見ていたかを雄弁に物語っています。
 もっとも、制定時の労働基準法は女子労働者については時間外労働の絶対上限(1日2時間、1週6時間、1年150時間)を設定し、工場法の思想を保っていました。これが男女雇用機会均等に反するというそれ自体は正しい批判によって、1985年、1997年と改正され、撤廃されることにより、女性労働者も男性と同様無制限の長時間労働の可能性にさらされることになりました。健康のための労働時間規制という発想は日本の法制からほとんど失われてしまったのです。こうした法制の展開が、労働の現場で長時間労働が蔓延し、過労死や過労自殺が社会問題になりつつあった時期に進められたという点に、皮肉なものを感じざるを得ません。

過重労働問題と労働政策の転換
 一方この時期、労働時間規制ではなく、労災補償と安全衛生の分野で政策の転換が進んでいました。
 前者は、脳・心臓疾患の労災認定をめぐる裁判例の進展と、これを受けた労働省の認定基準の改定という形で進みました。かつては発症の直前または前日に過激な業務をしたことを要求していたのが、発症前1週間の過重な業務で判断するようになり、さらに2000年7月の最高裁判決(横浜南労基署長(東京海上横浜支店)事件(2000年7月17日))を受けて発出された2001年12月の認定基準では、6か月という長期間にわたる業務の過重性を発症との因果関係で評価しています。具体的には、発症前1か月ないし6ヶ月間にわたり、1か月あたりおおむね45時間を超えて時間外労働が長くなれば業務と発症との関連性が強まり、さらに発症前1ヶ月間におおむね100時間(または発症前2か月ないし6ヶ月間にわたって1か月あたりおおむね80時間)を超える時間外労働は、業務と発症の関連性が強いとしています。
 この基準の最大の意義は、労災補償法政策と労働時間法政策を交錯させたことにあります。具体的な数字を示して、一定時間以上の長時間労働は使用者の災害補償義務の対象になりうる過重労働であると認めたわけですから、労働時間規制へのインパクトは大きいはずです。
 次に転換したのは、労災補償と裏腹の関係にある安全衛生法政策でした。2002年2月に「過重労働による健康障害防止」のための通達が出され、2005年11月には労働安全衛生法が改正されています。この改正では、月100時間を超える時間外労働に対して医師による面接指導が義務づけられ、事業者は医師の意見を聞いて、就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮、深夜業の減少などの措置を講じなければなりません。
 このように、物理的な長時間労働を労災要因、安全衛生リスクとして規制しようという発想は、労働政策の中で着実に拡大してきています。ところが労働時間規制という本丸では、健康確保のための物理的労働時間規制という発想はいまだに土俵にすら上っていないのです。

まずはEU型の休息期間規制を
 残業代規制だけで労働時間規制の存在しないアメリカと対照的に、EUの労働時間指令は労働者の健康と安全の保護が目的で、物理的労働時間のみを規制して残業代は労使に委ねています。
 そこでは週労働時間の上限は48時間とされています。日本より緩いではないか、と思ったら大間違いです。これは「時間外を含め」た時間の上限なのです。EUの労働時間規制は、それを超えたら残業代がつく基準ではありません(それは労使が決めるべきものです)。それを超えて働かせることが許されない基準なのです。最高1年の変形制が認められていますが、これも日本のように変形制の上限を超えたら残業代がつくだけのものとは違い、上限を超えることを許さないものです。これが、(イギリスを除く)EU諸国の現実の法制です。
 イギリスだけはオプトアウトという個別適用除外制度を導入しています。労働者が認めたら週48時間を超えて働かせてもいいというもので、大きな非難を浴び続けてきました。しかし、実はオプトアウトを適用しても労働時間には物理的上限があります。それは休息期間規制があるからです。
 EU指令は1日につき最低連続11時間の休息期間を求めています。これと1週ごとに最低24時間の絶対休日を合わせると、1週間の労働時間の上限はどんなに頑張っても78時間を超えることはできません。たとえオプトアウトでも上限はあるのです。現在審議中の指令改正案ではこの上限を週60時間にしようとしています。
 現在の日本に「時間外含めて週48時間」という規制を絶対上限として導入しようというのは、いささか夢想的かも知れません。しかし、せめて1日最低連続11時間の休息期間くらいは、最低限の健康確保のために導入を検討してもいいのではないでしょうか。
 上記安全衛生法改正時の検討会では、和田攻座長が、6時間以上睡眠をとった場合は、医学的には脳・心臓疾患のリスクはないが、5時間未満だと脳・心臓疾患の増加が医学的に証明されていると説明しています。毎日6時間以上睡眠がとれるようにするためには、それに最低限の日常生活に必要な数時間をプラスした最低11時間の休息期間を確保することが最低ラインというべきではないでしょうか。
 なお、情報労連に属する9つの労働組合が、2009年春闘で残業終了から翌日の勤務開始までの勤務間インターバル制度の導入を経営側と妥結しました。2社が10時間、7社が8時間と、EU指令よりやや緩やかですが、いのちと健康のための労働時間規制という方向に向けた小さな第一歩として注目すべきでしょう。

 

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コメント

ありがとうございました。良く分かりました。しかし、今回の法案の審議過程は推進反対双方とも問題が有りすぎで、今後の労働法制や労働現場の動向に悪影響がなければと思います。まさに巨大な機会を浪費してしまったわけですから。。在野でもっと議論しないとアカンですね。
とりあえず大変勉強になりました。

投稿: 高橋良平 | 2018年7月 1日 (日) 21時52分

そういう風に、ちゃんと物事を理解しようとする姿勢の方がいると、ほっと救われた気持ちになります。

マシナリさんに、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-755.html

既に各方面で論評されているところですので多くは語りませんがhamachan先生の咆哮が炸裂していたところでして、これまで労働時間規制の重要性をことあるごとに指摘し、やっと法制化が実現使用とするそのときに残業代規制のオプトアウトのみを取り上げて法案成立阻止を声高に主張する方々に対する憤懣やる方なさが際立ちます。

と書かれたように、正直のところ、今回の件については論点はことごとく10年以上前に出尽くしていて、それに対していかに論じるべきであり、いかに論じるべきではないかも、10年以上前に全て私が論じ尽くしているにもかかわらず、そういうのをことごとくスルーして、
「たった今までの日本こそが、高度でもプロフェッショナルでもないごく普通の新入社員が無制限の時間外・休日労働にさらされる国であり、それゆえに99年前のILO第1号条約すら批准できない情けない国であり、今回の法改正でようやく、そういう状況から(なお相当に不十分とはいえ)それなりにまっとうな状態に脱却できたのであるということ」
を無視した議論が横行する今の日本の知的世界の退廃ぶりに、正直「憤懣やる方なさが際立」っている所です、ほんとに。

まっとうな、法規制そのもののあり方、法制度そのもののあり方を正面から論ずることが軽薄なマスコミの表面から追いやられ、あたかも今現在の日本で何百人も過労死している人々に適用されている一般労働時間規制が、過労死するはずのないご立派な法制度であるかの如き議論が平然と横行することに、危機感をかけらも感じて居なさそうな専門家と称する人々にも失望しています。


投稿: hamachan | 2018年7月 2日 (月) 10時18分

10年間の間に、労働時間規制に関してどれくらい実のある議論が出来たのか。政治動向とは切り離して現状分析と有りうるべき方向性、そして付帯する課題について、など丁寧に議論することが決定的に労働側には欠けていたように思います。やはり議論と対話が決定的に欠けているように思います。しかも、10年前から政府と経営側は出し続けていたわけですから、政治動向を見ても議論は必須だったと思います。実際議論がないことはなかったわけてますが、それらはほぼhamachanが指摘の通りのΓ残業代ゼロ」でした。労働時間と賃金の関係、そして労働側のΓ本命」(果たしてそれが本当なのかと疑わざるを得ませんが)である労働時間規制についての議論はほぼほぼありませんでした。これはやはり労働側の怠慢であり、不作為の作為ではないでしょうか?
今回のΓ騒動」から得るべき教訓は、課題なり懸案は率直に議論、対話しないと結局不毛な現状が作り出されるということ。現実とそれを構成するフレームに留意しながら対話、議論を促進しようということかなと個人的には思っています。
とりあえず、労働については現状の理解、解釈の恣意性、そして方向性の解離が各人各位で甚だしいので、まずは自分自身がhamachanで勉強しないといけないと思いました。長文失礼しました。

投稿: 高橋良平 | 2018年7月 2日 (月) 11時45分

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