三柴丈典『労働者のメンタルヘルス情報と法』
三柴丈典さんより『労働者のメンタルヘルス情報と法 情報取扱い前提条件整備義務の構想』(法律文化社)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03945-3
三柴さんは労働法学の世界の中で労働安全衛生を中核的に研究してきた第一人者ですが、近年はメンタルヘルス問題に取り組んできました。その三柴さんが、メンタルヘルスと個人情報保護という難問に正面から取り組んだのが本書です。
労働者のメンタルヘルス情報の取扱いをめぐる諸問題について関係法規および法理・学説を整理し、諸問題を理論的に解明。メンタルヘルス情報の取扱い適正化のための法理論構築へ向け、論証を試みる。
これがどれくらい難問かというと、2014年の安全衛生法改正をめぐって、そもそも自殺防止のために定期検診でメンタル不調をあぶり出そうという話が、それではプライバシーがダダ漏れになるじゃないかと研究会で方向が変わり、さらに審議会で修正され、法案化された後も精神医学者から猛烈な批判が出されたりと、なかなか一筋縄ではいかなかったことからも分かります。
この経緯に労働法学者として関わり続けていたのが三柴さんであり、たぶんほかの労働法学者にはなかなか手が出ない領域にまで踏み込んで議論を展開できる数少ない一人でしょう。
本書の副題ともなっている「情報取扱い前提条件整備義務」とは、「おわりに」の解説を引用すればこのようなものです。
使用者に自身のメンタルヘルス情報を提供する者に対し、「安心して情報を伝えられる条件」を整備する信義則上の義務を課し、その不履行から使用の情報を入手できず、所用の健康確保措置を実施できなかった場合、それに起因して生じた災害につき過失責任を推認する一方、それが履行されたにもかかわらず、労働者が情報提供を拒んだ場合、職場秩序への影響等が見込まれるか、使用者に安全配慮義務の一環として当該情報を踏まえた措置義務が生じる場合には懲戒処分の合理性を認めるとともに、同意のない情報の取扱いをその限りで正当化(ないし義務化)し、使用者が合理的な努力を尽くしても情報を採り得なかった場合、それに起因して発生した災害について免責ないし減責される、という法理である。
これ、私も今から10年以上も前に、ぼそっとこんなことを書いて考えたことがありますが、あまりじっくりと考えを突き詰めることなしに、それこそチコちゃんじゃないですが、「ボーッと生きてんじゃねえよ」状態だったので、あらためてきちんと考えなければと思った次第です。
過労死・過労自殺とプライバシー(『時の法令』(そのみちのコラム)2007年6月15日号)
労働にかかわる問題でマスコミの注目を浴びるテーマの一つに過労死や過労自殺がある。過労死とは医学的には脳血管疾患や虚血性心疾患を指す。いずれも血管病変が長い生活の営みの中で徐々に進行し発症に至るものであって、生活習慣病とも呼ばれる。だから通常は労災補償や民事損害賠償の対象にはならない。ただ、業務が過重なためにその自然経過を超えて著しく増悪した場合には、因果関係が認められて労災補償や損害賠償の対象になりうる。これが大原則である。労災補償は使用者に過失がなくても業務と災害に因果関係があれば認められるが、民事損害賠償はそうではない。そこで、判例は「安全配慮義務」という概念を発達させ、使用者には労働者に対し、「業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務を負う」(電通事件最高裁判決)という規範を確立してきた。立法面でも、労働安全衛生法は労働者の健康診断を義務付け、それに基づいた健康管理を要求しているし、2005年改正では月100時間以上残業した者に対して医師の面接指導とそれに基づく措置をとるべきことを義務づけた。政府も裁判所も、使用者は労働者の健康状態をきめ細かく把握し、それに基づいて人事管理を行うよう求めていると言ってよいだろう。これは身体の健康だけの話ではない。過労自殺とは医学的には精神障害による自殺である。業務による強い心理的負荷により精神障害が発病し自殺に至った場合には、使用者は労災補償や民事損害賠償の責任を負う。上記電通事件は典型的な過労自殺事案である。使用者は労働者の精神の健康状態を常に把握し、悪化しないように配慮しなければならないのだ。ところが一方、身体やとりわけ精神の健康に関する情報というのは、個人情報の中でも特にセンシティブな情報である。使用者が労働者の健康情報を収集しこれに基づいて人事管理を行うというのは、労働者にとっては人に知られたくないプライバシーを暴かれるということでもある。この観点からは、労働安全衛生法が労働者に健康診断の受診義務を課していることもプライバシーの保護や自己決定権の観点から問題になりうる。法律にあるからと無理やり健康診断を受けさせられ、その結果心身の健康に問題があるからという理由でそれまでの高度な仕事から引きはがされ、レベルの低い仕事に回されたというような場合、そのことが人権侵害なのか、それとも過労死や過労自殺という人権侵害を避けるためのやむを得ない措置なのか、答えるのはかなり難しい。過労死や過労自殺が単に個人の問題ではなく使用者にも責任のある問題である限り、労働者側にも使用者を労災補償責任や民事損害賠償責任に追い込まない道義的責任、一定の健康情報を提供する義務があるのでなければバランスはとれない。私のプライバシーは明かしたくないが、その結果倒れて過労死したらお前の責任だから補償しろと言うのはフェアではなかろう。しかし逆に、プライバシーの方が重要だという立場に立てば、本人が受診を拒否して倒れたのであれば使用者に責任はないという考え方もあり得る。労働者のプライバシーは健康情報だけではない。例えば勤務先に黙って夜間のアルバイトをすることも、その疲労が蓄積して心身の健康に悪影響を与えることを考えれば、使用者としてはたまったものではない。しかし、労働契約で拘束されている時間以外にどこで何をしようが、そんなことを使用者に報告すべき義務があるはずはない。労働者と使用者の関係は対等の関係ではないのか、ということにもなる。こちらの立場に立った法改正提案が、労働者の兼業を禁止したり許可制にしたりすることを原則無効にすべきとの2005年9月の労働契約法制研究会報告だ。この提案は実現しなかったが、同年の労災保険法改正では、二重就職者がA社からB社に移動する際の事故も労災補償の対象とされた。ここに現れているのは、労働関係をお互いに配慮し合うべき長期的かつ密接な人間関係と見るのか、それとも労務と報酬の交換という独立した個人間の取引関係と見るのかという哲学的な問題である。現行法自体が両方の思想に立脚している以上、現実の場面でそれらがぶつかるのは不思議ではない。
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この話題は、モデル小説におけるモデルになった人のプライバシーを取るか、それとも表現の自由ないし小説の芸術的達成を取るか、という話ともつながりありそうなところで、
柳美里の訴訟になった話は有名だが、例えば有島武郎『或る女』が現代において書かれ著者存命中に英訳が出され、晴れてこの作品を対象としてノーベル文学賞受賞、となった場合、その裏でモデルとなった女性(国木田独歩元夫人)がプライバシー侵害をずっと訴え続けていたとしたら、果たしてこれはどのようにマスコミも世間も扱ったらよいものなのか、なかなか微妙なものとなるところだろう。
ある意味、法が発達(プライバシー権の進展)すると、むしろ一筋縄でいかなくなる、ということかな。
『或る女』↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%96%E3%82%8B%E5%A5%B3
投稿: 原口 | 2018年6月 8日 (金) 22時29分