日本は正社員を指名解雇できないのか?
労働問題を論じ始めて10年以上もすると、ほとんど大部分のことは、「そういえば、これもかつて一生懸命論じたなあ」という話ばかりになりがちですが(もちろん、AIだの、プラットフォームだの、クラウドだの、新しいネタも次々にやってきて、そちらはそちらで大変ですが)、これもその一つ。
いやあ、未だにこういうレベルの議論なのか、という嘆息も漏れますが、まあそういうのを取り上げつつ、昔の文章をサルベージしていくのも一興ではあります。
http://blog.btrax.com/jp/2018/05/14/work-style-japan/(日本の働き方改革を阻む5つの悪習慣)
外国企業のCEOということなので、日本の雇用システムがどう入り組んでいるかに詳しくないのはやむを得ないのですが、それにしてもトップバッターがこれですか。
1. 正社員を指名解雇できない
おそらく最大の原因がこれ。例え仕事で成果が出せなくても容易に解雇ができないため、プロセスではなく成果中心の働き方の仕組みを作りにくい。言い換えると、結果を出せないスタッフに合わせたマイクロマネージ型の仕組みづくりをしなければならなくなる。・・・
企業側としても、採用をして機能しなかった場合に解雇というオプションが簡単に取れない。おのずと、なるべく採用を抑えて、既存のスタッフでどうにか仕事をこなそうとする。そうなると、無理な仕事が増え、仕事量とリソースのバランスがおかしくなりがちで、結果的に一人当たりの労働時間も長くなってしまう。
その昔某氏に「一知半解」という言葉を使って、イナゴさんが山のように飛んできて大変だったこともあるので、あまりこの言葉を使わない方がいいのですが、重要なのは、こういう言説は必ずしも全く間違っているわけではなくて、確かにある側面からはそうである(だから「一知半解」)のは確かなんだけれども、それはものごとの半面に過ぎないという微妙なところをどう説明するかなんですね。
まず、今から4年前に『Business Law Journal』誌に寄稿した割と短文を。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/business-law-jo.html(『Business Law Journal』2月号に「解雇規制の誤解」を寄稿)
最近、解雇規制をめぐる議論がかまびすしいが、非常に多くの人々が誤解していることがある。それは、日本は他の欧米諸国より解雇規制が厳しいと思われていることだ。経済学者や一部法学者までそういう誤った認識で語る傾向があるのは嘆かわしいことである。
日本の労働契約法16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇を権利濫用として無効としているに過ぎない。解雇できるのが原則であり、権利濫用は例外である。ところが、その例外が非常に広くなっている。特に、欧米では最も正当な解雇理由である経済上の理由による整理解雇が、日本では最も不当な解雇とみなされているし、能力不足を理由とする解雇もなかなか認められない。しかし、それは解雇規制のせいではなく、企業の人事労務管理が鏡に映っているだけなのである。
この問題を考える出発点は、日本の「正社員」と呼ばれる労働者の雇用契約が世界的に見て極めて特殊であるという点である。諸外国では就職というのは文字通り「職」、英語で言えば「ジョブ」に就くこと、つまり職務を限定して雇用契約を結ぶことであり、通常勤務地や労働時間も限定される。それに対して日本の「正社員」は、世間で「「就職」じゃなく「就社」だ」といわれるように、職務を限定せずに会社の命令次第でどんな仕事でもやる前提で雇われる。また勤務地や労働時間も限定されないのが普通である。こういう「無限定」社員を、われわれ日本人はごく当たり前だと思っているが、実は世界的には極めて特殊なのである。
そういう日本型「正社員」は、たまたま会社に命じられた仕事がなくなったからといって簡単に解雇されない。なぜなら、どんな仕事でも、どんな場所でも働くという約束なのだから、会社側には別の仕事や事業所に配転する義務があるからである。社内に配転可能である限り解雇は正当とされないのだ。これを労働法の世界では解雇回避努力義務というが、それは「就職」ではなく「就社」した人々だからそうなるのである。
欧米で一般的な「ジョブ」型の雇用契約では、同一事業場の同一職種を超えて配転することができないので、労使協議など一定の手続を取ることを前提として、整理解雇は正当なものとみなされる。それに対して日本型「正社員」の場合は、雇用契約でどんな仕事でもどんな場所でも配転させると約束しているため、整理解雇はそれだけ認められにくくなる。
日本は解雇規制が厳しすぎるのではない。解雇規制が適用される雇用契約の性格が「なんでもやらせるからその仕事がなくてもクビにはしない」「何でもやるからその仕事がなくてもクビにはされない」という特殊な約束になっているだけなのだ。ヨーロッパ並みに整理解雇ができるようにするためには、まず「何でもやらせる」ことになっている「正社員」の雇用契約のあり方を見直し、職務限定、勤務地限定の正社員を創り出していくことが不可欠の前提であろう。
わかる人にはこれで十分だろうと思いますが、なかなか分かろうとしない人も居るので、もう一つ、先日サルベージした2013年の産業競争力会議雇用・人材分科会の有識者ヒアリングの議事録から。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf
(濱口総括研究員)
私からは若干広く今後の労働法制のあり方について、雇用システムという観点からお話をさせていただく。
ここ半年近くの議論について感じていることを申し上げる。雇用というものが法律で規制されている、その法規制が岩盤であるといった言い方で批判をされているが、どうも根本的にその認識にずれがあるのではないかと感じている。
むしろ私が思うのは、現代の日本では特にこの雇用・労働分野については法規制が乏しい、ある意味で欠如しているがゆえに、慣行というものが生の形で規制的な力をもたらしている。そのメカニズムを誤解して、法規制が諸悪の根源であるという形で議論をすると、かえって議論が混迷することになるのではないかと思っている。それゆえ、まずは問題の根源である日本型の雇用システムからお話をしたい。
本当はこれだけでも1時間や2時間かかる議論だが、ごくざっくりとお話をすると、雇用のあり方を私はごく単純にジョブ型とメンバーシップ型とに分けている。日本以外は基本的にジョブ型。日本も、法律上ではジョブ型。
ジョブ型とは、職務や労働時間、勤務地が原則限定されるもの。入るときも欠員補充という形で就「職」をする。日本は、就「職」はほとんどせず、会社に入る。「職」に就くのだから、「職」がなくなるというのは実は最も正当な解雇理由になる。欧米・アジア諸国は全てこれだし、日本の実定法上も本来はジョブ型。
ところが、日本の現実の姿は、メンバーシップ型と呼んでいるが、職務も労働時間も勤務地も原則無限定。新卒一括採用で、「職」に就くのではなく、会社に入る。これは最高裁の判例法理で、契約上、絶対に他の「職」には回さないと言っていない限りは、配転を受け入れる義務があり、それを拒否すると懲戒解雇されても文句は言えないことになっている。
それだけの強大な人事権を持っているので、逆に、配転が可能な限り、解雇は正当とされにくくなる。一方、残業を拒否したり配転を拒否したりすれば、それは解雇の正当な理由になる。日本の実定法は、そのようにしろと言っているわけではなく、むしろ逆である。にもかかわらず、いわば日本の企業が、もう少し正確に言うと人事部が、それを作り上げ、そして、企業別組合がそれに乗っかり、役所は雇用調整助成金のような形で、端からそれを応援してきたというだけのこと。しかしながら、法規制が欠如していることによって、これが全面に出てくる。
実は1980年代までは、メンバーシップ型のシステムが日本の競争力の源泉だと称賛をされていた。ところが、1990年代以降は、いろいろな理由でメンバーシップ型の正社員が縮小し、そこからこぼれ落ちた方々は、パート、アルバイト型の非正規労働者になってきた。とりわけ新卒の若者が不本意な非正規になってきたことが社会問題化されてきた。一方、正社員はハッピーかというと、いわゆるメンバーシップ型を前提に働かせておきながら、長期的な保障もないといういわゆるブラック企業現象が問題になってきている。
したがって、求められているのは規制改革ではない。規制があるからではなく、規制がないからいろいろな問題が出ている。雇用内容規制が極小化されるとともに、その代償として雇用保障が極大化されているメンバーシップ型の正社員のパッケージと、労働条件や雇用保障が極小化されている非正規のパッケージ、この二者択一をどうやっていくかというのがまさに今、求められていることだろう。一言で言うと、今、必要なのはシステム改革であって、それを規制改革だと誤解すると、いろいろな問題が生じてくる。
以下、規制改革であると誤解することによる問題を述べる。
まず、一番大きなものが解雇規制の問題である。非常に多くの方々が、労働契約法第16条が解雇を規制していると誤解し、人によってはこれが諸悪の根源だと言う方もいるのだが、これは客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない解雇を権利濫用として無効とすると言っているだけである。つまり、これは規制をしておらず、それまでの判例法理を文章化しただけである。
本来、権利濫用というのは、権利を行使するのが当たり前で、例外として権利濫用を無効とするというだけなのだが、その権利濫用という例外が、現実には極大化している。なぜかというと、裁判官が何も考えず勝手に増やしたわけではなく、そこに持ち込まれる事案がメンバーシップ型の正社員のケースが圧倒的に多いため。彼らは職務も労働時間も勤務地も原則無限定だから、会社側には社内に配転をする権利があるし、労働者側にはそれを受け入れる義務がある。そうであるならば、例えば会社から「濱口君、来週から北海道で営業してくれたまえ」と言われれば受けなければならない人を、たまたまその仕事がなくなったからといって整理解雇することが認められるかと言えば、それはできないだろう。つまり規制の問題ではなく、まさにシステムの問題。
日本よりヨーロッパの方が整理解雇しやすいと言われている。それは事実としてはそのとおりだが、法体系、法規制そのものはヨーロッパの方が非常に事細かに規制をしている。それではなぜヨーロッパは、整理解雇が日本に比べてしやすいと見えるのかというと、それはそもそも仕事と場所が決まっており、会社側には配転を命ずる権利がないから。権利がないのに、いざというときにしてはいけないことをやれと命ずることができないのは当然。逆に日本は会社にその権利があるから、いざというときにはその権利を行使しろということになる。
そうすると、この法律はどうできるのかという話になる。単純に労働契約法第16条を、例えば客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない権利濫用であっても有効であるとするのは、だめなものはだめと書いているのをだめなことはいいと書きかえろと言っているだけの話なので、それは法理上不可能。気に食わないからこれを削除してしまったらどうなるかと言えば、これは2003年以前の状態に戻るだけ。まさに八代先生が、その規定が全くない状態でどうするかということを議論されていたときに戻るだけなので、実はそんなものは何の意味もない。逆に皮肉だが、欧州並みに解雇規制を法律上設ければ、その例外、すなわち解雇できる場合というのも明確化される。これは別にこうしろという意味ではなくて、例えばこんなことが考えられるだろう。
使用者は次の各号の場合を除き、労働者を解雇してはならない。
一 労働者が重大な非行を行った場合
二 労働者が労働契約に定める職務を遂行する能力に欠ける場合
三 企業経営上の理由により労働契約に定める職務が消滅または縮小する場合
当然、職務が縮小する場合は対象者を公正に選定しなければならないし、また、組合や従業員代表と協議しなければならない。実はこれは今とあまり変わらない。何が違うかというと、労働契約に定める職務というものが定められていなくて何でもしなければならないのであれば、要するに回せる職務がある限りはこれに当たらないということが明確化するということ。すなわち、規制がない状態から規制を作るというのも、1つの規制改革であろうというのがここで申し上げたいこと。
解雇についてはもう一点。いわゆる金銭解決という問題があるが、これもまた多くの方々がかなり誤解しているのは、日本の実定法上で解雇を金銭解決してはならないなどという、そんなばかげた法律はどこにもない。かつ、現実に金銭解決は山のようにある。金銭解決ができない、正確に言うと金銭解決の判決が出せないのは、裁判所で解雇無効の判決が出た場合のみ。判決に至るまでに和解すれば、それはほとんど金銭解決しているということだし、あるいは同じ裁判所でも労働審判という形をとれば、それはほとんど金銭解決をしていることになる。行政機関である労働局のあっせんであれば、金銭解決しているのが3割で、残りは金銭解決すらしていない。いわば泣き寝入りの方がむしろ多い。そこまで来ないものもあるので、現実に日本で行われている解雇のうち金銭解決ができないから問題であるというのは、実は氷山の一角というよりも、本当に上澄みの一部だけ。
むしろ問題は、私は労働局のあっせん事案を千数百件ほど分析したが、3割しか解決していないというのも問題だが、解決している事案についても、例えば解決金の平均は約17万円であるということ。労働審判の方は大体100万円であることを考えると、金銭解決の基準が明確になっていないために、非常に低額の解決をもたらしているか、あるいは解決すらしていないことになる。大企業の正社員でお金のある人ほど裁判ができるが、そうではない中小零細企業になればなるほど、あるいは非正規になればなるほど裁判はできない。弁護士を頼むということもできず、低額の解決あるいは未解決になっていることに着目をして、まさに中小零細企業あるいは非正規の労働者の保護という観点から、解雇の金銭解決を法律に定めていくことに意味があるのではないか。
ドイツの法律を前提として解雇無効の場合にも金銭解決ができるという書き方をしても、そんなものは解雇の判決の後だけの話なのだから、その前には役に立たないということを言う人がいるが、ドイツでは、労働裁判所に年間数十万件の案件が来ているが、圧倒的大部分は実は判決に至る前の和解で解決している。なぜ解決できるかというと、法律で金銭解決の基準が定まっているから。
もう一つ言うと、日本の場合、金銭解決というと必ずドイツ式が議論される。ドイツは、社会的に不当な解雇は無効であるとした上で、無効であっても金銭解決はできるとなっている。しかし、実はイギリスやフランスなどヨーロッパの多くの国々は、もちろん不当な解雇がいいなどという法律はないが、不当な解雇だから必ず無効になるというわけでもなく、その場合、金銭解決をすることがむしろ原則となっており、また、悪質な場合には裁判官が復職、再雇用を命ずることができるという規定もある。不当な解雇の効果、法的な効果をどうするかということについて、既存の判例をそのまま法律にしなければいけないと思えば別だが、そうではなく、新しく作るということであれば、実はヨーロッパのいろいろな国々の法システムの中には参考になるものがあるのではないか。以上が解雇についての誤解を解くお話。(長谷川主査)
ジョブ型とメンバーシップ型に関して教えていただきたい。ジョブ型であれば地域限定であろうが、職務限定であろうが、それがなくなれば解雇できる。一方、メンバーシップ型の正社員は、人事そのものが無限定で、配置転換、残業、いろいろな裁量権の下にある。したがって、解雇についても、慣行上のものもあるが、いろいろな制約が事実上ついているという話だと理解している。私自身の経験では、ドイツでもアメリカでも働いたが、ジョブ型であっても配置転換がある。
ただ、日本と大きく違うのは、欧米では、配置転換にはほとんど必ずプロモーションが伴う。そうでないと本人にもインセンティブが全くないから。だから職種が違ったり、本来ここでしか働かない人がどこかに変わるときには、本人の能力をより生かすためのプロモーションを伴ってやることで、ほとんど問題が生じない。ところが、日本では、かつていわゆるローテーションという形で全く必然性もなく配置転換を行っていた。例えば北海道から九州に配置転換をする必然性がなくても、会社のローテーションでやったりしたという事実はある。今はそういうこともおそらく大企業では変わっていっているし、中小企業でも、事業所が辺鄙なところにもあって、その辺鄙なところからまた極端に辺鄙なところに行くということもないだろうから、実態が変わりつつあることに鑑みれば、もう少し実態に合わせた形で慣行でもいいし、法規制でもいいが、変えることが可能ではないか。その辺についてどうお考えになるか。 ・・・(濱口総括研究員) ・・・
前半の方だが、基本的に企業に一方的な配転の権限はないと私は認識している。プロモーションを伴うというのは、本人が同意している、あるいはむしろ希望しているからそこに就くということだろう。根本的なことを言うと、まず日本は、上から下まで全部同じ労働者だと言われる。これは多分、戦後の平等主義の下で、全部同じ労働者であるという発想。係員島耕作から社長島耕作まで一連のつながりであるという認識の下にいろいろな議論がされるということは、欧米と比較するときの最大の誤解の元なのではないかと思う。
基本的に企業には配転の権限がない。雇用契約で限られているということが前提。これは少なくともいろいろな労働法でそのようになっている。もちろんプロモーションもあるが、基本的にはそのプロモーションも、この職位が空いた、この課長職が空いたので、やりたい人はいるかというもの。これは外から入れる場合もそうだし、中で内部昇進する場合でも、基本的にはそういう発想。まさにジョブ型の発想でやっているがゆえに、その仕事ができるかという形で物事は動く。その仕事があるのか、ずっと続くのか、それともなくなるのかという形で議論ができる。日本はそれも人事部の胸先三寸で動いていく形になっているので、そこが一番違うのではないか。
2番目の中小は違うというのは、実はおっしゃるとおり。ジョブ型、ジョブ型と言うが、日本の中小企業なんてそんなに回るところなんてないのだから、実はジョブ型ではないかという言い方をされることがある。これは半分正しくて、半分間違っていると思う。つまり別にこのジョブに限るという意識はどこにもない。
そういう意味では非常に小さなメンバーシップ型だが、配転の余地がいっぱいあるわけではないので、事実上、その企業自体、中小零細企業自体がその仕事ができなくなれば、会社自体と運命を共にするのはある意味で当たり前だろうと思うのだが、そこがジョブ型という形で明示的に意識されているわけではないというのが1つ。また、先ほど申し上げたように、そもそも弁護士に高いお金を払って裁判所に持ってこられるのは、大体大企業の正社員が中心になるので、中小企業は違うのは確かにそうだと思うが、中小企業が違うというロジックが、それとしてはなかなか確立しにくいという面はあるかと思う。
ここはどう考えるかだが、やはり中小企業だから違うというロジックは、法の論理としては立てにくいだろう。ただ、まさに実態として回す余地がないのだから、解雇は当然だろうという形で議論がされていけばいいわけで、そこはまさに回す余地があるかどうかということが、法律の中できちんと明示的にわかるようになることが一番重要ではないかと思っている。
最後に、実態が変わってきているというふうにおっしゃられた。そうかもしれないが、1つは判例法理というのは過去の日本の、特に1980年代までのメンバーシップ型のシステムが猛威を振るっていたというか、非常に誇らしく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていたころに確立したもの。当然のことながら、裁判所も別に固定観念でやっているわけではなく、例えば外資系企業でこの仕事という形で就けたようなものについては、実はフレキシブルにというか、この仕事に就けたのだから、この仕事ができなければアウトだろうという判断をしている。
ただ、どうしても普通の日本の会社の普通の正社員ということであれば、今までの延長線上で判断することになるので、そこはむしろ実態が変わってきているということが世の中で明らかにというか、裁判官の目にわかるような形になっていないということではないか。あるいはそれが変わってきているとすれば、変わってきているということがその判断基準できちんとすくい取れるような法規制があればすくい取れるが、それがないがゆえに、単に言いわけしていると聞こえるということではないか。
« 海老原嗣生『「AIで仕事がなくなる」論のウソ』 | トップページ | EUの公益通報者保護指令案 »
コメント