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2018年5月

2018年5月31日 (木)

八代尚宏『脱ポピュリズム国家』

05241725_5b0676dd670dd八代尚宏さんより新著『脱ポピュリズム国家 改革を先送りしない真の経済成長戦略へ』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

https://www.nikkeibook.com/book/191684

日本こそ! 大衆迎合主義の危機

◆腰くだけの労働市場改革、反発を恐れて手を出せない社会保障、補助金漬け飼料米の農政--目先の利益のために社会全体の長期的な利益を犠牲にするポピュリズム政治が日本の将来を脅かそうとしている
◆ポピュリズム政治は世界的な潮流ともいえるが、少子高齢化が急激に進む日本では、その負担は重い。それなのに「先送り」をやめる政治決断ができない。
◆著者は、経済財政諮問会議の民間議員も務めた規制問題の第一人者。「今を生きる人」「特定の業界の人」にやさしい政策が後代の人たちに取り返しのつかない負担をかけることや、一般消費者に質の低い商品・サービスを押しつけることになることを指摘。
性別や年齢にかかわらず長く働けるようにすることで、社会保険料を長く納められ、給付の抑制を最小限にする、労働・社会保障の一体改革を提言。

というわけで、各論は今までの多くの本で繰り返し語られてきたことですが、それを「脱ポピュリズム」というラインでまとめたのが今回の本の新味といえます。

第1章 アベノミクス5年間の評価と展望――ポピュリズム政治への変質

第2章 労働市場改革の意義と限界

第3章 逆戻りする構造改革

第4章 社会保障改革をどう進めるか

第5章 年金改革を妨げるポピュリズム政治

第6章 介護サービスを成長産業に

第7章 保育を福祉からサービスへ

第8章 農業活性化を妨げるコメの減反政策

第9章 外国人労働の受け入れ方――「反外国人ポピュリズム」からの脱却

それが一番くっきりと出ているのはもちろん第1章で、「アベノミクスの5年間とは何だったのか?」と問いかけ、「3本の矢の残念な成果」と極めて否定的に見ています。

2018年5月30日 (水)

『生活経済政策』6月号

Img_month『生活経済政策』6月号を送りいただきました。特集は「退職世代の税制」です。

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/

明日への視角

  • あえて西欧社会民主主義の存在意義を問う/住沢博紀

特集  退職世代の税制

  • はじめに/星野泉
  • 高齢社会の財源としての消費税増税/櫻井良治
  • 年金税制改革と高齢者 — 再分配と就労促進のはざまで/中村良広
  • 年金税制の仕組みと課題/馬場義久
  • 定年後の収支に関して/麻生裕司

連載 グローバル化と労働[5]

  • グローバル化と国際化/首藤若菜

書評

  • 諸富徹著『人口減少時代の都市—成熟型のまちづくりへ』/今井照

ここでは首藤若菜さんのエッセイを。

彼女の『グローバル化の中の労使関係』については、本ブログでも紹介したところですが、この雑誌に断続的に連載されています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b6d0.html(首藤若菜『グローバル化のなかの労使関係』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-e051.html(グローバル企業の労働組合は、グローバル化しているか?)

今回は、グローバル化と国際化というよく似た言葉を取り上げ、その違いを考察しています。

労働組合運動は、グローバル化しているのか、国際化しているのか

・・・労働組合のあり方や雇用慣行は、その国の文化や伝統に根付いており、国を超えてそれを統合していくことは容易ではない。だが各国の相違を放置していると、それが底辺への(国際)競争の契機となる。グローバル化と国際化のはざまを行き来しながら、国境を越えた運動を進めていくしかない。

これ、考えれば考えるほど難しい問題です。

2018年5月29日 (火)

「多様な選考・採用機会の拡大」@『全国労保連』2018年5月号

Kaihou1805large『全国労保連』2018年5月号に「多様な選考・採用機会の拡大」を寄稿しました。

http://www.rouhoren.or.jp/kaihou1805idx-large.jpg

『働き方改革実行計画』に基づく労働政策としては、前々回と前回取り上げた時間外労働の上限規制と同一労働同一賃金が「現在」の最重要課題として、その前の2回で取り上げた副業・兼業と雇用型・自営型テレワークが「近未来」の重要課題として、多くの人々の注目を集めていますが、同計画にはそれ以外にも様々な分野にわたる政策方向の提示があり、注意を向けておく必要があります。今回はそのうち、去る3月末に「指針」という形に結実した2つの密接に関連する労働市場政策について見ておきたいと思います。

 
1 働き方改革実行計画における記述

2 多様な選考・採用機会の拡大に向けた検討会

3 若者雇用指針の改定

4 年齢にかかわりない転職・再就職者の受入れ促進のための指針

 

プラットフォーム就業者保護へのEUの新規則案@WEB労政時報

WEB労政時報に「プラットフォーム就業者保護へのEUの新規則案」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=759

 ここ数年、世界的にAIやIoT、プラットフォームやクラウドといった新技術による新たな産業構造の到来(第4次産業革命)がホットなテーマになっています。その中で、労働のあり方も激変するのではないか、それに対してどう対応すべきかということが、法学、経済学、社会学など分野横断的に熱っぽく議論されています。これに対して日本では、事態の進展もそれに関する議論の展開もやや遅れ気味の嫌いがありましたが、昨年来ようやく本格的な議論がなされるようになったようです。私も、総論的な解説をするとともに、とりわけEUレベルにおける政策対応の状況を解説してきました。
 その中でも、EUの行政府である欧州委員会が昨年末に提案した透明で予見可能な労働条件指令案については、『季刊労働法』2018年春号(260号)でかなり詳細に紹介しました。この指令案は主としてオンコール労働者の保護が狙いですが、・・・・・

この規則案、労働法とは全く違う方面から、しかし労働法の労働者保護的問題意識とよく似た観点で立法介入を試みているという意味において、日本の関係者は必読です。

2018年5月28日 (月)

オバタ カズユキ『早稲田と慶應の研究』

オバタ カズユキさんの『早稲田と慶應の研究』(小学館新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

私学の二大巨頭をあらゆる角度から徹底比較

「早稲田といえば政経、慶應といえば経済」――そんな親世代の常識はもう古い。
慶應では、かつて「あほう学部お世辞学科」と呼ばれた法学部政治学科が、看板の経済学部を抜いて、今や慶應51ebv1fudjl_sx313_bo1204203200_ のエースとして君臨。一方、「政経にあらずんば早稲田にあらず」と言われた早稲田では、国際教養学部(SILS)の登場で、キャンパスの様相が一変。「社学のシャシャシャ」と替え歌に歌われ、どうしても早稲田に入りたい人の受け皿だった社会科学部も、今では第2エースの法学部と肩を並べる存在になっている。
学生たちも大きく変わった。ダサイの代名詞だったワセジョは、ファッション誌に登場する読者モデルの人数で、おしゃれで名高い慶應女子を抜き、バンカラを知らない早稲田男子は慶應ボーイに急接近。
受験の現場でも大変化。偏差値、志望者数、そして早慶ダブル合格した際の進学先。司法試験をはじめとする難関試験の合格者数対決にも異変あり。
親世代の常識との違いを明らかにしながら、学問の場としても、政財界のOB・OG人脈など卒業後にも及ぶ対決を、様々な角度から取り上げる。
早慶OB&受験生の親必見の目からウロコの新・早慶研究本。

おそらく、早稲田や慶應出身者にとっては、どこをとっても面白いネタの塊のような本なのかもしれません。

 

 

2018年5月27日 (日)

雇用システムと教育システムの問題

読売教育ネットワークの「異論交論」に、経済同友会代表幹事で、三菱ケミカルホールディングの代表取締役社長の小林喜光さんが登場しています。

http://kyoiku.yomiuri.co.jp/torikumi/jitsuryoku/iken/contents/46.php (国立大学よ、時代感覚を磨け)

ある種の人々にカチンとくる発言がてんこ盛りなのですが、まあそこは別として、私が興味をそそられたのは、そこまで大学を批判するんなら、企業側はどうなんだと問われたのに対するこのやり取りです。

――大学に変われと言うのなら、企業はどう変わるのか。大学にきちんと学生を育てよと言うが、その教育期間を短くしているのは企業だ。一括採用システムのために、学生は2年生後半にはそわそわしていて学業どころではない。
 
小林 4月に入社する定期採用をやめざるを得ないだろう。こんな仕掛けを持っているのは日本だけだから。同時に、新卒入社で3年ぐらいは別の会社に移れるようなバッファゾーン(緩衝地帯)をつくっておくことも必要だろう。僕自身も途中入社だ。1974年12月2日入社だ。長男が生まれてイタリアから帰国して、とっくに人事なんか終わっていると言われた。一応、来てみたらと言われ、論文を持って研究所の担当の常務に会って入社した。あの時代だって、本人が入ろうと思えば入れた。なんでこんなに日本はリジッド(厳格、固定されていて動かない様子)になっちゃったのかな。学生もなんで変えようとしないのか。
 
――学生が企業を変える? 自分たちの所属する大学の改革の議論にもかかわっていない。だが、そういう学生が突然、発生したわけではない。育てた世代がいる。
 
小林 そう、その世代が誹謗(ひぼう)されるべきだ。人々が疲れている、リスクをとらない、大人がリスクを拒んでいることが問題だ。
 
――リスクをとらない企業人の傾向が端的に現れているのが、採用だろう。大学教育が大切だと企業人はよく口にするが、重視しているのはいまだに大学入学時の偏差値と大学名だ。
 
小林 会社で一番保守的なのは人事と総務。最悪だ。体験的に、そして今でも実感している。彼らは体質上、仕掛けを守るようにできている。だが、それは社長が悪い。社長が本気で変えようとすれば変わるはずだ。
 
――大学と同じか。では、それを壊すことができるか。小林さんは「ぶっ壊す」という言葉をよく使っているようだ。
 
小林 壊さなきゃ、新しいものは生まれないからね。壊せそうなエネルギーのある人を社長にするしかない。大学も同じだ。

いやいや、評論家の言葉なら、なるほどですむけれども、それしゃべっているのは現役の経営者、三菱ケミカルホールディングス取締役社長ですよね。

では、三菱ケミカルの人事部はどういう採用をやっているかといえばもちろん新卒一括採用をしているわけだし、社長はそれを認めている。

ではそれを一社だけ止めたらどうなるかといえば火を見るより明らかで、いい人材を三井化学や住友化学にとられて終わるだけでしょう。それは、日本の労働社会がそういう(六法全書には書いていないけれども、社会学的に拘束している)ルールで動いているからで、それがまさに雇用システムの問題であるわけです。

その雇用システムを前提に、教育システムが構築されてしまっており、その教育システムがまた雇用システムを規定する。

そのように相互に拘束されている中で個々のアクターはそのルールに従って行動しない限り、そこから排除されるというペナルティを受ける。

三菱ケミカルという会社の人事部も、三菱ケミカルを受ける就活生もルールテイカーであって、ルールメイカーではないという点で何の変りもありません。

「学生もなんで変えようとしないのか」と学生を責めてみたり、「会社で一番保守的なのは人事と総務。最悪だ」と人事部をけなしてみても、事態は変わりません。

最後は「社長が本気で変えようとすれば変わるはずだ」というブーメランが飛んでくるだけです。

システムこそが問題であることを個人や集団の問題にしてはいけないということのもっとも典型的な実例が、ややカリカチュア的な形で示されているわけです。

(参考)

Chuko 拙著『若者と労働』より、「教育と職業の密接な無関係の行方」

 このように日本型雇用システムと日本の教育システムとは、お互いが原因となり結果となりながら、極めて相互補完的なシステムを形作ってきたといえます。それは、一言で言えば「教育と職業の密接な無関係」とでもいうべきものでした。
 受けた学校教育が卒業後の職業キャリアに大きな影響を与えるという意味では、両者の関係は極めて密接です。しかしながら、学校で受けた教育の中身と卒業後に実際に従事する仕事の中身とは、多くの場合あまり(普通科高校や文科系大学の場合、ほとんど)関係がありません。これを再三引用している本田由紀氏は「赤ちゃん受け渡しモデル」と呼んでいます。職業能力は未熟でも、学力等で示される潜在能力の保証に基づき、新規学卒一括採用された若者を企業が企業に合う形に、とりわけ職場のOJTを通じて、教育訓練していくという回路が回転している限り、極めて効率的なシステムでした。
 しかし、次章以降で詳しくみていきますが、その回路からこぼれ落ちる若者が大量に発生するという事態の中で、単なる弥縫策ではなく、雇用システムと教育システムの双方で本質的な解決を図る必要が浮き彫りになってきました。
 雇用システムの側における議論は次章以降で行いますが、それは必然的に教育システムの側に跳ね返ってきます。具体的には、現在の大学、とりわけ量的に大部分を占める文科系大学の在り方に対し、抜本的な見直しを要求するはずです。大学の教育内容が就職後の仕事と無関係な形で膨れあがってきたことが、学生が大学で学んだ中身ではなく「ヒト」としての潜在能力で評価する仕組みを助長してきた面があることは明らかだからです。今までの「素材はいいはずですから是非採用してやってください」という受験成績による質保証主義ではなく、「これだけきちんと勉強してきた学生ですから、それは保証しますから、是非採用してやってください」というあるべき姿に移行するためには、大学教育の中身自体を職業的意義の高いものに大幅にシフトしていく必要があるでしょう。
 とはいえ、その過程においては、非実学系の大学教師の労働市場問題が発生し、大騒ぎになる可能性が高いと思われます。ある意味では、企業が職業的意義のある教育を求めていなかったがために、そして生活給制度の下で、職業的意義のない教育に対しても親が教育費をまかなうことができていたがゆえに、本来であれば存続し得ないほど大量の非実学系大学教師のポストが確保されていたといえなくもありません。しかし、学生の職業展望に何の利益ももたらさないような大学教師を、総量としてどの程度社会的に維持しなければならないかについては、社会全体で改めて考える必要があるはずです。これこそ、日本的な教育と職業の密接な無関係の上に成り立っていた「不都合な真実」なのでしょう。

 

 

2018年5月26日 (土)

社会人になる前にこの本を読めて本当に助かった。。。

Books918521_1920 「ふぁらんちゅぷれぜんつ」というブログで、「大学生におすすめな本を徹底厳選!理系・文系問わず読んで欲しい!」というタイトルで、約20冊の本が紹介推薦されています。

https://faraspice.com/book/1111/

僕が読んだ本の中で、自信を持ってオススメできる本を厳選してを紹介いたします!

どんな本が挙がっているかというと、藤原帰一の『戦争の条件』、西内啓の『統計学が最強の学問である』、中室牧子の『「学力」の経済学」と、いかにもいかにもという本が並んでいます。

Chuko で、その次にこんな本が:

お次は『若者と労働』です。

拙著が出てきました。

どこがお勧めなのか?

僕は『大学ってなんのため?』という素朴な疑問に悩んだ時期がありました。この疑問に対し、労働の観点から深く考えることができるようになったのは、ひとえにこの本のおかげです。学術的な内容でハウツー本ではないですが、是非大学生のみなさんに読んでほしいと思っています!

素朴な疑問に、深く考える素材を提供できたというのは、この上ない褒め言葉だと思います。ありがとうございます。

「若者と労働」で得ることができた知識は僕の考え方を大きく変えました。社会人になる前にこの本を読めて本当に助かった。。。

とのことです。

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月25日 (金)

雇用類似の働き方@『BLT』6月号

201806『ビジネス・レーバー・トレンド』6月号は「雇用類似の働き方」が特集です。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2018/06/index.html

独立自営業者の就業実態と意識 西村 純 JILPT副主任研究員、前浦 穂高 JILPT副主任研究員

独立自営業者が経験したトラブル/整備・充実を求める保護施策 西村 純 JILPT副主任研究員、前浦 穂高 JILPT副主任研究員

中国におけるシェアリング・エコノミーの利用状況と労働法上の問題 仲 琦 JILPT研究員

クラウドワーカーの保護のために労働組合は何をなし得るか?――ドイツにおける二つの取り組み例から 山本 陽大 JILPT副主任研究員

そもそもこのテーマの対象をなんと呼ぶか自体がけっこう問題で、西村・前浦コンビは「独立自営業者」と呼んでいますが、そもそも契約上は請負や委託だけれども、完全には自立もしていないし、独立もしていないから「雇用類似」と言われるわけだし、昨年12月号は「シェアリング」特集でしたが、今回も仲琦さんはシェアリングで、山本さんはクラウドですね。

JR東日本が過半数組合なき会社に?

政治状況やら日大アメフトやらに隠れていますが、ここ数ヵ月間で進行しているある現象で、気になっているのは、JR東日本で、多数組合であったJR東労組が急速に組合員を減らし、過半数組合でなくなってしまったらしいということです。マスコミでこれに関心を持っているのは産経だけのようなのですが、

http://www.sankei.com/life/news/180525/lif1805250003-n1.html(JR東労組の脱退者3万2千人に増加か スト予告で組合員反発、事態収拾図るも7割減少)

今春闘でストライキ権行使を一時予告したJR東日本の最大労働組合「東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)」の組合員数について、5月1日までの3カ月間に約3万2千人が脱退したとみられることが24日、同社への取材で分かった。JR東労組はトップへの制裁を決定して事態の収拾を図ったが、4月1日時点の推定脱退者数約2万9千人から、さらに増加した。

会社側は組合費を給料から控除する手続きの届け出数によって組合員数の概数を把握している。同社によると、5月1日時点の届け出数は約1万5千人で、スト予告前の約4万7千人(2月1日時点)から約7割減少した。

JR関係者によると、同労組の推定加入率は昨年10月時点で約80%だったが、5月1日時点で約25%まで低下した計算となる。

いうまでもなく、JRの前身は国鉄で、その時代、国労と動労は労働運動の突撃隊として常に世間の注目を集めるだけではなく、政治的にも大きな影響力を振るってきましたが、その最大の後継企業であるJR東日本で組織率がわずか半年で80%から25%に落ち、過半数組合がなくなってしまうというのは驚きです。

とりあえず、労働法クラスタ的には、36協定はどこと締結するんだろう、というのが気になります。2割に落ちたJR東労組にはもはや締結権限はありませんから、会社主導で過半数代表者の選挙をやって選ぶことになるのでしょうが、そう簡単にいくのかどうか、注目していきたいところです。

2018年5月24日 (木)

技能実習のタテマエとホンネ@『DIO』337号

Diodio 連合総研より『DIO』337号をお送りいただきました。今号の特集は「外国人技能実習における制度の 見直しと今後の課題」です。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio337.pdf

労働力需給ギャップと技能実習制度の課題 後藤 純一
外国人技能実習制度の第2の転換点 −2016年の技能実習法を中心に 上林 千恵子
日本で働くベトナム人労働者 −問題状況とその背景− 斉藤 善久
多くの課題をはらむ技能実習「介護」 伊藤 彰久

このうち、後藤さんの論文の最後のところは、いまさらながら技能実習制度の本音と建前の構造をよく描き出しています。

 ・・・・・これが、従来から一貫して主張されてきた 「タテマエ」で、このタテマエによれば、受 け入れる企業(多くは中小企業)は、国際協 力という崇高な理念に基づき技能移転のため 実習生を受け入れ、教育研修に専念し、決し て自らの人手不足を解消しようなどとする目 的をもってはならないというのである。つま り、中小企業が、来日のための渡航費や仲介 機関への手数料を支払い、3~5年の間給料も支払って、ひたすら技能実習生の技能向上 に努めるべしというわけである。このように、 受け入れ企業に対して費用・給料すべて持ち で教育研修を施せというのは、たとえば、留 学生を受け入れる大学に対して、授業料を取 るなどめっそうもないことで、来日費用、生 活費、ある程度の貯金ができるような給与す べてを支払って教育活動に専念しろといって いるようなもので、およそ実現できる制度で ないのは明らかであろう。

 さらに、期間に関しても、技能の習得が唯 一の目的であれば、3~5年かかるものはそ れほど多くないであろう。例えば、介護にし ても専門学校に通えば1~2年で介護福祉士 になることができ、従来ヘルパー2級とされ ていた初級レベルの介護技能であれば数週間 の講習で得ることができるのである。

 このように、最初から無理なタテマエを受 け入れ企業に押し付けているから、順法精神 が薄れ、劣悪な労働条件につながることもあ りえよう。したがって、いま必要なことはホ ンネに立ち返って真摯な議論をすることであ る。日本が将来の人手不足に対処するために、 入管法に列挙されているような高度人材のみ でなく、技能実習法令に掲げられているよう な職種の外国人労働者を受け入れていくべき か否かを国民すべてで議論し、早急に結論を 出すことが望まれる。

本題と関係ありませんが、後藤さんの肩書を見たら、

(神戸大学名誉教授 ・(株)後藤経済研究所 代表取締役)

退職後劇団ひとりならぬ研究所ひとりをされる方はたまにいますけど、株式会社の代表取締役なんですね。

 

 

国家民営化論こそレフト2.0の典型やろが

852sub1本ブログでも紹介したブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』について、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-42b6.html

すごくざっくりいうと、「リベサヨ」批判の本です。

日刊ゲンダイで笠井潔氏が淡々と書評してるんですけど、

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/229593

日本の左派は、護憲などの政治運動やマイノリティーの人権擁護には熱心だが、勤労庶民のための経済政策を持ちあわせていない。このことに批判的な論者たちの鼎談を収めた本書では、「経済にデモクラシーを」を主張するアメリカやヨーロッパの新しい左派(レフト3・0)の運動や主張が紹介されている。

いやいや、なに人ごとみたいにゆうてはるんやろ。

笠井潔氏こそ、本書の批判の矢面にある「レフト2.0」の典型みたいな人なのに。

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96%E8%AB%96%E2%80%95%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AA%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%A7%8B%E6%83%B3%E3%81%99%E3%82%8B-%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%A3%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AC%A0%E4%BA%95-%E6%BD%94/dp/4334780598

51dxa18grml__sx329_bo1204203200_国家民営化論―ラディカルな自由社会を構想する

社会主義崩壊後、多くの人が無批判に受け容れている現在の社会システム。その限界と欠陥を、“ラディカルな自由主義者”笠井潔が鋭く指摘、理想の社会構想を提示する。たとえば、遺産相続や税金の撤廃。警察、刑務所、厚生省や文部省の民営化。安楽死や自殺を基本的人権にすること…。過激に、論理的に、21世紀自由社会は本書から始まる。

新左翼の学生運動からアナルコ・キャピタリズムへという軌跡自体が、まさに言葉のもっとも正確な意味における「リベサヨ」の先駆者だったと思うのですが。

ちなみに、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_28cd.html

・・・この手の発想には、国家権力がすべての悪の源泉であるという新左翼的リベラリズムが顕著に窺えますが、それが国家民営化論とかアナルコ・キャピタリズムとか言ってるうちに、(ご自分の気持ちはともかく)事実上ネオリベ別働隊になっていくというのが、この失われた十数年の思想史的帰結であったわけで、ネオリベむき出しの日経病よりも、こういうリベサヨ的感覚こそが団塊の世代を中心とする反権力感覚にマッチして、政治の底流をなしてきたのではないかと思うわけです。毎日病はそれを非常にくっきりと浮き彫りにしてくれていて、大変わかりやすいですね。

2018年5月22日 (火)

債権の物権化と社員権化

そうか、法律の初歩を齧った人向けには、雇用契約というまぎれのない債権が、物権化したのが「ジョブ型社会」であり、社員権化したのが「メンバーシップ型社会」であると説明すればいいのかな。

賃貸借契約という債権契約は所有権には負けるけど、物権化して地上権になれば、所有者が変わってもその土地に住む権利は維持される。同様に、会社の持ち主が変わっても、そのジョブをする権利は維持される。契約の相手方次第という弱い債権から、相手が誰であろうが貫ける強いジョブの権利へ。まさに債権の物権化。

これに対して日本社会は全く逆の方向に、弱い債権の権利を強化する道を選んだ。文字通り社員権。その土地に対しては権利はないけれども、その社団の一員としてどこかの土地を使う権利は必ずあるという方向。契約の相手方がいる限り、権利はなくなることはない。まさに債権の社員権化。

念のため、これは「法律の初歩を齧った人向け」なので、この「社員権」とはいうまでもなく民商法で言う社員権のこと。だが、それがそのまま日本の日常用語における「社員」権になってしまっている点が重要。

 『法律時報』の6月号が「実定法による労働契約締結強制法理」を特集するみたいだけど、ジョブという感覚がなく、逆にメンバーシップという感覚が強い日本社会では、まさにもっとも不当性の強く感じられる「締結強制」になるのですな。

https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/1.html#

特集=実定法による労働契約締結強制法理
当事者の意思の合致がなくとも、要件を満たせば労働契約の成立を認める立法が目立つ。こうした現代の労働契約締結法理を検討する。
労働契約の法による形成の意義……大内伸哉(神戸大学)
労働契約法18条……新屋敷恵美子(九州大学)
会社分割における労働契約の承継……成田史子(弘前大学)
事業譲渡と労働契約の承継……土田道夫(同志社大学) 
派遣先企業と派遣労働者との労働契約の成否……本庄淳史(静岡大学)
不合理な労働条件の禁止と労働契約内容の創設……野川忍(明治大学)

 

通常の労働者@『労基旬報』5月25日号

『労基旬報』5月25日号 に「通常の労働者」を寄稿しました。

全然議論が深まらない同一労働同一賃金ですが、そのコア概念でもある「通常の労働者」について、歴史的にその経緯を探り、問題を提起しています。

 去る4月6日にようやく国会に提出された働き方改革関連法案では、柱の一つである同一労働同一賃金関係の改正として、労働契約法第20条(期間の定めがあることによる不合理な労働条件の禁止)が削除され、同趣旨の規定であるパート法第8条(短時間労働者の待遇の原則)に吸収合併され、若干の修正を加えて短時間・有期雇用労働者に係る「不合理な待遇の禁止」となっています。また、パート法第9条(通常の労働者と同視すべき短時間労働者に対する差別的取扱いの禁止)や第10条(賃金の努力義務)、第11条(教育訓練)、第12条(福利厚生施設)にも有期雇用労働者が加わります。さらに、労働者派遣法第30条の3(均衡を考慮した待遇の確保)も現行の配慮規定から「不合理な待遇の禁止等」に格上げされることになっています。ただ、改正法の条文をじっくり読んでいくと、この吸収合併により、均等待遇にせよ均衡待遇にせよ、誰と比べるのかという点で微妙な違いが生じていることがわかります。

 現行労働契約法第20条は、「期間の定めのある労働契約」に関する規定の一つです。第18条では反復更新した有期労働契約が期間の定めのない労働契約に転換するのですし、第20条では有期労働契約と期間の定めのない労働契約との労働条件の不合理な格差が問題になっています。対立軸は有期契約と無期契約です。そんなことは当たり前ではないかと思うかもしれませんが、現行パート法はそうなっていないのです。EUのパート指令はパートタイム労働者とフルタイム労働者という対立軸であり、有期労働指令が有期契約労働者と無期契約労働者であるのと全く同型ですが、日本のパート法にフルタイム労働者という概念はありません。あるのは「通常の労働者」という法律用語としていささか意味不明な言葉なのです。

 「短時間労働者」と「通常の労働者」を対立させている現行パート法の規定に「有期雇用労働者」を挿入することにより、現行労働契約法第20条とは異なる土俵に入り込んでしまう可能性があるように思われます。実はそもそも、現行パート法第8条は、2012年の労働契約法第20条に倣って2014年に追加された規定なのですが、そのときからこの両者の規定ぶりの微妙な違いは問題を孕んでいました。それが今回合体されることでより表面化したということもできます。

 しかし、まずはパート法が1993年に成立したときから存在する「通常の労働者」という概念の中身を確認しておきましょう。この時は、第3条(事業主等の責務)の中に、「事業主は、その雇用する短時間労働者について、その就業の実態、通常の労働者との均衡等を考慮して、適正な労働条件の確保及び教育訓練の実施、福利厚生の充実その他の雇用管理の改善(以下「雇用管理の改善等」という。)を図るために必要な措置を講ずることにより、当該短時間労働者がその有する能力を有効に発揮することができるように努めるものとする。」と、努力義務のさらに考慮規定に過ぎませんでした。しかも、この「通常の労働者との均衡等を考慮して」というのは、国会で野党の主張により修正されて付け加わったもので、政府の原案にはなかったのです。制定時の解説書(松原亘子『短時間労働者の雇用管理の改善に関する法律』労務行政研究所)では、「通常の労働者」についてこう解説しています。

 「通常の労働者」とは、いわゆる正規型の労働者をいい、年功序列的な賃金体系のもとで終身雇用的な長期勤続を前提として雇用される者がこれに該当する。具体的には社会通念に従い、当該労働者の雇用形態、賃金体系等を総合的に勘案して判断するものである。その際には、例えば、機関の定めなく雇用される者であって、長期雇用を前提とした処遇を受けるものであるかどうか、賃金の主たる部分を時給により受けるものであるかどうか、賞与、退職金の支給、定期的な昇級又は昇格があるかどうかといったことが判断材料として考えられる。

 見ての通り、これは日本型雇用システムにおいて「正社員」と呼ばれる労働者のことであって、フルタイム労働者よりはずっと狭い概念ですし、無期契約でかつフルタイムであっても中小零細企業では終身雇用も年功序列もいわんや退職金もないような労働者などいくらでもいますから、少なくとも法的概念としては「短時間労働者」の対立軸にするにはいかにもふさわしくないものに思われます。それがこの当時何の疑いもなくまかり通ったのは、日本型雇用システムにおいては成人男子を主とする正社員とその妻や子供からなるパートタイマーやアルバイトという二分法が常識化しており、それ以外の存在が脳裏から失われてしまっていたからとしか言いようがありません。

 ところがその後、バブル崩壊や就職氷河期を経過する中で、それまでであれば正社員就職していたはずの若者たちが大量に非正規労働者として労働市場に流れ出しました。彼らフリーターに対する対策が21世紀に入って政策課題となり、その一環として2007年のパート法改正が行われたことは周知の通りです。この時に第8条として設けられたのが、現在第9条になっている「通常の労働者と同視すべき短時間労働者に対する差別的取扱いの禁止」です。この規定ぶりは込み入っていてわかりにくいのですが、「通常の労働者」との差別待遇が禁止される短時間労働者をあれこれと限定することによって、逆に「通常の労働者」が何者であるかが浮かび上がってくるようになっています。すなわち、差別してはいけないのは短時間労働者のうち①「業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度が当該事業所に雇用される通常の労働者と同一」であって、②「当該事業主と期間の定めのない労働契約を締結して」おり、③「当該事業所における慣行その他の事情からみて、当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が当該通常の労働者の職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更されると見込まれる」ものです。②は有期と無期の対立軸が入り込んでいますが、重要なのは③です。ここには、日本型雇用システムにおける「正社員」の定義が裏側から規定されているのです。すなわち、職務の内容や配置が定年までぐるぐると変わっていくのが「正社員」なのだと。そうすると、多くの中小零細企業の無期フルタイム労働者は「正社員」ではないことになります。

 もっとも、法律の規定ぶりは裏側からなので、ある企業の無期フルタイム労働者がみんな職務内容も配置も変わらないのであれば、それが「通常の労働者」ということになり、③の要件は意味がなくなります。細かく規定しているようで融通無碍な相対的な概念なのですね。このように矛盾は生じないようにしているとはいえ、制定時からの「通常の労働者」概念を維持するために、大変わかりにくい規定になってしまいました。その後、有期と無期という明快な対立軸の2012年労働契約法ができたにもかかわらず、それと同様の規定を持ち込んだ2014年改正では、やはり短時間労働者と「通常の労働者」という枠組みを維持しています。しかも、この時新第9条から上記②の要件を外しています。有期であっても職務内容や配置がぐるぐる変わるのであれば差別禁止となっていたわけです。そこに、今回有期契約労働者が入ってくるというわけで、この込み入りようは尋常ではありません。しかも、労働者派遣法の改正においても、これまでは「同種の業務に従事する派遣先に雇用される労働者」と素直だったのが、「派遣先に雇用される通常の労働者」になり、職務内容や配置の変更といった要件が入り込んでいます。日本の非正規労働法制は、「通常の労働者」という不思議な概念を中心としたものにほぼ完全に統一されてしまうかのようです。

 ここで話の流れを逆転し、この「通常の労働者」という言葉の由来を法制定以前に遡って探っていきましょう。1989年の「パートタイム労働者の処遇及び労働条件等について考慮すべき事項に関する指針」(告示第39号)でも、「労働条件は、パートタイム労働者の就業の実態、通常の労働者との均衡等を考慮して定められるべき」とあります。1993年制定時の国会修正はこの指針の文言を持ってきたものだったのです。その前の1984年の「パートタイム労働対策要綱」(次官通達)でも「通常の労働者」という言葉が出てきますが、労働条件の明確化や労働時間管理の適正化などが書かれているだけで、処遇の問題は出てきません。同年の労働基準法研究会報告が、「我が国の雇用慣行を背景に、パートタイム労働者の労働市場が需要側、供給側双方の要因に基づき、通常の労働者のそれとは別に形成され、そこでの労働力の需給関係によりパートタイム労働者の労働条件が決定されていることによる」ので「行政的に介入することは適当とは考えられ」ないと述べていたことを反映しています。

 このように「通常の労働者」という用語法は、内部労働市場志向の労働政策の全盛期に、日本型雇用システムの「正社員」を所与の前提とする形で生み出されたものであることがわかります。というのは、それよりもっと以前の政策文書を見ると、パートタイムの対概念は「通常の労働者」ではなくフルタイムだった時代があるのです。1970年の「女子パートタイム雇用に関する対策の推進について」(局長通達)は、「現状では、パートタイム雇用についての概念の混乱が、近代的パートタイム雇用の確立の上で問題となっているので、パートタイム雇用は、身分的な区分ではなく、短時間就労という一つの雇用形態であり、パートタイマーは労働時間以外の点においては、フルタイムの労働者と何ら異なるものではないことを広く周知徹底する」と、大見得を切っています。

 残念ながら、周知徹底するどころか、労働行政自身がパートタイムを「正社員」と身分(雇用区分)が違う存在として位置づけ、労働時間以外の点で大いに異なるものであることを大前提にその後の政策を形成してきたわけです。そして、欧米型の近代的労働市場を志向していた半世紀前の労働行政がその後日本型雇用の維持強化に舵を切り、さらにその後再びEU型の非正規労働政策を徐々に導入する中で、少なくとも有期契約労働については有期対無期というごく普通の対立軸で立法したにもかかわらず、パートタイムについては1980年代以来の「通常の労働者」概念を基軸とする発想が中心のままであり、そして今回、その枠組みに有期や派遣まで巻き込む形で立法が行われようとしているわけです。いったん確立した思考の枠組みというのは、なかなか変わりにくいことがよくわかります。

OECDとILOの報告書が労使関係を激推

OecdiloILO(国際労働機構)はそもそも100年前から労使関係を基軸とする機関ですが、OECDと言えば過去20年以上にわたってどちらかというと新古典派エコノミストを中心に労働市場の柔軟化を主唱してきた機関という印象が強いので、ここに来てILOと一緒になって労使関係を激推しているのを見ると、やや不思議な感もあります。

http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/strong-labour-relations-key-to-reducing-inequality-and-meeting-challenges-of-a-changing-world-of-work-oecd-ilo-japanese-version.htm(日本語プレスリリース)

強い労働関係が不平等を削減し変化する労働環境の課題に対処する鍵を握る-OECD & ILO

アンヘル・グリアOECD事務総長は、本報告書の発表会見で次のように述べました。「より多くの質の高い雇用を生み出すことが、包摂的経済成長を達成する鍵を握っている。雇用が不安定で賃金が低迷し、デジタル革命がもたらす新たな課題を抱える現代では、建設的な労働関係がかつてないほど重要である。」この発表会見には、スウェーデン外相Margot Wallström氏、フランス労働相Muriel Pénicaud氏、ITUC事務総長Sharan Burrow氏、ILOフィールドオペレーション&パートナーシップ担当事務局次長Moussa Oumarou氏が同席しました。

この報告書は適正な労働と包摂的成長のための国際合意 (Global Deal for Decent Work and Inclusive Growth)という、2016年にスウェーデン首相Stefan Löfven氏が着手し、OECDとILOが協力して開発したイニシアチブの一環として出版されました。この多角的な利害関係者間のパートナーシップは、持続可能な開発目標に沿って、雇用の質の向上、公平な労働環境、グローバル化の恩恵の浸透を促す手段の1つとして、社会的対話を促進することを目的としています。この国際合意には約90のパートナー諸国政府、企業、経営者団体及び労働者団体、その他労働問題に関する対話と合意形成を有効にすることに寄与するべく自発的な関与を行う団体が参加しています。

グリア事務総長は、「我々は、この国際合意がより多くのより良い社会対話を刺激し、全ての労働者に強い意見と保護、公平な労働環境、雇用主との良い信頼関係を与えることができると確信している」とも述べています。

ガイ・ライダーILO事務局長は次のように述べました。「この新報告書から、社会的対話を強化することでより包摂的な労働市場と経済成長をもたらす機会が生まれ、社会経済的成果が向上し、労働者の幸福が高まり、企業の実績が改善し、政府への信頼が回復するということがわかる。」

http://www.theglobaldeal.com/app/uploads/2018/05/GLOBAL-DEAL-FLAGSHIP-REPORT-2018.pdf(英文報告書)

Building Trust in a Changing World of Work

The Global Deal for Decent Work and Inclusive Growth Flagship Report 2018

ざっと眺めた感じでは、仕掛け人のスウェーデンの北欧型労使関係システムへの激推が背後にあるのかなという印象です。

私の観点からの注目はもちろん、第4章の「LOOKING AHEAD – PROMOTING GOOD PRACTICES AND REBUILDING TRUST」、特にその第2節の「Looking ahead - The role of social dialogue in the future of work.」です。

ちょっと引用しておきますと、

The rise of the platform economy and the new forms of work associated with it are creating additional challenges for labour relations, on top of those that already exist. These trends are putting increased pressure on the traditional employer-employee relationship and the associated rights and protections which had been strengthened over time in advanced but also in emerging countries.While these new forms of work can expand choice in terms of where and when people work, they also raise concerns insofar as they may be shifting risks and responsibilities away from employers and onto workers. Many gig and on-call workers are not covered by standard labour regulations and institutions (including minimum wages, health and safety, and working time regulations) and this carries potential negative consequences in terms of job quality and inequality. These developments in the world of work also pose new challenges for freedom of association and the right to collective bargaining. Many workers in the platform economy are considered to be self-employed, meaning their collective organisation and negotiation may be seen as breaching competition laws.

プラットフォーム経済とそれに伴う新たな就業形態の興隆は労働関係にさらなる課題を作り出しており、そのトップは既に存在している。これらの趨勢は伝統的な使用者-労働者関係と先進国と途上国でも発展してきたそれに伴う権利と保護に圧力をかけてきている。これら新たな就業形態はいつどこで働くかという選択肢を拡大する一方、リスクと責任を使用者から労働者にシフトするという懸念を生み出している。多くのギグ、オンコール労働者は(最低賃金、安全衛生、労働時間規制など)標準的労働規制や機構によってカバーされておらず、これが仕事の質や不平等にマイナスの影響を与えている。これら仕事の世界における展開は結社の自由や団体交渉権に対しても新たな課題を提起している。多くのプラットフォーム経済の労働者は自営業者だと見なされ、彼らの団結体や団体交渉は競争法違反だと見なされてしまう。

本ブログや最近の小論で何回か述べてきたことですが、この問題こそがこれから労働法、労使関係が立ち向かっていかなければならない最大の課題です。それがなかなかできないのは、今までのツケがたまりに貯まっているから。

本当はこれまでの失われた20年の間にさっさとやってしまっとかなければならなかった「働き方改革」がこの期に及んで未だに高度成長期の亡霊のような残業代ゼロ法案云々ですったもんだしている極東某国の亡国ぶりが今更のように情けなくなります。

2018年5月21日 (月)

在留資格「特定技能(仮称)」を創設

201805210002_001_m去る2月20日の経済財政諮問会議で打ち出され、その後官邸の外国人材タスクフォースで検討されていた中間技能レベルの外国人労働者の導入政策が、いよいよ来月には骨太方針に盛り込まれるようです。なぜか西日本新聞というローカル紙にリークされているのですが、

https://www.nishinippon.co.jp/feature/new_immigration_age/article/417749/(外国人就労、拡大に方針転換 新資格の創設着手 政府、骨太に明記へ)

政府は、人手不足が深刻な分野の労働力を補うため、外国人の受け入れ拡大へ大きくかじを切る。最長5年間の技能実習を終えた外国人が、さらに5年間働ける新たな在留資格「特定技能(仮称)」の創設に着手。高い専門性があると認められれば、その後の長期雇用を可能とすることも検討している。従来の技能取得という名目から、就労を目的とした受け入れ施策に転換する。6月に決定する「骨太方針」に外国人との「共生」を初めて盛り込み、日本語学習教育の支援などにも取り組む方針だ。・・・

政府が検討する新たな在留資格「特定技能(仮称)」は就労を目的とする制度。農業、介護、建設、造船などの分野が対象となる。現行の技能実習の修了者だけでなく、各業界団体が実施する日本語能力や専門技能に関する試験に合格すれば資格が与えられる。

 政府は新たな在留資格の導入を前提に、目標とする外国人労働者数を試算。介護分野は毎年1万人増、農業分野では2017年の約2万7千人が23年には最大10万3千人に大幅に拡大すると試算。建設分野で17年の約5万5千人を25年時点で30万人以上に拡大、造船分野は25年までに2万1千人を確保することが必要としている。

具体的な数値まで出てきているところを見ると、時期的に当然かもしれませんが、相当煮詰まってきていることが窺われます。

この記事にはこういう解説もついていて、

https://www.nishinippon.co.jp/feature/new_immigration_age/article/418041/

政府が「労働開国」に踏み切る背景には「外国人をどれだけ受け入れるかではなく、どうすれば来てもらえるかという時代になってきた」(官邸筋)との危機感がある。人口減と少子高齢化が進む日本だけでなく世界各国で人手不足が深刻化し、人材の争奪戦が過熱しているためだ。

 これまで安倍晋三首相は「いわゆる移民政策は取らない」と繰り返してきた。現実は「裏口からそっと入れて人手不足を補うのが国策」(与党議員)だった。

https://www.nishinippon.co.jp/feature/new_immigration_age/article/418040/

政府が新たな在留資格を設け、外国人就労の拡大に大きくかじを切るのは、留学生や技能実習生が技術の習得を名目としながら、実際は人手不足の業界を支える重要な労働力となっている現状に「限界」が生じているからだ。外国人を「労働者」として正面から受け入れることで、慢性的な人材不足を補う効果が期待されるが、事業者側が「安価な労働力」として活用する懸念は残り、人権上の配慮も重要な課題となる。

一方で、日弁連は5月15日に「 新たな「外国人材の受入れ」制度の創設に関する会長声明」を公表しています。

https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2018/180515.html

現在、タスクフォースで受入れの対象として検討されている職種は、農業、漁業、水産加工業、建設業、造船業、製造業、介護など、技能実習の対象職種と同様の非熟練労働を対象とするものが多く含まれている。これらの職種について、人手不足を解消するための新たな「外国人材の受入れ」制度の設計は、かねて当連合会が提言してきたとおり、端的に、技能実習制度を廃止し、これに代わることとなる受入れ制度を検討するべきである。当連合会は、人手不足解消の手段として技能実習制度を存続させたまま、その修了者に更に5年程度の就労を認めることができるという制度設計には、反対する。

この問題については、ほんの少し前の去る3月末に、『労基旬報』に「外国人労働政策の転換?」」を寄稿したばかりですが、来月にはまたもう少し突っ込んだ解説を書く必要がありそうです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2018325-937f.html

中国の不思議な事件

Img_d96d93665d34f60fbb9251e6e386c8eやや、というか相当にネタですが、AFPの記事にこんなのが:

http://www.afpbb.com/articles/-/3174952?pid=20133812(社内で奇妙な現象相次ぐ…面接に落ちた若者、会社に半年住みついていた)

【5月20日 東方新報】中国・浙江省(Zhejiang)杭州市(Hangzhou)上塘(Shangtang)派出所に、管轄内のある会社から通報があった。「半年も会社に住みついていた男を捕まえました」

・・・昨年にこの保険会社の面接を受けたが、不採用だった。だがある日、この会社の管理が甘かったことをふと思い出した。社員は施錠もせずに帰宅することもあったほどだ。そこで、運試しのつもりで同社に行ってみたところ、やはり鍵が開いていた。

 始めのうちは寝泊りに使うだけで、社員の出勤前に会社を離れていた。社内にある物に触れることもなかったが、空腹になれば食べ物を少し拝借。きちょうめんなことに、ゴミは朝出る時に持って出ていた。

 会社で「暮らす」時間が経つにつれ、この会社を自分の家だと感じるようになった章容疑者。自分のスーツが汚れたら、ちょうど目に入った誰かのスーツを着たり、机の上に記念コインが飾ってあれば自分の物のであるかのように持って行ったり。ほかにも、必要が生じると会社にある物を持ち出すようになった。章容疑者は借りていたスーツを何か月も着続け、汚れたら元の場所に返してしまったという。

 章容疑者の存在を知った社員たちは、一様に驚いた。面接したことがあったとはいえ、誰も覚えていなかった。まさか半年も社内に住みついていたとは。章容疑者は現在、警察に拘留されている。(c)東方新報/AFPBB News

虚構新聞かと思うような噺ですが、いろんな意味で面白い。一方で共産党一党独裁がますます強化され、デジタル・レーニン主義と言われるような情報通信の中央集権的統制が行われる中国社会が、他方でこういう中間レベルの集団が穴だらけというか、すかすかというか、この犯人が「この会社を自分の家だと感じるようになった」のとは対照的に、この会社の従業員たちはあんまり「この会社を自分の家だと感じるようにな」っていなかったんだなあ、という感想が。じぶんがそのメンバーである家だったら、ちょっと変だったらすぐに気がつくでしょうが、単なるジョブの束であり、それ以上ではない会社に対しては、半年間会社に変なやつが住み着いていても気にならないくらい本質的には無関心ということなのでしょうか。

考えてみれば、かつて孫文は中国を「流砂の民」と呼び、だからこそ、国民党政権も共産党政権も極めて強面の上から押さえつけるような政治をやってきたという説がありますが、その一つの例証になる噺なのかもしれません。

2018年5月20日 (日)

ヨーロッパ型法学部の上にアメリカ型ロースクールを乗っけた帰結

7 毎日新聞に「政府 法学部「3年卒」検討 法科大学院「失敗」に危機感」という記事が載っていますが、

https://mainichi.jp/articles/20180518/k00/00e/040/223000c?fm=mnm

裁判官や検察官、弁護士を志す法学部の学生は3年で卒業--。政府・与党は、司法試験の受験資格取得期間を短縮するため、法曹教育の大胆な見直しに着手した。背景には、法科大学院の淘汰(とうた)が進み、一連の司法試験改革は失敗だったという批判が広がることへの危機感がある。・・・・

この問題の根源には、そもそもヨーロッパ型の法学部、つまり大学が専門職業教育機関であり、大学法学部をきちんと卒業すれば一応法曹と認められることを前提にした仕組み(でありながら、現実はそれとはかけ離れたものですが)の上に、アメリカ型の大学自体は教養教育機関であり、その上に専門職業人育成のためのロースクールがある仕組みをを、システムが全然違うということを無視して安易にのっけたことの必然的な帰結という感じがします。

私が今から20年以上前に、EU日本政府代表部に勤務していたころ、ベルギー労働省に勤務する若手職員の人としゃべっていて、彼がこう語ったことを今でもよく覚えています。曰く、私は大学法学部を出て当然のように弁護士になったけれど、なかなか顧客が出来ず、商売にならないので、ベルギー労働省に就職して、今法務の仕事をしているんだ、と。

日本では役人になってから司法試験を受けて弁護士になるのはいるけれども、逆はいないなあ、というと、不思議そうな顔をしていましたな。

日本に帰ってからこの話をしても、逆になかなか分かってもらえないので、日本だって医学部は学部出たら(医師国家試験に合格して)医者になるでしょ、そして選考採用で厚生官僚になるのもいる、といったら、ようやくわかってもらえた。で、アメリカではそれもメディカルスクールという大学院レベルが職業教育機関なんですね。

だから、そもそも日本にいっぱいある法学部ってそもそも何のためにあるのかという根本問題抜きに、3年にするとか言ってもその理屈がよくわからないということになります。

ぶっちゃけ、ロースクールで2年みっちりやる前提なら、その予備門的存在として、教養課程2年だけでいいのではという議論だってありうるかもしれない。いや、これは労働市場問題は抜きの議論ですけど。

(追記)

この話、実は昨年11月にも本ブログで取り上げていました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/l-54fb.html (L型専門職大学としての法学部?)

・・・少なくとも、大型二種免許を取るための法学部よりは、ずっとまっとうな職業教育機関のイメージではありましょう。

 

 

2018年5月19日 (土)

セクハラ罪もパワハラ罪もいじめ罪もない、が・・・

あまりにもばかばかしいのでわざわざ取り上げる必要すらないと考えるのがまっとうな人の判断でしょうが、それにしても・・・。

https://mainichi.jp/articles/20180519/ddm/041/010/051000c (「ない」「ない」答弁 「セクハラ罪ない」閣議決定)

政府は18日、「現行法令において『セクハラ罪』という罪は存在しない」との答弁書を閣議決定した。財務省の福田淳一前事務次官のセクハラ問題を巡り、麻生太郎副総理兼財務相が「『セクハラ罪』という罪はない」と繰り返し発言したことに批判が相次いでおり、逢坂誠二氏(立憲民主党)が質問主意書で見解をただした。
 答弁書は、セクハラの定義について、職場や職場外での「他の者を不快にさせる性的な言動」と人事院規則が定めているとし、「これらの行為をセクハラとして処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」とした。
 一方、逢坂氏が「セクハラが強制わいせつなどの犯罪行為に該当することがあるのでは」と問うたことに対し、答弁書は「その場合に成立するのは強制わいせつなどの罪であり、『セクハラ罪』ではない」とした。【野口武則】

わかっている人にはいまさらな話ですが、セクハラであれ、パワハラであれ、いじめであれ、その中には刑事法上の犯罪行為に該当するようなものもあれば、刑事罰の対象にはならないけれども民事法上の不法行為として損害賠償請求の対象にはなるものもあり、さらに民事法上の損害賠償請求には至らないけれども会社等の組織運営上、とりわけ労務管理上好ましくなく、使用者としてきちんと対処すべきようなものまで、さまざまであって、むしろその程度性質に適切に対応しなければならないわけです。

というようなことは、およそ法学入門の第1ページを齧った程度の人であればだれでもわかるはずのことですが、ここで言いたいのはそれよりもむしろ、こういうあきれた記事を平然と書き散らすマスコミこそが、実はこういう何でもかんでもごっちゃにする用語法の最大の加害者ではないか、ということです。

そう、同級生を殴る蹴る(暴行罪)怪我を負わす(傷害罪)金を巻き上げる(恐喝罪)といったれっきとした刑法典に書かれている犯罪行為を、わざわざ「こどものいじめ」だと穏やかに免責するような表現をしてきたのは、あんたらマスコミじゃないのか、と。

現行法令に「いじめ罪」という罪は存在しない。しかし、あんたらマスコミが「いじめ」「いじめ」と軽々しく書いてきたその中身が暴行罪や傷害罪や恐喝罪であれば、それは立派な犯罪だ。それを犯罪じゃないかの如く印象操作してきたのは、マスコミ自身だろうが。

そういえば、男女雇用機会均等法で以前から禁止されているに妊娠を理由とした解雇を、わざわざその時にはまだ法律上に何ら規定もされていない「マタハラ」とかいう言葉で報道したマスコミもけっこうあったし。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0136.html (妊娠を理由とする解雇の公表)

明日の新聞が「初のマタハラ公表」とか見出しを打ったら、「ハラスメントじゃないよ、解雇だよ」と言ってやりましょう。
なんでもハラスメントといえばいいわけじゃない。

 

 

 

 

 

今月末からのILO総会で職場の暴力とハラスメントが議題に

100年前のILO第1号条約すら批准できない悲惨な日本の労働時間法制がようやく時間外労働に上限ができるまっとうなものになろうというこの重要な時期に、そんなことには何の関心も払わず、残業代ぼったくりばかりを騒ぐというこれまた悲惨な政治やマスコミの状況ですが、その中でかろうじて希望が持てる動きとして本ブログで紹介したのが、国民民主党が参議院に提出した労働安全衛生法改正案で、いわゆるパワハラや顧客によるハラスメントに対する措置義務が規定されたことでした。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-2148.html (国民民主党と立憲民主党の働き方改革法案対案)

この問題、厚生労働省の検討会ではいくつかの案が併記されるという形でいったん収まっていますが、世界レベルではILOで今月末から開かれる第107回ILO総会における第1回目の討議がされる予定になっています。

ILO駐日事務所の案内から引用すると、

http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_625576/lang--ja/index.htm

日本を含む187の加盟国から政府、使用者、労働者の代表が出席して開かれるILOの年次総会。今総会では、持続可能な開発目標とILOの開発協力のあり方や社会対話と三者構成原則、労働時間といった事項に関する検討に加え、仕事の世界における暴力と嫌がらせ(ハラスメント)に関する新たな基準の設定に向けた議論が開始されます。

2回討議手続きに基づく基準設定の第1次討議-仕事の世界における男女に対する暴力とハラスメント
 職場における暴力やハラスメントは、全ての人間が有する「自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追求する権利」を促進するというILOの任務の根幹に係わる問題であるものの、これを直接取り上げた基準は存在しません。このディーセント・ワークと相容れず、許容できない問題に取り組む緊急の行動を求める声に応え、新たな基準の採択を目指す2回討議手続きの1回目の討議が行われます。
 『仕事の世界における男女に対する暴力とハラスメントに終止符を打つ』と題し、仕事の世界における暴力とハラスメントの現状を、その内容、関係者、発生場所、影響、推進要素、リスク要因、危険度が特に高い職種や集団などの切り口から解説し、国際・国内の取り組みをまとめた報告書(Report V(1) )と、これに関する基準設定についての加盟国政労使の見解を記した報告書(Report V(2) )の2冊の討議資料をもとに、2年越しの検討が開始されます。

うまくいけば、来年にはILOのパワハラ条約・勧告ができるということになるかもしれません。

 

 

連合は「時間外労働の上限規制の早期実現」を求める

843520b930e094019278b730035f97ca 連合のホームページに、菅官房長官への要望事項がアップされています。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=1374

要請の冒頭、神津会長が菅官房長官に要請書を手渡し、「経済財政運営と改革の基本方針2018(骨太の方針)」や予算の概算要求基準等への反映を求めました。その後、連合・平川総合政策局長より4本10項目からなる要請内容から、長時間労働是正に向けた法整備と労働者保護ルールの堅持・強化、医療・介護・保育で働く職員の処遇・勤務環境の改善をはじめとする人材確保対策の強化、待機児童の早期解消のための財源確保と質の担保された受け皿の整備に向けた政策の推進などについて、ポイントを説明、意見交換を行いました。

要請書の具体的内容はこちらにあります。

1.持続可能で健全な経済の発展に向けた産業政策および税制改革の推進
・第4 次産業革命の進展に伴いすべての産業に起こり得る様々な変化への対応について検討するための、労使が参画する枠組みを構築する。
・サプライチェーン全体で生み出した付加価値の適正な分配を実現するため、「働き方」も含めた企業間における公正かつ適正な取引関係の確立に向けて、下請法をはじめとする関係法令の周知とその遵守を徹底する。
・個人所得課税における人的控除の抜本見直し、金融所得課税の強化、低所得者対策としての給付付き税額控除(勤労税額控除、軽減税率導入の代わりとしての給付措置)の導入により、税による所得再分配機能を強化する。

2.長時間労働是正に向けた法整備と労働者保護ルールの堅持・強化
・長時間労働是正に向け、時間外労働の上限規制を早期に実現する。労働基準監督官の増員および監督強化に向けた根拠規定の整備を含め、労働行政を充実・強化する。非正規雇用労働者の処遇改善に向け、労働契約法、パートタイム労働法お
よび労働者派遣法の3 法の改正を早期に実現する。
・外国人労働者の受入れは、国内雇用や労働条件に好影響を及ぼすような「専門的・技術的分野」の外国人を対象とし、安易かつなし崩し的な受入れは行わない。
・職場のパワーハラスメントの予防・解決に向け、職場のパワーハラスメント防止対策の実効性確保に加え、使用者責任を明確化するための法整備を行う。

3.すべての世代が安心できる社会保障制度の確立とワーク・ライフ・バランス社会
の早期実現
・医療・介護・保育で働く職員の処遇改善と勤務環境を改善し、人材の離職防止をはかるほか、復職や新たな担い手をめざす人への支援を充実するなど、人材確保対策を強化する。
・生活援助サービスを含め介護等を必要とする人が地域で安心して暮らし続けられるとともに、仕事と介護が確実に両立できるよう、良質な介護保険給付を確保する。
・希望するすべての子どもが保育所や放課後児童クラブ等を利用できるよう、待機児童を早期に解消する。そのため、財源を確保し、職員配置の改善や安全面の強化など質の担保された受け皿の整備をさらにすすめる。

4.「子どもの貧困」の解消に向けた政策の推進
・高等教育における対GDP公的教育支出を他の先進国並みに拡大し、大学などの授業料を引き下げるとともに、貸与型奨学金をすべて無利子とし、給付型奨学金の支給対象および支給額を拡充する。

私の最近の関心からすると、1の「持続可能で健全な経済の発展に向けた産業政策および税制改革の推進」にこそ注目したいところですが、そのまえに、いまさらながら2の「長時間労働是正に向けた法整備と労働者保護ルールの堅持・強化」について一言だけ。

いまだに100年前に制定されたILO第1号条約すら批准できない日本の異常な労働時間規制、専門的でも裁量性もなく、高度でもプロフェッショナルでもない、入ったばかりの一年目の新入社員が過労死しても労働基準法違反にならないような、時間外労働に上限規制のない日本の法律を、ようやくまともな労働時間規制という名に値するものにしようという法律案が、労働基準法制定70年にしてようやく成立しようとしているこの時期に、それを平然と無視して、「残業代ぼったくり法案絶対反対」と叫ぶだけの人々と同列に並ぶことが出来ないのは、日本の労働組合の代表としてはあまりにも当然のことでしょう。

この点については、もう10年以上にわたって口が酸っぱくなるくらい、そして聞いている人の方も耳に胼胝ができるくらい同じことを言い続けてきましたが(下記参照)、聞く気のない人々には百万回道理を説いてもなかなか通じないという思いはいや増すばかりです。

なんにせよ、連合は日本の労働時間法制が単なるゼニカネ規制からようやくまっとうな物理的時間規制に転換するこの法改正を(中には若干言いたいことがあるにしても)しっかりと実現に向けて頑張ってほしいところです。

さて、本題。

「第4 次産業革命の進展に伴いすべての産業に起こり得る様々な変化への対応について検討するための、労使が参画する枠組みを構築する」。

これは、最近のAIとかクラウドとかプラットフォームとかまあそういう話ですが、「労使が参画する枠組み」とわざわざ言っているのは、最近、三者構成原則が揺らいできており、とりわけこの第4次産業革命話をやっている労政審の基本問題部会が、あえて三者構成でない「有識者」だけにしていることに対する危機感があります。

その危機感には同感するものの、実は第4次産業革命で今までの労働者概念には収まりきらない新たな就業形態がどんどん拡大していくことを考えると、そういう法律的には独立自営業者などだが、労働者に類似した人々の利益を、集団的にどのように代表していくのか、という問題にぶち当たらざるを得ません。「有識者」と称する人ばかりが好き勝手に議論して済む話ではないとともに、まさにその利害当事者をどう代表するかというステークホルダー民主主義の根幹にかかわる問題を改めて真剣に考えていく必要があるのだと思います。

「<サプライチェーン全体で生み出した付加価値の適正な分配を実現するため、「働き方」も含めた企業間における公正かつ適正な取引関係の確立に向けて、下請法をはじめとする関係法令の周知とその遵守を徹底する」

これもいま世界的に大変注目されている論点ですが(なぜか日本では、本来もっと騒ぐべき人々の関心が薄いですが)、こういう観点からも、労働法の研究者はもっと経済法、産業法との連携を図っていかないといけないのだろうと思います。特に若い人々は、あまり狭く閉じこもらないで、広く関心を広げていってほしいところです。

 

2018年5月18日 (金)

銀行の人材紹介業兼業に金融庁が戒め

今年1月、本ブログで「銀行が有料職業紹介事業可能に?」というベタ記事を取り上げたことは、ほとんどの方が覚えていないと思いますが、この件がその後いろいろあって、金融庁が銀行に対して指導していたということです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-e65e.html(銀行が有料職業紹介事業可能に?)

今世界の注目を集めるピョンヤンの同名新聞と異なり、ほとんど注目を集めない日本の『労働新聞』ですが、

https://www.rodo.co.jp/news/46281/(「優越的地位」不当利用を戒め 金融庁が全銀行へ)

金融庁が行った監督指針の改正により、人材紹介業を兼業する銀行本体の出現が見込まれる状況となったなか、融資先企業に人材の受入れを迫ったりしないよう、主要行や地銀など全ての銀行に同庁が文書指導したことが分かった。3月末日から改正監督指針の運用が始まっており、「債権者」という優越的地位を不当に利用する行為を未然に戒めている。融資を受ける企業側としても覚えておきたい。同文書の注意書きでは、職業安定法に基づく「許可」を受ける必要性について強調している。…

この件、実は今年2月26日の労政審需給調整部会で、連合の村上陽子さんからあえて発言があり、厚労省サイドから金融庁に伝えますと言っているので、それが影響したのかもしれません。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000204387.html

○村上委員 本日資料は提出されておりませんが、 1 点要望です。

先月、金融庁が「主要行等の総合的な監督指針」と「中小地域金融機関向けの総合的な監督指針」の一部改正について、パブリックコメントの募集を行いました。先週 22 日が締め切りだったので、連合としてパブリックコメントの意見提出をしたところです。監督指針の変更内容としては、現在、銀行は職業紹介に関する兼業規制が職業安定法上は掛かっていないわけですが、監督指針においては、「その他の銀行業に付随する業務」として職業紹介は明記をされていませんでした。これを明記する改正であり、つまり銀行が職業紹介業務をできることを明確化するという改正が行われるということです。

 連合として提出した意見としては、融資を通じた影響力を背景として、自行が行う職業紹介による人材の受入れを迫る行為や、自行の職業紹介と合わせて、融資先企業の人員削減を求める行為が懸念されるのではないかという点、また、貸金業と異なるとは言っても、個人顧客で、資金貸付けなどを行っている人を対象にして、自行の職業紹介によって、強制的に職業のあっせんなどを行うということが懸念されます。そのため、こうしたことが起こらないようにするということを、監督指針の中で明記するべきであるし、何かあった場合は、きちんと指導するべきであるという意見を提出しました。

また、職業紹介にも関わるところですので、先般、労働移動支援助成金の際に、職業安定法に基づく指針の中の、再就職支援を行う職業紹介事業者に関する事項において、職業紹介事業者が労働者の権利を違法に侵害すること、違法な侵害を助長すること、若しくは誘発することは許されないということも明記されていますので、こういったことも、今般、銀行が職業紹介事業を行うということになるのであれば、きちんと周知するべきです。また、何かあった場合には、金融庁と厚生労働省で連携をして対処すべきと考えております。こういった意見を提出したところでありまして、今後金融庁はどのように考えていくのかということもあるかもしれませんが、いずれかの時点で、どのようになったのかということを、是非部会において御報告いただきたいと思っております。こういうことを起こらないようにするためにも、こういうことをやっては駄目なんだということは、なるべく明示的にしていただきたいと思っております。以上でございます。

○鎌田部会長 連合としての御意見ということで、今述べられました。それについては事務局のほうから何かコメントはありますか。

○牛島課長 今日、特段案件には挙がっていませんで、資料はお配りしておりませんけれども、村上委員御紹介のとおり、金融庁の方で、銀行業が兼業業務として、人材紹介業を行うことができるということを、指針の中で明確化したと。それについてパブコメを実施して、 2 月 22 日までで意見を募集しているという話は聞いております。

 一方で、銀行業が、やはり個人の方もそうですし貸付先企業もそうですが、どうしても優越的な地位に立つということが、実態としては生じうるところはありますので、そこが職業紹介事業の実施において見えない影響力という形で、本意ではない就職でありますとか、本意でない人材の移し替えというようなことが起こらないようにすることは、非常に重要な御指摘だと認識をしております。金融庁と具体的に、どのようにそこら辺の懸念を払拭するために仕組みを作れるかというのは、相談をしながら、他のところから出たパブコメもあろうかと思いますので、調整をしながら進めていきたいと思っております。問題認識は私は共有しておりますが、この部会の場にどのようにお返しするかということについては、部会長の御意向も確認しながら御報告させていただくような形で準備をしておきたいと思っておりますが、いずれにしても、これから金融庁と私どもの方で適切に調整をしていきたいと考えております。以上です。

多重請負関係における「労働者性」と「使用者性」の齟齬

本日、東京大学の労働判例研究会で、わいわいサービス事件控訴審判決(大阪高判平成29年7月27日)(労働判例1169号56頁)の評釈をしてきました。

本件、既に地裁判決については橋本陽子さんが『ジュリスト』2017年4月号に評釈を書いているのですが、地裁とは逆に原告の労働者性を認めながら、被告との雇用契約を認めないというやや奇妙な判断をしており、かなり突っ込んでみました。

労働判例研究会                                                        2018/5/18                                                                      濱口桂一郎
多重請負関係における「労働者性」と「使用者性」の齟齬
わいわいサービス事件控訴審判決(大阪高判平成29年7月27日)
(労働判例1169号56頁)

Ⅰ 事実
1 当事者
原告X:Y社から配送業務を請け負っていた者
被告Y:軽車両等運送事業及び引越荷役事業等を行う会社

2 事案の経過
・Xは平成24年12月からY社の下請として、自己所有車両を使用して配送業務を行った。この配送業務の多重請負構造はA社→B社→Y社→Xであり、これが請負契約であることは当事者間に争いがない。XはA社の倉庫でB社従業員の指示に従い配送業務を行っていた。配送業務の報酬は走行距離に応じて、B社の請求明細書をもとに15%の帳合料を控除して支払われていた。
・Xは平成25年1月頃、B社従業員からA社の豊中倉庫で、倉庫の内勤業務をやらないかと打診され、同月16日から同業務を開始し、平成27年3月26日まで休みなく従事した。
・この作業は、午後8時から翌日午前8時まで、元請物流会社が発行した注文書の内容に従い、倉庫内にある部品を1カ所に集め(ピックアップ作業)、並行してB社従業員に電話連絡し、当該部品を豊中倉庫から搬出するために必要な車両の手配(車両手配)を行うものであった。倉庫作業に関して、X・Y間に契約(以下「本件契約」という。)が成立していることは当事者間に争いがない。
・勤怠管理はA社の設置したタイムカードに打刻する方法で行われていたが、タイムカードはB社が管理し、Yに提示されることもなかった。
・Xは豊中倉庫の1階から3階までを一人で担当しており、携帯電話を所持するようB社従業員から指示されていた。倉庫作業に当たっては特に休憩時間は設定されておらず、倉庫外に出ることも禁止されていなかった。Xが倉庫作業に従事していた間、Yから勤務時間や業務内容について指示されることは一切なかった。
・Xは、休日が一切取れないことについてA社従業員に対して何度も苦情を言ったものの、Yに対して休日を与えるように申し入れたことはなかった。Xは、Yに来ることもなく、他の従業員との接点もなかった。
・Xは平成26年9月10日以降は配送業務を行わなくなり、倉庫作業のみを行っていた。
・平成27年3月27日、XはYの代表者から、豊中倉庫に行かなくてよいと言われたため、同日以降出勤していない。
・同年4月15日、YからXに対し、①BY間の請負契約が解除されたため、XY間の契約が平成27年3月27日に終了したこと(口頭通知済みだが、念のため書面で通知)、②予備的に、平成27年3月27日付で解雇する旨の通知が行われた。
・Xは平成26年12月2日、枚方公共職業安定所長に対し、雇用保険被保険者となったことの確認請求を行い、同所長は平成27年3月16日、職権で、平成25年3月16日に遡ってXの被保険者資格を確認した。Yはこの確認処分の取消を求める再審査請求をしたが、労働保険審査会は、平成28年9月26日、再審査請求を棄却した。
・日本年金機構理事長は、平成27年4月22日、Xに係る厚生年金保険法及び健康保険法による被保険者資格確認及び標準報酬決定処分をし、これに対しYはその取消を求めて審査請求をしたが、近畿厚生局社会保険審査官は、平成28年5月19日、審査請求を棄却した。
・Xの倉庫作業に関して、Yに対し、北大阪労働基準監督署労働基準監督官は平成27年2月27日、労働基準法違反で是正勧告を、大阪労働局長は平成27年7月30日、労働者派遣法違反で是正指導を行った。
・XはXY間の契約が雇用契約であるとして、本件解雇の無効確認及び割増賃金を含む未払い賃金の支払いを求めて提訴した。
・大阪地方裁判所は、平成28年5月27日、請求を棄却する判決を言い渡した。Xは控訴した。判旨は下記3の通り。
・大阪高等裁判所は、平成29年7月27日、請求を棄却する判決を言い渡した。結論は同じだが、Xの労働者性の判断が大きく変わった。

3 原審判決
・「Xは、倉庫業務の内容や遂行方法について、A社及びB社から指示を受けており、Yからは一切指示を受けていない。
 そもそも、Yは平成25年2月中旬までの約1ヶ月間、Xが倉庫作業を行っていたことすら把握しておらず、そのことを把握した後も、何ら業務指示も出していないのであり、業務遂行上の指揮監督を認めることはできない。
 ・・・Xは、Yが自ら雇用したXをB社に派遣していたのであるから、派遣先から指示を受けていれば、派遣元から指示を受けていないからといってXの労働者性は否定されないと主張する。
 しかしながら、労働者性の判断に当たっては、契約当事者であるXY間において、YによるXへの指揮監督の有無を実質的に検討すべきであり、YがXに対し、B社やA社の指示に従って業務を行うよう指示していたような特段の事情も認められない。」
・「本件契約は、豊中倉庫における業務を予定しており、場所的拘束は業務の性質上当然生ずるものであるし、勤務時間についても、A社やB社の指示によるものであり、Yの指揮命令によるものではない。
 かえって、Xは、B社らと調整さえ行えば、Yの意向と関係なく、勤務時間を自由に変更することやXの代わりの者に倉庫業務を行わせることも可能であったと認められるのであり・・・、このことは、Xの立場が、使用者によって労務提供の時間を指定され、管理されることが通常である労働者の立場とは異なるものであったと評価できる事情といえる。
 ・・・そうすると、Xによる豊中倉庫における午後8時から翌日午前8時までの就労について、時間的拘束性を認めることはできない。」
・「B社は、倉庫作業をXだけで行わればならないと考えていた訳ではなく、Xは、A社やB社と調整さえすれば、代わりの者に倉庫作業を行わせることで勤務時間を変更したり、休んだりすることが可能であったといえる。
 そして、勤務時間の変更や休日の取得については、Yの許可を必要とするものではなく、Xは、業務従事の指示等に対する諾否の自由を有していたと考えるのが相当である。
 ・・・実際に、Xは、倉庫業務に関し、休日の取得について、A社の従業員とは何度も話をしながら、Yに対しては、休日を与えるよう申入れを行っていない。・・・
 ・・・さらに、B社がX以外の者が倉庫作業を行うことを許容していたことに照らせば、代替性も認められる。」
・「Xの報酬は、時給計算されており、一定時間労務を提供したことに対する対価といえる。
 しかしながら、本件契約に関する報酬は、XとB社との間で取り決められたものであるし、本件契約の締結に至る経緯等に照らせば、報酬が時間給を基礎に計算され、労働の結果による格差がないといった事情を過度に重視することは相当でない。」
・「本件契約は、本件配送業務請負契約を前提として、倉庫業務について新たに締結されたものである。また、B社からYに送付される請求明細書も配送業務に関するものと一体のものとして送付されているし、Yも、Xに対し、配送業務と区別なく報酬を支払い、請求証明書を交付している。
 そもそも、本件契約の締結については、Yは一切関与しておらず、締結の事実を把握した後も、B社から支払われる金銭の一部を本件配送業務請負契約における帳合料(手数料)と同様に控除して、残額を支払っているのであり、Yにおいては、本件契約は、本件配送業務請負契約においてB社の指示の下で配送業務をXに請け負わせていたのと同様に、倉庫業務についてもXに請け負わせるものであるとの認識を有していたと認めるのが相当である。」
・「Yにおいては、Xのように倉庫業務を行う従業員はおらず、Yの他の労働者(従業員)の勤務の実態とも異なっている。」
・「上記の各事情に照らせば、本件契約について、XがYの指揮監督下において労働し、その対価として賃金の支払いを受ける旨の雇用契約であったと評価することは困難であり、Xは、労働基準法及び労働契約法上の労働者には該当しないというべきである。」
・(枚方職安所長の)「認定は、雇用保険の被保険者資格の取得に関するものであり、当裁判所の判断を拘束するものではないし、同事実を踏まえても上記判断を覆す事情とはいえない。」
・「したがって、本件契約が雇用契約であるとするXの主張は理由がない。」

Ⅱ 判旨
1 Xの労働者性
・「Xは、・・・業務遂行における時間及び場所の拘束を受けていたものである。また、Xは、倉庫作業において、自己の所有する機械や部品を使用することもなく、報酬も時給計算されており一定時間労務を提供したことに対する対価といえるものであった。
 そうすると、倉庫作業において、Xは使用者による指揮監督下で労務を提供し、当該労務提供の対価として報酬を受けていたものと認められるから、労働基準法及び労働契約法上の労働者に当たると解される。」
・「Xにおいて、倉庫作業の勤務時間を変更することやXの代わりの者に倉庫作業を行わせることが可能であったとしても、それらは上記各法律上の労働者であることと必ずしも矛盾するものではないから、これらの事実は上記認定を左右しない。」
2 X・Y間の雇用契約関係の存否
・「本件配送業務請負契約が請負を仮装した労働者派遣に当たるものでないことが明らかであって、真正な請負契約であると認められるから、Xが本件配送業務請負契約のもとにおいてYの雇用する労働者に当たると解することができず、本件配送業務請負契約から直ちにXとYとの間の雇用契約の成立を認めることができないことは明らかである。」
・「倉庫作業の開始に当たり、・・・XとYとが、業務内容や労働条件など雇用契約の要素となる事項を協議し合意した事実は何らうかがえず、また、YがB社らにXとの雇用契約締結のための代理権を予め授与した事実も証拠上何ら見当たらない。
 そうすると、Xが倉庫作業を開始するに当たって、XとYが、倉庫作業を業務内容とする雇用契約を締結したものと認めることもできない。」
・「他方、・・・XとYとの本件配送業務請負契約が真正な請負契約であることに照らすと、XとB社らが別途雇用契約を締結することが妨げられるものではなく、・・・①XとYが倉庫作業開始時点で同作業を業務内容とする雇用契約を締結したとは認められないこと、②Xに倉庫作業に従事させるべく働きかけたのはB社らであったこと、③倉庫作業の報酬額を決定したのもB社らであること、④倉庫作業に関して、Yが配置を含むXの具体的な就業態様を一定の限度であっても決定しうる地位になかったことに照らすと、・・・労働基準法及び労働契約法上の労働者に該当するXと雇用契約を締結したのは、むしろB社又はA社であると解する余地がある・・・。そうすると、・・・倉庫作業においてXが労働基準法及び労働契約法上の労働者であると認められ、かつ、A社、B社、Y、Xという順次請負関係が存在するからといって、単純にXと雇用契約を締結したのがYであると認定することはできない。」
・「Yは、Xが平成25年1月から、B社らの指揮監督の下に豊中倉庫で労働者として倉庫作業に従事していることを平成25年2月中旬頃に認識できた可能性が全くないとまでいうことはできない。
 しかし、仮にYが平成25年2月中旬頃にXが労働者として倉庫作業に従事していることを認識したとしても、そのことから遡及して、Xが倉庫作業を開始した平成25年1月からXとYとの間の雇用契約の成立が認められるものではない。」
・「Yは、終始、倉庫作業におけるXの立場が請負人ではなく労働基準法及び労働契約法上労働者であり、倉庫作業が本件配送業務請負契約とは別個の雇用契約に基づくものであることを正解しておらず、倉庫作業も本件配送業務請負契約に附属するXの事業者としての請負として行われているものという誤った認識をしていたと推認することができる。」
・その他の事情も考慮すると、「Yが請負人と労働者や多重請負と労働者派遣の各相違の法理を適切に本件に当てはめて判断することができずに、上記のような誤った認識をしていたことは無理からぬところといえ、それ自体を不自然ということはできない。」
・「なお、Y代表者が行政官署に対し、倉庫作業がXとの請負契約に基づくものと述べた旨の記録が存在するが、これは上記のような誤った認識のもとに述べられたものであって、倉庫作業が請負契約に基づくものではなく、労働基準法及び労働契約法上の労働者との雇用契約に基づくものに当たるとした場合に、直ちにXとYとの間に雇用契約が成立したことを認める趣旨のものと解することはできず、本件配送業務請負契約とは別個の雇用契約の成否を問題にする以上、これがXとYとの間で締結されたものであるか否かを改めて検討する必要があり、Y代表者の上記の供述から直ちに倉庫作業がXとYの直接の契約関係に基づくものと認定することはできない。」
・「Xは、倉庫作業にかかる作業報酬をYから受領しているが、これはXとB社との間でされた倉庫作業にかかる報酬の支払方法の合意に基づき、B社の支出する金銭がYを介してXに渡されているのであって、Yにおいて独自の計算をしているものではな」いので、「YがB社から帳合料(手数料)としてXの勤務時間1時間あたり100円を受け取っていることを考え合わせても、Yの認識が上記のようなものである以上、これらの事実からYがXとの雇用契約の成立を認めたものと評価することはできない。」
・「Xが倉庫作業の初月分としてB社の支給した報酬額の不満を述べたことを受けて、YがB社に打診し、B社の提示により倉庫作業1時間当たりの報酬額が1100円とされた経緯も、B社、Y、Xという順次請負関係にあるとのYの認識と矛盾するものではなく、かえって、倉庫作業に係る作業報酬額を決定したのがYではなくB社である点は、雇用契約の雇用者であれば発注者と無関係に独自に定めることのできる賃金の決定権がYに属していなかったことを示す事情ともいえるのであり、Yが上記報酬相当額をB社から受領して同額から帳合料を控除してXに交付していたという事情を考慮しても、この点をXとY間の雇用契約の成立を認めるべき事情ということはできない。」
・「他方、B社は、倉庫作業を請負であると認識していたと認められるから、雇用契約の雇用者の地位を意識的にYに引き継がせる意思のなかったことは明らかである。そうすると、いったんXとA社又はB社との間で成立した雇用契約上の雇用者の地位がB社らからYに譲渡されたと解する余地もない。」
・「以上によると、平成25年2月中旬以降においても、Yには、自己がXを雇用する雇用者の地位にあるという認識も、これを他社から引き受けた認識もあったとは認められない。したがって、上記の各事情によっても、平成25年2月中旬以降にXとYとの間に雇用契約が成立したと認めることはできない。」
3 労働者派遣の成否
・「雇用契約は、当事者間の契約の形式にかかわらず成立を認めるべき場合があり、Xが倉庫作業に従事したことが、請負の形式をとったYによる労働者派遣ととらえることができるか否かについて、さらに検討する。」
・「そもそもXは、配送業務に関してYの雇用する労働者ではなかったから、上記法令に照らしても、YがXをB社らの下で本件配送請負契約に基づき配送業務に従事させたことが労働者派遣に当たることはなく、そうすると、その後にXがB社らの下で倉庫作業に従事しても、YがXをB社らの下に労働者派遣したと認めることの形式的前提を欠くというべきである。」
・「また、実質的に検討しても、請負人と労働者は、法律上の取扱いが様々に異なり、そのため注文主と雇用者の責任も大きな相違がある。雇用契約も契約であるから、基本的に雇用者と被用者との間で契約を締結する意思(効果意思)が必要であるところ、元請人、下請人、孫請人と順次、請負契約が成立している状況の下で、孫請人の実態が労働者であるのに下請人との間で請負契約を仮装していたり、下請人において孫請人が元請先で労働者として就労することを予定して孫請人を元請先に差し向けるといういわゆる偽装請負のように下請人が孫請人の雇用者であることを事実上の前提としている場合は別論として、真正な順次請負関係である場合に孫請人が下請人を介することなく元請人の下で孫請業務とは異なる別個の作業に労働者として従事した場合において、下請人の意思とは無関係に、下請人と孫請人との間に雇用契約の成立を認めることは、上記法令の趣旨や労働者の保護を考慮してもなお不当であることが明らかである。そうすると、YがXを本件配送請負契約に基づきB社らの下で配送業務に従事させていたところ、XがYを介することなくB社らの下で配送業務とは異なる倉庫業務に労働者として従事したことによって、Yの意思によらずにXとYとの間に雇用契約が成立することはないというべきである。
 したがって、上記法令によっても、Xが倉庫業務に従事したことが、請負の形式をとったYによる労働者派遣ととらえることはできず、他にXとYの間で雇用契約が成立したことを認めるべき法令上の根拠もない。」
4 行政庁の判断について
・「これらの諸判断は、もともとA社、B社、Y、Xの関係が真正な順次請負関係であったことを適切に評価せず、Yが当初からXを倉庫作業に従事させるためにB社らの下に派遣した事案と同種の見立てをしている点で失当であり、・・・採用することはできない」
5 結論
・「XとYとの間に雇用契約が成立したと認めることはできない。」

Ⅲ 評釈 反対
1 原審と本判決の違い
 原審判決はすでに橋本陽子氏によって評釈され、『ジュリスト』2017年4月号に掲載されている。にもかかわらず、最終結論が同じである本判決を取り上げたのは、原審判決と異なり、Xの労働者性を(正当にも)認めているにもかかわらず、XとYとの間の雇用契約関係を否定するというやや奇妙な判断をしているからである。
 原審判決は、労働者性の判断基準と雇用関係が誰との間に存在するのかの判断基準がごっちゃになった粗雑なものであったが、本判決はそれを的確に分けて考察し、労働者性自体については標準的な判断基準に沿って適切な判断を下しているといえるので、ここではこれ以上論じない。
 しかし、労働法でいう労働者性とは被用者性のことであり、労働者である以上必ず雇用関係の相手方である使用者が存在する。磁石にS極だけ、N極だけというのがあり得ないように、労働者だけ、使用者だけで存在するということはあり得ない。従って、Xの労働者性を認めるということは、Xに労働者性を与えている雇用関係の存在と、その相手方であるXの使用者の存在を論理的前提としているということである。
 にもかかわらず、本判決はYがXの使用者ではないという結論を強調するのみで、では誰がXの使用者であるのかを明示しない。ただ、「Xと雇用契約を締結したのは、むしろB社又はA社であると解する余地がある」と、傍論で曖昧な可能性を示唆するだけである。「解する余地がある」とはどういうことか?「解しない余地も十分ある」ということか?もし、B社やA社をXの使用者と解しないならば、Xは誰かに雇用される労働者であることだけは間違いないが、その誰かは存在しないという、労働者性の定義に反する結論にならざるを得ないが、そういう背理をもたらす可能性を本判決はどこまで意識しているのか不明である。
 本件訴えは、XがYのみを相手取って起こした訴訟であるので、訴外のA社やB社の使用者性について明確にいう必要はないということかもしれないが、仮に本判決を受けてXがA社やB社を相手取って訴訟を起こしたとしても、それでA社やB社の使用者性が否定され、「Xと雇用契約を締結したのは、むしろYであると解する余地がある」と傍論で曖昧な可能性を示唆されてしまっては、両判決を併せて使用者の存在しない労働者だけの存在という背理を実現してしまうことになってしまう。
 従って、かかる背理の可能性を排除するためにも、Yが使用者でないことを論証するためには、A社ないしB社がXの使用者であることを、少なくなくともYよりはXの使用者である可能性が高いことを論証すべきであった。そういう努力を怠って、Xの労働者性を認めながらYの使用者性のみを否定した本判決は論理的に欠陥を有するといわざるを得ない。
 なお、本判決は、職業安定機関、社会保険機関及び労働基準監督機関という3行政機関によるYをXの使用者とする判断を安易に否定しているが、行政機関は裁判所と異なり、Xは労働者であるが誰がその使用者であるかは不明だとか「解する余地がある」といった曖昧な結論でお茶を濁すことは許されず、Xの使用者として労働社会保険料を支払い、使用者責任を果たすべき者を明確にする責務を負っている。かかる責務から逃避したままで、行政機関の判断を表層的に批判して済ませている本判決の態度は無責任といわざるを得ない。

2 雇用契約成立の主観的要件

 まず、本判決が前提としている事実関係を確認しておこう。
①本件配送業務は真正な請負契約であり、A社→B社→Y→Xという順次請負関係にあった。それに対し、本件倉庫作業は雇用関係であり、Xは労働者性を有する。
②本件倉庫作業においてXを指揮命令したのは(A社ないし)B社であるが、両者間に直接明示の契約は設定されていない。
③本件倉庫作業についてYとXの間に直接明示の契約は設定されているが、Yはそれを本件配送業務と同様の真正な請負契約であると認識し、雇用契約と認識していなかった。
 このうち、まず③を抜きにして①と②だけで考えれば、本件倉庫業務について(A社ないし)B社を使用者とする黙示の雇用契約が成立したものと評価しうる状況である。この場合、A社→B社→Y→Xという順次請負関係にある配送業務とは全く別個に、B社から申込みを受けた倉庫業務をB社の指揮命令下に遂行したということになる。
 ただし通常の(個人請負という契約形式をとった)黙示の雇用契約と異なるのは、指揮命令者たるB社が(請負代金という形をとった)賃金の支払主体ではなく、Yを通じた(帳合料を控除した)重層的な請負代金の支払の形をとっていることである。
 仮に、本件倉庫業務についてXとYの間に直接明示の契約関係が存在せず、従前の本件配送業務に係る請負契約しか存在しなかったとするならば、つまりB社とXが結託してYを騙して、配送業務を続けているという契約形式の下で実は倉庫業務を行っていたとするならば、YはXの倉庫業務における労働者性を認識しうる可能性がなく、真正の請負である配送業務の帳合料を差し引いて報酬を支払っているという認識の下で、それとは全く異なる雇用契約である倉庫業務の賃金支払をその認識なく行わされていたに過ぎないことになろう。そうであるならば、YはB社がXとの間で結んだ黙示の雇用契約の使用者たる地位を(派遣元として)引き受けたことにはならず、認識のないまま賃金支払機関の役割を果たしていたに過ぎないことになろう。
 ところが、本件においては原審以来、倉庫作業についてYとXの間に直接明示の契約が設定されていると認定されている。問題は、Yが倉庫作業についても配送業務と全く同様の真正請負関係という法律関係であると認識しているという、いわば法律関係の錯誤をしていたことにある。本件判決は、Yの使用者性を否定する論拠として、この法律関係の錯誤を最大限重視している。
 時系列的に見ていくと、平成25年1月、XがB社の指揮命令下で労働者として倉庫作業を開始したときには、Yはそのことを全く認識していなかったが、翌2月には(労働者性に関する法律認識はともかく)その事実(真正請負契約たる配送業務とは別個の倉庫作業に従事しているということ)については認識し得たと認定されている。この事実に対し、本判決は「そのことから遡及して、Xが倉庫作業を開始した平成25年1月からXとYとの間の雇用契約の成立が認められるものではない」と述べており、それはその通りである。しかし問題は、1月まで遡及せずに、倉庫作業従事を認識した2月中旬以降について雇用契約の成立が認められるか否かである。
 この点について、本判決がいうのは「Yは、終始、倉庫作業におけるXの立場が請負人ではなく労働基準法及び労働契約法上労働者であり、倉庫作業が本件配送業務請負契約とは別個の雇用契約に基づくものであることを正解しておらず、倉庫作業も本件配送業務請負契約に附属するXの事業者としての請負として行われているものという誤った認識をしていたと推認することができる」というYの法律関係の錯誤が、「無理からぬところといえ、それ自体を不自然ということはできない」という主観的事情に過ぎない。かかる主観的事情は、XY間の雇用契約関係の成立を阻却するであろうか?
 一般的に、甲と乙の間で従前真正請負契約で丙業務の労務提供がされており、その後それとは別個に法律的には労働者性を有する丁業務についてやはり請負契約で労務提供がされたという状況がある場合、従前の丙業務が真正請負契約であることは新たな丁業務が黙示の雇用契約であることを妨げるものではない。従前の丙業務が真正請負契約であったことが丁業務の法律的性質を的確に認識することを妨げたことは推測しうるが、だからといって、当事者の誤った主観的認識が法律関係の客観的性質を左右するものではない。おそらくこの点については、本判決は(原審判決と異なり)同見解であろう。それゆえに、やはり同様に本件倉庫作業を請負契約と認識しており、それが雇用契約であるという認識のないA社ないしB社について、B社が指揮命令しているという客観的事実から「労働者に該当するXと雇用契約を締結したのは、むしろB社又はA社であると解する余地がある」と傍論的に述べているのであろう。この場合は、主観的事情が雇用契約の成立を阻却しないことは、本判決も認めている。
 問題はそれが三者間関係になったときに、異なる判断をもたらしうるかである。本判決はそのような立場に立っているようである。しかし、B社であれば請負契約であるという主観的認識が重視されることなく客観的要件に基づいて判断されるにもかかわらず、Yであれば請負契約であるという主観的認識が重視されるというダブルスタンダードを正当化するような条件はないと思われる。
 必ずしも明確に示されている訳ではないが、文章全体から想像するに、本判決は労働者性の判断自体は主観的要件を重視せず客観的要件を主として判断されるべきものであるが、雇用契約の存否はそれが「契約」である以上、主観的要件を重視すべきであるという考え方に立脚しているのではないかとも思われる。「雇用契約も契約であるから、基本的に雇用者と被用者との間で契約を締結する意思(効果意思)が必要である」と述べているのはその現れであろう。そこから、「請負契約を仮装していたり」「いわゆる偽装請負のように・・・場合は別論として」と、問題がありうるのはすべて当事者が悪意の場合であり、あたかも当事者が善意であれば雇用契約の成立はあり得ないかのような叙述が見られる。しかし、それは労働基準法上の労働者概念と労働契約法上の労働者概念を同一と考える以上、間違った考え方である。仮に両者を別物と考え、労働者性は公法たる労働基準法に基づき当事者の善意悪意にかかわりなく客観的要件で判断されるが、雇用契約の存否は私法たる労働契約法に基づき主観的要件を重視して判断するというのであれば、それはそれで一つの理論としてはあり得る議論であるが、本判決自体が繰り返し「労働基準法及び労働契約法上の労働者」と述べているように、そのような区別をしていない。とすれば、「契約」という言葉が出てきてもそれは私法上の法律概念として当事者の主観的認識を重視して判断されるべきものではなく、客観的要件で判断されるべきであろう(問題は「労働者」「契約」という言葉による違いではない。公法と私法で判断基準を分けるというのであれば、労働基準法上の「労働者」「労働契約」と、労働契約法上の「労働者」「労働契約」で異なるということになる。要は、「契約」という文字面に引きずられるべきではないということである)。
 本判決のその後の判断はすべて、Yの主観的認識を根拠に雇用契約の成立を認めがたいということを繰り返している。しかし、B社であれば根拠になり得ない法律的に誤った主観的認識がYであれば根拠になり得るという根本の理由が示されていない。

3 三者間労務供給関係における雇用関係の成否

 本判決は、三者間労務供給関係について、三者間に同時に成立するものとしてではなく、二者間に予め存在する雇用関係を前提に、その使用者の機能が派遣元と派遣先に分配されるものと捉えているように見える。それは、論理的な分析としてそのように考えることは問題ないが、それをあたかも時系列的な順序と考え、三者間関係が成立する以前に二者間関係たる雇用契約関係が存在していなければ、それを前提とした三者間関係は存立し得ないかのように考えるとすればそれは間違いである。
 本判決が「B社は、倉庫作業を請負であると認識していたと認められるから、雇用契約の雇用者の地位を意識的にYに引き継がせる意思のなかったことは明らかである。そうすると、いったんXとA社又はB社との間で成立した雇用契約上の雇用者の地位がB社らからYに譲渡されたと解する余地もない」とか、「そもそもXは、配送業務に関してYの雇用する労働者ではなかったから、上記法令に照らしても、YがXをB社らの下で本件配送請負契約に基づき配送業務に従事させたことが労働者派遣に当たることはなく、そうすると、その後にXがB社らの下で倉庫作業に従事しても、YがXをB社らの下に労働者派遣したと認めることの形式的前提を欠くというべきである」と述べているのは、三者間労務供給関係の成立以前に、時間的に先行して、派遣元と派遣先に分裂する以前の十全たる使用者性を有する使用者と労働者との間の雇用契約関係が存在しなければならないという考え方に基づくものと思われるが、そのような必要は全くない。予めXとA社ないしB社の間に、あるいはXとYの間に雇用契約が存在しなくても、ある一時点で三者同時に三者間労務供給関係が成立することは何ら禁止されていない。三者間労務供給関係の論理的分解は何ら時間的推移を含意するものではない。
 ただし、本件の場合、平成25年1月から2月中旬までは、Yはなお倉庫作業の開始を関知せず、従前の配送業務に係る順次請負関係の認識のもとにいたことから、この間についてはXとB社ないしA社との間に客観的要件に基づき倉庫作業に係る黙示の雇用契約が成立し、Yは三者間労務供給関係の当事者ではなかったと解することが可能であると思われる。この場合、先に述べた「YはXの倉庫業務における労働者性を認識しうる可能性がなく、真正の請負である配送業務の帳合料を差し引いて報酬を支払っているという認識の下で、それとは全く異なる雇用契約である倉庫業務の賃金支払をその認識なく行わされていたに過ぎない」ので、「YはB社がXとの間で結んだ黙示の雇用契約の使用者たる地位を(派遣元として)引き受けたことにはならず、認識のないまま賃金支払機関の役割を果たしていたに過ぎない」という説明が適合する。
 その場合でも、同2月中旬に(請負であるという誤った法的認識で)Xが倉庫作業に従事していることを了知し、(順次請負であるという誤った法的認識で)帳合料を控除してB社から受け取った報酬をXに交付していたのであるから、客観的にXを労働者とする倉庫作業に係る三者間労務供給関係の当事者になったといわなければならない。
 Xを労働者とし、A社ないしB社を指揮命令者とする三者間労務供給関係としては、労働者派遣と労働者供給がありえ、かつそれ以外にはあり得ない。本判決はXの労働者性とA社ないしB社のXに対する指揮命令を認定しているので、本件倉庫作業が(業務請負であれ個人請負であれ)真正の請負である可能性は予め否定されており、Yは派遣元であるか、供給元であるかの二者択一である。XY間に雇用関係が存在し、XとA社ないしB社の間に雇用関係が存在しなければ、この三者間関係は労働者派遣であり、Yは派遣元、A社ないしB社は派遣先となる。XY間に雇用関係が存在しかつXとA社ないしB社の間に雇用関係が存在すれば、この三者間関係は出向型労働者供給である。これに対しXY間に雇用関係が存在せず、XとA社ないしB社の間にも雇用関係が存在しない場合、この三者間関係は本来型労働者供給である可能性が高くなる。ところが本判決は、Xが労働者派遣の主張のみを行い、労働者供給の可能性を何ら主張しなかったからではあるが、労働者派遣の可能性のみを論じ、上述のようにXY間の雇用関係の成立を否定することによって、当該三者間関係の法律的性質をそれ以上吟味していない。もし本判決のいうように、XY間に雇用関係が存在しないにもかかわらず、Xという労働者をA社ないしB社が指揮命令し、かつその対価をB社がYに支払い、そこから名目はともかく一定額を控除してXに支給していたという事実関係が認定されるのであれば、本判決はまさにそう言っているのであるが、この三者間関係は労働者供給以外の何物でもなく、かつ請負という契約形式の元でそれを反復継続してしかも帳合料という名目で利益を上げる営利事業として行っているのであるから、職業安定法の禁ずる労働者供給事業に当たるということにならざるを得ない。ところが、本判決にはそのような認識がほとんど見られない。
 実はここは、労働市場法制の理論的に極めて脆弱な部分であり、出向型でない労働者供給の法律関係の説明がやや破綻しかかっているところでもある。職業安定法上の労働者も基本的に労働基準法及び労働契約法上の労働者と変わらないとすれば、労働者性を認めるということは雇用関係の存在とその相手方である使用者の存在を論理的前提としているはずである。ところが行政解釈や通説では、ここを単に、供給元と労働者の関係は事実上の支配関係であり、供給先と労働者の関係は指揮命令関係であると説明している。素直に聞くと雇用関係も使用者も存在しないかのようである。しかし実はそうではない。職業安定法制定以来一貫して認められてきた労働組合による労働者供給事業においては、供給先が使用者であり、供給先との間に雇用関係が成立することを前提に、事業が運営されている。
 すなわち、本件三者間労務供給関係をもし労働者供給であると考えるならば、A社ないしB社を使用者であると認定してすべての使用者責任を負わせ、かつ、違法な労働者供給事業であるから、供給元たるYも、供給先たるA社ないしB社もともに1年以下の懲役又は100万円以下の罰金を科されるべき罪を犯していると宣言しなければならないはずである。残念ながら(Xがそのような主張をしていないため)本件判決はそのような論理的帰結には全く思い及んでいないように見える。
 とはいえ、このような労働者供給に関する法理論は、労働者派遣法の成立によって極めて例外的な状況下にのみ縮減されたものと考えられる。派遣法成立以前の労働法理論に引きずられがちな論者は、労働者派遣の範囲をできるだけ極小化し、労働者供給の範囲をできるだけ極大化しようとする傾向があるが、原則として違法な労働者供給の中から原則として合法な労働者派遣を概念的に抜き出したという経緯からすると、法律関係の錯誤によって請負であるという誤った主観的認識にあった三者間労務供給関係を客観的な状況に合致する法律関係として再構成する際に依るべき法形式は、その違法性を極端に強調することとなる労働者供給よりも、形式違反の是正にとどまる労働者派遣の方がより適切であると思われる。
 やや皮肉なのは、こういう場合により違法性の低い労働者派遣ではなく違法性の高い労働者供給であるといいたがる議論は、労働者側が主張することが多いにもかかわらず、本件ではXも裁判所もその認識が欠落しているために、結果的に労働者の主張を否定する論拠としてより過激な結論につながりうる議論を無意識のうちに展開してしまった感がある。

正直言うと、原告側の弁護士がもう少し裁判官に労働法のあれこれを勉強させるようなことを持ち出すべきだったんじゃないかという思いが残る事件です。

2018年5月17日 (木)

EUの公益通報者保護指令案

大内伸哉さんのアモーレブログが公益通報についてあれこれ論じているので、

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-c938.html(公益通報とは)

せっかくなので、先月(4月23日)公表されたばかりのEUの公益通報者保護指令案を紹介しておきます。

https://ec.europa.eu/info/sites/info/files/placeholder_8.pdf

Proposal for a DIRECTIVE OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL on the protection of persons reporting on breaches of Union law

いうまでもなく、EUが権限を有するのはEU法に関わることなので、EU法の違反を通報した人を保護するという指令案になるわけですが、実は、これ、人的適用範囲がかなり広くて、そこが興味深いのです。

いやまずその前に、物的適用範囲は狭くて、第1条に羅列している分野の中に労働法関係は含まれていません。まあ、逆に普通労働法は労働法の紛争処理システムがあるべきなので、消費者保護のコロラリーとしての公益通報に労働者保護法まで含まれている日本の法が不思議なのかもしれません。

それより、人的適用範囲です。

Article 2
Personal scope
1. This Directive shall apply to reporting persons working in the private or public sector who acquired information on breaches in a work-related context including, at least, the following:
a) persons having the status of worker, with the meaning of Article 45 TFEU;
b) persons having the status of self-employed, with the meaning of Article 49 TFEU;
c) shareholders and persons belonging to the management body of an undertaking, including non-executive members, as well as volunteers and unpaid trainees;
d) any persons working under the supervision and direction of contractors, subcontractors and suppliers.
2. This Directive shall also apply to reporting persons whose work-based relationship is yet to begin in cases where information concerning a breach has been acquired during the recruitment process or other pre-contractual negotiation.

今、消費者庁で検討している公益通報者保護法の改正では、労働者以外にも拡大しようかという話になっていますが、EUの指令案はそもそも労働者だけではなく、自営業者、株主や経営者、ボランティアや無報酬の訓練生なども含まれています。

思わずのけぞったのは、第d号の「請負業者、下請業者及びサプライヤーの指揮命令の下で就労するすべての者」というのまで入っていて、うむ、こちらの方では、労働法上の議論がかなりできそうです。

2018年5月15日 (火)

日本は正社員を指名解雇できないのか?

労働問題を論じ始めて10年以上もすると、ほとんど大部分のことは、「そういえば、これもかつて一生懸命論じたなあ」という話ばかりになりがちですが(もちろん、AIだの、プラットフォームだの、クラウドだの、新しいネタも次々にやってきて、そちらはそちらで大変ですが)、これもその一つ。

いやあ、未だにこういうレベルの議論なのか、という嘆息も漏れますが、まあそういうのを取り上げつつ、昔の文章をサルベージしていくのも一興ではあります。

http://blog.btrax.com/jp/2018/05/14/work-style-japan/(日本の働き方改革を阻む5つの悪習慣)

外国企業のCEOということなので、日本の雇用システムがどう入り組んでいるかに詳しくないのはやむを得ないのですが、それにしてもトップバッターがこれですか。

1. 正社員を指名解雇できない

おそらく最大の原因がこれ。例え仕事で成果が出せなくても容易に解雇ができないため、プロセスではなく成果中心の働き方の仕組みを作りにくい。言い換えると、結果を出せないスタッフに合わせたマイクロマネージ型の仕組みづくりをしなければならなくなる。・・・

企業側としても、採用をして機能しなかった場合に解雇というオプションが簡単に取れない。おのずと、なるべく採用を抑えて、既存のスタッフでどうにか仕事をこなそうとする。そうなると、無理な仕事が増え、仕事量とリソースのバランスがおかしくなりがちで、結果的に一人当たりの労働時間も長くなってしまう。

その昔某氏に「一知半解」という言葉を使って、イナゴさんが山のように飛んできて大変だったこともあるので、あまりこの言葉を使わない方がいいのですが、重要なのは、こういう言説は必ずしも全く間違っているわけではなくて、確かにある側面からはそうである(だから「一知半解」)のは確かなんだけれども、それはものごとの半面に過ぎないという微妙なところをどう説明するかなんですね。

201402_no71まず、今から4年前に『Business Law Journal』誌に寄稿した割と短文を。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/business-law-jo.html(『Business Law Journal』2月号に「解雇規制の誤解」を寄稿)

 最近、解雇規制をめぐる議論がかまびすしいが、非常に多くの人々が誤解していることがある。それは、日本は他の欧米諸国より解雇規制が厳しいと思われていることだ。経済学者や一部法学者までそういう誤った認識で語る傾向があるのは嘆かわしいことである。
 日本の労働契約法16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇を権利濫用として無効としているに過ぎない。解雇できるのが原則であり、権利濫用は例外である。ところが、その例外が非常に広くなっている。特に、欧米では最も正当な解雇理由である経済上の理由による整理解雇が、日本では最も不当な解雇とみなされているし、能力不足を理由とする解雇もなかなか認められない。しかし、それは解雇規制のせいではなく、企業の人事労務管理が鏡に映っているだけなのである。
 この問題を考える出発点は、日本の「正社員」と呼ばれる労働者の雇用契約が世界的に見て極めて特殊であるという点である。諸外国では就職というのは文字通り「職」、英語で言えば「ジョブ」に就くこと、つまり職務を限定して雇用契約を結ぶことであり、通常勤務地や労働時間も限定される。それに対して日本の「正社員」は、世間で「「就職」じゃなく「就社」だ」といわれるように、職務を限定せずに会社の命令次第でどんな仕事でもやる前提で雇われる。また勤務地や労働時間も限定されないのが普通である。こういう「無限定」社員を、われわれ日本人はごく当たり前だと思っているが、実は世界的には極めて特殊なのである。
 そういう日本型「正社員」は、たまたま会社に命じられた仕事がなくなったからといって簡単に解雇されない。なぜなら、どんな仕事でも、どんな場所でも働くという約束なのだから、会社側には別の仕事や事業所に配転する義務があるからである。社内に配転可能である限り解雇は正当とされないのだ。これを労働法の世界では解雇回避努力義務というが、それは「就職」ではなく「就社」した人々だからそうなるのである。
 欧米で一般的な「ジョブ」型の雇用契約では、同一事業場の同一職種を超えて配転することができないので、労使協議など一定の手続を取ることを前提として、整理解雇は正当なものとみなされる。それに対して日本型「正社員」の場合は、雇用契約でどんな仕事でもどんな場所でも配転させると約束しているため、整理解雇はそれだけ認められにくくなる。
 日本は解雇規制が厳しすぎるのではない。解雇規制が適用される雇用契約の性格が「なんでもやらせるからその仕事がなくてもクビにはしない」「何でもやるからその仕事がなくてもクビにはされない」という特殊な約束になっているだけなのだ。ヨーロッパ並みに整理解雇ができるようにするためには、まず「何でもやらせる」ことになっている「正社員」の雇用契約のあり方を見直し、職務限定、勤務地限定の正社員を創り出していくことが不可欠の前提であろう。

わかる人にはこれで十分だろうと思いますが、なかなか分かろうとしない人も居るので、もう一つ、先日サルベージした2013年の産業競争力会議雇用・人材分科会の有識者ヒアリングの議事録から。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf

(濱口総括研究員)
  私からは若干広く今後の労働法制のあり方について、雇用システムという観点からお話をさせていただく。
 ここ半年近くの議論について感じていることを申し上げる。雇用というものが法律で規制されている、その法規制が岩盤であるといった言い方で批判をされているが、どうも根本的にその認識にずれがあるのではないかと感じている。
 むしろ私が思うのは、現代の日本では特にこの雇用・労働分野については法規制が乏しい、ある意味で欠如しているがゆえに、慣行というものが生の形で規制的な力をもたらしている。そのメカニズムを誤解して、法規制が諸悪の根源であるという形で議論をすると、かえって議論が混迷することになるのではないかと思っている。それゆえ、まずは問題の根源である日本型の雇用システムからお話をしたい。
 本当はこれだけでも1時間や2時間かかる議論だが、ごくざっくりとお話をすると、雇用のあり方を私はごく単純にジョブ型とメンバーシップ型とに分けている。日本以外は基本的にジョブ型。日本も、法律上ではジョブ型。
 ジョブ型とは、職務や労働時間、勤務地が原則限定されるもの。入るときも欠員補充という形で就「職」をする。日本は、就「職」はほとんどせず、会社に入る。「職」に就くのだから、「職」がなくなるというのは実は最も正当な解雇理由になる。欧米・アジア諸国は全てこれだし、日本の実定法上も本来はジョブ型。
 ところが、日本の現実の姿は、メンバーシップ型と呼んでいるが、職務も労働時間も勤務地も原則無限定。新卒一括採用で、「職」に就くのではなく、会社に入る。これは最高裁の判例法理で、契約上、絶対に他の「職」には回さないと言っていない限りは、配転を受け入れる義務があり、それを拒否すると懲戒解雇されても文句は言えないことになっている。
 それだけの強大な人事権を持っているので、逆に、配転が可能な限り、解雇は正当とされにくくなる。一方、残業を拒否したり配転を拒否したりすれば、それは解雇の正当な理由になる。日本の実定法は、そのようにしろと言っているわけではなく、むしろ逆である。にもかかわらず、いわば日本の企業が、もう少し正確に言うと人事部が、それを作り上げ、そして、企業別組合がそれに乗っかり、役所は雇用調整助成金のような形で、端からそれを応援してきたというだけのこと。しかしながら、法規制が欠如していることによって、これが全面に出てくる。
 実は1980年代までは、メンバーシップ型のシステムが日本の競争力の源泉だと称賛をされていた。ところが、1990年代以降は、いろいろな理由でメンバーシップ型の正社員が縮小し、そこからこぼれ落ちた方々は、パート、アルバイト型の非正規労働者になってきた。とりわけ新卒の若者が不本意な非正規になってきたことが社会問題化されてきた。一方、正社員はハッピーかというと、いわゆるメンバーシップ型を前提に働かせておきながら、長期的な保障もないといういわゆるブラック企業現象が問題になってきている。
 したがって、求められているのは規制改革ではない。規制があるからではなく、規制がないからいろいろな問題が出ている。雇用内容規制が極小化されるとともに、その代償として雇用保障が極大化されているメンバーシップ型の正社員のパッケージと、労働条件や雇用保障が極小化されている非正規のパッケージ、この二者択一をどうやっていくかというのがまさに今、求められていることだろう。一言で言うと、今、必要なのはシステム改革であって、それを規制改革だと誤解すると、いろいろな問題が生じてくる。
 以下、規制改革であると誤解することによる問題を述べる。
 まず、一番大きなものが解雇規制の問題である。非常に多くの方々が、労働契約法第16条が解雇を規制していると誤解し、人によってはこれが諸悪の根源だと言う方もいるのだが、これは客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない解雇を権利濫用として無効とすると言っているだけである。つまり、これは規制をしておらず、それまでの判例法理を文章化しただけである。
 本来、権利濫用というのは、権利を行使するのが当たり前で、例外として権利濫用を無効とするというだけなのだが、その権利濫用という例外が、現実には極大化している。なぜかというと、裁判官が何も考えず勝手に増やしたわけではなく、そこに持ち込まれる事案がメンバーシップ型の正社員のケースが圧倒的に多いため。彼らは職務も労働時間も勤務地も原則無限定だから、会社側には社内に配転をする権利があるし、労働者側にはそれを受け入れる義務がある。そうであるならば、例えば会社から「濱口君、来週から北海道で営業してくれたまえ」と言われれば受けなければならない人を、たまたまその仕事がなくなったからといって整理解雇することが認められるかと言えば、それはできないだろう。つまり規制の問題ではなく、まさにシステムの問題。
 日本よりヨーロッパの方が整理解雇しやすいと言われている。それは事実としてはそのとおりだが、法体系、法規制そのものはヨーロッパの方が非常に事細かに規制をしている。それではなぜヨーロッパは、整理解雇が日本に比べてしやすいと見えるのかというと、それはそもそも仕事と場所が決まっており、会社側には配転を命ずる権利がないから。権利がないのに、いざというときにしてはいけないことをやれと命ずることができないのは当然。逆に日本は会社にその権利があるから、いざというときにはその権利を行使しろということになる。
 そうすると、この法律はどうできるのかという話になる。単純に労働契約法第16条を、例えば客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない権利濫用であっても有効であるとするのは、だめなものはだめと書いているのをだめなことはいいと書きかえろと言っているだけの話なので、それは法理上不可能。気に食わないからこれを削除してしまったらどうなるかと言えば、これは2003年以前の状態に戻るだけ。まさに八代先生が、その規定が全くない状態でどうするかということを議論されていたときに戻るだけなので、実はそんなものは何の意味もない。逆に皮肉だが、欧州並みに解雇規制を法律上設ければ、その例外、すなわち解雇できる場合というのも明確化される。これは別にこうしろという意味ではなくて、例えばこんなことが考えられるだろう。
 使用者は次の各号の場合を除き、労働者を解雇してはならない。
 一 労働者が重大な非行を行った場合
 二 労働者が労働契約に定める職務を遂行する能力に欠ける場合
 三 企業経営上の理由により労働契約に定める職務が消滅または縮小する場合
 当然、職務が縮小する場合は対象者を公正に選定しなければならないし、また、組合や従業員代表と協議しなければならない。実はこれは今とあまり変わらない。何が違うかというと、労働契約に定める職務というものが定められていなくて何でもしなければならないのであれば、要するに回せる職務がある限りはこれに当たらないということが明確化するということ。すなわち、規制がない状態から規制を作るというのも、1つの規制改革であろうというのがここで申し上げたいこと。
 解雇についてはもう一点。いわゆる金銭解決という問題があるが、これもまた多くの方々がかなり誤解しているのは、日本の実定法上で解雇を金銭解決してはならないなどという、そんなばかげた法律はどこにもない。かつ、現実に金銭解決は山のようにある。金銭解決ができない、正確に言うと金銭解決の判決が出せないのは、裁判所で解雇無効の判決が出た場合のみ。判決に至るまでに和解すれば、それはほとんど金銭解決しているということだし、あるいは同じ裁判所でも労働審判という形をとれば、それはほとんど金銭解決をしていることになる。行政機関である労働局のあっせんであれば、金銭解決しているのが3割で、残りは金銭解決すらしていない。いわば泣き寝入りの方がむしろ多い。そこまで来ないものもあるので、現実に日本で行われている解雇のうち金銭解決ができないから問題であるというのは、実は氷山の一角というよりも、本当に上澄みの一部だけ。
 むしろ問題は、私は労働局のあっせん事案を千数百件ほど分析したが、3割しか解決していないというのも問題だが、解決している事案についても、例えば解決金の平均は約17万円であるということ。労働審判の方は大体100万円であることを考えると、金銭解決の基準が明確になっていないために、非常に低額の解決をもたらしているか、あるいは解決すらしていないことになる。大企業の正社員でお金のある人ほど裁判ができるが、そうではない中小零細企業になればなるほど、あるいは非正規になればなるほど裁判はできない。弁護士を頼むということもできず、低額の解決あるいは未解決になっていることに着目をして、まさに中小零細企業あるいは非正規の労働者の保護という観点から、解雇の金銭解決を法律に定めていくことに意味があるのではないか。
 ドイツの法律を前提として解雇無効の場合にも金銭解決ができるという書き方をしても、そんなものは解雇の判決の後だけの話なのだから、その前には役に立たないということを言う人がいるが、ドイツでは、労働裁判所に年間数十万件の案件が来ているが、圧倒的大部分は実は判決に至る前の和解で解決している。なぜ解決できるかというと、法律で金銭解決の基準が定まっているから。
 もう一つ言うと、日本の場合、金銭解決というと必ずドイツ式が議論される。ドイツは、社会的に不当な解雇は無効であるとした上で、無効であっても金銭解決はできるとなっている。しかし、実はイギリスやフランスなどヨーロッパの多くの国々は、もちろん不当な解雇がいいなどという法律はないが、不当な解雇だから必ず無効になるというわけでもなく、その場合、金銭解決をすることがむしろ原則となっており、また、悪質な場合には裁判官が復職、再雇用を命ずることができるという規定もある。不当な解雇の効果、法的な効果をどうするかということについて、既存の判例をそのまま法律にしなければいけないと思えば別だが、そうではなく、新しく作るということであれば、実はヨーロッパのいろいろな国々の法システムの中には参考になるものがあるのではないか。以上が解雇についての誤解を解くお話。

(長谷川主査)
 ジョブ型とメンバーシップ型に関して教えていただきたい。ジョブ型であれば地域限定であろうが、職務限定であろうが、それがなくなれば解雇できる。一方、メンバーシップ型の正社員は、人事そのものが無限定で、配置転換、残業、いろいろな裁量権の下にある。したがって、解雇についても、慣行上のものもあるが、いろいろな制約が事実上ついているという話だと理解している。私自身の経験では、ドイツでもアメリカでも働いたが、ジョブ型であっても配置転換がある。
 ただ、日本と大きく違うのは、欧米では、配置転換にはほとんど必ずプロモーションが伴う。そうでないと本人にもインセンティブが全くないから。だから職種が違ったり、本来ここでしか働かない人がどこかに変わるときには、本人の能力をより生かすためのプロモーションを伴ってやることで、ほとんど問題が生じない。ところが、日本では、かつていわゆるローテーションという形で全く必然性もなく配置転換を行っていた。例えば北海道から九州に配置転換をする必然性がなくても、会社のローテーションでやったりしたという事実はある。今はそういうこともおそらく大企業では変わっていっているし、中小企業でも、事業所が辺鄙なところにもあって、その辺鄙なところからまた極端に辺鄙なところに行くということもないだろうから、実態が変わりつつあることに鑑みれば、もう少し実態に合わせた形で慣行でもいいし、法規制でもいいが、変えることが可能ではないか。その辺についてどうお考えになるか。 ・・・

(濱口総括研究員) ・・・
前半の方だが、基本的に企業に一方的な配転の権限はないと私は認識している。プロモーションを伴うというのは、本人が同意している、あるいはむしろ希望しているからそこに就くということだろう。根本的なことを言うと、まず日本は、上から下まで全部同じ労働者だと言われる。これは多分、戦後の平等主義の下で、全部同じ労働者であるという発想。係員島耕作から社長島耕作まで一連のつながりであるという認識の下にいろいろな議論がされるということは、欧米と比較するときの最大の誤解の元なのではないかと思う。
 基本的に企業には配転の権限がない。雇用契約で限られているということが前提。これは少なくともいろいろな労働法でそのようになっている。もちろんプロモーションもあるが、基本的にはそのプロモーションも、この職位が空いた、この課長職が空いたので、やりたい人はいるかというもの。これは外から入れる場合もそうだし、中で内部昇進する場合でも、基本的にはそういう発想。まさにジョブ型の発想でやっているがゆえに、その仕事ができるかという形で物事は動く。その仕事があるのか、ずっと続くのか、それともなくなるのかという形で議論ができる。日本はそれも人事部の胸先三寸で動いていく形になっているので、そこが一番違うのではないか。
 2番目の中小は違うというのは、実はおっしゃるとおり。ジョブ型、ジョブ型と言うが、日本の中小企業なんてそんなに回るところなんてないのだから、実はジョブ型ではないかという言い方をされることがある。これは半分正しくて、半分間違っていると思う。つまり別にこのジョブに限るという意識はどこにもない。
 そういう意味では非常に小さなメンバーシップ型だが、配転の余地がいっぱいあるわけではないので、事実上、その企業自体、中小零細企業自体がその仕事ができなくなれば、会社自体と運命を共にするのはある意味で当たり前だろうと思うのだが、そこがジョブ型という形で明示的に意識されているわけではないというのが1つ。また、先ほど申し上げたように、そもそも弁護士に高いお金を払って裁判所に持ってこられるのは、大体大企業の正社員が中心になるので、中小企業は違うのは確かにそうだと思うが、中小企業が違うというロジックが、それとしてはなかなか確立しにくいという面はあるかと思う。
 ここはどう考えるかだが、やはり中小企業だから違うというロジックは、法の論理としては立てにくいだろう。ただ、まさに実態として回す余地がないのだから、解雇は当然だろうという形で議論がされていけばいいわけで、そこはまさに回す余地があるかどうかということが、法律の中できちんと明示的にわかるようになることが一番重要ではないかと思っている。
 最後に、実態が変わってきているというふうにおっしゃられた。そうかもしれないが、1つは判例法理というのは過去の日本の、特に1980年代までのメンバーシップ型のシステムが猛威を振るっていたというか、非常に誇らしく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていたころに確立したもの。当然のことながら、裁判所も別に固定観念でやっているわけではなく、例えば外資系企業でこの仕事という形で就けたようなものについては、実はフレキシブルにというか、この仕事に就けたのだから、この仕事ができなければアウトだろうという判断をしている。
 ただ、どうしても普通の日本の会社の普通の正社員ということであれば、今までの延長線上で判断することになるので、そこはむしろ実態が変わってきているということが世の中で明らかにというか、裁判官の目にわかるような形になっていないということではないか。あるいはそれが変わってきているとすれば、変わってきているということがその判断基準できちんとすくい取れるような法規制があればすくい取れるが、それがないがゆえに、単に言いわけしていると聞こえるということではないか。

2018年5月14日 (月)

海老原嗣生『「AIで仕事がなくなる」論のウソ』

2977海老原嗣生さんより『「AIで仕事がなくなる」論のウソ この先15年の現実的な雇用シフト』(イースト・プレス)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2977

AIで人の仕事が消滅する…・…。
研究者によって「20年以内に49%の仕事が消える」との予測が出て以来、
「AIで仕事がなくなる」という論説が巷間に溢れだした。AIで仕事から解放されるという楽観視、AIで職にあぶれた貧困者が続出するという悲観視。いずれにせよ、不確実な未来予想をもとにした、煽情的な論が多い。
実際のところ、近い将来の雇用はどうなっていくのか? AIは救世主か?亡国者か?雇用のカリスマがひもとく「足元の未来予想図」。井上智洋准教授をはじめ、専門家や各職種のスペシャリストとの対談を収録

いやちょっと待って。これって、つい数ヶ月前に出た『HRmics』28号のAI特集の再利用じゃないですか?

ぱらぱらとめくると、確かに読んだ記憶のある文章が。ただ、そうじゃないところもあり、確認すると、結構文章が追加されたりしています。その意味では『Hrmics』の増補版ですね。

総論のところで山本勲さんが登場し、実務面の検証で、リクルート人事部の二人とAIBI論者の井上智洋さんが登場するのも同じです。

雑誌の時もそうですが、今回の本の最大のメッセージは、実はタイトルの「AIで仕事がなくなる」は当面嘘だけれども、それよりむしろ重要なのは、「すき間労働社会」になってしまうんだぞ、ということでしょう。

岸健二編『業界と職種がわかる本 ’20年版』

9613_1526004436岸健二編『業界と職種がわかる本 ’20年版』(成美堂出版)をお送りいただきました。毎年ありがとうございます。

http://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415226910/

就職活動をする学生のために、業界や職種を11業種・8職種にまとめ、業界の現状、仕事内容などを紹介。
就職活動の流れや最新採用動向も掲載。就職活動の基本である業界職種研究の対策書として最適な一冊。
自分に合った業界・職種を見つけ就職活動に臨む準備ができる。

例によって、編者の岸健二さんの最近のエッセイを、労働調査会のコラムから:

http://www.chosakai.co.jp/information/alacarte/20632/(新入社員のみなさん就業規則を読みましたか?)

今月社会人となられたみなさん、混雑の中の通勤、職場の雰囲気に馴染みはじめていますでしょうか?
 筆者が初めて社会人になったころは、入社の時に「就業規則」が冊子で配布されました。今はおそらく多くの会社において社内コンピュータシステムの中に「誰でもいつでも見られるように」あるはずです。これは労働基準法第106条によって皆さんが入社した会社が、みなさんをはじめとした従業員に周知を義務付けられていることによって、システムの中に設置されているのです。
 いわゆる「仕事をするにあたってのルールブック」ですので、必ず目を通してください。可能であればダウンロードして自宅でも見られるようにしておくことをお勧めします。併せて就業規則、賃金規程、退職金規程、慶弔見舞金規程、旅費規程、育児休業規定、介護休業規定などが付属していることも多いです。細かいお金の定めやお休みのルールも大事ですが、まずは就業規則の本文を読んでください。・・・

・・・そして、ずっと今いる企業に勤め続けるとしても、「働き方改革」の波が全く来ないということはありえません。その時に自分の勤務先がどのように人事制度を変え、どのように社員の皆さんに働いてもらおうと考えているのかを知るためにも、今のルールを保管しておいて、その時にどうルールを変えたのかを新旧比較して理解しておく必要があると考えるのです。そのことは単に「働く側」の立場としてだけではなく、将来管理職となって部下を監督する立場になった時にも、起業するなり、入社した会社の社長あるいは関連会社の社長となって「人材を雇う」立場になった時にも必要なことなのです。
 「ルールを明確に示して人材を雇うこと」「公明なルールに従ってビジネスパーソンとして働くこと」双方がますます大事な時代になってきています。そんな時代に社会人になったみなさんが、働くルール、働かせるルールをよく知って社会に貢献することを何より願ってやまないのです。

働き始めた若い人々への思いが感じられるエッセイです。

2018年5月13日 (日)

産業競争力会議雇用・人材分科会有識者ヒアリング(2013年11月)

あまりにもねじれにねじれ、枝葉末節ばかりに迷い込んでしまっている現下の議論の惨状を見るにつけ、5年前に官邸の産業競争力会議に呼ばれてしゃべった時の議事録なんぞを再読していると、こういう本質の議論がいかにい雲散霧消してしまっているのかが嘆息されます。

労働時間規制の問題とは、本来どのように論じるべきであり、そしてどのように論じるべきではないかを、自分ながら手際よく見事に整理している発言だと思うので、ここらでお蔵出し。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf

(濱口総括研究員) ・・・3つ目は、労働時間規制の問題。これも非常に多くの方々が誤解をしている。つまり、日本の労働時間規制は極めて厳しいという誤った認識の下に、ここ10年、20年の法政策というのは、その厳しい労働時間規制をいかに緩和するかということでのみ執られてきたが、私はこれは全く見当外れだと思っている。
 日本は過半数組合または過半数代表者との労使協定、いわゆる36協定さえあれば、事実上無限定の時間外休日労働が許される。かつて女子は、1日2時間、年150時間という上限があった。それゆえに監督官が、夜に行って女性がいれば自動的に摘発できたが、今はできない。お金を払っていないということでなければ摘発できない。
 これだけ緩いので、日本はいまだに、今から100年前にできたIL0の労働時間関係条約ただの1つも批准できていない。非常に皮肉なのは、労災保険の過労死認定基準では、例えば月100時間を超える時間外労働は、業務と発症との関連性が強いと評価されるが、しかし、だからと言って月100時間を超える時間外労働は、労働基準法上は違法ではない。これこそ、日本の労働時間規制の最大の問題ではないかと思っている。
 にもかかわらず、多くの企業が日本の労働時間規制が厳しいと誤解するには理由がある。それは、同じ労働基準法の労働時間の章に入っている労働基準法第37条の残業代規制。これは単に時間外休日労働をさせたら、これだけのお金を払えと言っているだけなので、実は労働時間規制ではなく、賃金規制。しかし、その賃金規制の適用除外は、物理的労働時間規制と同じく管理監督者に限られている。そのために管理監督者でない限りは、残業すれば、あるいは休日出勤すればきちんと残業代を払え、割増賃金を払えとなっている。
 そして労働基準法施行規則第19条によって、これは時給であれ、日給であれ、週給であれ、月給であれ、そしてその他、例えば具体的には年俸であっても、管理監督者でない限りは時間当たり幾らに割り戻して25%、月60時間を超えると50%という割増賃金を払わなければならないとなっている。これはまさに法規制である。
 つまり、国家権力が規制しているという名に値するのは実はこの部分だけ。規制なので違反したら監督官がやってきて、払えとなるわけだが、考えてみると、これは例えば時給800円の非正規が1時間残業したら1,000円払え、年収800万円を時給換算すると4,000円ぐらいになるが、この高給社員が1時間残業したら5,000円払え、払わなければ違法であるということ。しかし、これは本当に刑事罰をもって強制しなければならないほどの正義であるかというのは、議論の余地があるだろうと思っている。
 したがって、問題はある意味で厳しい残業代規制をどうするかという話でなければならなかったはずだが、かつての規制改革会議は、ホワイトカラーエグゼンプションというものを仕事と育児の両立を可能にする多様な働き方であるという言い方をされていた。私はこのような言い方をしたことが問題を混迷させたのではないかと思っている。
 当時日本経済団体連合会は、これは労働時間と賃金が過度に厳格にリンケージされていることが問題なんだ、それでは昼間たらたら働いて、夜いつまでも残っている人間のほうが高い給料をもらっていくことになってしまう、これはおかしいのではないかという非常にまともなことを言っていた。ところが、それが表に出なかった。そして、ワーク・ライフ・バランスのためのホワイトカラーエグゼンプションだという議論に対して、労働者側は、これは過労死促進であると反論した。私はまっとうな反論であったと思っている。
 ただ、実はエグゼンプトだから過労死するのではなくて、エグゼンプトでなくてもその組合が結んでいる36協定で無制限の残業をやらせたら、やはり過労死するので、エグゼンプトが諸悪の根源というわけではない。物理的な時間規制がないというところに問題があるのだが、少なくとも過労死促進だという議論は、それはそれで正当である。こういうかみ合わない議論のまま建議が2006年の年末に出され、2007年の年始にこれが新聞に出た途端に残業代ゼロ法案であるとか、残業代ピンハネ法案であるという、本来はそれでなければならないことが、あたかもそれが一番悪いことであるかのような批判がなされ、結局それでつぶれてしまった。これは大変皮肉なことであって、本来の目的である残業代問題が一番言ってはならないことになってしまった。そのために、いまだにこの問題、エグゼンプションの問題が労働時間と賃金のリンケージを外すという本来の目的ではなく、ワーク・ライフ・バランスといったような議論になってしまっているところに、かつての議論の歪みがいまだに糸を引いているのではないかと思っている。
 この関係で言うと、ホワイトカラーエグゼンプション自体はそういう形で今から6~7年前に失敗したが、その前に作られた、そして、現在も存在している企画業務型裁量労働制についても、私は、根本的に疑問を持っている。そもそも、いわゆる総合職のホワイトカラーの場合、職務が無限定なので、彼らにこの人は企画業務、この人は非企画業務などという職務区分が存在するはずがない。みんな何がしか企画的なことをし、そしてルーティン的なことをしているはず。上位にいけばいくほど企画的な割合が高まるだけである。専門業務型の場合は少なくとも業務という形にはなっているのだろうと思うが、そうではない総合職のホワイトカラーの世界に企画業務などという虚構のものを作り出して議論したことによって、今の企画業務型裁量制自体がかなり歪んだ制度になっているのではないかと思っている。
 ただ、それを言い出すと、労働基準法が作られたときから存在する管理監督者にしても、実は日本に管理職などというのがいるのか。いるではないかとお考えかもしれないが、本来管理職というのは職種である。職業分類表には管理的職業、専門的職業、事務的職業、製造職業と並んで置いてある。日本で同じような意味で管理的職業というものが存在しているかというと、私は存在していないと思う。メディカルスクールを出て医師になる、ロースクールを出て弁護士になるのと同じように、ビジネススクールを出て管理という職業に就くというふうにおそらく意識はされていない。単に総合職のホワイトカラーの一定ラインより上が管理職である。それは単なる地位であるから、管理の仕事をしていない管理職というのが出てくのも当然である。したがって、元々労働基準法自体はジョブ型を前提としており、管理職というのはビジネススクールとかグランゼコールを出て管理という仕事に就く人間を前提としているが、そうなっていない。いわゆる名ばかり管理職といった問題が常に出てくるのも、やはりそこに根源があるのではないかと思っている。
 ではどうするかだが、とにかく現実にこういった無限定の働き方をしている方々を前提とした残業代規制のあり方がどうあるべきかということを考えるのであれば、基本的には6~7年前にエグゼンプションが議論されたときに、本音の議論として、年収要件という話があった。ただ、そのときは、大企業ならばいいが、中小企業であれば管理職だってその年収要件に至らないという話があってうまくいかなかったということもあるので、おそらくそれをクリアする仕組みとして考えられるのは、企業内における地位。上位から何パーセントという形が実は一番ふさわしいのではないかと思っている。これはあくまでも無限定的な働き方をするメンバーシップ型の正社員の中で、連続的により上になればなるほど企画的な仕事の割合が増えていく。どこで線を引くか。それは基本的には労使で決める話だが、その目安としては業務ということではなくて、企業内における地位、上から何パーセントといったものが一番ふさわしいのだろうと思っている。
 それとともに、先ほど来申し上げているように、日本の労働時間規制の最大の問題は、物理的な労働時間規制がないという点。したがって、健康確保のための労働時間のセーフティネットをきちんと確保することが必要で、当面何らかの根拠としては現在、存在する過労死認定基準としての月100時間ということになろうかと思う。しかし、ヨーロッパ各国で存在している1日ごとの休息時間規制といった、いわゆる勤務時間インターバルというものを基本的なシステムとして導入することも考えるべきではないか。残業代とは関係のない物理的な労働時間規制というものの必要性がむしろ重要であろうと思っている。

(八代教授)
 過去に厚生労働省が出した原案に年間104日の強制休業という労働時間規制もあったことが、全く報道されていなかった。仮にこれが実現していれば、本来、残業代とは無関係なきちんとした労働時間規制になっていたのではないか。EUの1日11時間というのがちょっと難しいと思うのは、本当に締切りがある仕事だとそれが守れないため。だから年間全体として過労死を防ぐために、とにかく忙しい仕事が終わったらきちんと休暇をとる。こういう規制はどうか。
 
(濱口総括研究員)
 むしろここで私が申し上げたかったことは、個々の制度設計の問題というよりも、一体この制度は何を目指しているものなのかということ。本質的に言うと、ある種のホワイトカラーの働き方というものが、決して労働時間の長さに比例した成果を出すのではないということから来ているはずだと私は思っている。これはホワイトカラーエグゼンプションのときの日本経済団体連合会の出した提言もそのように書いてあるし、実は企画業務型裁量制が議論され出した1990年代初頭の議論もそこから始まっている。それにもかかわらず、厚生労働省もそうなのだが、これをワーク・ライフ・バランスができるというような言い方でやろうとしたところにボタンのかけ違いがあったのだろう。
  一旦そういう形で話がされ、これは過労死促進策だという話になってしまうと、話がことごとく食い違ってしまう。それをもう一度本来の筋道に戻して議論した方がいいのではないか。実はつい先日、規制改革会議に日本労働組合総連合会が呼ばれて、労働時間規制についての意見を開陳した模様。私は出された資料を見ただけだが、そこでは、まさに健康確保や労働時間規制の必要性についてはいろいろ書いてあるが、残業代が一番大事だなどということは書いていない。それは彼らとしても、一部のマスコミや政治家のような残業代ゼロが一番諸悪の根源だという発想に立っていないということなので、実はそこに着目すれば、もう少しまともな議論ができるのではないか。むしろそういう形で議論してほしい。

(長谷川主査) ・・・ 裁量労働の問題について究極のところは、濱口さんは上位から何パーセントとかでエグゼンプションとするのが適切ではないかというお話をされたが、これについても実際の私の海外での経験からいくと、ホワイトカラーのエグゼンプトは新入社員からで、その代わり個室をもらい、秘書がつくという形。
 日本も企画業務だとかそうでないだとか、あるいは賃金、年俸で区切ると企業による差、特に大企業と中小企業の差もあり難しい。ただ、時間で縛られない働き方は、ワーク・ライフ・バランスをある程度助けるものでもある。欧米の場合は、家に必ずと言っていいほど地下室があって、そこにオフィスを持っており、仕事を持って帰っても家族に邪魔されない、あるいは邪魔されずに仕事をしようとすればできるという環境があるから、早く帰って子供と遊んで、遅くなって子供が寝たら、地下のオフィスで仕事をしようということも可能。特にコンピュータの時代になればそういうことも全く問題ない。そういう違いはあるにしても、時間管理になじまないものがあって、先生がおっしゃるようにエグゼンプションを中高位何パーセントからとすれば、これは非組合員、管理職と同じことになり、いわゆる組合員ではあるが、そういう時間管理になじまない者には全く適用されない。その辺についてどうお考えか。
 
(濱口総括研究員)
 後の方がわかりやすいので、先にそちらから先にお答えするが、全くおっしゃるとおり。つまりここで私が上位から何パーセントと言ったのは、日本のメンバーシップ型の社会を前提にすれば、こういうふうにするしかないよという話。ところが、日本の法律もそうだし、どこの国の法律もエグゼンプトというときの管理監督者というのは入ったときから管理監督者。それはビジネススクールやグランゼコールを出て初めから管理職見習いとして入り、2年か3年ぐらいすれば見習いが取れて管理職として働く。初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっているだけだと。ところが、日本はそうではない。
 先ほど日本には管理職という職種が存在しないと申し上げたのはそこ。日本は、管理職のエグゼンプトですら、係員島耕作が係長島耕作になって、課長島耕作になったらエグゼンプトだと言っているだけの話。この中高位というものが、昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている。機能としては管理していない者をみんな昔は管理職に放り込んでいたのが、そういう無駄なことはできなくなったので、管理職を少数精鋭に絞れば、自ずから、そこらからこぼれ落ちる人が出てくる。ところが、賃金制度は依然として年功制だから、非常に高い給料をもらっている。高い給料をもらっているけれども、管理の仕事はしていないし、昔みたいに管理職に就かないので、残業代を払わなければならない。おかしいだろうと。私はまさにそこに矛盾があると思っている。
 もし、本当に世の中ががらっと変われるのであれば、つまり企業の人事部がメンバーシップ型からジョブ型に全部変わるというのであれば、まさに今おっしゃったのが本来の姿、法の本来の趣旨ではある。しかし、それはすぐにできないだろうということ、かつ、昔であればみんな管理職に放り込まれていった人がそうでなくなってきていて、そこをどうするかということに対応するのであれば、こういった上位から何パーセントというのが、メンバーシップ型を維持していることを前提とした上での話になる。これは管理監督の仕事、これは企画の仕事、これは何の仕事というジョブで人事管理をするようになれば、当然それでできる。しかし、現実にはそうでないということを前提としてお話している。 ・・・

 

 

 

2018年5月12日 (土)

スティーブン・ヴォーゲル on 働き方改革

42 カリフォルニア大学バークレー校のスティーブン・ヴォーゲルさんは、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』のエズラ・ヴォーゲルさんの息子さんですが、ご自身も日本政治経済の研究者として活躍されており、先日、東洋経済オンラインに「働き方改革は案外バカにできない成果を生む 少なくとも男女平等にようやく向かう」という文章を寄稿しています。

https://toyokeizai.net/articles/-/219903

目下、国会で審議されている働き方改革。が、審議は詳細な条項について集中しているため、大局を見失いがちだ。しかし、日本には、露骨な性差別のような雇用システムにおける最悪の諸欠陥の一部を改善すると同時に、生産性を高めるというユニークなチャンスもある。
日本がそうした「ウィンウィン」の成果に達するという保証はない。だが、それだけに日本の政治家や官僚、経営者、労働組合代表、労働者、そして国民も含めて誰もががその成果を勝ち取るために努力をしなければならない。・・・

まあ、政治家、政治部記者、政治評論家、政治学者といった人々にとっては、働き方改革法案の細かな中身なんかより安倍政権を倒せるか倒せないかという政局の方が百万倍大事なのでしょうが、そうではないもっとまっとうなものの見方をアメリカの政治学者が諭してくれます。

実は、このスティーブン・ヴォーゲルさん、ちょうど4年前に来日した時に、私にも話を聞きに来られたことがあります。実にブリリアントな方だという印象でした。

日本は、政府が労働市場問題にかなりの焦点を当てているという点で、非常にユニークである。安倍晋三政権はこれを「働き方改革国会」と宣言し、そしてまたいわゆる「人づくり革命」としての教育と、職業訓練の再検討にも大きな努力を注いできた。
このため、日本において問題なのは政治的な意思ではなく、政策の内容と、それを職場レベルで実施することである。果たして政府はそれをきちんと理解できるだろうか。そして、雇用主は政府の政策に従うだろうか。

そう、実は問題の本質はそこにあります。

現在、日本には同一労働同一賃金と労働時間削減のような社会民主主義的な目標を推進する保守与党がある。確かに自民党は左派野党と同じ理由からこれらの政策を支持しているわけでも、また野党と同じ方法でこれらを実施するわけではない。自民党は同一の権利の推進よりも、労働力の増大、生産性の向上、消費への刺激、そして出生率の上昇に関心を抱いている。

この後の文章が実にいい意味で政治学者の本領発揮で、日本の近視眼的な政治評論家には求めてもなかなか得られないものですが、

にもかかわらず自民党および野党は労働改革の主要な部分について同意している。ある労働組合代表は私に向かってこう嘆いた。「自民党幹部は利口だ。彼らは選挙に勝ちたがっている。そのため彼らは野党から最高のアイデアを奪い、自分たちのものにしようとしている」
事実、これは自民党の伝統的な戦略だ。自民党幹部は1970年代にはより強力な環境保護と、より高額な社会福祉への支出という野党の提案を採用していた。小泉純一郎元首相は、2000年代に自民党が恩顧主義的であり腐敗しているという野党による批判を受け入れた。そして今、安倍首相は女性活躍の推進と労働生活の改善とを受け入れている。・・・

このあたり、野党は常に政府自民党にさきがけてこれから問題となる領域を提起し、将来必要になる的確な政策を提示するという重要な役割を果たしながらも、いざそれが現実化しようという段階になると、それを提起し、実施していくという役割を与党に奪われ、あとから見れば、10年後、20年後、30年後には誰も覚えていないような実につまらない、歴史の屑籠に放り込まれてしまうようなトリビアばかりに熱中してしまう、という歴史の愚行を繰り返してきたわけです。

 

 

 

 

2018年5月11日 (金)

『電機連合NAVI』66号

Navi『電機連合NAVI』66号をお送りいただきました。特集は「実効性のある働き方改革のために労働組合ができることは」で、

なぜ働き方改革が必要なのか 松原光代

改革の時代に、労働組合は何をすべきか 大内伸哉

働き方改革と労働組合 常見陽平

なんと、まともな人は一人だけで、大内さんとか常見さんとか、何を言い出すかわからない危険人物に書かせているではありませんか(笑)。

大内さんは既に自分のアモーレブログで言及していますが、

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/navi-3fc1.html(電機連合NAVIに登場)

「働き方改革」との関連での依頼でしたので,それにからめながら,やや辛口のことを書きました。・・・

辛口というか、いつもの大内節ですね。

・・・近年,労働組合を法的に研究する研究者は激減しているのですが,何とか若手のなかから,運動論から一歩距離を置いた労働組合論をやる人に出てきて欲しいものです。ただ,そのためには,労働組合のほうも,もっと魅力的になってもらわなければ困ります。
 ビジネスの世界でもイノベーションが言われています。組織は変革をしなければ衰退していきます。労働組合も同じです。労働組合は何のための存在か,新たなテクノロジーの発展の前で,労働者のために何をしなければならないのかを考えていかなければなりません。まず組織ありきではなく,労働者の利益を代表するという使命や機能を基礎とした労働組合の大胆な刷新と再編がなければ,労働組合の未来は暗いものとなるでしょう。 

いやだからこそ、大内さんのこの文章の最後に出てくる第4次産業革命ばなしに絡んで、労働組合(とは限らないかもしれませんが)集団的労使関係システムの使い方を真剣に考えていく必要があるのではないかと、私もあちこちでしゃべったり書いたりしているのですが。

http://www.ilo.org/tokyo/fow/WCMS_591267/lang--ja/index.htm(「仕事の未来」インタビューシリーズ第1回)

http://www.works-i.com/column/policy/1803_01/(メンバーシップ型・ジョブ型の「次」の模索が始まっている)

連合の事務局長談話

5月8日付で連合の相原事務局長名の談話が出ています。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/article_detail.php?id=969(第196通常国会 後半国会に向けた談話)

かなりの「政治的」文章なので、その意図するところが伝わるべきところにはきちんと伝わるように重要なキーワードを入れ込みながら、あまりその意図が露骨に出過ぎないように表現がやや奥歯にものが挟まったようなものになっており、もしかしたら一定の解説が必要かもしれません。

1.国会の正常化を前向きに受け止める
 2018年5月8日、半月余りにわたって与野党が激しく対立していた国会が正常 化した。同時に、4月末に審議入りした働き方改革関連法案について、立憲民主党・国民民主党が準備してきたそれぞれの対案を、国会に提出した。会期末が6月20日に迫る中、諸問題の真相究明と働き方や生活に直結する課題の真摯な議論につながるものとして、今回の動きを歓迎したい。

これは素人でもわかりやすいでしょう。正常化を歓迎するということは、これまでの非正常な状態は歓迎できない、もっとはっきり言えば、「会期末が6月20日に迫る中」で、時間を無為に費やしているんじゃねえよ!という気持ちが喉元あたりにあるのをこらえた表現であるわけです。さっさと「働き方や生活に直結する課題の真摯な議論」をやれ、ということですね。

2.政府・与党には真相究明とハラスメントなき社会の実現に向けた行動を求める
 ・・・・加えて、セクハラ問題に関して閣僚等から認識を疑うような言動も継続している。これらは、連合が求める「あらゆるハラスメントなき社会」からは程遠く、断じて看過することはできない。政府は、セクハラを禁止する法制度の導入などを通じ、男女があらゆる場面に平等に参画できる社会づくりに向け、改めて旗を掲げるべきである。

これは正直、急に飛び出してきたトピックであるわけですが、立場上「セクハラを禁止する法制度の導入などを通じ、男女があらゆる場面に平等に参画できる社会づくりに向け、改めて旗を掲げるべきである」ということであって、スキャンダルの追及ばかりにかまけるべきではないという気持ちがにじみ出ているようです。

3.新党「国民民主党」の船出を期待する
 折しも、昨日5月7日、新党「国民民主党」の設立大会が開催された。民進党でもなく、希望の党でもない、全く新しい党として誕生した国民民主党には、衆39名・参23名の計62名が参加した。大塚共同代表・玉木共同代表は、設立大会において、自らの政策を磨き、また、全国の組織基盤を充実、強化する中で、民主主義を守り、国民の期待に応え得る野党勢力の核として役割を発揮したいと訴えた。連合としても、こうした認識にもとづき、国民民主党へ参加した議員一人ひとりの行動に敬意を表すとともに、今後の前進と発展を心から期待したい。

ほんとは頭が痛いことばかりでしょうが、ここはこう言うしかないですね。

で、本題。

4.充実した働き方改革法案審議と働く者の立場に立った法案の実現を求める
 今国会は「働き方改革国会」と銘打たれている。時間外労働の上限規制や非正規雇用労働者の処遇改善に向けた同一労働同一賃金の法整備は待ったなしの課題であるが、政府提出法案に含まれている高度プロフェッショナル制度は実施すべきではない。立憲民主党と国民民主党のそれぞれの持ち味を生かした対案は、働く者のための働き方改革を実現するための、政策パッケージである。後半国会においては、院内外で連合フォーラムに集う国会議員と強力に連携し、構成組織・地方連合会・連合本部が一体となって、働く者の立場に立った法案の実現に全力で取り組む。

3.との関係もこれあり、連合が妙な形で絡んでしまっている政治家にあまりむくつけに言えないところを補いつつ読んでいくと、まず、「時間外労働の上限規制や非正規雇用労働者の処遇改善に向けた同一労働同一賃金の法整備は待ったなしの課題であるが」と、何が最優先課題であるかをよもや忘れるんじゃないぞ、と釘を刺しています。

そこは応援団の連合としてなかなかずばりとは言いにくいのですが、要は、政局至上主義で、政権を倒すことが最優先で、そのためには働き方改革法案を審議未了廃案にしてしまうのが最大の目標であり、功績になるなんて、もし考えているとしたら、とんでもない思い違いだぞ、と強く釘を刺しているのですね。

それに続く「高度プロフェッショナル制度は実施すべきではない」という部分の表現の強さのその前段との明確な違いは、高度プロフェッショナル制度をつぶすためという名目で、肝心要の一番大事な時間外労働の上限規制や同一労働同一賃金をつぶしたりしたら許さないぞ、という思いが、喉元まであふれかえってきているのをなんとか押さえて表層的には緩やかそうな言い方をしているということが窺われます。このあたり、この文章の政治的解読が一番必要な部分でしょう。

国会で労働組合の支援を受ける野党がやるべきことは、法案の修正すべき点をきちんと修正を勝ち取り、それも含めた法案の成立を確保することであって、廃案にすることではないぞ、という暗黙のメッセージが、わかる人にはわかる形でしっかりと埋め込まれているわけです。

通常、国会で労働組合の意を受けた野党がやるのは、要求項目をすべて盛り込んだ対案を提出し、しかし議席数からしてそれが成立する可能性はないので、そのなにがしかを政府法案の修正という形で勝ち取り、それもかなわなければ国会質疑を通じて必要な答弁を勝ち取り、それによってその後の法の施行をコントロールする回路を作ることになります。そのためにも、妙な政局至上主義で時間を浪費されては迷惑千万ですし、質疑もこの法案のここをこうするべきとかといったことに集中すべきだという思いがにじみ出ているわけです。

とはいえ、繰り返しになりますが、そういう野党を応援するしか選択肢がない(本当にそうであるかどうかについては、いささか疑問がありますが、それはさておき)連合としては、あまりむくつけな言い方もできないので、こういう高度の政治的解読が必要な、「作者の気持ちを100字以内で書きなさい」という現代国語のテストの例文か!?といいたくなりような文章になってしまうわけです。

(追記)

水谷研二さんがこのエントリに

http://53317837.at.webry.info/201805/article_10.html

なお、連合の「本音」については濱口さんが克明に解説してくれた。連合側は何ら反論できないだろう(苦笑)。

とコメントされていますが、いやいや、私はこの連合の真意こそが労働者の立場として全くまっとうであって、政治家の政局至上主義に巻き込まれたある種の運動家の方がまったく間違っていると思いますけどね。

今現在、ILO第1号条約すら批准できない時間外労働無制限という状況をそのままにしてもいいから、とにかく憎い政権を倒すために政府法案をつぶせというのは、言葉の正確な意味で全く反労働者的スタンスの極みだと思いますよ。

まあ、その辺は、昔から変わらない政治と労働運動の関係をめぐるあれこれであるわけですが。

ちなみに、この後のスティーブン・ヴォーゲルさんのエントリで、こうはっきりと述べていますので、誤解の余地はないはずです。まあ、「誤解」というよりも、わざと「作者の気持ち」を曲解したのかもしれませんけど

このあたり、野党は常に政府自民党にさきがけてこれから問題となる領域を提起し、将来必要になる的確な政策を提示するという重要な役割を果たしながらも、いざそれが現実化しようという段階になると、それを提起し、実施していくという役割を与党に奪われ、あとから見れば、10年後、20年後、30年後には誰も覚えていないような実につまらない、歴史の屑籠に放り込まれてしまうようなトリビアばかりに熱中してしまう、という歴史の愚行を繰り返してきたわけです。

 

 

 

2018年5月10日 (木)

『日本労働法学会誌』131号「雇用社会の変容と労働契約終了の法理」

Isbn9784589039378 『日本労働法学会誌』131号(「雇用社会の変容と労働契約終了の法理」)が届きました。昨年10月15日に、小樽商科大学で開催された大シンポジウムの記録が収録されています。

http://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03937-8

「労働契約終了の理論課題-「攻撃的」雇用終了と言う視角」野田 進(九州大学名誉教授)
 
「雇用終了のルールの明確化とその紛争解決制度の課題-解雇のルールとあっせん制度を中心に」山下 昇(九州大学)

「労働者の能力・適性評価と雇用終了法理-AI時代の到来に際して」龔 敏(久留米大学)

「雇用終了における人選基準法理-なぜ私なのか?」柳澤 武(名城大学)

「解雇過程における使用者の説明・協議義務」所 浩代(福岡大学)

「労働契約終了と合意」川口 美貴(関西大学)

シンポジウム記録では、私は龔敏さんと川口美貴さんに質問をしています。

小林美希『ルポ 保育格差』

355593小林美希さんの『ルポ 保育格差』(岩波新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b355593.html

依然として解消されない待機児童問題.しかし,どこでも入れればいいというはずはない.果たして中でどのような保育が行われているのか.園によって大きな違いがあるのはなぜなのか.さらに,卒園後の学童保育での実態はどうなっているのか? 事実上,保育所は選べないなか,運次第で受けられる保育の質に格差があっていいのか.

岩波新書は私も本を出しているレーベルなのですが、一番老舗で伝統あるものである一方で、ややジャーナリスティックに過ぎるのではないかという感じの本もあったりして、例えば中公新書と比べて評価が難しいところがあります。

この『ルポ なになに』系の本にその傾向がやや強く、週刊誌的あおりが出過ぎじゃないかという感想が湧いたりします。

せっかくお送りいただいたのにけちを付けるようでやや心苦しいのですが、とにかく最初のあおりが正直ちょっとひどいのじゃないかという印象があり、その後の有意義な章を読みながらも、なかなか最初の印象が消えませんでした。

いやもちろん、保育の本として売る上では、その消費者である親の気持ちをあおり立てるのが一番いいのは確かでしょう。でも、第1章で、悪い保育士の行状をこれでもかこれでもかと並べ立て、しかも、これが私が一番違和感を感じたところですが、それを第2章以降の保育所経営者の問題であるよりも、保育士のものの考え方がなってないからだと言わんばかりのストーリーにつなげていくところは、それってモンスターペアレントの主張をあおり立てるブラック企業のロジックと相似形ではないかとすら感じるところがありました。

・・・岸部優子さん(仮名、39歳)は、そろそろ夏休みだという頃、突然、担任から、「お盆は育休中の方は登園しないようご協力してもらってます。そう決まっていますので」と言われ、寝耳に水の状態となった。

二人目の子が生まれたばかり、夫は長時間労働で当てにならず、実家は遠い。頼れる友達が近くに居るわけでもない。産後で体力も回復しないまま、岸部さんは“ワンオペ育児”も同然の状況だ。深夜の頻回授乳や夜泣きで日中は朦朧とする中で、三歳の子を保育所に預けられるからこそ虐待しないですんでいると、日々実感している。そんな事情はまるで無視して、主任まで「働いていないのに子供を来させるなんて、それはないな!保育所は福祉施設ですよ。お盆も登園なんて、なんておこがましいことをいっているんですか」と矛盾したことをいう。「なんとかお父さんに仕事を調整してもらってください」と繰り返し、お盆に休ませようと必死だ。岸部さんは「夫の仕事のスケジュールを保育園に併せろというのか」と、腹立たしくなった。・・・・

いやもちろん、ここで描かれている岸部さんの姿は長時間労働社会日本のあちらこちらに見られるものでしょう。しかし、だからこそそれを、「夫の仕事のスケジュールを保育園に併せろというのか」と一蹴して、その社会的矛盾のツケをすべて保育士に負わせるのが正義であるかのような、あえて言いますが週毎にあおればそれでいい週刊誌的正義感レベルで書かれると、頭を抱えてしまいます。

そこをきちんと、日本社会の矛盾の露呈として捉え、ミクロレベルので薄っぺらな正義感で書かないのが、少なくとも新書本の矜恃なのではないか、と、申し訳ありませんが、私は感じます。

安易にこいつが悪者というわかりやすい敵を作って読者に迎合するのではなく、様々な利害の絡み合いの中で矛盾が深まっているそのありのままの姿を、それをどう解きほぐしたらいいのかと読者に本気で考えさせるような、少なくとも社会問題を取り上げるのであれば、そんな本があるべきすがたではないかと、まあ、私は勝手に思っているので。

ここは人によっていろいろな意見があるところでしょうが、わたしはそう感じました。それがあるからこそ、次の第2章で、保育所の人件費比率の低さ、とりわけ保育者人件費比率の低さを追求していく、そしてその原因として委託費の弾力運用という問題点を指摘する重要な所を読み進めながらも、第1章で見たあのやたらな消費者目線がちくちくしてしまいます。

いや、この第2章で指摘されている論点はすごく大事なことです。朝霞市議の黒川滋さんも登場しています。84ページ以降です。

2018年5月 9日 (水)

国際女性の地位協会シンポジウムの動画がyoutubeにアップ

一昨年の8月、国際女性の地位協会が開くシンポジウムに出席したことはその時にお知らせしましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-b818.html (国際女性の地位協会シンポジウム)

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その時の動画が昨日になってyoutubeにアップされたようです。

私の講演は28分あたりから50分あたりまでです。

飛び入りの山口一男さんのコメントののち、1時間34分あたりから私が質疑応答をしています。

 

国民民主党と立憲民主党の働き方改革法案対案

まあ、政治家が政局で動くのは本能ですから仕方がないのですが、立法府というのはいかなる政策、立法があるべきかを正面から議論し、まさにその次元で斬り合うべき所だという理念からすれば、いささか情けない姿が展開されていたわけですが、ようやく2つの野党から働き方改革法案の対案が提出されたようです。

国民民主党(以下「国民党」という)のはここにありますが、「安心労働社会実現法案」と称していますが、いくつかに分かれているようです。

https://www.dpfp.or.jp/2018/05/08/%E3%80%8C%E5%AE%89%E5%BF%83%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A1%86%E9%99%A2%E3%81%AB%E6%8F%90%E5%87%BA/

立憲民主党(以下「立民党」という)のはこれで、こちらは「人間らしい質の高い働き方を実現するための法律案」というタイトルで、閣法と同様まとめて一本のようです。

https://cdp-japan.jp/news/20180508_0436

ざっと見た感じではほぼよく似た感じで、いろいろあって別れざるを得なかったけど作った人の発想はそれほど変わらないようにも見えます。

ただ、時間外の上限は、国民党が閣法と同じであるのに対し、立民党は単月80時間、複数月60時間とより厳格にしています。

雇用対策法に「正規雇用(無期、直接、フルタイム)原則」とか「本人が希望する場合の正規労働者としての雇用」が入っているのも共通です。

同一同一関係はちょっと違って、国民党が労契法に「職務の価値の適正な評価」云々と同一価値労働志向なのに対して、立民党のは「合理的と認められない待遇の相違の禁止」と、やや労働法学者的なこだわりが見えます。

一番違うのは、国民党案にあるパワハラ規制の安全衛生法改正部分が立民党案にないことです。

これ、本ブログでも何回か取り上げたように、情報労連出身の石橋議員が熱心にやっていた話なんですが、彼が民進党でやった結果は国民党案に盛り込まれていて、彼が今回入った立民党案には入っていないというなんだか皮肉な事態になっています。

この部分は、私もどうなるのかと期待していた部分でもあるので、せっかくなので、その法文を引用しておきます。

第七章の三 労働者に苦痛を与えるおそれのある言動に関する措置

(業務上の優位性を利用して行われる労働者に苦痛を与えるおそれのある言動に関し事業者の講ずべき措置)
第七十一条の五 事業者は、その労働者に対し当該事業者若しくはその従業者が、その労働者に対し当該事業者以外の事業を行う者若しくは当該者の従業者が、又はその労働者以外の労働者に対し当該事業者若しくはその従業者が、当該労働者との間における業務上の優位性を利用して行う当該労働者に精神的又は身体的な苦痛を与えるおそれのある言動であつて業務上適正な範囲を超えるものが行われ、及び当該言動により当該労働者の職場環境が害されることのないよう、その従業者に対する周知及び啓発、当該言動に係る実態の把握、その労働者からの相談に応じ適切に対応するために必要な体制の整備、当該言動を受けた労働者及び当該言動を行つた者に係る迅速かつ適切な対応その他の必要な措置を講じなければならない。
2 厚生労働大臣は、前項の規定により事業者が講ずべき措置に関して、その適切かつ有効な実施を図るため必要な指針(以下この条において「指針」という。)を定めるものとする。
3 厚生労働大臣は、指針を定めるに当たつては、第一項の言動を受けた労働者の利益の保護に特に配慮するものとする。
4 厚生労働大臣は、指針を定めようとするときは、あらかじめ、労働政策審議会の意見を聴くものとする。
5 厚生労働大臣は、指針を定めたときは、遅滞なく、これを公表するものとする。
6 前三項の規定は、指針の変更について準用する。

(消費者対応業務の遂行に関連して行われる労働者に苦痛を与えるおそれのある言動に関し事業者の講ずべき措置)
第七十一条の六 事業者は、その労働者を消費者対応業務(個人に対する物又は役務の提供その他これに準ずる事業活動に係る業務のうち、その相手方に接し、又は応対して行うもの(事業を行う者又はその従業者に専ら接し、又は応対して行うものを除く。)であつて、厚生労働省令で定めるものをいう。以下この条において同じ。)に従事させる場合には、当該労働者に対しその消費者対応業務の遂行に関連して行われる当該労働者に業務上受忍すべき範囲を超えて精神的又は身体的な苦痛を与えるおそれのある言動(当該労働者と業務上の関係を有する者により行われるものを除く。)により、当該労働者の職場環境が害されることのないよう、当該消費者対応業務の態様に応じ、当該労働者の職場において当該言動に適切に対処するために必要な体制の整備、当該労働者からの相談に応じ適切に対応するために必要な体制の整備その他の必要な措置を講じなければならない。
2 厚生労働大臣は、前項の規定により事業者が講ずべき措置に関して、その適切かつ有効な実施を図るため必要な指針を定めるものとする。
3 前条第四項及び第五項の規定は、前項の指針の策定及び変更について準用する。4 その消費者対応業務の全部又は一部を委託する者は、当該委託を受けた事業者が当該委託に係る消費者対応業務について第一項の規定により講ずべき措置を適切かつ有効に実施することができるよう、必要な配慮を行うものとする。

(助言、指導及び勧告並びに公表)
第七十一条の七 厚生労働大臣は、第七十一条の五第一項及び前条第一項の規定の施行に関し必要があると認めるときは、事業者に対し、助言、指導又は勧告をすることができる。
2 厚生労働大臣は、第七十一条の五第一項又は前条第一項の規定に違反している事業者に対し、前項の規定による勧告をした場合において、その勧告を受けた者がこれに従わなかつたときは、その旨を公表することができる。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/2017525-29fe.html(「民進党のパワハラ防止法案?」@『労基旬報』2017年5月25日号)

『労基旬報』2017年5月25日号に「民進党のパワハラ防止法案?」を寄稿しました。内容は、『情報労連REPORT』4月号に載っていた石橋通宏参議院議員のインタビュー記事のほぼ忠実な紹介です。ちょうど先週金曜日に厚生労働省で職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会が開始されたところでもあり、一つの議論の素材として有用ではないかと思います。

2018年5月 7日 (月)

UAゼンセン18組合が勤務間インターバルを獲得

23e51cea3a6f078407c02dfb8f53a4d1400大事なのは物理的労働時間の規制であって残業代じゃないと言い続けてもう10年以上経ちましたが、世の中には依然として残業代ゼロを声高に批判するばかりのゼニカネ至上主義者が絶えないようですが、とはいえ労働現場からは少しずつものごとの方向性を変えようという動きも着実に進んできているようで、ピョンヤン版じゃない『労働新聞』には、「18組合導入方向に 勤務間インターバル UAゼンセン」という記事が出ています。

https://www.rodo.co.jp/news/45021/

UAゼンセン(松浦昭彦会長)加盟の18組合が、今春闘(4月段階)で勤務間インターバル規制の導入に向け妥結したことが分かった。勤務と翌日の勤務の間に一定の休息時間を設けて労働時間に絶対的上限を設ける健康確保対策である。

 時間が長い順に労組の名前を挙げると、「11時間」がイズミヤ労組、ウエルシアユニオン、イオン労連イオングローバルSCMの3組合、「10時間」がセブン&アイ労連イトーヨーカドー労組、全ユニー労組、ビックカメラ労組、イオン労連イオンマーケット労組、イオン労連OPAユニオン、さとう労組、SSUAザ・クロックハウスユニオン、イオン労連イオンファンタジー労組、すかいらーく労連トマトアンドアソシエイツ労組の9組合、「9時間」がテンアライド労組、コナミスポーツクラブ労組の2組合、「8時間」がダスキン労組、島忠労組、まるごう労組の3組合で、10時間を11時間に拡充したアークスグループ労連ラルズ労組を加えた18組合となっている。

まあ、情報労連の傘下組合でもそうでしたが、EU基準の11時間ばかりじゃなく、8時間とかいうのもあるので、まあなかなか道は遠い面もあるのですが、それでも圧倒的に多くの労働組合がその8時間のインターバルすら獲得し得ていないことを考えれば、これでも立派な一歩と言うべきでしょう。

Sekaiこの問題についてはこの十数年間繰り返し同じことばかり論じてきた気がしますが、改めてもう11年前に当時ホワイトカラーエグゼンプションが話題になっていたときに雑誌『世界』に載せた「ホワイトカラーエグゼンプションの虚構と真実」を再読していただければと思います。この時の水準から一歩も進んでいない議論が横行しすぎているように思いますので。

1 ねじれの構造

 ホワイトカラーエグゼンプションをめぐる最大の問題点は、マスコミや政治家のレベルにおいては、本来問題とすべきではないことが問題とされ、真に問題とすべきことが後ろに隠れてしまっていることである。
 以下順次説明していこう。多くのマスコミや政治家にとっては、ホワイトカラーエグゼンプションはサラリーマンから残業代を取り上げる制度であるがゆえに、慎重に対処すべきものであるらしい。ことごとに「残業代ゼロ」と言いつのる朝日新聞の編集部も似たような発想であろう。しかし、残業代がゼロであることはなにゆえに悪いことなのか、きちんとした説明がされたことはない。確かに、現行労働基準法第37条は、管理監督者でない限り時間外労働に対しては25%の割増賃金を払うことを義務づけている。これに反して残業代を払わなければ「サービス残業」として摘発され、膨大な未払残業代を払わされることになる。しかし、立法論としてそれがどこまで正当化しうるものなのかは、少なくとも政治的なレベルでは論じられていない。後述するように、この点については日本の法制はヨーロッパ諸国よりも過剰に厳格であり、規制を緩和する正当性は大いにある。
 しかしながら、ここで正当性があるのは時間外手当支払い義務という規制の緩和であって、労働時間規制の緩和ではない。現在提起されようとしているホワイトカラーエグゼンプションの最大の問題点は、それが時間外手当の適用除外にとどまらず、労働時間規制そのものを適用除外しようとするところにあるのだ。労働基準法の条文で言えば、第37条にとどまらず、第32条及び第36条が適用されなくなってしまうという点に問題があるのである。どういう問題があるのか。生命と健康である。労働時間規制とはゼニカネのためのものではない。労働者の生命と健康を守るためにある。これ以上長時間働いては生命と健康に危険だ、というのが労働時間規制の最大の目的である以上、これを外すことには慎重でなければならない。さもなければ過労死や過労自殺が続出する危険性すらあろう。ところが、この最大の問題点は、審議会における労働組合側の主張では繰り返し提起されていたにもかかわらず、マスコミや政治は余り関心を持っていないようだ。・・・・

2 時間外手当エグゼンプションの正当性

 ・・・・工場労働者を念頭に置けば、賃金支払い形態が月給制になったからといって、残業手当が払われなくなるなどということは許されないであろう。しかしながら、事務部門の従来から月給制であったいわゆるサラリーマンについてまで、全て一旦時間給に割り戻すという仕組みにしたことは行き過ぎであったように思われる。
 その意味では、ホワイトカラーエグゼンプションの導入という形で提起されている問題は、実は戦後労基則第19条によって封印された戦前型の純粋月給制を復活すべきか否かという問題に他ならないと言える。従って、その是非の決め手も、労働時間規制のあり方如何などというところにあるはずもなく、賃金法政策として、ワークとペイの全面的切り離しをどこまで認めるのかという点にあるはずである。
 最近は成果主義賃金制度がかなり広まってきて、年俸制の対象となる労働者も増えてきている。しかしながら、現行法制度の下では、管理監督者でない限り、年俸制といえども月払いの日給制であり、1時間あたりの単価に割増率をかけて時間外手当を算定しなければならないというのが建前である。これはあまりにも現実とかけ離れた法規制であるし、何よりも、現実に成果主義人事のもとで働いている技術部門や事務部門の労働者にとって、そのような法規制には次第に正当性が感じられなくなりつつあるのではないだろうか。
 この点で一昨年興味深い判決があった、モルガンスタンレー事件(東京地判平成17年10月19日)である。年間基本給が2200万円、ボーナスがそれ以上という超高給サラリーマンである原告が時間外手当の支給を求めたこの事件の判決で、難波孝一裁判官は「基本給の中に時間外労働の対価も含まれている」として請求を棄却した。労働法学者が述べるように「本判決は労基法の解釈としては容認し得ない」(『ジュリスト』1315号の橋本陽子評釈)ものではあるが、立法論としては、百人中99人までが時間外手当の不支給に賛成するであろう。
 それだけではなく、労基則第19条によって法律上支払わなければならない時間外割増賃金が、労働者の側で自らの成果に対応しない正当性の薄いものと認識されることによって、堂々とそれを請求することがしにくくなり、そのことが賃金だけの問題ではなく、本来労働安全衛生の観点からの刑罰法規であるはずの実体的労働時間規制を空洞化するという逆効果をもたらしているように思われる。いわゆるサービス残業は、時間外労働に対応する賃金を払わないからという理由で悪いのではなく、使用者が労働時間を適確に把握しないまま実体的な長時間労働を野放しにすることになり、かえって労働安全衛生上危険な事態を招くことになるから問題なのではないだろうか。むしろ、そういう労働者については、賃金と労働時間のリンクを切り離した上で、安全衛生に係る刑罰法規としての実体的労働時間規制を強化する方向が望ましいように思われる。この問題は、ただ「サービス残業許すまじ」と唱えていればすむ問題ではない。

3 労働時間規制の必要性

 そもそも、労働時間はなぜ規制されるのか。労働者の生命と健康を確保するためではないのか。働きすぎで身体や精神の健康を害し、場合によっては過労死や過労自殺といった事態を引き起こすことのないように、物理的な労働時間を規制しているのではないのか。その意味では、ここ20年近くの時短政策は、労働時間を健康問題として捉える視点を失わせる方向に進んできていたように見える。健康に直接関わる時間外労働の上限は何ら規制しないまま、法定労働時間を週48時間から週40時間に短縮することに集中してきた時短政策のツケが回ってきているのかも知れない。
 しかしながら、労働時間を健康という観点から見る政策は既に広がってきている。現在の脳・心臓疾患の労災認定基準では、発症前1ヶ月間に月100時間以上あるいは発症前2~6ヶ月間に月80時間以上時間外労働した場合には、業務と発症との関連性が強いとしている。また、2005年の労働安全衛生法改正により、月100時間を超える時間外労働をした労働者に対して医師が面接指導を行い、それに基づいて労働時間の制限や休養、療養といった措置を講ずる義務が使用者に課された。
 時間外手当はアメリカに倣って適用除外することはできる。しかし、過労死した労働者に対する労災補償は適用除外できない。一部の労働組合は、「過労死やメンタルヘルスなどの健康被害が生じた場合の使用者責任を免除してしまう同制度」(全労連の6月14日談話)と、ホワイトカラーエグゼンプションによって労災補償責任が免除されるかのごとき発言をしているが、労働時間制度のいかんによって客観的な因果関係が変わるわけではない。まして、安全配慮義務に基づく労災民事賠償ともなれば、過労死するまで放置したとして億単位の賠償金を払わなければならないこともありうるのである。  ・・・・

4 EU型の休息期間規制を

 「労働時間の長短ではなく成果や能力などにより評価されることがふさわしい労働者」であっても、健康確保のために、睡眠不足に由来する疲労の蓄積を防止しなければならず、そのために在社時間や拘束時間はきちんと規制されなければならない。この大原則から出発して、どのような制度の在り方が考えられるだろうか。
 実は、日本経団連が2005年6月に発表した「ホワイトカラー・エグゼンプションに関する提言」では、「労働時間の概念を、賃金計算の基礎となる時間と健康確保のための在社時間や拘束時間とで分けて考えることが、ホワイトカラーに真に適した労働時間制度を構築するための第一歩」と述べ、「労働者の健康確保の面からは、睡眠不足に由来する疲労の蓄積を防止するなどの観点から、在社時間や拘束時間を基準として適切な措置を講ずることとしてもさほど大きな問題はない」と、明確に在社時間・拘束時間規制を提起している。
 私は、在社時間や拘束時間の上限という形よりも、それ以外の時間、すなわち会社に拘束されていない時間--休息期間の下限を定める方がよりその目的にそぐうと考える。上述の2005年労働安全衛生法改正のもとになった検討会の議事録においては、和田攻座長から、6時間以上睡眠をとった場合は、医学的には脳・心臓疾患のリスクはほとんどないが、5時間未満だと脳・心臓疾患の増加が医学的に証明されているという説明がなされている。毎日6時間以上睡眠時間がとれるようにするためには、それに最低限の日常生活に必要不可欠な数時間をプラスした一定時間の休息期間を確保することが最低ラインというべきであろう。
 この点で参考になるのが、EUの労働時間指令である。この指令はEU加盟各国で法律となり、すべての企業と労働者を拘束している。EUでは、労働時間法政策は労働安全衛生法政策の一環として位置づけられており、それゆえに同指令も日、週及び年ごとの休息期間を定めるとともに、深夜業に一定の規制を行っているが、賃金に関しては一切介入していない。つまり時間外手当がいくら払われるべきか、あるいはそもそも払われるべきか否かも含めて、EUはなんら規制をしていないのである。労働者の生命や健康と関わる実体的労働時間は一切規制しないくせに、ゼニカネに関することだけはしっかり規制するアメリカとは実に対照的である。各国レベルで見ても、時間外手当の規制は労働協約でなされているのが普通であり、法律の規定があっても労働協約で異なる扱いをすることができるようになっている。たとえばドイツでも、1994年の新労働時間法までは法律で時間外労働に対する割増賃金の規定があったが、同改正で廃止されている。
 EUの労働時間指令において最も重要な概念は「休息期間」という概念である。そこでは、労働者は24時間ごとに少なくとも継続11時間の休息期間をとる権利を有する。通常は拘束時間の上限は13時間ということになるが、仮に仕事が大変忙しくてある日は夜中の2時まで働いたとすれば、その翌朝は早くても午後1時に出勤ということになる。睡眠時間や心身を休める時間を確保することが重要なのである。
 これはホワイトカラーエグゼンプションの対象となる管理職の手前の人だけの話ではない。これまで労働時間規制が適用除外されてきた管理職も含めて、休息期間を確保することが現在の労働時間法政策の最も重要な課題であるはずである。これに加えて、週休の確保と、一定日数以上の連続休暇の確保、この3つの「休」の確保によって、ホワイトカラーエグゼンプションは正当性のある制度として実施することができるであろう。

2018年5月 6日 (日)

マルクス200年で中国が銅像っていう話

K10011428521_1805060816_1805060920_ いやもう、話が二重、三重、四重くらいにねじれて、何をどう語ったらいいのかよくわからないくらいあまりにも奇怪すぎてまっとうに見えさえする話題が載ってました。マルクス生誕200年記念に、中国が、ドイツのトリーアにマルクスの銅像を寄贈したそうです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180506/k10011428521000.html

旧ソビエトや中国など共産主義国家の成立に大きな影響を与えた思想家、カール・マルクスの生誕200年に合わせて、出身地のドイツ西部の町に中国政府からマルクスの銅像が贈られ、5日、披露されました。
「資本論」などで知られる思想家、カール・マルクスは、資本主義社会を分析して社会主義革命の必然性を主張し、旧ソビエトや中国などの共産主義国家の成立に大きな影響を与えました。
マルクスの生誕から200年となった5日、出身地のドイツ西部トリーアでは、友好の証しとして中国政府から贈られた銅像が披露されました。高さ5.5メートルの銅像は中国の彫刻家が制作したもので、マルクスが書物を手に歩く姿が表現されています。
披露式典では中国の国務院新聞弁公室の郭衛民副主任があいさつし、「中国共産党はマルクス主義を継承し、中国の実情に合わせて発展させている」と述べ、マルクスと中国とのつながりを強調しました。また、トリーア市のライベ市長は「銅像はマルクスがこの市で生まれたからこそ贈られた友好の証しだ」と歓迎しました。
銅像の受け入れをめぐっては、マルクスに対する評価が分かれていることなどから地元で大きな議論となり、この日も賛成と反対のグループがそれぞれ市内をデモ行進しました。このうち、反対デモに参加した人は「マルクスは数百万人もの共産主義の犠牲者に対する間接的な責任がある」と抗議していました。

いやしかし、かつての毛沢東時代の(まあ、それもマルクスの思想とは似ても似つかぬものだという批判が妥当だとは思いますが)少なくともやっている当人たちの主観的意識においてはマルクスとレーニンの思想にのっとって共産主義を実現すべく一生懸命頑張っていた時代の中国ならいざ知らず、日本よりもアメリよりも、言うまでもなくマルクスの祖国ドイツよりもはるかに純粋に近い(言い換えればむき出しの、社会的規制の乏しい)資本主義社会をやらかしておいて、それを円滑にやるための労働運動や消費者運動を押さえつけるために共産党独裁体制をうまく使っている、ある意味でシカゴ学派の経済学者が心の底から賛辞をささげたくなるような、そんな資本主義の権化みたいな中国が、その資本主義を憎んでいたマルクスの銅像を故郷に送るというのは、19世紀、20世紀、21世紀を貫く最高のブラックユーモアというしかないようにも思われます。

いやもちろん、トリーア市の市長としては、ローマの浴場と中世の教会と近代のマルクスの3点セットで売り出せば観光客もたくさん来てくれる(かもしれない)ので、観光資源としては有難いのでしょうけど。

てなことをつらつら思っていたら、そういえばその昔本ブログでこんな本を取り上げたことがあったなと。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-16fd.html (區龍宇『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』)

20140806g636_2 でかくて、分厚くて、おまけに税抜き4600円と大変高い本ではありますが、今や世界第2位の資本主義大国である中国の労働問題を、ルポとかではなく理論的に分析した本というのはほとんどない現在、それだけの代金を払ってでも読む値打ちのある本でした。

中国をめぐっては、あまりにも多くの解決すべき謎があり、中国を観察する人たちにとって、今後も驚くべきことが少なくなるのではなく、さらに多くなると覚悟しておく必要がある。本書の目的は、もっと限定されている。論争を活発化することのほかに、階級、国家、国家官僚の役割にもう一度焦点を当て、それらの相互関係が近年および将来を規定することを示すことによって、中国のジグソーパズルの欠けたピースを埋めようとすることである。

私の主な関心は第2部の「中国における労働者・農民の抵抗闘争」でしたが、中国の体制イデオロギー諸派を分析した第3部も、少数民族問題を取り扱った第4部も、大変興味深かったです。

日本語版への序文(區龍宇)

序 ジグソーパズルの欠けたピース(區龍宇)

第1部 中国の台頭とそこに内在する矛盾

 中国の台頭とそこに内在する矛盾(區龍宇)

 中国の対外経済進出(區龍宇)

 中国の台頭は不可避なのか、それとも没落の可能性があるのか(ブルーノ・ジュタン)

 毛沢東主義――その功績と限界(ピエール・ルッセ)

第2部 中国における労働者・農民の抵抗闘争

 中国における労働者の抵抗闘争 1989-2009(區龍宇、白瑞雪)

 「主人」から賃奴隷へ――民営化のもとでの中国労働者(區龍宇)

 社会的アパルトヘイト下での使い捨て労働――新しい労働者階級としての農民工(區龍宇)

 中華全国総工会の役割――労働者にとっての意味(白瑞雪)

 新しい希望の兆候――今日の中国における抵抗闘争(區龍宇、白瑞雪)

第3部 中国における新自由主義派と新左派

 中国――グローバル化と民族主義者の反応(區龍宇)

 中国の党・国家はいかに社会主義なのか? 書評 汪暉著『革命の終焉 中国と近代化の限界』(區龍宇)

 薄熙來と「一都市社会主義」の終焉(區龍宇)

 劉暁波氏と中国の自由主義者(區龍宇)

第4部 中国共産党の台湾・チベット・新疆ウイグル政策

 中台関係に関する両岸労働者階級の立場(區龍宇)

 自発的な連合か強制的な統一か――中国共産党のチベット政策(區龍宇)

 二重の抑圧――新疆短評(區龍宇)

 香港のオルタ・グローバリゼーション運動(區龍宇)

著者は香港のマルクス主義者です。中国に何千万人といる共産党員の中に誰一人いないと思われるマルクス主義者が、イギリスの植民地だったおかげで未だに何とか(よろよろしながらも)一国二制で守られている思想信条の自由の砦の中で生き延びていられるマルクス主義者ですね。

だからこそ、中国共産党という建前上マルクス主義を奉じているはずの組織のメンバーが誰一人語ることができない「王様は裸だ」を、マルクス主義の理論通りにちゃんと分析して本にできているのですから、ありがたいことではあります。

それにしても、資本家が労働者を抑圧するのに一番良い方法は、資本家自身が労働者の代表になってしまうことだというのは、マルクス様でも思いつかないあっと驚く見事な解法でありました。

なお、労働問題とかにあまり関心のない方々でも、せめて「日本語版への序文」だけでも立ち読みしてください。若い頃保釣運動(尖閣列島防衛運動)に参加していた素朴な民族青年が、マルクス主義の立場から資本主義的中国共産党のショービニズムを批判的に見るようになった話は、いろいろと思わせるところがあります。

今中国大陸でこういう文章が書けるのは、この香港のマルクス主義者だけなのでしょう。

1971年、14歳の私が最初に参加した社会運動は釣魚台(尖閣列島)防衛運動であった。その時は素朴な民族感情から参加した。このような民族感情は幼い頃から育まれたものであったが、それは学校で教わったものではなかった。・・・父親からは折に触れ、日本による「香港陥落」の物語を聞かされた。「ある日本兵は、彼に敬礼をしない通行人を見かけると、『サッ』と振り上げた日本刀で、背後から刺し殺してしまった」というように。

・・・しかし今日では、私は釣魚台防衛は支持しない。前述の二つの理由がなくなってしまったからである。中国は今日において反資本主義・反帝国主義でなくなっただけでなく、資本主義、しかも悪質な資本主義へ回帰してしまっている。中国共産党を中心とする官僚資本は、民衆を犠牲にして膨張している。それは一方で民族の利益を防衛するという表看板を掲げながら、一方では世界貿易機関に加盟して農民の生活を犠牲にし、農村破壊を加速し、他に生きるすべのない2億5000万の農民は都市に出て働くしかない。そして都市に出て働き出した農民(農民工)は、国家の暴力装置によって、ストライキと結社の自由を抑圧されている。中国共産党はこのように農民工に対する私的資本(膨大な外国資本を含む)の過酷な搾取を大いに手助けしているのである、・・・

そして、このマルクス主義者らしい最後の言葉:

・・・十数年前に日本を訪れた際に会った中国人らの言葉を思い出した。彼らは私にこう言った。日本で経営者や警察にひどい扱いを受けたときは、左翼の労働組合だけが手をさしのべてくれる、と。世界中誰もがみな兄弟姉妹というが、労働者人民にこそ、この言葉が最も当てはまる。

・・・「万国の労働者、団結せよ」。マルクスのこの言葉は、未だ時代遅れになっていない。

『人民日報』には絶対に載らないであろうこういう台詞が吐けてしまう香港のマルクス主義者に乾杯。

 

 

 

2018年5月 4日 (金)

トランプ政治の3源泉

Rothstein_bio 例によってソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルから、ボー・ロトスタインの記事を。「Strange Bedfellows Undermining Liberalism: Trump And Academia」(リベラリズムを掘り崩す奇妙な同衾者たち:トランプとアカデミア)というそれこそ奇妙なタイトルです。

https://www.socialeurope.eu/strange-bedfellows-trump-and-academia

要は、アカデミズムの中に、トランプ政治の源泉があるんだという話ですが、その3つのいずれもが、本ブログで「リベサヨ」がらみで取り上げている流派であるというところが興味深いところです。

まず第1はシカゴ学派、いわゆるネオリベラリズムの本拠で、クルーグマンなんかをひいて論じていますが、ここはパスしてもいいでしょう。

第2が「民族的バイアス」(Ethnic bias)で、ここで指弾されているのがアイデンティティ理論です。

This line of reasoning implies that we are all stuck in our ethnic or other such identities also when we exercise a public task and therefore are incapable of making an impartial assessment a of case involving a person with a different identity. This line of reasoning, known as “identity theory”, has had a huge impact in large parts of the humanities and social sciences and is usually seen as a leftist, radical approach.・・・Again, we can say that Trump’s dismissal of the judge because of his ethnicity has clear support within a significant and strong research approach in academia.

この理屈によると、我々がみな公共的な任務を遂行するときに民族的ないし他のアイデンティティに縛り付けられており、それゆえ異なるアイデンティティの人々に関わる事案を公正中立に判断することなんてできないということになる。「アイデンティティ理論」と呼ばれるこの理屈は、人文社会科学の膨大な分野に甚大な影響を与え、通常左翼的、急進的アプローチだとみなされている。・・・・再び、我々はトランプによる裁判官をその民族的出身ゆえの解雇がアカデミアにおける顕著で強力な研究アプローチに明確な指示を得ているということができよう。

これと密接に関連して第3にあげられるのが事実の軽視で、ここで指弾されているのがポストモダニズムです。

It is obvious that, according to Trump, there is nothing that can be seen as a fact. Instead, everything is a matter of interpretation and perspective. However, this approach has also had a strong impact in large parts of academic research, mainly within the humanities, but also within parts of social sciences. Under the heading “postmodernism”, this approach has as its starting point that there can be no true or scientifically established facts due to impartial investigation. Instead, following the much-admired French philosopher Michel Foucault,   what is considered true by the scientific community in an area of research is in reality determined by their connection to established power relations in society. According to postmodernist theory, there is no real difference between the knowledge produced by scientific methods and perceptions coming from our ideological orientations or personal experiences. Thus, when Trump and his supporters claim that they base their positions on “alternative facts”, this has a clear connection to the postmodernist approach in academia.

トランプによれば、事実なんてものはありはしないことは明らかである。むしろ、すべては解釈と観点の問題だ。しかしながら、このアプローチもアカデミックな研究、主として人文科学だが社会科学の一部でもその多くに強い影響を与えている。「ポストモダニズム」という看板の下で、このアプローチはその出発点を、公正中立な探求によって科学的に確立された事実なんてものはありえないとする。その代わりに、讃嘆されるフランスの哲学者ミシェル・フーコーに倣って、ある学問分野の科学コミュニティによって真実とみなされているものは実際には、彼らの社会における確立された権力関係とのつながりによって決定されたものに過ぎない。ポストモダニズム理論によれば、科学的方法によって得られた知識と我々のイデオロギー的志向や個人的経験からくる認識の間に真の違いなどありはしない。それゆえ、トランプとその支持者たちが彼らの立場が「もう一つの真実」に基づいていると主するとき、これはアカデミアにおけるポストモダン理論と明確なつながりがあるのだ。

これじゃまるで、トランプがこういったアカデミックな本を読んでるみたいですが、もちろんそんなわけはないとロトスタイン氏は言います。問題はトランプ本人の頭の中ではなく、それを受け取る人々の頭の中の話なのです。

・・・My argument relies on the idea that what is happening in the world of social science research and the humanities affects the political and intellectual climate, not least because its theories and approaches will affect what goes on in schools and what is said in the public arena. Relativism, dismissal of the idea of truthfulness, identity hysteria and cynical economistic thinking have together become a witches’ brew that has, it seems, poisoned the intellectual climate in our type of societies and made it possible for the message that comes from Trump and his likes to win a broad audience. The academic world’s criticism against Trump is justified, but some honest self-criticism would be in order too.

私の議論は、社会科学や人文科学の世界で起こっていることが、その理論とアプローチが学校や公共空間に影響を与えるからというだけではなく政治的知的環境に影響を与えているという考え方に立脚している。相対主義、真実性という観念の廃棄、アイデンティティ・ヒステリア、そして冷笑的な経済主義的思考はともに我々のタイプの社会を毒し、トランプやその同類のメッセージが広範な聴衆を獲得することを可能にする魔女の一撃になっている。アカデミックな世界のトランプへの批判は正しいが、正直な自己批判も必要だろう。

 

 

 

 

2018年5月 2日 (水)

「論争のススメ」に熊沢誠さん登場

969b昨年、表紙がカラーになった『労働情報』誌で「論争のススメ」と題して、「年功給か職務給か?」という対談やらエッセイやらが断続的に連載されたことがありますが、その後とんと音沙汰がないのでそのまま尻切れかなと思っていたら、5月号にこの問題の大御所熊沢誠さんが登場していました。

http://www.rodojoho.org/index.html

私は昨年の6月号に「交換の正義と分配の正義 双方の実現目指す取組を」という編集部が付けたタイトルで短めのエッセイを寄稿しており、それは4月号の金子良事・龍井葉二対談にできるだけ応えようとしたものだったのですが、全体としてのこの連載は必ずしも噛み合っていない感がありました。

という指摘から、熊沢さんのエッセイは始まります。

さて、熊沢誠さんは労働研究の世界ではあまりにも有名ですが、その初期の賃金制度論を熱心に論じていた頃の者を読む人は今ではあまり居ないかもしれません。

・・・はじめに私の立場を明らかにしておく方がわかりやすいだろう。私は1960年代からいわゆる「横断賃率」論者であった。・・・

「横断賃率」という言葉自体長らく日本の労働界では死語に等しい扱いでしたが、かつて政府や経営側が同一労働同一賃金に基づく職務給を唱道していた頃、職務給絶対反対を唱えていた労働運動の主流派に対して、西欧型の企業を超えた職種別賃金の確立を唱えていたのが、岸本英太郎氏をリーダーとする京大系の労働研究者たちだったのです。熊沢さんはその若手の最も精力的な論客であったのです。

その後、経営側が能力主義に基づく職能給にシフトし、政府も内部労働市場政策に流れる中で、もはや誰も職務給なんか叫ばなくなり、同一労働同一労働は死んだ犬となり、論争は失われていきました。

この問題が復活してきたのは、女性差別問題や今日に至る非正規労働問題の盛り上がりからですが、上記経緯からして、むしろ労働運動の左翼的ハードライナーほど職務給に敵対的で、同一労働同一賃金など財界の陰謀とか言いたがるというねじれた状況は今に至るまで本質的には代っていないように思われます。

そういう中で、この問題の大御所の熊沢さんが登場して何を語るのか?と興味津々だったのですが、こんな風に私にも言及いただいていたようです。

・・・そして今も、私はやはり、主として現代日本における不当な賃金格差の是正のためには、労働組合運動はEPEWWまたはPEの立場を擁立し、それを前提として龍井/金子が検討を促す諸問題に一つ一つ対処するほかはないというスタンスである。その点では、遠藤公嗣の主張(6月号)と基本的に軌を一にし、またそれゆえに、現行の賃金システムが内包する非正規労働者や女性労働者への差別への怒りを直截に語り、EPEWWを主張する禿あや美/大槻奈巳の対談(5月号)に何よりも共感を覚えた。ただ、「論争」のためには、対談は禿または大槻 vs クールな濱口桂一郎とのそれにしてほしかったと思いはするけれども。もっとも、私は、EPEWW論はとらないとはいえ、「一方で「能力」という万能空疎の原理ではなく、より客観的な指標に基づいて交換の正義たる賃金制度を再確立すること。他方でそれができる限り分配の正義をも充たすように企業と雇用形態を超えた「生活できる賃金水準」を(産業レベルで)確立し、併せて福祉国家という分配の正義を強化すること」という、濱口の目配りの聞いた-上述の諸問題の多くを取り込んだ-結論(6月号)には同意する。

2018年5月 1日 (火)

EUのオンラインプラットフォーム規則案

去る4月26日、欧州委員会(デジタル経済担当)は、「オンライン仲介サービスのビジネスユーザーのための公正と透明性を促進する規則案」を提案しました。

http://europa.eu/rapid/press-release_IP-18-3372_en.htm

ここでいう「ビジネスユーザー」というのが、まさに労働者性が常に問題となるプラットフォーム就労者のことです。

Increasing transparency: Providers of online intermediation services must ensure that their terms and conditions for professional users are easily understandable and easily available. This includes setting out in advance the possible reasons why a professional user may be delisted or suspended from a platform. Providers also have to respect a reasonable minimum notice period for implementing changes to the terms and conditions. If a provider of online intermediation services suspends or terminates all or part of what a business user offers, this provider will need to state the reasons for this. In addition, the providers of these services must formulate and publish general policies on (i) what data generated through their services can be accessed, by whom and under what conditions; (ii) how they treat their own goods or services compared to those offered by their professional users; and (iii) how they use contract clauses to demand the most favourable range or price of products and services offered by their professional users (so-called Most-Favoured-Nation (MFN) clauses). Finally, both online intermediation services as well as online search engines must set out the general criteria that determine how goods and services are ranked in search results.

透明性の向上:オンライン仲介サービスのプロバイダーは、職業的ユーザーの就労条件が容易に理解可能でアクセス可能なようにしなければならない。これには事前に職業的ユーザーがプラットフォームから除名されたり資格停止される理由を設定することが含まれる。プロバイダーはまた、就労条件の変更への合理的な最低告知期間を尊重しなければならない。オンライン仲介サービスのプロバイダーがビジネスユーザーの提供物の全部または一部を保留したり終了したりすれば、このプロバイダーはその理由を述べる必要がある。さらに、これらサービスのプロバイダーは(イ)そのサービスを通じて生み出されたいかなるデータが誰によっていかなる条件下でアクセスされるか、(ロ)職業ユーザーによって提供されたものと比べてプロバイダーの財やサービスをいかに取り扱うか、(ハ)職業ユーザーによって提供された生産物やサービスのもっとも望ましいレンジや価格を求める契約条項を用いるか、に関する一般方針を定式化し公表しなければならない。最後に、オンライン仲介サービスとオンライン検索エンジンは検索結果において財やサービスがいかにランク付けされるかを決定する一般基準を設定しなければならない。

Resolving disputes more effectively: Providers ofonline intermediation services are required to set up an internal complaint-handling system. To facilitate out-of-court dispute resolution, all providers of online intermediation services will have to list in their terms and conditions the independent and qualified mediators they are willing to work with in good faith to resolve disputes. The industry will also be encouraged to voluntarily set up specific independent mediators capable of dealing with disputes arising in the context of online intermediation services. Finally, associations representing businesses will be granted the right to bring court proceedings on behalf of businesses to enforce the new transparency and dispute settlement rules.

より効果的な紛争解決:オンライン仲介サービスのプロバイダーは、社内に苦情処理制度を設置しなければならない。裁判外紛争解決を促進するため、すべてのオンライン仲介サービスのプロバイダーは、その就労条件において紛争解決に信義をもってあたろうとする独立かつ資格を有する仲裁人のリストを示さなければならない。当該産業はまた、オンライン仲介サービスから生じる紛争を取り扱う専門の独立仲裁人を設置することが求められる。・・・

Setting up an EU Observatory to monitor the impact of the new rules: The Observatory would monitor currentas well as emerging issues and opportunities in the digital economy, with a view to enabling the Commission to follow up on today's legislative proposal if appropriate. Particular attention will be paid to developments in policy and regulatory approaches all over Europe.

そしてEUにこの問題を担当する機関を設置するということです。

この問題は今や世界的に注目を集めていますが、とにかくEUは一歩足を踏み出したようですね。

もっと幸せに働こう!@『月刊連合』5月号

Covernew『月刊連合』5月号をお送りいただきました。いつもありがとうございます。今号の特集は「もっと幸せに働こう!」です。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

巻頭対談は、サイボウズ社長の青野慶久さんと神津連合会長の対談で、

201805_p23
今年、「働きがいのある会社ランキング」で4位、「働きがいのある会社女性ランキング」では2年連続1位を獲得したのが、ソフトウエアの開発・販売を手がけるサイボウズ社だ。同社では、社員の定着率を上げるために、育児・介護休暇・短時間勤務の拡充や在宅勤務、育自分休暇、子連れ出勤などの多彩な制度を導入。同社の青野社長も3児の父として自ら育児休暇を3度取得し、社内のワークスタイル変革を推進し離職率を7分の1に低減するとともに、新しいワークスタイルを社会に発信しているが、その原点は「働くこととは何か」という問いかけにあったという。誰もが安心して働くためには何が必要か。青野社長と神津会長が語り合った。

最後のあたりで、青野さんがこう語っているのは、人によってはいろいろと思いがあるかもしれません。

-労働組合に期待することは?

青野 サイボウズに労働組合はありませんが、労働組合には期待しています。時代に合わなくなった制度や、職場の文化を変えるために活動してほしい。日本の労働者は、取り戻していかないといけない権限がたくさんあると思うんです。・・・

一つは転勤問題。共働きが当たり前になっているのに、夫が転勤になったら、妻は仕事を辞めるか単身赴任かを迫られる。これはもはや人権侵害と思えます。もう一つは夫婦別姓・・・・

次の座談会は、今回の働き方改革法案で労働時間の上限規制が除外、先送りされた業種や職種の産別の代表が集まり、今後どう進めていくかを論じ合っています。

マスコミの議論があまりにも労働者のごく一部の上澄みの特殊な部分ばかりに集中して、高度でもプロフェッショナルでもないごくごく普通の現場労働者たちが過労死基準を超える長時間労働にこれからもなおさらされ続けることに対してほとんど関心を払おうともしないという今日の論壇の惨状に、労働問題が「自分とよく似た人々の労働問題」に集約されてしまい、「自分と全然違う人々の労働問題」がどこかに飛んでいってしまうバラモン左翼な人々の心性が現れているのかしれません。

2017年3月、「働き方改革実現会議」は約半年間の議論を経て「働き方改革実行計画」をとりまとめた。実現会議には、労働界からは唯一神津会長が参加し、長時間労働の是正や非正規雇用労働者の処遇改善を強く訴え、時間外労働の上限規制、同一労働同一賃金の法整備などが盛り込まれた。
実行計画は現在、二つのステージで具体化が進められている。一つは「働き方改革関連法案」における法整備。今国会で審議が行われている。もう一つは、産業・職種など、働き方で異なる課題をどのように解決するのか、テーマごとに議論を深めようという検討会議だ。
実行計画で取り上げられたテーマは9項目にわたるが、今号では、「長時間労働の是正」に焦点を当て、今、どんな課題についてどんな議論が行われているのかをお伝えする。

出席者は、ヘルスケア労協の工藤豊さん、交通労連の山口浩一さん、JAMの川野英樹さん、基幹労連(建設関係)の三浦慎さん、相原事務局長はなぜか教員関係の担当になっています。

最後のまとめ的な相原さんの発言を引いておきます。

相原 ・・・・労働組合は「職場の最前線」と「法律をつくる最前線」で役割を担っている。よりよい働き方を実現するには、経済的な規制、社会的な規制のバランスが重要だが、労働組合は、現場で働く者の立場だけでなく、広くサービスを受ける立場からも物事を見ることができる。医師の働き方改革は安心で安全な医療提供の、また、教員の働き方改革は真に子供と向き合うことができる質の高い教育の土台だ。ドライバーや建設業、中小企業で働く人の長時間労働を是正し人手不足を解消することは、社会インフラを守ることにつながる。「労働」を真ん中にして両方の受益がともに成り立つような働き方の見直しを進めていく。それが労働組合の一番の役割だということを申し上げてまとめとしたい。

この言葉には大変共感します。

これに続くのは、情報労連の柴田さんの勤務間インターバルの話、UAゼンセン介護クラフトユニオンの浜田さんのパワーハラスメントの話、そして内田副事務局長による連合のスタンスの解説です。

リベサヨとドロサヨまたはレフト2.0の2形態

852sub1先週いただいたブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学』(亜紀書房)については、金曜日に紹介したところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-42b6.html(ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』)

その中で、松尾さんが私に言及しているところに、ちょっとコメントしたくなりました。

「補論1 来たるべきレフト3.0に向けて」のp141ですが、

松尾 そう、僕のいうレフト1.0と2.0というのは、労働研究の濱口桂一郎さんが、「オールド左翼」と「リベサヨ」と呼んでいらっしゃるものと近いところがあります。でも、この言い方だと、レフト2.0の中にもラディカルな武闘強硬派がいたりすることがうまくイメージできなくなってしまうと思うんですよね。

北田 かつての新左翼の流れにあるような急進派の人たちは「リベサヨ」をよく批判しますからね。

松尾 でも、この急進派と穏健派は、お互い一緒にされたくないでしょうけど、やはり共通のパラダイムの上に立っているということは言えると思うんですよね。

北田 どういうパラダイムを共有しているんですか。

・・・・・

松尾 はい、レフト2.0の急進派の方ではそうやって「第三世界」や地域コミューンの中での自律が志向されたりしたわけです。また、穏健派の方でも、国家行政主導の「大きな政府」は効率が悪く抑圧的だという反省があったと思います。

この松尾さんの議論はその通りだと思うのですが、そのレフト2.0急進派のことも、本ブログで何回か取り上げて、「リベサヨ」とはちょっと異なるある名前をつけていたことには、気づいていただけていなかったようです。

それは「ドロサヨ」。北田さんの言葉を引けば、

北田 従来型のマルクス=レーニン主義というよりは、「第三世界」との連帯とか、「辺境」の地域コミューンみたいなものを社会変革の根拠にしようとした人たちの流れですね。・・・

という流れで、確かに1968年以降の左翼の一つの軸として、細々と存在し続けていたようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-9d19.html(「マージナル」とはちょっと違う)

労働問題研究のあり方の議論としては、ほとんど賛成なのですが、ブルーカラーを「マージナル」っていうのはだいぶ違和感がある。

話はまったく逆で、労働問題がブルーカラー中心だったり、社会政策が貧民中心だったりしたのは、それが数量的少数者という意味での「マージナル」ではなく、社会の中のパワー構造では弱者の側ではあるけれども、数量的にはむしろマジョリティであって、近代社会の民主主義的建前上無視することができない存在だったからではないか、と。古めかしい言い方をすれば「多数派にすべての権力を」てな感じでしょう。

そうじゃなく、数量的にも「マージナル」でしかない存在に目を付けてそのアイデンティティ・ポリティクスを強調するようになるのは、まさに「1968」以後の「1970年パラダイム」じゃないかという気がする。

ちょうど先日稲葉さんが紹介してくれた下田平裕身氏の回想録みたいなものを読むと、

・・・・・

下田平氏はちょうどその1970年パラダイムに見事にぶち当たってしまった世代だったんだなあ、と思うわけですが、・・・

それまでの多数派たる弱者だったメインストリームの労働者たちが多数派たる強者になってしまった。もうそんな奴らには興味はない。そこからこぼれ落ちた本当のマイノリティ、本当の「マージナル」にこそ、追究すべき真実はある・・・。

言葉の正確な意味における「マージナル」志向ってのは、やはりこの辺りから発しているんじゃなかろうか、と。とはいえ、何が何でも「マージナル」なほど正しいという思想を徹底していくと、しまいには訳のわからないゲテモノ風になっていくわけで。

それをいささかグロテスクなまでに演じて見せたのが、竹原阿久根市長も崇拝していたかの太田龍氏を初めとするゲバリスタな方々であったんだろうと思いますが、まあそれはともかくとして。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-aeb3.html(新左翼によって「創られた」「日本の心」神話)

9784334035907わたくしの観点から見て、本書が明らかにしたなかなか衝撃的な「隠された事実」とは、演歌を「日本の心」に仕立て上げた下手人が、実は60年代に噴出してきた泥臭系の新左翼だったということでしょうか。p290からそのあたりを要約したパラグラフを。

いいかえれば、やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。

昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

この泥臭左翼(「ドロサヨ」とでも言いましょうか)が1960年代末以来、日本の観念構造を左右してきた度合いは結構大きなものがあったように思います。

そして、妙な話ですが、本ブログではもっぱら「リベサヨ」との関連で論じてきた近年のある種のポピュリズムのもう一つの源泉に、この手のドロサヨも結構効いているのかも知れません。

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(追記)

上で、「ドロサヨ」などという言葉を創って、自分では(「泥臭」と「左翼」という違和感のある観念連合を提示して)気の利いたことを言ってるつもりだったのですが、よくよく考えてみると、それはわたくしの年齢と知的背景からくるバイアスであって、世間一般の常識的感覚からすれば、むしろ、上で「ゲテモノ」とか「グロテスク」と形容した方のドロサヨこそが、サヨクの一般的イメージになっているのかも知れませんね。少なくとも、高度成長期以降に精神形成した人々にとっては、左翼というのは泥臭くみすぼらしく、みみっちいことに拘泥する情けないたぐいの人々と思われている可能性が大ですね。

このあたり、リベサヨについて生じている事態と並行的な現象ということができるかも知れません。

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高度成長後の日本においては、「左翼」というのはこの上なく自由主義的で福祉国家を敵視するリベサヨか、辺境最深部に撤退して限りなく土俗の世界に漬り込むドロサヨか、いずれにしてもマクロ社会的なビジョンをもって何事かを提起していこうなどという発想とは対極にある人々を指す言葉に成りはてていたのかも知れません

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