会社手当と社会手当
朝日新聞に興味深い記事が載っています。
https://www.asahi.com/articles/ASL4C3SMJL4CULFA00B.html(正社員の待遇下げ、格差是正 日本郵政が異例の手当廃止)
日本郵政グループが、正社員のうち約5千人の住居手当を今年10月に廃止することがわかった。この手当は正社員にだけ支給されていて、非正社員との待遇格差が縮まることになる。「同一労働同一賃金」を目指す動きは広がりつつあるが、正社員の待遇を下げて格差の是正を図るのは異例だ。
・・・廃止のきっかけは、民間の単一労組で国内最大となる日本郵政グループ労働組合(JP労組、組合員数約24万人)の今春闘での要求だ。同グループの社員の半分ほどは非正社員。非正社員の待遇改善を図る同一労働同一賃金の機運が高まっているとして、正社員だけに認められている扶養手当や住居手当など五つの手当を非正社員にも支給するよう求めた。
これに対し、会社側は組合側の考え方に理解を示して「年始勤務手当」については非正社員への支給を認めた。一方で「正社員の労働条件は既得権益ではない」とし、一部の正社員を対象に住居手当の廃止を逆に提案。組合側は反対したが、廃止後も10年間は一部を支給する経過措置を設けることで折り合った。今の支給額の10%を毎年減らしていくという。さらに寒冷地手当なども削減される。
同一労働同一賃金という言葉を、本気でやるつもりのない政治的スローガンと思っているなら別ですが、現実に実現すべき課題として真正面から取り組んでいけば、当然こういう話になっていく訳です。
この問題をきちんと考えるためには、そもそも仕事と直接関係のない住居手当のようなものを、会社がその社員のために支給するという仕組み自体をそうではないあり方との関係で考察していく必要があります。
欧州福祉国家では国が社会手当として支給してきたようなあれこれが、日本では会社が会社手当として支給してきました。どちらも労働運動がその必要性を要求し、実現してきたものであることに何の変わりもありません。ただ一つ違っていたのは、一方は社会レベルであり、他方は会社レベルであったということです。
これは、拙著『新しい労働社会』の第3章でかなり突っ込んで論じた話ですが、ようやく世の中の議論がそういう次元にまで到達しつつあるということなのかもしれません。
4 教育費や住宅費を社会的に支える仕組み
生計費をまかなうのは賃金か社会保障か
生活給制度を縮小廃止するのであれば、これまで生活給が担ってきた生活保障機能(年齢とともに増加する生計費を賄う仕組み)への対策が必要となることを忘れてはなりません。とりわけ、こどもの養育・教育コストを社会的に負担するシステムが不可欠となります。
幼児期・年少期の養育・教育コストについては、近年少子化対策として論じられることも多く、その公的負担の必要性についても認識が高まってきているようですが、問題はその後の中等教育や高等教育のコストです。私立学校の比率が極めて高く、中等・高等教育コストが大幅に私的に負担されている現状は、こどもがその年齢に達した頃にそれを負担しうる程度の生活給を社会的前提としています。
同様の問題は、家族向け借家が乏しく、持ち家促進に偏してきた住宅政策についても言えます。「年齢の壁」のない社会は、フラットな賃金体系の下でも家族が十分な広さの借家で快適な生活を送れるような社会である必要があります。それが公営住宅である必要はなくとも、公的なコスト負担は不可欠でしょう。
この問題意識は、政府が流動的な外部労働市場や同一労働同一賃金原則に基づく職務給を唱道していた高度成長期には政府部内に存在していました。それが政策として明確に示されていたのが、高度成長期の最後に書かれた1974年の労働白書です。労働経済課長になったばかりの若き田中博秀氏の下でとりまとめられたこの白書は、どの国でもライフサイクルによる家計消費支出は似通っているにもかかわらず、年齢別賃金構造は大きく異なることを示し、ヨーロッパ諸国ではそのギャップは児童手当や住宅手当などの公的な制度によって支えられていると指摘しています。そして、「我が国についても賃金制度の機能のうち公的制度で充足することが適切であるものについては、公的制度の役割を強めることによって、勤労者福祉の充実をはかっていく」ことを提起していたのです。
しかし、ちょうどその頃押し寄せてきた石油ショックの波の中で、労働政策は内部労働市場を志向し、長期雇用や年功賃金制を高く評価する方向に大きく転換し、以後このような問題意識は前面には現れなくなります。二つの正義のはざま
先に述べた改正最低賃金法では、地域別最低賃金について生活保護との整合性に配慮することが明記されています。この審議の際、使用者側からは繰り返し「労働の対価である最低賃金と社会福祉としての生活保護では根本が全く異なり、その両者の間で整合性を考慮することについては疑問を禁じ得ない」と疑問が提起されていました。
確かに賃金は労働の対価です。そこにおける正義とは交換の正義、「等しきものに等しきものを」という正義でしょう。これは市場経済の根本にある正義の観念で、使用者側だけがそういう正義を振り回しているわけではありません。同一労働同一賃金の原則とはまさにこの交換の正義の具現です。「私の労働はこれだけの価値があるはずなのに、これっぽっちの対価しか与えられないのは不当だ」という感覚は、まさに市場プレイヤーとしての「差別が正義に反する」という観念からのものでしょう。そして、そういう交換の正義を貫いていけば、市場の内側にあるにもかかわらず等価交換になっていない部分があるとすれば、正義に反するものとして非難の対象となります。最低賃金と称して、その労働者の生産性に対応すべき賃金よりも不当に高い賃金を強要するなど、不正義の極みでしょう。実際、多くの経済学者はそう論じます。それはそれとして筋が(筋だけは)通っています。
ところが残念ながら、世の中は交換の正義だけで成り立っているわけではありません。分配の正義、「乏しきに与えよ」という正義が、憲法25条に立脚して「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障しています。そして、その福祉の世界は市場の世界と境を接しています。そうすると、市場の世界では交換の正義に基づいて、一生懸命働いていながら不健康で非文化的な最低限度以下の生活を余儀なくされている人が、一歩境をまたいで福祉の世界に逃げ込めば、働かなくても健康で文化的な最低限度の生活を保障されるということになります。ここに究極のモラルハザードが発生しますが、これは我々の住む社会が二つの異なる正義の観念に立脚していることに由来するわけです。
分配の正義からすれば、扶養家族の多い世帯により多くの生活保護を支給するのは当然のことです。しかし、交換の正義からすれば、扶養家族が多いからといって多くの賃金を支給するのは不正義になります。日本型雇用システムにおいて生活給的年功制が成り立っていたのは、終身雇用慣行の中で、どの労働者にとっても若い頃の低賃金と中高年期の高賃金という形で均衡がとれていたからでしょう。長期的な決済の中で初めて交換の正義が成り立つものを、一時点の賃金水準に適用することは不可能です。教育費や住宅費を支える仕組み
とはいえ、現実に日本型雇用システムに入らない家計維持的な非正規労働者が増大している以上、彼らに対して家族の生計を維持できるような収入を何らかの形で確保する必要があります。最低賃金自体に家族の生計費を考慮することが交換の正義に反するのであるならば、賃金以外の形でそれを確保しなければなりません。それは端的に公的な給付であっていいのではないでしょうか。
本人以外の家族の生計費、子女の教育費、家族で暮らすための住宅費など、労働者の提供する労務自体とは直接関係はないにしても、彼/彼女が家族を養いながら生きていくために必要な費用は、企業が長期的決済システムの中で賄わないのであれば、社会的な連帯の思想に基づいて公的に賄う必要があるはずです。
生活保護であれば生活扶助に加えてかなり手厚い教育扶助や住宅扶助が存在し、この必要に対応しています。しかし、多くの非正規労働者や非正規労働者であった失業者にはそのような仕組みはありません。これは、考えようによっては大変なモラルハザードの原因をつくりだしていることになります。なぜなら、雇用からこぼれ落ちて福祉に依存すれば教育費や住宅費の面倒を見てもらえるのに、わざわざそこから這い上がって雇用に就くとそれらに相当する収入が失われてしまうのであれば、就労に対する大きな負のインセンティブになってしまうからです。
実際、日本のような過度に年功的な賃金制度を持たない欧州諸国では、ある時期以降フラットな賃金カーブと家族の必要生計費の隙間を埋めるために、手厚い児童手当や住宅手当が支給され、また教育費の公費負担や公営住宅が充実しています。社会のどこかが支えなければならない以上、企業がやらない部分は公的に対応せざるを得ないはずでしょう。
それは、当面は家族生計費や子女の教育費や住宅費が本人賃金の中に含まれる生活給制度の下にある正社員層と、それらを賃金という形ではなく公的給付として受給する低賃金の非正規労働者層という労働市場の二重構造を前提とするものとの批判を免れないかも知れません。
しかしながら、そうした生計費のセーフティネットが徐々に張り巡らされていくことによって、これまで生活給制度の下にあった正社員層についてもある時期以降フラットな職務給に移行していく社会的条件が整っていくはずです。逆に、そうした条件整備抜きに短兵急に職務給の導入を唱道してみても、社会に無用の亀裂を生み出すだけでしょう。
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JP労組の御用組合ぶりには怒りを覚えます。どれだけ糾弾されても足りないことはあり得ません。
10年たったら郵産ユニオンが多数派労組になっているでしょうし、そうならなければおかしいと思います。
投稿: 国道134号鎌倉 | 2018年4月14日 (土) 01時45分
あのHamachan岩波新書「赤本」から10年を迎えて、ようやくニッポンの雇用社会の大車輪がこれまでとは異なる次元に向かってそろそろと動き始めましたね。これも「同一労働同一賃金」や「働き方改革」という、同時代のキャッチーなキーフレーズの威力/魔力かと。その意味では安倍首相のリーダーシップによる貢献は相当大きかったと思います。
投稿: ある外資系人事マン | 2018年4月14日 (土) 06時06分
「ジュリスト 2017年11月号」の判例速報(東京地裁平成29年9月14日」)では、以下のような判旨が抜粋されていますね。
「X ら契約社員と労働条件を比較すべき正社員は、担当業務や異動等の範囲が限定されている点で類似する新一般職とするのが相当」
「新一般職」、「旧一般職」といった言葉が出てきますが、郵政省、郵政公社、日本郵政(株) と移り変わっていく中で、日本郵政の雇用制度というのは、なかなかに複雑なことになっていそうですね。
近くの郵便局では「長期契約社員」を募集しているのですが、ILO 等の定義では、「長期契約社員」というのは当然正規雇用 (regluar employment) なのでしょう。「新旧一般職正社員」、「長期契約社員」、他にもあるのかもしれませんが、官庁から民間企業へと移り変わるなかで、なかなか整理ができていないのでしょうね。
ただ、日本の多くの民間企業はこういった多様なノン・キャリア職が存在する、という状況にはなく、まったく別の方向へ進んでいってしまっているわけでして。これを民間企業一般には敷衍できないように思いますね。
投稿: IG | 2018年4月17日 (火) 23時10分